試みを受けし主 その1
聖書箇所:マタイの福音書4章1節~4節 メッセージ題目:試みを受けし主 その1 よく私たちは「キリストに似たものとなる」といいます。聖書をお読みしますと、新約聖書に登場するイエスさまはもちろんのこと、旧約聖書にも、「メシア(キリスト)」とはどのような存在かが、あちこちに書かれていますので、私たちがキリストに似たものとなる上で、モデルとなるその姿は、聖書の至るところに示されている、ということになります。 しかし、いかに『キリストに似たもの』といいましても、私たちは水の上を歩けますか? 5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にできますか? いや、もっと言えば、十字架にかかって人の罪を赦すことができますか? できるわけありません。これは、イエスさまだけがなさったことです。イエスさまがこのみわざを行われたのは、イエスさまが神の子だから、つまり、神さまだから、ということです。 ならば私たちは、イエスさまのみことばやみわざの記事を読むとき、いや、これは神の子キリストだから言えること、できることで、私たちにはそんな力なんてない、ということは、私たちはキリストの似姿になんてなれない、と言いきっていいのでしょうか? もしそうならば、私たちがキリストの弟子として歩むこの歩みには、何の意味もないことになってしまいます。 しかし、私たちはそんなことを考えません。だから、こうして主の御前にともに礼拝をおささげしているわけです。私たちはたしかに、5つのパンと2匹の魚を増やせません。しかし、おなかがぺこぺこな人を見てかわいそうに思い、この人のためになにかをしてあげたい、と思うことができます。それで、自分の手のうちにあるわずかなものを、増やしてください、と、神さまに祈ることができます。水の上は歩けません。しかし、水の上を歩いてもそれとわからないほど、イエスさま、神さまだけを見つめて生きていく、そういう生き方は目指せるはずです。十字架にかかって人の罪を赦すなど、とんでもないことです。しかし、普通ならば人を憎み、さばくところを、人を赦す歩みができるようになります。 それは、イエスさまが神であられながら、完全な人間として歩まれた、ということです。私たちはイエスさまの御業に秘められた歩みをすることで、キリストの弟子として歩み、キリストに似た者となれるのです。 さて、今日から棕櫚の聖日まで、レントの期間の主日に、特にひとつの主題のもとに、みことばを学んでまいりたいと思います。それは「サタンの誘惑を退けるには」ということです。 4つの福音書を読んでみますと、イエスさまに対してところどころで、サタンが攻撃を仕掛けていることがわかります。 顕著なのが今日の箇所、マタイの福音書4章の前半の部分ですが、イエスさまは公の生涯に入られるに先立ち、荒野にて、四十日四十夜断食されました。それは、1節のみことばにあるとおり、御霊の導きによるものに、その目的は、悪魔の試みを受けるためでした。 人としてバプテスマをお受けになり、御父の御力と御霊のご臨在をいただいたイエスさまは、しかし、いきなり救い主メシアとして、人々の前にデビューなさったわけではありませんでした。その前に、壮絶な試みを体験されることが必要だったというわけです。 その試みとは、何も食べない、それも四十日四十夜にわたって、というものです。みなさん、できますか? 耐えられますか? 私は韓国の教会にいましたが、牧師も信徒もよく断食をなさっている韓国の教会でも、40日間も断食をつづけた、という話は、あまり聞きません。それだけに、40日断食された、という方が現れたら、その人は、すごい人、と見なしてもらえます。でも、40日間断食をしたことのない私が、負け惜しみのように言うようで気が引けますが、おそらくそういう方は、お水くらいは口にしていますから、水も何もない荒野でイエスさまが断食なさっていたのとはちがいます。 百歩譲って、彼らもちゃんと40日間断食をしていたとしましょう。しかしそれは、40日にわたって断食をなさったイエスさまにならって、それだけのあいだ断食をした、以上のことではありません。大事なのはイエスさまであって、断食にチャレンジした方ではないことを、私たちはよく覚え、そういう断食に成功した人を、ことさらにヒーローのように見なさないことが大事です。 さて、イエスさまの断食は40日にわたるものでしたが、この期間が40日だったということは、かつて、40日間断食をした人物の、その断食を受け継いだことを意味しています。それは、モーセです。モーセは、神さまがイスラエルの民と契約を結ばれ、そのしるしとして、神さまがお授けになるみことばを受け取るため、四十日四十夜断食して、シナイ山にとどまりました。 そのモーセですが、彼の120年にわたる生涯は、きれいに40年ずつに分けられます。最初の40年は、エジプトの王室にありながら、ヘブル人つまりイスラエル人として生きつづけました。次の40年は、人間的な動機でイスラエル民族のために立ち上がった、その人格が、荒野の羊飼いとなることにより、徹底的に砕かれ、それによって、イスラエルのまことのリーダーとして整えられる時期となりました。そしていよいよ、出エジプトを果たしますが、そこからの40年は、荒野でイスラエル民族とともに神の導きを受ける歩みとなりました。 こうして見ると、40年という時間は、イスラエルを率いるモーセ自身にとっても、モーセに率いられるイスラエルにとっても、とても大事な時間だったことがわかります。その、40年という時間が凝縮したのが、40日という、神の前に出る時間でした。 モーセはその40日のあいだに、契約のしるしとしてのみことばを授かり、以後、イスラエルはこのみことばに従って歩むことになります。それが40年にわたる歩みとなりました。しかし、イスラエルはこの荒野の歩みの中で、食べ物がないことや、飲み水がないことで、モーセと神さまに対して不平を鳴らしました。神さまはそのたびに、マナを降らせ、岩から湧き水を湧き上がらせましたが、のちに民は、この神さまからの恵みであるマナを嫌がり、エジプトの地獄のような日々に奴隷の食事としてあてがわれていた食べ物を恋しがります。そういうイスラエルは神の怒りに触れ、容赦なく滅ぼされていきました。ついには飲み水を求める民に対して怒りを発したモーセ自身さえも、瞬間、我を忘れて神の栄光を無視したため、神の怒りに触れ、約束の地であるカナンに足を踏み入れることはかないませんでした。つまり、イスラエルのこの40年の荒野の歩みは、モーセに至るまで、全員が誘惑にあって失敗したのでした。 このことを念頭に置いて、悪魔がまず、イエスさまに対して、口にするものをもって誘惑してきたことを考えましょう。2節のみことばです。イエスさまは四十日四十夜の断食をしたあとで、空腹を覚えられたとあります。 なんだ、あたりまえじゃないか、と思いますか? あるいは、この「空腹」ということばをきいて、ああ、おなかすいたな、なんてレベル程度にしか連想しませんか? いやいや、そんな生やさしいものじゃなかったと考えるべきでしょう。 食べる、ということは、人間がほんらい、本能のようにして身に着けている欲求です。神さまが人をそうお造りになった以上、そうなのです。エデンの園をご覧ください。神さまの祝福は、園に生えているどんな木の実も思いのままに食べてよい、というところに現れているとおりです。食べることが祝福であり、食べることで人は神さまからの力をいただき、神さまの栄光を顕す働きができるのです。 だから、食べないということは、よほどのことです。人が食べないでいい理由があるとしたら、病気で胃腸の具合がよくなくて、とか、手術前だから、とかいうことで、食べたらいけない、ということがあるでしょうが、これは、仕方なく食べることができない、ということであって、食べるということそのものを否定する根拠にはなりません。 イエスさまやモーセの場合、食べ物を口にすることよりも、神さまに向けて意識を集中させる、という、大きな目的がありました。断食することによって、神さまだけに拠り頼むようになり、結果として、神さまとの交わりが深まり、御声をしっかり聴けるようになります。 問題は、その定まった期間が終わったときです。私はかつて、若者のクリスチャンたちが数日間の断食祈祷会を終えて、みんなして、うどんを食べている写真を見たことがあります。いや、実に幸せそうな表情を浮かべて食べているんです。彼らは一様に、もうこれで断食しないでいいんだ、食べていいんだ、という、安堵に満ちた態度だったわけです。 イエスさまも、40日という断食の期間が終わりました。それは、食いしん坊の大酒飲み、と揶揄された、人間イエスの、食欲が首をもたげてくるべきときです。そのときに食べていけないわけではない。 しかし、サタンはここを狙いました。腹ぺこで死にそうになっているなら、ここがチャンスだ。創世記を見てみましょう。腹ぺこで家に帰ってきたエサウは、たまたまそこでスープを料理していたヤコブに、とにかくそれを食べさせてくれ、じゃなきゃ死にそうだ、と訴え、その結果、ヤコブとの取引に乗せられて、調子の権利を売り渡してしまいました。たった1杯のスープで! そのように、空腹が人の判断を狂わせることを熟知していたサタンは、イエスさまの人としてのご性質を狙いました。3節です。イエスさまよお、ここは神の子として、権威を行使なさってもいいんじゃございませんか・・・・・・? あなた、世の中に出ていく前に、死んでもいいんですかあ? もしかしたら、イエスさまの目の前に転がっている大小の石ころが、ほんとうにパンのように見えてきたかもしれません。イエスさまは神の子です。創造主です。これをパンにすることなど、当然おできになります。 しかし、もしそうなさるならば、それはいろいろな意味で問題になります。まずそれは、父なる神さまを離れて、単独で奇跡を行う、ということです。イエスさまは、御父がなさるとおりをそのまま行われるからこそ、この地上にて神の子として生きたお方でした。御父を離れた神の子という存在は、それそのものが矛盾です。 そして、その前提で考えると、もっと大きな問題になるのは、もしイエスさまがこのとき、神の子の権威によって石がパンになるように命じたとしたら、それは父なる神さまのみことばよりも、サタンのことばの方を尊重した、ということになるわけです。絶対にあってはならないことです。 さらに言えば、イエスさまはご自身を満足させるためにこの地上に生きた方ではありませんでした。イエスさまが食事をなさる場面は福音書のあちこちに登場しますが、ご覧ください、すべて、だれかと一緒に食事をしています。弟子たちとですとか、だれかに招かれてですとか、お友達のマルタ、マリア姉妹とですとか。おひとりでご飯を食べるシーンなんて、聖書のどこにも登場しません。これは、イエスさまが自分のために生きたのではなく、どこまでも、人のために、人ともに生きたお方であることをほのめかしています。イエスさまというお方は、自分を満足させるためにものを食べる、という動機を、そもそもお持ちでなかったと考えるべきです。 もちろん、イエスさまは、人間のことを、食べ物を口にすることで生きて、神の栄光を顕す存在として創造されたのですから、食べることそのものまで否定されてはなりません。 でも、主は、人間が食べ物を食べるだけで生きてはいけないように創造されました。神さまのみことばをいただき、神さまと交わる、これこそが、食べて生きることと同じくらい、人としてもっとも大事なことです。 みことばをいただかないで生きるのでは、クリスチャンとして、というより、人として、本質的に欠けた生き方をしていても構わないと考えていることになります。それは、神との交わりを、ほかのもので代用し、ごまかして生きている、ということです。 この、「人はパンのみにて生くるにあらず」というイエスさまのおことばは、まるで格言のように、この日本の社会で用いられてきました。もちろん、この「パン」というものが食べ物全般を指すことは、いかにキリスト教社会ではない日本の人々とて、ちゃんと理解しています。問題は、「パンのみにて生くるにあらず」ということを理解しているのに、それなら何によって生きなさいと聖書が語っているか、わからないか、わかっていてもわざと無視している、ということです。音楽だったり、文学だったり、哲学だったり、そういうものを指して、「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ってみせていて、肝心の「神の口から出る一つ一つのことば」にたどり着けないようにしています。 これも、サタンの策略だと言うことを見抜きましょう。それには私たちは、「神の口から出るひとつひとつのことば」なる、聖書のみことばをいつもいただくことです。だから私たちは聖書を毎日読むのです。聖書を毎日読むから偉いのでも、聖書を毎日読めないからダメなのでもありません。生きるために、聖書を毎日読むのです。そして、聖書のみことばを読めば、私たちは生きます。 なお、今日は、主の晩餐の時間を持ちます。これは、肉の糧なる「パン」をいただくことで、神の口から出ることばをいただくという、驚くべき時間でもあります。なぜならば、このようにパンと杯にあずかりなさいということは、イエスさまがみことばをもって命じられたことだからです。主の晩餐、大切な時間として、ともに過ごしましょう。

