私たちの目標

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章1節~16節 メッセージ題目:私たちの目標  今年9月、東京で実に34年ぶりに、世界最大の陸上競技の祭典、世界陸上が開催されます。やはり気になるのは日本人の選手ですか、マスコミでは名前を挙げてその動向に注目しています。力強く走る、跳ぶ、投げる……この姿は、見ているだけで人々をわくわくさせます。  今回のメッセージのタイトルは「私たちの目標」とつけさせていただきました。本文13節と14節のみことばからつけました。このピリピ人への手紙の書かれた時点でもローマ帝国には体育大会がありました。古代オリンピックです。オリンピックの花形といえばマラソンや短距離走のような走る競技ですが、古代のオリンピックにも、短距離走、中距離走、長距離走が種目として存在していました。そのように、競技として、走る、ということは、このピリピ人への手紙の時代からローマ帝国において広く普及していたというわけです。  選手は走ります。当たり前です。しかし、彼ら選手はただいっしょうけんめいに走っているわけではありません。どんな選手もゴールを目指して、コースを外れないで走ります。どんなに速く走れたとしても、コースを外れてあさっての方向に行く人は失格となります。同じように私たちも、明確なゴールに向かっていっしょうけんめい走るように生きるから、人生は美しいし、意味があるのです。さあ、それでは、私たちが走るように生きるとはどのようなことでしょうか? 今日の本文、ピリピ人への手紙3章1節から16節までをテキストに、ともに学びたいと思います。  まずは1節からまいります。……パウロはここでも「喜びなさい」と語っています。しかし、こうして何度も「喜びなさい」と語るのは煩わしいことではない、むしろあなたがたの安全のためになることであると語っています。  喜ぶことが教会の安全のためになるとは、どういうことでしょうか? 2節以下をお読みしますと、何に対して安全になるのかを語っています。まずは2節です。……。  ここでパウロは、3種類の人間から身を避けるようにと警告しています。  まず、犬、と言っています。みなさんの中で、ワンちゃんをペットにしていらっしゃる方には申し訳ないのですが、聖書は、しばしばこの「犬」という動物を、否定的な存在の象徴としています。「野犬」とでも言えばわかりやすいでしょうか。狂暴な野犬はとても手なずけられるようなものではありません。獰猛すぎたり、悪い病気など持っていたりしら、噛まれたらいのちがありません。そういうものはひたすらに避ける必要があります。あるいは、野犬でなかったとしても、組長さんの番犬みたいに、恐い人間の飼っている大型犬などからも身を避ける必要があるでしょう。  要するにこの「犬」とは、善良な兄弟姉妹を食い荒らすような存在のことを指します。以前から「新使徒運動」というものが問題になっていますが、これは一種の形を変えたシャーマニズムで、特定の働き人を使徒クラスの特別な「主の器」に祭り上げます。このムーブメントは教団教派を横断して、組織すらもつくらないで教会に入り込んで食い荒らす分、こんにち社会問題になっている「トクリュウ」の教会版と言えるかもしれません。私たちはこのような攻撃に対して、丸腰であってはなりません。  悪い働き人にも気をつけなさい、とあります。これは、内部から起こる問題です。教会で働く働き人は本来、主の素晴らしさを現すために自分自身を差し出、教会にてへりくだって奉仕すべきです。しかし悪い働き人は、自分が偉くなるために教会を利用します。教会の中でひたすらに威張りたがり、みんなから先生と呼ばれたがります。あるいは、タラントを土の中に埋めたしもべのように、なまけて何もしません。教会の人たちはみんなやさしいと、そういう悪い働き人を許容してしまうことにもなりかねないわけです。  肉体だけの割礼の者。これも気をつけるべき対象です。割礼は、ユダヤ人の男性が受けるものであり、割礼を受けているということは、自分は主の民であるという自負心の強い人であるわけです。  しかしそのことは、実際に救っていただいて主の民に加えていただいているかどうかとは、何の関係もありません。だが、名目上、主の民のように振る舞っているならば、うかうかしているとそういう人を、教会は同じ主の民として受け入れてしまいます。するとこれまたうかうかしていると、イエスさまの十字架によってのみ救われるという正しい福音が、そういう者たちによっていつの間にかゆがめられてしまう、ということが起こってくるわけです。やはり気をつける必要があります。  肉体だけの割礼の者、それはこんにちで言えば、洗礼を受けたという事実だけにすがっている凡庸なクリスチャン、と言えるでしょう。そういう存在は長期的に、教会という共同体を病ませることになっていきます。  では、そういう者たちに気をつけることと「喜ぶ」ことが、どうつながるのでしょうか? 3節です。……ここに、パウロやピリピ教会のメンバーのようなクリスチャンの特徴が3つ書かれています。  まず、御霊によって礼拝する人たちです。私たちは、御霊に満たされ、御霊に導かれてこそ、ほんとうの礼拝をささげることができます。私たちは、聖書をお読みし、また、聖書にのっとった信仰告白を賛美という形でおささげしますが、そのとき、心からそのみことば、また信仰告白に同意することです。そのように、私たちが謙遜に自分自身をみことばに合わせ、へりくだるように、御霊は働き、私たちをまことの礼拝者へとつくり変えてくださいます。そのようにして御霊によって礼拝するならば、私たちは自己中心を捨て、主中心の生き方へと導かれてまいります。ゆえに私たちは、御霊の満たしと導きをつねに求めるものです。  第二に、キリスト・イエスを誇り、とあります。肉体だけの割礼の者は主の民であるように見えても、キリスト・イエスとつながってはいません。イエスさまこそが道であり、真理であり、いのちです。イエスさまを通らなければ御父のもとに行くことはありません。人間的な割礼などでは、御父に認めていただくことなどできないのです。私たちの誇りとすべきはイエスさまのみです。私たちはもはや自分が生きているのではなく、キリストがうちに生きている存在です。そのような者である以上、キリストを誇りとして生きるのは自然なことであり、また当然のことであります。  そして第三に、肉を頼みとしません。人はだれしも、自分の自慢したいものを持っているものです。そういうものが自分の人生を支えていると人は思ってしまいがちなものですが、しかし、イエスさまに比べれば、学歴も、頭のよさも、豊富な知識も、地位も、名誉も、財産も、みな取るに足りないものです。  そのように、御霊によって礼拝をし、キリストを誇りとし、肉を頼みとしないならば、そのような人はどうなるでしょうか? 「喜ぶ」者へと変えられてまいります。御霊に満たされた礼拝は私たちに喜びをもたらします。  キリストを誇りとすることは私たちに喜びをもたらします。肉を誇りとするならばその誇りは一時的ですが、その誇りを捨てる、主にある喜びを身につけさせていただくならば、私たちの喜びはいつまでも続きます。そのような喜びが私たちにあるならば、私たち教会は悪い者に隙をつかれておかしくなることはありません。いや、むしろ、彼らのほうから私たちに近づいてこなくなります。  さてパウロは、肉を頼みとしないと言いましたが、それでも人である以上、肉においても頼みにしようと思えばできることを述べています。4節から6節までをお読みします。……ユダヤ人として、実に完璧です。しかも、キリストの教会を迫害するほどの熱心を示したとは、宗教的には実に優れた人でした。  しかし、宗教的にすぐれた人と見なされることと、主から認めていただけることとは全く異なることです。7節のみことばです。  私たちも誇りとする地位や名誉、家柄があるでしょう。しかし、それらの、人から見れば大事に見えるものが、イエスさまを信じ従う上で邪魔になるならば、それらはどんなにすばらしいように見えても、損なのです。  私の友人のつくった賛美の一節に、このようなことばがあります。「あなたの力求めていたのに いつの間にか小さな自分を誇っていた」自分なんて、主の偉大さから見れば小さなものでしかありません。だが私たちは、そのような存在とされていると知っていながら、なんとこの小さな自分のことを誇ってしまうものでしょうか。自分のことばかりが大きく見えて、もっと大きな存在である主のことがまったく見えなくなってしまいます。そんな私たちですから、神の前には自分など小さいと認め、自分に関するものなどみなキリストに比べれば損であると心から認める必要があるわけです。  しかし、パウロの語る、人の持つべきキリストの誇りはそれにとどまりません。8節と9節です。自分にとってよいと思えることどころではありません。すべてのものをちりあくた、早い話が、ごみ、と思うということです。  では、大事なものは何でしょうか? それは、ここでは3つの望みを持つことであると語っています。まずは、キリストを得る望みです。私たちはすでにキリストを心に受け入れているという点では、キリストを得ています。しかし、私たちはなおも、自分に心の中心からキリストを降ろし、そのかわりに自我が居座り、罪を犯してしまうものです。このような生き方から、キリスト中心の生き方へと私たちはより変えられ、やがて天に召されたならば、私たちはもはや何にも妨げられることなく、キリストと全くひとつになります。キリストをすでに得ている私たちは、終わりの日に、キリストを完全に得ることになる、私たちはその望みをいただいているのです。  次に、キリストにある者と認められる、という望みです。私たちがキリストを持つのと同時に、キリストが私たちを持ってくださるのです。キリスト・イエスさまがそのうちに、私たちを保ってくださるのです。しかし、私たちがキリストの中にあるということは、だれが認めるのでしょうか? 教会の人たちが認めてくれればそれでいいのでしょうか?   そうではないのです。イエス・キリストを信じる信仰により、主が認めてくださるのです。イエスさまはおっしゃいました。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。私たちはひとたびイエスさまを信じ受け入れたならば、イエスさまは決して離れ去ることはありません。  しかし私たちはまだ肉が生きていて、キリストにある者でありながらも、時にキリストから離れて罪を犯します。しかし、だからといって、キリストはそんな私たちのことをお見捨てになることはありません。私たちは終わりの日に、もはや完全にキリストから離れ去ることのない、天国における永遠のいのちを味わいます。このことをほかでもない、主が認めてくださっている、私たちはそう信じ受け入れて歩むのです。  第三に、律法による自分の義ではない、つまり、自分が律法を守り行うことで主に正しい者、罪なき者と認めていただくのではなく、信仰に基づいて神から与えられる義、つまり、神さまが私たちのことを一方的に、正しい、罪がないと認めてくださる、という望みです。パウロは、律法を守り行うことで認められようとすることを、ここで「自分の義」という表現をしていますが、そういう人は正しさの基準が「自分」になっているわけです。  しかし、主の御目から見れば、自分がどんなに正しい行いをしていると思っていても、人は罪人です。そのような罪人が「自分の義」を誇ってみたところで、それは罪人の基準で誇っているにすぎません。要するにそれは罪でしかありません。私たちが義である、すなわち正しいとされることは、主があわれんで正しいと認めてくださる以外にありません。そして、そのように憐れんでいただく道は、イエスさまが自分の罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じ受け入れること、これしかありません。  しかし、キリストを信じ受け入れるということは、ただ単に口で唱えるように「信じます」と言いさえすれば、自動的に永遠のいのちが与えられるなどと考えてはなりません。10節、11節のみことばをお読みします。……イエスさまをほんとうに信じ受け入れたならば、その先には、キリストの苦難と十字架、そして復活にあずかる生き方が待っています。しかしそれは単に苦しんで終わるものではなく、神さまのみこころに従いゆく、この上なく喜ばしいものです。  さて、私たちがイエスさまを信じ受け入れているならば、救われていることは確かなことですが、それで充分なのでしょうか? もはやそれで信仰生活は卒業なのでしょうか? そうではありません。まずは12節です。……これが、私たちの今の状態です。例えるならば、ダイヤモンドのような宝石を、原石で掘り出したままのような状態です。たしかにその原石は、それそのものでもものすごい価値があるのはたしかですが、精錬していないと、見た目にはただの石ころです。宝石としての用をなすには、精錬されなければなりません。同じように私たちも、たしかにキリストという素晴らしい宝を受け入れた器ですが、キリストの輝く生き方を目指していかないと、私たちはただの人たちと見分けのつかない人になってしまいます。  私たちはどう生きる必要があるでしょうか? 13節と14節です。……私たちがみな終わりの日にともにキリストの似姿として完成され、再び来られるキリストの御前に恥ずかしくなく立つ、よくやった、よい忠実なしもべだ、と主にほめていただく、そのことを私たちは目標として、日々走りおおせるものとなる必要があるでしょう。この目標を目指して、一心に走るのです。  もしこの歩みを人間的に捉えたならば、果てしなく厳しい歩みに思えるかもしれません。だれがそんな歩みができるものか! そう言いたくなるでしょう。しかし、私たちにとっては、決してしんどい歩みではありません。イザヤ書40章28節から31節までをお読みしましょう。……ちゃんと、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、とあります。それは、神さまが恵みによってそうさせてくださるのです。  そして、このように目標を目指して一心に走る歩みは、喜びの歩みです。さきほど申しましたことの繰り返しのようになりますが、このように、まことの根拠に根差して喜んで歩んでいるならば、教会を破壊する者たちである、犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者に象徴される名前だけのクリスチャンを見分け、そのような者たちから教会を守ることができるようになります。いや、私たちが救いを心から喜んでいるならば、彼らのほうから教会を敬遠するようになるでしょう。彼らに似合うのは暗闇であって、光ではないからです。  ですから私たち教会は、もし、イエスさまの救いを得ているという喜び以外のものでお互いがつながっているならば、悪い者たちに付け入るすきを与えてしまうことになります。私たちはただ一緒にいたら楽しいからつながっているのでしょうか? 私たちのつどいは人間的なものであってはならないはずです。私たちは主を喜び、主によってつながらせていただく共同体である必要があります。  私たちはほんとうの意味で喜んでいますでしょうか? 心を点検していただきましょう。また、私たちはこの日々の歩みを、あたかも賞を得る喜びを心に描いて節制に節制を重ねるランナーのように、自分の肉を十字架につけつつ、まことの喜びを目指して御霊に導かれて歩んでいますでしょうか? この喜びの歩みは、ひとりでできるものではなく、教会がともに取り組むべきものです。互いに励まし合って、この喜びの歩みを終わりの日に至るまで全うする私たちとなることができますようにお祈りいたします。

死んではいけない

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章25節~30 メッセージ題目:死んではいけない  先週はテモテのことを学びました。本日、25節以下、エパフロディトのことに話は移っていきます。  いちおう、先取りして申し上げますと、エパフロディトは本日の本文によれば「死ぬほどの病にかかりました」。主にあって素晴らしい働きをする人、そういう人が重い病にかかるということは、往々にしてあるものです。ときには、いのちを落とす人がいます。もちろん私たちは、そのような悲しむべき状況にも主のみこころを認めるべきなのですが、しかし一方で、そのような病に陥ってしまった働き人がいるならば、その人のために熱心に、とりなして祈る必要があります。  もし仮に、私たちの群れに、そのような、病に陥った人が現れたとしたら……考えるだけでも悲しいことですが、ここは想像力をたくましくして、そのようなみこころが示されたらと考えつつ、エパフロディトのことを学んでまいりたいと思います。  まずは25節をお読みします。……エパフロディトは何としても早くピリピ教会に送らなければならない、という、パウロの強い決意がにじみ出ていますが、この25節では、パウロはエパフロディトのことをいろいろなふうに紹介しています。兄弟、つまり他人ではない、あたかも血を分けた兄弟のような存在、身内のような存在であると言っています。  教会では同じ信仰を持つ信徒のことを、兄弟姉妹と呼びます。これはただ単なることばの綾ではありません。兄弟、というのは、「血を分けた兄弟」という言い方があるように、同じ親に由来する血が流れていて、ゆえにどんなに「兄弟は他人の始まり」ということわざがあろうとも、絶対に他人になどなれない存在です。  信仰による兄弟姉妹はというと、同じ御霊が流れている人です。「血を分けた兄弟」ならぬ、「御霊をともにする兄弟」。ある意味、こちらの方がよほど「兄弟」としての絆が深く、また強いのではないでしょうか。  同労者、とは何でしょうか。読んで字のごとく、同じ働きをする人、というより、同じ働きに使命を共有して献身している人、という意味になるでしょう。ここで、パウロがエパフロディトのことを同労者と呼ぶのは、主のからだなる教会を立て上げるという同じ目標を掲げてともにチームを組んで労する仲間、ということです。  戦友、戦いをともにした友。私は国民皆兵の韓国で長いこと生活しましたが、韓国の男どもが寄り合うと、出てくる話題はきまって、軍隊のことです。私の世代より上の男たちは、3年は家から離れて軍隊の生活をするものと決まっていました。もちろんそれは、いつ北から攻めてくるかわからない中で、南の韓国を守る使命があるからですが、その絆はやはり、強力なものがあるようで、どの部隊にどの時期に属していたかを問わず、軍隊の話題は、韓国の男たちの間では鉄板の話題です。このときばかりは、みな、戦友という気持ちになるのでしょう。  パウロもまた、その使徒としての歩みは戦いの連続でしたし、今はというと、獄中にあってやはり戦いを体験しています。エパフロディトは、パウロがいま体験しているその戦いに、同じ心になって臨んでいる、パウロにとって友と呼ぶべき人、というわけです。  あなたがたの使者……そう、エパフロディトは、ピリピ教会からパウロのもとに送られた人でした。パウロが窮乏していたときにピリピ教会を代表して、パウロのもとに赴いて仕えてくれた、ピリピ教会の心とも呼ぶべき存在です。このエパフロディトのことを、早く、ピリピ教会に送らなければというわけです。  それでは、エパフロディトはピリピ教会とどのような関係を持っているのでしょうか? 26節です。……まず、エパフロディトは、ピリピ教会のすべての兄弟姉妹のことを慕い求めていました。とても会いたい、そして交わりを持ちたいと願っていたのです。しかし、それがかなわなかった問題が彼にはありました。それは、病気にかかったということでした。エパフロディトは病気ゆえに、ピリピ教会を訪問することができなくなったばかりか、自分のいのちさえ生死の境をさまよったほどでした。また一方で、この病気のことがピリピ教会の兄弟姉妹に伝わったことを、気にかけてもいました。 しかし、エパフロディトはどうなったでしょうか? 27節です。……ここで、主はだれのことをあわれんでくださったと書かれているでしょうか? まずはもちろんエパフロディトです。主は、彼のことをあわれんで、いやしてくださいました。  私たちの肉体は不完全なものであるゆえに、病気にもなります。しかし、病んでいる状態は主のみこころにかなうものではありません。主は、私たちが健やかであることを願っていらっしゃいます。私たちが病んだならば、私たちは病のいやしを切に祈り求める必要があります。また、遠慮なくお医者さんにかかる必要があります。  私たちは肉体が病気になるとき、とかく、気落ちして、このまま死んでしまえば楽になるのに、などと思ったりしないでしょうか? しかし、それは神さまのみこころではありません。私たちは生きてこそ、神さまの恵みをこの地上でともに味わえますし、生きてこそ、神さまのご栄光を顕すという、最高の生き方をさせていただけるというものです。  しかし、サタンはそのような神さまの大きな恵み、大きな愛を感じることも、感謝することもできないように、いま置かれている厳しい状況の方がよほど大きいかのように、私たちを間違った考えへと導こうとします。私たちはそんなサタンの誘惑に屈してはなりません。しかし、私たちはとても弱く、その誘惑に屈したほうがよほど楽だ、などとだまされてしまいます。だからこそ、そのような地獄の沙汰から守られ、救い出されるように、お互いのために祈ることが大事になるのです。  エパフロディトはといいますと、死ぬほどの病という試練の中にありました。しかし、エパフロディトにまだこの地上での使命を与えておられた主は、彼のことをいやしてくださいました。そしてこのいやしによって、パウロもまたあわれみをかけられました。兄弟、同労者、戦友と、はばかることなく呼ぶことのできるエパフロディトが死にそうになるなんて、パウロはどれほど悲しかったことでしょうか。苦しかったことでしょうか。  しかし、エパフロディトがいやされたことは、パウロがこの悲しみに沈んでしまうことがないように、パウロのことも主があわれんでくださったということでした。  このことは何を教えていますでしょうか? 私たちの間で兄弟姉妹がいやされることは、私たちもまたあわれみを受けることである、ということです。もし、私たちの間で病を持つ人がいるならば、その兄弟姉妹のために心からお祈りすることが大事です。主がその祈りを聴いてくださり、いやしてくださるならば、私たちもまたとない慰めをいただくことになります。  だから、私たちもともにあわれみをいただくために、弱さや痛みを抱えている兄弟姉妹をおぼえてお祈りすることが何よりも大切です。私たちにはお互いの痛みが見えていますでしょうか? その痛みが、わが痛みとして伝わっていますでしょうか? 苦しくてたまらないでしょうか? そのときこそ、私たちは祈るべき時です。   28節をお読みします。……エパフロディトはいやされました。このエパフロディトに会ってほしい、パウロはピリピ教会の信徒たちに対して、心からそう願っています。パウロもまた、かつてピリピ教会がその教会の心を送るように、パウロにエパフロディトを送ったように、今度はパウロも自分の心のようにエパフロディトをピリピ教会に送るのです。  28節、29節、この両方を合わせ、「喜び」ということばが2回登場します。主の働き人と再会すること、交わりを持つこと、主のいやしを実際に目にして主をほめたたえること、いずれも、「喜び」です。これほど喜ばしいことはありません。これは主にあって喜ぶことであり、この世の求めるような、一時的で長続きしない喜びとは根本的に異なります、私たちの求めるべき喜びが、主にある喜び、いつまでも続く喜びであることは、申し上げるまでもありません。  29節の後半から30節までをお読みします。……エパフロディトを尊敬しなさい、と、パウロはピリピ教会に奨めています。それはなぜか、キリストの仕事に献身して、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからだというのです。ここで、エパフロディトの病気が、実は主に献身した結果引き起こされたものだったことがはっきりします。そしてそれはまた同時に、本来ならばパウロがピリピ教会に対してなすべき働きを、エパフロディトがパウロの肩代わりをした結果もたらされた病気でした。 これで、パウロが心を痛めたほんとうの理由がわかってまいります。教会を牧する働き、宣教の働きは、リーダーひとりの頑張りでなんとかなるものではありません。リーダーがひとりで働けなくなるならばその分、リーダーの意を汲んで働きを肩代わりする働き人が必要となってきます。しかし彼らが主に熱心に献身するあまり、健康を害したとしたらどうでしょうか? そのような働きに遣わしたリーダー、またその働きの対象である共同体は大きな悲しみを背負うことになります。ここでは、エパフロディトの重い病に対し、パウロとピリピ教会が重い責任を担うことになるわけです。  実はパウロは、この手紙を書く以前、宣教の働きを展開していたとき、その働きの中で、ひとりの人が肉体の弱さのゆえにいのちを落としてしまった、そのようなことを経験しています。使徒の働き20章7節から12節です。……この最後、「ひとかたならず慰められた」という表現に注目しましょう。主のみことばに夜を徹して耳を傾ける素晴らしい時間に人が死ぬなんて、トロアスの共同体に訪れたショックと悲しみはどれほどのものだったことでしょうか。パウロも、ユテコを抱き起したときに感じたものは、おそらく重い責任だったにちがいありません。いったいなんということだ、夜を徹して長く語った結果、人が生きるどころか、死ぬなんて!  しかし、ここにも主はあわれみを成してくださり、ユテコを生き返らせてくださるとともに、トロアスの共同体に豊かな慰めを与えてくださいました。夜を徹してみことばに耳を傾けようと努力した末に死んだユテコが生き返ったように、パウロに代わって宣教の働きに献身して重病にかかったエパフロディトは、死の淵から生還しました。このような働き人は、宣教に献身するあまり投獄されたパウロ同様、尊敬をもって教会に迎えるべき人であるというわけです。私たちはお互いが、宣教に献身している兄弟姉妹です。お互いを尊敬しつつ歩んでまいりましょう。  主との強い結びつきの中で、人は主からのかけがえのない使命を与えられ、信仰の友とともにその使命を果たす……エパフロディトもそうでした。これが、私たちのあるべき姿です。主との交わりを求めましょう。主からの使命を求めましょう。そして、その使命をともに果たす友を求めましょう。主は必ず私たちの働きを通して、ご栄光を現してくださいます。  私たちはその使命を見失ってしまうならば、生きているようでも死んでしまうことになります。私たちはけっして死んではいけません。しかし、私たちが主との交わりを保ち、主にある交わりをお互いが保つならば、私たちは主からの使命をわがうちに保つことになり、私たちは生きるのです。生きる喜びに燃えるのです。そのようにして、決して死んではならない私たちが生きるものとされるとき、主は私たちをとおして、ご栄光を顕してくださいます。

働き手の模範テモテ

聖書箇所;ピリピ人への手紙2:19~24  メッセージ題目;働き手の模範テモテ  私の神学校時代、いちばん仲のよかった友だち、それは、フィリップという韓国系アメリカ人でした。背が低くて小太りの、ブルドッグのようにずんぐりむっくりした体形で、女の子の神学生に人気がありましたが、その人気は言ってみれば、「『男はつらいよ』の寅さんが女の人に好意を持たれる」というレベル……あ、これ以上何か言うと悪口になりそうでやめときますが、まあ、そういう、いい奴でした。  そのフィリップは、アメリカ育ちだけあって、とかく名前を覚えにくい神学生たちに、アメリカ式の名前をつけることをよくしていました。日本人にとっても、よほどの韓流ファンじゃなければ、韓国人の名前は覚えにくいと思いますが、アメリカ育ちにとってはなおさらそのようです。「ヒョンジュ」さんという女子学生には「パール」、同じく女子学生の「ユンジン」さんは「ユニス」、いつも2人で一緒にいた若い神学生「ソンウン」と「ヨンファン」は、「トム」と「ジェリー」……。それで私はフィリップに尋ねました。なら、俺はなんて名前になるんだい? するとフィリップは言いました。「ん-、トシは『ティモシー』だと思うねえ。」  なるほど、と思いました。ティモシーとは「テモテ」ですが、テモテの信仰は、父親譲りというよりも、ユダヤ人の婦人であった母親のユニケ、そして母方の祖母であったロイス譲りだったことを、パウロは書簡の中で明かしています。私はといいますと、もともと母が先に信仰を持って私のことを教会に連れていったわけですし、私がクリスチャンになる前に、祖母の若谷はるがクリスチャンになっています。ロイスとユニケの信仰がテモテに引き継がれた、という構図と同じです。私はフィリップに、自分は母方の祖母もクリスチャンだとか言ってはいなかったはずなので、フィリップ、なかなか鋭いな、と思ったものでした。  まあ、私は、ほかのルームメートの教会の牧師先生が「テモテ」と名乗っておられたので、畏れ多くて、というより、その神学性に遠慮して、テモテなどとは名乗りませんでしたが、しかし、聖書に登場するテモテがわが牧会人生における一つのモデルではなかろうか、このテモテから積極的に学ぼう、とは、ずっと思ってきたことでした。  今日学びますみことばは、テモテの存在にスポットが当てられています。私たちはパウロと弟子のテモテの関係から、どのようなことを学ぶことができますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  19節です。……パウロは、ピリピ教会の様子をとても知りたいと願っています。使徒パウロとピリピ教会の絆は、パウロがともにいて牧会していたときにとどまりませんでした。こうして離れていても、パウロはピリピ教会とつながりたいと願っていました。それは、先週までも見てきたとおりです。  現代のように、スマホを見ればだれとでもつながっているように思えてくる時代とはわけがちがいます。ましてやパウロは獄中におりました。パウロのことを想像してみてください。パウロは、支えてくれる存在を必要としていました。それなら、獄中で宣教の働きから切り離された状況にあるパウロを支えていたものは、いったい何だったのでしょうか?  それはやはり、自分が手塩にかけて牧会した信徒たちが、主にあって歩んでいる姿にふれること、これではなかったでしょうか? ほんとうに健全な教会は、強い指導力を持った指導者が何らかの理由でいなくなったとしても、教会を構成するひとりひとりが主との深い交わりを持ち、しっかりと教会を建て上げている教会です。パウロがもし、ピリピ教会がしっかりと主にあって歩んでいることを確かめることができたならば、それは彼にとってどんなに心強いことでしょうか。そしてそのことを、どれほど主に感謝したことでしょうか。  パウロはそのために、やはり手塩にかけて育てた牧会者、テモテをピリピ教会に送ることにしました。テモテはパウロにとって、わが子も同然の働き人でした。新約聖書のテモテへの手紙第一と第二を読んでみると、パウロがどんなにテモテのことを可愛がり、またしっかりするようにと励ましていたか、よくわかります。このテモテが、パウロにとっての全権大使のような使命を帯びて教会に遣わされるという記述は、このほかにもコリント人への手紙第一に出てまいります。パウロという牧会者の心を伝える人として、とても信頼されていたことがわかります。  私は、この夏で、この教会に招聘していただいて12年目になりました。逆に言うと、教会はそれだけ、牧会者である私とともに歩んできたということでもあるのですが、ということは、みなさまのうちに、足かけ12年分の「私の心」が育っていてしかるべきだった、ということになるわけです。  私はこれまで51年の人生で、入院と名のつく経験を合わせて12回にわたってしてまいりました。病室の天井を見つめながら身動きも取れないで、看護師さんにおしもの世話をしていただかなければならなかった、そんなことも昨日のように思い出します。そんな私は、今こうして生きているだけでも奇蹟だと思いますし、このいのちを粗末にしないで、からだを大切にしたい、と、ますます思うようになりました。お年寄りになると話題は健康のことばかり、という気持ちが、このところ、身にしみてわかるようになりました。そんな私ではありますが、どんなに気をつけていても、いつ、神さまに呼ばれてこの地上を去ることになるかかわからないな、そんな思いになることがよくあります。  天国に行けるならば、それはすばらしいことにはちがいありません。しかしそれでも、私には一抹の不安があります。果たして、私が何らかの形でいなくなったあとも、この、水戸第一聖書バプテスト教会という群れは、主日ごとの礼拝を欠かすことなく、神さまのみことばを求め、祈りつつ進んでいけるだろうか? 私は何も、教会が韓国に特に重荷を持ってほしいとか、弟子訓練のモデル教会になってほしいとか、そんなことを思ってなどいません。ただ、日々こつこつとみことばに聴き、祈りつつ、遣わされたそれぞれの場で主のご栄光を顕す働きをなすべく、励まし合い、祈り合う群れとして、イエスさまの来られるその日まで保たれてほしい……そう願ってやみません。  一方で私たちは、パウロがテモテを育てたその模範が、いまやだれの目にも触れる書物である聖書に記録されていることの意味を、もう少し真剣に考えてみたいと思います。  私たちはみな、主の働き人として用いられることができます。私たちは教会という場で信仰の訓練を受けるにあたって、時間というものの持つ大切さを認める必要があります。ヘブル人への手紙の著者は読者に対し、かなりきついことを言っています。「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。」  実は、教師、といいますか、主のみことばを伝える働き人、というのは、あんがい早く育つものです。私の母教会では、バプテスマを受けて2年もしないうちに日曜学校の教師になる人などざらでしたし、あの福音歌手の岩渕まことさんに至っては、クリスチャンになってわずか1年で、福音歌手としてアルバムデビューしています。そのたった1年後、つまり、クリスチャンになってわずか2年で、岩渕さんはオリジナルの作詞作曲のアルバムも発売しています。  そういうわけで、人がいざ神の人として育とうという意志を持つならば、神さまは早く育ててくださるのです。それなのに、私たちが与えられた時間を有効に活用してみことばを学ぶことを怠っているならば、いつまでたっても用いられる働き人になることはできません。  しかし、それなら私たちを、時間を有効に用いて学ばせるその動機は、何であるべきでしょうか? やはりそれは「ビジョン」です。テモテはその点で、明確なビジョンをもって主の立てられた指導者パウロについていった人でした。教会形成こそ、主のみこころ、主のご栄光を顕す道である……そのビジョン。  初代教会は多くの働き人を必要としていました。なにしろ、使徒ペテロの最初の説教だけで、3000人もの人が弟子に加えられるほどの大リバイバルが起こっていました。働き人がいくらいても足りない状態でした。その一方で、主の教会を牧するにはそれなりの資質を備えている必要がありました。このような増殖する一方の初代教会で指導者になるには、短い時間で濃密な厳しい訓練に耐えるしかなかったわけです。テモテはその訓練に合格し、こうしてパウロのもとで忠実に働きを成しているというわけです。  では、そのテモテがピリピ教会に遣わされるのにふさわしかったのはなぜでしょうか? 20節にその理由が書かれています。……ピリピ教会を手塩にかけて育てたパウロと同じ心になって、テモテもピリピ教会のことを心配している、そして、そのように心配する者はテモテをおいてほかにいない、ピリピ教会を愛してやまないパウロはそのことをよくわかっている、というわけです。  テモテがこのように、ピリピ教会を特別に気にかけていたのはなぜでしょうか? それは、主が特別に、ピリピ教会に対する思いをテモテに与えておられたからでした。特定の教会に対する思い。みなさん、この思いは大切にしてください。私たちならば、この水戸第一聖書バプテスト教会に対して特別の思いをいだくように召されています。  まことに、教会を愛する愛は賜物です。この愛があってこそ、私たちは教会がよりよくなるために、祈りつつ励むことができるというものです。  しかし、私たち人間の実際の姿はどのようなものでしょうか? 21節です。……これが、私たちなのです。私たちは主の恵みがなければ、いかにクリスチャンといえども、イエスさま中心の生き方をすることなどかなわないものです。  21節。よく、キリストの福音とはご利益信仰ではない、と強調されますが、しかし私たちはなんと、この世のあらゆる宗教が祈り求めるような、ご利益信仰に神や教会を利用したがるものでしょうか。どうかいい学校に合格できますように。どうかいい会社に入れますように。いや、悪いと言うべきではないのでしょうが、しかし、そんなことを求める私たちの心の動機はどうなのでしょうか。私たちは神の栄光が顕されることを第一に求めているのでしょうか?  そのうえでなお、そのようなこの世的な祝福を求めることがみこころにかなっているという強い御霊の促しを受けているというなら、まあいいでしょう。しかし、そんな神さまからの確信もなく、ただ、人に認められたい、自分が気持ちいい思いをしたい、という、まことに肉的な思い、御霊に逆らう思いで祈り求めるだけならば、それは「自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めて」はいない「みな」、一般ピープルに含まれるだけの、ただの人にすぎないわけです。そんな祈りしかささげないならば、そんな動機でしか行動できないならば、それはクリスチャンとして恥ずべきことです。悔い改めるべきことです。  そんな私たちがならうべき模範、それは、テモテの生き方です。22節です。……テモテがどんなに牧会の働きに献身していたかは、ピリピ教会の認めるところでありました。それは、「子が父に仕えるように」という表現に集約されているように、自分にとって師匠であるパウロの教えを充分に吸収し、実践し、あたかもパウロの分身のように働いて、このよき知らせ、福音をピリピ教会に解き明かすことに従事しました。そして23節にあるとおり、パウロはこのテモテを、今度はピリピ教会に遣わそうとしているというわけです。  福音というものは、創造主なるイエスさまが十字架と復活をもって公に示されたものであり、それは聖書の記録をもって、働き手のその宣教の働きをもって、人々に宣べ伝えられました。ゆえに私たちはまず、みことばにとどまることが大事です。具体的には、聖書全体を誤りなき真理なる神のみことばを信じ告白し、それゆえにみことばを大切にすること、毎日じっくりとみことばを黙想し、また、みことばを通読すること、みことばの解き明かされる場である礼拝を大事にすること、聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うこと、そのようなことをもって、みことばにともにとどまるべく、努め、励まし合うのです。  そこから私たちは、そのみことばを毎日守り行うのです。単なる人生修養、お勤めのようなことではなく、人々にイエスさまの愛が伝わるように励んでいくことです。しかし、その実践をするには、私たちは知恵も力もあるわけではありません。その弱さを神と人の前に謙遜に認め、しかし、それでも神を愛するゆえ、人を愛する行動ができるように、知恵と力を求め、示されたことを勇気をもって実践していくのです。  そうすることで私たちは、人々を導けるだけの人を育てられるほどの人になれます。嘘ではありません。テモテへの手紙第二2章2節、最後にこのみことばをお読みして、私たちもそのようになれるように、祈りをもって力を求めてまいりましょう。

世の光として輝く

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章12節~18節 メッセージ題目;世の光として輝く  パウロ先生はおっしゃいました。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。では、みなさまに問わせていただきたいと思います。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。そう言えますでしょうか?  ひとくちに「福音を宣べ伝える」と申しましても、それはただ単に、「神さまは愛です、しかし神さまは正義です、神さまの愛と正義をともに実現するために、イエスさまは十字架にかかられました……」といったことをだれかに語ってあげることにとどまりません。もちろん、そういうことはとても大事なことであり、そういうようにイエスさまをご紹介しなければ、人々は私たちが何を信じているか、どのようにすれば神さまを信じることができるか、知りようもありません。絶対必要です。  しかし、私たちが福音を宣べ伝えるということは、なによりも、生き方を人々に見せることをもってなされるべきです。私たちがいかに、「私はクリスチャンです、福音を信じ受け入れましょう」と人々に言ってみたところで、そのことばにかなっていない生き方しかできていないならば、話にならないわけです。そのような人はかえって、神さまのご栄光が現れるということにおいて、妨げにしかなりかねません。そういう人はできれば、自分はクリスチャンだなどと名乗らないでいただきたいくらいです。  もちろん、うちの兄弟姉妹がそんな失格者ではないことは、私はよく存じ上げています。そんな私たちですけれども、世の光として輝き、主の栄光を顕し、私たちを救ってくださった救い主キリストをこの世に示す生き方をしていきたい、そのようにして福音を宣べ伝える、幸いな人になりたい、そう願いませんか。それにはなによりも、みことばを学ぶ必要があります。ともに見てまいりましょう。  まずは12節です。……この短い節には、実にいろいろな要素が含まれています。第一に、いつも従順であったように、というみことばからわかるように、ピリピ教会の聖徒を特徴づけていたことは、「従順であった」ということです。  従順である、ということは、キリスト者として身に着けるべき特性ではありますが、これを身に着けることは実に難しいことです。なぜならば、私たちはとかく、自分の生きたいように生き、やりたいようにやる存在だからです。  そういう、自己中心で生きていた私たちが、神さま中心で生きるようになるとき、私たちは従順という特性を身に着けることができるようになります。しかしそのためにはどうすればいいでしょうか? 砕かれている必要があります。自我に死んでいる必要があります。自分の自我を、十字架につけている必要があります。そうじゃないから、私たちは自分の好きなように生きたくなるのです。砕かれなければなりません。  では、そのためにはどうしなければならないでしょうか? あえてきついことばを使いますが、自分に絶望する必要があります。しかしこれは、自暴自棄になりなさい、という意味ではまったくありません。そうではなく、自分は何者でもない、と、とことんまでも思うことです。  自分はイエスさまを十字架につけてしまったほどの罪人ではないか、自分はなんとひどい罪人なのだろうか……そのように私たちは、日々十字架の前に自分を差し出し、ひたすらにあわれみを求めることが必要です。そのとき私たちは、よみがえってくださったイエスさまが優しく私たちの手を引いて、いのちの道へと導いてくださるのを知ることができるようになります。私たちはただ、その手を引いて歩き出すのみです。そのとき私たちは、従順の歩みに喜んで自分自身を差し出すことができるようになります。  ピリピ教会の人はそれができていました。それができたのは、パウロがピリピ教会を牧会していたとき、そのように彼らのことを導いたからです。しかし今は、そのように導いた群れからパウロは遠く離れていました。そこで、パウロは改めてピリピ教会に、従順ということを強調する必要がありました。そうです、教会の群れが主に従順であるためには、そのように導く指導者を必要としています。  とは申しましても、聖書のこの箇所を読みさえすれば従順な生き方がいつでも、だれにでもできるわけではありません。この箇所がピリピ教会にとって意味があったのは、これを書いたパウロが、心血注いでピリピ教会を育ててくれた人であったからです。私たちは、牧会者の導く教会から離れて、従順の歩みをなしていくことはできません。もし私たちが従順でありたいと願うならば、とにかく教会から離れないことです。私も、愛するみなさんが従順の歩みをなすために召されていると考えると、身震いするような思いですが、主の恵みによってこの任に謙遜にあたらせていただくのみです。  では、従順であることはどのような奨めへとつながるでしょうか? パウロがともにいたときはもちろんのこと、パウロのいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい、ということです。  従順であるためには教会という場において牧会のもとに身を置くべきことは、今申し上げたとおりです。しかし、牧師は四六時中、みなさんの霊的生活を見張ることも管理することもできません。いまはLINEのようなお互いがつながるための便利なツールがありますが、それとて、みなさんの生活を四六時中、まるで監視するように管理することなどできません。  あの大使徒パウロにしても、ピリピ教会に手紙を送ることが、彼にとって精いっぱいできることでした。みなさんにしても、牧師の面前ではない、教会の人たちの面前ではないときが、ほんとうの自分であると考えるべきです。それでもそのときには変わらず、神さまの御前に私たちはいます。目に見えない神さまを、私たちは意識できていますでしょうか? そのときも私たちが、主の御前で徹底して生きることができるか、これが従順の生活における鍵です。  そのように、牧会者がともにいないような状況において、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」とあります。この手紙全体を読んでみますと、ピリピ教会は実に模範的な素晴らしい教会だったことがわかります。しかし、そんな教会でも、このようなパウロの奨めを必要としておりました。いわんや私たち、使徒パウロに直接教えを受けていないような者たちは、どれほどこのみことばを必要としていることでしょうか!  私たちは砕かれても砕かれても、なお自我の生きているようなどうしようもない存在です。牧会者がともにいなかろうとも、救いを達成しなければなりません  救いというものは、一生かけて達成するものです。イエスさまを受け入れ、バプテスマを受けてから、そのいのちが地上から取られるまで、私たちはひたすら、主の御前に徹底して生きていくべき存在です。その従順の歩みをさせまいとする自我を絶えず十字架につけ、みことばをつねに開き、つねに祈りつつ歩む存在です。  さて、この奨めは個人に対してではなく、ピリピ教会全体に対してなされていることも心に留めましょう。救いの達成は、教会全体で取り組むことです。私たちがみなそろって救いを達成できるように、私たちの中から落後する者が出ないように、互いのために祈ることです。互いのために祈るためには、互いに対して関心を持つことです。  むかし、ある伝道者の先生が、教会の中ではあまり世俗的な話をしないで、もっと聖なる話をしてほしい、なんてことをおっしゃっていましたが、私は基本的には同意するものの、一方で、俗っぽい話も大歓迎だ、と思っています。そのようにざっくばらんに話すことで、お互いに対してオープンになるほうが、しゃちほこばって聖なる話をしようと努めるよりもよほど自然ですし、お互いのことをイメージしやすくなり、とりなして祈りやすくなれます。そして普段の生活の中で、ふとその兄弟姉妹のことを思い出したならば、その兄弟姉妹をおぼえて祈りましょう。祈ることは、ともに救いを達成する歩みを続けていけますように、ということです。  13節にまいります。有名な箇所です。これはちょっと、みなさんで声に出してお読みしてみましょう。……このみことばは、学生時代、好んで暗唱する若者によく出会ったものでした。しかしこのみことばは、単なる可能性思考、積極性思考を主が後押ししてくださるみことばだと解釈してはなりません。その「志」や「事」が、主が導いてくださったことだと確信するあまり、後に引けなくなってしまい、頑張りすぎたり、周りの人たちを巻き込んで迷惑をかけたりといったことが起こるならば、目も当てられません。  この13節は、その前の節の12節のつづきとしてとらえるべきです。ここでいう志とは何でしょうか? 救いを達成する従順の歩みをしたいという志です。事とは何でしょうか? 救いを達成するための従順の歩みそのものです。そういう前提で読むべきですから、自分の野心は神から来たものだ、文句あるか、とばかりに振る舞う根拠として、このみことばを用いることは、まったく間違っています。  ですから、救いを達成するための従順の歩みも、主がその思いを与えてくださり、主がその歩みを一歩一歩導いてくださると考えるべきです。そうです。この歩みは、自分の意志、自分の頑張りでできるものではありません。私たちが従順などということばを聞くと、いかにも自分が頑張らなければとイメージしてしまいがちではないでしょうか? しかし、聖霊の導きというものは、そんな苦しいものではありません。  でも、もしかして、従順でありたいと願うあまり、苦しくなったりしてはいないでしょうか? そういう場合はちょっと静まって、主との交わりを回復する必要があります。もし、うちの教会に、疲れているメンバーがいらっしゃるならば、その人がきちんと休んで主のとの交わりの中で回復できるように、いたわってあげましょう。  その流れで14節をお読みします。……これだって、言われたことはつべこべ言わずに何でもやれ、という意味にとってはなりません。  このみことばは、はっきり間違っているものに対する疑問や不満、不安に蓋をして、思考停止をしてロボットのように行動しなさい、などという意味ではありません。このみことばをここだけ切り取って守り行おうとするならば、教会が目も当てられないカルトになってしまいます。  やはりこれも流れの中で読みましょう。ここで言うすべてのこととは、救いの達成のための従順の歩み、ということです。みことばをお読みするとしばしば、従いにくい箇所、わかりにくい箇所に出会います。時には、受け入れがたい箇所に出会うこともあるでしょう。そういうとき、私たちは自分の感情を優先すべきでしょうか、それともみことばを優先すべきでしょうか? そう、もちろん、みことばです。もちろん、聖書に対する疑問を持つことは健全なことです。しかしその疑問を持ったとき、だから聖書は間違っている、と考えるならば大きな問題です。疑問は疑問として、主がそれでもよいように導いてくださるという信頼を抱いて、御手に引かれてまいりたいものです。  15節と16節は、なぜ不平を言わずに、疑わずに行うべきかということの理由を記しています。それは、結論から言えば、私たちが曲がった邪悪な人たちに満ちているこの世の中で、傷のない神の子どもとして生きるため、そして、世の光として輝くためです。  不平を言わず、疑わない従順の歩みにより、世の光として輝くことは、このみことばによれば3つの要素を含んでいます。第一に、非難されるところのない純真な者となる、ということです。うちの教会にも小さなお子さんがいますが、子どもというものは、大それた罪を犯すことなどそもそもありえない存在です。その、純粋な子どものように純真な、非難されることのない者になる、ということです。ここで要求されていることは、悪いことははっきり悪いと判断でき、その悪いことからきっぱり手を引くことのできる勇気と実践を備えた人になる、ということです。そのようにして、私たちの中から非難されるべき悪いことを取り除ける人になる必要があります。  しかし、私たちは簡単にその歩みができるわけではありません。私たちは自分の努力で純真な者になどなれません。私たちは日々、御霊の交わりを体験する必要があります。御霊なる神さまに、私たちの心の中の罪をひとつひとつ照らし出していただき、ことごとく悔い改める歩みをなしていく必要があります。  第二の要素は、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもになる、ということです。私たちの生きている世界は、天国ではありません。イエスさまに従おうとしない人たちに囲まれて生きています。私たちはそのような世界に生きていると、ともすればこの世に調子を合わせて生きるほうがよほど楽だ、などとならないでしょうか。  しかし、そのように世に流されて生きるならば、私たちの従順の生き方は傷つけられてしまいます。主ではないものに従い、気がつくと私たちの人生は、主の恵みをまるで感じられなくなってしまいます。私たちはそのようなものに囲まれて生きようとも、決してそれに溺れることなく、自分を保つ必要があります。自分を保つためには、何がみこころにかなっていることであり、何がかなっていないことであるかを、つねにみことばから学ぶ必要があります。みことばを読むことも大事ですし、みことばを解き明かす信仰書籍を読むことも大事ですし、みことばを実践した証しに耳を傾けることも大事です。そのようにして、みことばの基準を自分の中に確立し、みこころにかなうものを採り入れ、みこころにかなわないものから身を避けてまいりたいものです。  第三の要素は、いのちのことばをしっかり握る、ということです。そう、みことばを読むことが大事です。それも読み流すようにただ読めばいいのではなくて、みことばを握ることです。  握る、ということがイメージできますでしょうか? 握ったら離さない。ひたすら握る。崖を登るとき、目の前のロープをしっかり握って登るはずです。そういうふうに、ひたすらにみことばにしがみつくことです。読み流すのではない、しっかり頭に刻み込む、折にふれて思い出し、そのみことばを唱えながら祈る。 これらすべてのことを通して、私たちは世の光として輝きます。ことばを変えれば、主のご栄光を現します。そのためにも、私たちは純真な者とされるように、御霊の満たしと導きを絶えずいただきましょう。みことばの基準を自分の中に確立しましょう。そして、みことばそのものを自分の中にしっかり蓄えてまいりましょう。 16節の後半以降、18節まで、パウロのメッセージはにわかに終末的な様相を帯びてきます。それはこの世の終末でもあり、パウロ個人の終末でもあります。「そうすれば」以降、18節の終わりまでお読みします。……16節をお読みしますと、パウロは終わりの日、キリストが再臨される日に、ピリピ教会の聖徒たちが主の栄光を現す者となるように仕えることができたことを、御前で誇ることができる、と語っているわけです。 パウロがそのように教会に献身してきた姿勢は、17節の表現で明らかになります。ピリピ教会が心から主の御前にささげている礼拝とともに、パウロはいずれ、自分のいのちを主にささげることを語っています。注ぎのささげ物というのは、子羊のいけにえとともにささげる強いぶどう酒のことを意味しています。子羊イエスさまの十字架の犠牲とともに、殉教の血を流すことをパウロは予見しています。パウロは主の御国に献身したゆえに、この地上では迫害を受け、殺されます。しかし、私は喜びます、と語っています。そればかりではなく、あなたがたも一緒に喜んでください、と、このわずか2節のうちに四度も「喜ぶ」ということばを用いて、ピリピ教会の聖徒たちに「喜ぶ」ことを強く勧めています。 普通に考えれば、パウロが殉教することは、パウロが愛情込めて育ててきた教会にとって、喜べることなどではありません。悲しむべきことです。しかしパウロは、どうか人間的なことを考えず、主の視点に立って物事を見てほしい、と勧めているのです。自分の死によって福音の正しさが証しされるならば、これ以上のあかしがあるだろうか、これ以上主のご栄光が現れるだろうか、ピリピ教会の兄弟姉妹、どうか、われわれが主のご栄光をいかに現すかということを何にもまして考えてほしい……。 主の栄光が顕されるならば、それは喜ぶべきことです。しかし、その喜びを究極的に体験できるのはいつでしょうか? この地上で救いを達成する歩みを成し遂げたあかつきに、キリストの日、終わりの日に、主の御前で心からの礼拝をおささげする日です。その日、主のご栄光は、今まで見たこともないような輝きで輝きます。私たちが主のご栄光を仰ぎ、主のご栄光を現すのです。私たちの地上の歩みは、その最後の日の究極の礼拝に向けての練習、予行演習です。 もう一度12節をお読みしましょう。お祈りします。