賛美の祝福
聖書箇所:サムエル記第一16章14節~23節 メッセージ題目:賛美の祝福 前にも申しました。私が学生時代、キャンパス・クルセードという宣教団体の学生メンバーとして活動していたとき、早稲田大学を借りて行われた木曜集会で、スタッフの佐藤さんという方がおっしゃいました。「みんな、なんで僕たちは、神さまのことを賛美するんだと思う?」学生たちからいろいろ答えが返ってきます。「神さまは素晴らしいお方だから」「神さまは素晴らしいみわざをなさったから」「神さまは僕たちのことを愛してくださっているから」ひとしきり学生たちの答えを聞いて、佐藤さんはおっしゃいます。「うん、そうだね。みんな、そのとおりだよね。でもね・・・・・・僕たちが神さまを賛美するのは・・・・・・それは、神さまだからです。」 私は佐藤さんのこのことばに衝撃を受けました。そうです、私たちは気分がよければ賛美し、気分が乗らなかったら賛美しない、そんなものではないでしょうか。しかし、神さまがほめたたえられるべき神さまであることは、本来、人間の感情と一切関係のないことです。人がどうあれ、神さまは神さまですし、ほめたたえられるべきお方です。 だから、賛美というものは、神を神とするところにすべてははじまります。自分が気持ちいいからとか、誤解を恐れず言えば「恵まれるから」とか、そういう理由で神さまを賛美するのではないのです。神が私の神だから、だから、神を賛美する、そういうことなのです。 思えば、佐藤さんからあのメッセージを聞いた頃、都会に住むクリスチャンの若者たちは、やたらと「リバイバル」ということばを口にしていました。有明コロシアムに行ったり、甲子園球場に行ったりして、大きな声で手を振り上げて賛美をしていると、これだけ大声で、いっしょうけんめい賛美しているならば、今にも神さまは、この日本にリバイバルを起こしてくださるにちがいない・・・・・・私はそう確信して、声を枯らして歌いました。たぶん、周りの若者たちも、同じ気持ちだったと思います。 しかし、その後30年近く経って、およそリバイバルと呼べそうなものを、神さまは日本に起こされることはなさらなかったのでした。そうこうしているうちにリバイバルを求める機運は冷え切り、教会もクリスチャンの数も縮小する一方・・・・・・クリスチャンたちはなおも、なぜ日本は教会が成長しないのか、と、自らに問いつづけています。 しかし、私は自分自身がリバイバルを求め、大声で賛美を歌っていた者として、言わせていただきますと、日本のクリスチャンは果たして、神を神とする生き方を歩んできていたのだろうか、と、自らに問い直し、悔い改める必要があるはずと思います。自分が気持ちいいからリバイバルを求めていただけではなかったか? いじけたマイノリティが一発逆転を狙ってリバイバルを求めていただけ、要するに、霊的とはとても言えない、肉に属する欲望でリバイバルを求めていただけではなかったのか? これは日本の教会に限らず言うべきこと、およそクリスチャンたるもの、すべからく、神を神とする生き方をすべきです。単なる感情の高まりで神を礼拝し、賛美するだけならば、それは、自分のイメージという偶像に仕えているだけなのかもしれません。 そこで私たちは、いざ賛美するにあたり、聖書に登場するモデルから学びたいと思います。 聖書における賛美のモデルと言えば、だれがなんと言おうとダビデでしょう。なんといっても、聖書における賛美といえば詩篇ですが、その全部で150篇ある詩篇の、実に73篇、ほぼ半分は、ダビデによるものとそれぞれの題名に書かれています。まさにダビデは、賛美の歌い手の中の歌い手であり、私たちはこのダビデをモデルにすることで、神の前によりふさわしい賛美をおささげできるようになると信じます。 さあ、そこで今日学びますみことばは、賛美のささげ手としてのダビデが公式デビューを果たすという箇所です。ともに見てみましょう。先週のメッセージ中にした予告では、ダビデとゴリヤテの対決から今日は学ぶ予定であったと申しましたが、ダビデの油注ぎについての学びと、その対決との間にこの箇所は位置しているので、まずは順番として、今日はこの箇所から学びたいと思います。 まず、ダビデに油が注がれたのは、すでに油注がれて王として立てられていたサウルが、およそ神の民たるイスラエルの王としてふさわしくない、不信仰の振る舞い、不従順の振る舞いを繰り返し、サムエルはもとより、神さまのみこころまでも損なうという結果となったからです。サウルが王として合格していれば、ダビデに油注ぎが回される必要もなかったわけです。しかし実際は、サウルが油注ぎによって受けていた王としての聖別は、ダビデが受けることとなりました。すると結果として、サウルが神から受けていた聖別は、もはや臨まないことになるわけです。 その結果、サウルには何が起こったのでしょうか? 悪霊が臨む、という、およそ神の民の王としてこれ以上なくふさわしくないこと、呪いとしか言えないことが起こるようになったのでした。サウルは狂い、恐れに取り憑かれるようになりました。 しかし、これはサウルひとりの問題ではありません。サウルの家来たちも、このように悪霊に取り憑かれた王に仕えるなど、たいへんなことです。そして、サウルがこのような霊的状態にあるということは、ひいては、イスラエルの国と民族全体の霊的環境に関わることになってしまいます。 家来は一計を案じました。サウルのもとに、音楽をもって癒やしをもたらす人を侍らせよう、竪琴を弾いて、その楽の音(がくのね)にて王を落ち着かせよう、というわけです。果たして、それは王の心にかない、王は家来たちを遣わそうとしました。 琴、という楽器は、実に不思議です。この楽器の奏でる音楽に私たちは癒やされます。弦を1本1本弾いても、複数の弦をいっぺんにストロークしても、とにかく気持ちのいいものです。ハープ、お琴、クラシックギター・・・・・・サウルの当時の楽器といえば、タンバリンのような打楽器だったり、角笛のような吹き鳴らす楽器もあったりしますが、それらは音が大きすぎて、「癒やす」のにはあんまり向きません。やはり、荒ぶる心を癒やすのは、繊細な音を紡ぐ、ハープのような弦楽器です。 さて、家来の心に、これはふさわしいという人物が思い浮かびました。それは18節にあるとおりです。ダビデはこの頃、まだ年端もいかない羊飼いの少年で、実際にサウルの軍隊に従軍して戦士として戦っていたわけではありませんが、上3人の兄はサウルの兵隊であり、ダビデは戦士の家門としても、サウルの前に出るに恥じるところはありません。 それにダビデは、のちにサウルの前にはっきり言いますが、ライオンや熊を素手で相手にして打ち殺すほどの、恐るべき戦闘能力を持っていて、それは隠そうにも隠せなかったはずです。 ここ数ヶ月、連日のように、日本のあちこちに熊が出た、熊が人を襲った、という、ぞっとしないニュースが報道されていますが、人は何か武器を持っていても、熊を相手に闘うなど容易なことではありません。いわんや、熊を素手で打ち殺すなど、とんでもない戦闘能力です。現代の日本は、のどから手が出るほど、こんな人がほしくありませんか? しかし、普通に考えて、いかに昔の人が現代人より屈強だったとしても、熊に素手で勝つなどまずあり得ません。いったい、ダビデはなぜ、こんなに強かったのでしょうか? それは、ダビデには神の霊が臨んでいたからでした。羊を守るために猛獣に立ち向かい、いのちを賭けて闘い、しかもこれをやっつける、イスラエルの王たる者は、イスラエルの民のことを偶像礼拝の敵国の侵略から守るために、軍隊に立ち向かい、やっつける。まさに、イスラエルの王としてふさわしくあるための聖霊の油注ぎは、すでにこのときに臨んでいたのでした。 この、聖霊のきよい御力によって、ダビデは竪琴を奏でたのでした。彼は羊を飼うべく野にあるとき、その広々とした空の下、竪琴を手にして、この大自然を創造したもう神さまをほめたたえる歌を吟じたことでしょう。実際、詩篇23篇、神を羊飼い、自らをその牧場の羊になぞらえたあの美しい詩は、ダビデが羊飼いであったゆえに生まれた歌です。 その、聖霊の油注ぎに満ちた音楽は、サウルのもとにて仕える者の耳にとまりました。折しもサウルは、悪霊につかれてどうにもならなくなり、霊的な助けをとても必要としていたことは、家来たちの目にも明らかでした。そこに現れたのがダビデだったわけですが、これは、ダビデが王宮に入り、サウルに顔を、そしてそれ以上に、その持てる霊的能力を覚えてもらうために、必要なプロセスでした。 そしてダビデは、おびえるサウルの前で琴を弾きました。聖霊の油注ぎに満ちた音楽です。言うなれば、創造主なる神の麗しさを、音楽をもってほめたたえる、賛美です。この音楽を耳にすることによって、サウルから悪霊は離れ去りました。 ダビデのこの演奏は、いくつもの意味を持っています。その中で今日は、3つの側面からダビデの音楽の意味を見て、私たちにとってふさわしい賛美のあり方を考えてみます。 第一に、ふさわしい賛美とは、仕えることです。 ダビデは、サウルの前に出て行きました。なんと、あのしがない羊飼いの八男坊が、ついにサウルの前に出たのです。しかし、ダビデのしたことは、まずこのときにおいては、熊やライオンを素手で打ち殺した、その勇猛さをもって、サウルの兵隊になることではありませんでした。サウルはダビデが勇士であり、戦士の出であることを家来から聞いていましたが、サウルはそういう理由でダビデを召したのではありません。ただ、音楽を奏でてもらうためでした。 しかし、このように、サウルに竪琴の演奏者として引き立てられたダビデのことを考えてみましょう。ダビデは、いや、私は戦えます、ぜひ私を演奏者ではなく、兵隊にしてください、とは言いませんでした。 またダビデは、王の前に自分の演奏技術を見せてやる、とばかりに、派手な演奏をしたわけでもありません。王の前に仕える姿勢で、慎ましく、竪琴を弾いたのみです。 ここに、私たちが礼拝に臨むにあたって、賛美をいかにささげるかを知るヒントが隠されています。そう、私たちにとっての賛美とは、「仕える」ことです。使徒ペテロをして「王である祭司」と言わしめているとおり、私たちクリスチャンは「王」なのです。ということは、私たちひとりひとりはほかの兄弟姉妹に対し、「王」として遇する必要があります。「王」が礼拝という形で神の前に出ているならば、私たちはその「王」の礼拝をアシストするのです。そのアシストする働きを、私たちは賛美を持って行うのです。 私は礼拝の司会に立つことが多く、その分、讃美歌や聖歌の導きをする機会も多くなるわけですが、そのとき心がけるべきことは、この賛美の主たるささげ手は、どこまでも会衆のみなさまである、ということです。だから、まるで歌手がその技術を誇るように朗々と歌い、会衆を置いてけぼりにしてしまう、ということは、してはならないことです。むしろ、会衆のみなさまがいかに、もっともふさわしい形で賛美ができるか、よく準備します。その準備はすでに選曲の段階から始まっていて、伴奏者にとっての演奏の得手、不得手も考慮した上で選びます。特に、メッセージのあとの聖歌は、メッセージの内容を大きく外さないもの、それでいて、みんなにとって歌いにくくないものを選ぶように心がけます。 こういう努力を、会衆のみなさまも、お互いを自分より勝った存在、言うなれば「王」と遇する姿勢で実践していただきたいのです。だとすると、ことさらに小さな声で賛美するのも徳を立てませんし、自分ばかりが目立つように大声で賛美するのも、仕える姿勢とは言えません。互いを神の前に立て上げること、そのことを、賛美をともにおささげすることによって、実践していただきたいのです。 二番目に、ふさわしい賛美とは、癒やすことです。 詩篇22篇3節のみことばは、以前の訳の聖書では、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。そうです。私たちが賛美をおささげするところに、主がともに住まってくださるのです。 賛美のうちに住まわれる主は、癒やし主です。だから、主の御名をほめたたえるとき、そこに癒やしが起こされるのは当然のことなのです。賛美のうちに住まわれる主が、賛美の歌をもって主をほめたたえる私たちのことを、癒やしてくださるのです。 私たちは、自分が賛美を歌うことによって癒やしを体験するものです。しかし、忘れてはいけないこと、それは、私たちが賛美の歌を人の耳に聴かせることにより、主がその聴く人に癒やしのみわざを起こしてくださる、ということです。 私たちが、礼拝というものをこうして、会衆がともに集うということをもっておささげすることに意味があるのは、私たちひとり人が歌うその賛美の歌が、ほかの兄弟姉妹の耳に届き、その兄弟姉妹が主の癒やしを体験する、というみわざが起こされることにあります。そうです、この点においても、私たちは「仕える」者となります。賛美の歌をもって兄弟姉妹を癒やす、そのことで私たちは「仕える」のです。私たちが身を低くして、謙遜な態度と姿勢でお仕えするとき、そこに主は働いてくださり、私たちの歌声をとおして、心傷つく方々を癒やしてくださるのです。 そして第三に、ふさわしい賛美とは、霊的に闘うことです。賛美、それは、自分が気持ちよくて歌うものではないことは、さきほども申し上げました。自分が気持ちいいということは、厳しいことを言えば、自分に酔っている、ということ、それは、一見すると神をほめたたえているようで、実は、自分の肉を満足させることにしかなりません。 ダビデは、自分の音楽の気持ちよさに酔いしれるために、サウルの前で竪琴を弾いたのではありません。サウルに取り憑いた悪霊を去らせるために、祈りを込めて、真剣に奏でました。それは文字どおり、戦いです。ダビデは神の霊の臨む神の人として、サウルに取り憑いた悪霊どもに負けるわけにはいきませんでした。しかし、その戦いは武力、または暴力にはよりません。賛美という、静かにして美しい音楽、これで戦ったのです。 みなさま、賛美とは戦いであると、意識して歌ったことはありますでしょうか? もちろん、「ひかりの高地に」ですとか「たちあがれいざ」ですとか「すすめ主イエスの兵士らよ」ですとか、そういう、いかにも霊的戦いの歌を歌うのは、霊的な「戦意高揚」には役に立ちます。しかし、およそ賛美というものはみな、悪魔および悪霊どもとの戦いの武器といえるものです。私たちは御霊に満たされて神をほめたたえる歌を歌うとき、悪魔、悪霊は、私たちから逃げ去ります。 物騒な物言いとなるのは承知の上で申しますが、礼拝という場は戦場です。悪霊どもは、私たちが神さまとそのみことばに心を向かわせないようにするためには、手段を選びません。室温が暑すぎる、寒すぎる、なんて気になるかもしれません。あっ、また武井牧師が変なことを言った、なんて、いつまでも気になって、それ以上、ことばが耳に入ってこなくなるかもしれません。ハエやカメムシが飛んでくるかもしれません。眠くてたまらなくなるかもしれません。スマホのスイッチを切り忘れて、鳴ってしまい、つい、そっちに気を取られるかもしれません。私が申し上げたいことは、悪魔はどんな方法を用いてでも、神さまに私たちの意識が集中しないように働いている、ということです。 そんな私たちが、どんな妨げに会おうとも、心から神さまに意識を向けて礼拝するようになるために、賛美という現場において悪魔、悪霊どもと戦い、勝利を体験する必要があります。だからみなさま、真剣に歌ってください。祈りを込めて歌ってください。よりよい歌の声をおささげするために、普段から声を鍛えることだってしていただきたいのです。すべては、戦いに勝利するためです。 今日はこうして、サウルの前に竪琴を弾いたダビデをモデルに、私たちにとっての賛美の祝福とは何かを学びました。賛美とは仕えること、人を癒やすこと、戦うことであると学びました。これからはそう意識して、ダビデにならった、素晴らしい賛美のささげ手として用いられていく、そのような私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。









