聖書箇所:マタイの福音書4章5節~7節
メッセージ題目:試みを受けし主 その2
先週から、イエスさまが試みをお受けになったそのお姿から、やはり試みに合う存在である私たちは何を模範とすべきか学びました。なんといっても、霊の糧であるみことばをいただくことなしには、四方八方から攻撃を仕掛けてくる悪魔に打ち勝つことはできません。
そこで、イエスさまがお用いになった方法は、ご自身のおことばで撃退するということではありませんでした。聖書のことばをそのまま引用し、神の口から出ることばはこう言っている、サタンよ、おまえが指し示す神の姿は間違っている、と立ち向かわれました。
しかし、敵もさるものです。相手が神のイエスさまであろうとも、誘惑の手を緩めません。いや、むしろ、相手が神の子イエスさまだからこそ、よりいっそう誘惑しにかかるとも言えます。
5節をご覧ください。悪魔はイエスさまを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせたとあります。これは、荒野から実際に外に連れ出し、エルサレムに入って、神殿の上までイエスさまのことを連れていったのでしょうか。そうでないならば、旧約聖書のエゼキエル書の終盤のあたりに、バビロンにいたエゼキエルが幻のうちにエルサレム神殿に導かれたとあるくらいなので、悪魔はイエスさまに、エルサレム神殿の幻を見せ、その幻の中で、神殿の上まで連れて行ったのでしょうか。
それがどちらなのか、幻かうつつなのかは、それほど重要なことではありません。大事なのは、イエスさまはあえて、大胆不敵にも聖なる神殿さえも利用して誘惑しにかかる、悪魔の誘いと対決された、ということです。
悪魔はイエスさまのことを、神殿のてっぺんに立たせました。神殿の上に立つとは、まるで、神殿にまつられている神さまよりも偉い存在のようではないでしょうか。さらに悪魔は、ここから飛び降りてみよ、と畳みかけます。
こんな高いところから飛び降りたらいのちがないのは、だれにでもわかることです。しかし、考えてみたら、神殿から地上に飛び降りるとは、天の御国から地上に来られたイエスさまを象徴するようではないでしょうか。もし、この光景を人々が見ていたならば、おお! この方こそメシア! と、拍手喝采しそうなものです。
しかし、イエスさまはそのようにして、ご自身がメシアであることをお示しになりませんでした。なぜならば、そのようにご自身を顕すことは、御父のみこころにかなうことではなかったからです。イエスさまは馬小屋でひっそりとお生まれになりました。人としてあるべき道を実践されるため、あえてヨハネからバプテスマをお受けになるほどへりくだっておられました。
そんなイエスさまが、神の座から人の世界に降臨したスーパースターのように振る舞うだなんて、これ以上似合わないことはありません。ところが、悪魔はこのことをするのは、聖書のみことばにかなっている、さあ、おやんなさい、とばかりに、詩篇91篇のみことばを示してみせます。
しかし、イエスさまには悪魔の魂胆がわかっておられました。すかさずイエスさまは、申命記のみことばを引用されます。「あなたの神である主を試みてはならない。」そう、イエスさまがもし、ここで飛び降りるようなことをなさったならば、それは、果たして父なる神さまは、その御子を守るかどうか、試すことになるわけです。さらに言えば、このような誘惑をすること自体が、神の御子を試すこと、すなわち、神を試すことであり、まさしく、この律法のことばによってさばかれるべき罪深いことです。
でも、悪魔の行動パターンをよくご覧ください。神を試みさせる、という罪を犯させるためならば、みことばを利用することもいとわないわけです。ほらみろ、みことばはこう言っているぞ、おまえはみことばに従順なんじゃないのか、みことばに従順ならば、神殿から飛び降りるべきじゃないのか!
この悪魔の理屈のからくりがわかりますか。そう、悪魔は確かにみことばを用いています。みことばが出てくると、みことばこそが真理と告白する私たちのような存在は、つい、目がくらまされます。一種の思考停止に陥りかねません。しかし、ここで私たちが問うべきは、みことばを用いているかどうかということではありません。「なぜ」みことばを用いているのか、そして「どのように」みことばを用いているのか、ということ、さらに言えば、「だれが」みことばを用いているのか、ということです。
今日の本文の場合、「なぜ」、これは、イエスさまに、神を疑わせ、神を試みる罪を犯させようとする目的があったから、です。「どのように」、これは悪魔が自分の主張をもっともらしくするために、それらしい箇所を引用するという方法を用いてです。そして「だれが」、もちろん悪魔であって、御父でも御霊でもなく、御使いでさえありません。
みなさまに面白いことをお伝えしましょう。面白い、と言うには、あまりにぞっとしないことではありますが。それは、人を変な風に惹きつける宗教は、ほかならぬ、聖書のみことばを巧みに引用し、または利用して、もっともらしい教えを作り上げていることがとても多い、ということです。このたび解散命令が確定した統一協会などその最たるものですし、いろんなタイプの「異端」と呼ばれる宗教団体もそのとおりです。
彼らは聖書を使います。特に、普通の教会ではあまり扱われていない聖書箇所にもっともらしい解釈を施し、これが真理です、こういうことをあなたの教会では教えてくれないでしょう? さあ、うちにいらっしゃい、と誘惑し、気がつけばその誘惑にあった人は、イエスさまに対するほんらいの信仰を捨て去ることさえしてしまいます。
これは言うまでもなく、聖書に問題があるのではありません。教祖が、自分の王国を築き上げるため、そのために人々を洗脳し、自分の奴隷に仕立て上げるため、その目的を達成するために、自分勝手なもっともらしい教えを作り上げて、真理のみことばである聖書を、大胆不敵にも解釈し、「これがほんとうの聖書的な教えだ!」と、善男善女をだますからです。
聖書は、こういうことをする者たちに、こんな警告を発しています。ヨハネの黙示録、22章18節と19節です。エホバの証人は新世界訳聖書などという、自分の教理を正当化するために訳そのものに手を加えた代物を用いていますが、それは明らかに、このみことばによってさばかれる行為です。しかしそれだけではありません。聖書と教祖の教えが矛盾するとき、教祖の教えのほうを優先させ、聖書はあくまで、教祖の教えを補強する存在以上のものではないような用い方をするならば、やはりそれは、このヨハネの黙示録のみことばによってさばかれることです。
異端というものは、そういうわけで、一切許してはなりません。いわんや、私たちが興味本位で彼らと交わりを持とうとするのは言語道断です。絶対にやめてください。さもなくば、滅びます。
しかし、事は異端だけではありません。異端はもちろん論外ですが、私たちクリスチャンもつい、自分の勝手な目的達成のためにはみことばを用いることもいとわない、そんな誘惑にあうことがあるものです。
私はかつて、大学卒業が見えてきた頃、就職活動をしておりました。しかし、私はほんらい、一般の大学ではなくて、神学校に入学して、牧師になるための勉強をしたいと思っていた者でした。それは、高校生の時、バイブルキャンプを通じて献身に導かれたからでした。しかし、家業を継ぐために理系に進むこともせず、ただでさえ親の期待を裏切っていた私は、勉強を通じて親を説得しなければと祈らされ、一般の大学にまいりました。
しかし、大学という環境は、きわめて誘惑の多いものでした。信仰を持っていない多種多様な友達と付き合っているうちに、みんながしているように、就職活動をして会社に行かなければ、と思うようになっていました。何のことはない、いちど献身を決意した身ですから、大学を出たら神学校に行くべきだったのに、その勇気が出ないで、逃げ回っていたわけでした。
ところが私はなんと、だれも何も言っていないのに、わざわざ自分で教会の牧師のところに出向き、自分は就職活動をするにあたり、みことばが示されました、と言ってのけたのでした。それは第一テサロニケ4章11節のみことばで、たまたまその時期に通読していたみことばで、目についたものでした。
しかし、私の心の中にほんとうにあったものは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」でしかなかったのでした。
その欲望を達成するために、就職してお金を稼ぎたい、と思っていただけで、それを、もっともらしいみことばを掲げて、いかにもこれがみこころです、というポーズを取っていたことでしかありませんでした。そんな私を受け入れる会社がなかったことは、今思えば主のあわれみ、ご恩寵と言うべきことでした。
その結果私はその年のうちに、韓国の神学校に行く道が開かれました。そして、神学校の入試のために韓国に行ったとき、宿泊していた部屋でひとり聖書を読んでいたら、たまたま、エペソ人への手紙2章に行き当たりました。
このみことばは、自分の欲望を達成するために引っ張ってきたみことばではないと、あれから30年経った現在、はっきり申し上げることができます。このみことばに忠実に歩むことを心がけ、ここまでまいりました。これは間違いなく、神さまが私にくださったみことばでした。
みことばが与えられたと思う、という体験は、クリスチャンであればだれしもあります。しかし、それがほんとうに主からのものかどうかは、よく考え、判断する必要があります。具体的にはこうするとよいです。そのみことばが「なぜ」自分に与えられたのか、「だれが」そのみことばを語ってくれたか、「どのように」そのみことばが語られたか、「いつ」「どこで」語られたか、ということも考え合わせるとよいでしょう。
それが、時を経て、やはりみこころにかなっていたのだ、と受け取れるならよいです。しかし、みことばを実践しようとして、少しやってみてもそれがかなわないで、ああ、このみことばのとおりにならなかった、ということは、神さまは私にみことばの導きなんてくださることはないんだ、などと考えないでいただきたいのです。
どんなみことばが与えられていると思うか、分かち合ってみてください。そして、祈ってもらってください。そうしているうちに、みことばがほんとうにみこころにかなっているか、あるいは、惑わしの道具にすぎないものなのか、主は判断させてくださいます。
ともかくも、みこころから見てふさわしくないみことばをつかんで、主を試みるようなことから、私たちが守られますように。お互いのために祈りましょう。







