賛美の祝福

聖書箇所:サムエル記第一16章14節~23節 メッセージ題目:賛美の祝福  前にも申しました。私が学生時代、キャンパス・クルセードという宣教団体の学生メンバーとして活動していたとき、早稲田大学を借りて行われた木曜集会で、スタッフの佐藤さんという方がおっしゃいました。「みんな、なんで僕たちは、神さまのことを賛美するんだと思う?」学生たちからいろいろ答えが返ってきます。「神さまは素晴らしいお方だから」「神さまは素晴らしいみわざをなさったから」「神さまは僕たちのことを愛してくださっているから」ひとしきり学生たちの答えを聞いて、佐藤さんはおっしゃいます。「うん、そうだね。みんな、そのとおりだよね。でもね・・・・・・僕たちが神さまを賛美するのは・・・・・・それは、神さまだからです。」  私は佐藤さんのこのことばに衝撃を受けました。そうです、私たちは気分がよければ賛美し、気分が乗らなかったら賛美しない、そんなものではないでしょうか。しかし、神さまがほめたたえられるべき神さまであることは、本来、人間の感情と一切関係のないことです。人がどうあれ、神さまは神さまですし、ほめたたえられるべきお方です。  だから、賛美というものは、神を神とするところにすべてははじまります。自分が気持ちいいからとか、誤解を恐れず言えば「恵まれるから」とか、そういう理由で神さまを賛美するのではないのです。神が私の神だから、だから、神を賛美する、そういうことなのです。  思えば、佐藤さんからあのメッセージを聞いた頃、都会に住むクリスチャンの若者たちは、やたらと「リバイバル」ということばを口にしていました。有明コロシアムに行ったり、甲子園球場に行ったりして、大きな声で手を振り上げて賛美をしていると、これだけ大声で、いっしょうけんめい賛美しているならば、今にも神さまは、この日本にリバイバルを起こしてくださるにちがいない・・・・・・私はそう確信して、声を枯らして歌いました。たぶん、周りの若者たちも、同じ気持ちだったと思います。  しかし、その後30年近く経って、およそリバイバルと呼べそうなものを、神さまは日本に起こされることはなさらなかったのでした。そうこうしているうちにリバイバルを求める機運は冷え切り、教会もクリスチャンの数も縮小する一方・・・・・・クリスチャンたちはなおも、なぜ日本は教会が成長しないのか、と、自らに問いつづけています。  しかし、私は自分自身がリバイバルを求め、大声で賛美を歌っていた者として、言わせていただきますと、日本のクリスチャンは果たして、神を神とする生き方を歩んできていたのだろうか、と、自らに問い直し、悔い改める必要があるはずと思います。自分が気持ちいいからリバイバルを求めていただけではなかったか? いじけたマイノリティが一発逆転を狙ってリバイバルを求めていただけ、要するに、霊的とはとても言えない、肉に属する欲望でリバイバルを求めていただけではなかったのか?  これは日本の教会に限らず言うべきこと、およそクリスチャンたるもの、すべからく、神を神とする生き方をすべきです。単なる感情の高まりで神を礼拝し、賛美するだけならば、それは、自分のイメージという偶像に仕えているだけなのかもしれません。  そこで私たちは、いざ賛美するにあたり、聖書に登場するモデルから学びたいと思います。 聖書における賛美のモデルと言えば、だれがなんと言おうとダビデでしょう。なんといっても、聖書における賛美といえば詩篇ですが、その全部で150篇ある詩篇の、実に73篇、ほぼ半分は、ダビデによるものとそれぞれの題名に書かれています。まさにダビデは、賛美の歌い手の中の歌い手であり、私たちはこのダビデをモデルにすることで、神の前によりふさわしい賛美をおささげできるようになると信じます。  さあ、そこで今日学びますみことばは、賛美のささげ手としてのダビデが公式デビューを果たすという箇所です。ともに見てみましょう。先週のメッセージ中にした予告では、ダビデとゴリヤテの対決から今日は学ぶ予定であったと申しましたが、ダビデの油注ぎについての学びと、その対決との間にこの箇所は位置しているので、まずは順番として、今日はこの箇所から学びたいと思います。  まず、ダビデに油が注がれたのは、すでに油注がれて王として立てられていたサウルが、およそ神の民たるイスラエルの王としてふさわしくない、不信仰の振る舞い、不従順の振る舞いを繰り返し、サムエルはもとより、神さまのみこころまでも損なうという結果となったからです。サウルが王として合格していれば、ダビデに油注ぎが回される必要もなかったわけです。しかし実際は、サウルが油注ぎによって受けていた王としての聖別は、ダビデが受けることとなりました。すると結果として、サウルが神から受けていた聖別は、もはや臨まないことになるわけです。  その結果、サウルには何が起こったのでしょうか? 悪霊が臨む、という、およそ神の民の王としてこれ以上なくふさわしくないこと、呪いとしか言えないことが起こるようになったのでした。サウルは狂い、恐れに取り憑かれるようになりました。  しかし、これはサウルひとりの問題ではありません。サウルの家来たちも、このように悪霊に取り憑かれた王に仕えるなど、たいへんなことです。そして、サウルがこのような霊的状態にあるということは、ひいては、イスラエルの国と民族全体の霊的環境に関わることになってしまいます。  家来は一計を案じました。サウルのもとに、音楽をもって癒やしをもたらす人を侍らせよう、竪琴を弾いて、その楽の音(がくのね)にて王を落ち着かせよう、というわけです。果たして、それは王の心にかない、王は家来たちを遣わそうとしました。  琴、という楽器は、実に不思議です。この楽器の奏でる音楽に私たちは癒やされます。弦を1本1本弾いても、複数の弦をいっぺんにストロークしても、とにかく気持ちのいいものです。ハープ、お琴、クラシックギター・・・・・・サウルの当時の楽器といえば、タンバリンのような打楽器だったり、角笛のような吹き鳴らす楽器もあったりしますが、それらは音が大きすぎて、「癒やす」のにはあんまり向きません。やはり、荒ぶる心を癒やすのは、繊細な音を紡ぐ、ハープのような弦楽器です。  さて、家来の心に、これはふさわしいという人物が思い浮かびました。それは18節にあるとおりです。ダビデはこの頃、まだ年端もいかない羊飼いの少年で、実際にサウルの軍隊に従軍して戦士として戦っていたわけではありませんが、上3人の兄はサウルの兵隊であり、ダビデは戦士の家門としても、サウルの前に出るに恥じるところはありません。 それにダビデは、のちにサウルの前にはっきり言いますが、ライオンや熊を素手で相手にして打ち殺すほどの、恐るべき戦闘能力を持っていて、それは隠そうにも隠せなかったはずです。 ここ数ヶ月、連日のように、日本のあちこちに熊が出た、熊が人を襲った、という、ぞっとしないニュースが報道されていますが、人は何か武器を持っていても、熊を相手に闘うなど容易なことではありません。いわんや、熊を素手で打ち殺すなど、とんでもない戦闘能力です。現代の日本は、のどから手が出るほど、こんな人がほしくありませんか? しかし、普通に考えて、いかに昔の人が現代人より屈強だったとしても、熊に素手で勝つなどまずあり得ません。いったい、ダビデはなぜ、こんなに強かったのでしょうか? それは、ダビデには神の霊が臨んでいたからでした。羊を守るために猛獣に立ち向かい、いのちを賭けて闘い、しかもこれをやっつける、イスラエルの王たる者は、イスラエルの民のことを偶像礼拝の敵国の侵略から守るために、軍隊に立ち向かい、やっつける。まさに、イスラエルの王としてふさわしくあるための聖霊の油注ぎは、すでにこのときに臨んでいたのでした。 この、聖霊のきよい御力によって、ダビデは竪琴を奏でたのでした。彼は羊を飼うべく野にあるとき、その広々とした空の下、竪琴を手にして、この大自然を創造したもう神さまをほめたたえる歌を吟じたことでしょう。実際、詩篇23篇、神を羊飼い、自らをその牧場の羊になぞらえたあの美しい詩は、ダビデが羊飼いであったゆえに生まれた歌です。 その、聖霊の油注ぎに満ちた音楽は、サウルのもとにて仕える者の耳にとまりました。折しもサウルは、悪霊につかれてどうにもならなくなり、霊的な助けをとても必要としていたことは、家来たちの目にも明らかでした。そこに現れたのがダビデだったわけですが、これは、ダビデが王宮に入り、サウルに顔を、そしてそれ以上に、その持てる霊的能力を覚えてもらうために、必要なプロセスでした。 そしてダビデは、おびえるサウルの前で琴を弾きました。聖霊の油注ぎに満ちた音楽です。言うなれば、創造主なる神の麗しさを、音楽をもってほめたたえる、賛美です。この音楽を耳にすることによって、サウルから悪霊は離れ去りました。 ダビデのこの演奏は、いくつもの意味を持っています。その中で今日は、3つの側面からダビデの音楽の意味を見て、私たちにとってふさわしい賛美のあり方を考えてみます。 第一に、ふさわしい賛美とは、仕えることです。 ダビデは、サウルの前に出て行きました。なんと、あのしがない羊飼いの八男坊が、ついにサウルの前に出たのです。しかし、ダビデのしたことは、まずこのときにおいては、熊やライオンを素手で打ち殺した、その勇猛さをもって、サウルの兵隊になることではありませんでした。サウルはダビデが勇士であり、戦士の出であることを家来から聞いていましたが、サウルはそういう理由でダビデを召したのではありません。ただ、音楽を奏でてもらうためでした。 しかし、このように、サウルに竪琴の演奏者として引き立てられたダビデのことを考えてみましょう。ダビデは、いや、私は戦えます、ぜひ私を演奏者ではなく、兵隊にしてください、とは言いませんでした。  またダビデは、王の前に自分の演奏技術を見せてやる、とばかりに、派手な演奏をしたわけでもありません。王の前に仕える姿勢で、慎ましく、竪琴を弾いたのみです。  ここに、私たちが礼拝に臨むにあたって、賛美をいかにささげるかを知るヒントが隠されています。そう、私たちにとっての賛美とは、「仕える」ことです。使徒ペテロをして「王である祭司」と言わしめているとおり、私たちクリスチャンは「王」なのです。ということは、私たちひとりひとりはほかの兄弟姉妹に対し、「王」として遇する必要があります。「王」が礼拝という形で神の前に出ているならば、私たちはその「王」の礼拝をアシストするのです。そのアシストする働きを、私たちは賛美を持って行うのです。  私は礼拝の司会に立つことが多く、その分、讃美歌や聖歌の導きをする機会も多くなるわけですが、そのとき心がけるべきことは、この賛美の主たるささげ手は、どこまでも会衆のみなさまである、ということです。だから、まるで歌手がその技術を誇るように朗々と歌い、会衆を置いてけぼりにしてしまう、ということは、してはならないことです。むしろ、会衆のみなさまがいかに、もっともふさわしい形で賛美ができるか、よく準備します。その準備はすでに選曲の段階から始まっていて、伴奏者にとっての演奏の得手、不得手も考慮した上で選びます。特に、メッセージのあとの聖歌は、メッセージの内容を大きく外さないもの、それでいて、みんなにとって歌いにくくないものを選ぶように心がけます。  こういう努力を、会衆のみなさまも、お互いを自分より勝った存在、言うなれば「王」と遇する姿勢で実践していただきたいのです。だとすると、ことさらに小さな声で賛美するのも徳を立てませんし、自分ばかりが目立つように大声で賛美するのも、仕える姿勢とは言えません。互いを神の前に立て上げること、そのことを、賛美をともにおささげすることによって、実践していただきたいのです。 二番目に、ふさわしい賛美とは、癒やすことです。  詩篇22篇3節のみことばは、以前の訳の聖書では、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。そうです。私たちが賛美をおささげするところに、主がともに住まってくださるのです。  賛美のうちに住まわれる主は、癒やし主です。だから、主の御名をほめたたえるとき、そこに癒やしが起こされるのは当然のことなのです。賛美のうちに住まわれる主が、賛美の歌をもって主をほめたたえる私たちのことを、癒やしてくださるのです。  私たちは、自分が賛美を歌うことによって癒やしを体験するものです。しかし、忘れてはいけないこと、それは、私たちが賛美の歌を人の耳に聴かせることにより、主がその聴く人に癒やしのみわざを起こしてくださる、ということです。  私たちが、礼拝というものをこうして、会衆がともに集うということをもっておささげすることに意味があるのは、私たちひとり人が歌うその賛美の歌が、ほかの兄弟姉妹の耳に届き、その兄弟姉妹が主の癒やしを体験する、というみわざが起こされることにあります。そうです、この点においても、私たちは「仕える」者となります。賛美の歌をもって兄弟姉妹を癒やす、そのことで私たちは「仕える」のです。私たちが身を低くして、謙遜な態度と姿勢でお仕えするとき、そこに主は働いてくださり、私たちの歌声をとおして、心傷つく方々を癒やしてくださるのです。 そして第三に、ふさわしい賛美とは、霊的に闘うことです。賛美、それは、自分が気持ちよくて歌うものではないことは、さきほども申し上げました。自分が気持ちいいということは、厳しいことを言えば、自分に酔っている、ということ、それは、一見すると神をほめたたえているようで、実は、自分の肉を満足させることにしかなりません。 ダビデは、自分の音楽の気持ちよさに酔いしれるために、サウルの前で竪琴を弾いたのではありません。サウルに取り憑いた悪霊を去らせるために、祈りを込めて、真剣に奏でました。それは文字どおり、戦いです。ダビデは神の霊の臨む神の人として、サウルに取り憑いた悪霊どもに負けるわけにはいきませんでした。しかし、その戦いは武力、または暴力にはよりません。賛美という、静かにして美しい音楽、これで戦ったのです。 みなさま、賛美とは戦いであると、意識して歌ったことはありますでしょうか? もちろん、「ひかりの高地に」ですとか「たちあがれいざ」ですとか「すすめ主イエスの兵士らよ」ですとか、そういう、いかにも霊的戦いの歌を歌うのは、霊的な「戦意高揚」には役に立ちます。しかし、およそ賛美というものはみな、悪魔および悪霊どもとの戦いの武器といえるものです。私たちは御霊に満たされて神をほめたたえる歌を歌うとき、悪魔、悪霊は、私たちから逃げ去ります。 物騒な物言いとなるのは承知の上で申しますが、礼拝という場は戦場です。悪霊どもは、私たちが神さまとそのみことばに心を向かわせないようにするためには、手段を選びません。室温が暑すぎる、寒すぎる、なんて気になるかもしれません。あっ、また武井牧師が変なことを言った、なんて、いつまでも気になって、それ以上、ことばが耳に入ってこなくなるかもしれません。ハエやカメムシが飛んでくるかもしれません。眠くてたまらなくなるかもしれません。スマホのスイッチを切り忘れて、鳴ってしまい、つい、そっちに気を取られるかもしれません。私が申し上げたいことは、悪魔はどんな方法を用いてでも、神さまに私たちの意識が集中しないように働いている、ということです。 そんな私たちが、どんな妨げに会おうとも、心から神さまに意識を向けて礼拝するようになるために、賛美という現場において悪魔、悪霊どもと戦い、勝利を体験する必要があります。だからみなさま、真剣に歌ってください。祈りを込めて歌ってください。よりよい歌の声をおささげするために、普段から声を鍛えることだってしていただきたいのです。すべては、戦いに勝利するためです。 今日はこうして、サウルの前に竪琴を弾いたダビデをモデルに、私たちにとっての賛美の祝福とは何かを学びました。賛美とは仕えること、人を癒やすこと、戦うことであると学びました。これからはそう意識して、ダビデにならった、素晴らしい賛美のささげ手として用いられていく、そのような私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

ともに生きる私たち

聖書箇所:詩篇133篇1節~3節 メッセージ題目:ともに生きる私たち  私は2014年7月に当教会に牧師として就任して以来、一貫して「ともに」ということを語ってまいりました。教会は牧師とか役員とか、だれか特定の人の頑張りで保たせるべきものではない。みんながイエスさまの弟子に召されている以上、みんなでともに立て上げる、教会とは、そういうものではないか・・・・・・。  私は学生時代から聖書を読み、そして、キャンプですとか、学生時代に経験した宣教団体ですとか、韓国の教会や神学校の生活、そういったことをとおして、聖書に書かれているこの「ともに」という麗しい姿は、決して理想論、絵に描いた餅などではない、ここに実際にあるではないか、そうだ、こういう麗しい教会を、やがて自分は日本に立てる働きをしていかなくては・・・・・・私はずっと、そう願って、そしてここまでまいりました。  うちは小さな群れ、そう、イエスさまの十二弟子とどっこいどっこいの数ですが、イエスさまがあの12人、ユダを除いたら11人から、世界の福音化という壮大な御業を行われたように、主は私たちという共同体から、必ず大きな御業を起こしてくださると、信じて祈ってまいりましょう。アーメンでしょうか?  さあ、そこで私たちは、では、生い立ちも性格もみんなちがう私たちが、イエスさまを信じ、バプテスマを受けた、という、ただそのことにゆえに、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れに集められているというならば、私たちはどのようにして、私たちが「ひとつ」であること、「ともに」生きる存在とされていることを味わい、感謝しようか? となるべきでしょう。 今日は、主の晩餐をともに囲む、麗しい主の日です。あらためて、私たちを一つにしてくださり、ともに生きる喜びに生かしてくださっている神さまをほめたたえつつ、主の晩餐に臨むにあたり、ひとつのみことばから学んでみたいと思います。 まず、表題からまいりましょう。都上りの歌、です。都とはエルサレムであり、神の御名の置かれた大いなる都です。神の民はこの都にて、大いなる礼拝を神さまにおささげします。その大いなる礼拝をささげるために、高い山の上にある町、エルサレムへと、文字どおり「上る」のです。 礼拝をささげるために「上る」、その先には、神の民がともに礼拝をささげている現場があります。そこに行くならば、神のすべての民が平等に、同じ喜びをもって御前に進み出ます。そして、この詩を詠んでいるのはダビデ、偉大な王さまです。ダビデは、民の中でも自分だけは王だから特別だ、という、傲慢な態度で御前に進み出るようなことはしませんでした。逆にダビデは、神の民イスラエルを代表する王として、率先して御前に出て礼拝をささげ、民もその姿に倣うように、模範を示しています。 この時点では、壮麗なエルサレム神殿は建てられていませんでした。それは、ダビデがその神殿建造の働きをすることを、神さまがお許しにならなかったからです。しかしダビデの心には、やがてエルサレムに神殿が建造され、いよいよ大いなる礼拝がささげられるようにという、壮大なビジョンが常にありました。彼はその働きを息子ソロモンに託し、神殿はエルサレムに建つというビジョンを胸に、天国に旅立ちました。 都上りは今日でいえば、私たちがこうして、遠近各地よりこの、茨城町長岡の礼拝堂に集まるようではないでしょうか。みなさん、わくわくしていますか? ともに礼拝をおささげできること、ともにお交わりできることに、喜びと期待を抱きつつ、今日、ここまでいらっしゃいましたか? いやが上にも盛り上がるために、いいことをお教えします。運転しながら、お祈りするのです。また、賛美をするのです。聖句を暗唱するのです。それは、私たちがキリストを主とし、神の霊に満たされるという歩みを実践することでもあります。マナーのひどいドライバーに遭遇して、つい、口から「ナントカカントカ!」と、悪口のひとつも飛び出しそうになるでしょうか? それは、礼拝に向かう姿として、いかにもふさわしくなりません。御霊に満たされましょう。その上で、車でいらっしゃるときに、お祈りする、賛美する、聖句を暗唱するといったことは、極めて有効な手段です。複数でいらっしゃるときは、もちろん、主にある交わりをしっかり持ちましょう。 さあ、そのように期待しつつ、ともに御前に行けるのは、なぜなのでしょうか? 1節です。そう、兄弟たちがひとつになってともに生きることは、最高に幸せなこと、そして、最高に楽しいことだからです。 この詩を詠んだダビデにとって、兄弟という存在は、もともと楽しいとか、幸せとか言える対象ではありませんでした。前に学びましたサムエル記第一16章、サムエルが、サウルに代わる王を立てるために、神さまによってエッサイの家に導かれたときのこと。エッサイには子どもが8人いましたが、サムエルに面会させたのは最初、上の7人でした。末っ子のダビデはあのサムエルさまに会わせてもらえるという大事な晴れの場に、最初は同席させてもらうことも許されなかったわけです。これでは、兄弟のうちでどんな扱いを受けていたかも、推して知るべきです。実際、詳しくは来週学びますが、ペリシテとの戦争に従軍していた上3人の兄たちから、ダビデは邪険に扱われています。 しかし、そんなダビデは後に、勲功を挙げつづけることに嫉妬したサウルにいのちを狙われ、放浪の旅の末、アドラムの洞穴に避難しました。すると、そこに彼の兄弟たち、父の家の者たちが集まってきたのでした。このとき、聖書の表現をそのまま引用すると、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来た」のでした。この群れは400人の大部隊になりました。 兄たちはもはや、ダビデのことを邪険に扱ったり、いたずらに恐れたり、などしませんでした。ともに生きることに活路を見いだしたのです。ダビデもこうして始まった兄たちとの生活に、ようやく、ほんとうの意味で兄弟がひとつになってともに生きることの実際を、実感しつつ体験できたわけです。 アドラムのこの生活は、ダビデが肉の兄弟にはじまり、弱さを抱えている人たち、しかし、だからこそ神に拠り頼むことを目指す人たちと、主にある兄弟として共同体を形づくる、そういう、イスラエルの国家形成、民族形成の原点となったのでした。 私たちのことを考えましょう。いったい私たちのだれが、神と人の前に「しみじみしている」でしょうか? どこもかしこも病んでいて、傷だらけ、いいところなんてぜんぜんない、それが私たちではないでしょうか? しかし、神さまはそんな私たちのことを選んでくださり、私たちが神さまを愛することを、このようにここに集め、兄弟姉妹としてくださった、お互いを愛することによって、守り行えるようにしてくださったのでした。目に見える兄弟を愛してこそ、私たちは目に見えない神を愛するのです。 私たちは病んでいるから、傷ついているから、時にお互いの愛しにくさが感じられて、受け入れにくくなることもあります。そんなとき、私たちのすることは、この私こそ病んでいる、しかし神さまは、こんな私を愛し、受け入れてくださった、だから私も、少しでも、周りのだれかのことを愛せるようにしてください、愛しにくいあの人のことを愛せるようにしてください、そのように心からお祈りすることです。また、お互いがその、主の弟子としてふさわしい生き方ができるように、お互いのために祈ることです。 さあ、その、兄弟がともに生きる祝福を、ダビデはどのように表現していますでしょうか? 2節です。貴い油。これは、聖霊さまを象徴しています。この油が注がれた人は、祭司として、また、王として、聖別されている人ということです。 ダビデもかつて、油注がれた経験があります。先ほども申しました、エッサイの家にサムエルが訪問したとき、サムエルは野に出て羊を飼っていたダビデを呼びにやらせ、彼の頭に油を注ぎました。そんな、油注ぎという体験をしたダビデは、ひげにしたたるまで、服にしたたるまで、たっぷり聖霊の油注がれた、祭司の中の祭司、アロンの祝福を連想しています。この油注ぎとは、兄弟がともに生きる幸せ、また楽しさだというのです。 実は、先ほどのアドラムの洞穴の話に戻りますと、ダビデはアドラムの洞穴に身を隠す前、サウルの一味から逃れて、ガテの王アキシュのもとに身を避けました。しかし、ガテといえば、あのゴリヤテの出身地です。よりにもよってそんなところに身を避けてしまったダビデは、なお具合の悪いことに、こいつはイスラエルのあの有名なダビデですよ、と、家来たちの手によって、アキシュ王の前に引き出されてしまいました。 すると、ダビデはここで、大芝居を打ちました。頭がおかしいふりをして、柱に傷をつけたり、自分のひげによだれを垂らしたりしました。そう、このときダビデは、ひげという男の象徴、人間の尊厳を示すものを、あろうことか、そんなプライドもかなぐり捨ててでも自分の身を守るために、よだれでべとべとにして汚したのです。ダビデはこのとき、どれほどの絶望に陥っていたことでしょうか。彼は孤独でした。神からも見捨てられたと思ったことでしょう。 そんな彼を癒やしたものが、アドラムにはじまる、まことのイスラエルの共同体、神の民であったわけです。アロンを聖別してまことの祭司に立てた聖霊の油は、主の民という共同体の中に、豊かに流れ、民を潤すのです。 私たちは何者でしょうか? 第一ペテロ2章9節の語るとおりです。私たちは聖霊により聖別され、聖霊の満たしと導きをつねにいただいて、みことばを守り行うべく召されている存在です。私たちはその生き方、語ることばと行いをもって、周りにいるどんな人々に対しても、私たちを召してくださった神さまの素晴らしさを人々に伝えるのです。私たち共同体が聖霊の油注ぎを受けるだけではありません。その油注ぎを、私たちは人々へと流す使命が与えられています。 もうひとつ、この「兄弟たちが一つになってともに生きる幸せ、楽しさ」は、「ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ」とあります。これは、少し解説します。 ヘルモンというのは山の名前で、ダビデが統治した時代において、イスラエル領の最北端に聳えていました。ヘルモン山は、現在でいえばレバノンとシリアの国境にあります。標高は海抜2800メートルを超え、イスラエルから北の方を見ると、その山は一年中雪に覆われていて、イスラエルを見下ろすかのようです。私はインターネットで検索し、イスラエルからのその景色を見てみましたが、白く巨大なその峰々、その雄壮さはものすごいものがあります。言ってみれば、国と民族に伸べられた主の祝福を象徴する山と言えるでしょう。日本にとっての富士、茨城にとっての筑波、いや、それ以上の、民族に対する祝福の象徴。 この雪解けが結ぶ露、そして湧き水が、最終的にはヨルダン川になり、神の民を潤します。ついでに言えば、あのイエスさまの「変貌山」のできごとは、その前におけるイエスさまのご一行の旅程から考えて、「変貌山」はこの「ヘルモン山」であっただろうと考えられています。イスラエルの最高峰、もっとも天に近い場所ですから、天から降りてきたモーセとエリヤにイエスさまが会われるには、たしかにふさわしい場所です。 そうだとすると、このヘルモン山ほど、神の祝福を民に流す象徴としてふさわしい場所はありません。この麗しいヘルモン、天に由来するいのちの真清水を受けて、民の共同体を潤す。その祝福、真清水に潤される祝福は、兄弟がともに住むことにはじまります。 さて、それがなぜヘルモンの露のようか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからだ、ということです。 面白い表現だと思いませんか? とこしえのいのちの祝福を、「命じる」なんですよ? これは、「とこしえのいのちの祝福を人々に分け与えるように命じる」という意味もさることながら、「とこしえのいのちを受ける祝福を命じる」、そして「とこしえのいのちを生きる祝福を命じる」ということになります。 とこしえのいのち、永遠のいのちというものを、イエスさまはヨハネの福音書17章3節で定義していらっしゃいます。これはどういうことか、説明します。人間はみな、もともとが、神から離れた罪人です。しかし人間には、生まれつき「宗教心」とでもいうべきものが備わっています。神を求める心です。問題は、その宗教心すらも、自己中心の罪に汚染されていて、私たちはいかに神を求めても、そこには自己中心の願望が投影されてしまっていて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わることができなくなってしまっています。 だから私たちは、聖書のみことばをお読みすることによって、イエスさまというお方を通じて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わる必要があります。実に聖書のみことばは、父なる神さまがご自身を証しされた、誤りなき不変の真理です。私たち人間はいかに求めても、まことの神さまに到達することはできません。ただ、神さまの側からご自身を啓示してくださっている、そのみことばを知り、そして学ぶことによって、私たちは初めて神さまに出会い、永遠のいのちを生きつづけることができます。 永遠のいのちって何でしょうか? 永遠に、まことのいのちである神さまとともに生きる、ということです。その生き方は、そのまことの神さまを神として生きる、主にある兄弟姉妹との交わりを持ちつづけること、ここからはじまりますし、またそのことによって、その生き方を体験しつづけることができます。私たちのこの存在、そして、主とともに生きる、主にあって交わる、この生き方をもって、人々にまことのいのち、とこしえのいのちを指し示してまいりましょう。