聖書箇所;ヨハネの福音書1章19節~23節
メッセージ題目;主の道をまっすぐにせよ
私の好きな詩人に、草野心平という人がいる。富士山に関する詩を多く書いているので「富士山の詩人」と呼ばれたり、もっと変わったところではカエルに関する詩を多く書いているので「蛙の詩人」と呼ばれたりしているが、もちろんそれだけではなく、宇宙的な広がりを持つ壮大な詩、そうかと思うと実に人間臭い詩など、その作品はたまらない魅力にあふれている。しかし彼の作品は、実際にはどれほど広く知られているだろうか。私はたまたま実家の蔵書で詩集を手にしたからファンになっただけで、私のようなマニアでもなければそんなにみんな知っているわけでもないだろう。
しかし、そんな彼には、日本の文学の歴史に残る偉業がある。それは、宮沢賢治の作品を世に送り出した、ということである。宮沢賢治は草野心平の創刊した詩の同人誌『銅鑼』の同人で、心平は賢治がいかに天才だったかということをだれよりもよく知る立場にあった。しかし、賢治は世に広くデビューする前に亡くなった。心平は、このまま賢治の作品が埋もれてはなるまいと、作品が世に知られるように奔走し、そしてついに陽の目を見た。それから先、賢治の作品は心平が一生かかって残した諸作品とは比べ物にならないほど有名になった。心平は賢治が亡くなってから60年ちかく作品をつくりつづけたが、賢治より有名になることはついになかった。しかし、心平はそれで満足だったはずである。
賢治を世に送り出すために努力した心平……この話を知ったのは、私がまだクリスチャンになる前のことだったが、のちに教会に通うようになり、聖書を読んでいるうちに、バプテスマのヨハネがイエスさまを知ってほしいと努力する姿は、まるで心平が賢治を世にデビューさせることに努力したようだと思ったものだった。
バプテスマのヨハネ……けっして異端ではないが、らくだの毛衣をまとって荒野に住むような、異形の人。彼はしかし、自分に注目する者たちの目を、イエスさまへと向けさせた。草野心平はたとえ宮沢賢治のデビューに関わっていなくても充分すばらしい詩人だが、ヨハネはそれとちがい、ヨハネの人生が魅力的だったとするならば、それはただひとつ、イエスさまへと人々を向けさせたからであった。
ユダヤの宗教指導者たちは、祭司やレビ人をヨハネのもとに差し向けた。彼らはヨハネに、「あなたはどなたですか」と尋ねた。その質問に対し、ヨハネは「私はキリストではありません」と答えている。ヨハネのこの答えから、彼ら宗教指導者層の質問の意図を読み取ることができる。彼らはヨハネから、「私はキリストである」という回答を引き出し、その言質を取って、ヨハネのことを、神を冒瀆したという罪名でこの社会から葬り去ろうという意図があったようである。何といっても、彼ら宗教指導者は、群衆の見ている前で、ヨハネに「まむしのすえども」と罵倒され、大恥をかかされている。そんな宗教指導者たちはヨハネのことを、自分たちの既得権を脅かす者としてマークしていたようである。
実際民衆は、ヨハネのことを、もしかしたらキリストかもしれないと思いはじめていた。宗教指導者たちにしてみれば、自分たちが独占すべき霊的既得権をすべてヨハネに持っていかれるようで、危機感を覚えるしかなかった。そんなヨハネを罠にかけるには、彼自身に、自分はキリストであると告白させるのが最もよい方法だった。そうすることで彼のことを、神への冒涜だ、と責めることができる。彼らはのちに、イエスさまを十字架にかけるときにも同じ方法を用いた。
しかし、ヨハネの答えはあっけなかった。「私はキリストではありません」。だれが何と言おうと、自分はキリストではない以上、キリストだと名乗ることはありえない。ただそれだけのことである。
しかし、宗教指導者たちの質問はそれで終わらなかった。「それでは、あなたは何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネはこの質問にも「違います」と答えた。
エリヤは、普通の人が死んで墓に葬られるようにしてこの世を去ったわけではない。列王記第二の2章をお読みになればお分かりのとおり、エリヤは神の時に、天から召されて、竜巻に乗って生きたまま肉体ごと天に引き上げられたのであった。そのエリヤがこの地に再来することは、マラキ書の4章にも予告されていて、その予告どおり、あのとき天に引き上げられたエリヤが再び地上に降りてきたのか、ということである。しかし、ヨハネはエリサベツという女性から生まれたのであり、天から降りてきて地上にいるわけではない。だから、「違います」なのである。
ただし、エリヤがこの地に来てすべてを立て直す、ということが、ヨハネが来ることによって実現した、ということは、イエスさまご自身がお認めになっている。イエスさまがヨハネをエリヤだとおっしゃっている、ということである。しかし、ヨハネの告白はイエスさまのおことばと矛盾していると見なすべきではない。ヨハネは主イエスさまがそうおっしゃる以上、エリヤである。しかし、ヨハネ自身は、われこそは再臨のエリヤであると振る舞うべきではない、なぜなら、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、「女から生まれた者」としての分際をわきまえるべきだから、と意識していたかと見るべきである。
さて、私はエリヤではない、という答えにも納得しない宗教指導者たちは、「では、あの預言者ですか」と尋ねた。これに対してもヨハネは「違います」と答えている。
あの預言者、というのは、申命記18章15節と18節においてモーセが語る存在を指す。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたはその人に聞き従わなければならない。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」
これは、モーセよりのちの時代にも預言者が起こされることを語ったことばだが、どの時代の預言者も、すべてモーセの語った預言のことばである律法に基礎を置いたものである以上、「私のような一人の預言者」とまで言い切れるわけではない。部分的である。モーセがほんとうの意味で語るとおりのその究極の預言者は、それこそこのことばの預言するとおり、主がお命じになることをすべて民に告げる、みことばの実現そのものの存在である。早い話が、あの預言者とはキリストのことである。その預言者を民は待ち望んでいた。宗教指導者はだから、ヨハネよ、あなたはその究極の預言者なのか、と問うているわけである。
しかしもちろん、ヨハネはそうではなかった。だから、「違います」と答えた。しかし、そうは言っても、ヨハネは主のみことばをあますことなく伝える役割を果たしてはいた。ただ、主ご自身の現れとして語っていなかっただけのことである。ヨハネは最後の最後にイエスさまへと導いたという点で、れっきとした預言者であった。
ヨハネはもちろん、自分が預言者である、すなわち、主のみことばをお預かりして人々に宣べ伝える働きに召されているという自覚を持って働いていた。その働きに誇りやプロ意識を持ってもいただろう。しかしそれでも彼は、ユダヤ人が言うところの「あの預言者」、すなわち、モーセに比肩する究極の預言者、キリストだなどと思い上がっていたわけではない。つまり、ヨハネをヨハネならしめていた神の働きが、彼を支えていたわけではなかったのである。
ヨハネのこの姿勢は、私たちにも適用できる。私たちは神にあって素晴らしい存在である。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43章4節のこのみことばをとおして私たち自身を見つめるとき、私たちは何とセルフイメージが上がることだろう。
しかし、まず忘れてはならないのは、私たちは本来、愛される資格がなかった存在である、ということである。堕落する道、神に背を向ける道を好んで選び、神の怒りがその上にとどまって当然の存在、永遠に呪われて滅ぼされるべき存在だったということである。
私たちがフォーカスを合わせるべきは、そのような者であるにもかかわらず、私たちの受けるべき罰の身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださる神さまの御名であり、愛されている「私」であってはならないはずである。自分はクリスチャンだからと、ほかの人よりも何かすぐれているように思いこんでふるまったりする、いけ好かない人になってはならない。どこまでも、神さまのお立場から自分を見て、このような者を愛してくださる神さまをほめたたえることを忘れてはならない。
また、私たちは、礼拝をすること、奉仕をすること、そのために遠路はるばる礼拝堂にやってくることがすばらしい一方で、そういうことに労している自分って素晴らしい、などと考えてはならない。ヨハネの人格を支えていたものは、荒野暮らしという奇抜な生活スタイルでも、歯に衣着せぬことばで行う預言の働きでも、バプテスマを大勢の人に授ける働きでもない。主に召され、遣わされているという召命意識が彼を支えていた。私たちもまた、何をしているか、ということを考える前に、神さまは私を何者にしてくださっているか、でとらえるべきである。
ヨハネは何者だろうか? 彼自身が言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声』です。」古代の中東においては、王が道を行くときには、その前に立ちはだかる大きな石をことごとく取り除き、王が通りやすいように道を備えたという。主の道をまっすぐにするとはそういうことであり、人々をしてその働きに献身させる役割をする人の存在は大事になるわけだが、ここでヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者です、とは言っていない。あくまで自分は、「声」であると言っている。
うちの子どもの中学校では年に1回、クラス対抗で合唱を競うイベントがある。ほんとうにいろいろな曲が選ばれ、そしてみんな、ほれぼれするような歌声を聴かせてくれる。そんな彼ら中学生の合唱は、彼らの伝えたいメッセージが歌に託されている、とは言えるかもしれない。しかし、歌は100パーセント、彼らのメッセージそのものである、とはいえない。なぜならば、それらの歌は彼らが作詞作曲した、オリジナルの作品ではないからである。だれかがつくった有名な歌を歌うわけで、その歌を歌うことで、歌のすばらしさが一層輝く仕掛けとなっている。この中学生たちに選ばれて、一生懸命歌われるほど素晴らしい作品なんだなあ! と。そして言うまでもなく。合唱というものは、30人なら30人、一人一人の表情や服装にくまなく目を配って感動する芸術ではない。あくまで、聴かせてくれる歌に感動する芸術である。
ヨハネも、神さまのみことばを伝える「声」に徹した。神さまのみこころと関係のない、自分の個性や主義主張を出すようなことはしなかった。しかしそれは、個性を特有の人格を殺さなければ神の働きをしたことにはならない、ということでは決してない。神さまはヨハネに、荒野での生活、らくだの毛衣という服装、いなごと野蜜という食べ物、そんな衣食住という、独特すぎるほどの個性をお与えになり、そのライフスタイルが大勢の人々を惹きつけ、結果として彼らがイエスさまを見られるようになったという側面も確かにある。
私たちも生き方をとおして、神さまのみことばを表現する「声」の役割を果たす。その「声」は何を語るのだろうか。ヨハネはいろいろなことを語り、奇抜なライフスタイルで通し、バプテスマを大勢の人に授けたが、その生活全体が一貫して語っていたことは「主の道をまっすぐにせよ」であった。イエスさまはヨハネの予告どおり人々の前に来られたが、十字架のみわざを成し遂げられ、復活し、天に昇られ、いま天にて父なる神の右の座におられる。私たちは、いまは天におられるイエスさまが、やがてこの地に再び来られ、すべてを統べ治められることを信じ告白している。
いまこの世界は、イエスさまが来られて2000年が経つ今もなお、イエスさまを認めない。この地はなお、罪と暴虐と淫乱と破壊に満ちている。この地は再びイエスさまを迎えるには、あまりにも荒れ果てていて、人の心は冷たく冷え切ってしまっている。神さまはそのような世界にあって、私たちのことを救い、ご自身の民にしてくださったが、それはなぜなのだろうか。
私たちが忘れてはならないのは、私たちとは、この地において「主の道をまっすぐにせよ」と、そのことばと行い、いや、存在のすべてをもってこの地のすべての人に呼びかける「声」とされている者である、ということである。人々の前で神さまのすばらしさを顕す、すなわち神を愛し、隣人を愛するのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。だから、そのことばと行いに必要な知恵と導きを毎日みことばからいただき、祈って御霊の力に満たされるのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。すべては「主の道をまっすぐにせよ」、このご命令に私たちがまず従い、このご命令を人々に、ことばと行い、自分の全存在をもって語り伝える、それが私たちなのである。
<祈りの課題>
・私たちは、主の道をまっすぐにしているか? 足りない部分が示されたら悔い改めよう。
・私たちは、人々が「主の道をまっすぐにする」働きに用いられるために、何をどう祈るべきか? 示していただき、示していただいたら、それに取り組むための力が与えられるように、祈ろう。