聖書箇所:ヨハネの福音書4章43節~54節
メッセージ題目:信仰の成長
私たちはクリスチャンです。そんな私たちは、あなたたちクリスチャンとはどういう人ですか? と聞かれたら、イエスさまを信じる人です、と答えるでしょう。しかし、だとすると、私たちは「イエスさまを信じる」とはどういうことなのか、ちゃんとわかったうえで「信じている」のでしょうか?
たとえば、むかし開催されたような、大きな会場を借り切っての伝道集会、あのような集会では最後になると、「イエスさまを信じたい方は前に出てきてください!」と招かれ、前に出ていって、イエスさまを主と信じ受け入れる祈りを導いていただくわけです。
しかし、あれだけたくさんの人が信仰を持ったはずなのに、その後、日本の教会は何か大きな変化が起こったでしょうか? いや、それ以前に、そのような集会を境に、その信じ受け入れたはずの人の生活は根本から変わったでしょうか? もちろん、お救いになったかどうかは神さまの領域であって、人がとやかく言うべきことではありません。しかし、そのときイエスさまを信じ受け入れたという人々が、それ以降、キリストを主と信じ従う生き方ができていたならば、その後日本の教会はどれほどよい方向に変化していただろうか、と考えると、少し残念な思いがします。
私たちは、イエスさまを信じていることが、その生き方、その存在の旗印と言えるでしょう。しかし、それならば、その「信じている」ことの中身が問われていくことになります。来週はクリスマスです。私たちの礼拝にも、まだイエスさまとともに歩む歩みをしていると言えない方々がいらっしゃることを考えましょう。そのような方々も、イエスさまを主と信じ従う生き方をしていただきたいと、私たちは願いませんでしょうか? その備えという意味でも、今日、みことばに耳を傾けてまいりましょう。
今日の本文のテーマを要約いたしますと、それは「信仰の成長」です。イエスさまにすがった王室の役人が、イエスさまと対話を交わしている間の、そのわずかな時間に、どのように信仰が成長していったか、私たちは見ることができます。ともに見てまいります。
43節、イエスさまはサマリアのスカルを去って、ガリラヤに行かれました。イエスさまの故郷です。そのガリラヤはどういう場所かというと、続く43節にあるとおりです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」。イエスさまご自身がそうおっしゃいました。
それは、彼らが不信仰であったからです。彼らは、幼い日からのイエスさまを知っていました。そんなイエスさまが神の国をお語りになることに、いまひとつぴんときていませんでした。あいつは大工の息子じゃないか。あいつの家族も知ってるぞ。そんなのが、あんなことが言えるのかい。
要するに、故郷の人たちはイエスさまのことを神の子と信じることができなかったのでした。しかし、それでもガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎しました。それは45節にあるとおりです。エルサレムで祭りがあり、彼らもその祭りに参加していたとき、イエスさまが祭りの間にエルサレムで行われたことを見ていたからです。
イエスさまがお語りになったことでは、イエスさまを神の子、主と信じず、しかし、しるしには関心がある。これは、イエスさまに対する信仰の初歩の段階です。論より証拠、ということばがありますが、多くの人はどうも、何か奇跡を見ることによってはじめて、そこに神さまが働いていることをようやく信じるのではないでしょうか。そういう人にとっては、福音書の多くの紙幅を割いて書かれているイエスさまのメッセージは、ありがたい教え、難しい教え、くらいのものにしかなりません。
イエスさまのもとには多くの群衆がついていきました。驚くべきみわざを見て、体験することができるからです。こんにちのあらゆるテーマパークのアトラクション、映像コンテンツも真っ青の体験です。しかし、それを体験するだけして、普段の生活に戻ったらまたもとどおりになってしまうならば、それはイエスさまのみわざを、単なる「ショー」のレベルでしか消化していないことになります。
イエスさまに対する信仰を働かせるということは、そういう幼稚なレベルでとどまることではありません。もし、そんなレベルのものが信仰と言うに値するならば、もし仮に、イエスさまの行なっておられるみわざが、私たち人間の目に、それが神のみわざだと認められないならば、別にイエスさまのことを信じなくてもいいことになります。しかし、そういうレベルのものを、果たして信仰と呼んでいいのでしょうか?
そのような中で、イエスさまのもとを訪ねてきた王室の役人を見てみると、イエスさまに対する信仰を働かせるとはどういうことかを学ぶことができます。王室の役人はイエスさまがいらしたと聞いて、イエスさまのもとにやってまいりました。
シチュエーションがよく似たお話が、マタイの福音書の8章や、ルカの福音書の7章に登場します。すると、このヨハネの福音書に登場する王室の役人は、実はその百人隊長のことだったのか、と思えてきます。しかし、その両者は、イエスさまに対する信仰の働かせ方をイエスさまがどう評価したかという点において、決定的な違いがあります。そのお話までこのメッセージに引用するとかなり複雑になるので、今日はそうしません。興味のある方はマタイ8章、ルカ7章をあとでお読みいただきたいですが、今日はそれらと対照させず、このヨハネ4章の本文のみでまいります。
王室の役人は、イエスさまのもとにやってきました。彼の息子が重い病気にかかっていました。イエスさま、下ってきて息子をいやしてください。
まず彼は、イエスさまのところに行きました。そして、イエスさまに直接、自分のところにいらしてくださいとお願いしました。イエスさまを癒やし主と信じての大胆な行動です。ヘブル人への手紙4章16節に、「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。いやいや、神さまに近づくなど畏れ多い、と思うのではなく、神さま、イエスさま、助けてください、と、大胆に御座に近づく、この信仰をイエスさまは喜んでくださいます。
王室の役人もその信仰でイエスさまに近づきました。しかし、それでもイエスさまは、その信仰の「質(しつ)」を問題にされました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」イエスさまのお返事は、切実な願いをしてくる彼の前に、なんとも素っ気ないと思われるでしょうか? しかし、考えていただきたいのです。もし仮に、イエスさまが彼の信仰の質を取り扱われることなく、そのまま、わかりました、と、行ってお癒しになった、子どもは治った、めでたしめでたし、それで終わってしまったならば、この役人はその程度にしかイエスさまを信じていなかったことになり、彼の信仰はそれ以上成長が見込めないものになりかねなかったわけです。
ですからイエスさまは、祈り求める者の信仰の質を問題にされます。あなたは、わたしがわざを行えば信じるのですか? わざを行わないことが父のみこころゆえ、わざを行わなかったとしたら、あなたは信じないのですか? それは、わたしがすべての主権者なる神であることを、ほんとうに信じていることになるのですか?
そうです。イエスさまは私たちの願うようにみわざを行われようと行われまいと、主です。主権者です。癒し主です。私たちはまず、イエスさまとはそういうお方なのだと認めなければなりません。
役人はこのイエスさまのおことばを聞きました。すると役人は、49節のように言いました。「子どもが死なないうちに」と言っています。この子どもはすぐにも死ぬかもしれない病にかかっていました。そんな人を前にして、いや、あなたは死ぬことを受け入れて死になさい、とおっしゃるようなお方では決してない、イエスさま、あなたはいのちの主です、役人の信仰はここではっきりしました。
イエスさまはいのちの主であると認める、しるしと不思議を行われるから信じるのではない、ゆえに、私の愛する息子のいのちもあなたの御手のうちにあるから、子どもを癒やすのはあなたのご主権による、そして、あなたの御心にかなっている・・・・・・役人の信仰は、イエスさまへの理解が伴っていました。見たら信じるという、幼稚なレベルではもはやありません。
その、彼の信仰をお確かめになったイエスさまは、彼にチャレンジを与えられます。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」これは、イエスさまは下っていかない、と宣言されたということ、しかし、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、と宣言されたということです。これは、彼の願った方法にはよらなくても、彼の願いどおりに、いのちの主なる主権者として、そして愛なるお方として、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、ということです。
私たちは、イエスさまは癒やし主です、と信じ告白します。しかし、その信仰の中身というものが、問題にされはしないでしょうか? あの、アラムのナアマン将軍は、自分のツァラアトはエリシャに出てきてもらって、患部の上で何やら手を動かしてもらえば治る、と思っていたのに、ヨルダン川に7回からだを浸せ、とは、と、おかんむりになりましたが、それにナアマンがこだわったら、神さまは確実にナアマンを癒やされる方法を示しておられるのに、ナアマンは治らないことになってしまいます。
同じことで、神さまのみこころが示されているならば、それを信じることです。信じているならば、ああ、神さま、おっしゃるとおりです、と、そのとおりにからだが動いてしかるべきです。この役人の場合も、イエスさまがおっしゃるとおりにここでイエスさまと別れ、家に向かいました。イエスさまは神として、そのおことばをもって息子をいやしてくださった、その信仰は、せっかくのイエスさまと別れて家に帰るという行動に結びついたのです。「いやです! どうしても家に来てほしいんです!」とすがりつくことが、彼のすべきこと、イエスさまのお喜びになる信仰ではなかったのです。イエスさまのおっしゃるとおりに行動する、その結果、彼の息子は癒やされました。
私たちはしばしば、イエスさまに対する信仰というものを誤解しています。目の前に何か問題があったらそれを解決してくださいとか、必要があったらそれをくださいとか、求めるものは何でもくださる、それが信仰だと思っているでしょう。
たしかに「求めなさい、そうすれば与えられます」とか、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と、イエスさまはおっしゃっています。しかし、結構私たちは、そのみことばを表面的にしか理解していないのではないでしょうか? どうせ求めても与えられないかも、と、どこかで投げやりになり、真剣に求めるということができていないのではないでしょうか? それでは与えられるものも与えられません。それにその姿勢は、イエスさまが「与えられます」と約束してくださっている、そのみことばに対する信仰を充分に働かせていないことになります。
私たちはたしかに、イエスさまがご覧になったら,不信仰としか言えなかったり、信仰はあっても幼稚なレベルにとどまっているようなものだったりする、そういうときもあります。
しかしイエスさまは、そんな私たちの姿そのままに、私たちを受け入れ、私たちと語り合ってくださいます。役人はイエスさまと語り合っているうちに、イエスさまを信じることとはイエスさまの主権を受け入れること、イエスさまのみことばのとおりに行動することという理解が伴いました。
でも、役人は律法主義的に、無理やり信じたのではありません。イエスさまの優しいおことば、決然としたおことばを語られるその姿に、そうだ、信じて一歩踏み出そう、イエスさまは絶対、みわざを行なってくださる、と、力強く歩み出したのでした。その信仰の成長は、イエスさまとの対話をとおしてなされたものです。
イエスさまはおっしゃいます。あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる人たちは幸いです。もちろん私たちは、この肉眼でイエスさまのお姿を見ることはできません。しかし、それだけではなく、イエスさまが目に見えるように御業を行なってくだされば信じる、というレベルにとどまらず、いつ、どんなときでも、イエスさまを主として生きる生き方ができるようにしていただきたいと願うものです。それでも私たちは、いざというときには目に見えるしるしのようなものに頼りたくなり、そうでなければイエスさまなど知らないような生き方をしてしまいがちな、そんなものかもしれません。
それでもイエスさまは、私たちにつきあってくださいます。私たちと語り合いたい、信仰を育ててあげたいと、私たちがみもとに近づくのを待っていてくださいます。いま、イエスさまのもとに、祈りをもって進み出てまいりましょう。イエスさまが私たちと語り合ってくださるならば、私たちは成長します。その成長する喜びを、体験させていただきましょう。







