聖書箇所:マタイの福音書28章11節~15節
メッセージ題目:救霊の敵、それは不信仰
以前、このメッセージの時間にお話しした、吉永小百合さんと大泉洋さんのダブル主演の映画「こんにちは、母さん」。東京スカイツリーの近くにある「墨田聖書教会」という教会、東京の下町にあるカマボコ兵舎をリノベーションした面白い礼拝堂がメインの舞台として登場するあたり、時代設定が令和でも作品に漂う雰囲気がかなり懐かしいという、不思議な作品なのですが、それもそのはず、監督があの、山田洋次さんです。
山田洋次さんの代表作といえばなんといっても「男はつらいよ」です。あの主人公、寅さんはやたら名言の多いキャラクターですが、その中でも代表的な名言といえば、私はこれだとおもいます。「それを言っちゃあおしめえよ。」旅からふらりと、おいちゃんの団子屋に顔を出して、しばらく居座ったと思ったら、寅さんのことだからまたまた不始末をしでかす。怒ったおいちゃんが、寅さんの育ちのことをあげてなじる。すると、それを聞いて心底傷ついた寅さんが言う。「それを言っちゃあおしめえよ。」そして、また旅に出てしまう。
聖書は、人間的な常識では、理解しようにもできない記述に満ちています。箴言のような、人類に普遍的な道徳律を説くみことばはともかく、創世記1章1節からして、もう、無神論、進化論という、この世界の常識と正面衝突します。しかし、そういう箇所をあげて、「聖書に書いてあることなんて、ありゃ、嘘だよ……」なんて言っては、「それを言っちゃあおしめえよ」です。永遠のいのちを探求する歩みを、そんなことで「おしめえ」にしないでいただきたいのです。
イエスさまの復活、このみことばを、イエスさまの十字架の記述とともに、真実と受け入れることができたならば、その人は救っていただけます。永遠のいのちをいただけます。事はたましいの救いという重大なことなのです。私たちは、みことばを疑わずに信じ受け入れる信仰を保たせていただけるならば、実に幸いなことです。
さて、その、イエスさまの復活の記述。先週学びましたみことばで、イエスさまのお墓へと墓参りに来ていた女性たちが、復活のイエスさまに出会うという恵みを体験したできごとから学びました。実は、このお墓は、番兵が警固していました。
なぜ、番兵がここにいたのか? というと、そう、マタイの福音書27章62節から66節に、その事情が語られています。……まず、62節。祭司長とパリサイ人がピラトに陳情に行きました。そう、ぐるになってイエスさまを十字架に葬り去った、ユダヤの宗教社会を牛耳る存在です。その日は備え日の翌日とあります。これは、安息日である土曜日のことです。本来ならこの日には、宗教指導者が会合を持つことはしません。しかし、この日にかぎっては、彼らは集まりました。当然、この会合は彼らにとっては「仕事」に類するものでしょう。あれほど、安息日を犯してはならないと語っておいて、自分たちは肝心なときには仕事をするのか、と突っ込みのひとつも入れたくなりますが、ともかく彼らはともに集まり、63節、64節のとおりに陳情しました。
彼ら宗教指導者たちは恐れていました。何を恐れたのでしょうか。それは、イエスさまがおっしゃった「わたしは三日後によみがえる」というおことばがかなったように、お墓が開いてイエスさまのご遺体がなくなることです。それによって、イエスさまの弟子たちが、イエスさまのおことばどおりのことが起きたぞと言いふらして、今度こそユダヤの民心を宗教指導者たちから離れさせ、宗教指導者たちの既得権がすっかりなくなってしまうことになりかねません。
ピラトは、宗教指導者たちの言うことを聞き入れ、番兵に墓を守らせる許可を出しました。これは、新改訳聖書ではローマの番兵、聖書協会共同訳ではユダヤの番兵のように読めますが、どちらにせよ、ピラトのローマ総督としての権威によって派兵し、墓を封印し、警固させたことは確かです。
ピラトがイエスさまを十字架につけた理由は、ユダヤ人の機嫌を取るためであったことは、みことばの語るとおりですが、このときもまた、ユダヤ人の機嫌を取ることで、事を収めようとした様子がうかがえます。
また、ピラトにとっては、別の意味での保身の表れともいえるでしょう。カエサルのほかにいなかったはずの王が実は生きていた、これこそがユダヤ人の王だ、と、いよいよ民衆が信じるようなことにでもなったら、こんどこそピラトの首が危なくなります。ピラトとしてはなんとしてでも、そんな事態が起きてはなりません。3日間でいい、墓さえしっかり守り切れれば、このピンチはしのげる、ピラトにはそんな計算もあったわけです。
しかし、結果はどうなったでしょう。大きな地震が起こって、封印もろともお墓は開いてしまいました。中にはイエスさまはおられませんでした。その代わり、稲妻のように輝く顔で、雪のように白い衣をまとった御使いが現れました。あまりの光景に、番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。気絶したということでしょう。百戦錬磨の屈強な番兵を倒すほどの、栄光に輝く主の臨在です。
しかし、気絶したとはいえ、イエスさまのご遺体が納められていたはずのお墓がたいへんなことになったことは、番兵自身がよくわかっていました。これはちゃんと報告しなければならないことです。しかし彼らは、ピラトのところではなく、祭司長ら、宗教指導者たちのところに行きました。
もし、のこのことピラトのところに行って報告でもしようものなら、彼らはその責任を問われるに決まっています。下手をすると死刑です。そんな彼らは宗教指導者のところに行きました。元はといえば宗教指導者たちが、常識的に考えてもあり得ないようなこと、イエスが3日目に墓から出ていくかもしれない、などと騒ぎ立てなければ、同じくあり得ないようなこと、墓を3日間も大真面目に警固する、なんてことをしなくて済んだわけです。それで夜を徹して墓を警固したら、地震が起こって墓が開くわ、自分たちは気絶してしまうわ、おかげでイエスさまのご遺体がなくなったことの責任を問われることになるわ……踏んだり蹴ったりとはこのことです。どうしてくれるのですか、と、そのように仕向けた者たちに直訴することにもなるわけです。
また一方で、番兵たちは、輝く御使いという、世にも不思議な存在を見ています。宗教指導者たちはこういうことの専門家でもありますから、彼らにこの事実を知ってもらい、それがイエスさまのみことば、ご自身が三日目によみがえるというみことばの成就であるかどうかということ、ゆえに、彼らがこれまでの考えを変えて、イエスさまこそは、聖書に預言された救い主、王の王ではないだろうか、ということを考えさせる材料を提供する、という意味もありました。
番兵のこのことばに、祭司長たちは民の長老たちとともに集まり、協議しました。その結果、彼らがしたことは、多額の金を用意し、それで番兵たちを買収することでした。番兵たちにはこう言い含めました。13節です。
しかし、もしこの指導者たちが言うようにピラトに伝わったら、番兵を出してやったピラトの面目は丸つぶれです。今度こそ番兵は責任を取らされることにもなりかねません。そんな番兵たちに、祭司長たちは、心配するな、私たちがピラトをうまく説得してやる、と言います。
ピラトが、ユダヤの民心を買おうとイエスさまを十字架につけたことはすでにお話ししたとおりですが、それに飽き足らなかったユダヤの指導者たちは、番兵を出せ、さもなくばもっとユダヤは混乱するぞ、と、ピラトをコントロールしたわけでした。そんな彼らには、この空(から)の墓の件に関してもピラトを手玉に取ることなどできるはずだ、という計算があったものと思われます。
彼らの思惑は当たりました。この謀議の結果、ユダヤ人の間には、イエスさまのご遺体を弟子たちがやって来て盗み、それを、イエスさまがみことばどおりに復活したと言いふらしているだけだ、という噂が、広く伝わることになったのでした。そしてこの噂の存在は、いかにもありそうな話だ、というわけで、初代教会の福音宣教に対する大きな妨げとなったであろうと考えられます。
ここで、問題にしなければならないことは何でしょうか。それは、これほどまでの証拠、証言を前にしてもなお、イエスさまの復活を頑として認めず、そればかりか、嘘の話を拡散して、人々にイエスさまの復活を信じないようにさせた、宗教指導者たちの頑ななまでの不信仰です。
このたくらみをした者たちは祭司長たちが中心だったようですが、イエスさまへの不信仰ということにおいては祭司長たちに引けを取らない、パリサイ人に対し、イエスさまはこんなことをおっしゃっています。マタイの福音書23章13節。彼らは、イエスさまの復活を聞き及び、それがイエスさまのおっしゃっていたとおりのことだったことを認めざるをえなかったのに、それをかたくなに拒否し、しかもそればかりか、人々に嘘を吹き込みました。こうなると人々は、無学な十二弟子と宗教指導者たちのどちらの言うことを信じるのか、という選択を迫られることになり、そうなると、高い地位を得ている宗教指導者は極めて有利でしょう。しかしその結果、人々は金輪際、復活のイエスさまに出会えないことになってしまいます。
みことばを教える立場の人は、なぜ責任が重大なのでしょうか。それは、決して大げさな話ではなくて、その人が教えるみことばの教えいかんによって、それを聞いた人のいのちが左右されるからです。ヤコブの手紙3章の戒めは、それゆえに重大な意味を持ちます。
聖徒はみことばの教師をそうと信頼して教えを受けるわけですが、その際、眉にたっぷりつばをつけて聴くような態度は基本的に取りません。そんなことは神さまに喜ばれないとわかっていますし、だいいち、失礼です。だから、みことばに素直に耳を傾けます。しかしその分、信徒は教師の語ることばに、その霊的状況が大きく左右されることになってしまいます。けっして眉に唾をつけるとかではなく、普段からきちんと聖書を学ぶ癖をつけて、聖書的ではないメッセージを聞き分ける訓練ができている人ならいいのですが、みんながみんなそういう人というわけにはなかなかいきません。詐欺師的な教師は、そこに目をつけて、信徒が素直で熱心なわりに自主的に聖書を学ぼうとしないのをいいことに、でたらめなことを教えます。
その結果、特に教師が並外れたカリスマ性を持つような人だったりしたら、信徒はぞろぞろとついてくるかもしれません。しかし、その語ることばがイエスさまの福音を指し示していなかったならば、信徒たちはもちろん、そういう間違った導きをした、教師もまたさばかれることになります。
そのように、さばかれるに値する導きを教師がしてしまうのは、教師自身の中に、みことばの啓示する福音を正しく受け入れようとする心がなく、自分の聖書解釈に固執する、頑なさがあるからです。頑なな人はどうしようもありません。いかに正しい聖書解釈を聞かされても、正しいのはあくまで自分の聖書解釈だと信じ込み、そのとおりに振る舞うのですから、どうしようもありません。そしてこういう人は迷惑なことに、人のこともこの教えに染めていくわけです。これは、福音宣教の強敵です。
このような、ゆがんだ聖書解釈に固執するならば、それこそマタイ23章13節のように、この聖書解釈を聞かせた人もろとも救いから漏れてしまうわけですが、そういう意味でも、よく「異端」と言われているものが実に罪深いわけです。「異端」にもそれなりの超常現象が伴うこともありえると私は思いますが、だからといってそれがイエスさまのみわざかといえば、それはそうとはかぎらない、というべきでしょう。ヨハネの手紙第一4章に書かれているとおりです。彼らは、どうだ、ここに神の臨在があるぞ、とばかりに、論より証拠で迫りますが、みことばにふさわしい「論」のない「証拠」など、どんなことがあっても信じ受け入れてはなりません。自分が救いを失いかねませんし、もっといえば、私たちがもし仮にそうなってしまったら、そんな私たちに影響を受けた人たちのことも、もろとも滅びに追いやることになるからです。
さて、イエスさまの復活が事実だと都合が悪い、というのは、この箇所に限っていえば、ユダヤの宗教社会の既得権益を握っていた層でしたが、およそ私たちクリスチャンが戦うべき相手は、イエスさまの復活が事実だと都合が悪いと考える存在です。それは一見すると、この祭司長たちのような目に見える勢力と思えますが、そのようにとらえるならば、それは氷山の一角です。
エペソ人への手紙6章12節にあるとおりです。そう、私たちの戦う相手はサタンであり、その手下である悪霊どもです。彼らにとって、イエスさまが復活されたという事実ほど、都合の悪いものはありません。なぜならばイエスさまの復活によって、自分たちが永遠に敗北した、永遠に滅ぼされたことが確定したからです。以来、サタンどもは2000年にわたって、いかにしたらイエスさまが復活したことを人々に気づかせないようにできるだろうか、人々に認めさせないようにできるだろうか、あらゆる策略を弄してきました。
そう考えると、イエスさまの復活を否定する異端ですとか、自由主義神学ですとか、無神論に根差したこの世の常識ですとか、そういったものは、それを信じ受け入れさせることによって、人々をイエスさまの復活のいのちにあずからせなくし、一人でも多く、自分と永遠の滅びをともにさせようとするサタンの策略であることが見えてきます。むろん、彼らに愛がないとは言いません。思いやりがないとは言いません。彼らにだっていい人はいっぱいいます。しかし、もっとも大事な、イエスさまの復活に対する信仰を持つことができないほどに、彼らは頑なにさせられているのです。
ここに私たちは、神さまの恵みを求める信仰を持つべきであることが教えられます。あのパウロを見てみましょう。初代教会を破壊して回ったパウロが救われ、使徒となるなど、ステパノの石打ちの現場にいた人たちは、いったい想像できたでしょうか。まったく、神さまの恵みではないですか。
私たちは周りの人たちを見て、たやすく諦めてはいませんか。こんな人が救われるなんてありえない、とか。しかし、そんな思いになるなら、まず私たち自身が、復活のイエスさまをはっきり見ているか、目が閉ざされていないか、目が閉ざされた自分のことをなんやかんや言って正当化していないか、振り返ってみましょう。そして、祈りのうちに、イエスさまの復活の力に満たしていただきましょう。
およそ、私たちの生活というものは、復活のイエスさまのいのちが生きることです。ガラテヤ人への手紙2章20節にあるとおりです。そこから、人々を、復活のいのち、永遠のいのちへと生かすのです。この魅力ある生き方は、イエスさまの復活という事実が突きつけられてもなお頑なに認めず、そればかりか、その事実を嘘のニュースを拡散することで否定し、人々を救わせないようにした宗教指導者の生き方の対極にあるものです。
最後に、ヨハネの福音書9章39節の、イエスさまのみことばをお読みします。私たちがイエスさまの復活を信じ受け入れる、見えるものとしていただき、さばきから免れさせていただいていることに感謝するとともに、人々が復活のイエスさまを見ることができるように、主の恵みを祈り求めましょう。