宮きよめが必要な私たち
聖書箇所:ヨハネの福音書2章13節~25節 メッセージ題目:宮きよめが必要な私たち みなさんにお伺いします。みなさんが持っていらっしゃるイエスさまのイメージは、どんな感じでしょうか? 日曜学校ではとにかく、優しいお方、と教えます。「子どもの友はどなたどなた/子どもの好きなイエスさまよ」なんて。そりゃそうです。聖書が、イエスさまは子どもにやさしいお方であると語っているからです。 しかし、このようなイメージが先行すると、福音書にときに現れるイエスさまのお姿に、面食らわないでしょうか? イエスさまに対して、だめですよ、死刑にあうなんておっしゃっちゃ、そんなことありませんから、なんて申し上げる弟子のペテロに、「下がれ、サタン」とおっしゃっています。あのペテロにです。パリサイ人に至っては、「おまえたちはわざわいだ、忌まわしい」ですとか、「あなたがたは悪魔から出たものだ」とか、すごいことをおっしゃっています。でも、これもイエスさまのお姿です。私たちは、自分の好みに合わないお姿なら、イエスさまを受け入れない、と思ってはなりません。 今日の箇所をご覧ください。イエスさまが大暴れです。私たちももし、この過越の祭りでエルサレム神殿にいるひとりだとしたら、そのお姿に震え上がりはしなかったでしょうか。しかし、私たちはこのような、一見するとなぜイエスさまがこんな乱暴なことを、と思うようなプロセスを語るみことばをじっくり観察し、学んでまいりたいと思います。 まず、13節です。ユダヤ人の過越の祭り、と書いてあります。旧約聖書に慣れ親しんでいる私たちならば、ああ、あの、モーセの出エジプト以来の過越の祭り、とわかりますが、ヨハネの福音書はユダヤ文化の外にある異邦人を意識して書いてあるので、「ユダヤ人の」と書いてあるわけです。しかし、これで、これまでのユダヤの宗教的伝統がイエスさまによってまったく新しくされることが暗示されてもいます。これは、先週の聖書箇所の「ユダヤ人のきよめのしきたり」ということばがほのめかす、イエスさまがまったく新しい時代を来たらせられるということとも共通しています。 イエスさまはこの過越の祭りに、エルサレムにいらっしゃいました。これは、ユダヤ人としてあるべき姿を自らお示しになったということです。よく、誤解されることですが、イエスさまは旧約の律法を廃棄されたのではありません。むしろ、成就されたのです。この、イエスさまがみことばを成就されたのは、十字架の上ででした。「完了した」とおっしゃって、そして息を引き取られました。「完了した」というおことばは、聖書の訳によっては「成し遂げられた」と訳されています。それは、律法を成し遂げられた、ご自身のご生涯によって、人間には何をどう頑張ってもできなかった、律法の完成を成し遂げられた、ということです。 しかし、その生涯においては、イエスさまはまず、御父への従順を果たすべく、律法に違反することをあえてなさることはありませんでした。エルサレム神殿が過越の祭りにおいて礼拝する場所である以上、イエスさまはエルサレム神殿に詣でられ、みことばへの従順を果たされたのでした。もちろんそれは、イエスさまの十字架のみわざによって、「完了した」となるまでのことです。以後、人はエルサレム詣でをする必要はなくなりました。この事情については、のちほどあらためてご説明します。 14節です。イエスさまは宮、つまりエルサレム神殿に入られました。するとそこに見たものは、いけにえの家畜や鳥を売る者、また、両替の商売人でした。 彼らは商売人たちでしたが、こういった者たちがここで商売をするようになったことには、それなりの事情がありました。まず、こんなところに家畜がいっぱいいることなどありえるのか、と思われるかもしれませんが、当時のエルサレム神殿の敷地は、とてつもなく広かったそうです。イエスさまの弟子たちが、神殿のその壮麗さを見て、イエスさまに、すごいですねえ、と感動してみせただけのことはあります。そしてその庭となると、さらに広かったわけです。 エルサレム神殿の敷地は、実に5万6千平方メートルもあり、これは、読売ジャイアンツの本拠地、東京ドーム2個分になります。礼拝堂でいえば、韓国のサラン教会という教会が世界で一番大きな敷地を持つ教会で、ギネスブックに載っていますが、エルサレム神殿はそのサラン教会の6倍半にもなる面積だそうですから、エルサレム神殿がどれほど大きいかわかります。だから、たくさんの牛やヒツジ、鳩なども運び入れられるだけの広さがあったわけです。それらの家畜はなにも、神殿の建物の中に入れていたわけではありません。境内の庭のところで売っていました。 家畜は、1歳の傷のないものでなければならないと定まっています。エルサレム詣でをする人は、一生懸命、そのような家畜を選び、大切に連れてきます。道中、傷がついたり、病気になったりしたら、もうそれでささげられないことになるからです。しかし、問題があります。それは、それがいけにえにするにふさわしいかどうかを決めるのは、神殿で働く祭司の側、宗教指導者の側だということです。彼らに少しでも難癖をつけられたら、せっかく苦労して育て、苦労して選び、長い道のりを苦労して連れてきても、何にもなりません。そうなると、神殿の境内で売っている家畜をお金を出して買って、それをささげなければならなくなります。当然、その値段は神殿側が決めるわけで、ここにも、民から搾取する現実がありました。 一方、両替のほうですが、これは、当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、したがってローマ皇帝の肖像画と銘が刻まれている硬貨を通貨として使っていましたが、宗教指導者たちは、その硬貨に刻まれた肖像画を偶像と見なし、それを神殿への入場料として徴収する神殿税として受け取りませんでした。そこで両替人の登場です。そのローマの硬貨を、ツロの貨幣に両替して、ささげられる状態にしてやろう、というわけですが、ここで彼らは莫大な手数料を取ります。これで宗教指導者たちの懐は潤い、ユダヤの下々は搾取される、というわけです。何のことはない、彼らが取税人をあれほど忌み嫌っているのは、ローマに納める税金に大きく上乗せした額をユダヤ人から徴収し、その差額をポケットに入れるからですが、そんな取税人をさばく宗教指導者も、同じことをしているわけです。取税人が罪人だなどと、どの口が言うのか、といったところです。 15節。イエスさまが怒りました。羊も牛もみな、敷地から追い出されました。注意が必要ですが、イエスさまはたしかにこのとき鞭をつくって家畜を追い出しましたが、家畜を売る者たちをそれで叩いたわけではありません。それでも、大勢の参詣客に提供できるだけのたくさんの家畜を外に出してしまうわけですから、その剣幕たるやすごいものがあったわけです。 そして、両替人のそばに積まれた硬貨をばらばらに散らしました。両替の商売道具である台を倒しました。さぞかしすごい音がしたのではないかと思います。みなさん、覚えがあるでしょう。たいていの音を聞いてもなんとも思わない私たちが、例外的に敏感に反応する音。そう、お金が床に落ちる音です。チャリーン、という音がしたら、そちらの方を向かない人は、まあいないと思います。それが、じゃらじゃらじゃらじゃらっ、という音とともに床に飛び散るのですから、そのインパクトたるや絶大です。これを見た人は、ああ、自分は何ということをしていたのだ、と恐れ入ったでしょうか。あるいは、法外な値段でいろいろ売りつけられないと礼拝もできなかった庶民たちは、心の中で快哉を叫んだでしょうか。 一方でイエスさまは、16節のようにもおっしゃっています。そう、鳩は空に飛ばしたのではなく、かごごと持っていかせました。一応は彼らなりの宗教心を全否定せず、配慮されたと見るべきでしょうか。全否定ならば鳩を空に放ち、もう彼らの元に戻って来させなかったからです。しかし、鳩というものは、もっとも貧しい民がなけなしの金でささげるべきものであり、そんな貧しい人から法外な手数料を取って着服するなど、もってのほかでした。イエスさまはですから、そんな利得の金にまみれたものを神殿から追放されました。 そして、イエスさまがおっしゃったのは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」というおことばです。これはたいへんなおことばです。 というのは、神殿にて礼拝をささげられる、主なる神さまのことをよりにもよって、こともあろうに、父、と、宗教指導者たちのいる前で堂々とお呼びになったからです。しかも、その御父の怒りを代理で実力行使するようなものすごい行動に出られたからです。 彼らにしてみれば、もっともふさわしい形でささげている礼拝が、とんだ妨害を受けたということです。しかも、こともあろうに神聖な神さまを「わたしの父」と呼ぶような、それこそ神をも恐れぬ者によって。こんな冒瀆の罪を犯す者など生かしちゃおけない。彼らはこのときから、イエスさまへの憎しみを募らせはじめたことでしょう。17節。イエスさまの弟子たちはイエスさまのお姿に、詩篇69篇9節のみことばを連想しました。このような、この世の宗教的権威を何ひとつ恐れず、ただ神さまのために情熱をもって振る舞うイエスさまは、やがてその熱心さのゆえに、ユダヤの宗教社会から葬り去られることになるのではなかろうか、しかし、それが主にお従いする者の定めなのではなかろうか。そして実際、イエスさまはほかならぬ、宗教指導者たちによって十字架送りにされました。ある意味、弟子たちが連想したこのみことばが成就したことになったわけです。 18節。怒りにかられたユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまに言うわけです。ほお、あんたはこれだけのことをしてくれるなら、自分がメシアだと言いたいんだろうねえ。なら、あんたがメシアだという証拠を見せてもらいたいねえ。宗教指導者たちは、しるしを見せてくれたら喜んであなたを信じます、ということでそう言ったわけではありません。できっこないだろう? できないなら退場してもらいたいねえ、もう二度とユダヤに顔を出すんじゃないよ、というわけです。 これに対してイエスさまは、堂々と宣言されます。19節です。もちろん、私たちは普段から聖書を読んでいますし、その背景となる歴史も学んでいますので、この神殿は壊されて現存せず、また、三日で神殿を建てる、ということが、イエスさまの復活を意味していること、それ以前に、神殿を壊す、とは、イエスさまを十字架につけて処刑する、ということだと知っています。今日の箇所でも21節、22節に語られているとおりです。 しかし、この話を聞いたユダヤ人たちは、そんなことなど知る由もありません。だから、20節のように答えています。この神殿はヘロデ大王の政策の一環で建てられた壮大なもので、この時点で建てるのに46年かかったとありますが、実はこの神殿はまだ完成していませんでした。昨日の夜、テレビで芦田愛菜さんがサグラダファミリアを訪問した様子が放映されましたが、あのように、エルサレム神殿はたしかに壮麗ではあっても、未完の場所だったわけです。完成したのは紀元64年です。しかし、それから7年もしないうちに、エルサレムはローマに攻め入られて陥落し、神殿は完膚なきまでに崩壊させられました。まさに、マタイの福音書24章でイエスさまがおっしゃったとおりです。 しかしそれは同時に、もはや家畜をほふったいけにえをささげることで神との和解をなすのではない、神との和解は、十字架に死なれて3日目によみがえられたイエスさまを通じてなされるもの、イエスさまがただ一度そのことを成し遂げられたゆえ、もはやここにおいて、家畜の血を流す形での罪のためのいけにえは必要なくなった、ということを意味しています。こうなると、このときのように家畜を売りつける者も、両替で多額の利益を得る者も必要なくなります。イエスさまを嘲笑った宗教指導者たちはもはや、国と民族もろともその居場所を失い、イエスさまは死なれても予告どおり復活されて、まことの神殿としてすべての信仰者を礼拝者として神の御前に導いてくださるのですから、皮肉というべきことです。 22節を見てみますと、弟子たちはイエスさまが復活されたとき、イエスさまがこのときおっしゃったみことばがまことだったことを知り、あらためて聖書のみことばを信じましたが、このときのイエスさまのおことばは、宗教指導者だけではなく、弟子たちにも隠されていたようです。復活を経てようやく信じたわけですから、この時点では、弟子たちにもイエスさまのおっしゃった、神殿を三日で立て直してみせよう、というおことばの意味が理解できていなかったということです。 先週もお話ししましたが、人はひとたびイエスさまについていこうとするならば、だれもが弟子に召されています。なぜならば、イエスさまは群衆に対して隠しておいた御国の奥義を、弟子たちには特別に明らかにしていらっしゃいますが、その明らかにされた内容は具体的に聖書のみことばに記されていて、私たちはその聖書を、手にとって読む気さえあればだれでも読めるからです。つまり、聖書の読者はみな弟子なのです。ついでにいえば、イエスさまについていく弟子たちはみな、イエスさまにとっては愛弟子です。それでもちがいがあるとすれば、それは私たちの側の態度のちがいであり、不肖の弟子か、真面目な弟子かのちがいがあるだけです。 この時点で弟子たちがイエスさまのみことばを理解できていなかったように、弟子になってもなお、みことばの意味がまだ分かっていなかった、ということは、充分あり得ることです。だから、何かを学んで悟るようなことがあった場合、ああ、私はクリスチャンを何年やって、こんなことをいまさら悟るのか、などと落ち込まないでいただきたいのです。私たちがすべてを知るのは、天国に行ってからです。それまでもこつこつと聖書を学び、昨日より今日、今日より明日、みことばを新たに悟る弟子となれれば、それでいいと思います。しかし、イエスさまの復活、これは聖書にはっきり書いてあるレベルの事実、また真理ですから、これはイエスさまの弟子として歩みつづけたいなら、絶対に外せないことです。 さて、23節を見ましょう。イエスさまは過越の祭りの間、エルサレムにてさまざまなしるしを行われました。それを見て体験した人々は、イエスさまを信じました。 しかし、それをこんにちで言うところの「リバイバル」と見なすことができるかというと、それはちがいます。なぜでしょうか。24節、25節です。イエスさまはご自身を彼らにお任せにならなかった、とあるからで、彼らの態度を、イエスさまはふさわしい信仰としてお認めにならなかったからです。 この、24節の「任せる」と、23節で人々がイエスさまの御名を「信じた」の「信じる」は、どちらも「ピステュオー」というギリシャ語の動詞であり、「信じる」と同時に「託す」という意味があります。単なる「イワシの頭も信心」なんていうレベルではなく、大事な財産を預ける「信託銀行」というレベルです。 ユダヤ人はイエスさまの行われるしるしを見て、この方こそメシアだ、と思ったでしょう。しかしそれは、彼らなりの期待感を持ってのメシア像であり、それはわれわれ神の民なるユダヤをローマから解放してくれる救い主なる王、というイメージで、少なくともそれは、神さまが地上にイエスさまをお送りになったみこころとまったく異なるものです。ユダヤ人はイエスさまを王と信じ、わが身を託したくなったでしょうが、イエスさまは一貫して、彼らなりのメシア像にご自身を委ねるほどに彼らを信頼することをなさいませんでした。結局、宗教指導者にあおられたユダヤ人たちは、イエスさまを最終的に拒否し、十字架送りにする側に回りましたが、それでよかったのです。イエスさまは全人類が信仰によって救われる道を開くという御父のみこころを成し遂げるためには、ユダヤ人に限定した救い主、それも、からだは救えてもたましいを救うこととは程遠い存在には、絶対になることができなかったのでした。 ここで、私たち自身のことを考えたいと思います。私たちの中にはまだ、イエスさまのことを正しくとらえないまま、救いを求めてしまっている、救われようとしてしまっている部分はないでしょうか? イエスさまが優しいだけではない、人を人とも思わない、愛もなくて自分中心にふるまうような、自称主の民、主の弟子に対しては、怒りをもってお臨みになるお方であるということを、私たちはいま一度考える必要があります。 そもそもユダヤ人は、礼拝というものを真剣にささげたいと思うから、しかし、神殿の聖さを守りたいと思うから、いけにえをささげるうえで参詣者たちに便宜を図ったり、肖像画の刻まれたコインにも神経をとがらせたりしたわけです。その動機はすばらしかったというべきでしょう。しかし、そんな主に従順でありたい動機も、いつの間にか肉的な行動に取って代わられるものです。 私たちもよいクリスチャンでありたい、従順になりたい、と思うでしょう。それはクリスチャンであるなら、だれしもすべからく思うべきことです。そんな思いさえ持てないようでは、そういう人のことをクリスチャンと呼ぶべきか迷うところです。しかし、たとえそんな崇高な意識を持って、口では立派なことを言っていても、行いでは否定してしまっている、そんなことがとても多い、それが私たちなのではないでしょうか。 私たちは第一コリント3章16節のみことばが語るとおり、神の御霊がうちに住まわれる、神の宮です。だから、神の御霊を、私たちの考えや態度、ことばや行いで悲しませてはなりません。そういう存在として神さまは私たちを召され、私たちを導いてくださっています。私たちがもし、イエスさまの嫌われるものを自分のテリトリーの中に入れてしまっているならば、お祈りして、それをイエスさまに取り除いていただくことです。具体的には、「イエスさま、私にはこれこれ、このようなものがありますが、それはあなたさまのみこころにかなわないものです。でも、私はまだそれにしがみつきたい思いがあり、自分の力では取り除けません。イエスさま、それを捨てる力をください。いま、捨てます」とお祈りしてみましょう。 それでもそういうお祈りをしようともせず、頑なに自分の好きなことを押し通し、御声に耳を傾けることさえ拒否するなら、ときにイエスさまは、私たちが痛い目にあうことをお許しになります。お金や健康を失うかもしれません。人前で恥をかいたり、下手をすると信用を失ったりするかもしれません。しかし、もしかしたら、それはイエスさまが私たちのことをとても愛していらっしゃるという、何よりの証拠なのかもしれません。あなたはわたしなしで生きてきたが、それがどんなに厳しいことかわかっただろう。これからはわたしの心を学びなさい。わたしに祈りなさい。わたしはあなたを愛しているから、あなたを癒やし、回復させてあげよう。 ともかく、宮きよめが必要な「鼻持ちならない宗教家」は、私たちのことだと心得ましょう。人前で敬虔なクリスチャンのなりをして、偉いとほめてもらおうとする、あるいは、自分はダメなクリスチャンであるとことさらにアピールして、そんなことないですよ、と言ってもらうことを期待する、そんな私たちは、イエスさまに立ち入っていただき、きよめていただく必要があります。私たちに思い当たることはないでしょうか? 牛や羊や鳩や神殿税に法外な値段をつけるように、私たちは自分にとっての敬虔ななりに、余計なもの、罪深い付属品をつけていないでしょうか? 祈って点検していただきましょう。今日は主の晩餐、そんな私たちにも主のみからだと血潮は開かれていますが、必要なのは悔い改めです。