聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節~26節
メッセージ題目:サマリアの女とは私たちのこと
イエスさまのおことばやみわざを記録した四つの福音書には、おもに5種類の人間が登場します。まず、イエスさまのご家族。ヨセフやマリア、弟たち。次に、十二弟子をはじめとした弟子たち。また、イエスさまに群れなしてついてきたり、かと思うとイエスを十字架につけろなんて叫んでみたりする、群衆。また、イエスさまに敵対する宗教指導者や権力者。そして忘れてはならないのは、イエスさまが直接、目を留めてくださる存在です。多くの場合それは一人で、しかも弱い立場にある人です。女性であったり、異邦人であったり、障害を持っていたり、悪霊に取りつかれていたり。
今日の箇所に登場するのも、女性、「サマリアの女」として知られている、ひとりの女性です。彼女はとても不幸な人でした。それについては、のちほど詳しくお話しします。
イエスさまとその弟子の共同体は、バプテスマのヨハネにもまさって、人々にバプテスマを授けるようになりました。それは、自分が衰えてもイエスさまが盛んになることを願った、ヨハネの願いどおりでしたから、その点で問題はありませんでした。しかし、それにパリサイ人が目をつけました。気に入らないやつの芽は早く摘んでしまおう、といったところです。イエスさまはいかに迫害を受けるさだめといっても、犬死にをすべきだったわけではありません。別の場所に逃れてでも、神の国の福音をお語りになるのが、イエスさまのなさるべきことでした。
それでイエスさまは、ユダヤから見てはるか北の、ガリラヤに身を避けることにされました。しかし、ユダヤからガリラヤに行くには、その途中にあるサマリアを通らなければなりませんでした。
前にも「善きサマリア人のたとえ」についてのメッセージでお話ししましたが、サマリアはもともと、歴史的な理由により、人種的にも、宗教的にも、イスラエル人と異邦人が混じり合ってしまった地域です。そんな彼らのことを、宗教的純粋さを保つことに努めてきたユダヤ人は見下げ、毛嫌いしました。サマリア人も、自分たちが彼らからそのように見られていることはよくわかっていて、ユダヤ人とつき合おうとはしませんでした。要するに、ユダヤ人とサマリア人は対立していたのです。
そんなサマリアをユダヤ人が通るのは、本来ならば嫌なことです。避けたいことです。しかし、イエスさまは弟子たちとともに、サマリアの道を進んでいかれました。
イエスさまとその一行は、スカルという町に着きました。そこには、イスラエルの元締めなる先祖ヤコブゆかりの、由緒正しい井戸、「ヤコブの井戸」があり、イエスさまはその井戸端に腰を下ろされました。時は第六時、今の時刻でいえば午後12時、日も高く、暑いさなかでした。
そこに、ひとりの女の人が、水を汲みにやってきました。もちろん彼女はサマリア人です。この女性が「サマリアの女」です。
午後12時のような日の高い、暑い時間には、水汲みになど行ったりしないものです。行くなら、もっと涼しい時間です。そういう時間に水を汲む女たちは集まり、井戸端会議に花を咲かせます。しかし、この女性はどうも、その井戸端会議に加われない事情があった模様です。スカルの町の女たちの、仲間外れになっていた模様です。
イエスさまはこの女性をご覧になり、声をおかけになりました。「わたしに水を飲ませてください。」弟子たちは食べ物を買いに町中へ行っていたので、そこにはイエスさまと、この女性がいるだけでした。この男性、イエスさまがユダヤ人であることは、女性にはわかりました。
女性は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人がサマリア人とつき合いをしなかった事情については、さきほどお話ししたとおりです。そして、この地域も含め、2000年前の世界では、男尊女卑は当たり前でした。だから、サマリア人なのに、女なのに、親しく語りかけてくれる、しかもこの手から水がほしいと言ってくれる、いったい、このユダヤ人の男の人は、どんな人なのだろう……。彼女は不思議に思いました。
イエスさまはおっしゃいます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
イエスさまはいきなり、かなり難解なことをおっしゃいます。なぞかけ、とでもいうようなおことばです。しかし、イエスさまのおっしゃりたかったことは、こういうことです。あなたこそが、水を必要としているのです。その生ける水を、わたしがあなたに与えます。
しかし、彼女はきょとんとしてしまいます。イエスさまにお答えします。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
一応申しますと、この「主よ」は、「私の主なる神さま」と呼びかけているわけではありません。この時点では彼女には、イエスさまのことを「主なる神さま」と信じるだけの信仰はありません。深い霊的な真理を教えてくれているようなこのユダヤ人男性に対し、彼女なりに一定の尊敬を込めて「主よ」と呼びかけていると理解してください。
彼女はもちろん、イエスさまがこの井戸から汲んでくれて、私にその水をくれるもの、と理解するわけです。しかしイエスさまは、汲むための桶も何も持っていらっしゃらないから、あれ? となります。
そして彼女は、それともあなたは、自分のことを、この深くて由緒ある井戸をイスラエルにくれた、ヤコブよりも偉いとでもいうのか? と尋ねます。それは、彼女が自分のことを、私はこの井戸から飲むイスラエルのひとりだ、ヤコブの子孫だ、いったいあなたは何者ですか、と主張することです。
しかし、イエスさまははっきりおっしゃいます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
イエスさまのこのみことば「この水を飲む人はみな、また渇きます」というみことばは、2つの意味があります。ひとつは、私たちが目で見て、手でさわれる、あの、水、これはいったん飲めばもう渇かない、なんてことはなく、飲んでも飲んでも渇くから飲まなければならない。そのように、この世の目に見えるもの、物質的なものは、私たちにとってのほんとうの渇きというものを、潤し、満たすことはできない、ということです。
もうひとつは、自分の血筋や民族がイスラエルだというアイデンティティ、あるいはプライドが、自動的にその人の飢え渇きを潤し、満たしてくれるわけではない、ということです。ユダヤから何と見られようと、イスラエルの一員であることにそれでも誇りを見出していたサマリアの女は、その誇りだけでは満たされず、飢え渇いていたのでした。
イエスさまはおっしゃいます。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてくださいます。
私たちは飢え渇きを満たすために、言い換えれば、心のむなしさや不安をごまかすために、いろいろなものに手を出してきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。あるいは、私たちの生まれ、家族、育ってきた、あるいは住んでいる町や地域、職場、どこの学校を出たか、そういうことで自分を支えようとしてきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。……ただ、イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてあげようと、私たちに近づいてきてくださるのです。
サマリアの女性は、イエスさまとの対話のうちに、このお方こそ、ほんとうの水、生ける水をくださる方だと気づきはじめました。彼女は訴えます。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
もしかするとこの女性は、まだこの時点で、イエスさまのおっしゃることのほんとうの意味が分からず、目に見える井戸から汲み出すような目に見えて手でさわれる、口から飲む水を欲しがっていたのかもしれません。しかし、このときの彼女のことばの端々(はしばし)には、すでに彼女の凄まじい飢え渇きが見て取れます。
「私が渇くことのないように」と言っています。彼女は、渇いていては苦しい、渇いていてはいけない、ということをよくわかっていました。単なる本能的以上のものとして、彼女は心底渇いていたのでした。
「ここに汲みに来なくてもよいように」とも言っています。彼女はたしかに、このヤコブの井戸から水を汲んで飲むことで、イスラエルの一員としてのアイデンティティ、またプライドを保ってはいました。しかし実際のところ、彼女はどうだったか。女たちの井戸端会議にさえ混ぜてもらえず、さびしく一人で暑いさなか、水汲みをするような身でした。民族全体が神の共同体であるべきイスラエルの一員でいるようで、共同体の生活をしているとはとてもいえない、さびしいわが身を、とてもみじめに思っていたのでした。そんなみじめな思いをしてまでして、水汲みになんて来る必要がなくなったなら、どんなにか素晴らしいだろうか。
彼女はイエスさまに水を求めました。しかし、イエスさまは彼女の中にその生ける水が湧き上がるために、ひとつ、取り扱わなければならない問題を示されます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」女性は答えます。「私には夫はいません。」
するとなんと、イエスさまはこんなことをお告げになりました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
イエスさまは全知全能の神さまです。彼女は目の前にいる人が、単なるユダヤ人の男性ではなく、天地万物を創造された全知全能の神さまであること、したがって、この方の語ることばを神のことば、真理のみことばとして受け取る必要がありました。そのことを彼女が知るうえで、イエスさまのこのおことばは充分に強烈です。だれもが隠しておきたいような問題を、あまりにも堂々と明らかにしたわけです。
イエスさまは、単に彼女の隠しておきたい状況を言い当てただけではありません。彼女が、神の民として神によって満たすべき飢え渇きを、男をとっかえひっかえすることによって満たそうとした、その間違った満たし方では決して満たされません、と、明らかになさったのでした。
そうです。彼女が、女たちの井戸端会議に交じれなかった事情が、これでわかります。彼女はきっと、ふしだらとか、あばずれとか、陰口をたたかれたことでしょう。だれにも相手にされません。相手にするのは、彼女のことを利用して欲望を満たそうとする、男の風上にも置けないやつらぐらいでしょう。もちろん、そんな男どもが、彼女の心の奥底の飢え渇きを満たせるはずなど、金輪際ありません。
果たして、サマリアの女はイエスさまのおことばに、恐れを抱きました。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
まず彼女は、自分の秘密を言い当てたこのユダヤ人男性は、預言の力があることを認めました。この人は少なくとも、預言者にちがいない。彼女が言う、先祖たちが礼拝した「この山」とは、ゲリジム山という山で、聖書には申命記に最初に出てきます。ゲリジム山は神を礼拝する場所として、サマリア人の聖地として、大切にされてきました。しかし、この驚くべき預言者につながるユダヤにとっての礼拝すべき場所は、エルサレムであることは常識である。ならば、われわれサマリア人が大切にするゲリジム山と、この神の霊の宿る人が大切にするエルサレム、いったいどちらが、神さまを礼拝すべき場所としてふさわしいのだろうか? こうして彼女の関心は、神ご自身と、神さまを礼拝するということ、言い換えれば、まことの神さまに出会い、お交わりすることへと移っていきました。
イエスさまはおっしゃいます。「女の人よ、わたしを信じなさい。」福音書における「女の人よ」ということばは、高貴な立場にある婦人への呼びかけのことばです。日本語では何と訳すべきでしょうか?「貴婦人よ」もなんか変ですし、ふさわしい訳語がないのでわかりにくいところですが、とにかくこれは、高貴な立場の婦人への呼びかけのことばです。
ですからイエスさまはこのサマリアの女に対し、最高の呼びかけをなさっていることになります。ひとからふしだらとか、あばずれとか呼ばれて当たり前のような彼女は、神の御子、王の王、主の主なるイエス・キリストの御目には、どこまでも高貴な婦人なのです。あなたはわたしにとって大事な人なのです、だから、神であるわたしのことばを信じてください。
イエスさまのおことばは続きます。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」イスラエルの血を引く彼らは、神の民であることを誇りとし、そのアイデンティティを、聖なる場所と定めたところにて礼拝することに求めていました。しかし、ほんらい神にあってひとつであるべきイスラエルは、ゲリジム山で礼拝すべきだ、いや、エルサレムこそが本来の礼拝すべき場所だ、と、分裂し、対立しました。それをイエスさまは、どちらが正しい礼拝の場所であると主張する時代は、神であるわたしが終わらせる、と宣言なさったわけです。
ただし、イエスさまはこうもおっしゃいます。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」つまり、このみことばにおいてイエスさまは、エルサレムにて礼拝するユダヤ人のことを、サマリア人に優先させていらっしゃいます。しかしそれは、サマリア人がユダヤ人に劣っている、という意味では決してありません。そうではなく、救い主は必ず、世界の歴史においてただひとり、この世界に送り込まれるが、それはユダヤ人である、だからユダヤ人はそのことを知って、神の御名の置かれるエルサレムを大切にして礼拝しているのだ、ということを、イエスさまはお語りになっているのです。
イエスさまのおことばは続きます。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
御霊と真理によって父を礼拝する。御霊は聖霊ともいい、神の霊、もっといえば、神ご自身です。神ご自身なる御霊が、私たち人間をそのご主権によってとらえ、私たちをきよめ、礼拝者につくり変えてくださいます。そして、真理とは、神のみことばによってわれわれ人間に明らかにされた、誤りなき神のみこころ、変わることのない神のみこころ、絶対の神のみこころです。私たちはこの真理を、聖書のみことばによって知ることができます。言い換えれば、聖書のみことばが真理そのものです。
神さまがその霊により私たちにそのみこころを示し、私たちは神の偉大さを知り、その偉大さに近づかせなくしている私たちの罪を悟り、それを悔い改めることをもって、私たちは父なる神を礼拝します。いまおささげしているプログラムとしての礼拝の時間はもちろんのこと、御霊の導きによって真理のみことばを神と人の前に守り行うことで、神と神とする生き方、イエスを主とする生き方をもって、霊的な礼拝を、日常生活において、いついかなるときもおささげするのです。
神さまは、そのようにまことに礼拝する人、みこころにかなう礼拝をする人を、何よりも求めていらっしゃいます。だから、私たちクリスチャン、神の民の本分は、なによりも「礼拝」なのであると理解すべきです。
彼女のことばは続きます。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」ここで、彼女がほんとうに飢え渇いていたものとは、実は、メシアなるキリストだったことが明らかになります。イエスさまとの対話は、彼女の飢え渇きを何によって満たすべきか、正確な方向に導いていきました。
そして、イエスさまは決定的なひとことをおっしゃいます。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
おわかりでしょうか? イエスさまがサマリアの女に向かって「わたしに水を飲ませてください」とおっしゃったのは、単に旅の疲れで水がほしかったからではなかったのです。わたしは、メシアとしてあなたを救うことに飢え渇いているのです。さあ、わたしの救いを受け取って、わたしの渇きを癒やしてください。イエスさまがおっしゃりたかったのは、そういうことです。
イエスさまは十字架におかかりになることで、私たちが罪人であるがゆえに私たちに注がれるべき神の怒りを身代わりに受ける、宥めの供え物としてご自身をささげてくださいました。イエスさまはそのようにして十字架の上で刻一刻と死んでゆかれるとき、「わたしは渇く」とおっしゃいました。イエスさまが十字架の上で、みからだがからからに渇くほど、その尊い血潮を流されたのは、私たちが神の御霊という生ける水に潤され、罪と死から救われた者として、永遠に神とともに生きるためでした。私たちが救われ、生きることに、かくもイエスさまは飢え渇いておられたのです。
私たちはサマリアの女のように、ふしだらなあばずれではない、と思っているうちは、私たちにとってイエスさまの十字架はまだリアルなものとなっていません。もっといえば、そう思っているうちは、イエスさまの十字架などまだ必要ではないと思っているのです。しかしそれは、イエスさまを主とする生き方をしていることにはなりません。そんなクリスチャン生活は、主権者なる神を不遜にも、この罪人のために利用しているにすぎないのです。
私たちに必要なのは、私こそサマリアの女だ、と認めることです。男どもに依存しなかろうと、何かに依存してしまっている私たち。スマホでしょうか、夜ふかしでしょうか、お酒でしょうか、ジャンクフードでしょうか。しかし、イエスさまはそんな私たち、イエスさまというお方というものがありながら、イエスさまのことなどほったらかしにしてしまい、その結果飢え渇きをいつまでたっても満たせないで苦しみつづける私たちに、近づいてくださり、「わたしに水を飲ませてくれ!」と言ってくださいます。私たちがその御声に応え、イエスさまと交わりはじめるとき、イエスさまも私もともに潤され、満たされるという、驚くべきことが起こりはじめます。
そして教会とは、イエスさまの与える水に自分たちが潤される、また、イエスさまの与える水に人々を潤す、そんな生き方をともに目指すために、ともにみことばを学び、愛し合い、励まし合い、祈り合う共同体です。この交わりを大切にするとき、私たちはこの世の何者も与えることのできない喜びに満たされます。そのような私たちになりますように祈りましょう。






