聖書箇所;ヨハネの福音書3章31節~36節
メッセージ題目;神の怒りから救われる恵み
私たちはよく「救い」とか「救われる」とかいうことばを口にします。「イエスさまは救い主、ハレルヤ!」まことに結構なことです。しかし、それなら私たちは、「何から救っていただいたか」を、ちゃんと理解していますでしょうか? それがわかっているのといないのとでは、信仰生活に根本的なちがいが生じてきます。
「罪から救われた」とか「サタンから救われた」という言い方をするかもしれません。それはそのとおりでしょう。しかし、根本的な「救い」ということを考慮するならば、その言い方で充分なのか、よく考える必要があります。
私の携帯電話には『新改訳聖書2017』のアプリが入れてあり、このアプリは、ちょっとキーワードを入れれば、そのキーワードが聖書のどの箇所に出てきて、しかもそれは聖書全体に何件登場するか、みな表示してくれます。そこで私は今回、まず、このメッセージを書くにあたって、「~から」の「から」の二文字、そして、「救い」の、送り仮名を送っていない「救(キュウ)」の一文字、合わせて3文字を入力し、検索してみました。すると、109件ヒットしました。109件です。旧約新約通して、結構出てくるのです。
ほとんどの場合、「苦しみから苦しみのない状態へと、痛みから痛みのない状態へと、破滅からいのちへと」救われる、ということを語ります。ペテロは「この曲った時代から救われなさい」と人々に呼びかけていますが、それは、曲がった時代は人々を痛みと破滅に導くからです。
私たちがもし、「罪から救われた」とか「サタンから救われた」という言い方をするならば、それは、その結果、痛みを伴って破滅することがわかっているからです。そんな目には絶対に会いたくないから、ということでしょう。私たちはふつう、救いというものを、そのように理解しているのではないでしょうか。
しかし、こうして聖書の箇所を片っ端から見ると、その中で異彩を放つ箇所があることに気がつきます。ヨシュア記22章31節と、ホセア2章10節です。ヨシュア記の方は、ルベン族、ガド族、マナセ族が、ほかのイスラエルの部族とともに敵と戦った結果を、「あなたがたは今、イスラエルの子らを主の手から救い出した」とあります。なんと、主の手から救い出された、というのです。そしてホセアのほうは、恥の暴かれたイスラエルのことを、主の手から救い出せるものはいない、という、これまた怖ろしい宣言です。
そうだとすると、なんと、私たちが救われなければならないのは、「主の御手」からであることがわかります。しかし、私たちは普段、「神は愛です」とか「神はあなたの人生に素晴らしい計画をお持ちです」とか、神の愛を教え、学び、分かち合っているゆえ、よもや神から救われなければならない、とは考えないのではないでしょうか。しかし、このみことばは厳然と、その事実を語ります。
もう少し具体的に言うと、神の「怒り」から救われるべきである、ということです。神のその怒りを免れる人は、ひとりとしていません。まさに、「義人はいない。ひとりもいない」と聖書は語っており、義ではない、神を神としない、不従順の罪の中にいるゆえに、神さまはそういう人間に、怒りをもって臨まれるのです。
それでも私たちは、「いやいや、神は愛ですから!」と言うのでしょうか? しかしそれなら、私たちは神の愛をちゃんと受け取っているのでしょうか? つまり、愛されているにふさわしい生き方ができているのでしょうか? 愛する者に対して神さまが求めておられることに、ことごとく誠実にお答えしているでしょうか? 答えは、「ノー」です。私たちは神さまの求めておられる基準に、合格しているには程遠い状態です。
なぜでしょうか? まず、私たちの側から、神さまを拒絶してしまっているからです。それなのに、「神は愛です」などと主張し、いかにも自分は愛されて当然の態度を取るのですから、厚かましいにもほどがあります。
長い前置きになりましたが、今日の本文はいたって簡単なことを語っています。31節。上から来られる方、言い換えれば、天から来られる方は、すべてのものの上におられる、と語ります。上におられる方、天におられる方、というならば、すべてのものの上におられる、というのはわかるでしょう。しかし、上から、天から来られる方が、すべてのものの上におられる、これが、聖書の語ることです。
このお方はどなたでしょうか? ヨハネの福音書3章13節の語るとおり、それは人の子、イエスさまです。イエスさまは地上に人としておられても、変わらずに、天におられる神さまなのです。しかし、同じ31節、イエスさまとはどのようなお方かを語るみことばに挟まれた一文は、「地から出る者は地に属し、地のことを話す」と語ります。この「地」とは、神さまのおられる天と隔絶された、罪に満ちた世界です。人間とはだれであれ例外なく、この「地」から取られ、「地」に還る存在です(創世記3:17~19)。人は「地」から取られたゆえに、「地」のことばを話す、すなわち、本来、神のことばをもって創造されたゆえに神と交わるべき存在なのに、天におられる神を拒絶したゆえに「地」のことばしか話せなくなったわけです。
人間にとってすべきこと、してはならないことは、モーセをとおして神さまが民に授けてくださった律法、ことに「十戒」に明示されていますが、そのことばに示されたことに反するならば、罪であるわけです。それでも人間はその戒めを破り、神さまに対して罪を犯します。それは、神さまの求めておられることよりも、自分の中の論理のほうを正しいとしているからです。地に属するゆえに、みことばをわかったつもりになっていても、それよりも自分の欲望の論理のほうを優先させる、取っている行動は神のみこころを顕すことには程遠い、罪の欲望の実践、それが「地のことばを話す」ということです。
32節。天におられたイエスさまは、父、御子、御霊の交わりの中で、つねに神ご自身とそのみわざを「見て」、神ご自身とそのみことばに「聴く」ことを体験されました。そのとおりに、イエスさまは人の世界、地にお下りになり、みわざをもって神を「お見せになり」、みことばをもって神を「お聴かせになり」ました。
しかし、人間は地に属しているから、つまり、人間にとっては、天と隔絶されたこの世界が自分のすべてだから、イエスさまのそのみわざも、みことばも、自分とは次元が違いすぎて、受け入れられない、ゆえに、イエスさまを主と信じて従うことができないのです。もっといえば、神のみことばが受肉したイエスさまのことを、そうと受け入れない、ただの人、せいぜいが、ローマを成敗するユダヤの王さま、くらいにしか受け入れられなかったのです。間違っても、主なる神さまではなかった。
しかし、33節をご覧ください。そのような中でも、イエスさまの天からの証しを受け入れる人がいたのです。そういう人は、このみことばによれば、神さまが真実であると印を押している、つまり、そう信じていることを、自分でもはっきりさせているということです。この印鑑はだれとの契約で押すのでしょうか? そうです、神さまです。
私たちはこのことを、イエスさまを信じ受け入れるお祈りをすることによって行います。そして、そのように神さまとの間に契約の印を押し、神の御国、神の家族、神さまの与えてくださる永遠のいのちに入れられていることを、私たちは、父・御子・御霊の名によるバプテスマを受けることをもって、公にするのです。
では、地に住む人間であるゆえに、証しを受け入れることなどできないはずだったのに、その人がそのようにできたのはなぜでしょうか? それは、そのように神さまがその人のことを、恵みのゆえに選んで、召してくださったからです。人間から出たことではありません。なぜなら、人間の側からはどんなに頑張っても、けっして神さまのもとには行けないからです。
それでも神さまは、人が神さまを「信じる」、そして「お従いする」決断を、人の側が主体的にするようにお導きになります。信仰を持つことは人間の側で何ひとつしなくてもいい、オートマチックで成り立つことではありません。人間の側にも、お従いすることにおいて、責任が伴います。
34節は、天から遣わされたイエスさまは、なぜ、人として地に住む人の前に現れながら、なお、天のことば、すなわち、神のことばをお語りになるかを説明しています。御父から御霊なる神さまが、かぎりなく、イエスさまへと送られているからです。ゆえに、イエスさまは地の肉体を取られ、地の人とともに生活されているから、一見すると地の人と同じことばを語っておられるようでも、実際は神のことばを語っておられるのです。
このように、地に送られた神の御子、イエスさまは、御父とどのような関係にあるのでしょうか? 35節です。そうです、御父はイエスさまを愛していらっしゃいます。そして、世界のすべてをイエスさまにお与えになりました。御父がすべての主でいらっしゃるように、イエスさまもすべての主でいらっしゃいます。
だから、悪魔が荒野にてイエスさまを誘惑したとき、「俺様を拝めば世界のすべてをくれてやる」と言ったことは、根本からおかしいことになるわけです。イエスさまがその気になれば、なにも悪魔にひれ伏さなくても、悪魔の手から世界を奪還することなど朝飯前、イエスさまはそういうお方です。ただし、このときイエスさまがサタンに向かっておっしゃったことは、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」という、申命記のみことばでした。これが、サタンの手からこの世のすべてを奪還するイエスさまが、人に命じられた道であったのです。わたしがサタンにひれ伏さないように、人よ、サタンにひれ伏してはいけない。それでこそ、この世界はイエスさまのものとなる。
36節。このみことばは、「御子を信じる」という、永遠のいのちを持つことの反対は、「御子に聞き従わない」ということであると語ります。すると、御子を信じることは、御子に聞き従うことであり、逆に、御子に聞き従わないことは、つまり御子を信じていない、ということだと語ります。そういう人は、イエスさまを信じているから永遠のいのちを持つ、と信じているようで、実は信じていない。信じているならば、その永遠のいのちを与えてくださったイエスさまに聞き従っているはずだ、そういう、実際には信じていない者には、神の怒りがその人の上に臨んでいる、というわけです。
人は、生まれながらに御怒りを受けるべき存在です。しかし、神さまの恵みによって救っていただきました。それでも、私たちはうかうかしていると、神さまのみことばに聴き従うよりも、自分の法則のほうを優先します。早い話が、罪を犯すことを選択します。しかし、それはとりもなおさず、神さまに不従順になることを選択しているということであり、そういう選択をしたら神の怒りが自分の上にとどまると知っていながら、いやいや、神さまは愛だから、神さまはみな赦してくださっているから、と、開き直って罪を犯すわけです。
これはたいへんなことです。私たちは引き返せるうちに、罪を悔い改めなければなりません。救いというものはたしかに、世界の創造以前に定められているもので、そして、それゆえに、イエスさまを信じ受け入れる信仰を与えていただきました。しかし、それで終わりならば、私たちはかつて日本の一部の教会でブームになったように、イエスさまを信じ受け入れるお祈りに導いたら、その場で洗礼をその人に授けるだけ授けたらそれでよし、となってしまいます。そのやり方がふさわしくないといえるのは、もしそうだったら、そもそも教会など必要ないことになってしまうからです。
私たちの救いは一生かけて完成していくものです。その営みを励まし合う共同体、それが教会です。私たちのうち、ひとりとして、この営みから零れ落ちてしまう人が出てしまわないように、お互いのために祈り、励ます、そうして、みんなでともに救いを完成していく、それが私たち教会のすることです。
私たちは何も、隠しておきたい罪を赤裸々に告白し合う必要はありません。具体的な罪の告白は、神さまの御前にひそかに行うだけで充分です。しかし、罪を避けるためにどんな取り組みをすべきかを、互いに語り合えるほどの関係をつくれるならば、それはすばらしいことではないでしょうか。そのようにして、ともに救いを完成するのです。
まず、私たちの罪を告白しましょう。それから、罪赦されたどうし、ともに救いを完成する歩みをしていけるように祈りましょう。