聖書箇所;ピリピ人への手紙2章1節~11節
メッセージ題目;「生きることはキリスト」の意味
先週の主日礼拝の聖書本文に、パウロのことばとして、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」というみことばが登場します。「死ぬことは益です」、なかなか衝撃的なことばではありますが、最終的に苦しみも悲しみもない天の御国に入れられるパウロの思いを考えれば、それは理解できます。では、「生きることはキリスト」の方はどう考えるべきでしょうか?
私がこのみことばをはじめてお読みしたのは、高校2年生のときで、当時の聖書の訳だった「新改訳聖書第二版」も、同じ訳し方をしています。「生きることはキリスト」。なかなか衝撃的な表現で、また、チャレンジを与えてくれるみことばだと思いました。
しかしそれなら、私たちは「生きることはキリストです」と言い切れるような生き方をしているでしょうか? いや、もし現実にできていなかったとして、それならどのような方向性で生きる必要があるでしょうか?
それを語っているのが、今日の箇所です。前半は、「生きることはキリスト」をいかに実践すべきか、ということを語り、後半は、そのキリスト・イエスなるお方はどのように生きられたか、を語っています。
まず、今日の本文の1節をお読みします。……あなたがたピリピ教会がもしこれこれこのような教会だったら、と、理想的なキリストの教会のあり方について4つないしは5つの特徴を挙げて述べています。ひとつひとつ見てまいります。第一に理想的な教会は、キリストにあって励ましがある教会です。
私たちはこのきびしい世に生きている以上、傷つきますし、倒れそうにもなります。いったい、励ましを必要となんてしていない人が、教会に来るものなのでしょうか? 私たちはみな、周りの兄弟姉妹から励ましをいただいてよいのです。どうぞ、遠慮なく弱い自分をさらけ出し、みんなに励ましてもらってください。その代わり、こちらも同じくらい人を励ましていく必要があります。私たちは、励ましを必要としている兄弟姉妹の存在に気づいていますでしょうか? どんなことで励ましを必要としているか、単に察したりとか、噂で聞いたりとかというレベルではなく、きちんと親身になって聞いてあげて、祈ってあげているでしょうか?
第二に「愛の慰め」のある教会です。慰めとは何でしょうか? 傷ついている人、さびしい人、落ち込んでいる人のいたみをいやすべく、やさしいことばをかけることです。あるいはことばでなくても、同性同士だったらハグしてあげるなど、触れてあげることでやさしさを伝え、いたみをいやす取り組みをすること、それが慰めることです。
「癒やし系」ってことばがありますね。一緒にいるだけで心安らぐような。そういう、いるだけで傷だらけの心が慰められ、いやされるような人になれたらな、などと思います。むかしいた教会で、まだ信者さんになったばかりの年上の男性から言われたものです。「武井先生はときどき、すごくおっかない顔をしています。」うんうんとうなずいた方がいらっしゃらないか不安です。私もそのおことばを聞いて以来、気をつけるようにしていますし、今回メッセージをつくるにあたって、そんな自分の失敗をあらためて考え、もっといい雰囲気をつくらなければ、と思わされました。
第三に「御霊の交わり」のある教会です。私たちの群れが単なる「聖書研究サークル」のたぐいではなく、「教会」と呼ぶべきものなのは、そこに御霊の交わりがあるからです。私たちは御霊によって、イエスさまを主と告白します。私たちは御霊によって、主なるイエスさまを信じ従う群れを形づくります。だから私たちはみな、水戸第一聖書バプテスト教会というこの共同体に、御霊なる神さまをつねに歓迎するお祈りをささげる必要があります。御霊を送ってくださり、私たちを一致させてくださり、絶えず主の恵みを分かち合う共同体として成長させてくださるように、私たちはお祈りする必要があります。
そして第四に「愛情とあわれみ」のある教会です。これは、「愛情とあわれみ」とセットになっていますので、「愛情のあるあわれみ」と解釈してもいいですし、「愛情」そして「あわれみ」と解釈してもよいでしょう。
愛情ですが、これはなんといっても、神さまの愛情、アガペーの愛。それがどのようなものかを知るためには、やはり、神さまがどのような愛情を私たちに注いでおられるか、日々みことばから学ぶ必要があります。
みことばを読まなければ、ああ、神さまはこんな私のことを愛してくださっているんだなあ、ということは、実感しようにもできません。そして、神さまの愛は自分ひとりだけが受けてそれで終わりでは、すぐになくなってしまいます。聖書全体を繰り返し読むことで身に着けた愛情を、家族、そして兄弟姉妹に注ぐこと、実際の行動に移してその愛を実践すること、これによって、神さまの愛情は群れのただ中に育ち、いつまでも保たれます。
そしてあわれみですが、これも主の御思いを持ってこそ、兄弟姉妹に注ぐことのできるものです。兄弟姉妹が苦しんでいるとき、私たちの心が動かされるならば、それでこそ私たちはキリスト者としてふさわしい者です。ヤコブの手紙2章13節に、あわれみを示したことのない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです、とあります。
正義を振りかざして人をさばくこと、これは、身もふたもない言い方をすると、とても気持ちよいものです。いかにも自分は正義の味方だ、神の義をこの世に成し遂げことをした、と、自分に酔っていい気持ちになります。しかし、それは神さまのほんとうのみこころである、愛、あわれみを、少しも実現してなどいません。
分かりやすい例として、創世記9章のノアの子どもたちのことを挙げることができるでしょう。家族とともに方舟に乗って大洪水を乗り切ったノアは、ブドウを栽培する人になりました。ある日、ノアは、そのブドウで造ったぶどう酒を飲んで、不覚にも酔っぱらって裸になって寝てしまいました。その姿を見た息子のハムは、かりにも父親のそんなあられもない姿はそっと何かかけてあげて隠してあげたらよかったものを、わざわざ、天幕の外に出て、兄弟のセムとヤフェテに、お父さんが裸で寝ていることをわざわざ告げ口しました。
それを聞いた二人はどうしたでしょうか? 二人して一枚の毛布を背中にしたまま、並んで後ろ向きに歩き、父ノアの上に毛布をかけてあげ、最後まで父の恥ずかしい姿を見ませんでした。
これがさばかないこと、あわれむことです。聖書のみことばは、セムとヤフェテのこの行いをほめ、ハムの言動を悪いものと評価しています。
私たちは聖書を読むと、どうしても、罪とは何か、とか、悪い言動とはどういうものか、ということが、見えてきます。しかしそれなら、そのみことばにネガティブに映し出された自分のことを悔い改めるという実が結ばれなければなりません。いけないのは、そのみことばを見て、ああ、○○さんもこうだ、このみことばを読んでほしいな、悔い改めてほしいな、と、人様に適用することです。これは、さばくことです。そういう読み方をしているなら、自分の目の梁も取り除けずに、人様の目のちりを取らせてもらおうとする態度であるわけです。
あわれみは、それとはちがいます。みことばを守り行いたくても守り行えない、その人はきっと、神さまの御前にとても申し訳ない気持ちでいるにちがいない……私たちのすることは、そんな人をさばくことではありません。その人に主のかぎりない愛とあわれみが注がれるように、祈ることです。そのようにあわれみを実践する人が、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、あわれみを受けます。神さまから直接あわれみを受けることもありますし、神さまがだれか人をとおしてあわれんでくださることもあります。
ともかく、私たちキリスト教会は、キリストを主と告白し、御霊によって結び合わされている共同体です。日々キリストの似姿に変えられている集いです。今あげたような、キリストのある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを日々増し加えられている存在です。
パウロも、ピリピ教会がそのように成長していることを期待していました。そこで2節以下のように勧めています。まずは2節です。4つの奨めをしています。同じ思いとなりなさい。同じ愛の心を持ちなさい。心を合わせなさい。思いを一つにしなさい……なんと、同じことを、表現を変えながら、4度も繰り返し語っています。要するに、教会の兄弟姉妹はひとつになりなさい、ということです。
そうです、ひとつになること、ひとつであることは、教会にとってとても大事なことです。私たちはなにによって一致するのでしょうか。キリストにあって一致するのです。同じキリストを信じ、ともにキリストに従うことで、私たちには一致が与えられます。
パウロは、教会がそのようにして一致を保つことにより、自分の喜びが満たされると語っています。そう、ここでも「喜び」が出てまいります。あなたがたが一致を保つことが、私にはうれしいのですよ……パウロは、キリストにあってピリピ教会を産んだ牧会者として、心から奨めています。私たちも一致を保つならば、その姿を主は喜んでくださいます。
3節にまいります。……利己的な思いや虚栄によって行動してはならない、と戒めています。利己的な思い、そう、私たちは、自分さえよければ、という、罪深い思いにいつも捕らわれるものです。また、虚栄ですが、私たちは自分がほめられたい、自分を大きく見せたいという名誉欲に、いつも支配されそうになります。あの、主に反逆する人間の行動であった、バベルの塔を建てることも、「名を上げる」ことがその大きな動機としてありました。そういう「名を上げたい」思いが、キリスト教会の交わりの中に持ち込まれる危険がつねにあります。私たちは絶えずそれを警戒しなければなりません。
あえてこの場で申し上げますが、日本の教会は長らく、小さいこと、信徒も教会も少ないこと、要するに弱小なことに、コンプレックスをもってきました。私も長らく、そのひとりでした。
そんな日本の教会ならびにクリスチャンが、「強い」アメリカや韓国の教会と比較し、いずれは彼らのようになりたい、彼らのようになろう、という思いを、日本の牧師たちは信徒たちに吹き込んできたのではないかと思います。私も、アメリカや韓国の教会のようになれればいいな、と思ったのは事実ですし、何よりも私が韓国の巨大な神学校で学んだのは、そんな動機があったからでした。
しかし、その動機の中に、「利己的な思い」や「虚栄心」という名の偶像、すなわち、神さまのみこころと関係なく、そういう「大きくて強い」教会につながること、そういう教会の牧師となることへの願いがあったならば、それは神さまのみこころを成し遂げる動機であってはならなかったことになります。どうでしょう? これまで日本の教会は、アメリカや韓国の教会の中で質、量ともに大きくなった教会があると聞いたら、その秘訣を知ろうと、遠路はるばるセミナーに行って、学びに精を出したものでした。
しかし、そのような大きくて堅実な教会は、主との関係の中で建て上げてそのような強い群れになったわけで、それを、真似さえすれば教会を大きく、強くできる、という動機で牧会に採り入れようとするのは、実は利己的な虚栄心のたぐいではなかったか、私はとても悔い改めさせられています。だからこそ、私があのサラン教会で弟子訓練の牧会を体験しながらも、そのほんとうの目指していることを私が身をもって理解できるようになるまで、神さまは18年の長きにわたって、私にその牧会を実践することをお許しにならなかったのだ、と理解しています。
これは教会形成という点における利己心や虚栄心の問題です。教会形成という「きよい」みこころを祈り求める場にしてそうならば、いわんや私たち、この世と伍して生きていく身には、どれほど、利己心や虚栄心は、主のみこころを守り行う上で大きな妨げになるか、と、考えずにはいられません。
どうすればいいのでしょうか? へりくだることです。具体的には、ほかの人を自分よりもすぐれた人と思うことです。これがだれに対しても、心からできるならば、それは教会としてふさわしい姿です。そう、だれに対してもです。ちょっと癖があって受け入れがたい人のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。小さな子どものことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。子どもや若者のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。
できますか? しかし、イエスさまはそのように振る舞われたお方です。イエスさまは子どもたちを邪魔者扱いする弟子たちを情け容赦なくお叱りになり、子どもたちひとりひとりに手を置いて祝福してくださいました。そしてイエスさまは、ひどい接し方をしてくる宗教指導者たちにも、最後まで忍耐してお相手してくださいました。イエスさまにとって、ご自身よりすぐれた人など一人としてこの世にいないのに、イエスさまはとにかくへりくだって人に接されました。このイエスさまのお姿にならうとき、私たちはだれのことも、自分よりすぐれた存在と見ることができるようになります。
4節にまいります。……前提として、私たちは自分のことを顧みる必要があります。私たちひとりひとりは、主につくられて愛されている、かけがえのない存在です。私たち人間は与えられたいのちを粗末にしてはなりませんし、主から自分に託された領域を、できる限り拡大していく必要があります。しかし、それをしたうえで、私たちは他の人たちのことを顧みる必要があります。
教会の交わりの中には、いろいろな事情によって、自分のことを顧みることもままならない人がいるものです。私は日本と韓国を何度か往復し、それぞれの教会のいろいろな面を見てまいりましたが、全体に日本の教会は、さきほど申し上げたことの繰り返しのようになりますが、弱い人が教会全体に占める割合の多い傾向があります。まさしく、この世の弱い者たちを主がお選びになったという、その摂理を見る思いがいたします。
しかし、この弱い人たちが弱いままでいて、いつまでも強くならないならばどうでしょうか。それがみこころにかなった教会形成と言えるでしょうか。私たちのうちにいろいろな面で弱さを抱えている兄弟姉妹がいるならば、その弱さをケアすべく、教会の兄弟姉妹は関心を持ち、関わっていく必要があります。
もっとも、ほかの兄弟姉妹を顧みる前提は、自分のことを顧みることができているということです。自分のことも顧みることもできないで、人の問題に関わってばかりいる兄弟姉妹というのはいるものですが、そういう者たちに対して、日本にはことわざがあります。「己の頭の蠅を追え」。このことは第二テサロニケのみことばでも、パウロははっきり語っています。自分のことを顧みてこそ、人の問題にはじめて関われるのですから、私たちは、自分を顧みることを優先的に行なってまいりましょう。その上で、弱い兄弟姉妹に関わってまいりましょう。
5節をお読みします。……以上、パウロがピリピ教会に求めている姿勢は、イエスさまにならうことであると語っています。そう、これこそ、「生きることはキリスト」ということです。
ここから先、6節から11節は、「生きることはキリスト」の実際、すなわち、「キリストはどう生きられたか」を、簡潔に、しかし必要なことはすべて押さえて述べています。この箇所は大きく2つに分かれますが、まずは前半、6節から8節までをお読みします。
まずは6節です。キリストは神の御姿であられました。全知全能なるお方、完全な愛、完全な義、完全な聖、完全な美、完全な善なるお方です。そして、この世界を創造され、私たちひとりひとりを創造されたお方でいらっしゃいます。このお方こそ、賛美を受けるにふさわしい方です。
だがこのお方は、神としての在り方をお捨てになりました。本来、そうしなければならない理由など何ひとつとしてないのに、このような被造物、すなわち創造主に劣る存在のために、神としての在り方を捨てられる選択をされたのでした。
7節にまいります。イエスさまはご自分を無にされました。全知全能なる神が人として母の胎から赤ちゃんの姿で生まれるなど、これほどまでにご自分を無にすることはありません。そして、支配される神、すべての上に君臨される神が、仕える人間の姿となられました。
8節にまいります。イエスさまは自分を卑しくされました。本来、すべての人がイエスさまをほめたたえるべきでしたが、イエスさまは賛美どころか、ののしることばを一身に浴び、殴られ、むち打たれ、つばをかけられました。何の罪もなかったにもかかわらず、あたかもさばかれる罪人のように、イエスさまはご自身を宗教指導者たちの手にお委ねになりました。そしてイエスさまは死なれました。それも、十字架にかかって死なれました。この上なく残酷な方法で、本来罪ののろいを受けて滅ぼされるしかなかった私たちの身代わりに、のろわれた者となってくださったのでした。しかし、この十字架にかかって死なれたのは、「従われました」とあるとおり、御父のみこころに最後まで従順に従うことでした。
9節以下、大きな逆転が起こります。御父はイエスさまを復活させてくださり、天に挙げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。10節と11節、すべての名にまさる名は、信じお従いする人がみなほめたたえるべき御名です。そして、イエスさまが主であると告白することは、御父の御名がほめたたえられることです。
この、すべての人が集められて御座におられるイエスさまを賛美するのは、終わりの日に実現することです。そして私たちも、主とともに治めるものとなります。
その日に至るまで、私たちはひたすら、へりくだった生き方をするのみです。私たちはともすれば、威張りたい、人の上に立ちたい、と願うものです。しかしイエスさまが私たちにお示しになった生き方は、へりくだった生き方、仕える生き方です。実に十字架の死をもって、御父に従い、人々に仕える生き方を実践された、このイエスさまにならい、日々の歩みに取り組んでまいりましょう。
どうすることがそのへりくだった歩みをすることなのか、最後にもう一度、1節から5節を振り返りましょう。……キリストにならったこの歩みを地上の生涯で全うし、終わりの日に、「よくやった。よい忠実なしもべだ」とほめていただける私たちになることができますように、主の御名によってお祈りいたします。