みことばで武装して養われよう

聖書箇所;マタイの福音書4章1節~11節 メッセージ題目;みことばで武装して養われよう    聖書は古今東西読み継がれてきた書物なので、そのぶん、イエスさまのことばも一般に有名なものが多い。「右のほほを打たれたら左のほほも向けなさい」など、とても有名である。しかし、有名ではあっても、本来の意味とかけ離れて解釈されてしまっているものもある。「人はパンのみにて生きるにあらず」など、とくに有名だが、みんなこのみことばのほんとうに言いたいことがわかっているのだろうか?「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、もったいぶって文語で言うのもどうかと思うが、ともかく、そのことばのあとには、もっと精神的なものも人は必要としている、くらいにしか考えないで、「神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまがもっともおっしゃりたかったことがはしょられているのは、クリスチャンとしてとても残念に思えることである。    そこで今日の箇所。イエスさまが「人はパンのみにて生きるにあらず」と喝破されたのは、ご自身を誘惑しにかかった悪魔に対してであった。この箇所を、特に「人は……神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまのおっしゃったみことばから解き明かし、私たちにとって肉の糧のみならずみことばという糧がなぜ必要なのか、学んでまいりたい。    私たちにみことばという糧が必要な理由。第一に、私たちの生きる世界は、悪魔の試みに絶えずさらされる荒野のようであるからである。    1節以下、イエスさまは悪魔の試みを受けるように、御霊によって荒野に導かれた。イエスさまは公の生涯に入られ、神の国を大々的に宣べ伝える前に、悪魔の試みをお受けになる、というプロセスをお通りになった。    イエスさまがそこで体験された試みは、マタイの福音書、また、並行して同じことが書かれれているルカの福音書に記録されているものにかぎっても、3つ。しかし、どれもたいへんな試みではなかろうか? 空腹が襲いかかったイエスさまに、石がパンになるように命じなさい、という試み。みことばを示してまでして、神殿の頂から飛び降りてごらんなさい、という試み。サタンをひれ伏して拝むなら、世界のすべての栄華を与えよう、という試み。    イエスさまはこれらの誘惑をすべて退けられたわけだが、聖書が淡々とこのできごとを記述しているのを読むと、イエスさまが悪魔とのこの闘いをどれだけ熾烈に展開されたか、つい読み落としてしまわないだろうか? 私たちに置き換えればわかるだろう。私たちは一日でも断食することをためらってしまうだろう。おなかがすいたらからだがどうなってしまうかわからない、とか。また、自分を示して人から賞賛されたいという自分の思いに勝てるだろうか? そして、いろいろな富が与えられると思うならばそれを欲しがらずにいられようか?    もっとも、最後の誘惑に関しては、別の解釈も成り立つ。世界の栄華の背後にあるあらゆる虐待、搾取、不正……こういう世界にならないようにと、古今東西さまざまな王や政治家が志を持って社会の改革に挑んだ。しかし、私たちが知っているとおり、ひとつとして成功したものはなかった。社会を掌握する者がいかに崇高な意志を持っていようとも、所詮罪人であり、どこかで悪魔に魂を売って腐敗に手を染め、結果として社会は依然として悪魔の支配下に置かれるのである。だからイエスさまは悪魔の誘惑に屈せず、主を礼拝し、主にのみ仕えることがすべての答えだ、と悪魔に突きつけられた。    私たち人間は、このような悪魔の試みがうようよする社会に生きている。しかし、驚くことに、これだけサタンが私たちをつけ狙って、神さまのみことばに従わず、罪を犯すように誘惑しているというのに、そのようなサタンの誘惑や攻撃に対して、私たちはあまりにも丸腰ではないだろうか? それゆえ私たちは、サタンの攻撃や誘惑につねに勝てるように、身を備える必要がある。    そのモデルはやはりイエスさまである、イエスさまは、これらすべての試みに打ち勝たれた。すべて、みことばをお示しになることによってである。これらのみことばがたちどころに出てきたのは、それだけ、イエスさまがみことばに通じておられた証拠。    今から80年ほどむかし、だからそれほど前ではない時代にも、まったく同じと言っていい実例がある。アン・イスクという女性で、クリスチャンとして神社参拝に反対した音楽教師の人だが、彼女は逮捕されて刑務所で過ごす間、当然聖書を手にして読める状況でなかった中、彼女を支えたのはこれまで暗唱してきた数々の聖書のみことばだった。詳しくは教会図書にある『たといそうでなくても』を読んでいただきたいが、みことばがいかにクリスチャンをして悪魔の攻撃と誘惑に大いに勝たしめるかがこの本を読むとよくわかる。アン先生はまさに、悪魔をみことばによって退けられたイエスさまの御姿に倣っておられたわけである。    私たちがみことばを毎日読む必要があるのは、私たちを取り巻くこの社会は敵だらけだからである。橋田寿賀子のドラマは「渡る世間に鬼はない」のことわざをもじって「渡る世間は鬼ばかり」だったが、その言い方のほうが聖書的に見て正しくこの世というものを捉えている。 私たちを取って食おうとする鬼、サタンと悪霊どもがうようよするこの世間を渡るには、それなりに武装している必要がある。    イエスさまが試みを受けられたのは、ヘブル人への手紙4章15節にあるとおり。私たちの弱さに同情できるだけの立場をお持ちになるためであった。試みを受けられたイエスさまは、試みにあって苦しむ私たちに寄り添ってくださる、私たちの味方。神であられるイエスさま、試みにあわれてもなお罪を犯すことがなかったきよいお方なるイエスさまが私たちの味方である以上、だれも私たちに敵対することはできない。サタンがどんなに強くても、私たちに敵対することはできない。    それでも執拗にサタンは襲ってくる。そんなとき、私たちは自分がキリストのものであることを忘れてはならない。だから私たちはみことばを毎日読んで、この社会に遣わされていくのである。一日の働きを始める前にみことばを読んで黙想すること。それで私たちは武装できる。エペソ6章13節から17節、神のすべての武具はまず5つの防具を身につけてから、それから最後に攻撃のためのみことば。しかし、5つの防具もよく読むとみなみことばであることに気づく。みことばで充分な武装をして、つまり、神に近づいて、それからサタンにみことばで斬りかかるのである。この順番を間違えると痛い目にあう。私はかつて、リバイバルを叫んで宣教活動に精を出していた若者たちがつまずき、信仰から離れていったケースをほんとうにたくさん見てきた。それを防ぐには、戦う前に「5倍」神さまと交わることではないだろうか。    サタンは強いから侮れない。しかし、私たちはサタンに勝てる。なぜならば、イエスさまが十字架の上で勝利を取ってくださったからである。そのイエスさまのみことば、神さまのみことばを日々いただくことで、私たちは武装し、サタンとの闘いに出ていける。まさに日々の営みはサタンとの闘いの連続。その闘いに、みことばをもって大いに勝利するように祈る。    私たちにみことばという糧が必要な理由。第二に、人の霊的な空腹は神さまがみことばを語ることによって満たしてくださるからである。    礼拝の冒頭でもお話しした、サタンとイエスさまの問答。3節と4節。40日40夜何も口にしないなど、想像を絶する話である。いま、韓国のプンダンという町に「プンダン・ウリ教会」という教会を開拓し、韓国教会で素晴らしく用いられているイ・チャンス先生という方は、お父さまも牧師だったが、そのお父さまは40日断食祈祷をするように導かれ、祈祷院で祈っていたところ、それが果たせないで召されてしまったという。私の友達にも豊村くんという、リバイバルを渇望する好青年がいたが、彼も断食祈祷院で祈っていて帰らぬ人となった。断食祈祷はとてもすばらしいもので、それにまつわるすばらしい証しもたくさん聞いているが、断食して祈り通せるのは特別な恵みであって、もし40日断食祈祷ができたからといっても、それを誇ることなどできないはずである。    なぜこのようなことを言うかというと、40日の断食のあとにイエスさまに襲いかかった空腹の苦しみは、並大抵のものではなかったと想像できるからである。目の前の荒野に転がる石ころがパンに見えてきてしまう、そんな幻覚に襲われるような空腹……情けない話だが、私は少しでも食べなかったらくらくらしてしまうので、イエスさまのこの空腹の苦しみは想像を絶する。    そこをサタンにつけこまれたとき、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という、申命記のみことばをもって返された。イエスさまはその全能のみわざをもって石をパンに変え、それを召しあがる、ということを決してなさらなかったのである。この箇所をお読みすると、イエスさまはなんとこのみことばを口にされることによって、40日の断食の果ての壮絶な肉体の空腹にさえ打ち勝たれたようでさえある。ということは、ほんとうに人にとって問題となる空腹は、実は肉体の空腹、食べ物を口にしないゆえの空腹ではなく、霊の空腹、みことばをいただかないことによる空腹であった、ということになる。    人はパンのような肉の糧を食べて生きる。神さまがそのように人間をおつくりになった以上、人間は食べることでいのちを保つ。しかし食べていのちを保つだけでは、人間は凡百の動物と同じことになってしまう。神さまが動物と人間を別個の存在としておつくりになった、そのしるしは、人間には神さまのいのちの息が吹き込まれている、ということである。いのちの息、これは霊であるが、人間は霊を持つゆえに霊なる神さまと交われる。動物には霊はない。お祈りをしたり、みことばを読んだりする動物はいない。人間が動物とちがって神さまと交われるのは、霊が与えられているからである。    私たちの肉体は水や穀物や野菜、果物や肉のような、物質的な糧を口にしないと空腹で衰える。しかし、ほんとうに警戒しなければならないのは、「霊的な空腹」である。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということばが多くの人に好まれたのは、肉の糧だけで人は生きられないことにみな気づいているからだろう。その点では正解だが、ほんとうの正解は、「神の口から出る一つ一つのことば」を得ることによって、はじめて人は霊の空腹を満たし、霊の衰えから免れる、ということである。    神さまは、ご自身の霊を吹き込んでくださったほど大事な存在である私たち人間を養いたいと願っておられる。私たちの霊を、ご自身がひとことひとことお語りになることによって満たし、養いたいと願っておられる。わたしはあなたを養いたいんだ! あなたが養われるために、わたしは神のことばをあなたに語りたいんだ! この神さまのみこころがお分かりだろうか?    私たちはこの社会で活動するために、当然のように食事をとる。食事も家族で食べたり、職場の同僚と食べたりもするだろう。それだけ食事の時間は大事だと認識しているわけである。では、みことばをお読みする時間は、そこまで大事にしているだろうか?    ディボーションと聖書通読は、毎日養われて、霊が満たされ、育つ時間だから必須である。ところが私たちが神から遠ざかっていると、実は私たちが霊がとても空腹だったことにさえ気づかなくなってしまっていることになる。私たちはだから意識してでもみことばをお読みする必要がある。忙しい日々が続いても、毎日三度三度のご飯を抜いてまでして働くことはさすがにしないだろう。それと同じことで、私たちはどこかでみことばを補給しないと、ガタが来る。    ディボーションと聖書通読が個人的な「食事」なら、教会における礼拝、またみことばの学びは「会食」。コロナ下はそういうことも堂々とできなかっただけに日本の教会はずいぶん弱体化したが、とても感謝なことに、うちの教会はコロナ下でも礼拝を休むべきではないという複数の信徒の方のご意見があって、礼拝はしっかり守られて今日まで来た。私たちはやはり衰えたと思うだろうか? いまこそディボーションと聖書通読という原点に立ち帰り、毎日みことばによって武装し、養われてこの世で雄々しく戦ってまいりたい。そして、そのいただいたみことばの恵みを分かち合い、ともに強くなっていこう。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4

「主のおしえに潤される幸い」

聖書箇所;詩篇1:1~6 メッセージ題目;「主のおしえに潤される幸い」      私は9年前に当教会に赴任して以来、一貫して聖書通読とディボーションを強調してきた。しかし、みなさまはディボーションについてどれほどご存じだろうか? しっかり実践しておられるだろうか? それ以前に、やり方を知っておられるだろうか? テキストを毎月購読しておられる方も、その日の箇所の解説や関連するエッセイはさすがにお読みになっていると思うが、ご自身ではどれくらい、ディボーションに取り組めているだろうか? 今日からしばらく、ディボーション・ライフの実際について分かち合ってまいりたい。    そこで今日の箇所、詩篇1篇から学びたい。詩篇1篇の特徴は、神のみこころにかなう「幸いな人」と、みこころにかなわない「悪しき者」を対比させているという点である。このところ箴言を通読していて、お気づきのことがあるだろう。「神のみこころにかなう人」と、「みこころにかなわない人」を徹底して対比しているという点である。今朝お読みになった箇所にも例えばこのようにある。32節、「訓戒を無視する者は自分自身をないがしろにする。叱責を聞き入れる者は良識を得る。」このように両者を対比させることで、私たちは「悪しき者」にならないで「幸いな人」になろうとするわけだが、それはこの詩篇1篇に顕著である。    さっそく1節から見てみよう。幸いなことよ、ということばから始まっている。これは、イエスさまの山上の垂訓、そのはじまりの部分の、「心の貧しい者は幸いです』に始まる8つの幸いをほうふつとさせる。あれはもともと、イエスさまが大きく口を開かれ、「ああ、幸いなるかな!」と語っておられるみことばである。この詩篇もそう。「幸いなことよ」! この詩を聴く人は、これこそ幸いなことか! と、心を掴まれることになる。    では、何が幸いなのか? それは1節から3節、この詩篇の前半で語られているが、その中でもまず1節では、幸いな人のことを「○○ではない人」という定義の仕方をしている。……3つのことが述べられている。「悪しき者のはかりごとに歩まない」、「罪人の道に立たない」、「嘲る者の座に着かない」。この中でも「悪しき者」、「罪人」が、主のみこころにかなわない悪い存在であることはおわかりだろう。残る一つの「嘲る者」も、聖書の中ではしばしば、罪人、悪人の代名詞として用いられていることばである。きよい神さま、そして神さまの側に立つ人を嘲るのは、罪人、悪人に決まっている。    悪しき者のはかりごとに歩まない、つまり、悪人が考える悪い考えに染まり、その悪い考えのとおりに悪い行動をしない、罪人の道に立たない、つまり、罪人らしく振る舞うようなことをしない、嘲る者の座に着かない、つまり、神さまや神さまにつく人を嘲る立場に立って、嘲ることば、そしることばを口にするようなことをしない……生き方の姿勢においても、ことばにおいても、行いにおいても、罪人として罪を犯すことのないことは幸いである、ということである。    私たちは堕落した世に生きている。普段交わすことば、テレビやインターネットから流れ込んでくる情景、子どもや大人の触れているマンガやゲームのようなメディア、あらゆる場面で教えられる価値観……それらのものはきたない表現を使うこともいとわず、聖書的なきよい価値観、きよい生き方を容赦なくあざ笑い、反対のことをするように私たちを誘惑する。しかし、私たち人間も罪人であり、私たちが罪を犯すのは、周りの環境が悪いからではなく、罪を犯したくてたまらない性質が私たちの中にあるからである。私たちはいつでも、悪しき者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、嘲る者の座に着く人間になりかねない。    主はそのような人間、そのような私たちのことを憐れんでくださった。私たちがどのように生きればよいかを教えてくださった。それが2節に書かれている。……主のおしえ、これは聖書全体。第二テモテ3章16節は聖書全体とは何かを定義しているが、それはまず神の霊感によって書かれたものであり、次に、教えと戒め、矯正と義の訓練のために有益であると述べられている。そのおしえを「喜ぶ」、これが大事。    聖書は薄い紙で字が細かい、しかも分厚い本である。外見が似ている本があるとすれば、それは英和辞典や国語辞典のような「辞書」であろう。しかし、聖書を辞書のように用いてはいけない。聖書はちゃんと通読しながら読み進めるべきもの。何度もこの講壇で言っているとおり、聖書は神さまが私たちにくださった「ラブレター」である。私も妻に出会い、結婚するまでの1年8か月の間、ずいぶん手紙をもらったが、なにしろこちらは日本、あちらは韓国と、1000キロ以上も離れて暮らしていたので、ラブレターを宝物のようにしてためつすがめつして読んだものだった。みなさまにもそんな経験はないだろうか? それほどまでして読んだのは、読むことが「喜び」だったからにほかならない。    では、どうすることが主のおしえを喜んでいることのしるしとなるだろうか? それは、「昼も夜もその教えを口ずさむ」こと。昼は、起きて活動している時間だが、そのときにもみことばを心に留める。夜は、眠る前の安らぎの時間だが、その時間にもみことばを読んで一日の恵みに感謝し、次の日に備える。また、昼も夜も、ということばには、一日中どんな時も、という意味もある。    こうしておしえをつねに口ずさむほどに喜ぶならば、そのおしえは今の自分にとってどんな意味があるのか、考えるようになる。また、今の自分だったらそのおしえを受けて、どんなふうに考え、どんな態度を取り、どんなことばを語り、どんな行動に出ることが神さまのみこころにかないますかと、祈ってお伺いするようになる。ディボーションとは、このことの繰り返しである。聖書解説や関連エッセイを読むのももちろんいいけれども、このように「おしえ」を受けることを欠いては、せっかくのディボーションの恵みがもったいないことになる。    さて、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、どのように「幸い」なのだろうか? 3節。この詩が口ずさまれた地域、イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、つねに潤っている日本からは想像がつきにくいが、水に潤されることは大いなる祝福である。しかし、潤されて栄える祝福を享受するのは、その栄えを独占し、自分だけが祝福を受けるためでは断じてない。流れのほとりに植えられた木は、見るからに爽やかな緑の葉を茂らせ、流れのほとりにからだを休ませに来た人々に木陰を提供して憩わせる。イスラエルは乾季になると木々は葉をつけない荒涼たる景色となるが、この木は枯れずに青々とした葉をつけつづける。人々をよい気持ちにする麗しさが途切れることなく続く。    そして、実を結ぶ。ただし、時が来ると、とある。木に水をやったらすぐに実を結ぶわけではないのと同じように、つねにみことばのおしえに潤されつづけることによって、神さまの時にしたがって実を結ぶようになる。同じように、ディボーションは一日やって恵まれたから、と、間を空けてさぼったりしていてはいけない。それでは潤されていないことになる。ディボーションは毎日続けることで、ようやく時が来て実を結ぶもの。だから、すぐに実が結ばれないからと、あきらめたりしてはいけない。時が来れば必ず実を結ぶと信じて、あきらめずに主の教えを受けつづけよう。    さて、実というものは、たわわに実らせて自慢するためにあるのではない。その実を食べさせ、人々を心地よくし、また、栄養を供給するために、木が実を結ぶように、私たちが実を結ぶのは、自分のためではない。ほかの兄弟姉妹に祝福をもたらす働きに、用いていただくためである。私たちクリスチャンの結ぶ実といえば、ガラテヤ人への手紙5章22節と23節にはっきり書かれているが、これらのことは、そういう実を結んでいるあなたは立派ですね、とほめられてうぬぼれるために身につけるものではない。その性質を身に着けて、人を愛し、人に仕えることで、神の栄光を顕すためである。キリストのからだなる教会のため、また、周りのまだイエスさまを知らない人たちのため、そういう人たちに隣人愛を実践するために、これらの実を結ぶのである。    聖書を単なる素養のためとか、知識を増し加えていい気分になるために読むようでは、実を結ぶことも、いわんやその結んだ実で人々を愛する実践をして神の栄光を顕すこともおぼつかない。だからといって、むりやり何かの行動をする前提でみことばを読み、そのみことばとその日に取るべき行動をこじつけるようなディボーションをしてもいいということではない。みことばに教えられ、そこから行動の慣れるまではある程度の練習が必要だが、御霊の導きがあるかぎり、必ずできるようになるから、あきらめないで毎日取り組んでいただきたい。    さて、4節から6節はおもに、この「幸いな人」と対照的な、「悪しき者」の特徴を述べている。もちろん、あなたがた神の人はこういう者になってはいけませんよ、ということを教えているわけである。まず4節、悪しき者はそうではない。つまり、流れのほとりに植えられた木のように、繁らせる青葉によって人を憩わせる祝福、結ぶ実によって人を養う祝福などない、ということ。あたかもその姿は、風に吹き飛ばされる籾殻のようだというのである。    このあいだ韓国に行ったとき、コンベンションの会場となった平澤大光教会の教会員の経営するお蕎麦屋さんに行く機会があった。平澤大光教会の裵先生のお気に入りのお店である。このお店はおいしく、からだによいものだけを使ってつくるので評判がよい。最大の特徴であるそば粉も自家製で、韓国に2台しかないという特殊な碾き臼もお店の一角にあり、店長さんは粉づくりを実演してくれた。そばの実を機械に入れ、ゆっくり臼で碾くうちに良質のそば粉が出てくる。臼で碾く前段階で、そば殻を取り除くのだが、取り除かれたそば殻がたっぷり入った入れ物のところに書いてある説明書きに目が行った。「そば殻は食べられません。」    そういえばそうだ。そば殻は枕に入れて使うのが関の山で、食べるものではない。籾殻は穀物の一部のようでいて、実際は人に栄養を供給することができないから取り除かれて、捨てられるしかない部分。色といい形といい大きさといい、中身の粉よりも立派に見えるが、所詮外見だけ。だれのことも養えない。しかも、吹けば飛ぶように軽いし、むなしい、中身がない。神のみことばの教えに潤されていないと、そのように中身がなく、何かあったら吹き飛ばされてしまう、いわんやだれのことも養えない悪い人間になってしまいますよ、ということが警告されているわけである。    そのようにむなしい存在はどうなってしまうというのだろうか? 5節。悪しき者はさばきの前に立てない。ひとつとして義が認められず、神のさばきに服するしかない。それなら、正しくあるようにしなければならないのだが、正しい者の集いに足を向けようともしない。彼らは神のさばきを嘲笑い、神が正しいとしてくださった者たち、すなわち、神が救ってくださった者たちの群れである教会に足を向けることをしない。馬鹿らしいと思うわけだが、実際はその集いの中で自分の罪が明らかになり、さばかれることを恐れているだけである。    6節。正しい者の道を主が知っておられるということは、主のみこころにかなう正しい人がどんなにふさわしい道を歩んでいるかを、主がご存じで、認めてくださっている、ということである。そして、私たちが心に留めるべきは、主はこの正しい者の行くべき道を、私たちにみことばのおしえをもって示してくださっている、ということである。    これに対して、悪しき者の道は滅び去る。あってある方なる主のみこころにかなわない者が行く道は、滅んで当然である。しかし、私たちはこの世界で悪の勢力が栄えるリアルな現実を前にして、果たしてこのみことばはほんとうだろうか、と、疑わしくなったり、むなしくなったりしないだろうか? だからこそ私たちはみことばの教えにつねに潤され、みことばこそが現実であり、目に見えている世界はやがて過ぎ去る虚構であることをつねに心に留めながら生きる必要がある。それが神の民に必要なことである。    詩篇1篇のみことばは、私たちがどんなにみことばの教えに潤される必要があるか、潤されて、人々を憩わせ、人々を養うことに用いられる祝福をいただく必要があるかを教えている。私たちはどうだろうか? 日々みことばに潤されよう。その日々いただくみことばの恵みによって、互いを潤し合おう。LINEの分かち合いコミュニティをぜひ活用していただきたい。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4

「輝く安息日」

聖書箇所;イザヤ書58章1節~14節 メッセージ題目;「輝く安息日」    今年の教会のテーマは『主を仰ぎ見て輝こう」であるが、私たちは果たして、この年間テーマほど輝くことができただろうか? 輝くためには何が必要だろうか? どのようにすればみこころにかなって輝けるかのヒントは聖書のあちこちから見出せるが、今日の箇所は特に、こうすれば輝ける、ということが述べられている。特に強調されていることは、見せかけの宗教的な断食ではなく、みこころにかなった断食をすること、そして、安息日をしっかり守ること。私たちはどうだろうか?    今日お話ししたいことは、このみことばに集約されているとおり、「主のみこころを実践しましょう」、「安息日を守りましょう」、これに尽きるが、それはどういう論理で語られていることなのか、せっかくの主日礼拝なので居眠りしないで聞いていただきたい。    1節。ヤコブの家とは神の民イスラエルのこと。イザヤの預言を聴くべき民は、大声で警告されなければならない状況にあった。    国と民族にとってもっとも警戒すべきことは、神のご命令に国と民族を挙げて背くことである。それは、大声をあげてでも阻止しなければならないこと。神の民は、神に背くこと以上に警戒しなければならないことはない。ヤコブ以来、民族全体がいのちの契約を結んでいる以上はそうなのである。    大声をあげて警告すべき状況に置かれている場合、その声に聴き従うか否かの選択は、国と民族に任されている。この警告を真剣に受け止め、真剣に悔い改める者は幸いである。神の民は神に聴き従っていないと、いとも簡単に全体が神のみこころから外れてしまう。そんなとき、みこころはこれだと指し示してくれる人がいることは、どんなにありがたいか。    韓国のキリスト教会の歴史において起こった最初のリバイバルは、1907年のことだった。この年、韓国は日本との間に保護条約を結ばせられ、国が日本に吸収合併させられるまさに瀬戸際にあった。そのとき主は、クリスチャンたちを立ち上がらせられた。全国的、全民族的な悔い改め運動、早天祈祷運動、聖書研究運動が展開され、多くの人が主に立ち帰った。国難ともいえる危機を前にして、主は民を目覚めさせてくださったのである。    もちろん、日本にもそういう、まるで預言者のような働き人がいなかったわけではない。しかし多くの者は耳を傾けたわけではなかった。それがいまに至るまで、日本のキリスト教会が、福祉面や文化面や教育面はさておき、少なくとも霊的面において、日本にさしたる影響を与えられていない現実につながってはいないだろうか?    聖書の本文に戻ろう。では、神の民は何を警告されているのか? それは信仰生活の態度だ。2節を見よう。立派だ。はたから見れば百点満点だ。しかし神さまの御目にはそうではない。3節のかぎかっこを見よう。このように、人は宗教行為によって神さまに充分に認めていただけたと、自分で思いたがる。特に、断食という宗教行為は、食べるべきものを口にしない分、苦しい。なんだか、霊的になった気分である。しかし、神さまはそういう自己満足に浸ることを霊的と見なしてはくださらない。イスラエルは言うだろう。「なんでですか! あなたさまのためにこんなに頑張っているんですよ! なぜ認めてくださらないんですか!」しかし神さまは、肉体の苦行という自己満足に浸ることは断食の意味をはき違えている、とお叱りになる。    彼ら神の民は、断食をしながら好き勝手なことをする。弱い人をこき使う。喧嘩をする。こんなことをしながら断食という宗教行為をしようとも、神さまはそれをお認めにならない。5節の民の姿は、いかにもしおらしく、また宗教的で、こうまでしているのだから神さまは認めてくださる、許してくださる、と思っているだろうが、神さまはお許しにならない。    神さまは、悟らない民に、正しい断食とは、ということを教えてくださる。6節。人を束縛し、こき使い、搾取することが当たり前の社会において、神さまは画期的なことをおっしゃった。人を自由にしなさい。解放しなさい。痛めつけるのをやめなさい。貧しい人に食べさせなさい、雨露しのげる場所を提供しなさい。着せてあげなさい、そして肉親を顧みなさい。    そのように、顧みるということを実践する者に、神さまはどんな祝福を与えられるか? 8節。今年のテーマは「主を仰ぎ見て輝く」だが、主を仰ぎ見て輝くのは宗教行為に手を染めさえすれば、ということではない。主が特別に目を留めておられる、貧しい人、虐げられている人を顧みることによって、はじめて輝くことができる、いやしと回復をいただくことができるのである。    9節、10節、ここで語られている祝福は、主と一対一の交わり、豊かな交わりを持てるということ。それは、主の願っておられることを具体的に実践することで体験できる喜びである。    11節を見てみよう。潤された園は人を憩わせるためにあり、枯れない水源は人を潤すためにある。人を祝福し、その必要を満たすことこそ、私たちにとっての祝福である。また、12節を見よう。荒れた社会をよくする、破れ口ができてしまった社会のほころびを繕うがごとく、この社会をよくするために仕える、その働きに用いられることも、私たちにとって祝福である。決して、自分さえ祝福されればそれで充分、というのは、ほんとうの祝福ではないのである。    少し前になるが、吉永小百合と大泉洋が主演した映画『こんにちは、母さん』を観た。進駐軍のかまぼこ兵舎を利用した礼拝堂をいまに遺す教会が東京の墨田区にあり、その礼拝堂が登場するというので観に行ったのだが、特にスポットが当てられていたのは、寺尾聡演じる牧師とその教会の活動である、隅田川沿いに暮らすホームレスへの給食伝道である。その活動にいそしむ牧師に、吉永小百合演じる主人公の老婦人は恋をするのだが、この映画は、一般の日本人はキリスト教会というものに対してこのようなイメージ、福祉のボランティア活動に力を入れる善良な人々、というイメージを持っていることを教えてくれる。    いや、物語の話だけではない。現実の教会も、最近では子ども食堂の活動をしている教会も多くなっているように、ちゃんとやるべきことをやっている。神さまから受けた祝福を、必要なところに「流す」ことをしているわけである。私たちはどうだろうか? まだまだ少ない群れだが、そのような群れでも何か主に喜ばれることができないか、具体的に話し合い、できることから実践しはじめてみてはいかがだろうか。    もっとも、私は、教会はすべけらくボランティア活動に精を出すべき、と申し上げたいわけではない。ボランティア活動そのものが教会活動の目的となっても困る。例の映画は、私が牧師の立場でつい見てしまうからそう思うことは百も承知だが、牧師に惚れたその老婦人の、イエスさまに対する信仰が伝わってこなかった。    まあ、この映画は、ノンクリスチャンの山田洋次監督の作品だから仕方がないのだが、それにしても、と思った。せっかく仲良くなれた牧師が北海道に赴任することになり、遠く離れることになったら、老婦人は、新しく来る牧師は外国人だからいやだ、もう礼拝なんか行くものか、とかなんとか駄々をこねて、お酒を飲んで寝てしまう。これは、神さまとの関係の中で歩んでいたのではなく、ボランティア活動に精を出させることで生きがいを与えてくれた人に惚れていたに過ぎなかった、ということである。それにしても牧師が転任したくらいでお酒をあおって、もう教会に行かないなんて言おうとは……。私は山田監督に、日本のクリスチャンはそんなやわじゃありませんよ! と抗議をしたくなったが、しばらく考えているうちに、案外こういう弱さは、日本の「真面目な」クリスチャンが抱えているものなのかもしれないと思い直した。    このように、奉仕のほうを神さまへの礼拝よりも優先させることで宗教的満足を得ようとするクリスチャンの傾向を、私は「マルタ・シンドローム」とお呼びしたい。これは、特に真面目な傾向の強い日本人クリスチャンの陥りやすい罠ではないかと考える。そうなっても私たちクリスチャンはほかの人々を助ける働きをすべきなのではないことは、当然である。    では、私たちが不満だらけの「マルタ」にならないためには、どうすればいいだろうか? 具体的にどうすることが、イエスさまにその姿勢を認められた「マリア」のようになることだろうか?    13節と14節。これがもっとも今日お話ししたかったことである。私たちがこの日に最も集中してとどまるべきところは、主の宮なる教会である。    ほかのところに出歩くのは、主の御名のおかれた宮に気持ちが集中していない、すなわち、主に意識が集中していないからである。自分の好むこととは何だろうか? 神さまのみこころと関係のないこと、より具体的には、教会の徳を立て、教会を形づくることとはまるで関係のないことばかりすることである。    また、「無駄口」とある。安息日は、自分の言いたい放題をしゃべる日ではない。ことばを慎むうちに主の語りかけに耳を傾けられるようになり、たましいが養われ、枯れない泉のようになる。そうしてこそ私たちは人を潤す備えができ、結果として祝福を受けられるようになる。地の高いところとは、天におられる主に近づく祝福の場ということであり、そのように俗世を離れ、主のみそばで養われるという、大いなる祝福をいただく。    人を養うことそのものも祝福だが、その祝福はまず、私たちが安息日を大切にするという形で、主のみことばに従順にお従いし、時間を主にささげる祝福を毎週体験しつづけることから始まる。私たちはこの日に光を受けることなくして、いかにしてこの世で輝くことができるだろうか? 世の光とされた者にふさわしく振る舞うことができるだろうか? 光を受けずして私たちは光として振る舞えない。私たちが世の光なのは、主の光を受けていることが大前提で、私たちにとっての安息日なる主の日は、復活のイエスさまの栄光を受けるすばらしい日なのである。    私はこれまで、みなさまに何らかの事情があったら仕方がない、とばかりに、主日礼拝を欠席することを黙認してきた。ご病気だったらさすがに仕方がないが、何かのイベントを優先させなければならない、という方の選択を認めることもしてきた。しかしそれは間違いだった。    病院に入院した患者は、どんなことがあっても栄養を取らなければならない。ちゃんと食べようと思えば食べられるのに、あれこれ理由をつけて病院食を食べなければ看護師さんに怒られてしまう。それは患者の身を案じてのことである。    私も同じように取り組むべきだった。あれこれ理由をつけて主日礼拝を休むことが癖になってしまうと、私たちは著しい栄養失調に陥り、それを取り返すには並の努力ではどうしようもない。ほんとうに私たちの生活を支えるのはこの世ではない。主の御前である。  …