花婿の友人の心得

聖書箇所:ヨハネの福音書3章22節~30節 メッセージ題目;花婿の友人の心得  私はこれまで、いろいろな方の結婚式に出させていただきましたが、式ごとに楽しいアトラクションがあり、それは今も想い出に残っています。ある方は、大学時代の「グライダー」のサークルの仲間たちが、ハンドベルを演奏して祝ってくれました。またある方は、お友だちがフラメンコギターで「亜麻色の髪の乙女」を弾いて祝ってくれました。いわく、「奥さんのことを思う旦那さんの気持ちを歌いました」だそうで、思わず笑ってしまいました。  さて、このアトラクションを演じられたのは、どちらも新郎のご友人でしたが、こういう、ゲストが何かアトラクションをする場合には、マナーというものがあります。それは、「新郎より目立ってしまわない」ということです。よくあることかもしれませんが、新郎の会社の上司がスピーチをする、そのとき、その会社の歴史を長々と述べて、いつまでたってもご飯が食べられない、これは困ります。  今日のメッセージのタイトルは「花婿の友人の心得」とおつけしました。花婿とはだれでしょうか? 花婿の友人とはだれでしょうか? 花婿の友人はどんな態度を取るべきでしょうか? 以下、見てまいりましょう。  22節です。イエスさまはヨハネがしていたように、人々にバプテスマを授けていらっしゃいました。このことからわかることは、バプテスマというものは人がイエスさまのものとして公に歩み出すうえで、主のみこころにかなった必須のものである、ということです。私たちバプテストは、イエスさまへの信仰は水に沈めるバプテスマをもって公にするものである、という立場を堅持して、イエスさまを信じた人にバプテスマを受けることを奨励します。  23節をご覧ください。バプテスマのヨハネも一方で、人々にバプテスマを授けていました。ヨハネが当時のユダヤの社会に大きな影響を及ぼしていたことは、福音書を読み合わせてみても確かにわかることですが、ヨハネのもとにバプテスマを受けにやってくる人たちがなお存在したことが、このみことばからわかります。24節を見ますと、ヨハネはまだ投獄されていなかった、とあり、ヨハネは、ヘロデ王の不法を糾弾することで王の逆鱗に触れ、逮捕、投獄されるまで、公の活動を続けていたことがうかがい知れます。  25節。あるユダヤ人、とありますが、ヨハネの福音書で「ユダヤ人」というと、「ユダヤ人を宗教的に統率する宗教指導者」という意味合いで使われていることが散見されます。   2章13節以下の、イエスさまの「宮きよめ」のみわざを責めた宗教指導者たちのことを、使徒ヨハネは「ユダヤ人たち」と言っています。ですから、バプテスマのヨハネの弟子たちが論争になった相手もまた、ユダヤの宗教指導者、もっといえば、バプテスマのヨハネのこともイエスさまのことも、自分たちの既得権益を脅かす存在として一緒くたに敵視する宗教家ということがほのめかされています。  その論争の内容は、「きよめについて」というものでした。イエスさまとヨハネの共通点は、「バプテスマを執り行う」ということです。バプテスマは人のからだを水に浸すことですが、これは「洗う」ということもまた象徴しています。そのことから一般に「バプテスマ」には「洗礼」という訳語が当てられています。「水に浸す」ということはまた、「罪のけがれを洗いきよめる」という意味もあるわけです。  バプテスマという形でその「きよめ」を人々に施していた、という点で、宗教指導者から見れば、ヨハネもイエスさまも、同じグループにあると見なされていたと言えます。  しかし、ヨハネの弟子は納得しませんでした。それは、26節の事情があったからです。……人々はもう、ヨハネからバプテスマを受けるのではなく、イエスさまの弟子共同体からバプテスマを受けるように、変わっていってしまったのでした。ヨハネの弟子たちは、それが我慢できませんでした。  しかし、このように不満を言う弟子たちに対して、ヨハネは言いました。まず、27節です。ことに主の働きをするのであるならば、天から受けているかどうか、これに尽きるのである、と。イエスさまにしてもヨハネにしても、天から受けた分で働く、ということです。  ほんらい、人々にバプテスマを施すという、いわば神の働きを地上で代行するような働きは、天から与えられた霊的権威をもってするものです。その、天に由来する霊的権威がヨハネから、イエスさまの弟子の群れへと引き移っていく、そのことをあなたがたは認めるべきだ、ということを、ヨハネは弟子たちに説いて聞かせているわけです。  28節のみことばは、ヨハネ自身の告白を、あなたがたは聞いて、証言できる立場にあるだろう、ということです。弟子たちは下手をすると、多くの人が考えていたように、ヨハネこそキリストだ、イエスはヨハネからバプテスマを受けた存在にすぎないから、バプテスマを授けてキリストのように振る舞う権限などないはずだ、と考えかねなかったわけです。ヨハネは、それは絶対にちがう、私がそうではない、と言ったことを、あなたがたははっきり聞いて、証言できるはずだ、と、釘を刺しています。  さて、そこで29節のみことばが意味を持ってきます。ヨハネはここで、イエスさまのことを、花嫁を迎える花婿でいらっしゃる、と語っています。一方でヨハネは自分自身のことを、「そばに立って花婿の声を聞いて大いに喜びに満ちあふれている友人」です。花婿の友人の心得、それは第一に、自分はあくまでも花婿の友人であって、花婿ではない、ということです。メッセージの冒頭でもお話ししたとおり、花婿を立てるために自分のすべきことを粛々と行う、そういう友人です。  花婿の友人の心得、第二にそれは、花婿の言うことに耳を傾ける、ということです。実は、バプテスマのヨハネがイエスさまのおっしゃることばに耳を傾けているという記述は、聖書の中にはそんなに登場しません。イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、その理由をヨハネに語り聞かせていらっしゃる、マタイの福音書の一節くらいです。  しかし、ヨハネの弟子までカテゴリーを広げたらどうでしょうか。ヨハネは弟子のアンデレの前でイエスさまを指し示し、「見よ、神の子羊」と言って、アンデレがイエスさまのもとに行くようにさせました。アンデレはこうして、ずっとイエスさまからみことばを聴くことになったのでした。アンデレはこの御声を聞いてもらうべく、彼の兄弟シモンをイエスさまのもとに連れていきました。  弟子の共同体は、師匠から伝授された同じ価値観を持ってしかるべきです。そのためには何といっても、弟子は師匠の声を介して教えを聴く必要があります。しかしバプテスマのヨハネは、アンデレのような弟子に対し、神の子羊なるイエスさまの御声を聴きなさい、と、声を聴く主体を自分から、イエスさまへと振り向けました。これは、ヨハネが、弟子のアンデレにもやはり、花婿の友人であるという自覚を持たせたことになります。  花婿の友人の心得、第三にそれは、「声を聞いて大いに喜ぶ、喜びに満たされる」ということです。つまり、喜ぶ理由は、「自分が有名になった」とか、「自分が偉くなった」といったことにあるのではない、イエスさまがキリスト、救い主、終わりの日の花婿として、みことばを語ってくださる、その御声が聴けることこそ、最高の喜び、究極の喜び、ということです。  イエスさまは、私たちのことを「友」と呼んでくださいました。それは、終わりの日の究極の花婿の「友」にしていただいた、ということです。私たち教会は「花嫁」で、私たちにとって地上の歩みはすべからく「キリストの花嫁修業」であるべきですが、同時に私たちは、花婿なる主イエスのみことばを聴くことに至上の喜びを覚える「友」です。  イエスさまは私たちのことを、しもべとして扱うことはなさいません。秘密のこともちゃんと伝えてくださる「友」です。イエスさまはそれだけ、私たちのことを信頼してくださっているのです。  聖書をご覧ください。ご自身の弟子をご自身の友と見込んで、秘密を明らかにして伝えてくださっている箇所ばかりではないですか。そして、聖書を手にしてお読みする私たちには、イエスさまの弟子になる道はもちろんのこと、イエスさまの「友」になる道が開かれているわけです。  そうです。私たちがみことばをお読みして「大いに喜ぶ」理由、それは、イエスさまが私たちひとりひとりを「友」と見込んで信頼して、秘密の話をしてくださるから、でもあるわけです。  今日の箇所に隠された真理、それは、イエスさまが花婿として、終わりの日に花嫁なる私たち教会を迎えてくださる、ということです。この事実を知っている人が、果たして世界の中にどれほどいるというのでしょうか。ですから、この秘密を聴かせていただいた私たちは、イエスさまが「友」と見込んでくださった、イエスさまの「友」なのです。  しめくくりのみことば、30節をお読みします。こうしてヨハネは、世界の表舞台から消えていきます。これは、謙遜ということ以上の意味があります。およそ神の働きをする者であるならば、だれもがこの態度で生きるべきなのです。これもまた、花婿の友人の心得です。  第一コリント13章10節に、「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」とあります。預言や異言、知識といった、たしかに神の領域に属しているゆえに素晴しいものであっても、完全なもの、すなわち、愛が現れたならば、すべてすたれる、ということです。  みことばは、神は愛です、と語ります。愛が完全なのは、その愛とは神の愛であるからです。そしてイエスさまこそは、神の愛そのものでいらっしゃいます。友のためにいのちを捨てる愛、しかし友のためによみがえってくださった愛、そんな愛を生きたお方は、古今東西ただひとり、神の御子なるイエスさまだけです。  思えば、バプテスマのヨハネは神の道を説く人であり、それはすばらしいことではあったのですが、神の愛を説くということにおいては、愛なるイエスさまを指し示し、イエスさまのもとに人を送るということ以上のことはしませんでした。そんなヨハネについて、イエスさまは2つの評価をなさっています。これまで世界の歴史上存在したすべての人の中で、バプテスマのヨハネがいちばん偉大な人物だった、ということ、しかしそれと同時に、その偉大さは、天の御国のいちばん小さい者の偉大さにも及ばない、ということです。  それでも私たちは、自分の罪深さや、自分の小ささが見えてならなかったりするでしょうか? 自分は取るに足りない、と思うでしょうか? そんな時は思い起こしましょう。私たちひとりひとりは、バプテスマのヨハネよりも偉大であると、ほかならぬイエスさまが言ってくださっているくらい、偉大な存在にしていただいているということをです。これもまた、花婿の友人の心得です。  また、私たちの人生は、イエスさまが盛んになり、自分は衰える一方という生き方をしてこそ意味があります。私たちがほんとうに、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きておられると心から告白しているならば、それにふさわしい生き方の実を結んでこそしかるべきです。  その生き方を私たちが続ける目的は、そういう生き方をする私たちのことを見て人がどう思おうとも、ひたすらに神の栄光を顕すこと、天に宝を積むことにあります。その生き方を続けていくならば、私たちに主が任せてくださっている人生の領域に、主はすばらしい実を結んでくださいます。そう、主の栄光をです。このように、主の栄光を顕す歩みをみことばから学び、ひとつひとつ守り行うこと、それが花婿の友人の心得であり、同時に、キリストの花嫁として整えられる道です。