聖書箇所;ヤコブの手紙5章1節~6節
メッセージ題目;「金持ちとはだれか」
多くの人は、お金持ちになることに憧れ、またそうなれるように努力する。しかし、お金持ちというものはそんなに憧れるべきものなのだろうか? 聖書のみことばを見ると、必ずしもそうではないことがわかる。
本日の箇所は、お金持ちに対する警告である。1節のみことばからして「金持ちたちよ、よく聞きなさい」ということばから始まっている。「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」、穏やかではないが、これが聖書のメッセージである。
もちろん、お金持ちになることが神さまの祝福のひとつであることは、聖書も語ってきたとおりである。ヨブ記のヨブがそうだったし、ダビデにしても、ソロモンにしてもそうだろう。しかし、それは特別なケースであって、だれもがお金持ちになるわけではない。むしろ神の民は、お金持ち、権力者によって虐げられてきた弱者である。
イエスさまのたとえ話に、金持ちとラザロ、という話がある。金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロは、死んで天国に行くが、金持ちは地獄に落ちてしまう、という話。また、イエスさまは、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴をくぐるほうがもっとやさしい、とおっしゃった。まさしく「不可能」というレベルである。
そういう前提でこのヤコブのことばを聞くと、金持ちになった以上、服するべきさばきに服さなければならないというように思えてくる。すると、もし自分がお金持ちだという自覚のある方、人からお金持ちだと言われている方は、もうだめなのだろうか? 読み進めていこう。
2節と3節。金持ちが後生大事にしている富は、腐っている。自分のことを立派に見せている服は、どんなに立派でも、実は虫に食い荒らされている。私たちはタンスに防虫剤を吊るせば虫に食われることはなくなると考えるが、ほんとうのところ、防虫剤を吊るそうが何をしようが、その服はすでに虫に食い荒らされている。
そして、金銀はさびている。さびが彼らを責め、その肉を火のように食い尽くす。考えるだけでも怖ろしいことだが、彼らがなぜそのような目にあうのかというと、「終わりの日に財を蓄えた」からだという。つまり、もう神さまはすでに終わりの日をもたらしておられる、その終わりの日に神さまを無視して、役にも立たない富や財を蓄えてきたからだ、ということである。
その人はどうしなければならなかったのだろうか? イエスさまはお教えになった。マタイの福音書6章19節から21節。自分のために蓄えるのではなく、天に蓄えればよかった。つまり、神の国とその義のために用いればよかったのである。思いつくところではいろいろあろう。教会や宣教の働きに献金するとか、貧しい人、困っている人のために用いるとか。いずれにせよ、自分の快楽のために用いない、自分さえよければという用い方をしないことである。
5節のみことばの表現を借りれば、自分の心を太らせるような財の用い方をしている人は、どういう生き方をしてきただろうか? 4節。自分が経営する組織、こんにちの日本なら会社や法人と言い換えてもいいだろう、で働く者たちが重労働にあえいでいるのに、ろくに養われない。ブラックな職場である。そんな労働者たちは神さまに叫んでいる。まさに、エジプトの横暴に耐えかねて神さまに叫んだイスラエルのようである。つまりこの場合、金持ちは神さまのみこころをいたく踏みにじる権力者と化しているわけである。
みなさまも職場でたいへんな思いをなさっていないだろうか? そのとき、主に叫んだ経験はないだろうか? 安心していただきたい。主は必ず、その叫びを覚えておられる。そして、その叫びに応えてくださる。まさにエジプトに報いられたようにである。エジプトの手からイスラエルをお救いになった神さまの御手は、今も変わらずに私たちのことを導いてくださる。
しかし私たちは、そのような主人に自分で復讐をすべきではない。これは、ローマ人への手紙12章19節と20節にあるとおりである。わざと手抜きして働いたりして、組織に損失をもたらすようなことをしてはいけない。むしろそのようなときこそ、心身の健康が許すかぎりかぎりまじめに働こう。
そうすることが相手の頭に燃える炭火を積む、とある。炭火とはイザヤ書6章のみことばにおいては、天の御国で燃やされているものであり、そこから取られた火が唇にあてられるとその人の不義はきよめられ、神のことばを宣べ伝えるにふさわしいものとされる。同じことはヨハネの福音書にも見られ、イエスさまの裁判を見守るペテロのそばで赤々と燃えていた炭火は、ペテロが土壇場になってイエスさまを裏切る罪人であることを照らし出した。
しかしのちにペテロは復活のイエスさまに会うが、そのときイエスさまはやはり燃える炭火で魚を焼いて、傷心のペテロのために朝ごはんを用意してくださり、まことの羊飼いとしての使命を回復させてくださった。このときイエスさまが用いられたものも炭火だったわけである。炭火はそのように、人の罪を示し、悔い改めに導く聖霊の働きを象徴している。だから、相手の頭に炭火を積むことは一見すると相手を焼き滅ぼすようなさばきを加えることに見えるが、ほんとうのところ、相手が罪を自覚させられて悔い改め、神さまのみこころに沿う人になるということにつながることである。
だから私たちはどんな環境でも忠実に働くことが求められるが、心身の健康が許すかぎり、これは大事。労働の結果心身の健康を壊してしまったら元も子もない。私たちの善意を悪で返す権力者はいるものである。今日の箇所で問題にしている「金持ち」とは、まさにこのタイプの悪辣な権力者、自分を肥え太らせるためならば人がどうなってもいい人のことを言っている。
そうやって人から搾取する者のすることは何か、といえば、5節にあるとおり。肥え太らせるのは「心」である。ごちそうをたらふくたべてからだが太ったら、ジムにでも行けばいい。サプリでも飲めばいい。少なくともからだは引き締まる。しかし、からだが格好よく引き締まろうとも、心に贅肉がつきまくっているという事実に変わりはない。人を人とも思わないくらい、人を愛せなくなってしまうくらい、心が肥え太って鈍くなってしまっているわけである。
屠られる日のために、とあるが、そのように贅沢のかぎりを尽くして肥え太った者は、終わりの日にほふられる。言い換えれば、永遠の死へと突き落とされる。自分のために富んでも、神の前に富まなかった生き方、その生き方がことごとくさばきにあうわけである。
さて、6節のみことばに注目しよう。金持ちの人を人と思わない生き方とは、人を不義に定めて殺す生き方だということである。金持ちに雇われる立場の人が、あえて金持ちに歯向かうことがあるだろうか? こうして、金持ちの横暴に身をさらすしかなくなり、ついにはいのちを落とす。私も高校時代の親友が働きすぎで過労死をしたが、過労死させられるような人は、まさにこの横暴の中に抵抗もできずに身をさらしつづけた、やさしい人ではないかと考える。
さて、金持ちが雇用するような人はたいていひとりではなく、少なくとも2人以上、複数だろう。しかしこのみことばを見ると、「正しい人」、「彼」と、単数になっている。これは注目すべきことである。つまり、これはひとりの人を指すと考えるべきである。
もう、おわかりだろう。同じヤコブの手紙2章6節と7節、金持ちにおもねって貧しい人を差別する教会を糾弾するみことばであるが、このように金持ちとは、主の御名をけがす存在である。そのように、主の御名をけがすことにおける究極の形、それは神の御子イエスさまを十字架につけることでなくて何だろうか。そう、イエスさまという何の罪もない正しい方を、不義に定めて殺した、イエスさまはそのような者たちに一切抵抗されず、粛々と十字架を背負われた、この6節のみことばは、時の権力者たちがイエスさまを十字架につけたことを語っているのである。
さあ、そうなると、このみことばは「イエスさまを十字架につける者」という視点で問い直す必要がある。今日学んでいるみことばは、果たして、金持ちを自認する人、人から金持ちと思われている人だけのものだろうか?
私たちも多かれ少なかれ、腐る富、虫に食われる衣、さびる金銀を後生大事に取っておく傾向がないだろうか? 私たちが肉に属する生き方をやめないなら、どうしてもこの世のものに執着するようになってしまう。その点で私たちは、世の終わりを意識もしないで自分を肥え太らせる金持ちと五十歩百歩である。
そうだとすると、私たちは客観的に見て金持ちであろうとなかろうと、自分の身に不幸が迫っていることを嫌でも考えなければならない。不幸とは何か? 持っていたものがすべて滅ぼされ、下手をすると自分まで永遠に滅ぼされかねない、ということである。
しかし、あらためて1節のみことばを見てみよう。このみことばは何と命じているか? そう、「泣き叫びなさい」である。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。あなたがたに不幸が迫っているのはもはや避けられないから、その不幸を粛々と受け入れ、地獄に落ちて永遠に苦しみなさい」とは書いていない。「泣き叫びなさい」である。気高い金持ちにふさわしくないほどに、恥も外聞もなく泣き叫びなさい、というわけである。
泣き叫ぶその声はだれが聞くのだろうか? そう、神さまである。神さま、このままでは私は救われません! 滅んでしまいます! 私を滅ぼさないでください! 助けてください! その叫びを神さまは必ず聞いてくださる。
泣き叫ぶのは金持ちだけのすることではない。もし私たちが、ふさわしく富を用いていないと気づかされたならば、また、人を人と思わないような行動に出ていたと気づかされたならば、その罪ゆえにイエスさまが十字架におかかりになったと認め、悔い改める必要がある。泣いて叫んで悔い改めるくらいのことをしたっていい。おなかのすいた赤ちゃんが大きな声で泣くように、私たちも生きるために神さまに向かって泣き叫ぶのである。
私が韓国の教会で学んだことはたくさんあるが、その中でも特に学んだことは、神さまの御前に泣き叫ぶように大きな声を上げてお祈りすることである。これは日本のような環境ではなかなか難しいかもしれない。しかし、機会があればどこかで実践してみられることをお勧めする。神さまに実際に声を上げることによってはじめて、神さまがこの切なる叫びを聞いてくださっているということを実感できるようになるからである。論より証拠、ぜひ実践してみていただきたい。
そうして泣き叫ぶ祈りは、私たちの富の用い方、そして人との接し方を変え、ひいてはイエスさまとの関係を変える。イエスさまを十字架につけたほどの罪人にふさわしい、富を用いることにおける罪、人と接することにおける罪、そういった罪が悔い改めに導かれる。ここから私たちの行いが変えられ、行いをもって私たちの信仰が証しされるようになるのである。
何度も繰り返すが、ヤコブの手紙は私たちに対し、行いによって救われるなどと一切語ってはいない。確かにヤコブの手紙は、行いというものを強調してはいるが、それは行いによって救われると語っているわけではない。ただ、まことの信仰はまことの行いを生み出してしかるべきであると語っているわけである。
私たちの富の用い方、また、人間関係のつくり方を振り返ってみよう。私たちはこの箇所で糾弾されている金持ちのことをさばくことができるだろうか? 私たちも多かれ少なかれ同じことをしているならば、悔い改め、天に宝を積む働きをし、また、人々の赦しをいただいてこれまで以上によい関係を築いて働いていこう。そのようにして、この世に生けるイエスさまを証しする働きをするために用いられていこう。