聖書箇所;ピリピ人への手紙4章4節~7節
メッセージ題目;思い煩わないでください
もう、お亡くなりになった方ですが、小坂忠さんというゴスペルシンガーの方は、「勝利者」という曲を作詞作曲し、歌っておられました。発表は1997年ですから、もうゴスペルシンガーとしても押しも押されもせぬベテランとなっての作品です。この曲は日本テレビの「誰も知らない泣ける歌」という番組で2008年10月に紹介されていて、知る人ぞ知るよい曲なのですが、もちろんゴスペルソングです。
この曲の中で繰り返し歌われるフレーズは、私たちの胸を打ちます。「勝利者はいつも 苦しみ 悩みながら それでも前に向かう」。そうです。私たちはローマ人への手紙8章のみことばが語るとおり、イエスさまを信じる信仰を持たせていただいて、神さまによって圧倒的な勝利者とならせていただいています。しかし、それなら悩むことなど何もないのか? いいえ、悩みます。この曲を発表された頃の、当の小坂忠さんにしても、その前の年に、長年デュエットを組んできた相棒、岩渕まことさんが独立していかれるということを体験され、苦しみ、悩みの中にあったことがうかがい知れます。
そんな、悩む私たち。思い煩ってしまう私たち。それでも聖書のみことばは、何も思い煩わないでください、と語ります。悩んでしまう私たちは、それでもそのような主のみこころに従順であるために、どのような心構えで生きる必要がありますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。
今日の箇所でパウロは、ピリピの聖徒たちに、3つの勧めをしています。この勧めは、「~なさい」と、命令形になっています。
第一にパウロは、いつも主にあって喜ぶことを命令しています。4節のみことばです。
ピリピ人への手紙が、別名喜びの手紙であることはもう何度も申し上げています。この短い手紙の中に、実に16回も「喜び」とか「喜ぶ」ということばが繰り返されています。この4節のみことばに至っては、短い中で2度も「喜びなさい」と繰り返し命令しています。
パウロはこれだけ「喜ぶ」ということを強調して、なおここで「喜びなさい」と命じています。そうです、「主にあって喜ぶ」ということは、それだけ大事なことです。しかし、私たちはただ喜んでいるわけではありません。「主にあって」喜ぶことが命じられています。「主にあって喜ぶ」ことと、普通に喜ぶこととは、いったいどこがどう違うのでしょうか?
まず、この「いつも喜びなさい」という命令は、聖書の外の箇所にも登場します。テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさい、よく知られたみことばです。
しかし、みことばは一方で、真逆とも思えるようなことを語ってもいます。ヤコブの手紙には4章9節には、こうあります。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ものすごいことばですが、これもみことばである以上、主からのご命令です。このヤコブの手紙のみことばのほうは、どう考えればよろしいのでしょうか?
これはやはり、前後のみことばから、その意味を知るべきです。前の節の8節ではこう語っています。……神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の人たち。心を清めなさい。
私たちは、主に近づくことがまず命令されています。なぜでしょうか? 私たちが主にお近づきすることは、主が喜んでくださることだからです。しかし一方で、私たちは主の御顔を避けて生きたくてたまらない、罪深く自己中心な存在です。厳しく命令されなければ、もはや主に近づこうとすら考えないほど堕落してしまっています。
主の御顔を避けてしまいたいという欲望は、善悪の知識の木の実を食べて、主の御顔を避けて逃げたアダムとエバの時代からすでに、人類の間で始まっていました。罪人である私たちは、神さまから身を避けたくて、避けたくて、たまらない、神さまになんて近づきたくない、近づいたりするもんか、そんな罪深い、堕落した存在になってしまっています。だからこそ私たち罪人は、主に近づきなさいという命令のことばに、あえて、無理にでも耳を傾け、いのちを得る必要があるのです。
しかし、私たちがなんとか主に近づいていのちを得ようとしても、その歩みを妨害するものがあります。それは、私たちの内側に巣食っている罪です。私たちは主に近づくことよりも、罪の暮らしのほうをまだ魅力的と感じて、罪にふけることをやめたくないのです。それほど私たちは罪深い存在です。
もし、罪にふけることをやめないならば、私たちは罪の中で滅びてしまいます。早い話が、死んでしまいます。しかし、神さまは私たちに「生きよ、なぜ死のうとするのか」と、愛の手を伸べてくださっています。その延ばされた御手を私たちは握る必要があります。
そのためにも、私たちは何としてでも、自分のうちにある罪の性質を除き去らなければなりません。心をきよくするのです。それでこそ私たちは、神さまのきよい御手を握ることができます。しかし、心をきよくすることは、自分の努力でなんとかなるものではありません。これもやはり、主の御前に出て行って、聖霊の導きと助けをいただきながら、罪の暮らしから救っていただくしかないことです。どうしても、神さまの御前に行くしかありません。それ以外に方法はありません。
だからこそ、私たちは罪と闘って七転八倒する必要があるわけです。私たちがまだ、罪の暮らしを慕い求める、罪にふけるその思いを、徹底的に切り落としていただく必要があります。それを切り落とすことは一時的には悲しいかもしれませんが、いのちを得るためには、なんとしてでも切り落とさなければなりません。そうです、喜ぶといっても、悲しみに変えるべき喜びとは、主の忌み嫌われる罪にふける喜びのことを指しているのであって、主にあって喜ぶ喜びではありません。
それでは、主にあって喜ぶ喜びとはどのようなものでしょうか? 実は、イエスさまがその喜びの本質を語っておられる箇所が聖書にあります。ヨハネの福音書、16章19節から24節のみことばです。
イエスさまはここで、イエスさまの弟子たちである私たちが受ける喜びについて語っていらっしゃいます。まず、イエスさまの十字架を経験する私たちは悲しみますが、やがてイエスさまの復活を経験して、私たちは喜びます。復活されたイエスさまは、もはや死なれることがありません。私たちの喜びは永遠に続くのです。
そしてその私たちの喜びが満ち満ちたものとなるときは、私たちが復活のイエスさまの御名によって、すべてのものを持っておられる御父に祈り求め、主のご栄光のゆえに与えられるときです。間違えてはなりません。私たちは自分がほしければ何でも、イエスさまの御名によって求めていいわけではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、そういう意味のことではありません。主が、私たちに必要と見ておられると、主にあって確信するものを求めるべきです。
その祈りが的を外しては、せっかくの祈りの時間が無駄になってしまいます。そうならないためには、どうすればいいでしょうか? 普段からみことばをお読みし、そしてお祈りすることです。教会において主にある交わりを兄弟姉妹と保ちながら、自分に対する主のみこころがどこにあるのか、ということを、よく知っておくことです。みこころがよくわからなければ、みことばをとおし、祈りをとおし、交わりをとおして、とにかくよく求める必要があります。そうすれば私たちは、みこころが何かを知ることができるようになります。
では、私たちは何を求める必要があるでしょうか? つい私たちは、お金とか、物とか、仕事の成果とか、そういうものを求めたりしてはいないでしょうか? もちろん、それはそれで大事です。必要ではないわけではありません。あればあるに越したことはありません。しかし、私たちが何よりも求めるべきは、「キリストに似た者となる」ことです。
キリストに似た者となることは、とても難しいことです。こればかりは、主の恵みがなければ不可能です。主が私たちに恵みを施してくださり、私たちをキリストに似た者としてくださることを祈り求めてまいりたいものです。私たちがキリストに似た者に変えられるならば、私たちには、愛やへりくだりやいつくしみといったすばらしい性質が増し加わってまいります。
そして、その取り組みは、ひとりの力でできるものではありません。教会という共同体において「ともに」取り組んでいくべきことです。
ともかくも、イエスさまの復活に思いを巡らし、主との祈りとみことばをとおした交わりによって、主のみこころにかなうように私たちを変えていただく……私たちはそのようにして、主にあって喜ぶものとされるのです。ともに主にあって喜ぶ喜びを体験してまいりましょう。
第二の命令です。パウロは、あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい、と命令しています。
寛容、ということについてともに考えてみたいと思います。コリント人への手紙第一の13章は「愛の章」として有名ですが、パウロが愛というものの性質をこの章において片っ端から列挙する箇所で、いちばん最初に挙げた愛の性質は、「愛は寛容である」ということです。そして聖書には、「神は愛です」ということばがあるとおり、この「愛」とは神さまのご性質そのものです。とすると、このみことばは、「神さまは寛容である」、「イエスさまは寛容である」ということになります。
イエスさまは、たしかに寛容なお方です。私たちは、神さまの正しい基準に満ちているこの聖書という本を手にしているならば、ついこの聖書のみことばを、人を罪に定め、さばくために用いてしまいがちなものです。しかし、私たちがもしそうしているならば、ほんとうにみことばの基準によって人をさばくことができるのは、イエスさまおひとりであるということを、忘れてしまっている、ということになります。
そのようにして人を罪に定める私たちも、さばき主としての権威をお持ちでありながら、じつは寛容なイエスさまによって、その人をさばく自己中心の罪を見過ごしにしていただいていることを、忘れてはなりません。イエスさまの寛容さは、人のすべての罪という罪を十字架の上で身代わりになって負われたということに、窮極的に現れています。
イエスさまの十字架を思うならば、私たちは人に対して寛容にならずにはいられないのではないでしょうか。ピリピ教会の聖徒たちが寛容であったのは、まさしく、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいたことを知っていたからです。
私たちが世に語るべきは、さばきでしょうか、それとも愛でしょうか? このみことばにもありますが、主は近いのです。このみことばが語られてから2000年間、いまだにイエスさまが再臨されていないなどといって、多寡をくくってはなりません。すぐにでもイエスさまは再臨されると考えるべきです。
そのことを知るならば私たちは、救い主イエスさまを伝えずにはいられないでしょう。しかし、それなら私たちは、どのようにしてイエスさまを伝えるのでしょうか? ここではパウロは、あなたがたの寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい、と語っています。
ここでも私たちは、キリストに似た者となることが求められています。世の中は、愛が冷え切っています。またとても暗いです。そのような世に対し、イエスさまの愛を現す生き方をするならば、私たちは人々を、永遠の滅びから永遠のいのちへと導く働きに、用いられることになるのです。
イエスさまの寛容さを現せるのは、イエスさまを心に受け入れている私たちだけです。世の人々は私たちを見て、十字架の上で窮極の寛容さを現されたイエスさまに出会うのです。世の人々がこの上なく寛容なイエスさまに出会えるように、用いられる私たちとなりますようにお祈りいたします。
第三の命令です。パウロは、思い煩わずに願い事を主に知っていただきなさいと命令しています。今日、いちばん強調したいメッセージでもあります。
6節のみことばです。……まずパウロは、思い煩ってはならない、と語っています。そう、私たちは、どうしても思い煩ってしまう存在です。私たちは生身の人間ですし、私たちが渡っているこの世もまた生(なま)ものです。だから私たちは、あれこれ悩むことは避けられないものです。
そういうわけで私たちは、漫画家のみなみななみさんの本のタイトルではありませんが、「信じてたって悩んじゃう」存在です。それでも主は私たちに、「何も思い煩うな」と招いておられます。
その招きの前に自分を差し出してみると、自分は普段、ほんとうにいろいろなことを思い煩っていることに気づかされるのではないでしょうか? なんでこんなことを悩んでいるのだろう? この問題はまだまだ、自分にとっては大きいなあ。
それでは、私たち神の子どもたちは、思い煩う代わりに何をするように招かれているでしょうか? 「願い事を神に知っていただく」ようにです。
しかし、私たちはこんなことを考えてはいないでしょうか? 「神さまは全知全能のお方だから、私が何を願っているか、もうご存知だ。祈る前から何でも知っている。」
それはたしかにそうにはちがいありません。しかし、だったら私たちは祈らなくていいのでしょうか? 祈らないことの言い訳にしてもいいのでしょうか?
私たちは祈りをことばにすることによって、神さまが私たちひとりひとりに実は何を願っていらっしゃるかを、具体的に知ることができます。あまりに肉的な祈り、自己中心の祈りは、聖霊さまが取り除かれます。そして、ほんとうにみこころにかなった祈りへと整えられ、ますますその祈りを、確信をもってささげるようになります。
願い事を主に知っていただく、祈るという行動は、「あらゆる場合に」とあるとおり、いつでも、どんなときでもです。そして「感謝をもってささげる祈りと願いによって」ささげます。だから私たちは、実際にことばにして祈る必要があります。
できればこのお祈りは、黙ってではなく、声に出してお祈りするとよいです。声に出すことで、私たちは自分が何を祈っているかがはっきりわかるようになります。
そして「感謝をもって」、これが大前提です。どういう感謝でしょうか? それは、「主よ、私の祈りを聴いてかなえてくださるお方でいらっしゃいますこと、感謝です」という、主への信頼に満ちた感謝です。私たちが思い煩わずに祈るには、主は必ず祈りをかなえてくださる、信頼すべきお方だと確信する必要があります。
7節のみことばは、そのように祈る者への約束です。お読みします。……すべての理解を超えた神の平安、お分かりでしょうか? 人がどんなに考えても、論理的に理解しようとしても、及びもつかないような平安です。
だから、どんな平安か、というより、だれが与えてくださる平安か、ということが大事になります。イエスさまは語っていらっしゃいます。ヨハネの福音書14章26節と27節です。……助け主なる聖霊が私たちのもとに送られることと、イエスさまが窮極の平安を与えてくださることが並べて述べられています。そうです、肉体をとられたイエスさまはここにともにおられなくても、神ご自身であられる聖霊がイエスさまから送られて、私たちとともにおられ、神さまだけが与えることのできる窮極の平安を与えてくださる……私たちは、三位一体の神さまがともに歩んでくださるすばらしい存在です。このことを忘れてはなりません。
時に私たちを取り巻く問題というものは、とても大きく見えることがあります。しかし、私たちの周りの問題と、主ご自身と、いったいどちらが大きいでしょうか? 言うまでもないでしょう。
私たちが不安や心配で心が押しつぶされそうになっているときも、主はともにいてくださり、私たちのことを心配してくださっています。私たちは、いつもともにいてくださる主と、いつでもともに歩ませていただいている、素晴らしい存在です。
私たちが喜ぶことが求められているのは、復活のイエスさまがいつでもともにいてくださり、私たちの祈りを聴いてくださるからです。私たちがその寛容な心を人々に知らせることが求められているのは、十字架の上で窮極の寛容を示してくださったイエスさまがすぐそばに来ておられるからです。私たちが思い煩わずに願い事を主に知っていただくことが求められているのは、私たちとともに歩んでくださる聖霊が私たちに窮極の平安を与えてくださるからです。
私たちは時に、神さまを見失って不安に陥ったり、心から喜びを失ったり、寛容さをなくしたりします。しかし、そんな私たちだということに気がついても、ああ、私って駄目だなあ、などと思わないでください。神さまは私たちのことを決して見捨てず、忍耐をもって、キリストの似姿に変わるように導いてくださっています。「思い煩わないでください。祈ってください。」神さまの御手にすがり、今日も主にあって喜びつつ歩んでまいりましょう。