十字架の体験は人を変える
聖書箇所;マタイの福音書27章57節~60節 メッセージ題目;十字架の体験は人を変える 前にも申し上げたことの繰り返しになりますが、初めてお聞きになる方もおられるので、まあ、おつきあいください。私の高校時代、倫理の授業の先生は、奥村晃作先生という、歌人としても名を成した方でした。短歌を作る人です。ご本人の話によれば、先生はあの「サラダ記念日」の俵万智さんを見出したらしいです。そのことを先生が授業で自慢しておられたとき、ほんとかな、なんて失礼なことを思ったりしましたが、そんな方が哲学や宗教のことをお話しになるのですから、授業は面白くないわけがありませんでした。 ある日の授業のことです。奥村先生はイエスさまの話をしていました。イエスはね、十字架にかかって死んだんだよ。で、墓に入って、生き返ったんだよ。先生がそうおっしゃったとたん、男子校のことですから、男子ばかりのクラスはどっと笑いに包まれました。私はその少し前に、病気をして入院していたとき、神さまの恵みを感じて大きく変えられる、という体験をしていただけに、まことに居心地の悪いものを感じました。 それからひと月ほどしたときでしょうか、やはり倫理の授業で、奥村先生はおっしゃいました。哲学の命題の話だったと思います。「人間はだれもが死ぬ。これはたしかだよね。」すると、外池(とのいけ)君という友達が、すかさず質問しました。「じゃあ、イエス・キリストは?」外池君の質問に、またもやクラスは沸きました。先生は顔を引きつらせながら、おっしゃいました。「うーん、そうだな……。まあ、僕はクリスチャンじゃないけど、でも、聖書に書いてあることは、ほんとうだと思っているよ。」私の通った高校は芝高校といい、もともとが浄土宗のお坊さんの養成学校という、バリバリの仏教の学校で、私はそんな環境でつねにアウェーの思いをしていただけに、奥村先生のあのときのことばは、神さまがそんな私にひとときくださった恵みのようだったと、今にして思います。 そう、クリスチャンではない倫理の先生もおっしゃるとおり、聖書はほんとうのことを書いていて、その聖書に、イエスさまが墓からよみがえられたことが書いてある以上、イエスさまのご復活は、ほんとうのことです。ある関西のミッションスクールの卒業生に聞いた話ですが、聖書の授業で、イエスさまの復活は信じなくてもいいとか、そんなことを先生が言っていたというのですが、とんでもない話です。そんな先生は、奥村先生の爪の垢でも煎じて飲めばいい。そういう人がどんなに自分のことをクリスチャンだと名乗ったり、聖書の教師だと主張したりしても、私たちはその手の人とは距離を置いて、聖書が誤りなき神のみことばであると、高らかに告白しなければなりません。聖書が真理、真実であるということは、この世の常識に忠実であるという意味ではけっしてありません。聖書のみことばは、この世の常識をはるかに凌駕するものです。イエスさまの復活は、その最たるものです。 キリスト教の象徴として真っ先に思い浮かぶものは「十字架」でしょう。しかし、こんな象徴もあるのをご存じでしょうか? そう、空(から)の墓です。ふたの石のどけてある、岩に穴が掘ってある状態の、空っぽのお墓の図です。言うまでもなく、復活を指しています。 西暦1054年にキリスト教会は東西に分立しましたが、西方教会(ローマ・カトリック)が十字架に主眼を置く一方、東方教会(オーソドックス)は復活に主眼を置くようになりました。私たちプロテスタントも源流をたどれば西方教会の流れにありますから、どうしても復活よりは十字架のほうを強調する傾向があると思います。いえ、十字架を強調することはとても大事なのですが、復活も同じくらい強調して、しすぎることはないはずです。プロテスタントはいかに西方教会の流れにあるとはいえ、やはり立ち帰るべきは聖書という原則がありますから、聖書が語る以上、復活はとても大事なものであるわけですから、プロテスタントのキリスト教会ではこの「からの墓」が復活のシンボルとして用いられるようになりつつあります。 そういう、からの墓。しかし、ということは、イエスさまの入るべきお墓を提供した人がいた、ということです。 イエスさまは神の御子、王の王です。しかし、実際のイエスさまはというと、ご自身おっしゃっていたとおり、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」というお方です。立派なお墓など、とんでもないことです。ところが不思議なようにして、イエスさまにはお墓が備えられました。あの、十字架という、超極悪人を呪い殺す刑罰を受けた受刑者ですよ。そんな受刑者は、少なくとも世間一般からしたら、超極悪人ってことですよ。そのなきがらが、岩を掘ってつくられた、それも新品のお墓に納められたんですよ。神さまのみわざは計り知れないものがあります。 その、お墓のもともとの持ち主は、アリマタヤという町の出身のヨセフという人でした。聖書には何人か、ヨセフが出てきます。いずれも、とても重要な人物です。創世記に出てくる、ヤコブの息子のヨセフ。イエスさまの母、マリアと結婚し、イエスさまの地上の父の役割を果たしたヨセフ。初代教会を立て上げるのに尽力し、特に、使徒パウロを見出し、育て上げたという功績のあるヨセフ(だれのことだかわかりますか? そう、「バルナバ」です)。そんな、綺羅、星のごときヨセフに肩を並べる人、アリマタヤのヨセフはそんな人です。 アリマタヤのヨセフは、4つの福音書すべてに登場します。しかし、その場面は、イエスさまの十字架の直後しかありません。4つの福音書を突き合わせてみると、アリマタヤのヨセフがどんな人物で、どんなことをしたかが見えてきます。今日はマタイの福音書の記述を軸に、イエスさまの十字架を体験したヨセフがどのようになっていったか、それが私たちにどんな教訓を与えているか、ほかの福音書からも引用しながら、ともに学んでまいりたいと思います。 第一に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その意識と態度が変わりました。 イエスさまは十字架の上で、あまりにもむごたらしいお姿をさらされました。どうだ、こいつはこんなみっともないやつなんだぞ、見ろよ、見ろよ、そんな権力者たちの高笑いが聞こえてくるようです。しかし、イエスさまがこのような刑罰を受けるべき悪いことはおろか、一切の悪いことなどなさらなかったことは、わかる人にはわかっていました。それは、イエスさまの横で同じように十字架にかけられていた極悪人でした。 その極悪人も最初のうちは、十字架の上で、みんなと一緒になってイエスさまをののしりました。だが、彼は明らかに変わっていきました。その隣で、同じように十字架の上で呪い殺しの刑罰にあわれているイエスさまが、その極限の苦しみにあわされながら、なお御父に、神の子であるわたしのことをこのような目にあわせている人間たちのことをどうか赦してください、と祈られる、その御声を聞きました。その瞬間、彼はこのように十字架刑にあうことをお許しになっている神さまのみこころは当然だ、それ以上に、その罪をお赦しになるイエスさまは真実な神の御子だ、このお方が御国につくとき、俺のことを思い出してくれるだけで、俺は救っていただける、この受刑者は、イエスさまの十字架を前にして、たちどころに変えられ、そしてイエスさまは約束どおり、彼のことをパラダイスに入れてくださいました。 十字架はまた、「嘲る者たち」を「悲しむ人たち」に変えました。イエスさまが十字架につけられたのは、明るい時間のことです。しかし、正午の真昼、なんと全地は暗闇に覆われました。その暗闇の中、イエスさまは御父に向って絶叫されました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」そしてイエスさまは大声をあげて絶命されました。それは、十字架刑を執行する現場の総責任者である、ローマの百人隊長、異邦人をして、この方はまことに正しい方であった、神の子であった、と言わしめるほどのできごとでした。この一連のできごとに、十字架刑を見物に来ていた野次馬たちは、胸を叩いて悲しむ者たちへと変えられました。 彼らは何を悲しんだのでしょうか。もし、私がその場にいたユダヤ人だとしたら、こんなことを思ったかもしれません。今からちょっとお話しすることは、あくまでフィクションです。私が長年聖書を読んできて編み出した「空想」に類するものですから、話半分に聞いてください。 イエスとかいう野郎。このユダヤの王のようにみんなに期待させといて、ローマに対して何もできない食わせ物。十字架の上でくたばれ。醜い姿をさらしやがれ。ざまあみろ、いい気味だ。 ……え?「父よ、彼らをお赦しください」だと? 父って、まさか、神さまか? ……おいおい、どんどん暗くなってきたぞ! 真っ暗闇だ! まさか! ……うわ! 大地震だ! なんだ!? あそこの墓の中からぞろぞろ人が生き返って出てきてるぞ! え? 百人隊長のやつ、「この人はまことに神の子であった」だと? ……そうか、イエスさまって、神さまだったのか。それなのに俺は、何も知らないで、イエスさまを十字架につけろなんて騒いでみたり、十字架についたら「いい気味だ」なんて考えたり。ああ、俺はなんて醜いんだ! けがれているんだ! でも、イエスさまはこんな俺のことを、赦してくださいって、神さまに祈ってくださったのか! ああ、神の子を十字架につけた俺だと思うと、なんだか、とても苦しいよ、悲しいよ……。 アリマタヤのヨセフはどうだったのでしょうか。マタイの福音書27章57節によれば、彼はイエスさまの弟子でした。イエスさまの弟子は十二弟子にかぎりません、そのほかにも70人の選抜メンバーがいましたし、ということはそれよりもずっと多くの弟子たちがいたことになります。ヨセフもその、たくさんいたイエスさまの弟子のひとりでした。 そんな彼は、ユダヤの最高議会の議員でした。そんな彼はもちろん、イエスさまの弟子なわけですから、イエスさまを十字架につけよというユダヤの指導者たちの計画や行動には同意していなかった人でした。ルカの福音書23章51節が語るとおりです。しかし、彼はどんなにその計画や行動に反対の立場でも、なぜそれに反対なのかを言うことができないでいました。 それは、ヨハネの福音書19章38節から、その理由を知ることができます。そう、彼は、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していたのです。実際、同じヨハネの福音書の9章22節で、イエスさまのことをキリストであると告白する者は、会堂から追放されてしまう、つまり、ユダヤの信仰共同体から除名されてしまう、という、恐るべき事情がありました。そんなことになりでもしたら、ユダヤの議員の地位からも追放されます。それについて与えられてきた富も名誉も失いかねません。そりゃあ、隠したくなるのもうなずけようというものです。 だが、彼がそのことを隠したことは、結果として、イエスさまを十字架送りにする手助けをしたことにしかなりませんでした。彼はイエスさまの十字架を前にして、自分のせいでイエスさまがこんなになってしまったことを、激しく悔いたことでしょう。そして、イエスさまは死んでしまわれました。 ヨセフは、最後まで十字架から逃げずに、血潮を流しきって絶命されたイエスさまのそのお姿に。罪人であるわが身を嘆き悲しんで胸を叩いたその群衆のひとりとして、心動かされました。イエスさまが神の御子の地位を捨て去られたならば、どうして自分は、たかだかユダヤの議員くらいの地位など捨てられないことがあるだろうか。自分がイエスさまの弟子であることを公にして、それで不利益を被ったっていいじゃないか。 クリスチャンとして勇気を持つことは、十字架を体験することがどうしても必要になります。ヨセフは何も、後代のクリスチャンたちに英雄扱いされたくて、蛮勇を振るおうとしたわけではありません。ただ、十字架の体験が彼をその勇気へと駆り立てたのでした。 私たちにしてもそうです。クリスチャンの偉人伝に登場するような人を見て、私たちもそうなりたい、そうありたい、と思うのは結構なことなのですが、それが人にほめられるためとか、自分が気持ちよくなるためとか、要するに神さまのみこころとは関係ないところにその動機があるならば、それはたまたまクリスチャンの人が自己実現しようとしているということであって、神さまの栄光のために働こうとしているということではありません。 もし、人が、自分を罪と死から救い、永遠のいのちを与えてくださった神さま、イエスさまのために働こうと思うならば、その永遠のいのちを与えてくださった唯一の道である、イエスさまの十字架を体験する、それも一回こっきりの体験ではなく、いつ、いかなるときも、つねに体験する、これでなければ、到底、神さまの働きはできないのです。 しかし、イエスさまの十字架を体験するならば、人は変わります。たとえば学校でも職場でも外食でもいいです、人前でご飯を食べるとき、お祈りをすることさえしり込みするような人も、イエスさまの十字架の前に立つ体験をしつづけるならば、祈ることもできるように変わります。伝道もできるようになります(ただし、気をつけなければならないのは、「パフォーマンス」をするから天国に近づける、ということでは決してない、ということです。それは信仰ではなく行いを誇ることで、それで天国に近づけると思ったら大間違いです。イエスさまの救いを体験しているから、堂々と証ししようとなるのです。順番を間違えてはいけません)。 ともかくそうなれた人は、以前の自分の姿を考えたら、うそ! というほど変わっています。イエスさまの十字架、神のあり方を捨てきったそのお姿を見るなら、私たちも神の人として変えられていきます。そのように変えられた私たちは、主のご栄光を輝かせる器として用いられるようになっていきます。主をほめたたえます。 第二のポイントです。第二に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その行動が変わりました。 まず、ヨセフは、イエスさまのご遺体を十字架から取り降ろし、それを葬らせていただきたいと、ピラトに直訴しました。そう、ヨセフは、イエスさまのために何か行動できたらいいな、と思っただけではありません。実際に行動に移したのです。それも大胆にも、ピラトに直訴するという挙に出たのでした。 もちろん、ピラトのような権力者に申し出ることができたのは、ヨセフがユダヤの議員という、特別な高い地位にあったことも大きかったわけですが、それにしても、いかにピラトの命を受けた死刑執行人の百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と告白しようとも、このイエスという受刑者は、呪い殺しという極刑を受けた、いわば極悪人扱いされた人です。そんな極悪人の受刑者のことを引き受け、墓に葬りますとは、正気の沙汰ではない話です。しかし、何をどう思われようともかまわず、ヨセフはピラトに直訴しました。 するとピラトは、ヨセフのその申し出を二つ返事で受けました。おそらくピラトとしても、イエスさまを正しい人と知りながらもユダヤ人のご機嫌取りをして十字架送りにしたことへの、激しい後ろめたさがあったものと思われます。もちろん、ピラトのそんな葛藤を、ヨセフは知る由もありませんでしたが、ピラトとしては、もう十字架にイエスさまのなきがらがかかったままにならないで、しかもそれを手厚く葬ってくれる人が現れたなんて、渡りに船、願ったりかなったりといったところだったのではないでしょうか。どうぞ、どうぞ、とばかりに、ヨセフになきがらの葬りを委ねました。 ヨセフは、イエスさまの十字架に近づき、木の上からご遺体を取り降ろしました。普通ならばだれもやりたくないことです。十字架にかかった受刑者は、呪い殺された証しとして、ぶっとい鞭で打たれまくってぐちゃぐちゃ、血まみれになっています。そんな死体に触れることは、普通に考えたら、生理的に嫌なだけではなく、霊的にもけがれを受けると理解されることです。いわんやそれをきちんと葬るなんて、だれがやりたがるというのですか。 しかし、ヨセフにとってイエスさまは、呪い殺されるべき極悪人ではありませんでした。ヨセフ自身のすべての罪も含めた、あらゆる人という人のすべての罪を身代わりにお受けになったお方でした。この、目の前の血まみれで絶命されたお姿は、ヨセフの目にはかぎりなく麗しいものでした。血まみれだから避けるのではない、血まみれだから近づく、抱きしめる。 ヨセフはていねいにご遺体を取り降ろし、遺体を腐敗臭から守る香料とともに、このためにわざわざ新たに買ったきれいな亜麻布にくるみました。この作業はしかし、ヨセフがひとりで行なったのではありません。このときなんと、30キロ以上にもなる大量の香料のかたまりを持ってイエスさまのもとに馳せ参じた人がいて、彼とともに葬りの作業をしました。その人はニコデモ、永遠のいのちを求めてイエスさまのもとにひそかに質問しに行った人であり、イエスを逮捕せよと息巻く議会において、そのやり方に異議を唱えるなど、パリサイ人の中では異色の存在でしたが、彼もやはり、イエスさまの十字架を前にして、パリサイ人の既得権をかなぐり捨てて、イエスさまのために精一杯のことをしました。 韓国の名の知れたある牧師がむかし、ニコデモは所詮、イエスさまにつかず離れずの態度を取って終わった人間だった、イエスさまが太陽だとしたら、その周りを回る惑星のようなものだった、などということを言っていましたが、それはとんでもない的外れの批判です。考えてみてください。30キロにもなる香料を持って十字架のあるゴルゴタの丘まで行ったら、いやでも目立ちます。30キロは十字架の重さにはもちろん及びませんが、それでもそんな重いものを持って丘に登っていく行動は、もはや、イエスさまを十字架送りにしたパリサイ人の一味の取るべきものではありませんでした。ニコデモもまた、イエスさまの十字架を前にして完全に変えられたのです。間違ってはなりません。ニコデモはすごい人になったんです。 ご遺体を汚らわしいと思うどころか、かぎりなく麗しいみからだとして、丁重にお包みする。もはやそこには、人々の上に君臨し、偉そうに支配する、議員やパリサイ人の姿はどこにもありませんでした。あるのはただ、キリストに黙々とお仕えする、しもべとしての姿だけでした。 クリスチャンが神さまのご栄光をあらわす行動は、おそらくすべてが広い意味で「奉仕」と言えるものではないでしょうか。なぜなら、本来肉に従って生きたがる人間にとってこの上なく不自然な行動は、神に仕えること、ゆえに人に仕えることだからです。これも、人間的な我慢や頑張り、使命感でなんとかしようとすると、必ず限界がきます。それは、肉にしたがってボランティアをしている状態だからです。とても厳しいことを言わせていただくと、そんな動機で頑張る人は、頑張って神に仕える行為をしている「自分に酔っている」だけなのかもしれません。いえ、これはさばいて言っているのではありません。私自身がこの頑張りに酔うような態度をつづけ、破綻したことが何度もあるからです。一度や二度で済まないなんて、われながら愚かだと思いますが、燃えつきから立ち直るたびに気づかされることは、自分が肉の思いで物事に取り組んでいた、ということです。 奉仕というものは、イエスさまの十字架への感謝に満たされ、その恵みになんとしてでもお応えしたいという、その強い動機が先に立たなければ、取り組むべきものではないとさえ言えます。お掃除でも食事づくりでもいいですけれども、教会奉仕をみんなしているけど、自分はやる気が起こらない、やる意味が分からない、そう思うなら、やることはありません。 ところが逆に、奉仕するほんとうの理由は正確に分かっているわけではないけれども、なんだか奉仕したい、教会のみなさん、働かせてください、という方も、教会にお越しになるかもしれません。そういう方はどんどん奉仕していただきたいと思います。いい汗を流していただきたいと思います。あんがい、奉仕をすることによって、その背後におられるイエスさまに出会い、その十字架の意味を知る、ということも起こってくる、これは私が、長年、いろいろな教会や宣教団体でいろいろな方々を見てきて言えることです。 今日、結婚式に備えて礼拝堂の整理という奉仕活動をみんなで行いますが、ぜひその、からだを動かしている間に心に留めていただきたいことは、私たちはイエスさまの十字架の恵みによって、こうして主のからだなる教会においてご奉仕する、労働の喜びをいただいている、ということです。折に触れて、イエスさまの十字架を想い出しましょう。 また、普段の生活で、私たちはあらゆる取り組みをしますが、そのすべてが、自分の名をあげるための働きではなく、イエスさまのご栄光をあらわす働きである、ゆえに、その力の源はイエスさまの十字架にあることを心に留め、なにごとも祈りつつ取り組んでまいりましょう。 第三のポイントです。第三に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その価値観が変わりました。 なんともちょうどいいことに、ゴルゴタの丘のすぐそばの園の、その中に、ヨセフは自分のお墓を持っていました。しかし、よくそんなことができるな、というところではないでしょうか? ヨセフはもともと、神の国を待ち望んでイエスさまの弟子になった人だったと、マルコの福音書15章43節は語ります。そんな彼もさすがに、イエスさまが十字架に死なれることによって神の国を成し遂げられるということまでは予測していなかったはずです。だからヨセフの持っていたお墓は、いかにヨセフが金持ちで、しかもイエスさまの弟子だったとはいえ、イエスさまのために用意したものではもともとありませんでした。当たり前の話ですが、ヨセフ自身か、ヨセフの家族のために用意したものです。 しかし、ヨセフはこのお墓、奇しくもゴルゴタの丘のすぐ近くにあった自分のお墓に、真っ先にイエスさまをお迎えしました。人の最期を麗しく飾る存在、岩を掘ってつくった立派なお墓、そのためにお金だってかなりかけたでしょう、それをヨセフは惜しげもなく、イエスさまに差し出したのでした。 その、イエスさまはお墓というものに関して、こういうことをおっしゃっています。マタイの福音書23章27節。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」この時代のユダヤは、日本のように火葬をするわけではありません。遺体はどうしたって腐っていきます。それでもヨセフが自分のお墓にイエスさまをお納めしたのは、イエスさまは赤の他人では決してない、私の主だ、という信仰があったからです。真っ先にお墓に入っていただこう、という、彼の最高のささげものであったわけです。 彼は生前、イエスさまが死なれて三日後によみがえるとお語りになったおことばを、当然、イエスさまの弟子として聞いていたはずです。しかし、十二弟子さえもそのことが信じられなかったのが実際のところであり、十二弟子にしてそうならば、ヨセフのレベルの弟子がどこまで、復活信仰を持っていたかを推し量るのは困難です。だから、イエスさまは葬られても3日目に復活する、お墓は空になる、とまで信じて、このようなささげものをしたのかと聞かれたら、それは「わかりません」としか言えません。しかし確実なのは、ヨセフのこのささげものが結果として、お墓が空っぽになった、だから、神の御子イエスさまが復活されたという、何よりもの動かぬ最大の証拠を全人類に突きつけることになりました。だとすると、ヨセフは史上最大級のささげものを、イエスさまにおささげしたことにならないでしょうか。 このようなささげものをすることを可能にしたのは、ヨセフの価値観が完全に、この世から、神の国とその義を求める信仰へと転換されたことです。その転換はもちろん、イエスさまの十字架を体験することによってもたらされました。 私たちも礼拝において、献金という形でささげものをいたします。私たちはしかし、「この程度しかささげられないで申し訳ない」とか「この程度ささげれば充分だ」とか、はたまた「こんなにささげたのだから神さまはきっと私を祝福してくださる」とか、そんなことを考えて献金袋にお金を入れていないでしょうか。 そんな態度で献金する前に、よく考えていただきたいのです。果たして、私がささげものをするのは、イエスさまの十字架に感謝してなのか。イエスさまの十字架に対してふさわしい感謝の表現ができるほど、私はイエスさまの十字架のことをわかっているだろうか。イエスさまの十字架を体験し、感謝しているだろうか。大事なのは献金の額ではありません。かつて私は、貧しいやもめがわずかな額でも生活費のすべてを差し出したのをイエスさまがほめておられる、だからイエスさまが見ておられるのは「金額」ではなくて「率」だ、なんてメッセージを聴いたこともありますが、それもぜんぜん違います。いちばん大事なのは、イエスさまの十字架を通じて神さまと交わることを許された私たちが、誠意を込めておささげすることです。 だから、献金の時間には、まずは祈っていただきたいと思います。けっして、人間的に無理をしたりしてはいけませんし、反対に、余った小銭を処理しがてら、なんて料簡でもいけません。私たちがもし、イエスさまの十字架への感謝のしるしとして、神さまに示されたという確信をもっておささげするならば、それは最高のささげもの、そこから主は、30倍、60倍、100倍の祝福をくださいます。…