聖書箇所;ルカの福音書10章17節~20節
メッセージ題目;「宣教する弟子の原点」
あらためましてみなさま、あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。
今年のテーマを「宣教する弟子」とつけさせていただいた。聖書に示されたイエス・キリストの救いを人々に語ること、それももちろん宣教であり、必要なことだが、その福音を語る私たちの人格や言動がすばらしい福音に伴っていないならば、人々は耳を傾けることはなかろう。反対に、私たちが聖書にしたがってよい行いの実を普段から結べているならば、そのような私たちの語る福音は、とても説得力があるものとなる。ゆえに、生活のあらゆる面でみことばに従順になり、その従順の生き方を人々に対して現すならば、それは立派に「宣教」ということができる。あとは、そのことばをもってイエスさまの十字架を語ることができるように備え、語る機会が与えられるように祈ることである。
今日の箇所は、その「宣教する弟子」としての私たちは何者であるかをイエスさまが語っておられる。年の初め、私たちにとって最も大事なイエスさまのみことばに心を留め、間違いのない生き方を目指していこう。
まず、17節を見る前に、その前提である1節から。イエスさまは十二弟子とは別の72人の弟子を召され、彼らに働きを任された。それは彼らが、イエスさまご自身が行かれる予定の土地に先に行って、みことばを宣べ伝えるためだった。イエスさまを必要としている人々は、悪霊に取りつかれてもいたし、重い病気にかかってもいた。そのような人々を、イエスさまご自身というよき知らせによって解放する役割を、彼らは負っていた。また、いわばイエスさまの「分身」となって、72割る2で36倍の働きをした、とも言えるだろう。ここに集う人はざっと○○人。それを2で割れば××人。それだけのイエスさまの分身になると考えていただきたい。すごいことではないだろうか?
その前提で17節。彼らは興奮して帰ってきた。彼らはイエスさまの御名を語ると、悪霊でさえ従ったというのである。イエスさまの御名によって悪霊を追い出し、病をいやすことができたのであろう。イエスさまの御名は力がある。私たちが手にしている聖書は、イエスさまの御名を啓示している。このみことばを私たちが持っているということは、すごいことである。ただし、イエスさまの御名のほんとうのすごさが現れるのは、このイエスさまの御名を「用いる」ときである。
私たちの生活は、イエスさまの御名を「用いる」生活であるべきである。普通の人、ただの人のように生きるならば、私たちは特にイエスさまの御名など必要としない。しかし、私たちが困難に取り巻かれるとき、そう、たとえば重い病気、人間関係のトラブル、経済的な困窮、そういったことに苦しみ、自分の力ではどうにもならないとき、私たちの最大の強みは、私たちにイエスさまの御名があることである。イエスさまの御名によってあらゆる問題が解決「した」ことを宣言するとき、私たちはどれほど、主のみわざを体験することだろうか。私たち主の共同体は、その証しに満ちてしかるべきである。
昨日もお話ししたが、私たちにとっての宣教により、サタンとその手下の悪霊どもはこの世に居場所をなくし、追い出される。それが悪霊が追い出されるということなのだが、彼ら弟子たちが体験したことは、おそらくもっとダイナミック、ドラマチックなものであった。そういう「悪霊追い出し」のわざはこんにちにおいてもしばしば世界の各地で起きてはいる。それを慕い求めたい思いが、とかく唯物論、合理主義に支配されがちな日本に生き、それに息苦しさを感じるようなクリスチャンたちの間でも起こることは理解できよう。
では、この「悪霊追い出し」についてイエスさまはどう語っていらっしゃるだろうか? 18節。実はイエスさまは、ご自身が神の指によって悪霊を追い出されることによって、神の国がすでに来ていることを語っておられる(ルカ11:20)。
そのこととこのみことばを関連づけると、悪霊を追い出すことをもって神の国が来たことを実現されたイエスさまのご到来そのものが、サタンを天の座から突き落とし、ゆえにイエスさまの御名を用いる者は、神の指をもって悪霊を追い出す働きに用いていただけたということだというわけである。イエスさまが来られた以上、サタンはもはや王としての権威を行使できない。宣教とは、この世界の王はサタンではなくイエスさまであることを高らかに宣言し、また実現させていただくわざである。
コリント人への手紙第二10章4節をご覧いただきたい。私たちは主にあって、また主のゆえに戦う存在である。そんな私たちには、サタンの要塞を打ち倒す武器が与えられている。その武器とはローマ13章12節から14節によれば、「主イエス・キリストご自身」である。72人の弟子たちはまさに、「主イエス・キリストの御名」、言い換えれば「主イエス・キリストご自身」という最強の武器でサタンの要塞を打ち破る戦いをしたわけであった。
19節のみことばに行こう。「蛇やサソリを踏みつけ」とあるが、猛毒を持ったものでも人間の足に踏まれたらひとたまりもないように、主は私たちがサタンを踏み砕くことができるようにしてくださった(ローマ16:20)。なお、このイエスさまのみことばは、詩篇91篇13節によれば神さまご自身であり、イエスさまのこと。そのようにサタンを踏み砕く神の権威を、主は私たちに授けてくださった。そのようにして、私たちは敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられている。
しかし、イエスさまがこうおっしゃっても、私たちは思わないだろうか? 私は時にサタンに負ける。悪いことを考えてしまう。悪いことばを口走ってしまう。悪い習慣がやめられなくて、そのたびに自分は「負けた」と思ってしまう。しかし、それはちがう。サタンは私たちを完全に打ち負かすことなどできない。マタイ10章28節にあるとおり、私たちを滅ぼすことがおできになるのは神さまだけで、サタンには絶対にできない。そういう意味で、私たちは髪の毛ひとすじも失われない、完全な救いに入れられている以上(ルカ21:16~18)、サタンは私たちに、ほんとうの意味での害を与えることなどできないのである。
そのように、絶対的に守られている存在、絶対的に勝利している存在、それが私たちである。今年2024年、私たちはこの絶対の勝利、イエスさまの十字架の勝利をますますわがものとして、力強く、救い主をその生き方全体をもって証ししていく生き方をしてまいりたい。
さて、その生き方をするうえで、イエスさまは大事な注意をしてくださっている。20節。イエスさまが完全にサタンに勝利された以上、イエスさまの御名を用いるあなたがたも勝利するのであるという構造を、イエスさまはお語りになった。しかし、私たち主の弟子は、悪霊を服従させられることで喜んではならない、自分の名前が天に記されていることを喜べ、とイエスさまはおっしゃった。
しかし、17節にもあるとおり、弟子たちは大喜びして帰ってきたのではなかっただろうか? 悪霊を追い出す神の指の素晴らしい力を目撃して、喜んだのではなかっただろうか? しかし、17節と20節を合わせてちょっと見ていただきたい。彼らは確かにまことの神なるイエスさまの御名を用いて、その結果、悪霊が自分に服従するということを体験した。しかし、彼らの視点は、「悪霊どもでさえ私たちに服従する」と、「私」に焦点が合っている。厳しい言い方をすると、「私」の栄光にイエスさまの御名が利用されているとさえ言える。
これは宣教という神の働きをする上で、大きな罠となることである。神のわざの主人公は「私」ではない。イエスさまはやがて、この世界をおさばきになるためにこの世に来られる。そのとき主は、私たちが何をしたかということで、私たちのことを評価なさらない。マタイ7章21節から23節を読もう。彼らはイエスさまの御名によってすごいことをした。それはもちろん事実である。しかし彼らは「神の器」ではあったかもしれないが、そのような数々のすごいことをした「神の器」ゆえに神さまがその人のことを高く評価するとはおっしゃっていない。マタイ16章26節を見よう。イエスさまの御名を用いてすごいことをし、それで主のご栄光が顕れるようなことが起きたからと、主がその器を救われなかったら、いったいその人のあらゆる活動には意味などあるだろうか。
だから私たちはだれもが、恐れおののいて自分の救いを達成する必要があるのである(ピリピ2:12)。しかし、イエスさまは大前提として、「天にあなたがたの名が記されている」と語っておられる。私たちは「神さまのために何をしたか」で評価される以前に、「神さまが私たちを何者にしてくださったか」で自分自身のことを見るべきである。私たちは「神の国の兵士」である以前に、「神の国の国民」であることを忘れてはならない。
その、働く以前の原点、神の国の国民であるという原点につねに立ちつづけるならば、私たちは救いを生涯かけて達成する祝福された歩みができる。その歩みは、生活全体で証しする宣教の実を結ぶ、キリストの弟子の歩みである。神の国の国民だから、天に名の記されている救いを喜び、その救いを人々の前で、よい行いをもって現していくのである。
今年私たちは、どんな歩みをすることを祈ろう?