「いやしの目的は神の栄光 その4」

聖書;列王記第二5:20~27/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その4」    はじめに、マタイの福音書10章8節の、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばからお読みします。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」  イエスさまに救っていただき、それにふさわしい、神の国の働き人としての力が、ただで与えられた、それが私たちクリスチャンです。そんな私たちは日々イエスさまとの交わりを持つことによって、底知れぬ力に満たしていただき、また、その力を行使することができます。  その、底知れぬ力、人をいやし、人から悪いものを追い出す力は、何も金銭的なものを受け取らないで用いなさい、これが私たちに与えられた使命です。私たちが奉仕をするのも、悩んでいる人の悩みに乗るのも、みなお金をいただかないのは、そもそも私たちが、永遠の救いとそれに伴うすばらしい力を、ただでいただいているからです。  それをはき違える働き人はいったいどうなってしまうのか、それを今日のみことばから学びたいと思います。また、今日の箇所は、その働き人が悲惨な結末を迎える場面で終わっていますが、それに対して私たちがどのように理解することがふさわしいか、ともに見てまいります。    ナアマンはツァラアトがいやされ、まことの神さまへの信仰をしっかり持ってアラムへと帰っていきました。ところがそれを見て、エリシャの従者であったゲハジはたいへん残念がり、また憤慨しました。ゲハジは何と考えたのでしょうか。20節です。  ゲハジはまず、エリシャがナアマンからなにも受け取らなかったことに怒りました。そして自分は何としてでも、ナアマンからもらってこよう、と思い立ちました。  ここで、一つの注目すべきことばをゲハジはひとりごちています。「主は生きておられる。」これは、誓いのことばですが、単なる慣用句のレベルのことばではなく、生きておられる聖なる主に対する信仰に自分の全存在をかけて誓う、物凄いことばです。実はこのことばは、14節にあるとおり、エリシャがナアマンに対し、贈り物は絶対に受け取らないときっぱり誓った際、口にしたことばでした。神の人エリシャが「主は生きておられます」と口にした以上、ナアマンのその贈り物はどんなことがあっても受け取ることはできなかったのでした。  しかし、ゲハジはまったく反対のこと、すなわちナアマンからはどんなことがあっても贈り物を受け取るべきだという考えをいだくにあたって、やはり「主は生きておられる」と考えたわけです。これいかに? といったところです。  ゲハジは、エリシャの従者として、エリシャをとおして働かれる神さまのみわざを間近で体験するポジションにいました。言い換えれば、神さまご自身とそのみわざをだれよりも体験する立場にあった者でした。それだけに、自分は神さまのことをよく知っていて、神さまはそんな自分の味方であると考えたりしたのでしょう。だが、ゲハジのこの信仰は、神さまがエリシャに働かれたことに対しては完全に無視を決め込んだものであり、とてもまともな信仰とは言えませんでした。  聖書の教え、神さまの教えというものは、長いキリスト教会の歴史の中で形づくられていく中で、ほんとうに健全なもの、ほんとうに聖書的なものが生き残る流れとなって今日に至っています。  クリスチャンそれぞれに聖霊が働かれ、その個性に合わせてみわざを行われる、それは確かにそうなのですが、先人に与えられた知恵とまったく違ったことを語るようになったらどうでしょうか。その人は正統の信仰から外れていることになります。それが突き進むと「異端」だの「カルト」だのになり、そこには救いがなくなります。  ゲハジはすでに、エリシャに働かれた神さまのみこころを認めないで、自分こそが神の人であるかのように大きな勘違いをしていました。ゲハジの転落はここから始まります。欲に目がくらんだゲハジはナアマンの一行のいるところまで、かなりの距離を追いかけていきました。  急いで追いかけてくるゲハジを見て、ナアマンは戦車から降りて彼を迎えました。ナアマンはやはり、まことの神さまへの信仰をもってへりくだる人になっていて、神の人のしもべのに対しても丁重に接しました。  ナアマンは「何か変わったことでも」と尋ねました。「安心して行きなさい」とエリシャに言われて、リンモンの神に対する信仰を持つアラムの主君のもとに帰るうえでの不安を持った身を励ましてもらい、送り出されただけに、この予期せぬゲハジの登場にはかなり不安になったのではないでしょうか。自分は何かしくじったのか?  すると、ゲハジはこう言いました。22節です。……もちろん、こんなことはありません。いま、バプテスト教理問答の学びでは、十戒について学んでいますが、ゲハジの発言は、十戒の第九戒に違反していますし、さらに言えば、第十戒にも違反しています。ついでに言えば、エリシャがナアマンから財物を受け取らなかったのは、それは私のものではなく、あなたのものです、と言ったに等しいことであり、そのナアマンのものを盗ろうとした、と考えると、第八戒にも違反しています。これだけでも相当に、神さまのみこころを犯していて、もはや神の働き人、神のしもべなどと呼べたようなものではありませんでした。  しかし、ゲハジの犯した罪は、そんなレベルではないほどに大きな罪でした。ナアマンは、いえ、エリシャ先生がそうおっしゃったということは、私はそれをお渡しすることはみこころではないと理解していますので、と答えるかもしれませんでした。また、本来のナアマンならば、ゲハジを格下に見て、この無礼者、と一喝し、さっさと追い返しているところでしょう。ところがゲハジには、ナアマンはきっとそういう反応はしないだろうという計算がありました。果たしてナアマンは、ゲハジが要求したよりももっと多くのものを渡しました。こうしてゲハジは、ナアマンから財物をせしめました。  この罪はきわめて大きなものでした。それは、このことによって、神の恵みはただではない、という、まったく間違ったメッセージをナアマンに与える結果となったからでした。イエスさまもおっしゃっているように、神の国の拡大に伴うしるしと不思議は「ただで与えられる」べきものです。ところがこれではただではありません。  ゲハジは、ナアマンの善意につけこんで、十戒の第八戒、第九戒、第十戒を犯しただけではありません。ナアマンが本来しっかり持つべき神さまに対する信仰、そう、それこそ、イエスさまがおっしゃったように、「ただで受けたゆえにただで与える」その麗しいみわざに用いられる恵みが、これで完全に奪われたことになります。ただではないものを、どうしてただで与えることができるでしょうか。  ナアマンがこうして贈り物を差し出したことは、エリシャのことを嘘つきにもしました。嘘つきではないとしたら、前言をやすやすと撤回する信頼のおけない人にしました。そのような軽薄な人物の献身する神に献身することなど、果たしてどこまで本気になれるというのでしょうか。ゲハジのやったことは、かくも罪深いものです。  24節を見ると、ゲハジは用意周到に財物を自分のところに運び込んでいます。そして25節。ゲハジは何食わぬ顔をしてエリシャの前に立っています。しかし、エリシャがかけたことばをご覧ください。  「ゲハジ。お前はどこへ行って来たのか。」連想する聖書のみことばがないでしょうか? そうです。創世記3章9節です。神さまがアダムにおっしゃったことば、「あなたはどこにいるのか」。アダムは神さまのこのおことばに、くどくどと自分の事情を述べて、必死に、自分は悪くない、と取り繕いました。そんなアダムはさばきを受けることになりました。アダムはここで、悔い改めるべきでした。しかし、神さまのことばに悔い改めることをせず、結局はさばかれました。ゲハジもエリシャのこのことばに、申し訳ありません、私は間違っていました、とお答えすべきでした。しかし、ゲハジはここでも噓をつきました。エリシャをだませると思ったわけです。そんな彼は「主は生きておられる」とうそぶき、ナアマンから財物をせしめる行為に手を染めたわけですが、こうなると十戒の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めにも悖ることになったわけです。  しかし、ゲハジがこうして見くびっていたエリシャの霊性は、ただものではありませんでした。まるで監視カメラがゲハジのあとをついていったように、エリシャはゲハジが何をしていたかすべてお見通し、いや、それ以上に、ゲハジがどんな動機でそんな行動に出たか、すべてお見通しでした。そんなゲハジは自分自身が十戒の十の戒めのうち、実に4つもの戒めを破ったこと、いや、それ以上に、愛なる神さまのその愛に反する行いをナアマンに対して働いたことのゆえに、ナアマンに代わってツァラアトを病むという、恐ろしいお仕置きを受けることになりました。  神さまの働きをする人がツァラアトに冒されたということは、聖書を読むとこのほかにも、モーセの姉のミリアム、ユダ王国のウジヤ王にも起こっていることです。ミリアムの場合は、モーセが神の人であるにもかかわらず落ち度をあげつらって責めたという、身の程知らずの越権行為が神さまの怒りに触れたゆえ、ウジヤの場合は、本来聖別された祭司の役割である、神殿において香を焚くということを、自分がしようとしたゆえ、どちらも越権行為を引き起こす高ぶり、神さまとの関係に起因することでした。  しかし、ゲハジのしたことは本来、どれくらい重大なことだったのでしょうか? それは、マルコの福音書9章42節に書かれているとおりです。どれほどのさばきでしょうか? 本来このように、その罰として苦しんで苦しんで、二度とこの地上に上がってこられない、そんなさばきをうけるにふさわしい、何も知らない異邦人の純粋な信仰心を踏みにじったのだから……。  それでも、列王記第二を読み進めてみますと、ゲハジはそれからあとも、エリシャの従者としての働きをしていることがわかります。しかも、イスラエルの王に会って、エリシャのことを話しています。つまり神さまは、エリシャをとおしてゲハジにもう一度チャンスをお与えになり、その後用いられた、ということを意味します。  私たちは聖書を読んで、ツァラアトというものが絶望的な病、特に神さまから下されたさばきとのろいの象徴であることを受け取っています。それだけに、ゲハジの迎えた結末は絶望的なお仕置きと思えるでしょう。ところが神さまはそのゲハジを、その後もお用いになったのです。列王記第二8章4節をご覧ください。彼はエリシャの従者として王の前に立ち、立派に主に用いられています。  ここに私たちは慰めをいただくことができます。私たちも病みます。病の中にはヨブのように、何の悪いこともしていないのに自分の身に起こったこと、というものもあるので、病はすべて罪の結果というわけではありません。しかし、病というものは時に、罪の結果として現れることがあるものです。神さまとの交わりよりも暴飲暴食ですとか夜更かしなどで心を安定させようとして、結果、心やからだの健康を害することになったならば、厳しい言い方をしますが、それは「罪」の結果です。  かく申します私も、十数年の牧師生活の中で燃えつきを何度も経験してまいりました。しかしそれは、頑張った自分が偉いと、自分をほめることなのではなく、むしろ、自分は土の器にすぎないことを謙遜に認めるべきなのに、自分を過信して頑張る全能感という、言い換えれば高ぶりの罪、傲慢の罪のただ中に自分がいた、その報いをそういう懲らしめとして受けたのであるとも言えるわけです。そういう点ではやはり私は罪を犯していました。  しかし、そういう弱い自分であることを認め、頑張ることだけがみこころではないことをへりくだって受け入れるところから、私のいやしと回復は始まりました。そこにはどうしても、罪の結果の懲らしめを受けて悔い改めるというプロセスが必要でした。  ゲハジはどうでしょうか。たしかにゲハジは、神の前にも人の前にも大きな罪を犯しました。そのお仕置きとして、あまりにも大変な目にあいました。しかし、イエスさまのおことばによれば、ナイーブな異邦人のナアマンに間違った神認識を与え、すなわちつまずかせた、つまり、石臼を首に結わえ付けられて湖の底で死ぬべき罪を犯したというのに、また、それこそ、ヨシュア記のアカン、使徒の働きのアナニアとサッピラのようなケースを見ても、みこころに反するやり方で財物を手に入れることは死に値するというのに、ツァラアトで済んだのです。  私たちもイエスさまを信じたのちも、罪を犯してしまうものです。しかし、その罪を悔い改めるならば、赦され、罪に病む身はいやされ、さらに用いていただけるのです。私たちに必要なのは、罪を犯してしまったとき、それをイエスさまの前に告白し、悔い改め、罪赦された者としてふさわしく、きよく生きることです。人にほめられて悦に入るための品行方正の生き方をするのではありません。赦された身そのままに、人を愛することです。私たちがみことばを学ぶのは、また、お祈りするのは、人を愛するためです。ゲハジはツァラアトに病んだ身ではありましたが、王の前に立って主に用いられる人となり、その意味で彼は心とたましいは充分いやされ、回復をいただいたと言えるでしょう。エリシャが彼を受け入れ、王の前に立てるほどにしたことが、彼が悔い改めた証拠です。  いちばんいけないのは、罪を犯した自分を受け入れないで、いつまでもうじうじ、自分を責めることです。そういうのは悔い改めとは言いません。自分を責める人の最大の問題は、心がイエスさまに一切向かっていないことです。さばき主なる神さまを意識しているかもしれませんが、少なくともすべての罪を赦してくださった、イエスさまの十字架は見えていません。きつい言い方をしますが、そんなのは自分を悪者にすることで、自分に酔っているだけです。そこにはイエスさまとの交わりはありません。  ゲハジがその後悔い改めの実としてツァラアトをいやしていただいたかどうかは、聖書は沈黙しています。しかし、これだけは言えます。彼はたとえツァラアトがいやされていなかったとしても、いやされたのです。それは、彼がイスラエルのため、言い換えれば、神の栄光のために用いられたことからも明らかです。ひょっとするとツァラアトを病んだ身そのままに、王の前に立ったかもしれません。しかしゲハジは悔い改めの実を結びました。だからこそ用いられました。ほんとうのいやしは、病気がきれいさっぱりなくなること以上に、神さまに用いられることです。  パウロをご覧ください。彼は肉体のとげが自分から去るように3度も祈りましたが、それはいやされませんでした。パウロの病はトラコーマともてんかんとも言われていますが、しかし、パウロはその肉体のとげをものともせず、ほかのどの使徒よりも多く働いたと自ら告白するほど、用いられました。主の栄光のために用いられることが最終的な目標であり、肉体のいやしであれ、たましいのいやしであれ、すべてはその最終的な目標のために通り過ぎるべきプロセスです。  振り返りましょう。私たちは神さまのご栄光を顕すうえで、何に病んでいますでしょうか? 病んでいるために神の栄光を顕せないならば、それをいやしていただきましょう。ゲハジが神の栄光を顕すチャンスが与えられたのは、彼の罪に病んだたましいがツァラアトという懲らしめを経ていやされたからです。私たちは何がいやされる必要があるか、聖霊なる神さまに示していただきましょう。

「いやしの目的は神の栄光 その3」

聖書;列王記第二5章15節~19節/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その3」    私は韓国での生活が長かったこともあり、韓国とはよく飛行機で往復しました。飛行機は格好いいですし、早く旅行できるので便利ですが、いやなこと、それは、気流の悪いところを飛ぶとき、変なふうに揺れる、ということです。理屈では、安全、落ちない、ということを知ってはいても、かなり怖いです。  そういうとき私はつい、お祈りします。神さま、どうか助けてください。ひたすら祈ります。しかしやがて霧生は安定し、飛行機は揺れなくなります。やがて目的地に着き、空港の中を歩き、入国審査、手荷物受取、と続くと、もうお祈りしたことなど忘れて、平然としています。  日本には「困った時の神頼み」ということわざがありますが、それは裏を返せば、困っていなければ別に神に頼む必要はない、ということです。多くの日本人にとって、神という存在はその程度のポジションでしかないのではないでしょうか。  ナアマンの場合はどうでしょうか? 彼はツァラアトに冒されていたために、大変な悩みの中にありました。アラムの将軍という高い地位にあることなど、ツァラアトを病んでいることの前には何ものでもありません。彼はいやしを求めて、自分の家で妻に仕えていたイスラエルの若い娘の捕虜のことばを信じて、藁にもすがる思いでエリシャに会いたいと、アラムの王の親書まで携えてイスラエルに赴きました。  そんなナアマンを待っていた待遇は、エリシャが出ても来ないで、単に、ヨルダン川に7回身を浸せばきよくなる、という伝言を受けただけでした。ナアマンは憤慨しました。せっかく会いに来たのに、この扱いは何だ、というわけです。しかしナアマンの従者のとりなしにより、ナアマンはヨルダン川に身を浸すことに気持ちを切り替え、果たしてそのとおりにすると、ナアマンのからだは、元どおりになって、幼子のからだのようにきよくなりました。  ここまでが前回までの内容です。ここから今日の聖書本文の内容に入りますが、まず。15節をご覧ください。ナアマンは一行をみな引き連れて、神の人エリシャのもとに行きました。お気づきでしょうか? 今度はエリシャに会うことができました。エリシャのことばを信じていやしをもって救われたナアマンは、そのいやしを報告し、感謝を述べたわけですが、それにはエリシャが直接対応したのでした。  エリシャが直接対応したことには、どんな意味があるのでしょうか? それはまず、ナアマンがエリシャに何と言って、それにエリシャがどう対応したかを見れば明らかになってまいります。まずナアマンはこう言っています。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」  このことばを、異邦人であるナアマンが言ったと考えると、たしかに画期的ではあります。よくぞこれだけの告白ができた! いやし主なる主の栄光が顕れた! と思えるでしょう。しかしそれでは、このことばに続くことばはどうでしょうか?「どうぞ今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」これも、感謝の表現としては至極当たり前と思えるでしょう。また、携えてきた金銀財宝は一国の将軍が深い悩みの種であった持病をいやしてくれた人への感謝の表現としても、充分と言えたでしょう。  しかし、これは、見方を変えるとどうなるでしょうか? イスラエルという国はそもそもが、創造主なるまことの神のほかに神はいないと告白する国と民族であり、ナアマンがこう告白したことは、そのような唯一神に対する信仰を旨とするイスラエルの預言者に対する敬意にとどまりかねなかった、とも言えます。  これは意地悪な見方ではありません。といいますのも、日本では戦前も戦後も、多くの大規模な殿堂集会が開かれ、そこで多くの人が、まことの神さまだけが信じるべきお方であると信じ告白し、イエスさまを信じる祈りへと導かれました。ところが彼らはその後どうなったでしょうか? あれだけ多くの人が信仰告白に導かれたならば、今頃日本の教会は、こんなにクリスチャンがマイノリティにとどまってなどいなかったはずではないでしょうか? こういうことを見てみましても、唯一神に対する信仰告白をしただけでは充分ではないことが分かります。問題はそのあとなのです。  ナアマンが金銀財宝を送ろうとしたことが感謝の表現なのは確かであり、それはすばらしいことなのですが、もしナアマンがエリシャに財物を送り、エリシャがそれを受け取ってナアマンが帰ったならば、それで終わりであり、ナアマンのいやしはエリシャに財宝が送られて片がついた、言い換えれば、ナアマンのいやしには銀10タラント、金6000シェケル、晴れ着10着の値段が支払われて手に入れられた、ということに過ぎなかったことになります。  しかし、それでは、ナアマンがわざわざエリシャに会いに来た意味はありません。もし、いやしで終わりだったら、ナアマンがエリシャのことを、格下の国の人間として利用しただけだったという図式から逃れることができなくなります。エリシャが願ったのは、「ナアマンをしてイスラエルに預言者がいると認めさせること」でした。ナアマンはこのいやしをとおして、神の栄光を見る必要がありました。  私は医療伝道から始まった教会、北本福音キリスト教会で信仰を持った者なので、医療をとおしてイエスさまを伝える情熱に満ちた先生方の努力を、間近で見る機会の多かったものです。しかし残念なのは、患者さんたちの多くは先生方を尊敬はしていますし、それもクリスチャンのドクターとして尊敬しているわけで、先生方の敬虔な信仰のなせるわざで自分がいやされていることを信じているはずなのに、その先生に召命をくださっているイエスさまを信じ受け入れるまでには至りません。これはあるクリスチャンドクターの未信者の患者さんから直接聞いた話ですが、高齢のご婦人でいらっしゃるその方はせっせと遠方からその先生のもとに通い、先生が開かれる伝道目的のセミナーにも顔を出すほど先生のことを尊敬していらしたので、あるとき私は、その方にとって先生がどんな方か尋ねてみました。すると、こうお答えになったのでした。「いやあ、先生はほんとうに、生き神様です!」先生がもしこのおことばを聞かれたら、使徒の働きで神々の扱いを受けそうになったパウロやバルナバのように悲しまれるのではないだろうかと思いますが、事程左様に。単にいやされただけでは、いやしてくれる存在を間違って受け止める可能性があるわけで、ナアマンもそのような罠に陥らないように、エリシャは賢く導く必要がありました。  果たして、エリシャは財物を受け取ることを固辞しました。そのとき、エリシャはこう言っています。「私が仕えている主は生きておられます。」つまり、神のわざはお金でやり取りする性質のものではないことを語っているわけです。エリシャがナアマンをいやしたのは、ナアマンにいやし主なる神さま、すなわち、まことの神さまを信じてもらうためであり、お金をもらうためでは決してありませんでした。  エリシャがここまで強い態度に出たのは、それだけナアマンに対する神さまの選びというものを強く確信していたからでした。何せこのいやしのわざは、イエスさまがナザレでの説教に引用されたほどインパクトのあるもので、神の民イスラエルを差し置いても異邦人であるナアマンをお選びになったことは、イエスさまさえもお認めになるほどのできごとでした。  私たちにとっても、特にいやしのわざをとおして、神さまに出会うという経験はよくあることでしょう。そのとき私たちは何をすべきでしょうか? 単にいやされたことで満足するのではそれでおしまいです。自分をとおしていやし主なる神さまがいやし主としての栄光を顕してくださった、そのために自分のことを選んでくださったと。感謝すること、これが大事なことです。  ナアマンはどうでしょうか? 贈り物を送る代わりに、イスラエルの土を持ち帰らせてほしいと言いました。もう、ほかの神々にいけにえをささげない、と。つまりナアマンは、その持ち帰ったイスラエルの土で、イスラエルの神にいけにえをささげる、すなわち礼拝することを決心したのでした。そのために、アラムの土地にイスラエルの土を盛り、そこをイスラエルの一部とすることさえしようとしたのでした。  このように。異邦のアラムにありながら自分のもとに礼拝の場所を築くナアマンから、学ぶことがあるとすれば、それは、主によっていやされた者がさらに主に近づくために、礼拝の場所を身近なところに備え、つねに主を礼拝できる環境に自分を置く、という姿勢ではないでしょうか。特にナアマンのこの態度は、アラム同様、基本的にはまことの神さまを礼拝しない、偶像、異教ばかりの日本という環境に身を置く私たちには必要なことです。私たちの身近には何があるでしょうか? 私たちは仏壇や神棚を拝む生活こそしていないかもしれませんが、テレビをつけっぱなしにして、だらだらと惰性で眺めているようでは、この世の環境から抜け出せていないことになってしまっているわけです。そこで私たちは、意を決して聖書のみことばに向かう環境を身近に作ることが必要となるわけです。この点でも、あえて異国の地、異教の地で、イスラエルの土を用いて祭壇を築くナアマンの姿勢に見習うところがあります。  さて、そんな日本の霊的風土に生きる私たちにとって、やや気になるみことばと言えるのが、18節と19節ではないでしょうか? リンモンという偶像の神殿で礼拝することをエリシャが認めている、これいかに?  これは、ある日本人の巡回伝道で名の知れた牧師先生のメッセージで聞いたことですが、神さまを信じたナアマンにエリシャがこういうことを言ったわけだから、クリスチャンのみなさんは仏壇に手を合わせてもいい、お葬式でお焼香をしてもいい、とおっしゃっていました。これに、わが意を得たり、となっていたクリスチャンもいましたが。私はどうしても違和感がぬぐえないまま、今に至っています。  まず、大前提として、私たちがすべきことは、「宗教的に戒律を守ること」以前の問題として、「神と人を愛すること」です。だからこの問題は、「エリシャがこう言っているくらいだから、未信者の家族の手前、仏壇や神棚を拝んだりお葬式で宗教行為をしたりすることは、十戒で戒めている『偶像を拝むな』に当たらないから大丈夫だ」というように、宗教的に可か不可かという判断を下すべきことではなく、「私のする行為はほんとうに神を愛し、人を愛するという動機から出ているか?」ということが最優先に問われるべきです。  このことをかなり具体的に説明した聖書箇所として、コリント人への手紙第一8章と10章を挙げることができます。コリント教会には、そもそもが偶像にささげられたものである肉を食べていいのかどうかという議論があった模様ですが、パウロは、食べていい、と言っています。それが偶像にささげられたものであっても、ということです。しかし、その肉が偶像にささげられたものであることを公言する人の前では、食べてはならないとも言っています。それは、信仰の弱い人がつまずくからだ、ということです。なんだ、クリスチャンでも肉を食べるのか、それは偶像礼拝の行為じゃないか、だったら、偶像を拝むくらいいいじゃん、などと曲解し、信仰をなくしでもしたら大変なことです。クリスチャンが仏壇を拝むことやお焼香をすることはこの延長線上で考えるべきことで、たとえ真似事でも偶像を拝むという行為をみなに見せるならば、なんだ、クリスチャンもいざとなれば神仏に膝をかがめるのか、所詮キリスト信仰なんて大したことないもんだな、と受け取られ、彼らはますます、神さまを信じる必要性を感じなくならないでしょうか。  キリスト信仰よりも神仏の信仰のほうがまさるかのような行動をすることは、果たして彼ら未信者を愛する愛が動機と言えるのでしょうか。そういうことが私たち日本のクリスチャンには問われています。  ナアマンの場合は、私たちの置かれた状況とは分けて考えるべきです。ナアマンはそもそもが、偶像礼拝を行う主君に仕える立場にありました。主君の立場は絶対であり、私はもはやあなたさまの偶像礼拝のお手伝いはできません、と宣言するならば、その責任を取って処刑されかねないポジションです。そんな自分が王の偶像礼拝を助ける立場に甘んじることを、どうか主が許してくださるように、とナアマンは恐れながら言いましたが、エリシャは容認しました。これは、ナアマンが基本的にはイスラエル人ではない、異邦人という限界の中にいたこと、その社会において、まことの神さまを愛し、その神さまの愛をもって、主君をはじめとした人々を愛するにはどうすべきか、あるいはもっと大きな視点、イスラエルとアラムの力関係といったことにエリシャが配慮し、その結果、ナアマンの願いを聞き入れたと考えるべきでしょう。これは、イエスさまが昇天されて聖霊がお下りになり、世界宣教の門が開かれて以降の価値観をそのまま当てはめて、ナアマンを難じたり、エリシャが矛盾していると責めたり、果手はこのようなことを書く聖書は矛盾しているというような性質のものではないわけです。  このことを私たちに当てはめるならば、もっとちがう適用をする必要があります。それは、異教の社会に住む私たちが、いかにその社会において仕えるか、知恵を用いるべきである、ということです。たとえば私たちだったら、いかに純粋な信仰を持っているからといって、たまたま就職した職場に大きな神棚が飾ってあるから、もうやめた、となるのでしょうか。それでは仕事をすることもできません。一般の学校では進化論を教えているから、いっさい学校に送ることを拒否するのでしょうか。それでは将来の進路がかなり狭まりますし、特にお医者さんのような仕事には就けなくなります。そういう環境に身をおいても、それに心とたましいを売らないで、忠実に励む道はいくらでもあります。ナアマンも、自分のためにわざわざ親書まで書いてイスラエルまで送り出してくれたほどの主君にさらなる忠誠を果たすことが神の愛の表現であると信じたからこそ、葛藤しながらもエリシャに許しを願い出たわけです。だから、ナアマンに対するエリシャの答えはクリスチャンに偶像礼拝の容認ではなく、異教社会にあって愛をもって堂々と振る舞え、という励ましであったと見るべきです。  あらためて見てみますと、エリシャはナアマンに会う必要があったことがわかります。それはエリシャがナアマンと直接話して、ほんとうの礼拝者としてナアマンを立て上げるためでした。イエスさまが来られるはるかむかしであったこの時代、まだ異邦人に神の国が広く及ぶご計画ではなかった以上、ナアマンに大々的な宣教の働き、弟子づくりの働きが託されていたわけではありませんでしたが、それでも神さまがナアマンを選んでおられたのは確かなことで、ナアマンのいやしは後世になってイエスさまが例としてお語りになるほど、異邦人の救いということにおいて極めて象徴的なことでした。それほど、いやしをもって臨まれる神さまの選びのみわざはナアマンにとって確かなものでした。  私たちもこのような、選びを実感できるだけの体験があったはずです。しばらく祈りのうちに思い起こしましょう。特にそれがいやしの御業であったならば、いやし主なる神さまに感謝し、このいやし主なる神さまのいやしがほかの兄弟姉妹に起こされるように祈りましょう。

「いやしは神の栄光のため その2」

聖書;列王記第二5:9~14/メッセージ;「いやしは神の栄光のため その2」  先週のメッセージで、私たちは、病の癒やしというものが神さまのみこころであることを学びました。マクチェイン式の聖書通読をしていらっしゃる方はご記憶のことと思いますが、先週の火曜日の箇所、イザヤ書38章をお読みしますと、神さまのみことばを受けた預言者イザヤが、ユダの王ヒゼキヤに、主はこう告げられる、あなたの病気は治らない、あなたは死ぬ、と語ります。するとヒゼキヤは大いに悲しみ、顔を壁に向けて真剣に祈ります。すると神さまはヒゼキヤのこの祈りを受け入れてくださり、彼の寿命をもう15年延ばすと約束してくださいました。  この箇所からわかることは、もし死ぬことが定まっているかのように告げられたとしても、希望を失ってはいけない、祈りをもって神さまの御前に進み出て、あわれみを求めよう、ということです。なぜ、ヒゼキヤはこのように祈らざるをえなかったのでしょうか? それは、ヒゼキヤの治めるユダ王国にとってはなおアッシリアが脅威であり、いま自分が死んでしまっては、アッシリアに滅ぼされてしまう、という危機感がヒゼキヤにはあったからです。  私たちがもし、この世においてまだすべきことが多く残されているならば――それは多くの人にとってそうでしょう――私たちはとにかく、生き残ることを選んでいくべきです。それでも神さまは私たちに、病気という名の試練を与えられることがあります。そんなとき、もし私たちが神さまの御前に徹底して生きているならば、ああ、もうこんな大変な世の中と別れられてよかった、とはならないはずです。病気のような大変な状況に置かれるときこそ、私たちは神さまのあわれみを、イエスさまのいやしを求める者となりましょう。そしていやしをいただいたならば、神さまがなお自分のことを用いてくださることに感謝しましょう。  それでは今日のみことばにまいります。アラムからイスラエルの王のもとにやってきたナアマン将軍を、私のもとによこしなさい、と、預言者エリシャは言いました。それは、8節のみことばにあるとおり、「そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」、つまり、ナアマンが、イスラエルの神でありまことのいやし主である主の栄光を見るため、そうして、主を信じ受け入れるためです。イスラエルの王はナアマンが来たことを、アラムの王が言いがかりをつけてきたのだと震えあがりましたが、エリシャはむしろ、これは主の栄光があらわされる絶好の機会だととらえました。とらえ方がちがうのです。  こうしてエリシャは、ナアマンを迎え入れる準備は整っていることを王に告げました。それを受けて、ナアマンはエリシャのもとに行きました。しかし、そのいでたちといえば、馬と戦車です。馬に曳かせた戦車で馳せ参じてきました。われこそはアラムの将軍である、さあ、治していただきたい、そんな堂々としたナアマンの態度が見えてくるようです。  ところが、エリシャはナアマンに面会しようとしません。使いの者がナアマンに面会し、そして、なんと言ったでしょうか?「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」  これは取りようによっては、門前払いとも言えることです。ナアマンはこうして、格下の国であるイスラエルにわざわざ赴き、威儀を正して面会に来たというのに、これではまるでけんもほろろの態度だ、失礼だ、と思ったのでしょう。  しかしここで私たちは、ナアマンが何を問題にしたのかを見る必要があります。11節のみことばにそれが現れています。まず、ナアマンは、エリシャが自分の前に出てこなかったことに憤慨します。ナアマンはエリシャが出てきたならば、どんなことに期待したのでしょうか?  ナアマンはこんなことをしもべたちに言っています。「彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」  まずナアマンは、「彼の神」という言い方をしています。まことの神さまはたしかにイスラエルの神でいらっしゃいますが、ナアマンのこのことばを見ると、弱小国家イスラエルにとっての神、という意味にしかなっていません。  その神が、強い国であるアラムの将軍である私に仕えるのだ、という、ナアマンの驕りが透けて見えます。ナアマンがもし、「彼の神」という発想を捨てられなかったならば、そのイスラエルの神、エリシャの神の力によりツァラアトがいやされようとも、そのいやしをもたらしてくださった神さまを信じる、すなわち神さまに献身するには至ったでしょうか。疑わしいことです。  ナアマンはさらに、このようなことを言っています。12節です。単に川に入ってきよくなれというならば、わざわざ遠路イスラエルまで来て、ヨルダン川に入らなくても、アラムを流れるアマナやパルパルに入れば充分ではないか。何が悲しくてこんな遠い国、弱小の国の川に入れというのか?  しかし、もしナアマンがこの態度のままでいたならば、彼のツァラアトは治りませんでした。なぜでしょうか? エリシャの告げたいやしの方法、すなわち、神さまのみこころにかなったいやしの方法に従っていないからです。従えないのは、ナアマンが考えていたいやしの方法こそが正しいと考えたからでした。  たしかに、その国で「神の人」としてみなの尊敬を集めている、いわゆる「霊的な」人物が現れて、何やら唱えながら手を動かすならば、いかにも治りそうに思えないでしょうか。しかしこれは、神さまのお取りになる方法ではありませんでした。神さまはどこまでも、ヨルダン川で七回身を洗いなさい、とおっしゃっただけです。  7回、というのは、神さまがみわざを行われるにあたって人がアクションを起こすべき回数として、神さまがお命じになった回数として、聖書のほかの箇所にも登場します。ヨシュアに率いられたイスラエルがエリコに攻め入るとき、その城壁を七日間、一日に一周して、最後の七日目には七周したとき、神さまはエリコの城壁を崩壊させられました。7、という数字はそもそも、神さまが6日で世界をおつくりになり、七日目にお休みになったという、完全な創造の秩序を象徴する、完全数でもあります。  そして、ヨルダン川は、なんといっても、イエスさまがバプテスマをお受けになった場所です。イエスさまがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がお下りになり、父なる神さまが、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいました。まさに、三位一体の神さまのご栄光に満ちたご臨在がいちどきに現れた場所、それがヨルダン川です。神さまはそのヨルダン川でこそみわざを行われるのであって、アラムの川でもいいわけではなかったのでした。  もちろん、そのようなことをナアマンは理解していたわけではありませんでした。あまりにも自分は馬鹿にされたと思い、国に帰ることにしました。しかし、彼のしもべたちは、このようなことを言いました。13節です。  しもべたちも面白いことを言うと思いませんか? もっと難しいことを命じたら、あなたはお従いになるでしょう? たしかにそうではないでしょうか? ナアマンは治りたい一心で、たくさんの金や銀や晴れ着を携えて、遠路はるばるイスラエルまで来たわけです。それほどの努力を惜しまないならば、どんな荒行苦行を命じられても、喜んでするんじゃないでしょうか? それこそ日本の感覚でいえば、滝に打たれたり、札所巡りをしたり、お百度参りをしたり、といったところでしょうか。それは時間をかけて肉体を苛め抜くことですが、それでも治るならと信じて、取り組むわけです。  ところが、そういう荒行では治らないわけです。治るには、エリシャに告げられた神さまの方法に従うこと、これしかありません。これは、罪が赦され、きよいものとされるために、神さまが私たちに定めておられること、そう、イエスさまを信じ受け入れることと共通します。  私たちはイエスさまを信じています。こんなにも簡単に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、神さまに用いられるすばらしい生き方ができるなんて! 私たちは、信仰による救いというものがあまりにも単純なことに驚き、感謝するでしょう。しかし、一般的にはどうでしょうか? こんなにも簡単に救われるというのに、聖書の示す唯一の救い、永遠の救いの道である、イエスさまの十字架を信じるということに、人々は見向きもしません。その代わり、もっと別のものをお金をかけて拝んだり、まことの神さまではないもっと他のものに夢中になったりして、救いを求めます。私たちよりもよほど大変なことをしているのです。  そういう努力をする姿は、一見するととても美しく、また、そういう人はきよい、などと一般的には思われるでしょう。しかし神さまの御目から見れば、救いに到達しているわけではありません。むかしのアメリカの説教家が言ったとおりです。まるでその姿は、お魚が好きなお父さんを喜ばせようと、学校をさぼって釣りに行く子どものようだ、と。お父さんを喜ばせるには、釣りなんかしている場合じゃなくて、学校に行くしかないように、私たちは、ピントの外れた努力ではなく、神さまの望んでおられる方法で救いをいただくしかありません。  ナアマンの場合は、ただ単にいやされればよかったのではありません。イスラエルの神に出会うということは、まことの救いにあずかるということを意味します。しかしその出会いによって救われ、いやされるためには、単純にエリシャのことばを信じ受け入れるしかありませんでした。信じ受け入れたならば、そのしるしとして、ヨルダン川で7回身を洗うことをするだけでした。  果たして、ナアマンはそのとおりにしたら、彼のからだは元どおりになりました。しかし、聖書はそれだけを書いていません。幼子のからだのようになった、と書いています。幼子のような信仰をもってエリシャに与えられた神さまのことばを受け入れ、従順に従ったら、幼子のような新しい人として生まれたということを語っているわけです。  人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはない、イエスさまはそうおっしゃいました。新しく生まれるには、神さまとそのみことばを、小さな子どもが素直に信じ受け入れるように、信じ受け入れることが必要になります。  いやしということにおいても同じことが言えます。神さまはいやしてくださる、いやしてくださるのは神さまのみこころである、そのことを素直に、みことばから受け取っているならば、あと、私たちのすることは、そのみことばを握って祈ることです。それを、あれこれと複雑に考えるならば、信仰を働かせる余地がなくなりはしないでしょうか? ナアマンをご覧ください。ヒゼキヤをご覧ください。イエスさまにいやされた人々をご覧ください。みな、いやされるという信仰があり、その信仰を働かせた人たちです。  私たちは何か、いやしというものに対して、複雑に考えてはいないでしょうか。あるいは、もっと難しく考えてはいないでしょうか。救いもいやしも、神さまの賜物であり、それを受け取るには、私たちがただ、神さまの定めてくださった方法にお従いすることです。それは、お祈りです。少しも疑わずに信じて祈る。その境地に至るまで信仰を働かせるには、一にも二にも、祈ることです。  また、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。ヤコブの手紙5章をお読みすると、病気の人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗ってもらって、祈ってもらいなさいとありますが、この場合に働かせる信仰は、病んでいる人もさることながら、手を置いて祈る人たちの信仰でもあります。私たちは、神さまが病をいやされるのがみこころであると信じているならば、その信仰のとおりになるように、自分のためにも、家族のためにも、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。

「いやしの目的は神の栄光 その1」

聖書;列王記第二5:1~8/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その1」 先週で、マルコの福音書の講解が10章の終わりとなり、次の11章からはイエスさまのエルサレム入城、最後の一週間を扱う箇所ということで、切りのいいところとなりました。そこで、今うちの教会に必要なメッセージは何だろう、と、祈りつつ思い巡らしましたところ、うちの教会はいま特に、「いやし」のために祈ることが必要であるという導きを、祈りのうちにいただきました。 ただ、聖書の中には、イエスさまがなさったいやしのみわざをはじめ、癒やしに関する記事が多岐にわたって登場していて、集中して扱うには、箇所をある程度絞る必要がありました。その結果、今日から1か月の間、聖書がいやしというものをどのように語っているかを学ぶ上で、とてもふさわしい本文に行きつきました。それが、列王記第二の5章のみことばです。 この列王記第二の5章は全体を、4つに分けることができます。それを今月、1週間ずつ学んでまいりたいと思います。この箇所は、いやしというものがいかに、創造主なる神さまの栄光を顕すものであるか、とてもよく語っています。ともに学んで、私たちもまた、自分はいやされる、また、人をいやす働きに用いていただける、という信仰を持つことができるならば、とても幸いです。 さて、それでは、今日の箇所に入るにあたって、おもな登場人物とその背景の説明からまいります。まず、ナアマン将軍が登場します。アラムという国の将軍です。アラムはイスラエルの隣国でしたが、たびたびイスラエルに攻撃を仕掛けていて、そういう意味ではイスラエルに敵対する国でした。また、再来週学びますとおり、アラムは創造主なるまことの神さまではない、偶像の神を礼拝する国でした。そういう意味でも神さまのみこころに反していました。ナアマンとはそういう国の将軍であったわけです。 もうひとりのおもな登場人物はエリシャです。彼の師に当たるエリヤは、イスラエルが国を挙げて偶像礼拝に傾いていた時代、まことの神さまに民を立ち帰らせるために大いに戦った預言者です。以前、イエスさまの「変貌山」に関するメッセージをいたしましたが、変貌山においてエリヤは、何百年の時を超えて、生きてイエスさまの前に現れました。それほど特別な人物、特別な預言者でした。 そのエリヤの跡を継いだ預言者が、エリシャです。エリヤが竜巻に乗せられて天に引き上げられるとき、エリシャは「あなたの霊の分け前の2倍の分を私にください」と頼みましたが、この願いはかなえられたようだということが、聖書を読むと分かります。といいますのも、エリヤは多くの奇跡を行いましたが、聖書に記録された奇跡のその数を数えると8つです。これに対して、エリシャの行なった奇跡で、聖書に記録されているものの数を数えると、16になります。たしかに2倍です。その分大いに用いられた預言者でした。 エリシャに関する記述は、列王記第二の1章に入って始まります。本日の箇所は5章ですが、この5章の前の4章までにかぎっても、相当いろいろなみわざを行なって、神さまに用いられてることが分かります。エリヤはすごい預言者でしたが、エリシャは、そのエリヤなきあとの預言者の役割を、充分果たしていると言えるでしょう。エリシャの本日の箇所に至るまでの経歴については、今日のメッセージでは詳しく扱いませんので、あとでおうちにお帰りになって、列王記第二の1章から4章までをお読みください。エリシャをどれほど神さまがお用いになったかよくわかります。読んで、驚いて、神さまを賛美していただければと思います。 それでは今日の本文にまいります。1節のみことばです。ナアマンという人が紹介されています。この1節だけでも、ナアマンがどのような人かがわかります。まず、ナアマンがアラムの将軍であることはすでにお話ししたとおりですが、主君に重んじられていた人でした。また、尊敬されていた人でした。その理由も書かれています。それは、主が彼をとおしてアラムに勝利をもたらされたからだ、とあります。 この記述は注目に値します。といいますのも、先ほど申しましたとおり、アラムは本来、主の民イスラエルに敵対する、しかも偶像礼拝の民です。その国が勝利を得ることなど、主のみこころにかなうはずがないと思いませんでしょうか? ところがみことばは、アラムに勝利をもたらされたのが主であると語っています。どういうことでしょうか? これは、「だれによって」主が勝利させてくださったか、ということから考えてまいりたいと思います。つまり、神さまはナアマンを選び、お用いになったのでした。その結果、ナアマンはアラムに勝利をもたらした将軍として、主君である王に重んじられ、国民の尊敬を集めるに至ったのでした。これは、主が、ナアマンをすでに選んでおられ、選びの恵み相応の祝福を与えておられた、ということです。 ナアマンに対する神さまのこの愛は、まさに、イザヤ書43章4節で、主ご自身がお語りになったとおりです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」それでは、ナアマンを愛しておられる神さまの愛を示す「国民」とは、どの国でしょうか? これは、イスラエルと見るのが妥当です。当時イスラエルは、神の民の国でありながら、神を捨て、バアル礼拝や金の子牛礼拝に陥るような、まるっきり神の民にふさわしくない集団へと堕落してしまっていました。そのようなイスラエルを懲らしめるため、神さまは周辺の国々をお用いになり、彼らに攻撃させて敗北を味わわせられたのでした。 ナアマン将軍が主によって勝利を得たとは、ほかならぬ、アラムの勝利、すなわちイスラエルの敗北が、神さまから出たことである、ということです。しかし、神さまはそのようにイスラエルの悔い改めのためにお用いになったナアマンのことをすでに選んでおられた、愛しておられたわけです。 私たちは時に、信仰の歩みをするゆえに周りの迫害にあうことがあるものです。しかしみことばは語ります。あなたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。もし、私たちが実際の行動をもって彼ら迫害者を祝福するならば、それは彼らの頭に燃える炭火を積み上げるがごとき復讐を果たすことになるのである……ローマ人への手紙12章の終わりの部分にそのような書かれています。私たちはなぜ、彼らを祝福するのでしょうか? クリスチャンに敵対するならばそれは神に敵対することではないだろうか? そういう人を神さまは嫌っておられるのではないか? そうではありません。神さまはそのような人でも愛しておられるのです。考えてみましょう。私たちももともと、神さまに敵対していた存在でした。しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちにイエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、神さまのものとしてくださいました。そんな私たちが祝福をいただいているように、私たちは、私たちを迫害する人たちに対する神さまの愛を信じて、彼らを受け入れ、祝福すべきです。彼らの迫害によって私たちがますます、神さまに対する信仰をしっかり持つという祝福をいただくなら、なおさら彼らを愛し、祝福する必要があるのではないでしょうか。 そういうわけで神さまの特別な選びと祝福をいただいていたナアマンでしたが、彼はツァラアトを病んでいました。新改訳聖書が2004年から「ツァラアト」と訳すようになったこの病は、重い皮膚病を指します。ただし、この「ツァラアト」というものは、人体にかぎらず、建物の壁のようなところにも現れるとみことばにあるので、新改訳聖書では「ツァラアト」と、原語そのままを用いているわけです。この「ツァラアト」を病む人は、律法によれば「汚れている」存在として扱われ、それ相応の処置を受けることになります。それは第一に、ツァラアトとは伝染病であるので、共同体に広がってみなを病ませるようなことがないようにするためですが、共同体とはすなわち、創造主なる神さまに対する信仰の共同体であるゆえ、そこで「汚れている」とみなされるならば、宗教的なけがれを身に帯びているということにもなったわけでした。それで、イスラエルにおいては、霊的な意味でも忌み嫌われることになりました。 アラムはもちろん、まことの神さまに対する信仰共同体ではなく、律法によってツァラアトをけがれと規定する社会ではありません。 しかし、この伝染性の皮膚病が、ナアマンにとってはきわめてつらい病であったことはたしかです。かつての日本語訳の聖書ではこの「ツァラアト」は、現代でいう「ハンセン氏病」を意味することばに訳されていて、それは人権を尊重する社会になった現代にそぐわないこともあって、新改訳聖書のみならずほかの訳の聖書でもこの病名は使われなくなりましたが、もし仮にナアマン将軍が病んでいるこの「ツァラアト」が「ハンセン氏病」に類する重病ならば、イスラエルどころではなく、どんな社会であれ大変なことです。王に信頼され、民に尊敬される身であろうとも、その肝心の自分がこんな病気ならば、そんな社会的信頼や武勲など何になろうか、といったところでしょう。それに、下手をすればアラムの軍隊はおろか、アラムの社会そのものからも抹殺されてしまいます。 最近は自分の闘病生活をインターネットで発信することで稼ぐ人が現れるなど、社会が人の病気や障がいというものに寛容になって、それはいいことなのですが、本来、人が社会において活動するときは、ほかの人には基本的に、その人が個人的に抱えている、肉体の病気を含む病んでいる部分は見えないものです。そもそも、正真正銘の病気の人ならともかく、ある程度の社会的地位にある人は、そういう弱い部分をだれに対してもことさらに見せながら社会生活を営むわけにはまいりません。 その点で、ナアマンは軍人、しかも将軍であり、ツァラアトのような自分の病気を言い訳にして、周りの好意に甘えることなど許されない立場にありましたし、そんなことをするのは軍人としての沽券にかかわることでもありました。しかし、彼の身を病気がむしばんでいたということもまた厳然たる事実であったわけで、社会的地位と、社会から抹殺されかねない病気のはざまで、ナアマンは相当な葛藤の中にありました。 しかし、ここに神さまは、ひとりの若い女性を備えていました。彼女はアラムがイスラエルに戦争を仕掛けたとき、拉致されてアラムに来て、ナアマンの妻のもとで働いていた人でした。しもべ、もっとありていに言ってしまえば、奴隷です。ところが、神さまは彼女をお用いになりました。彼女は、自分がいかにアラムの地に住み、その地の有力者に仕える身となっていたとしても、イスラエルという神の民の一員として、その本分をきちんと果たしました。彼女はどんな行動に出たのでしょうか? 3節です。 サマリアにいる預言者で、ツァラアトさえも治せる神の力を持つ人といえば、エリシャをおいてほかにいません。しかし、そのエリシャに会うには、まず、イスラエルに入国する必要があります。エリシャをアラムに呼びつけるのではなく、自分からイスラエルに出向くのです。そして、そのイスラエルという領域の中で、エリシャの祈りを受ける必要があります。 これは、へりくだっていないとできないことです。アラムはすでにイスラエルを負かしていて、現にこうして捕虜の女の子さえも連れてきていたほどだったわけで、アラムにとってイスラエルは格下の存在でした。そんなイスラエルでしたが、ナアマンは行って治してもらおうと思い立ちました。やはりそれは、病気というものが彼を謙遜にさせたと見るべきでしょう。 無病息災、ということばはよく言われますが、それに代わることばとして、「一病息災」ということがよく言われるようになりました。病気を抱えていると自覚することで、かえって、健康というものが当たり前に手にしているものではないことを認め、へりくだるわけです。ナアマンもまた、この病を抱えていたことにより、俺は天下のアラムの将軍だ、などという態度にならず、格下の国と民族であるはずのイスラエルに預言者の存在を認め、そのもとに行くことを決めたのでした。 ここにも、神さまがナアマンを愛により選んでおられたしるしが現れています。ナアマンによってアラムが勝利を得たこと、その結果王の信任と民の尊敬を得られたこと、その一方でツァラアトを病むという絶望的な弱さを抱えていたこと、ところがそんなナアマンのもとに、神の民の一員であるイスラエルの娘がいて、彼女がエリシャのことを知っていたこと……すべてが、エリシャをとおしてまことの神さまに出会うために、神さまが備えておられたことでした。 病気というものそのものを神さまの賜物と言うことには慎重になる必要があるでしょう。しかし、もし人が、病気という弱さをとおして神さまに出会ったり、神さまとより深い交わりに入れられたりするならば、それは祝福ということができるでしょう。もちろん、病気をいやしてくださり、その苦しみを取り去ってくださる、神さま、イエスさまとの出会いと交わりを体験するようになるゆえの祝福です。 ナアマンは、自分をイスラエルに行かせてほしいと、王に直訴しました。王はナアマンに、イスラエルの王に宛てた親書を持たせて送り出しました。ところがイスラエルの王は、ナアマンのツァラアトを治してほしいというアラムの王のメッセージに震え上がりました。そんなことはできっこない。できなかったらこれを言いがかりにして、わが国をまたもや攻撃するつもりなのだ。 ナアマンには明らかに、ツァラアトを癒やしていただけるという信仰があったからこそ、こうして遠路はるばる、イスラエルの王のもとまで来たわけでした。アラムの王は、忠臣であるナアマンがツァラアトに冒されていることが問題であることを知っていて、だからこそ彼をイスラエルまで送ったわけですが、もしかするとアラムの王には、ナアマンのような信仰などなく、イスラエルの王が憂慮したとおり、これはイスラエルを攻撃する絶好のチャンスだと見なした深謀遠慮があったのかもしれません。もっとも、この本文はアラムの王のことが主題ではないので、彼がどんな動機でナアマンを送ったかは特に詮索する必要はないのですが、重要なのは、肝心のイスラエルの王が、エリシャという人がありながらその存在をすっかり忘れ、まるでイスラエルには神がいないかのようにうろたえたことです。 列王記第二を順番に、時系列に沿って読み進めると、この王はあの悪名高いアハブの息子のヨラムであると思われます。列王記第二の3章を見てみると、エリシャはこのヨラム王のことを、イスラエルの王としても、神の民の霊的なリーダーとしても、まったく評価していなかったことが分かります。アラム王の親書の内容に衣を引き裂いて悲憤慷慨したヨラムの態度は、エリシャが軽蔑したのももっともな、いかにも不信仰なものでした。 しかし、エリシャはそのように、不信仰のあまりにみっともない姿をさらした王のことを見捨てませんでした。エリシャは、ナアマンを治してあげようと宣言しました。それはなぜでしょうか? 王の体面を保ってあげるためだったのでしょうか? そうではありません。8節のみことばによれば、「彼、すなわちナアマンが、イスラエルに預言者がいることを知る」ため、つまり、ナアマンが、イスラエルにご自身の預言者をお立てになったまことの神さまに出会うためでした。 肉体がいやされることはみこころです。神さまは私たちの肉体をいやしてくださることによってそのご栄光を顕してくださるお方です。ゆえに私たちのすることは、治らない、治せない、と、イスラエルの王のように自暴自棄になることではありません。それはいかにも神さまを信じていない、現実的にすぎる態度です。そういう態度はクリスチャンとしてふさわしくありません。 私たちはまず、神さまが病をいやしてくださるのがみこころである、という大前提から出発すべきです。もし私たちが病気になったなら、どう祈りますか? 癒やされなくてもみこころです、などと祈るのは、全てを受け入れたしおらしい態度のように一見見えても、それは神さまが全能なる癒やし主であることを考えようとしない、不信仰な態度ではないでしょうか。主はいやしてくださることによって、癒やし主としてのそのご栄光を顕してくださることを信じているなら、私たちはそのご栄光を見せていただきたいと思いませんか? それならば、私たちは切に祈って願う必要があります。自分自身のためにも、この教会という共同体に属する兄弟姉妹のためにも。いま、病の中にある兄弟姉妹のために祈りましょう。主はいやしのわざをもって、ご自身のご栄光を顕してくださいます。