聖書箇所;ピリピ人への手紙2:19~24
メッセージ題目;働き手の模範テモテ
私の神学校時代、いちばん仲のよかった友だち、それは、フィリップという韓国系アメリカ人でした。背が低くて小太りの、ブルドッグのようにずんぐりむっくりした体形で、女の子の神学生に人気がありましたが、その人気は言ってみれば、「『男はつらいよ』の寅さんが女の人に好意を持たれる」というレベル……あ、これ以上何か言うと悪口になりそうでやめときますが、まあ、そういう、いい奴でした。
そのフィリップは、アメリカ育ちだけあって、とかく名前を覚えにくい神学生たちに、アメリカ式の名前をつけることをよくしていました。日本人にとっても、よほどの韓流ファンじゃなければ、韓国人の名前は覚えにくいと思いますが、アメリカ育ちにとってはなおさらそのようです。「ヒョンジュ」さんという女子学生には「パール」、同じく女子学生の「ユンジン」さんは「ユニス」、いつも2人で一緒にいた若い神学生「ソンウン」と「ヨンファン」は、「トム」と「ジェリー」……。それで私はフィリップに尋ねました。なら、俺はなんて名前になるんだい? するとフィリップは言いました。「ん-、トシは『ティモシー』だと思うねえ。」
なるほど、と思いました。ティモシーとは「テモテ」ですが、テモテの信仰は、父親譲りというよりも、ユダヤ人の婦人であった母親のユニケ、そして母方の祖母であったロイス譲りだったことを、パウロは書簡の中で明かしています。私はといいますと、もともと母が先に信仰を持って私のことを教会に連れていったわけですし、私がクリスチャンになる前に、祖母の若谷はるがクリスチャンになっています。ロイスとユニケの信仰がテモテに引き継がれた、という構図と同じです。私はフィリップに、自分は母方の祖母もクリスチャンだとか言ってはいなかったはずなので、フィリップ、なかなか鋭いな、と思ったものでした。
まあ、私は、ほかのルームメートの教会の牧師先生が「テモテ」と名乗っておられたので、畏れ多くて、というより、その神学性に遠慮して、テモテなどとは名乗りませんでしたが、しかし、聖書に登場するテモテがわが牧会人生における一つのモデルではなかろうか、このテモテから積極的に学ぼう、とは、ずっと思ってきたことでした。
今日学びますみことばは、テモテの存在にスポットが当てられています。私たちはパウロと弟子のテモテの関係から、どのようなことを学ぶことができますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。
19節です。……パウロは、ピリピ教会の様子をとても知りたいと願っています。使徒パウロとピリピ教会の絆は、パウロがともにいて牧会していたときにとどまりませんでした。こうして離れていても、パウロはピリピ教会とつながりたいと願っていました。それは、先週までも見てきたとおりです。
現代のように、スマホを見ればだれとでもつながっているように思えてくる時代とはわけがちがいます。ましてやパウロは獄中におりました。パウロのことを想像してみてください。パウロは、支えてくれる存在を必要としていました。それなら、獄中で宣教の働きから切り離された状況にあるパウロを支えていたものは、いったい何だったのでしょうか?
それはやはり、自分が手塩にかけて牧会した信徒たちが、主にあって歩んでいる姿にふれること、これではなかったでしょうか? ほんとうに健全な教会は、強い指導力を持った指導者が何らかの理由でいなくなったとしても、教会を構成するひとりひとりが主との深い交わりを持ち、しっかりと教会を建て上げている教会です。パウロがもし、ピリピ教会がしっかりと主にあって歩んでいることを確かめることができたならば、それは彼にとってどんなに心強いことでしょうか。そしてそのことを、どれほど主に感謝したことでしょうか。
パウロはそのために、やはり手塩にかけて育てた牧会者、テモテをピリピ教会に送ることにしました。テモテはパウロにとって、わが子も同然の働き人でした。新約聖書のテモテへの手紙第一と第二を読んでみると、パウロがどんなにテモテのことを可愛がり、またしっかりするようにと励ましていたか、よくわかります。このテモテが、パウロにとっての全権大使のような使命を帯びて教会に遣わされるという記述は、このほかにもコリント人への手紙第一に出てまいります。パウロという牧会者の心を伝える人として、とても信頼されていたことがわかります。
私は、この夏で、この教会に招聘していただいて12年目になりました。逆に言うと、教会はそれだけ、牧会者である私とともに歩んできたということでもあるのですが、ということは、みなさまのうちに、足かけ12年分の「私の心」が育っていてしかるべきだった、ということになるわけです。
私はこれまで51年の人生で、入院と名のつく経験を合わせて12回にわたってしてまいりました。病室の天井を見つめながら身動きも取れないで、看護師さんにおしもの世話をしていただかなければならなかった、そんなことも昨日のように思い出します。そんな私は、今こうして生きているだけでも奇蹟だと思いますし、このいのちを粗末にしないで、からだを大切にしたい、と、ますます思うようになりました。お年寄りになると話題は健康のことばかり、という気持ちが、このところ、身にしみてわかるようになりました。そんな私ではありますが、どんなに気をつけていても、いつ、神さまに呼ばれてこの地上を去ることになるかかわからないな、そんな思いになることがよくあります。
天国に行けるならば、それはすばらしいことにはちがいありません。しかしそれでも、私には一抹の不安があります。果たして、私が何らかの形でいなくなったあとも、この、水戸第一聖書バプテスト教会という群れは、主日ごとの礼拝を欠かすことなく、神さまのみことばを求め、祈りつつ進んでいけるだろうか? 私は何も、教会が韓国に特に重荷を持ってほしいとか、弟子訓練のモデル教会になってほしいとか、そんなことを思ってなどいません。ただ、日々こつこつとみことばに聴き、祈りつつ、遣わされたそれぞれの場で主のご栄光を顕す働きをなすべく、励まし合い、祈り合う群れとして、イエスさまの来られるその日まで保たれてほしい……そう願ってやみません。
一方で私たちは、パウロがテモテを育てたその模範が、いまやだれの目にも触れる書物である聖書に記録されていることの意味を、もう少し真剣に考えてみたいと思います。
私たちはみな、主の働き人として用いられることができます。私たちは教会という場で信仰の訓練を受けるにあたって、時間というものの持つ大切さを認める必要があります。ヘブル人への手紙の著者は読者に対し、かなりきついことを言っています。「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。」
実は、教師、といいますか、主のみことばを伝える働き人、というのは、あんがい早く育つものです。私の母教会では、バプテスマを受けて2年もしないうちに日曜学校の教師になる人などざらでしたし、あの福音歌手の岩渕まことさんに至っては、クリスチャンになってわずか1年で、福音歌手としてアルバムデビューしています。そのたった1年後、つまり、クリスチャンになってわずか2年で、岩渕さんはオリジナルの作詞作曲のアルバムも発売しています。
そういうわけで、人がいざ神の人として育とうという意志を持つならば、神さまは早く育ててくださるのです。それなのに、私たちが与えられた時間を有効に活用してみことばを学ぶことを怠っているならば、いつまでたっても用いられる働き人になることはできません。
しかし、それなら私たちを、時間を有効に用いて学ばせるその動機は、何であるべきでしょうか? やはりそれは「ビジョン」です。テモテはその点で、明確なビジョンをもって主の立てられた指導者パウロについていった人でした。教会形成こそ、主のみこころ、主のご栄光を顕す道である……そのビジョン。
初代教会は多くの働き人を必要としていました。なにしろ、使徒ペテロの最初の説教だけで、3000人もの人が弟子に加えられるほどの大リバイバルが起こっていました。働き人がいくらいても足りない状態でした。その一方で、主の教会を牧するにはそれなりの資質を備えている必要がありました。このような増殖する一方の初代教会で指導者になるには、短い時間で濃密な厳しい訓練に耐えるしかなかったわけです。テモテはその訓練に合格し、こうしてパウロのもとで忠実に働きを成しているというわけです。
では、そのテモテがピリピ教会に遣わされるのにふさわしかったのはなぜでしょうか? 20節にその理由が書かれています。……ピリピ教会を手塩にかけて育てたパウロと同じ心になって、テモテもピリピ教会のことを心配している、そして、そのように心配する者はテモテをおいてほかにいない、ピリピ教会を愛してやまないパウロはそのことをよくわかっている、というわけです。
テモテがこのように、ピリピ教会を特別に気にかけていたのはなぜでしょうか? それは、主が特別に、ピリピ教会に対する思いをテモテに与えておられたからでした。特定の教会に対する思い。みなさん、この思いは大切にしてください。私たちならば、この水戸第一聖書バプテスト教会に対して特別の思いをいだくように召されています。
まことに、教会を愛する愛は賜物です。この愛があってこそ、私たちは教会がよりよくなるために、祈りつつ励むことができるというものです。
しかし、私たち人間の実際の姿はどのようなものでしょうか? 21節です。……これが、私たちなのです。私たちは主の恵みがなければ、いかにクリスチャンといえども、イエスさま中心の生き方をすることなどかなわないものです。
21節。よく、キリストの福音とはご利益信仰ではない、と強調されますが、しかし私たちはなんと、この世のあらゆる宗教が祈り求めるような、ご利益信仰に神や教会を利用したがるものでしょうか。どうかいい学校に合格できますように。どうかいい会社に入れますように。いや、悪いと言うべきではないのでしょうが、しかし、そんなことを求める私たちの心の動機はどうなのでしょうか。私たちは神の栄光が顕されることを第一に求めているのでしょうか?
そのうえでなお、そのようなこの世的な祝福を求めることがみこころにかなっているという強い御霊の促しを受けているというなら、まあいいでしょう。しかし、そんな神さまからの確信もなく、ただ、人に認められたい、自分が気持ちいい思いをしたい、という、まことに肉的な思い、御霊に逆らう思いで祈り求めるだけならば、それは「自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めて」はいない「みな」、一般ピープルに含まれるだけの、ただの人にすぎないわけです。そんな祈りしかささげないならば、そんな動機でしか行動できないならば、それはクリスチャンとして恥ずべきことです。悔い改めるべきことです。
そんな私たちがならうべき模範、それは、テモテの生き方です。22節です。……テモテがどんなに牧会の働きに献身していたかは、ピリピ教会の認めるところでありました。それは、「子が父に仕えるように」という表現に集約されているように、自分にとって師匠であるパウロの教えを充分に吸収し、実践し、あたかもパウロの分身のように働いて、このよき知らせ、福音をピリピ教会に解き明かすことに従事しました。そして23節にあるとおり、パウロはこのテモテを、今度はピリピ教会に遣わそうとしているというわけです。
福音というものは、創造主なるイエスさまが十字架と復活をもって公に示されたものであり、それは聖書の記録をもって、働き手のその宣教の働きをもって、人々に宣べ伝えられました。ゆえに私たちはまず、みことばにとどまることが大事です。具体的には、聖書全体を誤りなき真理なる神のみことばを信じ告白し、それゆえにみことばを大切にすること、毎日じっくりとみことばを黙想し、また、みことばを通読すること、みことばの解き明かされる場である礼拝を大事にすること、聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うこと、そのようなことをもって、みことばにともにとどまるべく、努め、励まし合うのです。
そこから私たちは、そのみことばを毎日守り行うのです。単なる人生修養、お勤めのようなことではなく、人々にイエスさまの愛が伝わるように励んでいくことです。しかし、その実践をするには、私たちは知恵も力もあるわけではありません。その弱さを神と人の前に謙遜に認め、しかし、それでも神を愛するゆえ、人を愛する行動ができるように、知恵と力を求め、示されたことを勇気をもって実践していくのです。
そうすることで私たちは、人々を導けるだけの人を育てられるほどの人になれます。嘘ではありません。テモテへの手紙第二2章2節、最後にこのみことばをお読みして、私たちもそのようになれるように、祈りをもって力を求めてまいりましょう。