思い煩わないでください

聖書箇所;ピリピ人への手紙4章4節~7節   メッセージ題目;思い煩わないでください  もう、お亡くなりになった方ですが、小坂忠さんというゴスペルシンガーの方は、「勝利者」という曲を作詞作曲し、歌っておられました。発表は1997年ですから、もうゴスペルシンガーとしても押しも押されもせぬベテランとなっての作品です。この曲は日本テレビの「誰も知らない泣ける歌」という番組で2008年10月に紹介されていて、知る人ぞ知るよい曲なのですが、もちろんゴスペルソングです。  この曲の中で繰り返し歌われるフレーズは、私たちの胸を打ちます。「勝利者はいつも 苦しみ 悩みながら それでも前に向かう」。そうです。私たちはローマ人への手紙8章のみことばが語るとおり、イエスさまを信じる信仰を持たせていただいて、神さまによって圧倒的な勝利者とならせていただいています。しかし、それなら悩むことなど何もないのか? いいえ、悩みます。この曲を発表された頃の、当の小坂忠さんにしても、その前の年に、長年デュエットを組んできた相棒、岩渕まことさんが独立していかれるということを体験され、苦しみ、悩みの中にあったことがうかがい知れます。  そんな、悩む私たち。思い煩ってしまう私たち。それでも聖書のみことばは、何も思い煩わないでください、と語ります。悩んでしまう私たちは、それでもそのような主のみこころに従順であるために、どのような心構えで生きる必要がありますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  今日の箇所でパウロは、ピリピの聖徒たちに、3つの勧めをしています。この勧めは、「~なさい」と、命令形になっています。  第一にパウロは、いつも主にあって喜ぶことを命令しています。4節のみことばです。  ピリピ人への手紙が、別名喜びの手紙であることはもう何度も申し上げています。この短い手紙の中に、実に16回も「喜び」とか「喜ぶ」ということばが繰り返されています。この4節のみことばに至っては、短い中で2度も「喜びなさい」と繰り返し命令しています。  パウロはこれだけ「喜ぶ」ということを強調して、なおここで「喜びなさい」と命じています。そうです、「主にあって喜ぶ」ということは、それだけ大事なことです。しかし、私たちはただ喜んでいるわけではありません。「主にあって」喜ぶことが命じられています。「主にあって喜ぶ」ことと、普通に喜ぶこととは、いったいどこがどう違うのでしょうか?  まず、この「いつも喜びなさい」という命令は、聖書の外の箇所にも登場します。テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさい、よく知られたみことばです。  しかし、みことばは一方で、真逆とも思えるようなことを語ってもいます。ヤコブの手紙には4章9節には、こうあります。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ものすごいことばですが、これもみことばである以上、主からのご命令です。このヤコブの手紙のみことばのほうは、どう考えればよろしいのでしょうか?  これはやはり、前後のみことばから、その意味を知るべきです。前の節の8節ではこう語っています。……神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の人たち。心を清めなさい。  私たちは、主に近づくことがまず命令されています。なぜでしょうか? 私たちが主にお近づきすることは、主が喜んでくださることだからです。しかし一方で、私たちは主の御顔を避けて生きたくてたまらない、罪深く自己中心な存在です。厳しく命令されなければ、もはや主に近づこうとすら考えないほど堕落してしまっています。  主の御顔を避けてしまいたいという欲望は、善悪の知識の木の実を食べて、主の御顔を避けて逃げたアダムとエバの時代からすでに、人類の間で始まっていました。罪人である私たちは、神さまから身を避けたくて、避けたくて、たまらない、神さまになんて近づきたくない、近づいたりするもんか、そんな罪深い、堕落した存在になってしまっています。だからこそ私たち罪人は、主に近づきなさいという命令のことばに、あえて、無理にでも耳を傾け、いのちを得る必要があるのです。  しかし、私たちがなんとか主に近づいていのちを得ようとしても、その歩みを妨害するものがあります。それは、私たちの内側に巣食っている罪です。私たちは主に近づくことよりも、罪の暮らしのほうをまだ魅力的と感じて、罪にふけることをやめたくないのです。それほど私たちは罪深い存在です。  もし、罪にふけることをやめないならば、私たちは罪の中で滅びてしまいます。早い話が、死んでしまいます。しかし、神さまは私たちに「生きよ、なぜ死のうとするのか」と、愛の手を伸べてくださっています。その延ばされた御手を私たちは握る必要があります。  そのためにも、私たちは何としてでも、自分のうちにある罪の性質を除き去らなければなりません。心をきよくするのです。それでこそ私たちは、神さまのきよい御手を握ることができます。しかし、心をきよくすることは、自分の努力でなんとかなるものではありません。これもやはり、主の御前に出て行って、聖霊の導きと助けをいただきながら、罪の暮らしから救っていただくしかないことです。どうしても、神さまの御前に行くしかありません。それ以外に方法はありません。  だからこそ、私たちは罪と闘って七転八倒する必要があるわけです。私たちがまだ、罪の暮らしを慕い求める、罪にふけるその思いを、徹底的に切り落としていただく必要があります。それを切り落とすことは一時的には悲しいかもしれませんが、いのちを得るためには、なんとしてでも切り落とさなければなりません。そうです、喜ぶといっても、悲しみに変えるべき喜びとは、主の忌み嫌われる罪にふける喜びのことを指しているのであって、主にあって喜ぶ喜びではありません。  それでは、主にあって喜ぶ喜びとはどのようなものでしょうか? 実は、イエスさまがその喜びの本質を語っておられる箇所が聖書にあります。ヨハネの福音書、16章19節から24節のみことばです。  イエスさまはここで、イエスさまの弟子たちである私たちが受ける喜びについて語っていらっしゃいます。まず、イエスさまの十字架を経験する私たちは悲しみますが、やがてイエスさまの復活を経験して、私たちは喜びます。復活されたイエスさまは、もはや死なれることがありません。私たちの喜びは永遠に続くのです。  そしてその私たちの喜びが満ち満ちたものとなるときは、私たちが復活のイエスさまの御名によって、すべてのものを持っておられる御父に祈り求め、主のご栄光のゆえに与えられるときです。間違えてはなりません。私たちは自分がほしければ何でも、イエスさまの御名によって求めていいわけではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、そういう意味のことではありません。主が、私たちに必要と見ておられると、主にあって確信するものを求めるべきです。  その祈りが的を外しては、せっかくの祈りの時間が無駄になってしまいます。そうならないためには、どうすればいいでしょうか? 普段からみことばをお読みし、そしてお祈りすることです。教会において主にある交わりを兄弟姉妹と保ちながら、自分に対する主のみこころがどこにあるのか、ということを、よく知っておくことです。みこころがよくわからなければ、みことばをとおし、祈りをとおし、交わりをとおして、とにかくよく求める必要があります。そうすれば私たちは、みこころが何かを知ることができるようになります。  では、私たちは何を求める必要があるでしょうか? つい私たちは、お金とか、物とか、仕事の成果とか、そういうものを求めたりしてはいないでしょうか? もちろん、それはそれで大事です。必要ではないわけではありません。あればあるに越したことはありません。しかし、私たちが何よりも求めるべきは、「キリストに似た者となる」ことです。  キリストに似た者となることは、とても難しいことです。こればかりは、主の恵みがなければ不可能です。主が私たちに恵みを施してくださり、私たちをキリストに似た者としてくださることを祈り求めてまいりたいものです。私たちがキリストに似た者に変えられるならば、私たちには、愛やへりくだりやいつくしみといったすばらしい性質が増し加わってまいります。  そして、その取り組みは、ひとりの力でできるものではありません。教会という共同体において「ともに」取り組んでいくべきことです。  ともかくも、イエスさまの復活に思いを巡らし、主との祈りとみことばをとおした交わりによって、主のみこころにかなうように私たちを変えていただく……私たちはそのようにして、主にあって喜ぶものとされるのです。ともに主にあって喜ぶ喜びを体験してまいりましょう。  第二の命令です。パウロは、あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい、と命令しています。  寛容、ということについてともに考えてみたいと思います。コリント人への手紙第一の13章は「愛の章」として有名ですが、パウロが愛というものの性質をこの章において片っ端から列挙する箇所で、いちばん最初に挙げた愛の性質は、「愛は寛容である」ということです。そして聖書には、「神は愛です」ということばがあるとおり、この「愛」とは神さまのご性質そのものです。とすると、このみことばは、「神さまは寛容である」、「イエスさまは寛容である」ということになります。  イエスさまは、たしかに寛容なお方です。私たちは、神さまの正しい基準に満ちているこの聖書という本を手にしているならば、ついこの聖書のみことばを、人を罪に定め、さばくために用いてしまいがちなものです。しかし、私たちがもしそうしているならば、ほんとうにみことばの基準によって人をさばくことができるのは、イエスさまおひとりであるということを、忘れてしまっている、ということになります。  そのようにして人を罪に定める私たちも、さばき主としての権威をお持ちでありながら、じつは寛容なイエスさまによって、その人をさばく自己中心の罪を見過ごしにしていただいていることを、忘れてはなりません。イエスさまの寛容さは、人のすべての罪という罪を十字架の上で身代わりになって負われたということに、窮極的に現れています。  イエスさまの十字架を思うならば、私たちは人に対して寛容にならずにはいられないのではないでしょうか。ピリピ教会の聖徒たちが寛容であったのは、まさしく、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいたことを知っていたからです。  私たちが世に語るべきは、さばきでしょうか、それとも愛でしょうか? このみことばにもありますが、主は近いのです。このみことばが語られてから2000年間、いまだにイエスさまが再臨されていないなどといって、多寡をくくってはなりません。すぐにでもイエスさまは再臨されると考えるべきです。  そのことを知るならば私たちは、救い主イエスさまを伝えずにはいられないでしょう。しかし、それなら私たちは、どのようにしてイエスさまを伝えるのでしょうか? ここではパウロは、あなたがたの寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい、と語っています。  ここでも私たちは、キリストに似た者となることが求められています。世の中は、愛が冷え切っています。またとても暗いです。そのような世に対し、イエスさまの愛を現す生き方をするならば、私たちは人々を、永遠の滅びから永遠のいのちへと導く働きに、用いられることになるのです。  イエスさまの寛容さを現せるのは、イエスさまを心に受け入れている私たちだけです。世の人々は私たちを見て、十字架の上で窮極の寛容さを現されたイエスさまに出会うのです。世の人々がこの上なく寛容なイエスさまに出会えるように、用いられる私たちとなりますようにお祈りいたします。  第三の命令です。パウロは、思い煩わずに願い事を主に知っていただきなさいと命令しています。今日、いちばん強調したいメッセージでもあります。  6節のみことばです。……まずパウロは、思い煩ってはならない、と語っています。そう、私たちは、どうしても思い煩ってしまう存在です。私たちは生身の人間ですし、私たちが渡っているこの世もまた生(なま)ものです。だから私たちは、あれこれ悩むことは避けられないものです。  そういうわけで私たちは、漫画家のみなみななみさんの本のタイトルではありませんが、「信じてたって悩んじゃう」存在です。それでも主は私たちに、「何も思い煩うな」と招いておられます。  その招きの前に自分を差し出してみると、自分は普段、ほんとうにいろいろなことを思い煩っていることに気づかされるのではないでしょうか? なんでこんなことを悩んでいるのだろう? この問題はまだまだ、自分にとっては大きいなあ。  それでは、私たち神の子どもたちは、思い煩う代わりに何をするように招かれているでしょうか? 「願い事を神に知っていただく」ようにです。  しかし、私たちはこんなことを考えてはいないでしょうか? 「神さまは全知全能のお方だから、私が何を願っているか、もうご存知だ。祈る前から何でも知っている。」  それはたしかにそうにはちがいありません。しかし、だったら私たちは祈らなくていいのでしょうか? 祈らないことの言い訳にしてもいいのでしょうか?  私たちは祈りをことばにすることによって、神さまが私たちひとりひとりに実は何を願っていらっしゃるかを、具体的に知ることができます。あまりに肉的な祈り、自己中心の祈りは、聖霊さまが取り除かれます。そして、ほんとうにみこころにかなった祈りへと整えられ、ますますその祈りを、確信をもってささげるようになります。  願い事を主に知っていただく、祈るという行動は、「あらゆる場合に」とあるとおり、いつでも、どんなときでもです。そして「感謝をもってささげる祈りと願いによって」ささげます。だから私たちは、実際にことばにして祈る必要があります。  できればこのお祈りは、黙ってではなく、声に出してお祈りするとよいです。声に出すことで、私たちは自分が何を祈っているかがはっきりわかるようになります。  そして「感謝をもって」、これが大前提です。どういう感謝でしょうか? それは、「主よ、私の祈りを聴いてかなえてくださるお方でいらっしゃいますこと、感謝です」という、主への信頼に満ちた感謝です。私たちが思い煩わずに祈るには、主は必ず祈りをかなえてくださる、信頼すべきお方だと確信する必要があります。  7節のみことばは、そのように祈る者への約束です。お読みします。……すべての理解を超えた神の平安、お分かりでしょうか? 人がどんなに考えても、論理的に理解しようとしても、及びもつかないような平安です。  だから、どんな平安か、というより、だれが与えてくださる平安か、ということが大事になります。イエスさまは語っていらっしゃいます。ヨハネの福音書14章26節と27節です。……助け主なる聖霊が私たちのもとに送られることと、イエスさまが窮極の平安を与えてくださることが並べて述べられています。そうです、肉体をとられたイエスさまはここにともにおられなくても、神ご自身であられる聖霊がイエスさまから送られて、私たちとともにおられ、神さまだけが与えることのできる窮極の平安を与えてくださる……私たちは、三位一体の神さまがともに歩んでくださるすばらしい存在です。このことを忘れてはなりません。  時に私たちを取り巻く問題というものは、とても大きく見えることがあります。しかし、私たちの周りの問題と、主ご自身と、いったいどちらが大きいでしょうか? 言うまでもないでしょう。  私たちが不安や心配で心が押しつぶされそうになっているときも、主はともにいてくださり、私たちのことを心配してくださっています。私たちは、いつもともにいてくださる主と、いつでもともに歩ませていただいている、素晴らしい存在です。  私たちが喜ぶことが求められているのは、復活のイエスさまがいつでもともにいてくださり、私たちの祈りを聴いてくださるからです。私たちがその寛容な心を人々に知らせることが求められているのは、十字架の上で窮極の寛容を示してくださったイエスさまがすぐそばに来ておられるからです。私たちが思い煩わずに願い事を主に知っていただくことが求められているのは、私たちとともに歩んでくださる聖霊が私たちに窮極の平安を与えてくださるからです。  私たちは時に、神さまを見失って不安に陥ったり、心から喜びを失ったり、寛容さをなくしたりします。しかし、そんな私たちだということに気がついても、ああ、私って駄目だなあ、などと思わないでください。神さまは私たちのことを決して見捨てず、忍耐をもって、キリストの似姿に変わるように導いてくださっています。「思い煩わないでください。祈ってください。」神さまの御手にすがり、今日も主にあって喜びつつ歩んでまいりましょう。

一致を目指して歩むために

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1~3   メッセージ題目;一致を目指して歩むために  男子校で思春期を過ごした私にはいまひとつわからないことですが、女性の方は集団になると、けんかがつきものとか? たまに聞いて戸惑います。  では、これが、みなが主にあって仲良くなることをともに目指す共同体である「教会」ならばどうでしょうか? それなら、女性どうしのけんかに周りが手を焼くことなどないものでしょうか? しかし……今日の本文を見てみると、ピリピ教会では、ユウオディアという人と、シンティケという人の間で、何かあったらしい。ということがわかります。4節を見ると、「彼女たち」、そう、これは「姉妹たち」どうしのけんかです。なんともはや、女の戦いは教会という場でも繰り広げられていたのでありました。  あえて申しあげるまでもないことですが、一般的に教会という共同体は、どちらかというと女性が多く集まる場所です。それだけに、こういう「女の戦い」という問題は、下手をするとついて回ることにもなりかねないわけです。だから私たち教会は、この問題を賢く取り扱うことが必要です。そうするにはどうすればいいか、そのようにして私たちがなお愛し合う共同体として成長するには何が必要か、今日の本文から、ともに見てまいりたいと思います。  と申しましても、ピリピ人への手紙は、ほかの箇所にも言えることですが、これこれこういうケースにはこう対処しなさい、といった、具体的な説明のようなことを書いているわけではありません。私たちがこの書簡から読み取るべきは、むしろ、その場合場合に応じた「態度」を、神さまと人々の前でどう取るべきか、という、心構えのあり方ではないでしょうか。私たち教会を取り巻く状況は、時代によっても、地域によっても、一つとして同じものはありません。みことばから教えられていかに具体的に適用するかは、私たちにかかっています。  1節のみことばです。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めていますでしょうか? お読みします。  パウロはピリピ教会のメンバーのことを、私の愛し慕う兄弟たち、と呼んでいます。この「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられています。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけです。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることです。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っている、その愛を体感しているから、そのように兄弟姉妹を愛したい。これこそ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みです。私たちはともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっています。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越えます。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し慕っていると語っています。ただ愛するのではありません、慕っているのです。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということです。特別な関係です。主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはだれかのことを「慕う」ことができるようになります。  愛するということなら、主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることです。しかし、慕うということは、特別な関係へと導き入れられている者がすることです。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたいと思います。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるでしょうか? もし、そのような存在がいらっしゃるならば、それはとても素晴らしいことです。その関係を大事にしていただきたいのです。  その愛し慕えるほどになる関係は、意識してはぐくむものです。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだ、その姿をご覧ください。ヨナタンの心が、ゴリヤテを倒したダビデにしっかり結びついたとき、ヨナタンはダビデに対し、ほんとうの王になるべきはじぶんではなく、ダビデだ、と確信しました。そのように確信したしるしとして、王子を王子ならしめているとさえいえる力の象徴、王子の武器をダビデにあげて、君こそイスラエルのために戦う牧者だ、と、宣言しました。このできごとは、ヨナタンが、よろいかぶとを身につけて剣を振るって戦ったことなど皆無だったダビデに、正しい武器の戦い方を伝授するために手取り足取りヨナタンが教えてあげたことを彷彿とさせます。  そのように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたいものです。しかしもしかしたら、私たちには、そこまで愛し慕う対象はいない、と思うかもしれません。もしそうでしたら、どうかその対象を心から慕い求めていただきたいのです。異性ではなく、男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めてまいりましょう。先週ですが、私は牧会についてあることでアドバイスがほしくて、同い年で大学時代から付き合いがあり、牧師としては先輩にあたる、武安先生という方に電話しました。愛知県で牧会しているので、距離的にはとても遠いのですが、いざというときには電話のやり取りをする仲、これ、愛し慕う関係だなあ、と思います。  1節に戻ります。パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばにも、ほかのピリピ書のみことばでもよく用いているように、「喜び」ということばを用いています。ピリピ人への手紙が喜びの手紙なのは、それはピリピ教会こそが、パウロの喜びそのものだったからです。  先ほどから申していますが、私たちに愛し慕う対象がいたとします。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるでしょうか? ちょっとためらってはしまわないでしょうか? まあ、あんまりそういうふうに表現することは日本ではふつうしませんからね。しかし、パウロは心からそう言えたのです。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びでした。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じです。私にとりましても、うちの娘たちは目に入れても痛くないほどかわいい存在です。親ばかと言われようと平気です。そのとおり、いかにも私は親ばかです。これは、子どもを持つ親ならば、だれしもそう思うのが自然でしょう。子どもを持つ者は、御父がご自身の子どもたちである私たちに向けられた愛を、そして、ひとり子イエスさまに向けられた愛を、ほんの少しでも体験できる、という、素晴らしいポジションにおります。  定説として、パウロは結婚していなかったことになっています。ということは、子どももいなかったことになります。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注ぎました。それは、ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったからです。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いています。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことですが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わります。  そしてふつう親ならば、喜んで子育てをします。子育ても大変な労力を必要としますが、親ならばその労を惜しみません。それは、子どもの存在そのものが喜びだからです。パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げました。それは、主を愛していたからですし、主から自分に割り当てられた羊の群れがたまらなく愛おしかったからです。羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げました。  子育てをするとき、問題になる場合があるとしたら、それは、子どものためにならず、親のエゴを押しつけてしまうような場合でしょう。子どもを過度に甘やかすことも、がみがみと叱りすぎることも、元をただせば子どものためを思ってしていることなのか、それとも親の自己満足のためにしていることなのか、よく考えてみる必要があります。私も偉そうなことは言えません。私も子どものためを思って行動しているようで、ほんとうのところ、親である自分の虚栄心のために子どもを操ろうとしているのではないか、問われる思いになることが多くあります。まだまだ、子どもの存在そのもので喜びを満たすことを、私は学ぶ必要があります。  パウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまりません。「冠」と呼んでさえいます。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンです。HTマークなら阪神ファン。間違っても、阪神ファンはYGマークの帽子はかぶりませんし、逆もまたしかり。 冠だったらどうでしょうか? ここでいう冠は、お祝いの時にかぶる花の冠、あるいは、マラソンの勝者がかぶるような月桂冠。栄光あふれて冠をかぶります。彼らは間違っても、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはなりません。 逆に言えば、マラソンの敗者とか、お祝いにふさわしくない人は、そういう冠をかぶってはいけません。当たり前です。しかし考えてみましょう。私たちは果たして、冠をかぶらせていただくにふさわしい人など、いるものでしょうか? みんな罪人ではないですか。ふさわしくないったらありゃしないわけです。そんな、ふさわしくない私たちが本来かぶるべきは、「灰」です。しかし、神さまは、私たちのことを、イエスさまの十字架をもって救ってくださいました。神さまご自身が救ってくださり、きよめてくださった存在に似合うものは「灰」ではないと、神さまは私たちに、灰の代わりに冠をかぶらせてくださいました。  そして、ここでパウロは、ピリピ教会を「(私の)冠」と呼んでいます。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのでしょうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出しましたが、そもそも、われら終わりの日の勝者を「月桂冠」を与えられるスポーツ選手に例えたのは、パウロです。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお開きください。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べています。何のために自制するのでしょうか? コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その指導者としてふさわしくあるように自制するのです。また、何を目標とするのでしょうか? 信徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標です。その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さないのです。これぞ、牧者のあるべき姿です。 そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけです。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいますが、その冠がどんなものか、イメージできますでしょうか? パウロは、教会の兄弟姉妹であるとはっきり語りました。  救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのです。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っていますでしょうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ合い、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」です。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのです。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めています。教会は、締まりも必要ですし、秩序も必要です。創造主もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられています。 さて、そこでパウロは、ピリピ教会がしっかりと主にあって立つために、ひとつの提言をしています。2節、3節のみことばです。 まず2節からまいりましょう。ユウオディアとシンティケは、さきほども申しましたが、このピリピ教会の女性の信徒でした。しかも、このようにわざわざパウロが名前を出すくらいですから、教会に少なからぬ影響力を及ぼす姉妹だったと推測されます。ピリピ教会はルーツからして、紫布商人ルディアが創立メンバーでしたから、女性の力が大きかったことは充分考えられます。 そして、その姉妹たちが、「主にあって同じ思いになってください」と言われています。何があったのでしょうか? そうです、どうやら彼女たちは仲たがいをしていたか、ひとつの教会にありながら別々に行動していたか、そういう行動をしていたことで、その不一致が教会によくない影響を及ぼしていたのでした。 これは、ありえることです。聖徒というものはそれぞれが神さまとの交わりを持ち、示されるみことばも、それをそれぞれの生活に適用する方式も、みな異なっています。それは当然のことです。 そうは言いましても、そのように自分に示されたみこころが絶対だとばかりに振る舞い、ほかの兄弟姉妹がそれに同意しなかったり、従わなかったりしなかったら機嫌を悪くしたり、ひどいときには仲間をつくって教会を分裂に追い込んだり……そうなったら、教会は教会として立ち行かなくなります。 教会を健全に保つには、教会の中心メンバーが一致している必要があります。ただ、それぞれの性格や価値観のちがいのせいで一致できないでいるならば、そのちがいばかりに目を留めていると、いつまでたっても一致することはできません。 パウロは何と語っていますでしょうか? 「主にあって同じ思いになってください」と語っています。彼らはいろいろ一致できない点があるとしても、ひとつ、窮極的に一致している部分があります。それは、同じ主につながっている、ということです。それぞれが主との強力な交わりを保ち、その主との交わりを保ちつつお互いに近づいていけば、必ず一致できるわけです。私たちもこのような一致を目指す必要があります。そのためにもまず、主との交わりをしっかり保つ必要があります。そうすれば一致します。 そうは言いましても、パウロ自身も分裂というものを体験していました。宣教チームにいたマルコの処遇を巡って、自分にとっては師匠のような存在であったバルナバと対立し、その結果、別々のチームを組んで、まったくちがった場所でそれぞれが宣教することになりました。しかしこれは、一見すると分裂のようでも、その結果、バルナバとパウロ、それぞれ充分に有能なリーダーが率いる宣教チームが、これまでの「二倍」働いたことになるので、結局、素晴しい働きとなりました。 しかし、ユウオディアとシンティケの不一致の場合は、パウロとバルナバのような生産的なチーム解散をなんら生み出すものではない、これを放っておいたらピリピ教会は弱体化する一方だと、パウロは判断しました。どうしてもしかたなく不一致に陥ってしまった場合は、主のご介入と回復といやしを求めるのみですが、まずは私たちが、主と強力に結びついて、互いを自分よりもまさった存在であると心から思わせていただいて、互いに一致していくべく努める必要があります。 3節には、特定の人物が匿名で登場します。この手紙を優先的に受け取って読めるポジションにあった、パウロなきあとのピリピ教会の中心人物でしょう。この人物にパウロは、ユウオディアとシンティケが主にあって正しい歩みができるように、助けてあげてほしい、と懇願しています。それは、クレメンスをはじめ、パウロの同労者たちとともに、福音を広めるために力を合わせて戦ってくれたからだ、というわけです。 みことばを宣べ伝える働きに献身するのは、実に素晴らしいことです。しかし、そのような熱心な働き人には、罠が待ち受けています。その宣教の働きの結果、例えば人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるとか、人が新たに働き人として献身するとか、そのような目に見える実を結んだ場合、それが自分の手柄のように思いこんでしまう、ということです。そうなった場合、自分の学んだ神学こそ素晴らしく、自分の身に着けている宣教のスキルこそ素晴らしいという、ともすればほかの働き人を認めない、独善的な考えに陥ってしまいます。 ユウオディアとシンティケも、宣教という働きのためにパウロと心をひとつにして戦い、多くの実を見ました。そんな大事な働き人だけに、くれぐれも主にあって一致することを忘れないでほしい……そのようにパウロは語っています。 私たちは、お互いが素晴らしい働き人です。ここでパウロが語っているユウオディアとシンティケは、いまここにいる私たち全員です。パウロが愛してやまないピリピ教会は、いまここにいる私たちです。私たちも主にあって一致することが求められています。 さて、あらためて1節に戻ります。パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのでしょうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのでした。 そうです、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまです。それほど私たちはイエスさまに愛され、慕われてています。イエスさまはいつも、私たちのことを思っていてくださいます。だからイエスさまは私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださいます。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださいます。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを飾るのです。その日を目指して、今日も進むのみです。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在です。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができるのです。なんと麗しいことでしょうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合うような気持ちで、今日も、そしてこれからも、私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、ともに歩んでまいりましょう。