十字架の体験は人を変える

聖書箇所;マタイの福音書27章57節~60節 メッセージ題目;十字架の体験は人を変える  前にも申し上げたことの繰り返しになりますが、初めてお聞きになる方もおられるので、まあ、おつきあいください。私の高校時代、倫理の授業の先生は、奥村晃作先生という、歌人としても名を成した方でした。短歌を作る人です。ご本人の話によれば、先生はあの「サラダ記念日」の俵万智さんを見出したらしいです。そのことを先生が授業で自慢しておられたとき、ほんとかな、なんて失礼なことを思ったりしましたが、そんな方が哲学や宗教のことをお話しになるのですから、授業は面白くないわけがありませんでした。  ある日の授業のことです。奥村先生はイエスさまの話をしていました。イエスはね、十字架にかかって死んだんだよ。で、墓に入って、生き返ったんだよ。先生がそうおっしゃったとたん、男子校のことですから、男子ばかりのクラスはどっと笑いに包まれました。私はその少し前に、病気をして入院していたとき、神さまの恵みを感じて大きく変えられる、という体験をしていただけに、まことに居心地の悪いものを感じました。  それからひと月ほどしたときでしょうか、やはり倫理の授業で、奥村先生はおっしゃいました。哲学の命題の話だったと思います。「人間はだれもが死ぬ。これはたしかだよね。」すると、外池(とのいけ)君という友達が、すかさず質問しました。「じゃあ、イエス・キリストは?」外池君の質問に、またもやクラスは沸きました。先生は顔を引きつらせながら、おっしゃいました。「うーん、そうだな……。まあ、僕はクリスチャンじゃないけど、でも、聖書に書いてあることは、ほんとうだと思っているよ。」私の通った高校は芝高校といい、もともとが浄土宗のお坊さんの養成学校という、バリバリの仏教の学校で、私はそんな環境でつねにアウェーの思いをしていただけに、奥村先生のあのときのことばは、神さまがそんな私にひとときくださった恵みのようだったと、今にして思います。  そう、クリスチャンではない倫理の先生もおっしゃるとおり、聖書はほんとうのことを書いていて、その聖書に、イエスさまが墓からよみがえられたことが書いてある以上、イエスさまのご復活は、ほんとうのことです。ある関西のミッションスクールの卒業生に聞いた話ですが、聖書の授業で、イエスさまの復活は信じなくてもいいとか、そんなことを先生が言っていたというのですが、とんでもない話です。そんな先生は、奥村先生の爪の垢でも煎じて飲めばいい。そういう人がどんなに自分のことをクリスチャンだと名乗ったり、聖書の教師だと主張したりしても、私たちはその手の人とは距離を置いて、聖書が誤りなき神のみことばであると、高らかに告白しなければなりません。聖書が真理、真実であるということは、この世の常識に忠実であるという意味ではけっしてありません。聖書のみことばは、この世の常識をはるかに凌駕するものです。イエスさまの復活は、その最たるものです。  キリスト教の象徴として真っ先に思い浮かぶものは「十字架」でしょう。しかし、こんな象徴もあるのをご存じでしょうか? そう、空(から)の墓です。ふたの石のどけてある、岩に穴が掘ってある状態の、空っぽのお墓の図です。言うまでもなく、復活を指しています。  西暦1054年にキリスト教会は東西に分立しましたが、西方教会(ローマ・カトリック)が十字架に主眼を置く一方、東方教会(オーソドックス)は復活に主眼を置くようになりました。私たちプロテスタントも源流をたどれば西方教会の流れにありますから、どうしても復活よりは十字架のほうを強調する傾向があると思います。いえ、十字架を強調することはとても大事なのですが、復活も同じくらい強調して、しすぎることはないはずです。プロテスタントはいかに西方教会の流れにあるとはいえ、やはり立ち帰るべきは聖書という原則がありますから、聖書が語る以上、復活はとても大事なものであるわけですから、プロテスタントのキリスト教会ではこの「からの墓」が復活のシンボルとして用いられるようになりつつあります。  そういう、からの墓。しかし、ということは、イエスさまの入るべきお墓を提供した人がいた、ということです。  イエスさまは神の御子、王の王です。しかし、実際のイエスさまはというと、ご自身おっしゃっていたとおり、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」というお方です。立派なお墓など、とんでもないことです。ところが不思議なようにして、イエスさまにはお墓が備えられました。あの、十字架という、超極悪人を呪い殺す刑罰を受けた受刑者ですよ。そんな受刑者は、少なくとも世間一般からしたら、超極悪人ってことですよ。そのなきがらが、岩を掘ってつくられた、それも新品のお墓に納められたんですよ。神さまのみわざは計り知れないものがあります。  その、お墓のもともとの持ち主は、アリマタヤという町の出身のヨセフという人でした。聖書には何人か、ヨセフが出てきます。いずれも、とても重要な人物です。創世記に出てくる、ヤコブの息子のヨセフ。イエスさまの母、マリアと結婚し、イエスさまの地上の父の役割を果たしたヨセフ。初代教会を立て上げるのに尽力し、特に、使徒パウロを見出し、育て上げたという功績のあるヨセフ(だれのことだかわかりますか? そう、「バルナバ」です)。そんな、綺羅、星のごときヨセフに肩を並べる人、アリマタヤのヨセフはそんな人です。  アリマタヤのヨセフは、4つの福音書すべてに登場します。しかし、その場面は、イエスさまの十字架の直後しかありません。4つの福音書を突き合わせてみると、アリマタヤのヨセフがどんな人物で、どんなことをしたかが見えてきます。今日はマタイの福音書の記述を軸に、イエスさまの十字架を体験したヨセフがどのようになっていったか、それが私たちにどんな教訓を与えているか、ほかの福音書からも引用しながら、ともに学んでまいりたいと思います。   第一に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その意識と態度が変わりました。  イエスさまは十字架の上で、あまりにもむごたらしいお姿をさらされました。どうだ、こいつはこんなみっともないやつなんだぞ、見ろよ、見ろよ、そんな権力者たちの高笑いが聞こえてくるようです。しかし、イエスさまがこのような刑罰を受けるべき悪いことはおろか、一切の悪いことなどなさらなかったことは、わかる人にはわかっていました。それは、イエスさまの横で同じように十字架にかけられていた極悪人でした。  その極悪人も最初のうちは、十字架の上で、みんなと一緒になってイエスさまをののしりました。だが、彼は明らかに変わっていきました。その隣で、同じように十字架の上で呪い殺しの刑罰にあわれているイエスさまが、その極限の苦しみにあわされながら、なお御父に、神の子であるわたしのことをこのような目にあわせている人間たちのことをどうか赦してください、と祈られる、その御声を聞きました。その瞬間、彼はこのように十字架刑にあうことをお許しになっている神さまのみこころは当然だ、それ以上に、その罪をお赦しになるイエスさまは真実な神の御子だ、このお方が御国につくとき、俺のことを思い出してくれるだけで、俺は救っていただける、この受刑者は、イエスさまの十字架を前にして、たちどころに変えられ、そしてイエスさまは約束どおり、彼のことをパラダイスに入れてくださいました。  十字架はまた、「嘲る者たち」を「悲しむ人たち」に変えました。イエスさまが十字架につけられたのは、明るい時間のことです。しかし、正午の真昼、なんと全地は暗闇に覆われました。その暗闇の中、イエスさまは御父に向って絶叫されました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」そしてイエスさまは大声をあげて絶命されました。それは、十字架刑を執行する現場の総責任者である、ローマの百人隊長、異邦人をして、この方はまことに正しい方であった、神の子であった、と言わしめるほどのできごとでした。この一連のできごとに、十字架刑を見物に来ていた野次馬たちは、胸を叩いて悲しむ者たちへと変えられました。  彼らは何を悲しんだのでしょうか。もし、私がその場にいたユダヤ人だとしたら、こんなことを思ったかもしれません。今からちょっとお話しすることは、あくまでフィクションです。私が長年聖書を読んできて編み出した「空想」に類するものですから、話半分に聞いてください。  イエスとかいう野郎。このユダヤの王のようにみんなに期待させといて、ローマに対して何もできない食わせ物。十字架の上でくたばれ。醜い姿をさらしやがれ。ざまあみろ、いい気味だ。  ……え?「父よ、彼らをお赦しください」だと? 父って、まさか、神さまか?  ……おいおい、どんどん暗くなってきたぞ! 真っ暗闇だ! まさか!   ……うわ! 大地震だ! なんだ!? あそこの墓の中からぞろぞろ人が生き返って出てきてるぞ! え? 百人隊長のやつ、「この人はまことに神の子であった」だと?  ……そうか、イエスさまって、神さまだったのか。それなのに俺は、何も知らないで、イエスさまを十字架につけろなんて騒いでみたり、十字架についたら「いい気味だ」なんて考えたり。ああ、俺はなんて醜いんだ! けがれているんだ! でも、イエスさまはこんな俺のことを、赦してくださいって、神さまに祈ってくださったのか! ああ、神の子を十字架につけた俺だと思うと、なんだか、とても苦しいよ、悲しいよ……。  アリマタヤのヨセフはどうだったのでしょうか。マタイの福音書27章57節によれば、彼はイエスさまの弟子でした。イエスさまの弟子は十二弟子にかぎりません、そのほかにも70人の選抜メンバーがいましたし、ということはそれよりもずっと多くの弟子たちがいたことになります。ヨセフもその、たくさんいたイエスさまの弟子のひとりでした。  そんな彼は、ユダヤの最高議会の議員でした。そんな彼はもちろん、イエスさまの弟子なわけですから、イエスさまを十字架につけよというユダヤの指導者たちの計画や行動には同意していなかった人でした。ルカの福音書23章51節が語るとおりです。しかし、彼はどんなにその計画や行動に反対の立場でも、なぜそれに反対なのかを言うことができないでいました。  それは、ヨハネの福音書19章38節から、その理由を知ることができます。そう、彼は、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していたのです。実際、同じヨハネの福音書の9章22節で、イエスさまのことをキリストであると告白する者は、会堂から追放されてしまう、つまり、ユダヤの信仰共同体から除名されてしまう、という、恐るべき事情がありました。そんなことになりでもしたら、ユダヤの議員の地位からも追放されます。それについて与えられてきた富も名誉も失いかねません。そりゃあ、隠したくなるのもうなずけようというものです。  だが、彼がそのことを隠したことは、結果として、イエスさまを十字架送りにする手助けをしたことにしかなりませんでした。彼はイエスさまの十字架を前にして、自分のせいでイエスさまがこんなになってしまったことを、激しく悔いたことでしょう。そして、イエスさまは死んでしまわれました。  ヨセフは、最後まで十字架から逃げずに、血潮を流しきって絶命されたイエスさまのそのお姿に。罪人であるわが身を嘆き悲しんで胸を叩いたその群衆のひとりとして、心動かされました。イエスさまが神の御子の地位を捨て去られたならば、どうして自分は、たかだかユダヤの議員くらいの地位など捨てられないことがあるだろうか。自分がイエスさまの弟子であることを公にして、それで不利益を被ったっていいじゃないか。  クリスチャンとして勇気を持つことは、十字架を体験することがどうしても必要になります。ヨセフは何も、後代のクリスチャンたちに英雄扱いされたくて、蛮勇を振るおうとしたわけではありません。ただ、十字架の体験が彼をその勇気へと駆り立てたのでした。  私たちにしてもそうです。クリスチャンの偉人伝に登場するような人を見て、私たちもそうなりたい、そうありたい、と思うのは結構なことなのですが、それが人にほめられるためとか、自分が気持ちよくなるためとか、要するに神さまのみこころとは関係ないところにその動機があるならば、それはたまたまクリスチャンの人が自己実現しようとしているということであって、神さまの栄光のために働こうとしているということではありません。  もし、人が、自分を罪と死から救い、永遠のいのちを与えてくださった神さま、イエスさまのために働こうと思うならば、その永遠のいのちを与えてくださった唯一の道である、イエスさまの十字架を体験する、それも一回こっきりの体験ではなく、いつ、いかなるときも、つねに体験する、これでなければ、到底、神さまの働きはできないのです。  しかし、イエスさまの十字架を体験するならば、人は変わります。たとえば学校でも職場でも外食でもいいです、人前でご飯を食べるとき、お祈りをすることさえしり込みするような人も、イエスさまの十字架の前に立つ体験をしつづけるならば、祈ることもできるように変わります。伝道もできるようになります(ただし、気をつけなければならないのは、「パフォーマンス」をするから天国に近づける、ということでは決してない、ということです。それは信仰ではなく行いを誇ることで、それで天国に近づけると思ったら大間違いです。イエスさまの救いを体験しているから、堂々と証ししようとなるのです。順番を間違えてはいけません)。  ともかくそうなれた人は、以前の自分の姿を考えたら、うそ! というほど変わっています。イエスさまの十字架、神のあり方を捨てきったそのお姿を見るなら、私たちも神の人として変えられていきます。そのように変えられた私たちは、主のご栄光を輝かせる器として用いられるようになっていきます。主をほめたたえます。  第二のポイントです。第二に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その行動が変わりました。  まず、ヨセフは、イエスさまのご遺体を十字架から取り降ろし、それを葬らせていただきたいと、ピラトに直訴しました。そう、ヨセフは、イエスさまのために何か行動できたらいいな、と思っただけではありません。実際に行動に移したのです。それも大胆にも、ピラトに直訴するという挙に出たのでした。  もちろん、ピラトのような権力者に申し出ることができたのは、ヨセフがユダヤの議員という、特別な高い地位にあったことも大きかったわけですが、それにしても、いかにピラトの命を受けた死刑執行人の百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と告白しようとも、このイエスという受刑者は、呪い殺しという極刑を受けた、いわば極悪人扱いされた人です。そんな極悪人の受刑者のことを引き受け、墓に葬りますとは、正気の沙汰ではない話です。しかし、何をどう思われようともかまわず、ヨセフはピラトに直訴しました。  するとピラトは、ヨセフのその申し出を二つ返事で受けました。おそらくピラトとしても、イエスさまを正しい人と知りながらもユダヤ人のご機嫌取りをして十字架送りにしたことへの、激しい後ろめたさがあったものと思われます。もちろん、ピラトのそんな葛藤を、ヨセフは知る由もありませんでしたが、ピラトとしては、もう十字架にイエスさまのなきがらがかかったままにならないで、しかもそれを手厚く葬ってくれる人が現れたなんて、渡りに船、願ったりかなったりといったところだったのではないでしょうか。どうぞ、どうぞ、とばかりに、ヨセフになきがらの葬りを委ねました。  ヨセフは、イエスさまの十字架に近づき、木の上からご遺体を取り降ろしました。普通ならばだれもやりたくないことです。十字架にかかった受刑者は、呪い殺された証しとして、ぶっとい鞭で打たれまくってぐちゃぐちゃ、血まみれになっています。そんな死体に触れることは、普通に考えたら、生理的に嫌なだけではなく、霊的にもけがれを受けると理解されることです。いわんやそれをきちんと葬るなんて、だれがやりたがるというのですか。  しかし、ヨセフにとってイエスさまは、呪い殺されるべき極悪人ではありませんでした。ヨセフ自身のすべての罪も含めた、あらゆる人という人のすべての罪を身代わりにお受けになったお方でした。この、目の前の血まみれで絶命されたお姿は、ヨセフの目にはかぎりなく麗しいものでした。血まみれだから避けるのではない、血まみれだから近づく、抱きしめる。  ヨセフはていねいにご遺体を取り降ろし、遺体を腐敗臭から守る香料とともに、このためにわざわざ新たに買ったきれいな亜麻布にくるみました。この作業はしかし、ヨセフがひとりで行なったのではありません。このときなんと、30キロ以上にもなる大量の香料のかたまりを持ってイエスさまのもとに馳せ参じた人がいて、彼とともに葬りの作業をしました。その人はニコデモ、永遠のいのちを求めてイエスさまのもとにひそかに質問しに行った人であり、イエスを逮捕せよと息巻く議会において、そのやり方に異議を唱えるなど、パリサイ人の中では異色の存在でしたが、彼もやはり、イエスさまの十字架を前にして、パリサイ人の既得権をかなぐり捨てて、イエスさまのために精一杯のことをしました。  韓国の名の知れたある牧師がむかし、ニコデモは所詮、イエスさまにつかず離れずの態度を取って終わった人間だった、イエスさまが太陽だとしたら、その周りを回る惑星のようなものだった、などということを言っていましたが、それはとんでもない的外れの批判です。考えてみてください。30キロにもなる香料を持って十字架のあるゴルゴタの丘まで行ったら、いやでも目立ちます。30キロは十字架の重さにはもちろん及びませんが、それでもそんな重いものを持って丘に登っていく行動は、もはや、イエスさまを十字架送りにしたパリサイ人の一味の取るべきものではありませんでした。ニコデモもまた、イエスさまの十字架を前にして完全に変えられたのです。間違ってはなりません。ニコデモはすごい人になったんです。  ご遺体を汚らわしいと思うどころか、かぎりなく麗しいみからだとして、丁重にお包みする。もはやそこには、人々の上に君臨し、偉そうに支配する、議員やパリサイ人の姿はどこにもありませんでした。あるのはただ、キリストに黙々とお仕えする、しもべとしての姿だけでした。  クリスチャンが神さまのご栄光をあらわす行動は、おそらくすべてが広い意味で「奉仕」と言えるものではないでしょうか。なぜなら、本来肉に従って生きたがる人間にとってこの上なく不自然な行動は、神に仕えること、ゆえに人に仕えることだからです。これも、人間的な我慢や頑張り、使命感でなんとかしようとすると、必ず限界がきます。それは、肉にしたがってボランティアをしている状態だからです。とても厳しいことを言わせていただくと、そんな動機で頑張る人は、頑張って神に仕える行為をしている「自分に酔っている」だけなのかもしれません。いえ、これはさばいて言っているのではありません。私自身がこの頑張りに酔うような態度をつづけ、破綻したことが何度もあるからです。一度や二度で済まないなんて、われながら愚かだと思いますが、燃えつきから立ち直るたびに気づかされることは、自分が肉の思いで物事に取り組んでいた、ということです。  奉仕というものは、イエスさまの十字架への感謝に満たされ、その恵みになんとしてでもお応えしたいという、その強い動機が先に立たなければ、取り組むべきものではないとさえ言えます。お掃除でも食事づくりでもいいですけれども、教会奉仕をみんなしているけど、自分はやる気が起こらない、やる意味が分からない、そう思うなら、やることはありません。  ところが逆に、奉仕するほんとうの理由は正確に分かっているわけではないけれども、なんだか奉仕したい、教会のみなさん、働かせてください、という方も、教会にお越しになるかもしれません。そういう方はどんどん奉仕していただきたいと思います。いい汗を流していただきたいと思います。あんがい、奉仕をすることによって、その背後におられるイエスさまに出会い、その十字架の意味を知る、ということも起こってくる、これは私が、長年、いろいろな教会や宣教団体でいろいろな方々を見てきて言えることです。  今日、結婚式に備えて礼拝堂の整理という奉仕活動をみんなで行いますが、ぜひその、からだを動かしている間に心に留めていただきたいことは、私たちはイエスさまの十字架の恵みによって、こうして主のからだなる教会においてご奉仕する、労働の喜びをいただいている、ということです。折に触れて、イエスさまの十字架を想い出しましょう。  また、普段の生活で、私たちはあらゆる取り組みをしますが、そのすべてが、自分の名をあげるための働きではなく、イエスさまのご栄光をあらわす働きである、ゆえに、その力の源はイエスさまの十字架にあることを心に留め、なにごとも祈りつつ取り組んでまいりましょう。  第三のポイントです。第三に、イエスさまの十字架を体験したヨセフは、その価値観が変わりました。  なんともちょうどいいことに、ゴルゴタの丘のすぐそばの園の、その中に、ヨセフは自分のお墓を持っていました。しかし、よくそんなことができるな、というところではないでしょうか? ヨセフはもともと、神の国を待ち望んでイエスさまの弟子になった人だったと、マルコの福音書15章43節は語ります。そんな彼もさすがに、イエスさまが十字架に死なれることによって神の国を成し遂げられるということまでは予測していなかったはずです。だからヨセフの持っていたお墓は、いかにヨセフが金持ちで、しかもイエスさまの弟子だったとはいえ、イエスさまのために用意したものではもともとありませんでした。当たり前の話ですが、ヨセフ自身か、ヨセフの家族のために用意したものです。  しかし、ヨセフはこのお墓、奇しくもゴルゴタの丘のすぐ近くにあった自分のお墓に、真っ先にイエスさまをお迎えしました。人の最期を麗しく飾る存在、岩を掘ってつくった立派なお墓、そのためにお金だってかなりかけたでしょう、それをヨセフは惜しげもなく、イエスさまに差し出したのでした。  その、イエスさまはお墓というものに関して、こういうことをおっしゃっています。マタイの福音書23章27節。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」この時代のユダヤは、日本のように火葬をするわけではありません。遺体はどうしたって腐っていきます。それでもヨセフが自分のお墓にイエスさまをお納めしたのは、イエスさまは赤の他人では決してない、私の主だ、という信仰があったからです。真っ先にお墓に入っていただこう、という、彼の最高のささげものであったわけです。  彼は生前、イエスさまが死なれて三日後によみがえるとお語りになったおことばを、当然、イエスさまの弟子として聞いていたはずです。しかし、十二弟子さえもそのことが信じられなかったのが実際のところであり、十二弟子にしてそうならば、ヨセフのレベルの弟子がどこまで、復活信仰を持っていたかを推し量るのは困難です。だから、イエスさまは葬られても3日目に復活する、お墓は空になる、とまで信じて、このようなささげものをしたのかと聞かれたら、それは「わかりません」としか言えません。しかし確実なのは、ヨセフのこのささげものが結果として、お墓が空っぽになった、だから、神の御子イエスさまが復活されたという、何よりもの動かぬ最大の証拠を全人類に突きつけることになりました。だとすると、ヨセフは史上最大級のささげものを、イエスさまにおささげしたことにならないでしょうか。  このようなささげものをすることを可能にしたのは、ヨセフの価値観が完全に、この世から、神の国とその義を求める信仰へと転換されたことです。その転換はもちろん、イエスさまの十字架を体験することによってもたらされました。  私たちも礼拝において、献金という形でささげものをいたします。私たちはしかし、「この程度しかささげられないで申し訳ない」とか「この程度ささげれば充分だ」とか、はたまた「こんなにささげたのだから神さまはきっと私を祝福してくださる」とか、そんなことを考えて献金袋にお金を入れていないでしょうか。  そんな態度で献金する前に、よく考えていただきたいのです。果たして、私がささげものをするのは、イエスさまの十字架に感謝してなのか。イエスさまの十字架に対してふさわしい感謝の表現ができるほど、私はイエスさまの十字架のことをわかっているだろうか。イエスさまの十字架を体験し、感謝しているだろうか。大事なのは献金の額ではありません。かつて私は、貧しいやもめがわずかな額でも生活費のすべてを差し出したのをイエスさまがほめておられる、だからイエスさまが見ておられるのは「金額」ではなくて「率」だ、なんてメッセージを聴いたこともありますが、それもぜんぜん違います。いちばん大事なのは、イエスさまの十字架を通じて神さまと交わることを許された私たちが、誠意を込めておささげすることです。  だから、献金の時間には、まずは祈っていただきたいと思います。けっして、人間的に無理をしたりしてはいけませんし、反対に、余った小銭を処理しがてら、なんて料簡でもいけません。私たちがもし、イエスさまの十字架への感謝のしるしとして、神さまに示されたという確信をもっておささげするならば、それは最高のささげもの、そこから主は、30倍、60倍、100倍の祝福をくださいます。…

究極の過越

聖書箇所;ルカの福音書22章7節~20節 メッセージ題目;究極の過越  私もクリスチャン生活が長くなると、いろいろな教会で「主の晩餐」(この呼び方は保守バプテスト同盟の教会で用いられることが多く、基本的に「聖餐式」と呼ばれます)にあずかってきました。これ、執り行う方法もいろいろでして、パンも普通の食パンにかぎらず、カレー屋さんの「ナン」のような素材だったり、薄いクラッカーのようなものだったり、ウエハース、というより、「えび満月」ってお菓子(わかりますか?)の、まったく味がついていないような素材だったり、大きな塊から少しずつちぎったり。韓国の場合は、カステラみたいに黄色くて甘い味がついたものが多かったです。  ぶどう汁も、アルコールの入ったワインを使ったものも体験しています。それまで私はぶどうジュースの甘い味に慣れていたので、それを口にして、苦い、というか、辛い、というか、不思議な感じがしたものです。ほかにも、ぶどう汁の入った大きな入れ物に、例の味のしない「えび満月」みたいなのを浸したり。この場合は、ぶどう汁を「飲む」ということはしません。  私は教会に通いはじめて、バプテスマを受けるまでに1年以上かかりました。それは中学生の多感な時期で、礼拝で何が嫌だって、聖餐式の時間でした。周りはというと、聖餐のパンとぶどう汁を口にしている。自分はあずかるわけにはいかない。あれ、ほんとに小さなものなんですが、欲しいって思うんですよね。  その後、私も晴れてバプテスマを受け、聖餐にあずかれるようになりましたが、聖餐式、主の晩餐のほんとうの意味、というより、有難さを知るようになったのは、韓国に神学留学をしてからでした。日本の教会が大切にしていない、という意味ではありません。韓国教会の場合、もっとダイナミック、というより、動的な感じなのです。韓国教会が主の晩餐をそのようにダイナミックに大切にしている、そのリアルな現場に、私も主の晩餐にあずかる立場で何度も立ち会わせていただき、その素晴らしさを体験したものでした。  これは、私が実際居合わせたことがないケースですが、やはり日本からいらしていた神学生の奥さんから、こんなことを聞きました。すごいのよ、うちの教会の聖餐式では、聖餐にあずかったおばあさんの信徒が、うわーん! って大泣きするのよ。私は韓国で暮らしていて、もう、おばあさんのその霊的な感覚が、とてもよくわかるようになっていました。  主のみからだをいただけるんですよ。血潮をいただけるんですよ。この罪人が! もったいないことではないですか。あの、「アメイジンググレイス」の聖歌のように、「驚くばかりの恵みなりき この身のけがれを知れるわれに」……生きていて、みことばと祈りの生活を積み重ねれば積み重ねるほど、自分自身のけがれ、みにくさ、きたなさ、至らなさ、そういったものが見えてならなくなり、耐えがたくなる。それなのに、イエスさまはすべて赦してくださっている。そんな私たちに、ご自身のみからだと血潮を口にすることを許してくださっている。何と感謝なことでしょうか。  さて、この「主の晩餐」、この名前は、主イエスさまが制定された晩餐という意味であるわけですが、その主の晩餐の制定を宣言されたみことばが、今日お読みしたみことばです。イエスさまが、これはわたしのからだです、とおっしゃる以上、それは単なるパンではなく、主のみからだとしていただくのです。これはわたしの血です、とおっしゃる以上、単なるぶどう汁ではなく、主の血潮としていただくのです。  このように信仰を持っていただくには、主が定められたみことばに従順に従うことが前提であり、私どもが、信仰告白をもって父・御子・御霊の名によりバプテスマを受けている人に配餐を限定しているのは、その従順ということにおける秩序という事情があるからです。けっして差別しての意図ではありません。というより、そういうことをきちんと理解したうえで礼拝に集ってくださるならば、それはとても感謝なことです。  さて、イエスさまはこの、弟子たちとともに囲んだ食卓において、極めて意味深なおことばを語っていらっしゃいます。まず、イエスさまは、15節のようにおっしゃっています。そう、この食卓を弟子たちと囲むことを、イエスさまご自身が、切に願っていらっしゃったのでした。  なぜ、彼らとともに食事をすることを切に願っておられたのでしょうか? それはルカの福音書22章28節から30節のみことばをお読みすると、イエスさまのそのお気持ちをお察しすることができます。  たとえ火の中水の中、ということばがありますが、イエスさまにどこまでもついていきたい、という願いは、クリスチャンならばだれもが持つものでしょう。しかし、いざイエスさまについていこうとすることは、簡単なことではありません。現にイエスさまは、このおことばをお語りになった直後、シモン・ペテロが、イエスさまのことをいざというときに知らないと言う、と予告され、そして、そのとおりになりました。  そんな弟子たちはしかしそれでも、イエスさまと苦難をともにすることが許されてきましたし、また、「今はついてくることができません。しかしのちにはついてきます」とイエスさまに言っていただいているとおり、このときのペテロがそうだったように、大事なときにつまずくような失敗をするにせよ、最後にはイエスさまについていくものである、というわけです。  そんなあなたたちと、わたしはこの過越の食事、最後の晩餐をともにすることを、心から願っていたのですよ、というわけです。イエスさまについていくことは、ただ、イエスさまの恵みがあって、はじめてできることです。いったい、イエスさまについていっても何もないと思うような人間、この世の価値観がすべてと思うような人間が、イエスさまに喜んでついていくことなどあり得るでしょうか? そんな人間が、イエスさまについていけたならば、それはひとえに、恵みというべきことですし、そのように恵みをいただいた人と、イエスさまは、ご自身の肉と血潮にあずからせる、究極の食卓をともにすることをお喜びになったのでした。  もうすこし、イエスさまのおことばを見てみましょう。特に、16節、18節のみことばに注目します。イエスさまのこのおことばからは、2つのことが重なって見えてきます。まず、この過越の食事は、イエスさまにとっては、この地上における最後のものであったということです。すなわち、イエスさまは一夜明ければ不当な裁判にかけられ、十字架にかかって死なれます。しかし、三日目によみがえられ、復活の御姿をもって弟子たちに現れてくださいます。しかし、それは40日の間のことで、イエスさまは天に昇られます。すなわち、この過越の次の年の過越のときには、もうイエスさまは弟子たちの前にはいない、弟子たちとともに過越の食事をすることはできない、というわけです。  また、特にこれは18節のみことばからわかることですが、こういう意味もあります。言うまでもなく、過越の祭りというものはイスラエルの民たる者ならば、年に一度は必ず守るべき大事なものです。そんなイエスさまは、「ぶどうの実からできたものを飲むことはない」とおっしゃっています。これは、もはやあなたがたとぶどう酒を囲んだ宴をともにすることはない、という意味もさることながら、それこそストレートに「ぶどうの実でできたものを飲まない」という意味でもあるわけです。つまり、次の年の過越の祭の前にイエスさまが「ぶどうの実でできたもの」を口にされることによって、早くも神の国が実現することが暗示されているわけです。  そのことは、ヨハネの福音書19章28節から30節に明らかです。イエスさまは十字架のうえで最期をお迎えになるにあたり、ぶどう酒をお受けになりました。もっとも、このぶどう酒というものは、飲んで陽気になるようなものとは程遠いものです。ほかの箇所を読むと、苦みを混ぜたぶどう酒とあります。十字架の上で脱水状態になるため、どうしても水分を欲しがる受刑者が口にすると、あまりに苦く、苦痛がさらに増し加わるという、残酷な効果があるとも言われています。また一方では、あまりに苦しい十字架刑のその苦しみを軽減する、麻酔の役割をするとも言われています。しかし、いずれにせよ、楽しむために口にするぶどう酒ではなかったのはたしかなことです。  それでもイエスさまはこのとき、たとえぶどう酒と呼べるような代物ではなかったとはいえ、ぶどうの実でできたものを口にしておられるわけです。このとき、何が起きたのでしょうか?  そうです。イエスさまが予告されたとおり、過越が神の国において成就したのです。過越というものはもともと、神の義が示されていながら神を認めず、神の民であるイスラエルを虐げる一方だったエジプトに対し、神さまが怒りのさばきをお下しになったこと、そう、王の子どもから奴隷の子ども、家畜の子に至るまで、長子という長子をことごとく死なせられた、その怒りを、門とかもいに血を塗ったイスラエルの家については過ぎ越された、そのことを記念した祭りでした。たしかにこのとき、イスラエルには格別のあわれみが注がれ、神を神としないゆえに神の民であるイスラエルを虐げたものに、神さまは死をもって怒りを注がれたわけですが、残念なことに、それからも人は罪を犯すことをやめませんでした。それは、こうしてあわれみによって怒りを過ぎ越していただいたイスラエルの民とて例外ではありませんでした。すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができなくなった、それが人というものでした。  そんな人にとって、イエスさまは究極の過越の子羊として、ご自身を十字架の上におささげになりました。考えてみましょう。人の罪はどれほどのものであったか。神の御子を十字架につけて、あらゆる呪いを浴びせ、なぶり殺しにするほど、それほど人の罪は極限に達していました。  ルカの福音書23章、27節以下をお開きください。群衆は十字架につけられるイエスさまを嘲笑いに集まっていた中、イエスさまについてきた女性たちは、泣いて悲しみながら、ゴルゴタの丘に向かうイエスさまのあとをついていきました。しかし、イエスさまはおっしゃるのです。  神のいのちが通う神の民イスラエルのことを、イエスさまは、青葉を茂らせる生きた木になぞらえられました。そんなイスラエルに、途方もないさばきが待ち受けているというのです。それは、みことばにおいて何百年にもわたって預言されていたキリストがこの地に来られたというのに、いざこの地に来られたキリストを一切認めず、十字架送りにさえするほどの大罪を犯したからです。  そしてイエスさまはおっしゃいます。「枯れ木には、いったい何が起こるでしょう。」生木になぞらえられたイスラエルさえ焼き滅ぼす神の怒りの炎がこの地に臨んだならば、神のいのちから断絶された異邦人、すなわち、イスラエル以外のすべての民は、ひとたまりもなく滅びるしかありません。もはやこの地上に生きることを許される人間など、ひとりとしていないことになります。  しかし、あれから2000年経った現在、イスラエルの民はたしかに壮絶な苦しみを何度も体験してきましたが、現実として、なお世界に影響を与える民族として生きつづけています。異邦人なる者たちは言うまでもありません。みな、生きています。増え広がっています。それにその民の中から、まことの神さまを信じて永遠のいのちをいただいた人は数知れず。私たちももちろん、それに含まれているわけです。死んだり滅びたりすべきだった私たちは、なぜこうして祝福のうちに生きているのでしょうか。  それは、この怖ろしい予告をされたイエスさまが、十字架につけられたとき、御父に祈られたからです。34節。おそらく、このときほど、神の怒りが地上に臨んだ時はなかったのではないでしょうか。もはや神の民であるはずのイスラエル人、ユダヤ人さえも、一切免れることのなかった神の怒りが、全人類に臨んだ瞬間ではなかったでしょうか。その怒りを、イエスさまは十字架の上で両手を広げ、受け止め、すべての人をその怒りから守ってくださいました。  そうです。十字架こそは、究極の神の怒りを過ぎ越す、究極の過越です。十字架という、この究極の過越を前にしては、もはや新たになにがしかの血が流される必要はありません。イエスさまの十字架によって私たちは神さまと新しい契約、永遠に破棄されることのない契約を結び、十字架をもってほんとうに到来した神の国に入れていただき、神の国を生きるものとしていただいたのです。  私たちがイエスさまのお定めになったとおり、パンと杯にあずかるということは、私のために、そして、私たち教会のために、イエスさまが十字架の上でみからだを裂き、血潮を流してくださった、そのみわざに感謝することです。それをいただくというこは、私、そして私たち教会が、十字架にかかられたイエスさまとひとつ、ということです。  しかし、イエスさまは十字架におかかりになり、死なれて、それで終わりではありませんでした。イエスさまは復活されました。私たちがあずかる主の晩餐はまた、復活され、今も生きておられるイエスさまと囲む、喜びの晩餐でもあるのです。  十字架と復活はコインの表裏のようなもので、どちらが欠けてもほんとうの意味でイエスさまというお方を体験していることにはなりません。もし、私たちが、教会生活において、喜びということばかり追求してしまっているようならば(それももちろん大事なことですが)、どこかで立ち止まって、こんな罪人の私のために十字架におかかりになったイエスさまの恵みに思いを馳せるときが必要でしょう。  今日いただく主の晩餐は、もちろん、復活のイエスさまとともに味わう喜びの晩餐にはちがいありませんが、今日に関しては、イエスさまが苦しみをもって私たちを神の怒りから過ぎ越させてくださり、それゆえに神の国が実現した、そのみわざを分かち合わせていただくものとして、厳かな心でいただきたいものです。

しくじり先生マルコ

聖書箇所;マルコの福音書14章51節~52節 メッセージ題目;しくじり先生マルコ  「しくじり先生」というテレビ番組があります。有名人の失敗から学びましょう、という内容の深夜放送で、一時期はゴールデンタイムに放送していたので、ご覧になったという方もいらっしゃると思います。たとえば、2015年4月20日の放送の先生は、あの「ホリエモン」、堀江貴文さんで、題して「世の中舐めすぎて逮捕されちゃった先生」、メンタリストのDaiGoさんは、「メンタリストなのにメンタルがボロボロになっちゃった先生」といった具合です。人の振り見て我が振り直せ、ということばがありますが、これほどの有名人でも致命的な失敗をしたことは、それを見る視聴者に、そうか、そういう失敗をしなければいいのか、という教訓を与えます。また一方で、こんな人でもこんな失敗をしたのか、と、勇気づける効果もあります。  「しくじり」ということばは、落語家の上下関係の中でよく使われることばです。これは、ただの失敗を指すわけではありません。落語をけいこするとき、人に聞かせるためではなく、あとで自分で聞くために自分のしゃべりを録音していて、うっかりして、携帯の電源を切るのを忘れて鳴ってしまった、録音がやり直しになってしまった、ああめんどくさい、となることは、「しくじる」ではありません。「しくじる」とは、弟子に対する師匠ですとか、噺家に対する席亭やお客さんですとか、目上の人の気持ちを害する失敗をしたときのことをいいます。  私は落語を聴くことだけではなく、落語家の人間関係にまつわる本を読むのも大好きです。古今亭駒治師匠という、いま45歳くらいの、鉄道に関する新作落語で知られた方がいます。彼の師匠は、もうだいぶ前に亡くなりましたが、古今亭志ん駒という落語家です。志ん駒師匠は憧れの古今亭志ん生に弟子入りする前提で、なんと7年にわたって、海上自衛隊で壮絶な訓練を受けた人です。ロープの結び方のテストのとき、目隠しをされてロープを持たされ、もやい結びですとか、結び方の名前のとおりに正しく結べないと、思いきり頭を殴られる、とか、そんな生活をしていたわけです。そんな志ん駒師匠はやがて志ん生の家に寝泊まりして、師匠や、二階に同居していた息子の志ん朝の身の周りの世話をするようになりますが、そんな内弟子生活の厳しさなど、屁でもなかったと言います。  そんな志ん駒のもとに弟子入りする駒治さんも、ほんとに変わった人だと思いますが、基本的に駒治さんに対しては優しかったそうです。しかしあるとき、こんなことがありました。志ん駒が柳亭市馬という落語家と一緒に地方で仕事があり、まだ前座で、志ん駒師匠のおつきだった駒治さんが一緒に行ったとき、駒治さんが旅館で朝起きると、横で寝ているはずの志ん駒と市馬がいない。そう、彼らは朝風呂に入りに行っていたのです。駒治さん、まずい、と思いましたが、もう遅い。風呂から帰ってきた志ん駒に、駒治さんは大目玉を食らいました。「前座というものは師匠が起きる前に、そばで控えているもんだ。」さすが、予定の5分前には準備万端でいるべきという、海上自衛隊の精神のしみ込んだ志ん駒らしいエピソードですが、こういうのが「しくじる」です。  しかし、志ん駒も、いかに前座修業が屁でもなかったとはいえ、「しくじる」ことをしなかったわけではありません。あるとき、志ん駒は仕事で遠出した先から、師匠の志ん生に宛てて手紙を書きました。それはいいのですが、どういうわけだか、宛名を志ん生の本名の、「美濃部孝蔵様」と書いて出した。師匠宅に帰ると、志ん生は志ん駒に言いました。「あのねえ、僕は君のお旦でも何でもないんだよ。」お旦、わかりますか? パトロン、要するにお金を出してくれる人。志ん生ともなると小言も粋だなと思いますが、ともかく、この失敗も「しくじる」に含めていいでしょう。  しかし、そういう失敗、しくじりを笑って言えるのは、それだけそのような経験を糧にして、芸も人格も成長したからでしょう。私もしくじりだらけの人生ですが、振り返ってみると、そんなことを平気でしていたような者も、神さまの恵みで成長させていただいたなあ、としみじみ思うものです。主に感謝いたします。  さて、今日は、そんな私たち、主の恵みによって成長させていただく私たちにとっての「しくじり先生」がどのように成長していったか、私たちはそのしくじりと成長からどんな教訓をいただけるか、聖書から学んでまいりたいと思います。  今日のしくじり先生は、「マルコ」です。聖書に登場するマルコはひとりであり、四つの福音書の中でいちばん最初に書かれたと推測される、マルコの福音書を記録した人です。  福音書の記者は、マタイ、ヨハネもそうですが、自分の記録する福音書の本文の中で、書き手である自分のことを「私」とは基本的に書きません。ルカはそれとはちがい、「私」と書いていますが、彼はそもそもイエスさまの公生涯の頃には、イエスさまや弟子たちと一緒にいないので、イエスさまの公生涯に対する直接の目撃者として書いているわけではありません。  マルコはどうでしょうか。実は、さきほどお読みいただいた箇所に出てくるあの「ある青年」、つかまりそうになって、服を残して裸で逃げた青年、あれは記者自身であるマルコだという説が極めて強いのです。たしかに、唐突にあのような記述が、あの場面に挟まっているのは、よく考えれば妙です。しかし、記者であるマルコは、うまく自分自身を隠しながら、自分のしでかした失敗をさりげなく語っている、というわけです。  もし、この青年がマルコだとするならば、マルコは、一度はイエスさまについていこうとしたのに、いざつかまりそうになったら、イエスさまに連座することを恐れて、裸をさらしてみっともない姿で逃げた若者、ということになります。いかにも、イエスさまをしくじった者のように見えます。新約聖書を順番に読んでいて、最初に登場するマルコがもしこの若者のことだとしたら、ほんとうにみっともないしくじりをした者、という印象を受けます。  来週の棕櫚の聖日に受難週が始まります。イエスさまの受難を前にして逃げ出したマルコのしくじりは、受難週を控え、あらためてイエスさまの十字架に思いを巡らせるべき私たちに、いろいろなことを教えます。その後のマルコの歩みは、聖書のあちこちに記録されていますので、すべて見て、それから、マルコのしくじりから私たちが学ぶべきことを、ともに考えてまいりましょう。  マルコの名前が聖書に初めて登場するのは、題名以外に名前が明らかに出てこないマルコの福音書を除き、使徒の働きの12章です。マルコはヨハネという名前の別名でした。十二使徒のヨハネと区別する意味で、マルコとふつう呼びます。ときに、ユダヤを治めていたヘロデ王は、キリスト教会に迫害の魔の手を伸ばし、使徒ヤコブを虐殺しました。十二弟子で最初の殉教者となったわけです。ヘロデのこの行為は、ユダヤ人の気に入り、それでヘロデは、今度はペテロを処刑しにかかりました。ペテロは逮捕され、翌日には処刑、というタイミングで、天使が現れ、ペテロの両手両足をつないでいた鎖が解け、牢獄の鉄の扉が次々と開かれ、天使に導かれたペテロは無事、牢獄から逃げ出すことができました。  このとき、エルサレム教会はペテロのことを覚え、一生懸命に祈っていました。それはそうです。エルサレムで大成長を遂げた教会は、その役員会の一員であるステパノが正しいことを演説したばかりに、ユダヤ人たちから石打ちによって虐殺されました。それによって教会は散り散りになりました。今度はヤコブが殺されました。そしてペテロが逮捕だとは、もう、教会はどれほどの困難に直面していたことでしょうか。みな、ひとところに集まり、祈るしかありませんでした。  このとき、教会員たちが集まっていたのが、マルコの母親であるエルサレム教会員、マリアの家でした。教会員たちが集まれるくらいですから、相当な大きさの建物だったわけで、裕福な家庭だったことが垣間見えます。ロデという名前の召使いが雇われていたことからも、この家の裕福さが裏づけられます。そんな家を開放して教会員をヘロデの魔の手からまるごとかくまうのですから、マルコの母マリアは単に裕福なだけではなく、いのちをかけて教会を守るほどに、極めて献身的であったわけです。マルコはそのように、裕福で献身的な家庭に育った若者だった、ということがわかります。  ヤコブを殺し、ペテロにまで手をかけようとしたヘロデは、結局、神さまにさばかれて死ぬことになります。そのあと、宣教のみわざが拡大していく過程で、エルサレム教会にて奉仕したバルナバとサウロ、つまりパウロは、マルコを連れ出して、自分たちに託された異邦人宣教の働きに同行させます。この宣教チームはアンティオキアを振り出しに、セレウキア、キプロス島のサラミスとパポス、パンフィリアのベルゲと巡回していきますが、そのベルゲで、マルコは宣教チームから離れて、エルサレムに帰ってしまいました。  このチームは働きを終え、アンティオキアに戻ります。その後、エルサレムからやってきた、割礼は救いのために必須の儀式であると教える者たちに対処するため、パウロとバルナバがエルサレムに赴き、その問題を解決して再度アンティオキアに戻ってくるというできごとののち、パウロは、自分たちが宣教した地域の兄弟たちがどうなっているか見にいきましょう、と、バルナバに提案します。それにバルナバは同意しましたが、その際、マルコを連れいていこうとしました。しかし、パウロは、宣教チームから勝手に離れるような行動をした者は、連れて行くべきではない、と主張しました。  その結果、パウロとバルナバの間に激しい対立が起こり、結局、彼らは別々に宣教チームを組んで旅立つことになりました。つまり、マルコは、宣教チームから離れたということでパウロをしくじったことになります。  パウロは、彼の手による初期の手紙を読めば感じられることと思いますが、性格や宣教のポリシーに、厳しい傾向を持っています。コリント人への手紙第一など、いかに異邦人の生活習慣に毒されたコリントの人たちを対象にしたとはいえ、「あなたたちは、私がそっちに行かないと高をくくっているようだが、私は行くぞ。そのとき、むちを持っていこうか、それとも、愛と優しい心で行こうか」なんて、恐いことを言っています。バルナバとの決裂は、それよりも以前のできごとで、マルコのように、自分勝手に宣教チームから離れて故郷に帰るような甘い考えを持つ者には、厳しい宣教の働きなど務まるまい、という、パウロならではの厳しさが垣間見えます。  しかし、神さまは厳しい、義なるお方であるの同時に、愛なるお方です。バルナバはというと、神の愛によって行動しようとしました。人の罪を赦す神の愛、充分に成長するまで待ってあげる神の愛……その愛によって、宣教チームをしくじったマルコのことを受け入れ、宣教チームに同行させることによって、マルコが一人前の働き人になるように、整えようとしました。  さて、その後、マルコはどうなったでしょうか? それ以降、マルコの名前の登場する箇所は、聖書に出てくる順番に、コロサイ4章10節、第二テモテ4章11節、ピレモン24節、第一ペテロ5章13節です。いずれも、パウロの第二次宣教旅行の始まった、紀元48年ごろから、だいたい14年後以降に書かれています。  その間、パウロは2度の宣教旅行に出て、地中海の地域に教会を立てつづけ、宣教と牧会の働きに励みました。しかし、紀元57年ごろ、パウロは逮捕され、以後、獄中において後進の指導に当たったり、手紙を託(ことづ)けて各地の教会を牧会したり、弟子を育てたりしました。その手紙の中に、マルコの名前が合計3回登場します。ひとつひとつ見てみると、興味深いことがわかってきます。  まず、コロサイ4章10節によれば、マルコはバルナバのいとこだったことがわかります。なるほど、どうりでバルナバは、マルコのことを責任をもって育てようとしたのか、と考えられます。しかし同時に、このときマルコは、パウロとともに獄中にいて、しかもパウロとともに、コロサイ教会に対して、よろしく言うような関係にあったこともわかります。そう、それまでにマルコは、パウロと和解し、のみならず、パウロの同労者として、パウロとくびきをともにする立場にまでなっていました。そういう立場になっていたことは、ピレモンへの手紙24節からもわかります。  そして、パウロにとって最後の書簡である、第二テモテ4章11節によると、パウロはテモテに、あなたが訪ねて来るときには、どうかマルコのことも伴ってほしい、彼は私の働きの役に立つから、と言っています。そう、パウロにとって、実に助けになる人物となっていたのでいた。  付け加えますと、マルコはペテロにとっても、「私の子」と呼ばれる立場になり、ペテロが諸教会に書簡を送るにあたり、ともに「よろしく」のあいさつをする立場にもなっています。そう、紀元62年ごろには、ペテロからも、パウロからも充分に認められる働き人となっていました。  そんなマルコが福音書をものしたのは、50年代中盤とも、60年代中盤とも言われています。パウロの第三次宣教旅行の時期、あるいは、パウロが獄中にあって、64年から67年の間と類推される、殉教の時期と重なります。  そう、マルコはしくじって、一度はパウロから離れざるをえなくなりましたが、それからほどなくして、福音書という、イエスさまの生涯を鮮やかに伝記形式で描いた書をものすという働きに用いられ、かくして、使徒たちから認められる働き人として成長し、用いられるようになりました。その働きがどれほどのものであったか、それは、逮捕され、投獄されるほどの働きであったことからも、大いに評価されるものであったわけです。  この、マルコの生涯から、3つの教訓を私たちはいただくことができます。  第一に、主の働き人は、時に大きなしくじりをもたらすことがあるということです。本来、主にあって一致して働くべき場にあって、勝手に行動してチームワークを乱してしまう。教会にせよ、宣教チームにせよ、そういうことをしてしまい、リーダーをしくじってしまうことは、往々にしてあるものです。その結果、宣教チームが分裂してしまったわけですから、マルコも大変なことをしたものです。そういうしくじり、失敗をしてしまい、主のみこころを損なうこと……それは、主にお従いすべき私たちも、ついしてしまう、私たちはそういう、弱い者、失敗をしがちなものであることを、謙遜に認める必要があります。  第二に、そんなしくじりをする者にチャンスを与えて働き人として立ててくれる人を、主は備えてくださる、ということです。パウロをしくじったマルコが整えられ、福音書を書けるほどの働き人になれたのは、バルナバの存在があったからです。バルナバはもともと、主の教会を迫害した大物の律法学者だったパウロを怖がって、仲間に入れようとしなかったエルサレム教会にあって、積極的にパウロを受け入れ、パウロがエルサレム教会の仲間になれるように、教会に働きかけた人です。バルナバなしには、パウロはあのような働き人になることなどありえませんでした。その愛によって、今度はマルコのことを受け入れ、育てたわけです。  このように、人を育てることができるのは、自分のことを愛してくださるお方、自分の罪を赦してくださるお方、イエスさまの、その愛と赦しを知っているからです。イエスさまが愛してくださったように、人を愛する。イエスさまが赦してくださったように、人を赦す。イエスさまが育ててくださるように、人を育てる。このようにして、あとに続く人は育っていくのです。  そして第三に、マルコは最終的にパウロと和解し、パウロに認められ、のみならず、パウロの同労者にまでなりました。これは、主の働き人はしくじってそれで終わりなのではなく、しかるべき働き人と和解し、一致するように導かれ、ともにキリストのからだなる教会を立て上げる働きに用いられていく、という希望を、私たちに与えてくれます。神さまは私たちのことを、しくじってそれで終わる小人物とみなされません。神の国の働きのために大いに用いられる、そのひとりとしてくださいます。  私たちは自分自身の小ささを見て、それで私たち自らを評価してはなりません。神さまの偉大さ、そして、私たちを選んでくださる、その愛に目を留め、神さまを信頼して歩みましょう。  さて、最後に、そんなマルコが挿入した謎の2節に戻りましょう。それがマルコ自身のことを指すにせよ、そうではないにせよ、この若者のしくじりをわざわざ記録したマルコのその動機を考えてみましょう。  いちどは、イエスさまについていこうとするけれども、十字架を前にしたら、裸の恥をさらすような、みっともない姿で逃げ出してしまう。それが、私たちなのです。  十字架を負われるのは、イエスさまおひとりです。私たちは、イエスさまに並んで十字架を負うような、救い主になることも、ユダヤ人の王になることも、一切許されていない存在です。しかし、そんな私たちも、「あとにはついてきます」とイエスさまに約束していただいています。私たちはイエスさまのあとを、自分の十字架を背負ってついていくことが、もったいないことに、許されている者とされています。私たちはそうなれるように、あたかもバルナバがマルコのことを整えたように、兄弟姉妹の交わりの中で、整えていただきつつ、今日も歩んでいる存在です。感謝しましょう。  受難週が近づいています。私たちはマルコのように、主の十字架を負うことの許されていない存在です。主の十字架は、主イエスさまだけが私たちのために背負ってくださいました。しかし。私たちはイエスさまが十字架におかかりになり、私たちを罪と死から贖ってくださるほどに。私たちを愛してくださったゆえ、私たちもその愛にお応えするように招かれています。兄弟姉妹を愛するということをもってして、主のその愛にお応えするのです。  まず、主の愛を覚え、静かに思い巡らしましょう。私たちには背負えない十字架を、主が背負ってくださり、人のすべての罪をその身に負われ、ことごとく赦してくださった、それゆえに、私の罪も赦していただいたことに感謝しましょう。その愛によって、私自身が整えていただいていることに感謝しましょう。その愛によって、兄弟姉妹を愛せるように、主の恵みを求めてまいりましょう。