サマリアの女とは私たちのこと

聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節~26節 メッセージ題目:サマリアの女とは私たちのこと  イエスさまのおことばやみわざを記録した四つの福音書には、おもに5種類の人間が登場します。まず、イエスさまのご家族。ヨセフやマリア、弟たち。次に、十二弟子をはじめとした弟子たち。また、イエスさまに群れなしてついてきたり、かと思うとイエスを十字架につけろなんて叫んでみたりする、群衆。また、イエスさまに敵対する宗教指導者や権力者。そして忘れてはならないのは、イエスさまが直接、目を留めてくださる存在です。多くの場合それは一人で、しかも弱い立場にある人です。女性であったり、異邦人であったり、障害を持っていたり、悪霊に取りつかれていたり。  今日の箇所に登場するのも、女性、「サマリアの女」として知られている、ひとりの女性です。彼女はとても不幸な人でした。それについては、のちほど詳しくお話しします。  イエスさまとその弟子の共同体は、バプテスマのヨハネにもまさって、人々にバプテスマを授けるようになりました。それは、自分が衰えてもイエスさまが盛んになることを願った、ヨハネの願いどおりでしたから、その点で問題はありませんでした。しかし、それにパリサイ人が目をつけました。気に入らないやつの芽は早く摘んでしまおう、といったところです。イエスさまはいかに迫害を受けるさだめといっても、犬死にをすべきだったわけではありません。別の場所に逃れてでも、神の国の福音をお語りになるのが、イエスさまのなさるべきことでした。  それでイエスさまは、ユダヤから見てはるか北の、ガリラヤに身を避けることにされました。しかし、ユダヤからガリラヤに行くには、その途中にあるサマリアを通らなければなりませんでした。  前にも「善きサマリア人のたとえ」についてのメッセージでお話ししましたが、サマリアはもともと、歴史的な理由により、人種的にも、宗教的にも、イスラエル人と異邦人が混じり合ってしまった地域です。そんな彼らのことを、宗教的純粋さを保つことに努めてきたユダヤ人は見下げ、毛嫌いしました。サマリア人も、自分たちが彼らからそのように見られていることはよくわかっていて、ユダヤ人とつき合おうとはしませんでした。要するに、ユダヤ人とサマリア人は対立していたのです。  そんなサマリアをユダヤ人が通るのは、本来ならば嫌なことです。避けたいことです。しかし、イエスさまは弟子たちとともに、サマリアの道を進んでいかれました。  イエスさまとその一行は、スカルという町に着きました。そこには、イスラエルの元締めなる先祖ヤコブゆかりの、由緒正しい井戸、「ヤコブの井戸」があり、イエスさまはその井戸端に腰を下ろされました。時は第六時、今の時刻でいえば午後12時、日も高く、暑いさなかでした。  そこに、ひとりの女の人が、水を汲みにやってきました。もちろん彼女はサマリア人です。この女性が「サマリアの女」です。  午後12時のような日の高い、暑い時間には、水汲みになど行ったりしないものです。行くなら、もっと涼しい時間です。そういう時間に水を汲む女たちは集まり、井戸端会議に花を咲かせます。しかし、この女性はどうも、その井戸端会議に加われない事情があった模様です。スカルの町の女たちの、仲間外れになっていた模様です。  イエスさまはこの女性をご覧になり、声をおかけになりました。「わたしに水を飲ませてください。」弟子たちは食べ物を買いに町中へ行っていたので、そこにはイエスさまと、この女性がいるだけでした。この男性、イエスさまがユダヤ人であることは、女性にはわかりました。  女性は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人がサマリア人とつき合いをしなかった事情については、さきほどお話ししたとおりです。そして、この地域も含め、2000年前の世界では、男尊女卑は当たり前でした。だから、サマリア人なのに、女なのに、親しく語りかけてくれる、しかもこの手から水がほしいと言ってくれる、いったい、このユダヤ人の男の人は、どんな人なのだろう……。彼女は不思議に思いました。  イエスさまはおっしゃいます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」  イエスさまはいきなり、かなり難解なことをおっしゃいます。なぞかけ、とでもいうようなおことばです。しかし、イエスさまのおっしゃりたかったことは、こういうことです。あなたこそが、水を必要としているのです。その生ける水を、わたしがあなたに与えます。  しかし、彼女はきょとんとしてしまいます。イエスさまにお答えします。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」  一応申しますと、この「主よ」は、「私の主なる神さま」と呼びかけているわけではありません。この時点では彼女には、イエスさまのことを「主なる神さま」と信じるだけの信仰はありません。深い霊的な真理を教えてくれているようなこのユダヤ人男性に対し、彼女なりに一定の尊敬を込めて「主よ」と呼びかけていると理解してください。  彼女はもちろん、イエスさまがこの井戸から汲んでくれて、私にその水をくれるもの、と理解するわけです。しかしイエスさまは、汲むための桶も何も持っていらっしゃらないから、あれ? となります。  そして彼女は、それともあなたは、自分のことを、この深くて由緒ある井戸をイスラエルにくれた、ヤコブよりも偉いとでもいうのか? と尋ねます。それは、彼女が自分のことを、私はこの井戸から飲むイスラエルのひとりだ、ヤコブの子孫だ、いったいあなたは何者ですか、と主張することです。  しかし、イエスさまははっきりおっしゃいます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」  イエスさまのこのみことば「この水を飲む人はみな、また渇きます」というみことばは、2つの意味があります。ひとつは、私たちが目で見て、手でさわれる、あの、水、これはいったん飲めばもう渇かない、なんてことはなく、飲んでも飲んでも渇くから飲まなければならない。そのように、この世の目に見えるもの、物質的なものは、私たちにとってのほんとうの渇きというものを、潤し、満たすことはできない、ということです。  もうひとつは、自分の血筋や民族がイスラエルだというアイデンティティ、あるいはプライドが、自動的にその人の飢え渇きを潤し、満たしてくれるわけではない、ということです。ユダヤから何と見られようと、イスラエルの一員であることにそれでも誇りを見出していたサマリアの女は、その誇りだけでは満たされず、飢え渇いていたのでした。  イエスさまはおっしゃいます。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてくださいます。  私たちは飢え渇きを満たすために、言い換えれば、心のむなしさや不安をごまかすために、いろいろなものに手を出してきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。あるいは、私たちの生まれ、家族、育ってきた、あるいは住んでいる町や地域、職場、どこの学校を出たか、そういうことで自分を支えようとしてきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。……ただ、イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてあげようと、私たちに近づいてきてくださるのです。  サマリアの女性は、イエスさまとの対話のうちに、このお方こそ、ほんとうの水、生ける水をくださる方だと気づきはじめました。彼女は訴えます。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」  もしかするとこの女性は、まだこの時点で、イエスさまのおっしゃることのほんとうの意味が分からず、目に見える井戸から汲み出すような目に見えて手でさわれる、口から飲む水を欲しがっていたのかもしれません。しかし、このときの彼女のことばの端々(はしばし)には、すでに彼女の凄まじい飢え渇きが見て取れます。  「私が渇くことのないように」と言っています。彼女は、渇いていては苦しい、渇いていてはいけない、ということをよくわかっていました。単なる本能的以上のものとして、彼女は心底渇いていたのでした。  「ここに汲みに来なくてもよいように」とも言っています。彼女はたしかに、このヤコブの井戸から水を汲んで飲むことで、イスラエルの一員としてのアイデンティティ、またプライドを保ってはいました。しかし実際のところ、彼女はどうだったか。女たちの井戸端会議にさえ混ぜてもらえず、さびしく一人で暑いさなか、水汲みをするような身でした。民族全体が神の共同体であるべきイスラエルの一員でいるようで、共同体の生活をしているとはとてもいえない、さびしいわが身を、とてもみじめに思っていたのでした。そんなみじめな思いをしてまでして、水汲みになんて来る必要がなくなったなら、どんなにか素晴らしいだろうか。  彼女はイエスさまに水を求めました。しかし、イエスさまは彼女の中にその生ける水が湧き上がるために、ひとつ、取り扱わなければならない問題を示されます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」女性は答えます。「私には夫はいません。」  するとなんと、イエスさまはこんなことをお告げになりました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」  イエスさまは全知全能の神さまです。彼女は目の前にいる人が、単なるユダヤ人の男性ではなく、天地万物を創造された全知全能の神さまであること、したがって、この方の語ることばを神のことば、真理のみことばとして受け取る必要がありました。そのことを彼女が知るうえで、イエスさまのこのおことばは充分に強烈です。だれもが隠しておきたいような問題を、あまりにも堂々と明らかにしたわけです。  イエスさまは、単に彼女の隠しておきたい状況を言い当てただけではありません。彼女が、神の民として神によって満たすべき飢え渇きを、男をとっかえひっかえすることによって満たそうとした、その間違った満たし方では決して満たされません、と、明らかになさったのでした。  そうです。彼女が、女たちの井戸端会議に交じれなかった事情が、これでわかります。彼女はきっと、ふしだらとか、あばずれとか、陰口をたたかれたことでしょう。だれにも相手にされません。相手にするのは、彼女のことを利用して欲望を満たそうとする、男の風上にも置けないやつらぐらいでしょう。もちろん、そんな男どもが、彼女の心の奥底の飢え渇きを満たせるはずなど、金輪際ありません。  果たして、サマリアの女はイエスさまのおことばに、恐れを抱きました。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」  まず彼女は、自分の秘密を言い当てたこのユダヤ人男性は、預言の力があることを認めました。この人は少なくとも、預言者にちがいない。彼女が言う、先祖たちが礼拝した「この山」とは、ゲリジム山という山で、聖書には申命記に最初に出てきます。ゲリジム山は神を礼拝する場所として、サマリア人の聖地として、大切にされてきました。しかし、この驚くべき預言者につながるユダヤにとっての礼拝すべき場所は、エルサレムであることは常識である。ならば、われわれサマリア人が大切にするゲリジム山と、この神の霊の宿る人が大切にするエルサレム、いったいどちらが、神さまを礼拝すべき場所としてふさわしいのだろうか? こうして彼女の関心は、神ご自身と、神さまを礼拝するということ、言い換えれば、まことの神さまに出会い、お交わりすることへと移っていきました。  イエスさまはおっしゃいます。「女の人よ、わたしを信じなさい。」福音書における「女の人よ」ということばは、高貴な立場にある婦人への呼びかけのことばです。日本語では何と訳すべきでしょうか?「貴婦人よ」もなんか変ですし、ふさわしい訳語がないのでわかりにくいところですが、とにかくこれは、高貴な立場の婦人への呼びかけのことばです。  ですからイエスさまはこのサマリアの女に対し、最高の呼びかけをなさっていることになります。ひとからふしだらとか、あばずれとか呼ばれて当たり前のような彼女は、神の御子、王の王、主の主なるイエス・キリストの御目には、どこまでも高貴な婦人なのです。あなたはわたしにとって大事な人なのです、だから、神であるわたしのことばを信じてください。  イエスさまのおことばは続きます。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」イスラエルの血を引く彼らは、神の民であることを誇りとし、そのアイデンティティを、聖なる場所と定めたところにて礼拝することに求めていました。しかし、ほんらい神にあってひとつであるべきイスラエルは、ゲリジム山で礼拝すべきだ、いや、エルサレムこそが本来の礼拝すべき場所だ、と、分裂し、対立しました。それをイエスさまは、どちらが正しい礼拝の場所であると主張する時代は、神であるわたしが終わらせる、と宣言なさったわけです。  ただし、イエスさまはこうもおっしゃいます。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」つまり、このみことばにおいてイエスさまは、エルサレムにて礼拝するユダヤ人のことを、サマリア人に優先させていらっしゃいます。しかしそれは、サマリア人がユダヤ人に劣っている、という意味では決してありません。そうではなく、救い主は必ず、世界の歴史においてただひとり、この世界に送り込まれるが、それはユダヤ人である、だからユダヤ人はそのことを知って、神の御名の置かれるエルサレムを大切にして礼拝しているのだ、ということを、イエスさまはお語りになっているのです。  イエスさまのおことばは続きます。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」  御霊と真理によって父を礼拝する。御霊は聖霊ともいい、神の霊、もっといえば、神ご自身です。神ご自身なる御霊が、私たち人間をそのご主権によってとらえ、私たちをきよめ、礼拝者につくり変えてくださいます。そして、真理とは、神のみことばによってわれわれ人間に明らかにされた、誤りなき神のみこころ、変わることのない神のみこころ、絶対の神のみこころです。私たちはこの真理を、聖書のみことばによって知ることができます。言い換えれば、聖書のみことばが真理そのものです。  神さまがその霊により私たちにそのみこころを示し、私たちは神の偉大さを知り、その偉大さに近づかせなくしている私たちの罪を悟り、それを悔い改めることをもって、私たちは父なる神を礼拝します。いまおささげしているプログラムとしての礼拝の時間はもちろんのこと、御霊の導きによって真理のみことばを神と人の前に守り行うことで、神と神とする生き方、イエスを主とする生き方をもって、霊的な礼拝を、日常生活において、いついかなるときもおささげするのです。  神さまは、そのようにまことに礼拝する人、みこころにかなう礼拝をする人を、何よりも求めていらっしゃいます。だから、私たちクリスチャン、神の民の本分は、なによりも「礼拝」なのであると理解すべきです。  彼女のことばは続きます。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」ここで、彼女がほんとうに飢え渇いていたものとは、実は、メシアなるキリストだったことが明らかになります。イエスさまとの対話は、彼女の飢え渇きを何によって満たすべきか、正確な方向に導いていきました。  そして、イエスさまは決定的なひとことをおっしゃいます。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」  おわかりでしょうか? イエスさまがサマリアの女に向かって「わたしに水を飲ませてください」とおっしゃったのは、単に旅の疲れで水がほしかったからではなかったのです。わたしは、メシアとしてあなたを救うことに飢え渇いているのです。さあ、わたしの救いを受け取って、わたしの渇きを癒やしてください。イエスさまがおっしゃりたかったのは、そういうことです。  イエスさまは十字架におかかりになることで、私たちが罪人であるがゆえに私たちに注がれるべき神の怒りを身代わりに受ける、宥めの供え物としてご自身をささげてくださいました。イエスさまはそのようにして十字架の上で刻一刻と死んでゆかれるとき、「わたしは渇く」とおっしゃいました。イエスさまが十字架の上で、みからだがからからに渇くほど、その尊い血潮を流されたのは、私たちが神の御霊という生ける水に潤され、罪と死から救われた者として、永遠に神とともに生きるためでした。私たちが救われ、生きることに、かくもイエスさまは飢え渇いておられたのです。  私たちはサマリアの女のように、ふしだらなあばずれではない、と思っているうちは、私たちにとってイエスさまの十字架はまだリアルなものとなっていません。もっといえば、そう思っているうちは、イエスさまの十字架などまだ必要ではないと思っているのです。しかしそれは、イエスさまを主とする生き方をしていることにはなりません。そんなクリスチャン生活は、主権者なる神を不遜にも、この罪人のために利用しているにすぎないのです。  私たちに必要なのは、私こそサマリアの女だ、と認めることです。男どもに依存しなかろうと、何かに依存してしまっている私たち。スマホでしょうか、夜ふかしでしょうか、お酒でしょうか、ジャンクフードでしょうか。しかし、イエスさまはそんな私たち、イエスさまというお方というものがありながら、イエスさまのことなどほったらかしにしてしまい、その結果飢え渇きをいつまでたっても満たせないで苦しみつづける私たちに、近づいてくださり、「わたしに水を飲ませてくれ!」と言ってくださいます。私たちがその御声に応え、イエスさまと交わりはじめるとき、イエスさまも私もともに潤され、満たされるという、驚くべきことが起こりはじめます。  そして教会とは、イエスさまの与える水に自分たちが潤される、また、イエスさまの与える水に人々を潤す、そんな生き方をともに目指すために、ともにみことばを学び、愛し合い、励まし合い、祈り合う共同体です。この交わりを大切にするとき、私たちはこの世の何者も与えることのできない喜びに満たされます。そのような私たちになりますように祈りましょう。

思い煩わないでください

聖書箇所;ピリピ人への手紙4章4節~7節   メッセージ題目;思い煩わないでください  もう、お亡くなりになった方ですが、小坂忠さんというゴスペルシンガーの方は、「勝利者」という曲を作詞作曲し、歌っておられました。発表は1997年ですから、もうゴスペルシンガーとしても押しも押されもせぬベテランとなっての作品です。この曲は日本テレビの「誰も知らない泣ける歌」という番組で2008年10月に紹介されていて、知る人ぞ知るよい曲なのですが、もちろんゴスペルソングです。  この曲の中で繰り返し歌われるフレーズは、私たちの胸を打ちます。「勝利者はいつも 苦しみ 悩みながら それでも前に向かう」。そうです。私たちはローマ人への手紙8章のみことばが語るとおり、イエスさまを信じる信仰を持たせていただいて、神さまによって圧倒的な勝利者とならせていただいています。しかし、それなら悩むことなど何もないのか? いいえ、悩みます。この曲を発表された頃の、当の小坂忠さんにしても、その前の年に、長年デュエットを組んできた相棒、岩渕まことさんが独立していかれるということを体験され、苦しみ、悩みの中にあったことがうかがい知れます。  そんな、悩む私たち。思い煩ってしまう私たち。それでも聖書のみことばは、何も思い煩わないでください、と語ります。悩んでしまう私たちは、それでもそのような主のみこころに従順であるために、どのような心構えで生きる必要がありますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  今日の箇所でパウロは、ピリピの聖徒たちに、3つの勧めをしています。この勧めは、「~なさい」と、命令形になっています。  第一にパウロは、いつも主にあって喜ぶことを命令しています。4節のみことばです。  ピリピ人への手紙が、別名喜びの手紙であることはもう何度も申し上げています。この短い手紙の中に、実に16回も「喜び」とか「喜ぶ」ということばが繰り返されています。この4節のみことばに至っては、短い中で2度も「喜びなさい」と繰り返し命令しています。  パウロはこれだけ「喜ぶ」ということを強調して、なおここで「喜びなさい」と命じています。そうです、「主にあって喜ぶ」ということは、それだけ大事なことです。しかし、私たちはただ喜んでいるわけではありません。「主にあって」喜ぶことが命じられています。「主にあって喜ぶ」ことと、普通に喜ぶこととは、いったいどこがどう違うのでしょうか?  まず、この「いつも喜びなさい」という命令は、聖書の外の箇所にも登場します。テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさい、よく知られたみことばです。  しかし、みことばは一方で、真逆とも思えるようなことを語ってもいます。ヤコブの手紙には4章9節には、こうあります。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ものすごいことばですが、これもみことばである以上、主からのご命令です。このヤコブの手紙のみことばのほうは、どう考えればよろしいのでしょうか?  これはやはり、前後のみことばから、その意味を知るべきです。前の節の8節ではこう語っています。……神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の人たち。心を清めなさい。  私たちは、主に近づくことがまず命令されています。なぜでしょうか? 私たちが主にお近づきすることは、主が喜んでくださることだからです。しかし一方で、私たちは主の御顔を避けて生きたくてたまらない、罪深く自己中心な存在です。厳しく命令されなければ、もはや主に近づこうとすら考えないほど堕落してしまっています。  主の御顔を避けてしまいたいという欲望は、善悪の知識の木の実を食べて、主の御顔を避けて逃げたアダムとエバの時代からすでに、人類の間で始まっていました。罪人である私たちは、神さまから身を避けたくて、避けたくて、たまらない、神さまになんて近づきたくない、近づいたりするもんか、そんな罪深い、堕落した存在になってしまっています。だからこそ私たち罪人は、主に近づきなさいという命令のことばに、あえて、無理にでも耳を傾け、いのちを得る必要があるのです。  しかし、私たちがなんとか主に近づいていのちを得ようとしても、その歩みを妨害するものがあります。それは、私たちの内側に巣食っている罪です。私たちは主に近づくことよりも、罪の暮らしのほうをまだ魅力的と感じて、罪にふけることをやめたくないのです。それほど私たちは罪深い存在です。  もし、罪にふけることをやめないならば、私たちは罪の中で滅びてしまいます。早い話が、死んでしまいます。しかし、神さまは私たちに「生きよ、なぜ死のうとするのか」と、愛の手を伸べてくださっています。その延ばされた御手を私たちは握る必要があります。  そのためにも、私たちは何としてでも、自分のうちにある罪の性質を除き去らなければなりません。心をきよくするのです。それでこそ私たちは、神さまのきよい御手を握ることができます。しかし、心をきよくすることは、自分の努力でなんとかなるものではありません。これもやはり、主の御前に出て行って、聖霊の導きと助けをいただきながら、罪の暮らしから救っていただくしかないことです。どうしても、神さまの御前に行くしかありません。それ以外に方法はありません。  だからこそ、私たちは罪と闘って七転八倒する必要があるわけです。私たちがまだ、罪の暮らしを慕い求める、罪にふけるその思いを、徹底的に切り落としていただく必要があります。それを切り落とすことは一時的には悲しいかもしれませんが、いのちを得るためには、なんとしてでも切り落とさなければなりません。そうです、喜ぶといっても、悲しみに変えるべき喜びとは、主の忌み嫌われる罪にふける喜びのことを指しているのであって、主にあって喜ぶ喜びではありません。  それでは、主にあって喜ぶ喜びとはどのようなものでしょうか? 実は、イエスさまがその喜びの本質を語っておられる箇所が聖書にあります。ヨハネの福音書、16章19節から24節のみことばです。  イエスさまはここで、イエスさまの弟子たちである私たちが受ける喜びについて語っていらっしゃいます。まず、イエスさまの十字架を経験する私たちは悲しみますが、やがてイエスさまの復活を経験して、私たちは喜びます。復活されたイエスさまは、もはや死なれることがありません。私たちの喜びは永遠に続くのです。  そしてその私たちの喜びが満ち満ちたものとなるときは、私たちが復活のイエスさまの御名によって、すべてのものを持っておられる御父に祈り求め、主のご栄光のゆえに与えられるときです。間違えてはなりません。私たちは自分がほしければ何でも、イエスさまの御名によって求めていいわけではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、そういう意味のことではありません。主が、私たちに必要と見ておられると、主にあって確信するものを求めるべきです。  その祈りが的を外しては、せっかくの祈りの時間が無駄になってしまいます。そうならないためには、どうすればいいでしょうか? 普段からみことばをお読みし、そしてお祈りすることです。教会において主にある交わりを兄弟姉妹と保ちながら、自分に対する主のみこころがどこにあるのか、ということを、よく知っておくことです。みこころがよくわからなければ、みことばをとおし、祈りをとおし、交わりをとおして、とにかくよく求める必要があります。そうすれば私たちは、みこころが何かを知ることができるようになります。  では、私たちは何を求める必要があるでしょうか? つい私たちは、お金とか、物とか、仕事の成果とか、そういうものを求めたりしてはいないでしょうか? もちろん、それはそれで大事です。必要ではないわけではありません。あればあるに越したことはありません。しかし、私たちが何よりも求めるべきは、「キリストに似た者となる」ことです。  キリストに似た者となることは、とても難しいことです。こればかりは、主の恵みがなければ不可能です。主が私たちに恵みを施してくださり、私たちをキリストに似た者としてくださることを祈り求めてまいりたいものです。私たちがキリストに似た者に変えられるならば、私たちには、愛やへりくだりやいつくしみといったすばらしい性質が増し加わってまいります。  そして、その取り組みは、ひとりの力でできるものではありません。教会という共同体において「ともに」取り組んでいくべきことです。  ともかくも、イエスさまの復活に思いを巡らし、主との祈りとみことばをとおした交わりによって、主のみこころにかなうように私たちを変えていただく……私たちはそのようにして、主にあって喜ぶものとされるのです。ともに主にあって喜ぶ喜びを体験してまいりましょう。  第二の命令です。パウロは、あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい、と命令しています。  寛容、ということについてともに考えてみたいと思います。コリント人への手紙第一の13章は「愛の章」として有名ですが、パウロが愛というものの性質をこの章において片っ端から列挙する箇所で、いちばん最初に挙げた愛の性質は、「愛は寛容である」ということです。そして聖書には、「神は愛です」ということばがあるとおり、この「愛」とは神さまのご性質そのものです。とすると、このみことばは、「神さまは寛容である」、「イエスさまは寛容である」ということになります。  イエスさまは、たしかに寛容なお方です。私たちは、神さまの正しい基準に満ちているこの聖書という本を手にしているならば、ついこの聖書のみことばを、人を罪に定め、さばくために用いてしまいがちなものです。しかし、私たちがもしそうしているならば、ほんとうにみことばの基準によって人をさばくことができるのは、イエスさまおひとりであるということを、忘れてしまっている、ということになります。  そのようにして人を罪に定める私たちも、さばき主としての権威をお持ちでありながら、じつは寛容なイエスさまによって、その人をさばく自己中心の罪を見過ごしにしていただいていることを、忘れてはなりません。イエスさまの寛容さは、人のすべての罪という罪を十字架の上で身代わりになって負われたということに、窮極的に現れています。  イエスさまの十字架を思うならば、私たちは人に対して寛容にならずにはいられないのではないでしょうか。ピリピ教会の聖徒たちが寛容であったのは、まさしく、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいたことを知っていたからです。  私たちが世に語るべきは、さばきでしょうか、それとも愛でしょうか? このみことばにもありますが、主は近いのです。このみことばが語られてから2000年間、いまだにイエスさまが再臨されていないなどといって、多寡をくくってはなりません。すぐにでもイエスさまは再臨されると考えるべきです。  そのことを知るならば私たちは、救い主イエスさまを伝えずにはいられないでしょう。しかし、それなら私たちは、どのようにしてイエスさまを伝えるのでしょうか? ここではパウロは、あなたがたの寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい、と語っています。  ここでも私たちは、キリストに似た者となることが求められています。世の中は、愛が冷え切っています。またとても暗いです。そのような世に対し、イエスさまの愛を現す生き方をするならば、私たちは人々を、永遠の滅びから永遠のいのちへと導く働きに、用いられることになるのです。  イエスさまの寛容さを現せるのは、イエスさまを心に受け入れている私たちだけです。世の人々は私たちを見て、十字架の上で窮極の寛容さを現されたイエスさまに出会うのです。世の人々がこの上なく寛容なイエスさまに出会えるように、用いられる私たちとなりますようにお祈りいたします。  第三の命令です。パウロは、思い煩わずに願い事を主に知っていただきなさいと命令しています。今日、いちばん強調したいメッセージでもあります。  6節のみことばです。……まずパウロは、思い煩ってはならない、と語っています。そう、私たちは、どうしても思い煩ってしまう存在です。私たちは生身の人間ですし、私たちが渡っているこの世もまた生(なま)ものです。だから私たちは、あれこれ悩むことは避けられないものです。  そういうわけで私たちは、漫画家のみなみななみさんの本のタイトルではありませんが、「信じてたって悩んじゃう」存在です。それでも主は私たちに、「何も思い煩うな」と招いておられます。  その招きの前に自分を差し出してみると、自分は普段、ほんとうにいろいろなことを思い煩っていることに気づかされるのではないでしょうか? なんでこんなことを悩んでいるのだろう? この問題はまだまだ、自分にとっては大きいなあ。  それでは、私たち神の子どもたちは、思い煩う代わりに何をするように招かれているでしょうか? 「願い事を神に知っていただく」ようにです。  しかし、私たちはこんなことを考えてはいないでしょうか? 「神さまは全知全能のお方だから、私が何を願っているか、もうご存知だ。祈る前から何でも知っている。」  それはたしかにそうにはちがいありません。しかし、だったら私たちは祈らなくていいのでしょうか? 祈らないことの言い訳にしてもいいのでしょうか?  私たちは祈りをことばにすることによって、神さまが私たちひとりひとりに実は何を願っていらっしゃるかを、具体的に知ることができます。あまりに肉的な祈り、自己中心の祈りは、聖霊さまが取り除かれます。そして、ほんとうにみこころにかなった祈りへと整えられ、ますますその祈りを、確信をもってささげるようになります。  願い事を主に知っていただく、祈るという行動は、「あらゆる場合に」とあるとおり、いつでも、どんなときでもです。そして「感謝をもってささげる祈りと願いによって」ささげます。だから私たちは、実際にことばにして祈る必要があります。  できればこのお祈りは、黙ってではなく、声に出してお祈りするとよいです。声に出すことで、私たちは自分が何を祈っているかがはっきりわかるようになります。  そして「感謝をもって」、これが大前提です。どういう感謝でしょうか? それは、「主よ、私の祈りを聴いてかなえてくださるお方でいらっしゃいますこと、感謝です」という、主への信頼に満ちた感謝です。私たちが思い煩わずに祈るには、主は必ず祈りをかなえてくださる、信頼すべきお方だと確信する必要があります。  7節のみことばは、そのように祈る者への約束です。お読みします。……すべての理解を超えた神の平安、お分かりでしょうか? 人がどんなに考えても、論理的に理解しようとしても、及びもつかないような平安です。  だから、どんな平安か、というより、だれが与えてくださる平安か、ということが大事になります。イエスさまは語っていらっしゃいます。ヨハネの福音書14章26節と27節です。……助け主なる聖霊が私たちのもとに送られることと、イエスさまが窮極の平安を与えてくださることが並べて述べられています。そうです、肉体をとられたイエスさまはここにともにおられなくても、神ご自身であられる聖霊がイエスさまから送られて、私たちとともにおられ、神さまだけが与えることのできる窮極の平安を与えてくださる……私たちは、三位一体の神さまがともに歩んでくださるすばらしい存在です。このことを忘れてはなりません。  時に私たちを取り巻く問題というものは、とても大きく見えることがあります。しかし、私たちの周りの問題と、主ご自身と、いったいどちらが大きいでしょうか? 言うまでもないでしょう。  私たちが不安や心配で心が押しつぶされそうになっているときも、主はともにいてくださり、私たちのことを心配してくださっています。私たちは、いつもともにいてくださる主と、いつでもともに歩ませていただいている、素晴らしい存在です。  私たちが喜ぶことが求められているのは、復活のイエスさまがいつでもともにいてくださり、私たちの祈りを聴いてくださるからです。私たちがその寛容な心を人々に知らせることが求められているのは、十字架の上で窮極の寛容を示してくださったイエスさまがすぐそばに来ておられるからです。私たちが思い煩わずに願い事を主に知っていただくことが求められているのは、私たちとともに歩んでくださる聖霊が私たちに窮極の平安を与えてくださるからです。  私たちは時に、神さまを見失って不安に陥ったり、心から喜びを失ったり、寛容さをなくしたりします。しかし、そんな私たちだということに気がついても、ああ、私って駄目だなあ、などと思わないでください。神さまは私たちのことを決して見捨てず、忍耐をもって、キリストの似姿に変わるように導いてくださっています。「思い煩わないでください。祈ってください。」神さまの御手にすがり、今日も主にあって喜びつつ歩んでまいりましょう。

一致を目指して歩むために

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1~3   メッセージ題目;一致を目指して歩むために  男子校で思春期を過ごした私にはいまひとつわからないことですが、女性の方は集団になると、けんかがつきものとか? たまに聞いて戸惑います。  では、これが、みなが主にあって仲良くなることをともに目指す共同体である「教会」ならばどうでしょうか? それなら、女性どうしのけんかに周りが手を焼くことなどないものでしょうか? しかし……今日の本文を見てみると、ピリピ教会では、ユウオディアという人と、シンティケという人の間で、何かあったらしい。ということがわかります。4節を見ると、「彼女たち」、そう、これは「姉妹たち」どうしのけんかです。なんともはや、女の戦いは教会という場でも繰り広げられていたのでありました。  あえて申しあげるまでもないことですが、一般的に教会という共同体は、どちらかというと女性が多く集まる場所です。それだけに、こういう「女の戦い」という問題は、下手をするとついて回ることにもなりかねないわけです。だから私たち教会は、この問題を賢く取り扱うことが必要です。そうするにはどうすればいいか、そのようにして私たちがなお愛し合う共同体として成長するには何が必要か、今日の本文から、ともに見てまいりたいと思います。  と申しましても、ピリピ人への手紙は、ほかの箇所にも言えることですが、これこれこういうケースにはこう対処しなさい、といった、具体的な説明のようなことを書いているわけではありません。私たちがこの書簡から読み取るべきは、むしろ、その場合場合に応じた「態度」を、神さまと人々の前でどう取るべきか、という、心構えのあり方ではないでしょうか。私たち教会を取り巻く状況は、時代によっても、地域によっても、一つとして同じものはありません。みことばから教えられていかに具体的に適用するかは、私たちにかかっています。  1節のみことばです。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めていますでしょうか? お読みします。  パウロはピリピ教会のメンバーのことを、私の愛し慕う兄弟たち、と呼んでいます。この「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられています。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけです。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることです。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っている、その愛を体感しているから、そのように兄弟姉妹を愛したい。これこそ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みです。私たちはともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっています。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越えます。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し慕っていると語っています。ただ愛するのではありません、慕っているのです。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということです。特別な関係です。主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはだれかのことを「慕う」ことができるようになります。  愛するということなら、主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることです。しかし、慕うということは、特別な関係へと導き入れられている者がすることです。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたいと思います。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるでしょうか? もし、そのような存在がいらっしゃるならば、それはとても素晴らしいことです。その関係を大事にしていただきたいのです。  その愛し慕えるほどになる関係は、意識してはぐくむものです。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだ、その姿をご覧ください。ヨナタンの心が、ゴリヤテを倒したダビデにしっかり結びついたとき、ヨナタンはダビデに対し、ほんとうの王になるべきはじぶんではなく、ダビデだ、と確信しました。そのように確信したしるしとして、王子を王子ならしめているとさえいえる力の象徴、王子の武器をダビデにあげて、君こそイスラエルのために戦う牧者だ、と、宣言しました。このできごとは、ヨナタンが、よろいかぶとを身につけて剣を振るって戦ったことなど皆無だったダビデに、正しい武器の戦い方を伝授するために手取り足取りヨナタンが教えてあげたことを彷彿とさせます。  そのように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたいものです。しかしもしかしたら、私たちには、そこまで愛し慕う対象はいない、と思うかもしれません。もしそうでしたら、どうかその対象を心から慕い求めていただきたいのです。異性ではなく、男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めてまいりましょう。先週ですが、私は牧会についてあることでアドバイスがほしくて、同い年で大学時代から付き合いがあり、牧師としては先輩にあたる、武安先生という方に電話しました。愛知県で牧会しているので、距離的にはとても遠いのですが、いざというときには電話のやり取りをする仲、これ、愛し慕う関係だなあ、と思います。  1節に戻ります。パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばにも、ほかのピリピ書のみことばでもよく用いているように、「喜び」ということばを用いています。ピリピ人への手紙が喜びの手紙なのは、それはピリピ教会こそが、パウロの喜びそのものだったからです。  先ほどから申していますが、私たちに愛し慕う対象がいたとします。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるでしょうか? ちょっとためらってはしまわないでしょうか? まあ、あんまりそういうふうに表現することは日本ではふつうしませんからね。しかし、パウロは心からそう言えたのです。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びでした。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じです。私にとりましても、うちの娘たちは目に入れても痛くないほどかわいい存在です。親ばかと言われようと平気です。そのとおり、いかにも私は親ばかです。これは、子どもを持つ親ならば、だれしもそう思うのが自然でしょう。子どもを持つ者は、御父がご自身の子どもたちである私たちに向けられた愛を、そして、ひとり子イエスさまに向けられた愛を、ほんの少しでも体験できる、という、素晴らしいポジションにおります。  定説として、パウロは結婚していなかったことになっています。ということは、子どももいなかったことになります。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注ぎました。それは、ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったからです。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いています。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことですが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わります。  そしてふつう親ならば、喜んで子育てをします。子育ても大変な労力を必要としますが、親ならばその労を惜しみません。それは、子どもの存在そのものが喜びだからです。パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げました。それは、主を愛していたからですし、主から自分に割り当てられた羊の群れがたまらなく愛おしかったからです。羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げました。  子育てをするとき、問題になる場合があるとしたら、それは、子どものためにならず、親のエゴを押しつけてしまうような場合でしょう。子どもを過度に甘やかすことも、がみがみと叱りすぎることも、元をただせば子どものためを思ってしていることなのか、それとも親の自己満足のためにしていることなのか、よく考えてみる必要があります。私も偉そうなことは言えません。私も子どものためを思って行動しているようで、ほんとうのところ、親である自分の虚栄心のために子どもを操ろうとしているのではないか、問われる思いになることが多くあります。まだまだ、子どもの存在そのもので喜びを満たすことを、私は学ぶ必要があります。  パウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまりません。「冠」と呼んでさえいます。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンです。HTマークなら阪神ファン。間違っても、阪神ファンはYGマークの帽子はかぶりませんし、逆もまたしかり。 冠だったらどうでしょうか? ここでいう冠は、お祝いの時にかぶる花の冠、あるいは、マラソンの勝者がかぶるような月桂冠。栄光あふれて冠をかぶります。彼らは間違っても、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはなりません。 逆に言えば、マラソンの敗者とか、お祝いにふさわしくない人は、そういう冠をかぶってはいけません。当たり前です。しかし考えてみましょう。私たちは果たして、冠をかぶらせていただくにふさわしい人など、いるものでしょうか? みんな罪人ではないですか。ふさわしくないったらありゃしないわけです。そんな、ふさわしくない私たちが本来かぶるべきは、「灰」です。しかし、神さまは、私たちのことを、イエスさまの十字架をもって救ってくださいました。神さまご自身が救ってくださり、きよめてくださった存在に似合うものは「灰」ではないと、神さまは私たちに、灰の代わりに冠をかぶらせてくださいました。  そして、ここでパウロは、ピリピ教会を「(私の)冠」と呼んでいます。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのでしょうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出しましたが、そもそも、われら終わりの日の勝者を「月桂冠」を与えられるスポーツ選手に例えたのは、パウロです。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお開きください。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べています。何のために自制するのでしょうか? コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その指導者としてふさわしくあるように自制するのです。また、何を目標とするのでしょうか? 信徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標です。その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さないのです。これぞ、牧者のあるべき姿です。 そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけです。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいますが、その冠がどんなものか、イメージできますでしょうか? パウロは、教会の兄弟姉妹であるとはっきり語りました。  救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのです。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っていますでしょうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ合い、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」です。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのです。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めています。教会は、締まりも必要ですし、秩序も必要です。創造主もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられています。 さて、そこでパウロは、ピリピ教会がしっかりと主にあって立つために、ひとつの提言をしています。2節、3節のみことばです。 まず2節からまいりましょう。ユウオディアとシンティケは、さきほども申しましたが、このピリピ教会の女性の信徒でした。しかも、このようにわざわざパウロが名前を出すくらいですから、教会に少なからぬ影響力を及ぼす姉妹だったと推測されます。ピリピ教会はルーツからして、紫布商人ルディアが創立メンバーでしたから、女性の力が大きかったことは充分考えられます。 そして、その姉妹たちが、「主にあって同じ思いになってください」と言われています。何があったのでしょうか? そうです、どうやら彼女たちは仲たがいをしていたか、ひとつの教会にありながら別々に行動していたか、そういう行動をしていたことで、その不一致が教会によくない影響を及ぼしていたのでした。 これは、ありえることです。聖徒というものはそれぞれが神さまとの交わりを持ち、示されるみことばも、それをそれぞれの生活に適用する方式も、みな異なっています。それは当然のことです。 そうは言いましても、そのように自分に示されたみこころが絶対だとばかりに振る舞い、ほかの兄弟姉妹がそれに同意しなかったり、従わなかったりしなかったら機嫌を悪くしたり、ひどいときには仲間をつくって教会を分裂に追い込んだり……そうなったら、教会は教会として立ち行かなくなります。 教会を健全に保つには、教会の中心メンバーが一致している必要があります。ただ、それぞれの性格や価値観のちがいのせいで一致できないでいるならば、そのちがいばかりに目を留めていると、いつまでたっても一致することはできません。 パウロは何と語っていますでしょうか? 「主にあって同じ思いになってください」と語っています。彼らはいろいろ一致できない点があるとしても、ひとつ、窮極的に一致している部分があります。それは、同じ主につながっている、ということです。それぞれが主との強力な交わりを保ち、その主との交わりを保ちつつお互いに近づいていけば、必ず一致できるわけです。私たちもこのような一致を目指す必要があります。そのためにもまず、主との交わりをしっかり保つ必要があります。そうすれば一致します。 そうは言いましても、パウロ自身も分裂というものを体験していました。宣教チームにいたマルコの処遇を巡って、自分にとっては師匠のような存在であったバルナバと対立し、その結果、別々のチームを組んで、まったくちがった場所でそれぞれが宣教することになりました。しかしこれは、一見すると分裂のようでも、その結果、バルナバとパウロ、それぞれ充分に有能なリーダーが率いる宣教チームが、これまでの「二倍」働いたことになるので、結局、素晴しい働きとなりました。 しかし、ユウオディアとシンティケの不一致の場合は、パウロとバルナバのような生産的なチーム解散をなんら生み出すものではない、これを放っておいたらピリピ教会は弱体化する一方だと、パウロは判断しました。どうしてもしかたなく不一致に陥ってしまった場合は、主のご介入と回復といやしを求めるのみですが、まずは私たちが、主と強力に結びついて、互いを自分よりもまさった存在であると心から思わせていただいて、互いに一致していくべく努める必要があります。 3節には、特定の人物が匿名で登場します。この手紙を優先的に受け取って読めるポジションにあった、パウロなきあとのピリピ教会の中心人物でしょう。この人物にパウロは、ユウオディアとシンティケが主にあって正しい歩みができるように、助けてあげてほしい、と懇願しています。それは、クレメンスをはじめ、パウロの同労者たちとともに、福音を広めるために力を合わせて戦ってくれたからだ、というわけです。 みことばを宣べ伝える働きに献身するのは、実に素晴らしいことです。しかし、そのような熱心な働き人には、罠が待ち受けています。その宣教の働きの結果、例えば人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるとか、人が新たに働き人として献身するとか、そのような目に見える実を結んだ場合、それが自分の手柄のように思いこんでしまう、ということです。そうなった場合、自分の学んだ神学こそ素晴らしく、自分の身に着けている宣教のスキルこそ素晴らしいという、ともすればほかの働き人を認めない、独善的な考えに陥ってしまいます。 ユウオディアとシンティケも、宣教という働きのためにパウロと心をひとつにして戦い、多くの実を見ました。そんな大事な働き人だけに、くれぐれも主にあって一致することを忘れないでほしい……そのようにパウロは語っています。 私たちは、お互いが素晴らしい働き人です。ここでパウロが語っているユウオディアとシンティケは、いまここにいる私たち全員です。パウロが愛してやまないピリピ教会は、いまここにいる私たちです。私たちも主にあって一致することが求められています。 さて、あらためて1節に戻ります。パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのでしょうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのでした。 そうです、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまです。それほど私たちはイエスさまに愛され、慕われてています。イエスさまはいつも、私たちのことを思っていてくださいます。だからイエスさまは私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださいます。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださいます。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを飾るのです。その日を目指して、今日も進むのみです。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在です。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができるのです。なんと麗しいことでしょうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合うような気持ちで、今日も、そしてこれからも、私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、ともに歩んでまいりましょう。

私たちの目標

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章1節~16節 メッセージ題目:私たちの目標  今年9月、東京で実に34年ぶりに、世界最大の陸上競技の祭典、世界陸上が開催されます。やはり気になるのは日本人の選手ですか、マスコミでは名前を挙げてその動向に注目しています。力強く走る、跳ぶ、投げる……この姿は、見ているだけで人々をわくわくさせます。  今回のメッセージのタイトルは「私たちの目標」とつけさせていただきました。本文13節と14節のみことばからつけました。このピリピ人への手紙の書かれた時点でもローマ帝国には体育大会がありました。古代オリンピックです。オリンピックの花形といえばマラソンや短距離走のような走る競技ですが、古代のオリンピックにも、短距離走、中距離走、長距離走が種目として存在していました。そのように、競技として、走る、ということは、このピリピ人への手紙の時代からローマ帝国において広く普及していたというわけです。  選手は走ります。当たり前です。しかし、彼ら選手はただいっしょうけんめいに走っているわけではありません。どんな選手もゴールを目指して、コースを外れないで走ります。どんなに速く走れたとしても、コースを外れてあさっての方向に行く人は失格となります。同じように私たちも、明確なゴールに向かっていっしょうけんめい走るように生きるから、人生は美しいし、意味があるのです。さあ、それでは、私たちが走るように生きるとはどのようなことでしょうか? 今日の本文、ピリピ人への手紙3章1節から16節までをテキストに、ともに学びたいと思います。  まずは1節からまいります。……パウロはここでも「喜びなさい」と語っています。しかし、こうして何度も「喜びなさい」と語るのは煩わしいことではない、むしろあなたがたの安全のためになることであると語っています。  喜ぶことが教会の安全のためになるとは、どういうことでしょうか? 2節以下をお読みしますと、何に対して安全になるのかを語っています。まずは2節です。……。  ここでパウロは、3種類の人間から身を避けるようにと警告しています。  まず、犬、と言っています。みなさんの中で、ワンちゃんをペットにしていらっしゃる方には申し訳ないのですが、聖書は、しばしばこの「犬」という動物を、否定的な存在の象徴としています。「野犬」とでも言えばわかりやすいでしょうか。狂暴な野犬はとても手なずけられるようなものではありません。獰猛すぎたり、悪い病気など持っていたりしら、噛まれたらいのちがありません。そういうものはひたすらに避ける必要があります。あるいは、野犬でなかったとしても、組長さんの番犬みたいに、恐い人間の飼っている大型犬などからも身を避ける必要があるでしょう。  要するにこの「犬」とは、善良な兄弟姉妹を食い荒らすような存在のことを指します。以前から「新使徒運動」というものが問題になっていますが、これは一種の形を変えたシャーマニズムで、特定の働き人を使徒クラスの特別な「主の器」に祭り上げます。このムーブメントは教団教派を横断して、組織すらもつくらないで教会に入り込んで食い荒らす分、こんにち社会問題になっている「トクリュウ」の教会版と言えるかもしれません。私たちはこのような攻撃に対して、丸腰であってはなりません。  悪い働き人にも気をつけなさい、とあります。これは、内部から起こる問題です。教会で働く働き人は本来、主の素晴らしさを現すために自分自身を差し出、教会にてへりくだって奉仕すべきです。しかし悪い働き人は、自分が偉くなるために教会を利用します。教会の中でひたすらに威張りたがり、みんなから先生と呼ばれたがります。あるいは、タラントを土の中に埋めたしもべのように、なまけて何もしません。教会の人たちはみんなやさしいと、そういう悪い働き人を許容してしまうことにもなりかねないわけです。  肉体だけの割礼の者。これも気をつけるべき対象です。割礼は、ユダヤ人の男性が受けるものであり、割礼を受けているということは、自分は主の民であるという自負心の強い人であるわけです。  しかしそのことは、実際に救っていただいて主の民に加えていただいているかどうかとは、何の関係もありません。だが、名目上、主の民のように振る舞っているならば、うかうかしているとそういう人を、教会は同じ主の民として受け入れてしまいます。するとこれまたうかうかしていると、イエスさまの十字架によってのみ救われるという正しい福音が、そういう者たちによっていつの間にかゆがめられてしまう、ということが起こってくるわけです。やはり気をつける必要があります。  肉体だけの割礼の者、それはこんにちで言えば、洗礼を受けたという事実だけにすがっている凡庸なクリスチャン、と言えるでしょう。そういう存在は長期的に、教会という共同体を病ませることになっていきます。  では、そういう者たちに気をつけることと「喜ぶ」ことが、どうつながるのでしょうか? 3節です。……ここに、パウロやピリピ教会のメンバーのようなクリスチャンの特徴が3つ書かれています。  まず、御霊によって礼拝する人たちです。私たちは、御霊に満たされ、御霊に導かれてこそ、ほんとうの礼拝をささげることができます。私たちは、聖書をお読みし、また、聖書にのっとった信仰告白を賛美という形でおささげしますが、そのとき、心からそのみことば、また信仰告白に同意することです。そのように、私たちが謙遜に自分自身をみことばに合わせ、へりくだるように、御霊は働き、私たちをまことの礼拝者へとつくり変えてくださいます。そのようにして御霊によって礼拝するならば、私たちは自己中心を捨て、主中心の生き方へと導かれてまいります。ゆえに私たちは、御霊の満たしと導きをつねに求めるものです。  第二に、キリスト・イエスを誇り、とあります。肉体だけの割礼の者は主の民であるように見えても、キリスト・イエスとつながってはいません。イエスさまこそが道であり、真理であり、いのちです。イエスさまを通らなければ御父のもとに行くことはありません。人間的な割礼などでは、御父に認めていただくことなどできないのです。私たちの誇りとすべきはイエスさまのみです。私たちはもはや自分が生きているのではなく、キリストがうちに生きている存在です。そのような者である以上、キリストを誇りとして生きるのは自然なことであり、また当然のことであります。  そして第三に、肉を頼みとしません。人はだれしも、自分の自慢したいものを持っているものです。そういうものが自分の人生を支えていると人は思ってしまいがちなものですが、しかし、イエスさまに比べれば、学歴も、頭のよさも、豊富な知識も、地位も、名誉も、財産も、みな取るに足りないものです。  そのように、御霊によって礼拝をし、キリストを誇りとし、肉を頼みとしないならば、そのような人はどうなるでしょうか? 「喜ぶ」者へと変えられてまいります。御霊に満たされた礼拝は私たちに喜びをもたらします。  キリストを誇りとすることは私たちに喜びをもたらします。肉を誇りとするならばその誇りは一時的ですが、その誇りを捨てる、主にある喜びを身につけさせていただくならば、私たちの喜びはいつまでも続きます。そのような喜びが私たちにあるならば、私たち教会は悪い者に隙をつかれておかしくなることはありません。いや、むしろ、彼らのほうから私たちに近づいてこなくなります。  さてパウロは、肉を頼みとしないと言いましたが、それでも人である以上、肉においても頼みにしようと思えばできることを述べています。4節から6節までをお読みします。……ユダヤ人として、実に完璧です。しかも、キリストの教会を迫害するほどの熱心を示したとは、宗教的には実に優れた人でした。  しかし、宗教的にすぐれた人と見なされることと、主から認めていただけることとは全く異なることです。7節のみことばです。  私たちも誇りとする地位や名誉、家柄があるでしょう。しかし、それらの、人から見れば大事に見えるものが、イエスさまを信じ従う上で邪魔になるならば、それらはどんなにすばらしいように見えても、損なのです。  私の友人のつくった賛美の一節に、このようなことばがあります。「あなたの力求めていたのに いつの間にか小さな自分を誇っていた」自分なんて、主の偉大さから見れば小さなものでしかありません。だが私たちは、そのような存在とされていると知っていながら、なんとこの小さな自分のことを誇ってしまうものでしょうか。自分のことばかりが大きく見えて、もっと大きな存在である主のことがまったく見えなくなってしまいます。そんな私たちですから、神の前には自分など小さいと認め、自分に関するものなどみなキリストに比べれば損であると心から認める必要があるわけです。  しかし、パウロの語る、人の持つべきキリストの誇りはそれにとどまりません。8節と9節です。自分にとってよいと思えることどころではありません。すべてのものをちりあくた、早い話が、ごみ、と思うということです。  では、大事なものは何でしょうか? それは、ここでは3つの望みを持つことであると語っています。まずは、キリストを得る望みです。私たちはすでにキリストを心に受け入れているという点では、キリストを得ています。しかし、私たちはなおも、自分に心の中心からキリストを降ろし、そのかわりに自我が居座り、罪を犯してしまうものです。このような生き方から、キリスト中心の生き方へと私たちはより変えられ、やがて天に召されたならば、私たちはもはや何にも妨げられることなく、キリストと全くひとつになります。キリストをすでに得ている私たちは、終わりの日に、キリストを完全に得ることになる、私たちはその望みをいただいているのです。  次に、キリストにある者と認められる、という望みです。私たちがキリストを持つのと同時に、キリストが私たちを持ってくださるのです。キリスト・イエスさまがそのうちに、私たちを保ってくださるのです。しかし、私たちがキリストの中にあるということは、だれが認めるのでしょうか? 教会の人たちが認めてくれればそれでいいのでしょうか?   そうではないのです。イエス・キリストを信じる信仰により、主が認めてくださるのです。イエスさまはおっしゃいました。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。私たちはひとたびイエスさまを信じ受け入れたならば、イエスさまは決して離れ去ることはありません。  しかし私たちはまだ肉が生きていて、キリストにある者でありながらも、時にキリストから離れて罪を犯します。しかし、だからといって、キリストはそんな私たちのことをお見捨てになることはありません。私たちは終わりの日に、もはや完全にキリストから離れ去ることのない、天国における永遠のいのちを味わいます。このことをほかでもない、主が認めてくださっている、私たちはそう信じ受け入れて歩むのです。  第三に、律法による自分の義ではない、つまり、自分が律法を守り行うことで主に正しい者、罪なき者と認めていただくのではなく、信仰に基づいて神から与えられる義、つまり、神さまが私たちのことを一方的に、正しい、罪がないと認めてくださる、という望みです。パウロは、律法を守り行うことで認められようとすることを、ここで「自分の義」という表現をしていますが、そういう人は正しさの基準が「自分」になっているわけです。  しかし、主の御目から見れば、自分がどんなに正しい行いをしていると思っていても、人は罪人です。そのような罪人が「自分の義」を誇ってみたところで、それは罪人の基準で誇っているにすぎません。要するにそれは罪でしかありません。私たちが義である、すなわち正しいとされることは、主があわれんで正しいと認めてくださる以外にありません。そして、そのように憐れんでいただく道は、イエスさまが自分の罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じ受け入れること、これしかありません。  しかし、キリストを信じ受け入れるということは、ただ単に口で唱えるように「信じます」と言いさえすれば、自動的に永遠のいのちが与えられるなどと考えてはなりません。10節、11節のみことばをお読みします。……イエスさまをほんとうに信じ受け入れたならば、その先には、キリストの苦難と十字架、そして復活にあずかる生き方が待っています。しかしそれは単に苦しんで終わるものではなく、神さまのみこころに従いゆく、この上なく喜ばしいものです。  さて、私たちがイエスさまを信じ受け入れているならば、救われていることは確かなことですが、それで充分なのでしょうか? もはやそれで信仰生活は卒業なのでしょうか? そうではありません。まずは12節です。……これが、私たちの今の状態です。例えるならば、ダイヤモンドのような宝石を、原石で掘り出したままのような状態です。たしかにその原石は、それそのものでもものすごい価値があるのはたしかですが、精錬していないと、見た目にはただの石ころです。宝石としての用をなすには、精錬されなければなりません。同じように私たちも、たしかにキリストという素晴らしい宝を受け入れた器ですが、キリストの輝く生き方を目指していかないと、私たちはただの人たちと見分けのつかない人になってしまいます。  私たちはどう生きる必要があるでしょうか? 13節と14節です。……私たちがみな終わりの日にともにキリストの似姿として完成され、再び来られるキリストの御前に恥ずかしくなく立つ、よくやった、よい忠実なしもべだ、と主にほめていただく、そのことを私たちは目標として、日々走りおおせるものとなる必要があるでしょう。この目標を目指して、一心に走るのです。  もしこの歩みを人間的に捉えたならば、果てしなく厳しい歩みに思えるかもしれません。だれがそんな歩みができるものか! そう言いたくなるでしょう。しかし、私たちにとっては、決してしんどい歩みではありません。イザヤ書40章28節から31節までをお読みしましょう。……ちゃんと、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、とあります。それは、神さまが恵みによってそうさせてくださるのです。  そして、このように目標を目指して一心に走る歩みは、喜びの歩みです。さきほど申しましたことの繰り返しのようになりますが、このように、まことの根拠に根差して喜んで歩んでいるならば、教会を破壊する者たちである、犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者に象徴される名前だけのクリスチャンを見分け、そのような者たちから教会を守ることができるようになります。いや、私たちが救いを心から喜んでいるならば、彼らのほうから教会を敬遠するようになるでしょう。彼らに似合うのは暗闇であって、光ではないからです。  ですから私たち教会は、もし、イエスさまの救いを得ているという喜び以外のものでお互いがつながっているならば、悪い者たちに付け入るすきを与えてしまうことになります。私たちはただ一緒にいたら楽しいからつながっているのでしょうか? 私たちのつどいは人間的なものであってはならないはずです。私たちは主を喜び、主によってつながらせていただく共同体である必要があります。  私たちはほんとうの意味で喜んでいますでしょうか? 心を点検していただきましょう。また、私たちはこの日々の歩みを、あたかも賞を得る喜びを心に描いて節制に節制を重ねるランナーのように、自分の肉を十字架につけつつ、まことの喜びを目指して御霊に導かれて歩んでいますでしょうか? この喜びの歩みは、ひとりでできるものではなく、教会がともに取り組むべきものです。互いに励まし合って、この喜びの歩みを終わりの日に至るまで全うする私たちとなることができますようにお祈りいたします。

死んではいけない

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章25節~30 メッセージ題目:死んではいけない  先週はテモテのことを学びました。本日、25節以下、エパフロディトのことに話は移っていきます。  いちおう、先取りして申し上げますと、エパフロディトは本日の本文によれば「死ぬほどの病にかかりました」。主にあって素晴らしい働きをする人、そういう人が重い病にかかるということは、往々にしてあるものです。ときには、いのちを落とす人がいます。もちろん私たちは、そのような悲しむべき状況にも主のみこころを認めるべきなのですが、しかし一方で、そのような病に陥ってしまった働き人がいるならば、その人のために熱心に、とりなして祈る必要があります。  もし仮に、私たちの群れに、そのような、病に陥った人が現れたとしたら……考えるだけでも悲しいことですが、ここは想像力をたくましくして、そのようなみこころが示されたらと考えつつ、エパフロディトのことを学んでまいりたいと思います。  まずは25節をお読みします。……エパフロディトは何としても早くピリピ教会に送らなければならない、という、パウロの強い決意がにじみ出ていますが、この25節では、パウロはエパフロディトのことをいろいろなふうに紹介しています。兄弟、つまり他人ではない、あたかも血を分けた兄弟のような存在、身内のような存在であると言っています。  教会では同じ信仰を持つ信徒のことを、兄弟姉妹と呼びます。これはただ単なることばの綾ではありません。兄弟、というのは、「血を分けた兄弟」という言い方があるように、同じ親に由来する血が流れていて、ゆえにどんなに「兄弟は他人の始まり」ということわざがあろうとも、絶対に他人になどなれない存在です。  信仰による兄弟姉妹はというと、同じ御霊が流れている人です。「血を分けた兄弟」ならぬ、「御霊をともにする兄弟」。ある意味、こちらの方がよほど「兄弟」としての絆が深く、また強いのではないでしょうか。  同労者、とは何でしょうか。読んで字のごとく、同じ働きをする人、というより、同じ働きに使命を共有して献身している人、という意味になるでしょう。ここで、パウロがエパフロディトのことを同労者と呼ぶのは、主のからだなる教会を立て上げるという同じ目標を掲げてともにチームを組んで労する仲間、ということです。  戦友、戦いをともにした友。私は国民皆兵の韓国で長いこと生活しましたが、韓国の男どもが寄り合うと、出てくる話題はきまって、軍隊のことです。私の世代より上の男たちは、3年は家から離れて軍隊の生活をするものと決まっていました。もちろんそれは、いつ北から攻めてくるかわからない中で、南の韓国を守る使命があるからですが、その絆はやはり、強力なものがあるようで、どの部隊にどの時期に属していたかを問わず、軍隊の話題は、韓国の男たちの間では鉄板の話題です。このときばかりは、みな、戦友という気持ちになるのでしょう。  パウロもまた、その使徒としての歩みは戦いの連続でしたし、今はというと、獄中にあってやはり戦いを体験しています。エパフロディトは、パウロがいま体験しているその戦いに、同じ心になって臨んでいる、パウロにとって友と呼ぶべき人、というわけです。  あなたがたの使者……そう、エパフロディトは、ピリピ教会からパウロのもとに送られた人でした。パウロが窮乏していたときにピリピ教会を代表して、パウロのもとに赴いて仕えてくれた、ピリピ教会の心とも呼ぶべき存在です。このエパフロディトのことを、早く、ピリピ教会に送らなければというわけです。  それでは、エパフロディトはピリピ教会とどのような関係を持っているのでしょうか? 26節です。……まず、エパフロディトは、ピリピ教会のすべての兄弟姉妹のことを慕い求めていました。とても会いたい、そして交わりを持ちたいと願っていたのです。しかし、それがかなわなかった問題が彼にはありました。それは、病気にかかったということでした。エパフロディトは病気ゆえに、ピリピ教会を訪問することができなくなったばかりか、自分のいのちさえ生死の境をさまよったほどでした。また一方で、この病気のことがピリピ教会の兄弟姉妹に伝わったことを、気にかけてもいました。 しかし、エパフロディトはどうなったでしょうか? 27節です。……ここで、主はだれのことをあわれんでくださったと書かれているでしょうか? まずはもちろんエパフロディトです。主は、彼のことをあわれんで、いやしてくださいました。  私たちの肉体は不完全なものであるゆえに、病気にもなります。しかし、病んでいる状態は主のみこころにかなうものではありません。主は、私たちが健やかであることを願っていらっしゃいます。私たちが病んだならば、私たちは病のいやしを切に祈り求める必要があります。また、遠慮なくお医者さんにかかる必要があります。  私たちは肉体が病気になるとき、とかく、気落ちして、このまま死んでしまえば楽になるのに、などと思ったりしないでしょうか? しかし、それは神さまのみこころではありません。私たちは生きてこそ、神さまの恵みをこの地上でともに味わえますし、生きてこそ、神さまのご栄光を顕すという、最高の生き方をさせていただけるというものです。  しかし、サタンはそのような神さまの大きな恵み、大きな愛を感じることも、感謝することもできないように、いま置かれている厳しい状況の方がよほど大きいかのように、私たちを間違った考えへと導こうとします。私たちはそんなサタンの誘惑に屈してはなりません。しかし、私たちはとても弱く、その誘惑に屈したほうがよほど楽だ、などとだまされてしまいます。だからこそ、そのような地獄の沙汰から守られ、救い出されるように、お互いのために祈ることが大事になるのです。  エパフロディトはといいますと、死ぬほどの病という試練の中にありました。しかし、エパフロディトにまだこの地上での使命を与えておられた主は、彼のことをいやしてくださいました。そしてこのいやしによって、パウロもまたあわれみをかけられました。兄弟、同労者、戦友と、はばかることなく呼ぶことのできるエパフロディトが死にそうになるなんて、パウロはどれほど悲しかったことでしょうか。苦しかったことでしょうか。  しかし、エパフロディトがいやされたことは、パウロがこの悲しみに沈んでしまうことがないように、パウロのことも主があわれんでくださったということでした。  このことは何を教えていますでしょうか? 私たちの間で兄弟姉妹がいやされることは、私たちもまたあわれみを受けることである、ということです。もし、私たちの間で病を持つ人がいるならば、その兄弟姉妹のために心からお祈りすることが大事です。主がその祈りを聴いてくださり、いやしてくださるならば、私たちもまたとない慰めをいただくことになります。  だから、私たちもともにあわれみをいただくために、弱さや痛みを抱えている兄弟姉妹をおぼえてお祈りすることが何よりも大切です。私たちにはお互いの痛みが見えていますでしょうか? その痛みが、わが痛みとして伝わっていますでしょうか? 苦しくてたまらないでしょうか? そのときこそ、私たちは祈るべき時です。   28節をお読みします。……エパフロディトはいやされました。このエパフロディトに会ってほしい、パウロはピリピ教会の信徒たちに対して、心からそう願っています。パウロもまた、かつてピリピ教会がその教会の心を送るように、パウロにエパフロディトを送ったように、今度はパウロも自分の心のようにエパフロディトをピリピ教会に送るのです。  28節、29節、この両方を合わせ、「喜び」ということばが2回登場します。主の働き人と再会すること、交わりを持つこと、主のいやしを実際に目にして主をほめたたえること、いずれも、「喜び」です。これほど喜ばしいことはありません。これは主にあって喜ぶことであり、この世の求めるような、一時的で長続きしない喜びとは根本的に異なります、私たちの求めるべき喜びが、主にある喜び、いつまでも続く喜びであることは、申し上げるまでもありません。  29節の後半から30節までをお読みします。……エパフロディトを尊敬しなさい、と、パウロはピリピ教会に奨めています。それはなぜか、キリストの仕事に献身して、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからだというのです。ここで、エパフロディトの病気が、実は主に献身した結果引き起こされたものだったことがはっきりします。そしてそれはまた同時に、本来ならばパウロがピリピ教会に対してなすべき働きを、エパフロディトがパウロの肩代わりをした結果もたらされた病気でした。 これで、パウロが心を痛めたほんとうの理由がわかってまいります。教会を牧する働き、宣教の働きは、リーダーひとりの頑張りでなんとかなるものではありません。リーダーがひとりで働けなくなるならばその分、リーダーの意を汲んで働きを肩代わりする働き人が必要となってきます。しかし彼らが主に熱心に献身するあまり、健康を害したとしたらどうでしょうか? そのような働きに遣わしたリーダー、またその働きの対象である共同体は大きな悲しみを背負うことになります。ここでは、エパフロディトの重い病に対し、パウロとピリピ教会が重い責任を担うことになるわけです。  実はパウロは、この手紙を書く以前、宣教の働きを展開していたとき、その働きの中で、ひとりの人が肉体の弱さのゆえにいのちを落としてしまった、そのようなことを経験しています。使徒の働き20章7節から12節です。……この最後、「ひとかたならず慰められた」という表現に注目しましょう。主のみことばに夜を徹して耳を傾ける素晴らしい時間に人が死ぬなんて、トロアスの共同体に訪れたショックと悲しみはどれほどのものだったことでしょうか。パウロも、ユテコを抱き起したときに感じたものは、おそらく重い責任だったにちがいありません。いったいなんということだ、夜を徹して長く語った結果、人が生きるどころか、死ぬなんて!  しかし、ここにも主はあわれみを成してくださり、ユテコを生き返らせてくださるとともに、トロアスの共同体に豊かな慰めを与えてくださいました。夜を徹してみことばに耳を傾けようと努力した末に死んだユテコが生き返ったように、パウロに代わって宣教の働きに献身して重病にかかったエパフロディトは、死の淵から生還しました。このような働き人は、宣教に献身するあまり投獄されたパウロ同様、尊敬をもって教会に迎えるべき人であるというわけです。私たちはお互いが、宣教に献身している兄弟姉妹です。お互いを尊敬しつつ歩んでまいりましょう。  主との強い結びつきの中で、人は主からのかけがえのない使命を与えられ、信仰の友とともにその使命を果たす……エパフロディトもそうでした。これが、私たちのあるべき姿です。主との交わりを求めましょう。主からの使命を求めましょう。そして、その使命をともに果たす友を求めましょう。主は必ず私たちの働きを通して、ご栄光を現してくださいます。  私たちはその使命を見失ってしまうならば、生きているようでも死んでしまうことになります。私たちはけっして死んではいけません。しかし、私たちが主との交わりを保ち、主にある交わりをお互いが保つならば、私たちは主からの使命をわがうちに保つことになり、私たちは生きるのです。生きる喜びに燃えるのです。そのようにして、決して死んではならない私たちが生きるものとされるとき、主は私たちをとおして、ご栄光を顕してくださいます。

働き手の模範テモテ

聖書箇所;ピリピ人への手紙2:19~24  メッセージ題目;働き手の模範テモテ  私の神学校時代、いちばん仲のよかった友だち、それは、フィリップという韓国系アメリカ人でした。背が低くて小太りの、ブルドッグのようにずんぐりむっくりした体形で、女の子の神学生に人気がありましたが、その人気は言ってみれば、「『男はつらいよ』の寅さんが女の人に好意を持たれる」というレベル……あ、これ以上何か言うと悪口になりそうでやめときますが、まあ、そういう、いい奴でした。  そのフィリップは、アメリカ育ちだけあって、とかく名前を覚えにくい神学生たちに、アメリカ式の名前をつけることをよくしていました。日本人にとっても、よほどの韓流ファンじゃなければ、韓国人の名前は覚えにくいと思いますが、アメリカ育ちにとってはなおさらそのようです。「ヒョンジュ」さんという女子学生には「パール」、同じく女子学生の「ユンジン」さんは「ユニス」、いつも2人で一緒にいた若い神学生「ソンウン」と「ヨンファン」は、「トム」と「ジェリー」……。それで私はフィリップに尋ねました。なら、俺はなんて名前になるんだい? するとフィリップは言いました。「ん-、トシは『ティモシー』だと思うねえ。」  なるほど、と思いました。ティモシーとは「テモテ」ですが、テモテの信仰は、父親譲りというよりも、ユダヤ人の婦人であった母親のユニケ、そして母方の祖母であったロイス譲りだったことを、パウロは書簡の中で明かしています。私はといいますと、もともと母が先に信仰を持って私のことを教会に連れていったわけですし、私がクリスチャンになる前に、祖母の若谷はるがクリスチャンになっています。ロイスとユニケの信仰がテモテに引き継がれた、という構図と同じです。私はフィリップに、自分は母方の祖母もクリスチャンだとか言ってはいなかったはずなので、フィリップ、なかなか鋭いな、と思ったものでした。  まあ、私は、ほかのルームメートの教会の牧師先生が「テモテ」と名乗っておられたので、畏れ多くて、というより、その神学性に遠慮して、テモテなどとは名乗りませんでしたが、しかし、聖書に登場するテモテがわが牧会人生における一つのモデルではなかろうか、このテモテから積極的に学ぼう、とは、ずっと思ってきたことでした。  今日学びますみことばは、テモテの存在にスポットが当てられています。私たちはパウロと弟子のテモテの関係から、どのようなことを学ぶことができますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  19節です。……パウロは、ピリピ教会の様子をとても知りたいと願っています。使徒パウロとピリピ教会の絆は、パウロがともにいて牧会していたときにとどまりませんでした。こうして離れていても、パウロはピリピ教会とつながりたいと願っていました。それは、先週までも見てきたとおりです。  現代のように、スマホを見ればだれとでもつながっているように思えてくる時代とはわけがちがいます。ましてやパウロは獄中におりました。パウロのことを想像してみてください。パウロは、支えてくれる存在を必要としていました。それなら、獄中で宣教の働きから切り離された状況にあるパウロを支えていたものは、いったい何だったのでしょうか?  それはやはり、自分が手塩にかけて牧会した信徒たちが、主にあって歩んでいる姿にふれること、これではなかったでしょうか? ほんとうに健全な教会は、強い指導力を持った指導者が何らかの理由でいなくなったとしても、教会を構成するひとりひとりが主との深い交わりを持ち、しっかりと教会を建て上げている教会です。パウロがもし、ピリピ教会がしっかりと主にあって歩んでいることを確かめることができたならば、それは彼にとってどんなに心強いことでしょうか。そしてそのことを、どれほど主に感謝したことでしょうか。  パウロはそのために、やはり手塩にかけて育てた牧会者、テモテをピリピ教会に送ることにしました。テモテはパウロにとって、わが子も同然の働き人でした。新約聖書のテモテへの手紙第一と第二を読んでみると、パウロがどんなにテモテのことを可愛がり、またしっかりするようにと励ましていたか、よくわかります。このテモテが、パウロにとっての全権大使のような使命を帯びて教会に遣わされるという記述は、このほかにもコリント人への手紙第一に出てまいります。パウロという牧会者の心を伝える人として、とても信頼されていたことがわかります。  私は、この夏で、この教会に招聘していただいて12年目になりました。逆に言うと、教会はそれだけ、牧会者である私とともに歩んできたということでもあるのですが、ということは、みなさまのうちに、足かけ12年分の「私の心」が育っていてしかるべきだった、ということになるわけです。  私はこれまで51年の人生で、入院と名のつく経験を合わせて12回にわたってしてまいりました。病室の天井を見つめながら身動きも取れないで、看護師さんにおしもの世話をしていただかなければならなかった、そんなことも昨日のように思い出します。そんな私は、今こうして生きているだけでも奇蹟だと思いますし、このいのちを粗末にしないで、からだを大切にしたい、と、ますます思うようになりました。お年寄りになると話題は健康のことばかり、という気持ちが、このところ、身にしみてわかるようになりました。そんな私ではありますが、どんなに気をつけていても、いつ、神さまに呼ばれてこの地上を去ることになるかかわからないな、そんな思いになることがよくあります。  天国に行けるならば、それはすばらしいことにはちがいありません。しかしそれでも、私には一抹の不安があります。果たして、私が何らかの形でいなくなったあとも、この、水戸第一聖書バプテスト教会という群れは、主日ごとの礼拝を欠かすことなく、神さまのみことばを求め、祈りつつ進んでいけるだろうか? 私は何も、教会が韓国に特に重荷を持ってほしいとか、弟子訓練のモデル教会になってほしいとか、そんなことを思ってなどいません。ただ、日々こつこつとみことばに聴き、祈りつつ、遣わされたそれぞれの場で主のご栄光を顕す働きをなすべく、励まし合い、祈り合う群れとして、イエスさまの来られるその日まで保たれてほしい……そう願ってやみません。  一方で私たちは、パウロがテモテを育てたその模範が、いまやだれの目にも触れる書物である聖書に記録されていることの意味を、もう少し真剣に考えてみたいと思います。  私たちはみな、主の働き人として用いられることができます。私たちは教会という場で信仰の訓練を受けるにあたって、時間というものの持つ大切さを認める必要があります。ヘブル人への手紙の著者は読者に対し、かなりきついことを言っています。「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。」  実は、教師、といいますか、主のみことばを伝える働き人、というのは、あんがい早く育つものです。私の母教会では、バプテスマを受けて2年もしないうちに日曜学校の教師になる人などざらでしたし、あの福音歌手の岩渕まことさんに至っては、クリスチャンになってわずか1年で、福音歌手としてアルバムデビューしています。そのたった1年後、つまり、クリスチャンになってわずか2年で、岩渕さんはオリジナルの作詞作曲のアルバムも発売しています。  そういうわけで、人がいざ神の人として育とうという意志を持つならば、神さまは早く育ててくださるのです。それなのに、私たちが与えられた時間を有効に活用してみことばを学ぶことを怠っているならば、いつまでたっても用いられる働き人になることはできません。  しかし、それなら私たちを、時間を有効に用いて学ばせるその動機は、何であるべきでしょうか? やはりそれは「ビジョン」です。テモテはその点で、明確なビジョンをもって主の立てられた指導者パウロについていった人でした。教会形成こそ、主のみこころ、主のご栄光を顕す道である……そのビジョン。  初代教会は多くの働き人を必要としていました。なにしろ、使徒ペテロの最初の説教だけで、3000人もの人が弟子に加えられるほどの大リバイバルが起こっていました。働き人がいくらいても足りない状態でした。その一方で、主の教会を牧するにはそれなりの資質を備えている必要がありました。このような増殖する一方の初代教会で指導者になるには、短い時間で濃密な厳しい訓練に耐えるしかなかったわけです。テモテはその訓練に合格し、こうしてパウロのもとで忠実に働きを成しているというわけです。  では、そのテモテがピリピ教会に遣わされるのにふさわしかったのはなぜでしょうか? 20節にその理由が書かれています。……ピリピ教会を手塩にかけて育てたパウロと同じ心になって、テモテもピリピ教会のことを心配している、そして、そのように心配する者はテモテをおいてほかにいない、ピリピ教会を愛してやまないパウロはそのことをよくわかっている、というわけです。  テモテがこのように、ピリピ教会を特別に気にかけていたのはなぜでしょうか? それは、主が特別に、ピリピ教会に対する思いをテモテに与えておられたからでした。特定の教会に対する思い。みなさん、この思いは大切にしてください。私たちならば、この水戸第一聖書バプテスト教会に対して特別の思いをいだくように召されています。  まことに、教会を愛する愛は賜物です。この愛があってこそ、私たちは教会がよりよくなるために、祈りつつ励むことができるというものです。  しかし、私たち人間の実際の姿はどのようなものでしょうか? 21節です。……これが、私たちなのです。私たちは主の恵みがなければ、いかにクリスチャンといえども、イエスさま中心の生き方をすることなどかなわないものです。  21節。よく、キリストの福音とはご利益信仰ではない、と強調されますが、しかし私たちはなんと、この世のあらゆる宗教が祈り求めるような、ご利益信仰に神や教会を利用したがるものでしょうか。どうかいい学校に合格できますように。どうかいい会社に入れますように。いや、悪いと言うべきではないのでしょうが、しかし、そんなことを求める私たちの心の動機はどうなのでしょうか。私たちは神の栄光が顕されることを第一に求めているのでしょうか?  そのうえでなお、そのようなこの世的な祝福を求めることがみこころにかなっているという強い御霊の促しを受けているというなら、まあいいでしょう。しかし、そんな神さまからの確信もなく、ただ、人に認められたい、自分が気持ちいい思いをしたい、という、まことに肉的な思い、御霊に逆らう思いで祈り求めるだけならば、それは「自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めて」はいない「みな」、一般ピープルに含まれるだけの、ただの人にすぎないわけです。そんな祈りしかささげないならば、そんな動機でしか行動できないならば、それはクリスチャンとして恥ずべきことです。悔い改めるべきことです。  そんな私たちがならうべき模範、それは、テモテの生き方です。22節です。……テモテがどんなに牧会の働きに献身していたかは、ピリピ教会の認めるところでありました。それは、「子が父に仕えるように」という表現に集約されているように、自分にとって師匠であるパウロの教えを充分に吸収し、実践し、あたかもパウロの分身のように働いて、このよき知らせ、福音をピリピ教会に解き明かすことに従事しました。そして23節にあるとおり、パウロはこのテモテを、今度はピリピ教会に遣わそうとしているというわけです。  福音というものは、創造主なるイエスさまが十字架と復活をもって公に示されたものであり、それは聖書の記録をもって、働き手のその宣教の働きをもって、人々に宣べ伝えられました。ゆえに私たちはまず、みことばにとどまることが大事です。具体的には、聖書全体を誤りなき真理なる神のみことばを信じ告白し、それゆえにみことばを大切にすること、毎日じっくりとみことばを黙想し、また、みことばを通読すること、みことばの解き明かされる場である礼拝を大事にすること、聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うこと、そのようなことをもって、みことばにともにとどまるべく、努め、励まし合うのです。  そこから私たちは、そのみことばを毎日守り行うのです。単なる人生修養、お勤めのようなことではなく、人々にイエスさまの愛が伝わるように励んでいくことです。しかし、その実践をするには、私たちは知恵も力もあるわけではありません。その弱さを神と人の前に謙遜に認め、しかし、それでも神を愛するゆえ、人を愛する行動ができるように、知恵と力を求め、示されたことを勇気をもって実践していくのです。  そうすることで私たちは、人々を導けるだけの人を育てられるほどの人になれます。嘘ではありません。テモテへの手紙第二2章2節、最後にこのみことばをお読みして、私たちもそのようになれるように、祈りをもって力を求めてまいりましょう。

世の光として輝く

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章12節~18節 メッセージ題目;世の光として輝く  パウロ先生はおっしゃいました。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。では、みなさまに問わせていただきたいと思います。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。そう言えますでしょうか?  ひとくちに「福音を宣べ伝える」と申しましても、それはただ単に、「神さまは愛です、しかし神さまは正義です、神さまの愛と正義をともに実現するために、イエスさまは十字架にかかられました……」といったことをだれかに語ってあげることにとどまりません。もちろん、そういうことはとても大事なことであり、そういうようにイエスさまをご紹介しなければ、人々は私たちが何を信じているか、どのようにすれば神さまを信じることができるか、知りようもありません。絶対必要です。  しかし、私たちが福音を宣べ伝えるということは、なによりも、生き方を人々に見せることをもってなされるべきです。私たちがいかに、「私はクリスチャンです、福音を信じ受け入れましょう」と人々に言ってみたところで、そのことばにかなっていない生き方しかできていないならば、話にならないわけです。そのような人はかえって、神さまのご栄光が現れるということにおいて、妨げにしかなりかねません。そういう人はできれば、自分はクリスチャンだなどと名乗らないでいただきたいくらいです。  もちろん、うちの兄弟姉妹がそんな失格者ではないことは、私はよく存じ上げています。そんな私たちですけれども、世の光として輝き、主の栄光を顕し、私たちを救ってくださった救い主キリストをこの世に示す生き方をしていきたい、そのようにして福音を宣べ伝える、幸いな人になりたい、そう願いませんか。それにはなによりも、みことばを学ぶ必要があります。ともに見てまいりましょう。  まずは12節です。……この短い節には、実にいろいろな要素が含まれています。第一に、いつも従順であったように、というみことばからわかるように、ピリピ教会の聖徒を特徴づけていたことは、「従順であった」ということです。  従順である、ということは、キリスト者として身に着けるべき特性ではありますが、これを身に着けることは実に難しいことです。なぜならば、私たちはとかく、自分の生きたいように生き、やりたいようにやる存在だからです。  そういう、自己中心で生きていた私たちが、神さま中心で生きるようになるとき、私たちは従順という特性を身に着けることができるようになります。しかしそのためにはどうすればいいでしょうか? 砕かれている必要があります。自我に死んでいる必要があります。自分の自我を、十字架につけている必要があります。そうじゃないから、私たちは自分の好きなように生きたくなるのです。砕かれなければなりません。  では、そのためにはどうしなければならないでしょうか? あえてきついことばを使いますが、自分に絶望する必要があります。しかしこれは、自暴自棄になりなさい、という意味ではまったくありません。そうではなく、自分は何者でもない、と、とことんまでも思うことです。  自分はイエスさまを十字架につけてしまったほどの罪人ではないか、自分はなんとひどい罪人なのだろうか……そのように私たちは、日々十字架の前に自分を差し出し、ひたすらにあわれみを求めることが必要です。そのとき私たちは、よみがえってくださったイエスさまが優しく私たちの手を引いて、いのちの道へと導いてくださるのを知ることができるようになります。私たちはただ、その手を引いて歩き出すのみです。そのとき私たちは、従順の歩みに喜んで自分自身を差し出すことができるようになります。  ピリピ教会の人はそれができていました。それができたのは、パウロがピリピ教会を牧会していたとき、そのように彼らのことを導いたからです。しかし今は、そのように導いた群れからパウロは遠く離れていました。そこで、パウロは改めてピリピ教会に、従順ということを強調する必要がありました。そうです、教会の群れが主に従順であるためには、そのように導く指導者を必要としています。  とは申しましても、聖書のこの箇所を読みさえすれば従順な生き方がいつでも、だれにでもできるわけではありません。この箇所がピリピ教会にとって意味があったのは、これを書いたパウロが、心血注いでピリピ教会を育ててくれた人であったからです。私たちは、牧会者の導く教会から離れて、従順の歩みをなしていくことはできません。もし私たちが従順でありたいと願うならば、とにかく教会から離れないことです。私も、愛するみなさんが従順の歩みをなすために召されていると考えると、身震いするような思いですが、主の恵みによってこの任に謙遜にあたらせていただくのみです。  では、従順であることはどのような奨めへとつながるでしょうか? パウロがともにいたときはもちろんのこと、パウロのいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい、ということです。  従順であるためには教会という場において牧会のもとに身を置くべきことは、今申し上げたとおりです。しかし、牧師は四六時中、みなさんの霊的生活を見張ることも管理することもできません。いまはLINEのようなお互いがつながるための便利なツールがありますが、それとて、みなさんの生活を四六時中、まるで監視するように管理することなどできません。  あの大使徒パウロにしても、ピリピ教会に手紙を送ることが、彼にとって精いっぱいできることでした。みなさんにしても、牧師の面前ではない、教会の人たちの面前ではないときが、ほんとうの自分であると考えるべきです。それでもそのときには変わらず、神さまの御前に私たちはいます。目に見えない神さまを、私たちは意識できていますでしょうか? そのときも私たちが、主の御前で徹底して生きることができるか、これが従順の生活における鍵です。  そのように、牧会者がともにいないような状況において、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」とあります。この手紙全体を読んでみますと、ピリピ教会は実に模範的な素晴らしい教会だったことがわかります。しかし、そんな教会でも、このようなパウロの奨めを必要としておりました。いわんや私たち、使徒パウロに直接教えを受けていないような者たちは、どれほどこのみことばを必要としていることでしょうか!  私たちは砕かれても砕かれても、なお自我の生きているようなどうしようもない存在です。牧会者がともにいなかろうとも、救いを達成しなければなりません  救いというものは、一生かけて達成するものです。イエスさまを受け入れ、バプテスマを受けてから、そのいのちが地上から取られるまで、私たちはひたすら、主の御前に徹底して生きていくべき存在です。その従順の歩みをさせまいとする自我を絶えず十字架につけ、みことばをつねに開き、つねに祈りつつ歩む存在です。  さて、この奨めは個人に対してではなく、ピリピ教会全体に対してなされていることも心に留めましょう。救いの達成は、教会全体で取り組むことです。私たちがみなそろって救いを達成できるように、私たちの中から落後する者が出ないように、互いのために祈ることです。互いのために祈るためには、互いに対して関心を持つことです。  むかし、ある伝道者の先生が、教会の中ではあまり世俗的な話をしないで、もっと聖なる話をしてほしい、なんてことをおっしゃっていましたが、私は基本的には同意するものの、一方で、俗っぽい話も大歓迎だ、と思っています。そのようにざっくばらんに話すことで、お互いに対してオープンになるほうが、しゃちほこばって聖なる話をしようと努めるよりもよほど自然ですし、お互いのことをイメージしやすくなり、とりなして祈りやすくなれます。そして普段の生活の中で、ふとその兄弟姉妹のことを思い出したならば、その兄弟姉妹をおぼえて祈りましょう。祈ることは、ともに救いを達成する歩みを続けていけますように、ということです。  13節にまいります。有名な箇所です。これはちょっと、みなさんで声に出してお読みしてみましょう。……このみことばは、学生時代、好んで暗唱する若者によく出会ったものでした。しかしこのみことばは、単なる可能性思考、積極性思考を主が後押ししてくださるみことばだと解釈してはなりません。その「志」や「事」が、主が導いてくださったことだと確信するあまり、後に引けなくなってしまい、頑張りすぎたり、周りの人たちを巻き込んで迷惑をかけたりといったことが起こるならば、目も当てられません。  この13節は、その前の節の12節のつづきとしてとらえるべきです。ここでいう志とは何でしょうか? 救いを達成する従順の歩みをしたいという志です。事とは何でしょうか? 救いを達成するための従順の歩みそのものです。そういう前提で読むべきですから、自分の野心は神から来たものだ、文句あるか、とばかりに振る舞う根拠として、このみことばを用いることは、まったく間違っています。  ですから、救いを達成するための従順の歩みも、主がその思いを与えてくださり、主がその歩みを一歩一歩導いてくださると考えるべきです。そうです。この歩みは、自分の意志、自分の頑張りでできるものではありません。私たちが従順などということばを聞くと、いかにも自分が頑張らなければとイメージしてしまいがちではないでしょうか? しかし、聖霊の導きというものは、そんな苦しいものではありません。  でも、もしかして、従順でありたいと願うあまり、苦しくなったりしてはいないでしょうか? そういう場合はちょっと静まって、主との交わりを回復する必要があります。もし、うちの教会に、疲れているメンバーがいらっしゃるならば、その人がきちんと休んで主のとの交わりの中で回復できるように、いたわってあげましょう。  その流れで14節をお読みします。……これだって、言われたことはつべこべ言わずに何でもやれ、という意味にとってはなりません。  このみことばは、はっきり間違っているものに対する疑問や不満、不安に蓋をして、思考停止をしてロボットのように行動しなさい、などという意味ではありません。このみことばをここだけ切り取って守り行おうとするならば、教会が目も当てられないカルトになってしまいます。  やはりこれも流れの中で読みましょう。ここで言うすべてのこととは、救いの達成のための従順の歩み、ということです。みことばをお読みするとしばしば、従いにくい箇所、わかりにくい箇所に出会います。時には、受け入れがたい箇所に出会うこともあるでしょう。そういうとき、私たちは自分の感情を優先すべきでしょうか、それともみことばを優先すべきでしょうか? そう、もちろん、みことばです。もちろん、聖書に対する疑問を持つことは健全なことです。しかしその疑問を持ったとき、だから聖書は間違っている、と考えるならば大きな問題です。疑問は疑問として、主がそれでもよいように導いてくださるという信頼を抱いて、御手に引かれてまいりたいものです。  15節と16節は、なぜ不平を言わずに、疑わずに行うべきかということの理由を記しています。それは、結論から言えば、私たちが曲がった邪悪な人たちに満ちているこの世の中で、傷のない神の子どもとして生きるため、そして、世の光として輝くためです。  不平を言わず、疑わない従順の歩みにより、世の光として輝くことは、このみことばによれば3つの要素を含んでいます。第一に、非難されるところのない純真な者となる、ということです。うちの教会にも小さなお子さんがいますが、子どもというものは、大それた罪を犯すことなどそもそもありえない存在です。その、純粋な子どものように純真な、非難されることのない者になる、ということです。ここで要求されていることは、悪いことははっきり悪いと判断でき、その悪いことからきっぱり手を引くことのできる勇気と実践を備えた人になる、ということです。そのようにして、私たちの中から非難されるべき悪いことを取り除ける人になる必要があります。  しかし、私たちは簡単にその歩みができるわけではありません。私たちは自分の努力で純真な者になどなれません。私たちは日々、御霊の交わりを体験する必要があります。御霊なる神さまに、私たちの心の中の罪をひとつひとつ照らし出していただき、ことごとく悔い改める歩みをなしていく必要があります。  第二の要素は、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもになる、ということです。私たちの生きている世界は、天国ではありません。イエスさまに従おうとしない人たちに囲まれて生きています。私たちはそのような世界に生きていると、ともすればこの世に調子を合わせて生きるほうがよほど楽だ、などとならないでしょうか。  しかし、そのように世に流されて生きるならば、私たちの従順の生き方は傷つけられてしまいます。主ではないものに従い、気がつくと私たちの人生は、主の恵みをまるで感じられなくなってしまいます。私たちはそのようなものに囲まれて生きようとも、決してそれに溺れることなく、自分を保つ必要があります。自分を保つためには、何がみこころにかなっていることであり、何がかなっていないことであるかを、つねにみことばから学ぶ必要があります。みことばを読むことも大事ですし、みことばを解き明かす信仰書籍を読むことも大事ですし、みことばを実践した証しに耳を傾けることも大事です。そのようにして、みことばの基準を自分の中に確立し、みこころにかなうものを採り入れ、みこころにかなわないものから身を避けてまいりたいものです。  第三の要素は、いのちのことばをしっかり握る、ということです。そう、みことばを読むことが大事です。それも読み流すようにただ読めばいいのではなくて、みことばを握ることです。  握る、ということがイメージできますでしょうか? 握ったら離さない。ひたすら握る。崖を登るとき、目の前のロープをしっかり握って登るはずです。そういうふうに、ひたすらにみことばにしがみつくことです。読み流すのではない、しっかり頭に刻み込む、折にふれて思い出し、そのみことばを唱えながら祈る。 これらすべてのことを通して、私たちは世の光として輝きます。ことばを変えれば、主のご栄光を現します。そのためにも、私たちは純真な者とされるように、御霊の満たしと導きを絶えずいただきましょう。みことばの基準を自分の中に確立しましょう。そして、みことばそのものを自分の中にしっかり蓄えてまいりましょう。 16節の後半以降、18節まで、パウロのメッセージはにわかに終末的な様相を帯びてきます。それはこの世の終末でもあり、パウロ個人の終末でもあります。「そうすれば」以降、18節の終わりまでお読みします。……16節をお読みしますと、パウロは終わりの日、キリストが再臨される日に、ピリピ教会の聖徒たちが主の栄光を現す者となるように仕えることができたことを、御前で誇ることができる、と語っているわけです。 パウロがそのように教会に献身してきた姿勢は、17節の表現で明らかになります。ピリピ教会が心から主の御前にささげている礼拝とともに、パウロはいずれ、自分のいのちを主にささげることを語っています。注ぎのささげ物というのは、子羊のいけにえとともにささげる強いぶどう酒のことを意味しています。子羊イエスさまの十字架の犠牲とともに、殉教の血を流すことをパウロは予見しています。パウロは主の御国に献身したゆえに、この地上では迫害を受け、殺されます。しかし、私は喜びます、と語っています。そればかりではなく、あなたがたも一緒に喜んでください、と、このわずか2節のうちに四度も「喜ぶ」ということばを用いて、ピリピ教会の聖徒たちに「喜ぶ」ことを強く勧めています。 普通に考えれば、パウロが殉教することは、パウロが愛情込めて育ててきた教会にとって、喜べることなどではありません。悲しむべきことです。しかしパウロは、どうか人間的なことを考えず、主の視点に立って物事を見てほしい、と勧めているのです。自分の死によって福音の正しさが証しされるならば、これ以上のあかしがあるだろうか、これ以上主のご栄光が現れるだろうか、ピリピ教会の兄弟姉妹、どうか、われわれが主のご栄光をいかに現すかということを何にもまして考えてほしい……。 主の栄光が顕されるならば、それは喜ぶべきことです。しかし、その喜びを究極的に体験できるのはいつでしょうか? この地上で救いを達成する歩みを成し遂げたあかつきに、キリストの日、終わりの日に、主の御前で心からの礼拝をおささげする日です。その日、主のご栄光は、今まで見たこともないような輝きで輝きます。私たちが主のご栄光を仰ぎ、主のご栄光を現すのです。私たちの地上の歩みは、その最後の日の究極の礼拝に向けての練習、予行演習です。 もう一度12節をお読みしましょう。お祈りします。

「生きることはキリスト」の意味

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章1節~11節   メッセージ題目;「生きることはキリスト」の意味  先週の主日礼拝の聖書本文に、パウロのことばとして、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」というみことばが登場します。「死ぬことは益です」、なかなか衝撃的なことばではありますが、最終的に苦しみも悲しみもない天の御国に入れられるパウロの思いを考えれば、それは理解できます。では、「生きることはキリスト」の方はどう考えるべきでしょうか?  私がこのみことばをはじめてお読みしたのは、高校2年生のときで、当時の聖書の訳だった「新改訳聖書第二版」も、同じ訳し方をしています。「生きることはキリスト」。なかなか衝撃的な表現で、また、チャレンジを与えてくれるみことばだと思いました。  しかしそれなら、私たちは「生きることはキリストです」と言い切れるような生き方をしているでしょうか? いや、もし現実にできていなかったとして、それならどのような方向性で生きる必要があるでしょうか?  それを語っているのが、今日の箇所です。前半は、「生きることはキリスト」をいかに実践すべきか、ということを語り、後半は、そのキリスト・イエスなるお方はどのように生きられたか、を語っています。   まず、今日の本文の1節をお読みします。……あなたがたピリピ教会がもしこれこれこのような教会だったら、と、理想的なキリストの教会のあり方について4つないしは5つの特徴を挙げて述べています。ひとつひとつ見てまいります。第一に理想的な教会は、キリストにあって励ましがある教会です。  私たちはこのきびしい世に生きている以上、傷つきますし、倒れそうにもなります。いったい、励ましを必要となんてしていない人が、教会に来るものなのでしょうか? 私たちはみな、周りの兄弟姉妹から励ましをいただいてよいのです。どうぞ、遠慮なく弱い自分をさらけ出し、みんなに励ましてもらってください。その代わり、こちらも同じくらい人を励ましていく必要があります。私たちは、励ましを必要としている兄弟姉妹の存在に気づいていますでしょうか? どんなことで励ましを必要としているか、単に察したりとか、噂で聞いたりとかというレベルではなく、きちんと親身になって聞いてあげて、祈ってあげているでしょうか?  第二に「愛の慰め」のある教会です。慰めとは何でしょうか? 傷ついている人、さびしい人、落ち込んでいる人のいたみをいやすべく、やさしいことばをかけることです。あるいはことばでなくても、同性同士だったらハグしてあげるなど、触れてあげることでやさしさを伝え、いたみをいやす取り組みをすること、それが慰めることです。  「癒やし系」ってことばがありますね。一緒にいるだけで心安らぐような。そういう、いるだけで傷だらけの心が慰められ、いやされるような人になれたらな、などと思います。むかしいた教会で、まだ信者さんになったばかりの年上の男性から言われたものです。「武井先生はときどき、すごくおっかない顔をしています。」うんうんとうなずいた方がいらっしゃらないか不安です。私もそのおことばを聞いて以来、気をつけるようにしていますし、今回メッセージをつくるにあたって、そんな自分の失敗をあらためて考え、もっといい雰囲気をつくらなければ、と思わされました。  第三に「御霊の交わり」のある教会です。私たちの群れが単なる「聖書研究サークル」のたぐいではなく、「教会」と呼ぶべきものなのは、そこに御霊の交わりがあるからです。私たちは御霊によって、イエスさまを主と告白します。私たちは御霊によって、主なるイエスさまを信じ従う群れを形づくります。だから私たちはみな、水戸第一聖書バプテスト教会というこの共同体に、御霊なる神さまをつねに歓迎するお祈りをささげる必要があります。御霊を送ってくださり、私たちを一致させてくださり、絶えず主の恵みを分かち合う共同体として成長させてくださるように、私たちはお祈りする必要があります。  そして第四に「愛情とあわれみ」のある教会です。これは、「愛情とあわれみ」とセットになっていますので、「愛情のあるあわれみ」と解釈してもいいですし、「愛情」そして「あわれみ」と解釈してもよいでしょう。  愛情ですが、これはなんといっても、神さまの愛情、アガペーの愛。それがどのようなものかを知るためには、やはり、神さまがどのような愛情を私たちに注いでおられるか、日々みことばから学ぶ必要があります。  みことばを読まなければ、ああ、神さまはこんな私のことを愛してくださっているんだなあ、ということは、実感しようにもできません。そして、神さまの愛は自分ひとりだけが受けてそれで終わりでは、すぐになくなってしまいます。聖書全体を繰り返し読むことで身に着けた愛情を、家族、そして兄弟姉妹に注ぐこと、実際の行動に移してその愛を実践すること、これによって、神さまの愛情は群れのただ中に育ち、いつまでも保たれます。  そしてあわれみですが、これも主の御思いを持ってこそ、兄弟姉妹に注ぐことのできるものです。兄弟姉妹が苦しんでいるとき、私たちの心が動かされるならば、それでこそ私たちはキリスト者としてふさわしい者です。ヤコブの手紙2章13節に、あわれみを示したことのない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです、とあります。  正義を振りかざして人をさばくこと、これは、身もふたもない言い方をすると、とても気持ちよいものです。いかにも自分は正義の味方だ、神の義をこの世に成し遂げことをした、と、自分に酔っていい気持ちになります。しかし、それは神さまのほんとうのみこころである、愛、あわれみを、少しも実現してなどいません。  分かりやすい例として、創世記9章のノアの子どもたちのことを挙げることができるでしょう。家族とともに方舟に乗って大洪水を乗り切ったノアは、ブドウを栽培する人になりました。ある日、ノアは、そのブドウで造ったぶどう酒を飲んで、不覚にも酔っぱらって裸になって寝てしまいました。その姿を見た息子のハムは、かりにも父親のそんなあられもない姿はそっと何かかけてあげて隠してあげたらよかったものを、わざわざ、天幕の外に出て、兄弟のセムとヤフェテに、お父さんが裸で寝ていることをわざわざ告げ口しました。  それを聞いた二人はどうしたでしょうか? 二人して一枚の毛布を背中にしたまま、並んで後ろ向きに歩き、父ノアの上に毛布をかけてあげ、最後まで父の恥ずかしい姿を見ませんでした。  これがさばかないこと、あわれむことです。聖書のみことばは、セムとヤフェテのこの行いをほめ、ハムの言動を悪いものと評価しています。  私たちは聖書を読むと、どうしても、罪とは何か、とか、悪い言動とはどういうものか、ということが、見えてきます。しかしそれなら、そのみことばにネガティブに映し出された自分のことを悔い改めるという実が結ばれなければなりません。いけないのは、そのみことばを見て、ああ、○○さんもこうだ、このみことばを読んでほしいな、悔い改めてほしいな、と、人様に適用することです。これは、さばくことです。そういう読み方をしているなら、自分の目の梁も取り除けずに、人様の目のちりを取らせてもらおうとする態度であるわけです。  あわれみは、それとはちがいます。みことばを守り行いたくても守り行えない、その人はきっと、神さまの御前にとても申し訳ない気持ちでいるにちがいない……私たちのすることは、そんな人をさばくことではありません。その人に主のかぎりない愛とあわれみが注がれるように、祈ることです。そのようにあわれみを実践する人が、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、あわれみを受けます。神さまから直接あわれみを受けることもありますし、神さまがだれか人をとおしてあわれんでくださることもあります。  ともかく、私たちキリスト教会は、キリストを主と告白し、御霊によって結び合わされている共同体です。日々キリストの似姿に変えられている集いです。今あげたような、キリストのある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを日々増し加えられている存在です。  パウロも、ピリピ教会がそのように成長していることを期待していました。そこで2節以下のように勧めています。まずは2節です。4つの奨めをしています。同じ思いとなりなさい。同じ愛の心を持ちなさい。心を合わせなさい。思いを一つにしなさい……なんと、同じことを、表現を変えながら、4度も繰り返し語っています。要するに、教会の兄弟姉妹はひとつになりなさい、ということです。  そうです、ひとつになること、ひとつであることは、教会にとってとても大事なことです。私たちはなにによって一致するのでしょうか。キリストにあって一致するのです。同じキリストを信じ、ともにキリストに従うことで、私たちには一致が与えられます。  パウロは、教会がそのようにして一致を保つことにより、自分の喜びが満たされると語っています。そう、ここでも「喜び」が出てまいります。あなたがたが一致を保つことが、私にはうれしいのですよ……パウロは、キリストにあってピリピ教会を産んだ牧会者として、心から奨めています。私たちも一致を保つならば、その姿を主は喜んでくださいます。  3節にまいります。……利己的な思いや虚栄によって行動してはならない、と戒めています。利己的な思い、そう、私たちは、自分さえよければ、という、罪深い思いにいつも捕らわれるものです。また、虚栄ですが、私たちは自分がほめられたい、自分を大きく見せたいという名誉欲に、いつも支配されそうになります。あの、主に反逆する人間の行動であった、バベルの塔を建てることも、「名を上げる」ことがその大きな動機としてありました。そういう「名を上げたい」思いが、キリスト教会の交わりの中に持ち込まれる危険がつねにあります。私たちは絶えずそれを警戒しなければなりません。  あえてこの場で申し上げますが、日本の教会は長らく、小さいこと、信徒も教会も少ないこと、要するに弱小なことに、コンプレックスをもってきました。私も長らく、そのひとりでした。  そんな日本の教会ならびにクリスチャンが、「強い」アメリカや韓国の教会と比較し、いずれは彼らのようになりたい、彼らのようになろう、という思いを、日本の牧師たちは信徒たちに吹き込んできたのではないかと思います。私も、アメリカや韓国の教会のようになれればいいな、と思ったのは事実ですし、何よりも私が韓国の巨大な神学校で学んだのは、そんな動機があったからでした。  しかし、その動機の中に、「利己的な思い」や「虚栄心」という名の偶像、すなわち、神さまのみこころと関係なく、そういう「大きくて強い」教会につながること、そういう教会の牧師となることへの願いがあったならば、それは神さまのみこころを成し遂げる動機であってはならなかったことになります。どうでしょう? これまで日本の教会は、アメリカや韓国の教会の中で質、量ともに大きくなった教会があると聞いたら、その秘訣を知ろうと、遠路はるばるセミナーに行って、学びに精を出したものでした。  しかし、そのような大きくて堅実な教会は、主との関係の中で建て上げてそのような強い群れになったわけで、それを、真似さえすれば教会を大きく、強くできる、という動機で牧会に採り入れようとするのは、実は利己的な虚栄心のたぐいではなかったか、私はとても悔い改めさせられています。だからこそ、私があのサラン教会で弟子訓練の牧会を体験しながらも、そのほんとうの目指していることを私が身をもって理解できるようになるまで、神さまは18年の長きにわたって、私にその牧会を実践することをお許しにならなかったのだ、と理解しています。  これは教会形成という点における利己心や虚栄心の問題です。教会形成という「きよい」みこころを祈り求める場にしてそうならば、いわんや私たち、この世と伍して生きていく身には、どれほど、利己心や虚栄心は、主のみこころを守り行う上で大きな妨げになるか、と、考えずにはいられません。  どうすればいいのでしょうか? へりくだることです。具体的には、ほかの人を自分よりもすぐれた人と思うことです。これがだれに対しても、心からできるならば、それは教会としてふさわしい姿です。そう、だれに対してもです。ちょっと癖があって受け入れがたい人のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。小さな子どものことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。子どもや若者のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。  できますか? しかし、イエスさまはそのように振る舞われたお方です。イエスさまは子どもたちを邪魔者扱いする弟子たちを情け容赦なくお叱りになり、子どもたちひとりひとりに手を置いて祝福してくださいました。そしてイエスさまは、ひどい接し方をしてくる宗教指導者たちにも、最後まで忍耐してお相手してくださいました。イエスさまにとって、ご自身よりすぐれた人など一人としてこの世にいないのに、イエスさまはとにかくへりくだって人に接されました。このイエスさまのお姿にならうとき、私たちはだれのことも、自分よりすぐれた存在と見ることができるようになります。  4節にまいります。……前提として、私たちは自分のことを顧みる必要があります。私たちひとりひとりは、主につくられて愛されている、かけがえのない存在です。私たち人間は与えられたいのちを粗末にしてはなりませんし、主から自分に託された領域を、できる限り拡大していく必要があります。しかし、それをしたうえで、私たちは他の人たちのことを顧みる必要があります。  教会の交わりの中には、いろいろな事情によって、自分のことを顧みることもままならない人がいるものです。私は日本と韓国を何度か往復し、それぞれの教会のいろいろな面を見てまいりましたが、全体に日本の教会は、さきほど申し上げたことの繰り返しのようになりますが、弱い人が教会全体に占める割合の多い傾向があります。まさしく、この世の弱い者たちを主がお選びになったという、その摂理を見る思いがいたします。 しかし、この弱い人たちが弱いままでいて、いつまでも強くならないならばどうでしょうか。それがみこころにかなった教会形成と言えるでしょうか。私たちのうちにいろいろな面で弱さを抱えている兄弟姉妹がいるならば、その弱さをケアすべく、教会の兄弟姉妹は関心を持ち、関わっていく必要があります。 もっとも、ほかの兄弟姉妹を顧みる前提は、自分のことを顧みることができているということです。自分のことも顧みることもできないで、人の問題に関わってばかりいる兄弟姉妹というのはいるものですが、そういう者たちに対して、日本にはことわざがあります。「己の頭の蠅を追え」。このことは第二テサロニケのみことばでも、パウロははっきり語っています。自分のことを顧みてこそ、人の問題にはじめて関われるのですから、私たちは、自分を顧みることを優先的に行なってまいりましょう。その上で、弱い兄弟姉妹に関わってまいりましょう。 5節をお読みします。……以上、パウロがピリピ教会に求めている姿勢は、イエスさまにならうことであると語っています。そう、これこそ、「生きることはキリスト」ということです。 ここから先、6節から11節は、「生きることはキリスト」の実際、すなわち、「キリストはどう生きられたか」を、簡潔に、しかし必要なことはすべて押さえて述べています。この箇所は大きく2つに分かれますが、まずは前半、6節から8節までをお読みします。 まずは6節です。キリストは神の御姿であられました。全知全能なるお方、完全な愛、完全な義、完全な聖、完全な美、完全な善なるお方です。そして、この世界を創造され、私たちひとりひとりを創造されたお方でいらっしゃいます。このお方こそ、賛美を受けるにふさわしい方です。 だがこのお方は、神としての在り方をお捨てになりました。本来、そうしなければならない理由など何ひとつとしてないのに、このような被造物、すなわち創造主に劣る存在のために、神としての在り方を捨てられる選択をされたのでした。 7節にまいります。イエスさまはご自分を無にされました。全知全能なる神が人として母の胎から赤ちゃんの姿で生まれるなど、これほどまでにご自分を無にすることはありません。そして、支配される神、すべての上に君臨される神が、仕える人間の姿となられました。 8節にまいります。イエスさまは自分を卑しくされました。本来、すべての人がイエスさまをほめたたえるべきでしたが、イエスさまは賛美どころか、ののしることばを一身に浴び、殴られ、むち打たれ、つばをかけられました。何の罪もなかったにもかかわらず、あたかもさばかれる罪人のように、イエスさまはご自身を宗教指導者たちの手にお委ねになりました。そしてイエスさまは死なれました。それも、十字架にかかって死なれました。この上なく残酷な方法で、本来罪ののろいを受けて滅ぼされるしかなかった私たちの身代わりに、のろわれた者となってくださったのでした。しかし、この十字架にかかって死なれたのは、「従われました」とあるとおり、御父のみこころに最後まで従順に従うことでした。 9節以下、大きな逆転が起こります。御父はイエスさまを復活させてくださり、天に挙げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。10節と11節、すべての名にまさる名は、信じお従いする人がみなほめたたえるべき御名です。そして、イエスさまが主であると告白することは、御父の御名がほめたたえられることです。 この、すべての人が集められて御座におられるイエスさまを賛美するのは、終わりの日に実現することです。そして私たちも、主とともに治めるものとなります。 その日に至るまで、私たちはひたすら、へりくだった生き方をするのみです。私たちはともすれば、威張りたい、人の上に立ちたい、と願うものです。しかしイエスさまが私たちにお示しになった生き方は、へりくだった生き方、仕える生き方です。実に十字架の死をもって、御父に従い、人々に仕える生き方を実践された、このイエスさまにならい、日々の歩みに取り組んでまいりましょう。 どうすることがそのへりくだった歩みをすることなのか、最後にもう一度、1節から5節を振り返りましょう。……キリストにならったこの歩みを地上の生涯で全うし、終わりの日に、「よくやった。よい忠実なしもべだ」とほめていただける私たちになることができますように、主の御名によってお祈りいたします。