花婿の友人の心得

聖書箇所:ヨハネの福音書3章22節~30節 メッセージ題目;花婿の友人の心得  私はこれまで、いろいろな方の結婚式に出させていただきましたが、式ごとに楽しいアトラクションがあり、それは今も想い出に残っています。ある方は、大学時代の「グライダー」のサークルの仲間たちが、ハンドベルを演奏して祝ってくれました。またある方は、お友だちがフラメンコギターで「亜麻色の髪の乙女」を弾いて祝ってくれました。いわく、「奥さんのことを思う旦那さんの気持ちを歌いました」だそうで、思わず笑ってしまいました。  さて、このアトラクションを演じられたのは、どちらも新郎のご友人でしたが、こういう、ゲストが何かアトラクションをする場合には、マナーというものがあります。それは、「新郎より目立ってしまわない」ということです。よくあることかもしれませんが、新郎の会社の上司がスピーチをする、そのとき、その会社の歴史を長々と述べて、いつまでたってもご飯が食べられない、これは困ります。  今日のメッセージのタイトルは「花婿の友人の心得」とおつけしました。花婿とはだれでしょうか? 花婿の友人とはだれでしょうか? 花婿の友人はどんな態度を取るべきでしょうか? 以下、見てまいりましょう。  22節です。イエスさまはヨハネがしていたように、人々にバプテスマを授けていらっしゃいました。このことからわかることは、バプテスマというものは人がイエスさまのものとして公に歩み出すうえで、主のみこころにかなった必須のものである、ということです。私たちバプテストは、イエスさまへの信仰は水に沈めるバプテスマをもって公にするものである、という立場を堅持して、イエスさまを信じた人にバプテスマを受けることを奨励します。  23節をご覧ください。バプテスマのヨハネも一方で、人々にバプテスマを授けていました。ヨハネが当時のユダヤの社会に大きな影響を及ぼしていたことは、福音書を読み合わせてみても確かにわかることですが、ヨハネのもとにバプテスマを受けにやってくる人たちがなお存在したことが、このみことばからわかります。24節を見ますと、ヨハネはまだ投獄されていなかった、とあり、ヨハネは、ヘロデ王の不法を糾弾することで王の逆鱗に触れ、逮捕、投獄されるまで、公の活動を続けていたことがうかがい知れます。  25節。あるユダヤ人、とありますが、ヨハネの福音書で「ユダヤ人」というと、「ユダヤ人を宗教的に統率する宗教指導者」という意味合いで使われていることが散見されます。   2章13節以下の、イエスさまの「宮きよめ」のみわざを責めた宗教指導者たちのことを、使徒ヨハネは「ユダヤ人たち」と言っています。ですから、バプテスマのヨハネの弟子たちが論争になった相手もまた、ユダヤの宗教指導者、もっといえば、バプテスマのヨハネのこともイエスさまのことも、自分たちの既得権益を脅かす存在として一緒くたに敵視する宗教家ということがほのめかされています。  その論争の内容は、「きよめについて」というものでした。イエスさまとヨハネの共通点は、「バプテスマを執り行う」ということです。バプテスマは人のからだを水に浸すことですが、これは「洗う」ということもまた象徴しています。そのことから一般に「バプテスマ」には「洗礼」という訳語が当てられています。「水に浸す」ということはまた、「罪のけがれを洗いきよめる」という意味もあるわけです。  バプテスマという形でその「きよめ」を人々に施していた、という点で、宗教指導者から見れば、ヨハネもイエスさまも、同じグループにあると見なされていたと言えます。  しかし、ヨハネの弟子は納得しませんでした。それは、26節の事情があったからです。……人々はもう、ヨハネからバプテスマを受けるのではなく、イエスさまの弟子共同体からバプテスマを受けるように、変わっていってしまったのでした。ヨハネの弟子たちは、それが我慢できませんでした。  しかし、このように不満を言う弟子たちに対して、ヨハネは言いました。まず、27節です。ことに主の働きをするのであるならば、天から受けているかどうか、これに尽きるのである、と。イエスさまにしてもヨハネにしても、天から受けた分で働く、ということです。  ほんらい、人々にバプテスマを施すという、いわば神の働きを地上で代行するような働きは、天から与えられた霊的権威をもってするものです。その、天に由来する霊的権威がヨハネから、イエスさまの弟子の群れへと引き移っていく、そのことをあなたがたは認めるべきだ、ということを、ヨハネは弟子たちに説いて聞かせているわけです。  28節のみことばは、ヨハネ自身の告白を、あなたがたは聞いて、証言できる立場にあるだろう、ということです。弟子たちは下手をすると、多くの人が考えていたように、ヨハネこそキリストだ、イエスはヨハネからバプテスマを受けた存在にすぎないから、バプテスマを授けてキリストのように振る舞う権限などないはずだ、と考えかねなかったわけです。ヨハネは、それは絶対にちがう、私がそうではない、と言ったことを、あなたがたははっきり聞いて、証言できるはずだ、と、釘を刺しています。  さて、そこで29節のみことばが意味を持ってきます。ヨハネはここで、イエスさまのことを、花嫁を迎える花婿でいらっしゃる、と語っています。一方でヨハネは自分自身のことを、「そばに立って花婿の声を聞いて大いに喜びに満ちあふれている友人」です。花婿の友人の心得、それは第一に、自分はあくまでも花婿の友人であって、花婿ではない、ということです。メッセージの冒頭でもお話ししたとおり、花婿を立てるために自分のすべきことを粛々と行う、そういう友人です。  花婿の友人の心得、第二にそれは、花婿の言うことに耳を傾ける、ということです。実は、バプテスマのヨハネがイエスさまのおっしゃることばに耳を傾けているという記述は、聖書の中にはそんなに登場しません。イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、その理由をヨハネに語り聞かせていらっしゃる、マタイの福音書の一節くらいです。  しかし、ヨハネの弟子までカテゴリーを広げたらどうでしょうか。ヨハネは弟子のアンデレの前でイエスさまを指し示し、「見よ、神の子羊」と言って、アンデレがイエスさまのもとに行くようにさせました。アンデレはこうして、ずっとイエスさまからみことばを聴くことになったのでした。アンデレはこの御声を聞いてもらうべく、彼の兄弟シモンをイエスさまのもとに連れていきました。  弟子の共同体は、師匠から伝授された同じ価値観を持ってしかるべきです。そのためには何といっても、弟子は師匠の声を介して教えを聴く必要があります。しかしバプテスマのヨハネは、アンデレのような弟子に対し、神の子羊なるイエスさまの御声を聴きなさい、と、声を聴く主体を自分から、イエスさまへと振り向けました。これは、ヨハネが、弟子のアンデレにもやはり、花婿の友人であるという自覚を持たせたことになります。  花婿の友人の心得、第三にそれは、「声を聞いて大いに喜ぶ、喜びに満たされる」ということです。つまり、喜ぶ理由は、「自分が有名になった」とか、「自分が偉くなった」といったことにあるのではない、イエスさまがキリスト、救い主、終わりの日の花婿として、みことばを語ってくださる、その御声が聴けることこそ、最高の喜び、究極の喜び、ということです。  イエスさまは、私たちのことを「友」と呼んでくださいました。それは、終わりの日の究極の花婿の「友」にしていただいた、ということです。私たち教会は「花嫁」で、私たちにとって地上の歩みはすべからく「キリストの花嫁修業」であるべきですが、同時に私たちは、花婿なる主イエスのみことばを聴くことに至上の喜びを覚える「友」です。  イエスさまは私たちのことを、しもべとして扱うことはなさいません。秘密のこともちゃんと伝えてくださる「友」です。イエスさまはそれだけ、私たちのことを信頼してくださっているのです。  聖書をご覧ください。ご自身の弟子をご自身の友と見込んで、秘密を明らかにして伝えてくださっている箇所ばかりではないですか。そして、聖書を手にしてお読みする私たちには、イエスさまの弟子になる道はもちろんのこと、イエスさまの「友」になる道が開かれているわけです。  そうです。私たちがみことばをお読みして「大いに喜ぶ」理由、それは、イエスさまが私たちひとりひとりを「友」と見込んで信頼して、秘密の話をしてくださるから、でもあるわけです。  今日の箇所に隠された真理、それは、イエスさまが花婿として、終わりの日に花嫁なる私たち教会を迎えてくださる、ということです。この事実を知っている人が、果たして世界の中にどれほどいるというのでしょうか。ですから、この秘密を聴かせていただいた私たちは、イエスさまが「友」と見込んでくださった、イエスさまの「友」なのです。  しめくくりのみことば、30節をお読みします。こうしてヨハネは、世界の表舞台から消えていきます。これは、謙遜ということ以上の意味があります。およそ神の働きをする者であるならば、だれもがこの態度で生きるべきなのです。これもまた、花婿の友人の心得です。  第一コリント13章10節に、「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」とあります。預言や異言、知識といった、たしかに神の領域に属しているゆえに素晴しいものであっても、完全なもの、すなわち、愛が現れたならば、すべてすたれる、ということです。  みことばは、神は愛です、と語ります。愛が完全なのは、その愛とは神の愛であるからです。そしてイエスさまこそは、神の愛そのものでいらっしゃいます。友のためにいのちを捨てる愛、しかし友のためによみがえってくださった愛、そんな愛を生きたお方は、古今東西ただひとり、神の御子なるイエスさまだけです。  思えば、バプテスマのヨハネは神の道を説く人であり、それはすばらしいことではあったのですが、神の愛を説くということにおいては、愛なるイエスさまを指し示し、イエスさまのもとに人を送るということ以上のことはしませんでした。そんなヨハネについて、イエスさまは2つの評価をなさっています。これまで世界の歴史上存在したすべての人の中で、バプテスマのヨハネがいちばん偉大な人物だった、ということ、しかしそれと同時に、その偉大さは、天の御国のいちばん小さい者の偉大さにも及ばない、ということです。  それでも私たちは、自分の罪深さや、自分の小ささが見えてならなかったりするでしょうか? 自分は取るに足りない、と思うでしょうか? そんな時は思い起こしましょう。私たちひとりひとりは、バプテスマのヨハネよりも偉大であると、ほかならぬイエスさまが言ってくださっているくらい、偉大な存在にしていただいているということをです。これもまた、花婿の友人の心得です。  また、私たちの人生は、イエスさまが盛んになり、自分は衰える一方という生き方をしてこそ意味があります。私たちがほんとうに、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きておられると心から告白しているならば、それにふさわしい生き方の実を結んでこそしかるべきです。  その生き方を私たちが続ける目的は、そういう生き方をする私たちのことを見て人がどう思おうとも、ひたすらに神の栄光を顕すこと、天に宝を積むことにあります。その生き方を続けていくならば、私たちに主が任せてくださっている人生の領域に、主はすばらしい実を結んでくださいます。そう、主の栄光をです。このように、主の栄光を顕す歩みをみことばから学び、ひとつひとつ守り行うこと、それが花婿の友人の心得であり、同時に、キリストの花嫁として整えられる道です。

主イエスはこの世を愛された

聖書箇所:ヨハネの福音書3章16節~21節 メッセージ題目;主イエスはこの世を愛された  聖書全体をただ1節のみことばに要約すると、それはどの箇所になるだろうか、多くの人は、今日の箇所に含まれている、ヨハネの福音書3章16節とおっしゃいます。これに異論のある方はあまりおられないと思います。私たちと同じ保守バプテスト同盟の牧師で、佐藤彰先生という方をご存じの方も多いと思いますが、佐藤先生のお車のナンバーは、「316」番です。意味は、このヨハネの福音書の3章16節ということです。そんな信仰で車に「316」というナンバーをつけているクリスチャンも多いのではないかと思います。  今日の箇所、16節から21節は、イエスさまとニコデモの対話を受ける形になっています。律法学者、パリサイ人の発想から抜けられないで、救いが行いによらないで上から来る、神さまのみこころによって、ということが理解できなかったニコデモに、イエスさまが懇切丁寧にみことばを教えていらっしゃいます。イエスさまは、ユダヤ人にとって、そして、モーセとその教えをとても大切にする律法学者にとって、とても親しいみことばである、モーセが荒野で青銅の蛇を上げた箇所を引用され、その蛇を仰ぎ見た者が生きたように、人の子であるご自身、イエスさまもまた、上げられなければならない、それは、信じる者がみな、イエスさまにあって永遠のいのちを得るためである、とおっしゃいました。  それを受けての16節以下のみことばであり、英語のものですとか、聖書の翻訳によっては、この16節から21節までのみことばを、イエスさまがニコデモに語り聴かせられたおことばのつづきのように訳し、かぎかっこを21節の後ろで閉じています。それも解釈としてはありなのでしょう。ともかく、これがイエスさまご自身のみことばであれ、ヨハネによる解説であれ、とても大事なみことばであるということに、異論をさしはさむ余地はないと思います。  では、ひとつひとつ見ていきましょう。16節の有名なみことば。このみことばの含んでいる情報は膨大です。まず、主語は「神」です。聖書のみことばは徹頭徹尾「神」のことばであり、「神」についてのことばです。創造主なる唯一の、絶対的な主権者が、という主語。  このお方が何をされたのでしょうか。そう、「愛された」のです。何をでしょうか? 「世を」です。どれほどでしょうか?「そのひとり子をおあたえになったほどに」です。ここからわかることは、創造主にはひとり子がおられるということ、そして、そのひとり子を世にお与えになって、世を愛してくださった、ということです。  その理由も語られています。ひとり子は「御子」であるとあります。絶対者にして聖なるお方のひとり子ですから、「御子」という呼び方が適切でしょう。神が御子を与えてくださったほどだという、その愛にお応えする方法は、「御子を信じる」ことです。  御子を信じたらどうなるでしょうか? 信じる人はひとりとして例外なく、滅びることはありません。永遠のいのちを持ちます。ひとりの例外もありません。そう、神さまの愛は、人を滅ぼさない愛、滅びの代わりに、永遠のいのちを与えてくださるほどの愛、それ以上に、天におられるべきお方、ひとり子イエスさまをこの世に与えてくださるほどの愛です。  「世」というものは、人間社会を指すいわゆる「世間」というレベルではありません。「世」は原語では「コスモス」、宇宙万物、森羅万象を指すもので、途方もないスケールの愛です。しかし、ローマ人への手紙8章19節以下のみことばによると、被造世界の堕落と滅びは神のかたちに造られた神の子ども、人間の堕落に由来することがほのめかされていて、まず、人間の救いがあらゆる被造物の回復に益してしかるべきであるわけです。したがって、神さまの万物に対する愛情は、まず、万物を管理する責任を神さまから託された存在である、人間こそ受けるべきものです。  しかし、神さまが世を愛する一方で、人間は世をも、世にあるものをも愛してはならないこともまた、みことばは語ります。ヨハネの手紙第一2章15節です。  うっかりすると、私たちはこの、人間に戒められた「愛してはならない」という命令を、兄弟愛を意味する「フィレオーの愛」で愛してはならないということか、と誤解しかねません。しかし、原語では、なんとこれは「アガペーの愛」、したがって人間は、神の愛で世を愛してはならない、ということです。  そんな莫迦な、とお思いでしょうか? 私たちは天地万物を統べ治める神ではない、そんな愛で愛することなど初めからできない、と思いますか? ならば、このヨハネ伝3章16節のみことばに示された神の愛とはどういうものかをヒントに考えましょう。  神さまはどのようにして「世」を愛されましたか? ご自身の大事なひとり子のいのちを差し出されるほどに愛してくださいました。このように愛していいのは神さまだけです。なぜならば、それによって失ったいのちを、神さまはよみがえらせてくださるお方だからです。現に、イエスさまは十字架にかかって死なれましたが、復活されました。  しかし、人間はそうはいきません。「いのちをかける」とか「骨をうずめる」などという大層なことばがありますが、学問ですとか、会社ですとか、趣味のような生きがいですとか、そんなものは果たして、それに没頭するあまりいのちを失っても構わないというようなものなのでしょうか? それに没頭するあまり家庭を顧みなくて、子どもが非行に走ったりして家庭が没落する、なんてことになったら、その人にとっての「愛」など何になるのでしょうか?「会社愛」で過労死したら?「愛車」で事故を起こして亡くなったら?「愛人」をつくって双方の家庭を破滅させたら?  だから、いのちをかけて世を愛する資格があるのは、神さまおひとりだけなのです。人は、どんなにだれかのことを愛したとしても、神さまほどの愛を注ぐことなど金輪際できません。そして神さまは、そんなふうにいのちをかけて、世を愛したり、世にあるものを愛してはいけない、と、人に警告されました。  もっとも、キリスト教会の歴史に名を残した働き人の中には、殉教したり、たいへんな迫害をくぐりぬけたり、宣教や教会形成のために塗炭の苦しみを味わったりした人もいました。彼らはいけないことをしたのでしょうか? そういうことではありません。彼らはイエスさまを心の中に受け入れ、肉的な動機、自分の名を上げたい動機の代わりに、イエスさまの栄光を第一の動機として、主への献身を果たした人たちです。言うなれば、主ご自身が彼らのことを、いのちをささげたいと思えるほどの献身へとお導きになったのでした。このような生き方へとひとたび導かれたならば、人間的な思惑でそれを止めることなど、だれにもできません。  17節をお読みしましょう。神さまが御子を世に遣わされたのは、御子によって世をお救いになるためでした。私たちは、宮きよめを行われる荒々しいイエスさまのお姿を目にするとき、いや、イエスさまは救い主であるだけではなく、さばくべき人にはさばきを行なっておられるのではないだろうか、と思いますでしょうか? ところが、イエスさまはそれでも、さばくお方ではないのです。イエスさまはどこまでも、「救う」お方です。だから、一見すると暴力的なイエスさまの宮きよめの振る舞いも、「愛するユダヤ人よ、こんなことをしていては神さまに近づけないだろう! こんなことはやめなさい!」という、救われてほしいゆえの愛情の表れといえます。  その17節を前提にして18節をお読みしましょう。これは時制がいろいろになっていて、少し難しい印象を受けませんでしょうか? 信じればさばかれない、信じない人はすでにさばかれている、どういう時制で解釈すればいいのでしょうか?  これは、こういうことです。ローマ人への手紙3章23節は、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、と宣言しています。神からの栄誉とは何でしょうか? 神の子どもと認めていただけるほどの栄光、栄誉です。しかし、人間は罪を犯した罪人であり、罪人ゆえに罪を犯す以上、聖い神さまに聖い、罪がないと認めていただけるほどの栄誉など、一切持ち合わせていません。神さまに認めていただけない以上、そんな人間を待っているものは滅びしかありません。  ということは、人間としてこの世に生まれ落ちたならば、だれもが罪を犯す罪人であり、ゆえに、神からの栄誉を受けられずに滅びるしかないわけです。私たちは「滅びる」というと、どんなイメージを持ちますでしょうか?「罪滅ぼし」ということばがありますが、あれは、「よい行いをすることで罪を消す」という意味で、ぜんぜん聖書的なではない、いかにも一般的な日本人が好きそうなことばです。聖書の語る「滅びる」は、「存在が消える」ではありません。むしろ「破滅する」という方がニュアンスが近いでしょう。存在が消えるどころか、地獄に落とされて永遠に苦しむ。これが、罪人が滅びるということなのです。  しかし人間が罪人であるということは、聖い神さまとそのみこころを認めないということであり、それは、神の御子イエス・キリストの御名を信じない、受け入れない、という形で現れます。言い換えれば、私たちが救われるように神さまがイエスさまを私たちのもとに送ってくださったという、その神さまのみこころを否定するわけです。  そうです、人間は全員が、すでにさばかれた存在です。全員が地獄に落ちるべき存在です。しかし、神さまはそんな私たちのことを憐れんでくださり、ひとり子イエスさま救い主と信じ受け入れれば、さばきと滅びから救ってくださるようにしてくださいました。こうして、イエスさまを信じるように神さまが導いてくださり、すでに定まっていた滅びとさばきから救われた人が、私たちも含めて、神の民であるというわけです。  19節、20節のみことばは、さばきというものについて語っています。光なる神さま、イエスさまよりも、闇、罪とサタンに属する勢力を愛すること、それそのものがさばきです。それらのものを愛している以上、滅びのさばきからは一切免れさせてはもらえないからです。そのさばきへと導くものは何かというと、この節のみことばによれば、「行いが悪いこと」、つまり、「悪い行い」です。  悪い行いは何か、ということは、第一コリント6章9節と10節、エペソ人への手紙5章3節から5節、ヨハネの黙示録21章27節など、かなり具体的な形でも聖書のあちこちに書かれていて、私たちはそれが何かを知ることができます。  こういうことが罪であると普段からしっかり押さえておかないと、私たちは日本人的倫理、この世的倫理が、私たちの本来持つべき倫理にとって代わる危険につねにさらされています。なぜならば、私たちクリスチャンはふつう、この日本において善良な市民として振る舞うことをつねに意識しているものだからです。「証しにならない」なんて表現を日本のクリスチャンはよく口にしますが、それは裏を返せば、「未信者からどう見られるか、周りの目を気にして生きよう」という意識がなくもないのでは、と思えます。だからこそ私たちは、「日本社会が罪と規定するもの」ではなく、「聖書が罪と規定するもの」が何かをしっかり押さえ、そこから身を避けて生活するように、語り合い、励まし合い、祈り合っていく必要があるわけです。  ともかく、悪い行いをする者は光の方に来ません。光の方に来たら、罪を行なっているゆえの自分の醜さ、きたなさ、いやさしさが、白日の下に明らかになり、それはきわめて受け入れがたいからです。だからといって彼らは悔い改め、その罪を雪よりも白くしていただこうという発想にはなりません。ますます罪を犯すことに執着します。こうして、彼らは悔い改める機会、罪を赦していただき、きよめていただく機会をますます失い、滅びへとまっしぐらになります。  確かに主は、私たちの心の中を探られる方です。私たちの心の中に罪があるならば、それを見過ごしにはなさいません。しかし、私たちを滅びのさばきに定めるのは、このみことばによれば、「罪の思い」、言い換えれば、「心の中の罪」ではありません。「罪の行い」です。神さまが問題にされるのは「行い」なのです。  ですから、私たちは21節のみことばをあらためて心に留めて生きるべきです。心の中でよい動機、崇高な動機があれば、よい行いができる、とお考えでしょうか? もしそうならば、心の中にその動機が満ちるまで、納得いくまで成長しつづけなければならない、ということになるでしょう。しかし、それを待っていては、私たちはいつまでたってもよい行いなどできません。  だから、真理を行うことが光の方に来る、ということ、大事なのは「行い」です。真理とは何でしょうか。イエスさまご自身が真理です。ですから、心のうちにおられるイエスさまに働いていただくこと、具体的には、真理なるイエスさまに真理のみことばを教えていただき、そのとおりに行動すること、また、真理の霊なる聖霊さまに恥じることのない行動を、聖霊なる神さまに導かれて実践することです。  こうなってくると、単なる善行とレベルが違うことがお分かりだと思います。イエスさまがそれを真理と認めていらっしゃるかどうか、これにつきます。だから、真理をいつも教えていただくのです。  そして、その教えていただいた真理を「時を移さず」実践する、それがともにできるように、お互いが教え合う、それでこそ教会という共同体、キリストのからだなる共同体です。一緒に光の中に入っていき、光の中を歩む、光の中をさらに歩みたくて、光を学び、光をこの世に照らすために、具体的に何をすべきか、日々みことばに教えていただいて、学び、実践する、こうしてますます、光の方に来る、そう、ここでも、「行い」が大事だということがわかります。  繰り返しになりますが、この世を愛する資格があるのは、神さま、イエスさまだけです。主イエスさまは、十字架におかかりになって、私たちを罪と死から贖い出してくださることによって、私たちのことを愛してくださいました。私たちがもし、そのように自分自身を差し出したいほどに愛する、その愛の対象である「世」とは一体何なのでしょうか?「世」と調子を合わせ、「世」に愛されるために自分を犠牲にするならば、それはとても愚かな生き方というべきです。  しかし、私たちがもし、この世を愛していいとしたら、「この世を神さまへと、イエスさまへと導くために愛することをする」、それが私たちの毎日すべきことです。私たちはその、イエスさまのみこころを守り行うために、今日捨てるべき罪の行いはないでしょうか? 今日から守り行うべき真理の行いは何でしょうか? 祈って示していただき、新たな出発をしましょう。

新しく生まれるということ

聖書箇所:ヨハネの福音書3章1節~15節 メッセージ題目;新しく生まれるということ  あれはうちの上の娘が生まれる少し前のことですから、もう16年も前になりますが、高校時代とても仲の良かった友だちが、突然亡くなるということがありました。当時日本は、リーマンショックのあおりをもろに受けていたときで、彼はというと、ある旧財閥系の証券会社で、課長代理の職にありました。もともと彼はその系列の総研で働いていたところ、まったく慣れない証券畑に出向になり、しかし、持ち前の真面目さで、35歳にして課長代理にまで登り詰めました。しかし、リーマンショックです。その責任感の強さ、真面目さが仇になったのでしょうか。まるで彼は、リーマンショックの責任を一身に背負って亡くなったかのようでした。  私は生前の彼に、とにかく福音を伝えようとしましたが、あと一歩のところで伝えきれなくて、ついに彼のことを信仰告白に導けませんでした。そんな悔恨を込めて私は、高校の母体であったお寺を会場に行われた彼の葬儀に出たのですが、抹香臭いことがあまり好きでなかった彼らしい葬儀でした。お香も焚かれず、お坊さんがお経をあげることもなく、参列者がお焼香をすることもありませんでした。  ただ、お焼香の代わりに献花は行われました。ところが、なんとその献花の間、会場の大きなスピーカーから、歌が流れてきました。中島みゆきの「時代」という歌です。彼はオフコースやさだまさしやチューリップが好きで、ニューミュージックの話もよくしていたので、いかにも彼らしいな、と思いましたが、その「時代」の歌詞に、私は胸を締めつけられる思いになりました。「まわるまわるよ時代は回る 別れと出会いを繰り返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩きだすよ」この歌がお寺の中で流されたということは、仏教的にはこの死生観が正しいということなのでしょうか。しかし、聖書のみことばはそんなふうに教えているものか。彼は今、いったいどこにいるんだ。あらためて、彼を信仰告白に導けなかったことを、大いに悔い改めさせられました。  今日のテーマは「新しく生まれるということ」です。中島みゆきの歌が受け入れられるような土壌の日本では、イエスさまのこのおことば、聖書の教えも、誤解されかねないのではないでしょうか。新しく生まれる、それは神の国に入るために必要なことです。しかし、新しく生まれるとはどういうことか、どうなることが新しく生まれることなのか、それを押さえておかないで、ただ、日本人的な心で、雰囲気でこのことを捉えてしまうなら、下手をすると、ことは自分に永遠のいのちがあるかどうか、わからなくなってしまう、という、重大な問題になってしまいます。  こういうことを申しますのも、ここ10年、20年の間に、韓国で脅威となり、日本にも上陸して久しいある種の異端は、「何年何月何日にあなたは救われましたか?」とクリスチャンに質問し、うまく答えられないと、それがわかっていないとは、救われていないということです、とおどかし、自分たちこそほんとうの救いに導きます、と、自分たちへとオルグします。その結果、そのクリスチャンは、気がつくとその異端の手先になってしまっているわけです。彼らの信じているものは、イエスさまのようでいて、イエスさまとはまったくちがうものです。そんなことにならないためにも、聖書の語る「救い」ですとか「新しく生まれること」といったものをしっかり押さえておく必要があります。  それでは本文に入りましょう。1節です。……このみことばは、以下15節までつづく場面に登場するニコデモを紹介する節ですが、この箇所からわかることは、彼がパリサイ人の一人だということです。律法を守り行うことによって神からの救いを得るよう教える律法学者、それがパリサイ人で、ニコデモはそのパリサイ人だったということです。  また、ユダヤ人の議員、とあります。日本も近いうちに参議院議員選挙がありますが、あのように、ユダヤにも日本でいえば国会にあたる議会がありました。もちろん、ローマ皇帝やユダヤの分封王ヘロデのような権力者が上に君臨しているにはいますが、ユダヤの議会はその君主のもとにあって、政治的権力を行使する機関でした。最大定員は71名です。  その構成員は、祭司階級のサドカイ人、また、民の代表者である長老、そしてパリサイ人であったわけですが、ニコデモはその中でも、パリサイ人の一員として議員をしていました。つまり、ニコデモは国家の政治的指導者を兼ねた宗教指導者だったわけで、相当高いポジションにいたということになります。  さて、「ニコデモという名の人がいた」という表現は、ちょっと注意が必要です。それは、この箇所でわざわざ「人」と断っていることは、それに先行する2章23節から25節のそれぞれの節に出てくる「人」と関係があるからです。先週も学びましたが、ユダヤ人たちはイエスさまの行われたしるしを見て、イエスさまを信じました。しかし、イエスさまは彼らのその信仰を信頼なさいませんでした。彼らの心の中を見抜いておられ、その信仰が本物ではないことを知っておられたからです。そして、そのような人間に、わざわざご自身のことを何かほめてもらうようなことばなど、イエスさまは一切、必要としていらっしゃいませんでした。  そして、「ニコデモという名の『人』」という表現は、ニコデモもまた、イエスさまが信頼されなかった「人」、心のうちにあるものが何かをイエスさまに知られていたその「人」のひとりであった、ということを意味しています。その前提で2節を読みましょう。  ニコデモはまず、夜、イエスさまのもとを訪ねていきました。これは明らかに、パリサイ人として宗教論争を挑んだり、罠にはめたりするためではありません。イエスさまの教えを聴きに行くためです。しかし、イエスさまの教えを公然と聞くことは、立場上できませんでした。  2000年前のことですから、いかに都会でも、街灯がそこらじゅうを煌々と照らしていたりなどということはありません。ともしびを掲げて、足元もおぼつかない中、夜目(よめ)に隠れてやってきました。イエスさまがすでに、神聖なるエルサレム神殿で派手な大立ち回りを行われたことは、もちろん宗教指導者の知るところです。言ってみればこの青年イエスは、宗教指導者たちに睨まれた危険人物です。そんなイエスさまのことを白昼堂々訪ねることは、ニコデモが議員やパリサイ人としての地位や体面を保つうえで、何ひとつプラスになどなりません。  しかし、ニコデモはほかのパリサイ人とちがい、イエスさまはただの教師、ラビではない、という確信がありました。それで、夜なのにもかまわず、お訪ねするという行動に出ました。ニコデモはまず、イエスさまに、「先生」と呼びかけていますが、これはユダヤ人の宗教教師に対して用いる尊称「ラビ」です。日本の教会では、牧師だけではなく、牧師按手を受けていない伝道師、一般信徒である日曜学校の教師、みんな「先生」と呼ばれますが、韓国では牧師にかぎった呼称で「モクサニム」という呼び方があります。「モクサニム」は、牧師以外には一切使いません。それと同じように、宗教社会であるユダヤで「ラビ」と呼びかけるのはかなり特別なことです。いわんやイエスさまは、公的に宗教家になるための教育を受けたことがないことを、宗教指導者たちは知っていました。そのようなイエスさまに「ラビ」と尊敬を込めて呼びかけているのですから、よほどのことです。  さて、ニコデモがイエスさまのことを「ラビ」とお呼びし、そればかりか「神のもとから来られた教師」とさえ、下にも置かないような美辞麗句を並べている理由は、「しるし」にありました。ニコデモはイエスさまが行われた数々のしるしを見て、人間業では到底できないその奇跡を行われているゆえに、イエスさまが神のもとから来られた「ラビ」であると認めているわけです。ニコデモのこのことばは、そんな「神がかった」すばらしいラビだからこそ、私はもっとあなたから学んで、律法に対する理解を深め、もっといい教師になりたいのです、という、期待感を読み取ることができます。  しかし、そんなニコデモに、イエスさまはおっしゃいます。3節です。あなたはわたしのことを、神から来た教師と見込んで教えを請いに来ていますね。それではあなたに最も大切なことを教えます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはありません。  さて、この「新しく」ということばですが、たしかにそれは「新しく」という意味はあるのですが、原語にはもうひとつ、「上から」という意味も含まれています。  新しく生まれる、ということは、日本人が漠然と信じているような、「来世」という概念とは根本から異なります。中島みゆきの歌の「時代」は、いのち果てる人にとっての「来世」を意識した歌ではないかと思いますが、聖書は、そういう漠然とした「来世」ではなく、もっと実際的ないのちの実在を語っています。上から新しく生まれた人が、神の国を見る。そうではない人は、神の国をまだ見ていない。  神の国を見る。それは、「私の」神が「私を」統べ治めるその実際を、「私が」見ている、ということを意味します。たとえば私たちはいま、日本にいますが、これは言い換えれば、「日本国を見ている」ということです。それは地理的なテリトリーということもそうですし。日本語という共通語、また、日本の法律、行政、警察、国防のもとにいるということでもあるわけです。意識するにせよしないにせよ、私たちは有形無形に日本国を「見ています」。  しかし、ユダヤに関してはどうでしょうか。確かに神さまは、イスラエルと契約を結ばれたゆえ、そのイスラエルの末裔であるユダヤにも依然として契約は有効です。しかし、そんなユダヤ人がユダヤの地理的、政治的、宗教的テリトリーの中にいるからといって、ユダヤ人に生まれついたら100パーセント、神の国を見ているということにはなりません。彼らは、イエスさまを神の子として、金輪際認めませんでしたし、ということは、イエスさまの父であり、イエスさまをこの地にみこころをもってお送りになった神さまのことを信じてなどいなかったことになるからです。ユダヤ人の間にはただ、創造主への形ばかりで中身のない信仰があるだけです。彼らも異邦人同様、上から、すなわち神によって新しく生まれなければ、神の国を見ている、すなわち、この地上にあっても神のほんとうのご支配を認めていることにはならないわけです。  そこでニコデモが返します。4節。小学生のとき、友達とふざけて言いあった冗談を想い出します。例の水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか!」(目のところに印籠を持っていって)「入らないよ。」新しく生まれるとはどんなことか、みことばから学んでいる私たちには、ニコデモの言っていることは屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、これは、「新しく生まれる」というおことばに、「上から」という意味も含まれていたことを見落としていたことから生まれた勘違いといえるわけです。  また、ニコデモのことばには、霊的なことを、唯物論的に解釈しようとして無理をする人間の限界も見ることができます。みことばというものは子どものようにただ素直に受け入れればいいものを、あれこれ人間的な理屈、解釈を加えるものだから、わかるものもわからなくなってしまいます。そういう人にぴったりのことわざがあります。「下手の考え休むに似たり」。問題は、勉強してきた人ほど、なまじ自分には知恵があると思うものだから、自分のことを「下手」と認められなくて、結果、休むことにも劣るような無駄な考えで時間も体力も浪費する、ということです。  しかし、イエスさまはさすがです。わざわざ夜道を歩いて教えを請いに来た者を「物わかりの悪い者は立ち去りなさい」などと追い返すお方ではありません。もっと懇切丁寧に教えてくださいます。5節です。水と御霊によって生まれる。今日はペンテコステ、御霊、聖霊さまがこの地にくだり、教会が誕生したことをお祝いする日ですが、聖霊なる神さまは人を上から、つまり神によって、霊的に新しく生まれさせてくださいます。  では「水」とは何でしょうか。私たちバプテスト教会がとても大事にする、バプテスマに必須の水のことでしょうか。たしかに、公式に教会のひと枝としてクリスチャンになるには、バプテスマという形で水に全身を浸します。これはバプテスマのヨハネ以来のもので、イエスさま自身もバプテスマをお受けになり、また、イエスさまは弟子たちを主導されて人々にバプテスマを授けさせておられたことから、バプテスマが「新しく生まれること」に必須ということを、イエスさまが認めておられたのはたしかです。  しかし、ここでいう「水と御霊によって」の「水」は、バプテスマという儀式に用いられる「水」という以上の意味があります。  近いうちに私たちはヨハネの福音書の4章を学びますが、そのみことばには、人目を忍んで真昼の暑いさなかに水汲みに来た女の人に、イエスさまがこんなことをおっしゃっている場面が登場します。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」同じくヨハネの福音書の中で、7章にはイエスさまがエルサレム神殿で参詣客に向かって堂々とお語りになるメッセージが登場しますが、このようにおっしゃっています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」続く節で、それがイエスさまのお受けになる御霊のことを意味していると解説していますが、ともかく、水とは、イエスさまのもとに行って飲むものであり、また、そのことは、御霊と密接な関係があります。  イザヤ書44章3節のみことば、水というものと霊というものを並行して語っています。霊とは神の民イスラエルの子孫に祝福をもって注がれるもの、その一方で、水とは潤いを失った民、渇く民を潤すものです。その水を与えるのがイエスさまであり、イエスさまが来られたことは、このイザヤ44章3節のみことばが成就したことを意味します。つまり、水と御霊によって生まれるとは、御霊の導きにより、いのちなるイエスさまに出会い、イエスさまのみことばをいただき、イエスさまの御名によって祈ることによって、イエスさまと交わり、イエスさまだけが与えてくださる永遠のいのちの中に、永遠にとどまりつづけるものとなることを意味するわけです。  6節。仮に、ニコデモが「そんなことはありますまい」とばかりに質問してみせたようなこと、母の胎から生まれ直した、などということが起きたとしても、それはしょせん、肉によって肉が生まれたことにすぎません。しかし、霊によって生まれることをさせてくださるのは聖霊なる神さまです。人間的ながんばり、たとえば聖書勉強や断食祈祷、多額の献金のようなことを一生懸命やれば、それで100パーセント、霊的に新しく生まれるなどという保証はどこにもありません。しょせんそれが人間的な修行の範囲を出ないものなら、なおさらそうです。  7節。なぜ、ニコデモはこのことを不思議に思ってはならないのでしょうか。それは、目でその存在を見ることを許されない霊なるお方である神さまのことを学び、語り、教える者ならば、霊によって霊なる神さまを理解していてしかるべきである、もし、霊によって神さまとそのみこころを理解できているならば、このようなことをそもそも不思議に思う余地などないからです。しかし、ニコデモは神のことを、まだ肉的なレベルでしか悟れていませんでした。  8節。「霊」ということばは原語で「プニューマ」といいます。これは「風」と同じことばです。イエスさまはコアな弟子たち以外に神の国というものを説明されるとき、たとえをお用いになるのが常でしたが、ここでもたとえを用いていらっしゃいます。しかも、「霊」と同じ「風」です。霊は風とよく似ているというわけです。ぴったりのたとえをお話しになります。風は思いのままに吹く、しかし人には、それがどこからどう吹いているかわからない。御霊もそれと同じ。  風が吹いたら桶屋が儲かる、ということわざは、風が吹いたら埃が舞う、あれよあれよという間に桶屋が儲かる、というわけですが、風は目に見えなくても、それが吹いたら、目に見える環境に確実に影響を及ぼします。そのように、目に見えない御霊が働かれるとき、人に御霊の実が結ばれ、愛する、喜ぶ、平安になる、人に寛容になる、人に親切にする、人に善意をもって行動する、人に誠実になる、柔和になる、自制する、それらのことが実現するような、イエスさまに対する信仰を持って、罪赦され、救われ、神さまの子どもとなり、永遠のいのちをいただき、神の国を見る……聖霊さまは、目に見えなくても、ほんとうにすごいお方なのです。  しかし、それらのみわざを主導されるのは、神さまのみこころです。人間的に何か計画したところで、そのようなことが実際に起こるわけではありません。だれが、いつ、どこで、どのように、なぜ、御霊の働きを体験して信仰を告白し、御霊の実を結ぶか、それは神の主権の中でなされるみわざです。  そういう前提に立つと、私たち、いま信仰を確かに持っている者たちが、いつ、どこで、どのように信仰を持ったかを具体的に、細かく記憶しているかどうかということは、実はそんなに大事なことではないことがわかります。大事なのは、「いま救われているかどうか」、もっといえば、「こんな私のことを神さまが救ってくださったと、いま信じているかどうか」ということです。ですから、その日時を細かく突っ込んでクリスチャンを動揺させるような異端には、くれぐれも引っかからないことです。  しかし、9節をご覧ください。ニコデモはぽかんとしています。それはそうなのです。ニコデモが拠って立ってきた教えは、いかに律法を正しく守り、神に認められる人になれるか、ということであったからです。つまり、救いとは人間の側の努力にかかっている、という前提で神の教えを理解してきたわけです。ニコデモがイエスさまのことを神のもとから来られた教師と見込んで、教えを請いにやってきたということは、私はもっと正しくありたい、もっと正しく律法を守り行いたい、もっと確実に努力したい、そうして救われて神の国を見る者となりたい、という思いがあってのことでした。  しかし、イエスさまのお語りになることは、ニコデモの拠って立つ前提を、根底から覆すものでした。人間の頑張りではなく、神の霊が新しく生まれさせる? そんな莫迦な! ニコデモは茫然としました。  しかし、イエスさまは容赦されません。10節。こんな厳しい言い方でニコデモをお叱りになったのは、この程度の宗教指導者が高い所からユダヤの民を教えているようなら、民がみことばのほんとうに語ることを理解することなど、金輪際ありえないからです。イエスさまは、民が羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れていたのを見て、はらわたもよじれんばかりに深く憐れまれましたが、民がそうなってしまったのは、羊飼いであるべき宗教指導者たちが、正しく羊を養えるだけの力を持ち合わせていなかったからです。ニコデモもまた、ユダヤ人という名の羊の群れを衰えさせた張本人であったのです。イエスさまの怒気を含んだようなおことばは、ご自身の羊を放っておく牧者への怒りの現れでもありました。  11節。イエスさまはここで、「わたしたち」とおっしゃっていますが、これは、「父、御子、御霊」の「わたしたち」とも取れますし、イエスさまがそのおしえを授けた弟子たちと形づくる共同体とも言えます。いずれにせよ、「わたしたち」と複数形になっているのは、ニコデモも含めたユダヤの宗教指導者の陣営と対立しつつ神の側に立つ陣営、ということを意味します。  その「わたしたち」が知っている、見ている、ということは、つまり、イエスさまがご存じで、ご覧になっていることを、神の陣営で共有しているということを意味します。ここにいる私たちもキリストのからだなる教会ですから、もちろん、この「わたしたち」に含まれるべき存在です。  それをニコデモのようなパリサイ人、宗教指導者たちは、神のみこころをだれよりもよく知っているという立場に自分たちのことを置く以上、神の子なるイエスさまがお認めになるレベルで、充分に知って、受け入れている必要がありました。ところが彼らはイエスさまの御目には、まったくそのレベルに達していなかったのでした。  12節。御霊の働きの主体は神の領域に属するものの、その実践される現場は地上です。地上に住む人に御霊は働かれ、信仰を持たせ、新しく生まれさせ、永遠のいのち、神の国に入れてくださるからです。しかし、いやしくも神の律法を取り扱う教師を自称する教師ならば、それよりさらに深い神の奥義、それこそ一般人のレベルでは地上からはうかがい知ることのできない天上における神のみこころに通じているという確信があるべきです。しかし、イエスさまから見れば、地上における御霊の働きもわからない教師たちは、天上のことなど教えてもわかるわけがない、ということです。  13節。天上のことが人に分からないのは、天に上ったことのある人がいないからです。ところがイエスさまは、ご自身は天から下った人だから、天上のことがわかる唯一の人であるとおっしゃいます。その、天上における父なる神さまのイエスさまに対するみこころは何か、それをイエスさまは14節、15節でお語りになっています。  出エジプトの旅程で、神に対して不平を鳴らし、神さまが民を養ってくださる不思議な食べ物「マナ」のことを、言うに事欠いて、「飽き飽きするみじめな食べ物」と言い放ったイスラエルの民に、神は怒りを発せられ、イスラエルのただ中に「燃える蛇」を送られ、それが人にかみついて多くの者が死にました。それを悲しんだモーセが神さまに祈ると、神さまは青銅で蛇をつくり、それを旗竿の上に掲げよと命じられました。それを仰ぎ見た者は蛇の毒が解毒し、死なないですみました。  そのように、青銅の蛇を旗竿の上に掲げて、人を死のさばきから救い出して生かすように、わたしは十字架に上げられて死ぬことによって、そして死とよみから上げられて復活することによって、さらには地上から上げられて御父の右の座に着き、地上の民が救われるようにとりなして祈ることによって、人を救う、それを信じる者はみな、わたしにあって永遠のいのちを持つのである、というわけです。  私たちクリスチャンは、キリスト教という「宗教」を信じて救われているわけではありません。「神さま」を信じていると言えるには言えますが、それはクリスチャンにかぎった話ではありません。いえ、クリスチャンに限った話で「神さま」を信じているといっても、それでも不十分です。十字架、復活、昇天をもって「上げられた」イエスさまを信じていること、それが私たちを救うことです。  私たちの読む聖書は分厚いですから、こんな細かいことが理解できるか、いわんや守り行えるか、と思いますでしょうか。しかし、信仰の道というものは驚くほど簡単、単純なものです。信じるだけ、これだけです。具体的には、みことばに書いてあることをそのまま、そのとおりです、と信じ告白することです。  今日はペンテコステ、聖霊さまがお下りになったことを記念する日ですが、私たちを救いに導く信仰は、聖霊さまが主体的にくださるものです。私たちはだれも、好きこのんでイエスさまを信じたりなどしません。なぜなら、例外なく罪人である私たちを支配する肉の思いは、御霊の願うことに真正面から逆らい、けっして従おうとしない、従いたくない、だから、従うことなどできないからです。  それが、イエスさまを信じていること、ゆえに救われていること、そして、さらに霊的に成長したいと願うことは、これはもう、神さま、聖霊さまのお働きとしか言いようがありません。だから私たちは、神さまにすべてのご栄光をお帰しするのです。この恵みをもって私たちの信仰を成長させてくださり、私たちの周りにいるひとりでも多くの人を救ってくださるように祈りましょう。

宮きよめが必要な私たち

聖書箇所:ヨハネの福音書2章13節~25節 メッセージ題目:宮きよめが必要な私たち  みなさんにお伺いします。みなさんが持っていらっしゃるイエスさまのイメージは、どんな感じでしょうか? 日曜学校ではとにかく、優しいお方、と教えます。「子どもの友はどなたどなた/子どもの好きなイエスさまよ」なんて。そりゃそうです。聖書が、イエスさまは子どもにやさしいお方であると語っているからです。  しかし、このようなイメージが先行すると、福音書にときに現れるイエスさまのお姿に、面食らわないでしょうか? イエスさまに対して、だめですよ、死刑にあうなんておっしゃっちゃ、そんなことありませんから、なんて申し上げる弟子のペテロに、「下がれ、サタン」とおっしゃっています。あのペテロにです。パリサイ人に至っては、「おまえたちはわざわいだ、忌まわしい」ですとか、「あなたがたは悪魔から出たものだ」とか、すごいことをおっしゃっています。でも、これもイエスさまのお姿です。私たちは、自分の好みに合わないお姿なら、イエスさまを受け入れない、と思ってはなりません。  今日の箇所をご覧ください。イエスさまが大暴れです。私たちももし、この過越の祭りでエルサレム神殿にいるひとりだとしたら、そのお姿に震え上がりはしなかったでしょうか。しかし、私たちはこのような、一見するとなぜイエスさまがこんな乱暴なことを、と思うようなプロセスを語るみことばをじっくり観察し、学んでまいりたいと思います。  まず、13節です。ユダヤ人の過越の祭り、と書いてあります。旧約聖書に慣れ親しんでいる私たちならば、ああ、あの、モーセの出エジプト以来の過越の祭り、とわかりますが、ヨハネの福音書はユダヤ文化の外にある異邦人を意識して書いてあるので、「ユダヤ人の」と書いてあるわけです。しかし、これで、これまでのユダヤの宗教的伝統がイエスさまによってまったく新しくされることが暗示されてもいます。これは、先週の聖書箇所の「ユダヤ人のきよめのしきたり」ということばがほのめかす、イエスさまがまったく新しい時代を来たらせられるということとも共通しています。  イエスさまはこの過越の祭りに、エルサレムにいらっしゃいました。これは、ユダヤ人としてあるべき姿を自らお示しになったということです。よく、誤解されることですが、イエスさまは旧約の律法を廃棄されたのではありません。むしろ、成就されたのです。この、イエスさまがみことばを成就されたのは、十字架の上ででした。「完了した」とおっしゃって、そして息を引き取られました。「完了した」というおことばは、聖書の訳によっては「成し遂げられた」と訳されています。それは、律法を成し遂げられた、ご自身のご生涯によって、人間には何をどう頑張ってもできなかった、律法の完成を成し遂げられた、ということです。  しかし、その生涯においては、イエスさまはまず、御父への従順を果たすべく、律法に違反することをあえてなさることはありませんでした。エルサレム神殿が過越の祭りにおいて礼拝する場所である以上、イエスさまはエルサレム神殿に詣でられ、みことばへの従順を果たされたのでした。もちろんそれは、イエスさまの十字架のみわざによって、「完了した」となるまでのことです。以後、人はエルサレム詣でをする必要はなくなりました。この事情については、のちほどあらためてご説明します。  14節です。イエスさまは宮、つまりエルサレム神殿に入られました。するとそこに見たものは、いけにえの家畜や鳥を売る者、また、両替の商売人でした。  彼らは商売人たちでしたが、こういった者たちがここで商売をするようになったことには、それなりの事情がありました。まず、こんなところに家畜がいっぱいいることなどありえるのか、と思われるかもしれませんが、当時のエルサレム神殿の敷地は、とてつもなく広かったそうです。イエスさまの弟子たちが、神殿のその壮麗さを見て、イエスさまに、すごいですねえ、と感動してみせただけのことはあります。そしてその庭となると、さらに広かったわけです。  エルサレム神殿の敷地は、実に5万6千平方メートルもあり、これは、読売ジャイアンツの本拠地、東京ドーム2個分になります。礼拝堂でいえば、韓国のサラン教会という教会が世界で一番大きな敷地を持つ教会で、ギネスブックに載っていますが、エルサレム神殿はそのサラン教会の6倍半にもなる面積だそうですから、エルサレム神殿がどれほど大きいかわかります。だから、たくさんの牛やヒツジ、鳩なども運び入れられるだけの広さがあったわけです。それらの家畜はなにも、神殿の建物の中に入れていたわけではありません。境内の庭のところで売っていました。  家畜は、1歳の傷のないものでなければならないと定まっています。エルサレム詣でをする人は、一生懸命、そのような家畜を選び、大切に連れてきます。道中、傷がついたり、病気になったりしたら、もうそれでささげられないことになるからです。しかし、問題があります。それは、それがいけにえにするにふさわしいかどうかを決めるのは、神殿で働く祭司の側、宗教指導者の側だということです。彼らに少しでも難癖をつけられたら、せっかく苦労して育て、苦労して選び、長い道のりを苦労して連れてきても、何にもなりません。そうなると、神殿の境内で売っている家畜をお金を出して買って、それをささげなければならなくなります。当然、その値段は神殿側が決めるわけで、ここにも、民から搾取する現実がありました。  一方、両替のほうですが、これは、当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、したがってローマ皇帝の肖像画と銘が刻まれている硬貨を通貨として使っていましたが、宗教指導者たちは、その硬貨に刻まれた肖像画を偶像と見なし、それを神殿への入場料として徴収する神殿税として受け取りませんでした。そこで両替人の登場です。そのローマの硬貨を、ツロの貨幣に両替して、ささげられる状態にしてやろう、というわけですが、ここで彼らは莫大な手数料を取ります。これで宗教指導者たちの懐は潤い、ユダヤの下々は搾取される、というわけです。何のことはない、彼らが取税人をあれほど忌み嫌っているのは、ローマに納める税金に大きく上乗せした額をユダヤ人から徴収し、その差額をポケットに入れるからですが、そんな取税人をさばく宗教指導者も、同じことをしているわけです。取税人が罪人だなどと、どの口が言うのか、といったところです。  15節。イエスさまが怒りました。羊も牛もみな、敷地から追い出されました。注意が必要ですが、イエスさまはたしかにこのとき鞭をつくって家畜を追い出しましたが、家畜を売る者たちをそれで叩いたわけではありません。それでも、大勢の参詣客に提供できるだけのたくさんの家畜を外に出してしまうわけですから、その剣幕たるやすごいものがあったわけです。  そして、両替人のそばに積まれた硬貨をばらばらに散らしました。両替の商売道具である台を倒しました。さぞかしすごい音がしたのではないかと思います。みなさん、覚えがあるでしょう。たいていの音を聞いてもなんとも思わない私たちが、例外的に敏感に反応する音。そう、お金が床に落ちる音です。チャリーン、という音がしたら、そちらの方を向かない人は、まあいないと思います。それが、じゃらじゃらじゃらじゃらっ、という音とともに床に飛び散るのですから、そのインパクトたるや絶大です。これを見た人は、ああ、自分は何ということをしていたのだ、と恐れ入ったでしょうか。あるいは、法外な値段でいろいろ売りつけられないと礼拝もできなかった庶民たちは、心の中で快哉を叫んだでしょうか。  一方でイエスさまは、16節のようにもおっしゃっています。そう、鳩は空に飛ばしたのではなく、かごごと持っていかせました。一応は彼らなりの宗教心を全否定せず、配慮されたと見るべきでしょうか。全否定ならば鳩を空に放ち、もう彼らの元に戻って来させなかったからです。しかし、鳩というものは、もっとも貧しい民がなけなしの金でささげるべきものであり、そんな貧しい人から法外な手数料を取って着服するなど、もってのほかでした。イエスさまはですから、そんな利得の金にまみれたものを神殿から追放されました。  そして、イエスさまがおっしゃったのは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」というおことばです。これはたいへんなおことばです。  というのは、神殿にて礼拝をささげられる、主なる神さまのことをよりにもよって、こともあろうに、父、と、宗教指導者たちのいる前で堂々とお呼びになったからです。しかも、その御父の怒りを代理で実力行使するようなものすごい行動に出られたからです。  彼らにしてみれば、もっともふさわしい形でささげている礼拝が、とんだ妨害を受けたということです。しかも、こともあろうに神聖な神さまを「わたしの父」と呼ぶような、それこそ神をも恐れぬ者によって。こんな冒瀆の罪を犯す者など生かしちゃおけない。彼らはこのときから、イエスさまへの憎しみを募らせはじめたことでしょう。17節。イエスさまの弟子たちはイエスさまのお姿に、詩篇69篇9節のみことばを連想しました。このような、この世の宗教的権威を何ひとつ恐れず、ただ神さまのために情熱をもって振る舞うイエスさまは、やがてその熱心さのゆえに、ユダヤの宗教社会から葬り去られることになるのではなかろうか、しかし、それが主にお従いする者の定めなのではなかろうか。そして実際、イエスさまはほかならぬ、宗教指導者たちによって十字架送りにされました。ある意味、弟子たちが連想したこのみことばが成就したことになったわけです。  18節。怒りにかられたユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまに言うわけです。ほお、あんたはこれだけのことをしてくれるなら、自分がメシアだと言いたいんだろうねえ。なら、あんたがメシアだという証拠を見せてもらいたいねえ。宗教指導者たちは、しるしを見せてくれたら喜んであなたを信じます、ということでそう言ったわけではありません。できっこないだろう? できないなら退場してもらいたいねえ、もう二度とユダヤに顔を出すんじゃないよ、というわけです。  これに対してイエスさまは、堂々と宣言されます。19節です。もちろん、私たちは普段から聖書を読んでいますし、その背景となる歴史も学んでいますので、この神殿は壊されて現存せず、また、三日で神殿を建てる、ということが、イエスさまの復活を意味していること、それ以前に、神殿を壊す、とは、イエスさまを十字架につけて処刑する、ということだと知っています。今日の箇所でも21節、22節に語られているとおりです。  しかし、この話を聞いたユダヤ人たちは、そんなことなど知る由もありません。だから、20節のように答えています。この神殿はヘロデ大王の政策の一環で建てられた壮大なもので、この時点で建てるのに46年かかったとありますが、実はこの神殿はまだ完成していませんでした。昨日の夜、テレビで芦田愛菜さんがサグラダファミリアを訪問した様子が放映されましたが、あのように、エルサレム神殿はたしかに壮麗ではあっても、未完の場所だったわけです。完成したのは紀元64年です。しかし、それから7年もしないうちに、エルサレムはローマに攻め入られて陥落し、神殿は完膚なきまでに崩壊させられました。まさに、マタイの福音書24章でイエスさまがおっしゃったとおりです。  しかしそれは同時に、もはや家畜をほふったいけにえをささげることで神との和解をなすのではない、神との和解は、十字架に死なれて3日目によみがえられたイエスさまを通じてなされるもの、イエスさまがただ一度そのことを成し遂げられたゆえ、もはやここにおいて、家畜の血を流す形での罪のためのいけにえは必要なくなった、ということを意味しています。こうなると、このときのように家畜を売りつける者も、両替で多額の利益を得る者も必要なくなります。イエスさまを嘲笑った宗教指導者たちはもはや、国と民族もろともその居場所を失い、イエスさまは死なれても予告どおり復活されて、まことの神殿としてすべての信仰者を礼拝者として神の御前に導いてくださるのですから、皮肉というべきことです。  22節を見てみますと、弟子たちはイエスさまが復活されたとき、イエスさまがこのときおっしゃったみことばがまことだったことを知り、あらためて聖書のみことばを信じましたが、このときのイエスさまのおことばは、宗教指導者だけではなく、弟子たちにも隠されていたようです。復活を経てようやく信じたわけですから、この時点では、弟子たちにもイエスさまのおっしゃった、神殿を三日で立て直してみせよう、というおことばの意味が理解できていなかったということです。  先週もお話ししましたが、人はひとたびイエスさまについていこうとするならば、だれもが弟子に召されています。なぜならば、イエスさまは群衆に対して隠しておいた御国の奥義を、弟子たちには特別に明らかにしていらっしゃいますが、その明らかにされた内容は具体的に聖書のみことばに記されていて、私たちはその聖書を、手にとって読む気さえあればだれでも読めるからです。つまり、聖書の読者はみな弟子なのです。ついでにいえば、イエスさまについていく弟子たちはみな、イエスさまにとっては愛弟子です。それでもちがいがあるとすれば、それは私たちの側の態度のちがいであり、不肖の弟子か、真面目な弟子かのちがいがあるだけです。  この時点で弟子たちがイエスさまのみことばを理解できていなかったように、弟子になってもなお、みことばの意味がまだ分かっていなかった、ということは、充分あり得ることです。だから、何かを学んで悟るようなことがあった場合、ああ、私はクリスチャンを何年やって、こんなことをいまさら悟るのか、などと落ち込まないでいただきたいのです。私たちがすべてを知るのは、天国に行ってからです。それまでもこつこつと聖書を学び、昨日より今日、今日より明日、みことばを新たに悟る弟子となれれば、それでいいと思います。しかし、イエスさまの復活、これは聖書にはっきり書いてあるレベルの事実、また真理ですから、これはイエスさまの弟子として歩みつづけたいなら、絶対に外せないことです。  さて、23節を見ましょう。イエスさまは過越の祭りの間、エルサレムにてさまざまなしるしを行われました。それを見て体験した人々は、イエスさまを信じました。  しかし、それをこんにちで言うところの「リバイバル」と見なすことができるかというと、それはちがいます。なぜでしょうか。24節、25節です。イエスさまはご自身を彼らにお任せにならなかった、とあるからで、彼らの態度を、イエスさまはふさわしい信仰としてお認めにならなかったからです。  この、24節の「任せる」と、23節で人々がイエスさまの御名を「信じた」の「信じる」は、どちらも「ピステュオー」というギリシャ語の動詞であり、「信じる」と同時に「託す」という意味があります。単なる「イワシの頭も信心」なんていうレベルではなく、大事な財産を預ける「信託銀行」というレベルです。  ユダヤ人はイエスさまの行われるしるしを見て、この方こそメシアだ、と思ったでしょう。しかしそれは、彼らなりの期待感を持ってのメシア像であり、それはわれわれ神の民なるユダヤをローマから解放してくれる救い主なる王、というイメージで、少なくともそれは、神さまが地上にイエスさまをお送りになったみこころとまったく異なるものです。ユダヤ人はイエスさまを王と信じ、わが身を託したくなったでしょうが、イエスさまは一貫して、彼らなりのメシア像にご自身を委ねるほどに彼らを信頼することをなさいませんでした。結局、宗教指導者にあおられたユダヤ人たちは、イエスさまを最終的に拒否し、十字架送りにする側に回りましたが、それでよかったのです。イエスさまは全人類が信仰によって救われる道を開くという御父のみこころを成し遂げるためには、ユダヤ人に限定した救い主、それも、からだは救えてもたましいを救うこととは程遠い存在には、絶対になることができなかったのでした。  ここで、私たち自身のことを考えたいと思います。私たちの中にはまだ、イエスさまのことを正しくとらえないまま、救いを求めてしまっている、救われようとしてしまっている部分はないでしょうか? イエスさまが優しいだけではない、人を人とも思わない、愛もなくて自分中心にふるまうような、自称主の民、主の弟子に対しては、怒りをもってお臨みになるお方であるということを、私たちはいま一度考える必要があります。  そもそもユダヤ人は、礼拝というものを真剣にささげたいと思うから、しかし、神殿の聖さを守りたいと思うから、いけにえをささげるうえで参詣者たちに便宜を図ったり、肖像画の刻まれたコインにも神経をとがらせたりしたわけです。その動機はすばらしかったというべきでしょう。しかし、そんな主に従順でありたい動機も、いつの間にか肉的な行動に取って代わられるものです。  私たちもよいクリスチャンでありたい、従順になりたい、と思うでしょう。それはクリスチャンであるなら、だれしもすべからく思うべきことです。そんな思いさえ持てないようでは、そういう人のことをクリスチャンと呼ぶべきか迷うところです。しかし、たとえそんな崇高な意識を持って、口では立派なことを言っていても、行いでは否定してしまっている、そんなことがとても多い、それが私たちなのではないでしょうか。  私たちは第一コリント3章16節のみことばが語るとおり、神の御霊がうちに住まわれる、神の宮です。だから、神の御霊を、私たちの考えや態度、ことばや行いで悲しませてはなりません。そういう存在として神さまは私たちを召され、私たちを導いてくださっています。私たちがもし、イエスさまの嫌われるものを自分のテリトリーの中に入れてしまっているならば、お祈りして、それをイエスさまに取り除いていただくことです。具体的には、「イエスさま、私にはこれこれ、このようなものがありますが、それはあなたさまのみこころにかなわないものです。でも、私はまだそれにしがみつきたい思いがあり、自分の力では取り除けません。イエスさま、それを捨てる力をください。いま、捨てます」とお祈りしてみましょう。  それでもそういうお祈りをしようともせず、頑なに自分の好きなことを押し通し、御声に耳を傾けることさえ拒否するなら、ときにイエスさまは、私たちが痛い目にあうことをお許しになります。お金や健康を失うかもしれません。人前で恥をかいたり、下手をすると信用を失ったりするかもしれません。しかし、もしかしたら、それはイエスさまが私たちのことをとても愛していらっしゃるという、何よりの証拠なのかもしれません。あなたはわたしなしで生きてきたが、それがどんなに厳しいことかわかっただろう。これからはわたしの心を学びなさい。わたしに祈りなさい。わたしはあなたを愛しているから、あなたを癒やし、回復させてあげよう。  ともかく、宮きよめが必要な「鼻持ちならない宗教家」は、私たちのことだと心得ましょう。人前で敬虔なクリスチャンのなりをして、偉いとほめてもらおうとする、あるいは、自分はダメなクリスチャンであるとことさらにアピールして、そんなことないですよ、と言ってもらうことを期待する、そんな私たちは、イエスさまに立ち入っていただき、きよめていただく必要があります。私たちに思い当たることはないでしょうか? 牛や羊や鳩や神殿税に法外な値段をつけるように、私たちは自分にとっての敬虔ななりに、余計なもの、罪深い付属品をつけていないでしょうか? 祈って点検していただきましょう。今日は主の晩餐、そんな私たちにも主のみからだと血潮は開かれていますが、必要なのは悔い改めです。