聖書箇所;ピリピ人への手紙1章12節~30節
メッセージ題目;私たちの戦い
先週も申しましたが、いま学んでいますピリピ人への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。今日学びます箇所にも「喜ぶ」ということばが含まれています。今日の箇所においては、どのようなことを「喜ぶ」ことが奨められていますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。
まずパウロは、ピリピ教会の聖徒たちに、自分の投獄が福音を前進させることになったということを知らせています。
13節、14節をお読みします。……彼らは、使徒パウロが投獄されてもひるまなかったのです。むしろ彼らは、いまこそ自分たちは堂々と福音を宣べ伝えるべきだ、という確信を与えられました。そしてその確信に基づいて、大胆にみことばを語るようになりました。
このことは何を意味するのでしょうか? パウロが、パウロを中心に教会を形成しなかったことを意味します。言い換えれば、パウロなしには信仰生活が送れないような教会を育てなかったことを意味します。
パウロはむしろ、キリスト教会のあるべき姿、キリストを中心とした教会形成に心血を注ぎました。その結果、パウロがいなくても、ますます熱心に福音を宣べ伝える教会が成り立っていったのでした。
私も、たまに思うのです。「変なこと言わないでください!」とお叱りを受けるのは承知の上ですが、もし私の身に何か起こって、来週から私がこの教会に来られなくなったとして、それでみなさまが教会に集まれなくなったり、さらには、イエスさまへの信仰があやふやになってしまったとしたら、私の教会形成は失敗だった、と言えます。それは、みなさまがイエスさまではなく、この武井牧師という一人物(いちじんぶつ)につながるように導いてしまっていた、ということだからです。それはキリストのからだとしてとてもふさわしくない姿です。ですから、みなさまにはどうか、普段からイエスさまと一対一の関係を持つこと、また、イエスさまを中心にみなさまで交わりを持つことをしっかり、実践していっていただきたいと願います。
パウロの話に戻ります。では、ピリピ教会の形成と宣教において、パウロが投獄されたことはどのような役割を果たしたのでしょうか? それは、「自分の十字架を負ってキリストに従う」ことを実践する姿を、パウロが直接、諸教会に見せた、ということです。このパウロの姿に、初代教会の兄弟姉妹は奮い立って、私もパウロのように、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って、自分を否定してついていこう! との思いを新たにされ、恐れずにみことばを語りはじめたのでした。
しかし、キリストを宣べ伝えるということは、その動機を問うてみると、純粋にパウロを慕う思いからだけではないこともわかります。15節をお読みします。
……ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える。そういうこともあるのです。うちのグループのほうがより熱心だ、とか、より純粋だ、とか、より神学的に深い、とか、ほかのグループと比較しながら宣教するわけでしょう。この場合は、パウロの影響のもとにある教会よりも勢力を拡大し、名を上げようとする者たちの動きであったようです。
もちろん、パウロが主によって立てられた福音伝道者であることを、ピリピ教会はじめ、諸教会は認めていました。そのような教会はますます、パウロに与えられたのと同じ確信をもってキリストを宣べ伝えました。
しかしその一方で、パウロに対するねたみからキリストを宣べ伝えた一派が存在しました。そのことは17節にありますとおり、ただでさえ投獄されて苦しみの中にあるパウロをさらに苦しめることである、とパウロは語っています。宣教活動を拡大することでパウロ一派を負かしてやろう、などと考えているならば、たしかにそれはパウロを苦しめることです。
だが、パウロは苦しんでばかりはいませんでした。何と告白していますでしょうか? 18節です。……どのような動機でであれ、伝えられるのはキリスト、それは自分にとって喜びである、というわけです。
私たちならばこのようなことが言えるでしょうか? パウロはしかし、喜んだのです。自分に敵対する勢力であろうと、彼らの活動によりキリストが伝わるのだから、と、喜んだわけです。
このようなことは、パウロが単に度量が広いから言っているわけではありません。パウロはこのことについて何と言っているでしょうか? 19節です。……宣教の働きが成し遂げられることは、パウロの救いとなると語っています。そうだとすると、うちの教会の隣の群れに人が多く集まることは、われらにとっても「救い」につながる、喜ぶべきことであると言える、とならないでしょうか?
では、この場合の「救い」とは、どのようなことでしょうか? 福音を宣べ伝えることは、本来ならばパウロが直接すべきことでした。しかし、当のパウロはといえば、投獄されて福音を宣教して回れる状態にはありませんでした。しかしパウロは、使徒として召された自分はどのような存在であると語っているでしょうか? コリント人への手紙第一、9章16節をお読みします。……自分をこれほどまでの福音伝道者であると自覚しているパウロにとって、投獄されて福音を宣べ伝えることができないことが、どれほど苦しいことか、お分かりいただけるでしょう。
しかし、パウロは、キリストの福音をあらゆるしかたで宣べ伝えている人たちの存在、またその活動により、もはや自分のことを「わざわいだ」などと思う必要がなくなりました。「わざわい」の悲惨さから救われたのです。
福音を宣べ伝えるべく召された人は、そのうちに途方もない「内的衝動」を抱えています。エレミヤ書20章9節にこのようなみことばがあります。……いかなる迫害に遭おうとも、語らずにはいられない。でも獄中にいるかぎり語れない。そこに、その宣教の働きを担ってくれる人が続々と現れたことは、パウロにとって、どれほど喜びとなったことでしょうか。
パウロはしかし、自分の目的が達成され、自己実現されることを目標としていたのではありません。20節と21節をお読みします。……自分が生きるにしても死ぬにしても、自分を通してキリストがあがめられること、これが生きる目的であったわけです。生きることを通してキリストがあがめられる、死ぬことを通してキリストがあがめられる、これ以上素晴らしいあり方はありません。
実際私たちは、聖書に描かれているパウロの姿、また聖書に収録されているパウロの書簡を読んでみましても、そこから読み取るべきことは、パウロ個人の素晴らしさというよりも、パウロを召され、パウロを宣教の働きに遣わされた主の素晴らしさではないでしょうか。まさしく、パウロの生き死にを通して、主のご栄光が豊かに顕されているのです。
22節から26節は、一刻も早く主のもとに行って御顔を仰ぎ見たいという思いと、ピリピ教会を牧会するために生き続けたいという思いの中で葛藤するパウロの姿が描かれています。お読みします。……ベストなのは、主の御許に行くことです。そこにはもはや罪も病も苦しみもありません。いつまでも主とともにいます。しかし、働き人はそれでも地上に生きつづける必要があります。それは、地上に教会を形成するため。みことばのとおりの表現を使えば、教会のひとりひとりの、「信仰の前進と喜びのため」にです。そうです、ここでも、キリスト者は喜ぶことが求められています。信仰が前進していったならば、私たちはその結ぶ実として、喜びを味わうことができるようになるのです。
25節、26節を見てみますと、パウロはやがて釈放されて、ピリピ教会に赴くことができると確信していました。しかし、パウロが捕らえられていたのが多くの聖書学者の定説どおり、ローマの監獄だったとするならば、もはやパウロはその願いがかなわず、ピリピ教会の聖徒たちへの再会を果たせなかったことになります。
しかし私たちは、パウロがそれほどまでにピリピの聖徒たち、いや、この書簡を読むすべての主にある聖徒たちを思う情熱にあふれていたことを知るだけでも、もはや充分ではないでしょうか? 私たちの教会はパウロが牧会しているわけではありません。しかし私たちは、パウロがピリピ教会をはじめ数々の主の教会と聖徒たちを慕う思いのこめられた書簡を読み、学ぶことによって、まことの牧者のあり方を、そしてその牧者を召され導かれた、主のみこころを学ぶことができます。ピリピの聖徒たちも、この手紙を手にしたとき、もちろんパウロに再会できることを望んだでしょうが、それ以上に、それほどまでに自分たちのことを慕うパウロの思いに心から感動したのではないでしょうか。
さて、27節以降において、パウロはひとつの奨めをピリピ教会に対してしています。27節、28節のみことばをお読みします。……キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そう奨められれば、「そうだ、キリストの福音にふさわしく生活しなければ!」と決心することでしょう。しかし、「では、どうやって?」という問題があります。ちょっと考えてみましょう。
具体的には、聖書を読めばキリストの福音にふさわしい生活が何かということが見えてまいります。その聖書の中から、ちょっと一例を挙げてみます。
先週のリビングライフのQTの箇所で、テモテへの手紙第一1章3節から5節のみことば。まず、なぜ、テモテがこのような命令を受けているのか。それは、テモテがエペソという町の教会を委ねられた牧会者であったからです。エペソは、アルテミスという「女神」の町であるというわけで、もともとがきわめて異教的な風土です。そういう町に形成される教会の弱さは、人々が「違った教え」や「果てしない作り話と系図」のようなものに心を寄せ、不毛な議論に陥ってしまう、ということ。結局それは、神に委ねられた信仰の務め、すなわち「愛」の実を結ぶことがない、わけです。
このみことばは、とかく「ためにする」議論に陥りがちな私たち、わけても日本の教会のクリスチャンに、深い示唆を与えてはいないでしょうか? 日本のクリスチャンは聖書の知識もありますし、神学もよく身につけています。しかし、みことばがほんとうに目指している「愛」という形で実を結ばないことが、なんと多いことでしょうか? そんな学びに、果たして意味があるでしょうか? 愛の実を結ぶように、みことばというものは学び、また実践していく必要があるわけです。
このほかにも、福音書のイエスさまのお姿を見れば、キリストの福音を生きるとはどういうことかが見えてまいります。パウロをはじめ使徒たちによる手紙類をお読みすれば、具体的には何をすればよいかがかなりわかってまいります。あとは、教会全体が聖書をともによく読むことによって、ともに福音にふさわしい生き方を目標としていけばよいわけです。私たちにとって、キリストの福音にふさわしく生活するための基準は、聖書のみ、そして聖書全体です。みなさん、1月に始められた聖書通読は続いていますか? 中断された方は今からでも始めましょう。通読表は週報に毎週載っていますので、いつでも通読を始めることができます。聖書のみを基準とし、聖書全体を基準として、キリストの福音にふさわしく生活するために、みことばを読んでいただきたいのです。
27節、28節のつづきを見てまいります。……そのようにして、キリストの福音にふさわしく生活することができるようになるならば、ピリピ教会は霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っており、どんなことがあっても反対者に驚かされることはないと、人々がピリピ教会について評価することばをパウロが聞くことができるというわけです。
ここでは3つのことが述べられています。健全な教会は第一に、霊を一つにして堅く立っています。健全な教会には、御霊の一致があります。みなが同じ主の霊に導かれることを求め、みなが主の霊に自分自身を委ねることを実践する教会には、主が必ず、御霊による一致を与えてくださいます。仲間割れしないで一つになれているならば、その教会はどんなにか素晴らしいことでしょうか。一致した教会は、安定した信仰生活をそれぞれの聖徒に保証してくれます。その御霊の一致を、私たちはともに祈りつつ求めてまいりましょう。
第二に、健全な教会は心を一つにして福音の信仰のためにともに戦います。戦うとはどうすることでしょうか? 内向きには、福音の信仰が教会のお互いのうちに根づくように、一生懸命みことばを学ぶことです。これは意識しないとできないことです。私たちの会話は、ともすればこの世的な話に流れてしまうものです。そういう話よりも、意識してみことばの恵みの分かち合いをするのです。また、みことばをこつこつと学ぶことを、個人で、家族で、またグループで行なっていくことです。そのように、この世的な趣味のように自分のやりたいことよりもみことばを学ぶことを優先することを、教会全体がともに目指していくとき、教会は健全になります。
もうひとつ、外向きの奮闘があります。それは、福音を宣べ伝えることです。ピリピ教会ももともと、イエスさまを信じている人がまるでいなかった中に宣教し、教会形成をしていった群れです。そこには多くの反対や迫害があったことでしょう。それでも彼らは、福音を証しする戦いに飛び込んでいったのでした。私たちもまた、周りにいる愛する人たちに福音を証しするために、戦いを経験するかもしれません。私たちの言うことに多くの人は耳を傾けたがらないでしょう。もし仮に語れるような機会があったとして、職場はそういうタイプの会話を交わすことを禁止されていたりしたら、話すにも話せません。
しかし、この戦いはひとりですることではありません。教会全体が、伝道に取り組むそのひと枝のことをおぼえて、とりなしてお祈りする必要があります。教会全体が、福音宣教という名の外向きの戦いをするのです。その戦いは実際に福音を語る、前線で戦う人たちと、とりなしの祈りや励ましをもって後方で支援する人たちとの、一致した戦いであるわけです。
そして第三に、健全な教会は反対者たちに驚かされることはありません。福音に反対する者たちは、時にものすごく意表をついた方法で、教会やクリスチャンに攻撃を仕掛けてきます。たとえば侵略戦争を行なったですとか、歴史上の教会や有名なクリスチャンが犯した罪をあげつらったり、聖書に書かれているちょっと見にはわかりにくい箇所を曲解して、これは矛盾だなどと指摘したりですとか、しかし、これは序の口で、善良なクリスチャンを装って教会に入りこみ、教会や指導者の批判を吹き込んで分裂に追い込んだりするようなあくどいことをする輩さえおります。そういう連中が現れても、驚かないできちんと対処できる教会は、健全な教会です。どうすればそのような教会になれるのでしょうか? それは何よりも、自分の属する教会こそが主が召してくださった素晴らしい教会であるという、主との関係の中で見出す確信を持つ必要があります。
教会を愛するならば、どうすれば教会を悪の手から守ることができるか、知恵を尽くすようになります。そして、あらゆるパターンの攻撃を想定するようになるでしょう。すでに大きな攻撃を受けてダメージを与えられた他の教会のケースからも学ぶことができます。自分たちがそうならないために、自分にできることは何と何か? そういうことを考え、今からでもできることは実践に移していくのです。
反対者は、キリストのからだなる教会に反対することによって、自らを滅びに定めています。一方で、ピリピ教会のように福音のために奮闘する教会は、救いに定められています。主がそのようにお定めになったわけです。私たちも福音のために奮闘してまいりましょう。
最後に、29節、30節をお読みします。……私たちの歩みはたしかに苦しいものです。戦いの連続です。しかしその歩みは、イエスさまが苦しまれた苦しみにあずかることです。何と光栄なことでしょうか! そして私たちが教会形成において体験するあらゆる戦いは、使徒パウロが体験したのと同じ戦いです。何と光栄なことでしょうか!
私たちもピリピ教会のように、苦しい戦いを経験しているかもしれません。しかし、苦しいならば、イエスさまを見上げましょう。戦いに疲れたならば、イエスさまを見上げましょう。イエスさまの苦しみを喜んで担う私たち、イエスさまの戦いを戦う私たち、イエスさまはそんな私たちの味方でいてくださいます。