私たちの目標

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章1節~16節 メッセージ題目:私たちの目標  今年9月、東京で実に34年ぶりに、世界最大の陸上競技の祭典、世界陸上が開催されます。やはり気になるのは日本人の選手ですか、マスコミでは名前を挙げてその動向に注目しています。力強く走る、跳ぶ、投げる……この姿は、見ているだけで人々をわくわくさせます。  今回のメッセージのタイトルは「私たちの目標」とつけさせていただきました。本文13節と14節のみことばからつけました。このピリピ人への手紙の書かれた時点でもローマ帝国には体育大会がありました。古代オリンピックです。オリンピックの花形といえばマラソンや短距離走のような走る競技ですが、古代のオリンピックにも、短距離走、中距離走、長距離走が種目として存在していました。そのように、競技として、走る、ということは、このピリピ人への手紙の時代からローマ帝国において広く普及していたというわけです。  選手は走ります。当たり前です。しかし、彼ら選手はただいっしょうけんめいに走っているわけではありません。どんな選手もゴールを目指して、コースを外れないで走ります。どんなに速く走れたとしても、コースを外れてあさっての方向に行く人は失格となります。同じように私たちも、明確なゴールに向かっていっしょうけんめい走るように生きるから、人生は美しいし、意味があるのです。さあ、それでは、私たちが走るように生きるとはどのようなことでしょうか? 今日の本文、ピリピ人への手紙3章1節から16節までをテキストに、ともに学びたいと思います。  まずは1節からまいります。……パウロはここでも「喜びなさい」と語っています。しかし、こうして何度も「喜びなさい」と語るのは煩わしいことではない、むしろあなたがたの安全のためになることであると語っています。  喜ぶことが教会の安全のためになるとは、どういうことでしょうか? 2節以下をお読みしますと、何に対して安全になるのかを語っています。まずは2節です。……。  ここでパウロは、3種類の人間から身を避けるようにと警告しています。  まず、犬、と言っています。みなさんの中で、ワンちゃんをペットにしていらっしゃる方には申し訳ないのですが、聖書は、しばしばこの「犬」という動物を、否定的な存在の象徴としています。「野犬」とでも言えばわかりやすいでしょうか。狂暴な野犬はとても手なずけられるようなものではありません。獰猛すぎたり、悪い病気など持っていたりしら、噛まれたらいのちがありません。そういうものはひたすらに避ける必要があります。あるいは、野犬でなかったとしても、組長さんの番犬みたいに、恐い人間の飼っている大型犬などからも身を避ける必要があるでしょう。  要するにこの「犬」とは、善良な兄弟姉妹を食い荒らすような存在のことを指します。以前から「新使徒運動」というものが問題になっていますが、これは一種の形を変えたシャーマニズムで、特定の働き人を使徒クラスの特別な「主の器」に祭り上げます。このムーブメントは教団教派を横断して、組織すらもつくらないで教会に入り込んで食い荒らす分、こんにち社会問題になっている「トクリュウ」の教会版と言えるかもしれません。私たちはこのような攻撃に対して、丸腰であってはなりません。  悪い働き人にも気をつけなさい、とあります。これは、内部から起こる問題です。教会で働く働き人は本来、主の素晴らしさを現すために自分自身を差し出、教会にてへりくだって奉仕すべきです。しかし悪い働き人は、自分が偉くなるために教会を利用します。教会の中でひたすらに威張りたがり、みんなから先生と呼ばれたがります。あるいは、タラントを土の中に埋めたしもべのように、なまけて何もしません。教会の人たちはみんなやさしいと、そういう悪い働き人を許容してしまうことにもなりかねないわけです。  肉体だけの割礼の者。これも気をつけるべき対象です。割礼は、ユダヤ人の男性が受けるものであり、割礼を受けているということは、自分は主の民であるという自負心の強い人であるわけです。  しかしそのことは、実際に救っていただいて主の民に加えていただいているかどうかとは、何の関係もありません。だが、名目上、主の民のように振る舞っているならば、うかうかしているとそういう人を、教会は同じ主の民として受け入れてしまいます。するとこれまたうかうかしていると、イエスさまの十字架によってのみ救われるという正しい福音が、そういう者たちによっていつの間にかゆがめられてしまう、ということが起こってくるわけです。やはり気をつける必要があります。  肉体だけの割礼の者、それはこんにちで言えば、洗礼を受けたという事実だけにすがっている凡庸なクリスチャン、と言えるでしょう。そういう存在は長期的に、教会という共同体を病ませることになっていきます。  では、そういう者たちに気をつけることと「喜ぶ」ことが、どうつながるのでしょうか? 3節です。……ここに、パウロやピリピ教会のメンバーのようなクリスチャンの特徴が3つ書かれています。  まず、御霊によって礼拝する人たちです。私たちは、御霊に満たされ、御霊に導かれてこそ、ほんとうの礼拝をささげることができます。私たちは、聖書をお読みし、また、聖書にのっとった信仰告白を賛美という形でおささげしますが、そのとき、心からそのみことば、また信仰告白に同意することです。そのように、私たちが謙遜に自分自身をみことばに合わせ、へりくだるように、御霊は働き、私たちをまことの礼拝者へとつくり変えてくださいます。そのようにして御霊によって礼拝するならば、私たちは自己中心を捨て、主中心の生き方へと導かれてまいります。ゆえに私たちは、御霊の満たしと導きをつねに求めるものです。  第二に、キリスト・イエスを誇り、とあります。肉体だけの割礼の者は主の民であるように見えても、キリスト・イエスとつながってはいません。イエスさまこそが道であり、真理であり、いのちです。イエスさまを通らなければ御父のもとに行くことはありません。人間的な割礼などでは、御父に認めていただくことなどできないのです。私たちの誇りとすべきはイエスさまのみです。私たちはもはや自分が生きているのではなく、キリストがうちに生きている存在です。そのような者である以上、キリストを誇りとして生きるのは自然なことであり、また当然のことであります。  そして第三に、肉を頼みとしません。人はだれしも、自分の自慢したいものを持っているものです。そういうものが自分の人生を支えていると人は思ってしまいがちなものですが、しかし、イエスさまに比べれば、学歴も、頭のよさも、豊富な知識も、地位も、名誉も、財産も、みな取るに足りないものです。  そのように、御霊によって礼拝をし、キリストを誇りとし、肉を頼みとしないならば、そのような人はどうなるでしょうか? 「喜ぶ」者へと変えられてまいります。御霊に満たされた礼拝は私たちに喜びをもたらします。  キリストを誇りとすることは私たちに喜びをもたらします。肉を誇りとするならばその誇りは一時的ですが、その誇りを捨てる、主にある喜びを身につけさせていただくならば、私たちの喜びはいつまでも続きます。そのような喜びが私たちにあるならば、私たち教会は悪い者に隙をつかれておかしくなることはありません。いや、むしろ、彼らのほうから私たちに近づいてこなくなります。  さてパウロは、肉を頼みとしないと言いましたが、それでも人である以上、肉においても頼みにしようと思えばできることを述べています。4節から6節までをお読みします。……ユダヤ人として、実に完璧です。しかも、キリストの教会を迫害するほどの熱心を示したとは、宗教的には実に優れた人でした。  しかし、宗教的にすぐれた人と見なされることと、主から認めていただけることとは全く異なることです。7節のみことばです。  私たちも誇りとする地位や名誉、家柄があるでしょう。しかし、それらの、人から見れば大事に見えるものが、イエスさまを信じ従う上で邪魔になるならば、それらはどんなにすばらしいように見えても、損なのです。  私の友人のつくった賛美の一節に、このようなことばがあります。「あなたの力求めていたのに いつの間にか小さな自分を誇っていた」自分なんて、主の偉大さから見れば小さなものでしかありません。だが私たちは、そのような存在とされていると知っていながら、なんとこの小さな自分のことを誇ってしまうものでしょうか。自分のことばかりが大きく見えて、もっと大きな存在である主のことがまったく見えなくなってしまいます。そんな私たちですから、神の前には自分など小さいと認め、自分に関するものなどみなキリストに比べれば損であると心から認める必要があるわけです。  しかし、パウロの語る、人の持つべきキリストの誇りはそれにとどまりません。8節と9節です。自分にとってよいと思えることどころではありません。すべてのものをちりあくた、早い話が、ごみ、と思うということです。  では、大事なものは何でしょうか? それは、ここでは3つの望みを持つことであると語っています。まずは、キリストを得る望みです。私たちはすでにキリストを心に受け入れているという点では、キリストを得ています。しかし、私たちはなおも、自分に心の中心からキリストを降ろし、そのかわりに自我が居座り、罪を犯してしまうものです。このような生き方から、キリスト中心の生き方へと私たちはより変えられ、やがて天に召されたならば、私たちはもはや何にも妨げられることなく、キリストと全くひとつになります。キリストをすでに得ている私たちは、終わりの日に、キリストを完全に得ることになる、私たちはその望みをいただいているのです。  次に、キリストにある者と認められる、という望みです。私たちがキリストを持つのと同時に、キリストが私たちを持ってくださるのです。キリスト・イエスさまがそのうちに、私たちを保ってくださるのです。しかし、私たちがキリストの中にあるということは、だれが認めるのでしょうか? 教会の人たちが認めてくれればそれでいいのでしょうか?   そうではないのです。イエス・キリストを信じる信仰により、主が認めてくださるのです。イエスさまはおっしゃいました。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。私たちはひとたびイエスさまを信じ受け入れたならば、イエスさまは決して離れ去ることはありません。  しかし私たちはまだ肉が生きていて、キリストにある者でありながらも、時にキリストから離れて罪を犯します。しかし、だからといって、キリストはそんな私たちのことをお見捨てになることはありません。私たちは終わりの日に、もはや完全にキリストから離れ去ることのない、天国における永遠のいのちを味わいます。このことをほかでもない、主が認めてくださっている、私たちはそう信じ受け入れて歩むのです。  第三に、律法による自分の義ではない、つまり、自分が律法を守り行うことで主に正しい者、罪なき者と認めていただくのではなく、信仰に基づいて神から与えられる義、つまり、神さまが私たちのことを一方的に、正しい、罪がないと認めてくださる、という望みです。パウロは、律法を守り行うことで認められようとすることを、ここで「自分の義」という表現をしていますが、そういう人は正しさの基準が「自分」になっているわけです。  しかし、主の御目から見れば、自分がどんなに正しい行いをしていると思っていても、人は罪人です。そのような罪人が「自分の義」を誇ってみたところで、それは罪人の基準で誇っているにすぎません。要するにそれは罪でしかありません。私たちが義である、すなわち正しいとされることは、主があわれんで正しいと認めてくださる以外にありません。そして、そのように憐れんでいただく道は、イエスさまが自分の罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じ受け入れること、これしかありません。  しかし、キリストを信じ受け入れるということは、ただ単に口で唱えるように「信じます」と言いさえすれば、自動的に永遠のいのちが与えられるなどと考えてはなりません。10節、11節のみことばをお読みします。……イエスさまをほんとうに信じ受け入れたならば、その先には、キリストの苦難と十字架、そして復活にあずかる生き方が待っています。しかしそれは単に苦しんで終わるものではなく、神さまのみこころに従いゆく、この上なく喜ばしいものです。  さて、私たちがイエスさまを信じ受け入れているならば、救われていることは確かなことですが、それで充分なのでしょうか? もはやそれで信仰生活は卒業なのでしょうか? そうではありません。まずは12節です。……これが、私たちの今の状態です。例えるならば、ダイヤモンドのような宝石を、原石で掘り出したままのような状態です。たしかにその原石は、それそのものでもものすごい価値があるのはたしかですが、精錬していないと、見た目にはただの石ころです。宝石としての用をなすには、精錬されなければなりません。同じように私たちも、たしかにキリストという素晴らしい宝を受け入れた器ですが、キリストの輝く生き方を目指していかないと、私たちはただの人たちと見分けのつかない人になってしまいます。  私たちはどう生きる必要があるでしょうか? 13節と14節です。……私たちがみな終わりの日にともにキリストの似姿として完成され、再び来られるキリストの御前に恥ずかしくなく立つ、よくやった、よい忠実なしもべだ、と主にほめていただく、そのことを私たちは目標として、日々走りおおせるものとなる必要があるでしょう。この目標を目指して、一心に走るのです。  もしこの歩みを人間的に捉えたならば、果てしなく厳しい歩みに思えるかもしれません。だれがそんな歩みができるものか! そう言いたくなるでしょう。しかし、私たちにとっては、決してしんどい歩みではありません。イザヤ書40章28節から31節までをお読みしましょう。……ちゃんと、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、とあります。それは、神さまが恵みによってそうさせてくださるのです。  そして、このように目標を目指して一心に走る歩みは、喜びの歩みです。さきほど申しましたことの繰り返しのようになりますが、このように、まことの根拠に根差して喜んで歩んでいるならば、教会を破壊する者たちである、犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者に象徴される名前だけのクリスチャンを見分け、そのような者たちから教会を守ることができるようになります。いや、私たちが救いを心から喜んでいるならば、彼らのほうから教会を敬遠するようになるでしょう。彼らに似合うのは暗闇であって、光ではないからです。  ですから私たち教会は、もし、イエスさまの救いを得ているという喜び以外のものでお互いがつながっているならば、悪い者たちに付け入るすきを与えてしまうことになります。私たちはただ一緒にいたら楽しいからつながっているのでしょうか? 私たちのつどいは人間的なものであってはならないはずです。私たちは主を喜び、主によってつながらせていただく共同体である必要があります。  私たちはほんとうの意味で喜んでいますでしょうか? 心を点検していただきましょう。また、私たちはこの日々の歩みを、あたかも賞を得る喜びを心に描いて節制に節制を重ねるランナーのように、自分の肉を十字架につけつつ、まことの喜びを目指して御霊に導かれて歩んでいますでしょうか? この喜びの歩みは、ひとりでできるものではなく、教会がともに取り組むべきものです。互いに励まし合って、この喜びの歩みを終わりの日に至るまで全うする私たちとなることができますようにお祈りいたします。