「十字架を負うべき私たち」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇138:1~8/主の祈り/讃美歌494「わが行くみち」/マルコの福音書8:27~38/メッセージ/聖歌617「したいまつる主の」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「十字架を負うべき私たち」 先週学びました聖書箇所は、イエスさまが目の見えなかった人のことをお癒しになったという箇所です。そのとき、イエスさまはその人の目に手を触れられましたが、最初その人は、見えるようにはなったが、歩いている人々は木のように見える、と言いました。たしかに見えるようになっているから、それだけでも奇跡といってもいいのでしょうが、イエスさまはそれでいやしの御業を完了されませんでした。イエスさまはもう一度その人の目に触れられました。すると、はっきり見えるようになりました。そのように、はっきり見えるようになるまで、イエスさまは何度も、お取り扱いの御手を触れてくださるお方だということを、先週私たちは学びました。 私たちクリスチャンにとってはっきり見えるようになるということは、霊の目が開かれ、イエスさまご自身とそのみことばがはっきりわかるようになる、ということです。この目の見えない人は、最初人が木のようにしか見えなかったわけですが、目の前におられるイエスさまが、木にしか見えなかったら困ります。私たちは十字架というシンボルを大切に思います。しかしそれは、イエスさまがかけられた木だから大事なのであって、十字架という木そのものが大事なのではありません。しかし、十字架にかかられたイエスさまを知れば知るほど、私たちは十字架の贖いのあまりのありがたさに感動し、ますますイエスさまについていくようになります。単に十字架を機械的にしか見ていないようでは、この、イエスさまに目を開けていただいた人の最初の段階のように、まだまだ目が開かれていないということであり、イエスさまに心の目、霊の目に触れていただいて、見えるようにしていただく必要があります。 さて、そこで今日の本文です。イエスさまは弟子たちにお尋ねになりました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」もちろん、何でもご存じのイエスさまは、ご自身の評判をご存じないわけがありません。こうお尋ねになることで、すでに世間で評判になっていたイエスさまのことを世間がどうとらえているかを、弟子たちがちゃんと把握しているか、弟子たち自身に確かめさせられたわけです。私たちの主イエスさまは、私たちがイエスさまを宣べ伝えるべきこの世の人たち、より正確に言えば、私たちの周りの人たちにどのように思われているか、そのことを把握するのは、私たちクリスチャンにとって大事なことです。イエスという人物は単なる人間だろうか、道徳の先生だろうか、あまたいる宗教家のひとりだろうか、はたまた、神の子だろうか……。そういうわけで、弟子たちも、自分たちが信じ従っているイエスさまのことを世間がどうとらえているかを知ることは、世間を知ること、また、自分たちの信仰を客観的に見ることにおいて役立ったわけです。 弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだという人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」大人気だったヨハネ、神の人と認められて尊敬を一身に集めていたヨハネ、しかし彼はヘロデの罪を告発して囚われの身となり、ヘロデの妻ヘロディアの陰謀によって首をはねられます。だが、その彼が生き返って、こうして数多くの奇跡を行いながら教えを宣べ伝えていたというのです。民衆の間でヨハネがどれほどの尊敬を集めていたか推し量ることができます。まさに、イエスさまが「女から生まれた者の中でヨハネよりも優れた者はいない」とおっしゃっただけのことはあったわけです。 エリヤは、はるかむかしの偉大な預言者です。そのエリヤは、旧約聖書の列王記第二2章を読めばわかるとおり、生きたまま竜巻によって天に挙げられます。そのエリヤが時を経て降臨したとも考えられたわけです。あるいは、ヨハネやエリヤではなくても、旧約聖書の時代に神の啓示を受けて働いた預言者たちに肩を並べる偉大な人、ともとらえる人もいたわけです。 こうして、弟子たちはイエスさまが世間でどうとらえられているかをイエスさまに申しあげました。そこでイエスさまはお聞きになりました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」大事なのは、「私たちが」イエスさまのことをどんなお方であるかと告白することです。人がああいうから、とか、世間ではこう思われているから、とか、学校ではこう習ったから、で、私たちにとってイエスさまがどんなお方かが決まるのではありません。「私が」、みことばをお読みしてお祈りし、イエスさまとの個人的な交わりを持つ中で、イエスさまとはどういうお方かを告白するのです。その点、弟子たちは普段からこうしてイエスさまとともにいて、お交わりをしていたので、だれよりもイエスさまが自分にとってどんな存在か、言うことができました。言う資格があった、という言い方もできるでしょう。 ペテロが答えました。「あなたはキリストです。」この告白の重さがわかりますでしょうか。私たちは当たり前のように、イエスさまのことを「イエス・キリスト」とお呼びしているから、イエスさまを「キリスト」と呼ぶのは当然ではないか、と思うかもしれません。しかし、一般的にこのお方を「イエス・キリスト」とお呼びするのは、キリスト教が世間一般に普及しているからにすぎません。この厳格な一神教であるユダヤの、当時の宗教社会において、だれかひとりの人物を「キリスト」、すなわち神と同等の存在と呼ぶことは、それだけで神への冒瀆と見なされることです。おいそれと口にできることではありません。だがペテロは、キリストは、目の前におられるこのイエスさまをおいてほかにない、と確信したゆえ、ためらうことなく「あなたはキリストです」と告白したのでした。 マタイの福音書の並行箇所を読みますと、イエスさまはペテロに向かって、あなたは幸いだ、その告白は天におられる父なる神さまがさせてくださった、その信仰告白をした彼の、ペテロという名前の意味が、岩という意味であることにちなみ、この岩の上にわたしの教会を立てるとおっしゃっています。まことに、イエスさまのことをキリストと告白するその岩のごとく強固な基礎の上に、私たち、主のからだなる教会は立てられているわけです。 だが、このマルコの福音書の記述を見ると、そのようにイエスさまがおっしゃったくだりは、まるまる省かれています。書かれているのは、イエスさまが、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた、ということだけです。つまりここでは、その戒めこそが強調すべき大事なことだったわけです。 もちろん、ペテロをはじめ弟子たちは、のちの日には大々的にイエスさまがキリスト、救い主であると宣べ伝えるようになっています。だがこの時点では、イエスさまは、ご自身がキリストであることをだれにも言ってはならないと、むしろ弟子たちのことを戒めています。その理由としてはいろいろ考えることができますが、ここはやはり、聖書本文の流れから、イエスさまがなぜそのようにおっしゃったかを考えたいと思います。 そのように戒められてすぐに、イエスさまは、ご自身の受難についてお話しになりました。多くの苦しみを受ける、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられる、殺される、しかし三日後によみがえる、そうならなければならない……そのことをはっきり、イエスさまは弟子たちにお教えになりました。あなたがたは今、わたしのことをキリストと告白した。しかし、キリストとはこのような歩みをする存在だ。彼らの目を、さらに新しい段階へと開こうとなさったのでした。 だが、これを聞いたペテロは、イエスさまをわきにお連れして、いさめました。マタイの福音書では、ペテロが具体的に何と言ったかが書かれています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 ペテロとしては精いっぱいの思いやりのつもりで、こう言ったのかもしれません。しかし、ペテロのことをどうフォローしようとも、イエスさまがおっしゃっている、キリストのあり方を、ペテロが真っ向から否定したという事実には変わりがありません。つまり、ペテロは確かに、ユダヤの宗教社会から抹殺される危険を顧みずにイエスさまのことをキリストと告白する恵みを受けましたが、この時点では「キリスト」というものを根本的に勘違いしていました。多くのユダヤ人が思い描いていたような、わかりやすい王の王としての姿を思い描いていたならば、ユダヤをローマから解放するのだから、むしろ宗教指導者たちからは最終的に尊敬と感謝と歓迎を受けてしかるべき、それが捨てられ、殺されるとはどういうことか……。ペテロの戸惑いが見えるようです。 イエスさまはそんなペテロに向かい、一喝されました。「下がれ、サタン。」このおことばのあと、ペテロに対するおことばが続きますが、イエスさまはペテロのことを「サタン」と呼ばれたわけではありません。イエスさまの第一の弟子であるペテロの信仰さえも惑わすサタンに対して一喝されたわけです。 サタンの惑わしは、イエスさまの十字架ということにおいて特別に現れます。この世には「クリスチャン」を名乗る人がたくさんいますが、その中でも多くの人が、「十字架」抜きの信仰、より正確に言えば「十字架にかかってくださったイエスさま」抜きの信仰になっていないかということを憂えます。サタンは、イエスさまの十字架を無視させるためならば、どんな惑わしをも用意します。教会の中で交わされたささいなことばを気にさせたり、現実に次から次へと問題を引き起こして圧倒させ、イエスさまと交わる時間を与えないようにさせたり……。こうして人が、イエスさまの十字架抜きの、かたちだけの「キリスト教という宗教の信者」になっていくならば、それはとても危険なことです。 ペテロも今こうして、キリストとは「捨てられる」お方であることまで悟っていなかったために、あろうことか、この人類の贖いのご計画を邪魔させようとするサタンの計略に、人間的な思いやりで、まんまと乗ってしまいました。イエスさまはそんなペテロのことを、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている、と叱責されました。 このように浅い理解でしか「キリスト」という存在をとらえられなかったペテロたち十二弟子は、まだこの段階では、同様に浅いキリスト理解しか持ちえないユダヤ人たちに、イエスさまがキリストであることを宣べ伝えるわけにはいかなかったのでした。最初人が木のようにしか見えなかった人が、さらにイエスさまに目を触れていただいて見えるようになったように、一度百点満点の告白ができたからと、すぐさま今後百点満点の働き人になれるわけではなく、働き人となるために、段階を経てのイエスさまのお取り扱いをペテロは必要としたわけです。私たちも同じです。はっきりイエスさまが見えて、イエスさまが語れるようになるまで、私たちは何度でも、イエスさまに触れていただく必要があります。 こうしてペテロのことを、弟子たちの面前で叱責されるというショッキングなお取り扱いをなさってから、イエスさまはお話しになります。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」だれでも、とおっしゃいました。ですから、このみことばは、ここにいる弟子たちはもちろんのこと、こうして今みことばをお読みしている私たちひとりひとりにも語られています。 私たちもイエスさまにお従いしたいと願っていることでしょう。しかしそれには条件があります。まず、自分を捨てることです。どのようにして自分を捨てるのでしょうか? 十字架を背負ってイエスさまに従うことです。 イエスさまは、宗教指導者たちの手によってご自身が文字どおり抹殺されることをお告げになりましたが、具体的に「十字架におかかりになる」とは書いてありません。マタイとルカの並行箇所を見てもそうは書いてないので、イエスさまはご自身が「十字架に」おかかりになると、はっきりお語りにならなかった可能性があります。しかしここでは、彼らにはっきりと、自分の十字架を背負いなさい、とお語りになっているわけです。十字架とは本来、私たちこそが背負うべきものであるわけです。 十字架を背負うことは自分を捨てることです。十字架にかかる人間は、十字架にかかるだけの罪人ゆえに、神に呪われ、神に捨てられます。聖書は語ります。義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。ならば、すべての人は神さまによって、究極の処刑である十字架の刑罰に処せられる罪人であるわけです。 人々は十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かわれたイエスさまを嘲りました。しかし、その嘲りのかぎりを尽くした群衆こそ全員、十字架を負うべき罪人です。十字架を負わなくていいお方はイエスさまだけです。そのお方に十字架を負わせたのは私たちです。私たちは、どれほど十字架を背負うにふさわしい罪人、神を捨てた究極の極悪人でしょうか。もし私たちが、自分はそういう罪人であるという自覚を持つならば、自分にはひとつとして神さまに認めていただけるよいところなどないことを悟ります。そして、神さまに認めていただけないと知った以上、人に認めてもらいたい、自分さえよければいいという、自我を捨てるしかなくなります。 だが、そうして十字架を背負うばかりの絶望的な究極の罪人は、イエスさまについていくことを許されています。イエスさまを通ってその一切の罪が赦され、父なる神さまにまったくのきよい人として喜んで受け入れていただける人になる、そうして、イエスさまの弟子としてこの世を歩む資格を与えていただける……だから、私たちは、イエスさまの十字架を見るたびに、自分こそが十字架につくべき罪人である、その十字架にイエスさまが身代わりについてくださった、イエスさま、ありがとうございます、私もあなたさまのために、一生、生きていきます。一生、ついていきます。そうなるのです。 世の人は、自分こそが十字架を負って神さまの怒りとのろいを受けるべき罪人であることも、その絶望から救ってくださるイエスさまのことも知らないばかりに、イエスさまのために生きるより、自分のために生きようとします。自分を捨てることを知らないのです。テレビや新聞を見ても、健康グッズの広告であふれていて、人々はいかに生きることに執着しているかを見る思いがします。だが、イエスさまが身代わりに死んでくださっていることを信じ受け入れない人は、十字架にかかるべき究極の罪人であるゆえに、それにふさわしい神の怒りのさばきを受けるしかありません。人は罪人であるかぎり、自分のいのちを救おうとする人は、そのいのちを失うさだめなのです。 中には、才覚があって、政治力や経営力を駆使したりして、天下を取る人もいるでしょう。有名になったり、長者番付に名前が載ったりします。しかし、そういう人も、自分が十字架を負うべき罪人であることを自覚し、それゆえに、唯一その十字架にかかるほどの罪を許してくださったお方であるイエスさまを信じ、お従いすることがなければ、いのちを失う、滅びるということを知る必要があります。そんな自分のいのちを地獄から買い戻すには、どんな財産も、どんな人間的なコネクションも通用しません。イエスさまを信じ従うこと以外には、自分のいのちを買い戻していただく道は一切ありません。 38節のみことばを読みましょう。「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」イエスさまがこの世に生きられた2000年前もとても罪深かった時代でした。現代日本の罪深さたるやどうでしょうか。いま、日本は全国的に梅毒が流行して秘かな社会問題になっていますが、その原因となる放埓な性関係のあり方について議論しようとする人はいません。姦淫が当たり前のことになっています。姦淫という快楽は、当然人間として享受するものという前提ありきです。罪も、世間を震撼させたルフィなる男から、レストランの食べ物にいたずらする若者まで、大小さまざまな罪が報道されていますが、人のことを罪人扱いするニュースの視聴者こそ、たいていは自分の罪に気がついていません。目には丸太のような罪がさえぎっています。 そんな世の中の影響を受けて、世の中に妥協して合わせ、人に気に入ってもらえることが、善良な市民としてのふるまいであり、それがひいてはキリストを証しすることにつながる、などと思っていたら大間違いです。私がこの教会に赴任して素晴らしいと思ったことは、赴任して間もないころ、信徒さんの亡くなったご家族の、キリスト教式ではないご葬儀、神式や仏式のご葬儀に出る機会があったのですが、そのたびに参席された教会員のみなさんが、お焼香をしなかったり、榊をささげなかったりと、宗教行為をなさらなかったことです。宇佐神先生がそのように教育を徹底しておられる教会に来させていただいたことをほんとうに感謝したものです。宇佐神先生もうちの信徒さんたちも、終わりの日には素晴らしい報いを受けられます。 でもご存じでしょうか、この日本にはクリスチャンでありながら、堂々とお焼香をすることで体面を保つ人がいます。こういうことは小さなことのようですが、小さなことに忠実な人が大きなことに忠実なのであると、そういう人に御国が任される、と、イエスさまはおっしゃいました。私たちの従順の積み重ね、この世に合わせるべきでないことはどんなことでも妥協しない、その実践の積み重ねは、やがてイエスさまが再臨されたときに、必ずイエスさまが評価してくださる対象となります。 私たちは十字架を負うべき罪人だと心底自覚しているでしょうか? もしそうならば、その十字架を進んで身代わりに背負ってくださったイエスさまを誇るはずです。イエスさまとそのみことばを恥ずかしいと思うのは、自分の十字架を背負ってもいないし、イエスさまのあとを従ってもいないからです。私たちはどうでしょうか? 自分の十字架を背負うほどに自分を捨てているでしょうか? しかし、その生き方は、イエスさまに一生お従いする、世界で一番幸せな人生です。 私たちは時に、自分の十字架を担いきれないことを知って、つまり、自分のあまりの罪深さに絶望して、落ち込むこともあるでしょう。しかし、イエスさまはそんな私たちのかかるべき十字架に身代わりについてくださるほどに、いのちを捨てて私たちを愛してくださったお方です。イエスさまのこの愛をいただいて、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでまいりましょう。

「はっきり見えるようになるまで」

聖書箇所;マルコの福音書8:22~26/メッセージ;「はっきり見えるようになるまで」 子どもを育ててみてつくづく思うことは、一度言って聞かせたからといってわかってくれるわけではない、ということ。それは、イエスさまにとっての私たちも同じなのだろう。私たちは一度神さまのみことば、イエスさまのみことばを聞けば、それで充分悟ってみこころを守り行えるようになるわけではない。目が充分に開かれるまで、主は引きつづき、これでもか、これでもか、と教えてくださる。 先週のみことばを振り返ろう。イエスさまが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には気をつけなさい」とおっしゃったとき、弟子たちは、自分たちがたった1個しかパンを持ってきていなかったことを、イエスさまが問題にされたのだと思い、議論を始めた。イエスさまはその姿を見て、弟子たちを叱責された。 先週のみことばは、弟子たちに対する叱責のことばで終わっているが、ここに至るまでのプロセスは、霊的に目の見えない弟子たちがイエスさまによって目を開けていただく、ということを示している。イエスさまの弟子として訓練していただくということは、もともとがイエスさまとその真理に目が開かれていない者が、目を開いていただく、ということである。 その前提で今日の箇所を見てみよう。イエスさまの一行がガリラヤ湖からベツサイダの地に上陸すると、人々が、目の見えない人をイエスさまのもとに連れてきた。彼にさわってくださいというのである。彼らは、イエスさまがしるしと奇跡を行われるお方であることを知っていた。イエスさまが触れてくださるならば、この人の目も開けていただけるという信仰があった。 当時の人々は、イエスさまの御業というものを、リアルタイムに見聞きし、また、体験していた。言い換えれば、イエスさまのしるしと奇跡は彼らにとって現実だったのである。時はそれから2000年下ったが、私たちはこの聖書のことばを、誤りなき神のことばと信じ告白している。ということは、この数々のみわざが行われたことは、事実だと信じ受け入れているわけである。この信仰は、私たちにとってすべての基礎である。 イエスさまは、この目の見えない人をお癒しになることを決められた。まずイエスさまがなさったことは、連れてきた人々のところから彼の手を取って離され、村の外に連れていく、ということだった。人前を離れて、秘かなところでみわざを行われたのである。これは、いやしのわざはどこまでもこの本人のため、さらに言えば、この人が創造主なる神さまに個人的に出会うために行うことであり、人々に見せるパフォーマンス、ショーとして行うべきものではないことを示している。 私たちがほんとうの意味でイエスさまに触れていただく場所、みわざを体験する場所は、大々的な場所、衆人環視の場所である必要はない。イエスさまと一対一になれる場所である。私がディボーションや聖書通読をこれでもかと奨励するのは、そうなることでみなさんが「偉くなる」ためではない。 そうではなく、ただでさえこの世において病まされて傷つけられることの多い私たちは、イエスさまでなければいやせないそれらの痛みを主の御前に差し出し、健やかになる必要があるからである。健康になること、それが主のみこころである。 イエスさまはどのようにしてこの人をいやされたのだろうか? まず、彼の両目につばをつけられた。前にも言ったとおり、つばというものを現代日本の考えでとらえてはいけない。これがイエスさまのいやしの方法である。考えてほしい。その「つば」は神の子イエスさまのものである。それだけでもたいへんな薬のように思えてこないだろうか? イエスさまはそれを、目に塗られたとある。 イエスさまはヨハネの黙示録において、霊的に一向に目が開かれようとしないラオディキア教会の信徒たちに、「目に塗る目薬を買いなさい」とおっしゃり、薬の生産地として栄えたラオディキアにふさわしい表現を用いていらっしゃるわけだが、今日お読みしたみことばにおいては、見えるようになるために目に塗るべきは、「つば」、イエスさまのみからだの一部であったものであるわけである。 当たり前のことだが、こんにちにおいてはもちろん、イエスさまの代わりにだれかの唾液を塗るわけにはいかない。しかし、神のみことばであるイエスさまの御口から出たひとつひとつのみことばが、 人を生かし、人をいやし、人の目を開く。そういう意味では私たちも、イエスさまのみことばの薬を目に塗っていただくべき存在である。そうするためには、いつもみことばを読むことが大事になる。 さて、イエスさまはそのようにして、この目の見えない人の目に触れられた。イエスさまはその人に、「何か見えますか」とお尋ねになった。イエスさまは一方的にみわざを行われるだけのお方ではない。対話をとおしてみわざを成し遂げられるお方である。あなたは何が見えますか。あなたは見えていますか。イエスさまと対話をいつも交わす祝福が私たちにあるように。 この人は答えた。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」この人はいやされた。これだけでも奇跡である。まったく見えなかった人が、わずかながらの視力、人と木の区別がつかない程度であっても、見えるようになったからである。 しかし、創造主の視点に立つとどうだろうか。神さまは人を完全に見えるように創造されたわけであって、人と木の区別もつかないような視力は、人の標準ではない。私は幼いときから人並外れて視力が悪く、そのためにたいへんな苦労をしてきた。つねに、普通に目が見える人と自分を比較しながら生きてきた。それゆえ、普通に目が見えることがどれほど祝福されているか、ということを思うのと同時に、視力がよいことが創造の御業の標準であることを喜んで認めるものである。 そういうわけでイエスさまは、もう一度この人の目に触れられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。イエスさまは、この人がはっきり見えるようになるために、あらためてみわざを行われたのであった。これは、みことばの真理に目が開かれるプロセスと同じである。弟子たちもみことばをたちどころに悟れなかった。そんな彼らに対しイエスさまは諄々と説かれ、悟れるように導いてくださった。一度で聞いてすぐに悟ったつもりになってはいけない。まだ自分はわかっていないことばかりだということを認め、繰り返し繰り返し、イエスさまに教えていただくことが必要である。 さて、イエスさまはこの人のことを家に帰らせ、もといた場所に戻された。ただしその一方で、村に入っていかないように、すなわち、人々の前でやたらと自分の姿を見せびらかさないようにと戒められた。たしかにこの人は、イエスさまが触れてくださることによってはっきり見えるようにはなったものの、イエスさまが宣べ伝えられる神の国の何たるかまで、この瞬間たちどころにして理解したわけではなかった。ただ単に、目を見えるようにしてくださった、奇跡を行われる人、程度にしか人々に伝えることはできなかった。逆に言えば、かえってそう伝えることによって、それだけでも大変なインパクトを与えることになる。それはパリサイ人を刺激し、イエスさまの本来行われるべき宣教の働きが妨げられることにもつながることだった。 私たちはしかし、最初のうちは、イエスさまの奇跡やしるしのすごさに驚くところから、信仰生活が始まったのではないだろうか? このような奇跡を行うお方が私の神さまとは! しかし私たちの目を主は絶えず開いてくださり、たとえ奇跡をおこなっておられないようなときでも、変わらずにこのお方は主、神さまであると告白し、お従いする恵みが私たちに与えられている。そのようにして私たちは霊的に成長させられてきたのである。 私たちは、もう自分は充分に悟ったと思ったら、もはや成長する余地がなくなってしまう。私はまだ見えません、わかりません、そのように謙遜に認めるところから、私たちはイエスさまによって目を開いていただくことができる。何か見えますか、この御声が聞こえるだろうか? 今見えている真理を告げてみることである。それで充分ではないならば、イエスさまがもっと私たちの霊の目に触れてくださり、はっきり見えるようになるまで、みことばを悟る恵みを与えてくださる。この恵みに感謝しよう。

「パン種の話」

子ども時代、いろいろな童謡を聴いて育ってきたが、こんな歌もあった。「ポケットの中にはビスケットがひとつ ポケットをたたくとビスケットはふたつ もひとつたたくとビスケットはみっつ たたいてみるたびビスケットはふえる そんなふしぎなポケットがほしい そんなふしぎなポケットがほしい」私はビスケットが好きだったので、ほんとうにこういうおとぎの世界にあこがれたものだったが、おとぎばなしではなく、実際にそれをなさったお方がいた。ただし、ビスケットではなく、パンと魚で。そのみわざをなさったのはイエスさま。 今日の箇所を見てみると、マルコの福音書6章に出てくる、五千人給食の繰り返しのように思えるかもしれない。しかし、今日の箇所で特に、異邦人の地にてこの御業が行われたということに注目しよう。イエスさまがパンを分け与えられたのは、豊かな天の御国の宴会をこの地にて行われたということだが、それをイエスさまは、異邦人の地で行われた。これは、異邦人にも救いの道が開かれ、主のみからだに与る恵みが与えられた、ということである。 ヨハネの福音書を見てみると、イエスさまがこのように、奇跡のようにしてパンを分け与えられてから、ご自身こそがいのちのパンであると人々におっしゃった。ほんとうに分け与えられるもの、そして、人々にまことのいのちを与えるものは、イエスさまのみからだであることをお示しになった。しかし、このことばに、十二弟子を除く弟子たちは去って行ってしまった。イエスさまのみことばがわからなかったのである。 それなら、イエスさまはもう、どうせこのような奇跡を行なっても人々がご自身についてこないなら、行なっても無駄だとばかりに、もう行うのをやめてしまわれたのだろうか? そうではない。この箇所を見てみると、イエスさまのみことばを求めて、食べることも忘れて耳を傾けていた何千人もの人々のことを、イエスさまは「かわいそうに」と憐れまれた。そして、この人たちを食べさせよう、と、イエスさまは思われた。 4節を見てみると、弟子たちはまだ、イエスさまがそれ以前にみわざを行なわれ、わずか5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われたお方だということが抜け落ちていた。そのような弟子たちの不信仰をよそに、イエスさまはわずか7つのパンと少しの魚で、4000人もの人々を満腹させられた。 ここでも、弟子たちの信仰が問われたのであった。イエスさまがこのようにみわざを行われたのは、もちろん、そこにともにいる群衆のためであったが、同時に、そばにおいて訓練している弟子たちがまず、全能の神さまであるイエスさまに対して信仰を持つようにするためであった。信仰の訓練を、これほどまでにダイナミックな方法で、イエスさまは行われたのであった。 さて、それでは、イエスさまはこのようなしるしと奇跡を行うことが、この世に来られた目的なのだろうか? そうではない。ガリラヤ湖を渡ってダルマヌタ地方に行かれたとき、そこにはパリサイ人が待ち構えていた。彼らは天からのしるしを見せよとイエスさまに迫った。しかし、イエスさまは彼らの誘いには乗らず、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃった。 イエスさまがしるしを行われたのは、みことばに飢え渇いたうえに食べ物にも飢え渇いた、群衆のためであった。その動機は「あわれみ」であった。しかし、そもそも満ち足りていて、神の子であるイエスさまのことを一切認めないような傲慢なパリサイ人を前にしては、そもそもしるしをお見せになる必要がなかった。イエスさまは、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃったが、これは、イエスさまというお方が、しるしを見せることによって人々を説得し、王の座にお着きになるお方ではないことを示している。 ほんとうのしるしは、イエスさまの十字架と復活である。いみじくもイエスさまは、このように挑発するパリサイ人に対して、「ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない」とおっしゃったが、ヨナは神の怒りに触れて荒海に投げ込まれ、それによって神の怒りはなだめられたが、ほとんど死んだような状態になった。そんなヨナは大魚に吞み込まれ、3日3晩大魚の腹の中で過ごし、ついには陸地に生きて吐き出された。そのように、イエスさまが人々の身代わりに神の怒りを受けて十字架に死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえって墓の外にお出になるというしるしこそがほんとうのしるしであるとおっしゃったわけだが、パリサイ人の目にはそのことが隠されていた。 13節にあるとおり、イエスさまはパリサイ人から離れられた。パリサイ人は、自分たちこそみことばをよく理解していると自負していただろうが、そのような者が、神の子なるイエスさまのことがわからなかったとは皮肉である。彼らは傲慢な態度で、目の前におられるこのお方が神の子であることを否定し、もちろん自らも信じようとしなかったが、イエスさまはそのような者からは離れられる。 ある牧師先生のメッセージを聴いて愕然としたことだが、こうおっしゃっていた。「韓国の教会は祈る教会、台湾の教会は賛美する教会、日本の教会は? 議論する教会」。別の先生はこんなこともおっしゃった。「クリスチャンが部屋の中に集まって、みんなで、ああでもない、講でもない、と話し合っています。そんなとき、部屋の外ではイエスさまがドアをノックしていて、『もしもし、わたしはここですよ』とおっしゃっています。」 韓国にいたとき、日本の教会は神学が深いということをよくお聞きしたが、私にはそれがほめことばには聞こえなかった。ほんとうに神学が深まって成熟しているならば、もっと教会が成長してもよさそうなものである。議論ばかりで肝心のイエスさまに向かい、お交わりを持とうとしない教会からは、イエスさまは離れられるのではないだろうか。パリサイ人のことは私たち日本の教会にとって、ひとごとではない。 さて、パリサイ人から離れたイエスさまの一行は、船に乗ったが、パンが1個しかなかった。そのとき、イエスさまは15節のようにおっしゃった。しかし弟子たちは、この「パン種」というものが、食べるパンと関係のあるものだという、浅はかな解釈しかできず、議論を始めてしまった。 イエスさまはそれをご覧になり、お叱りになった。17節から18節。7つもお叱りのおことばを語っておられる。七は完全数。肉的なことしか考えられなかった弟子たちを、完全にお叱りになった、ということである。 イエスさまがその時思い起こさせられたことは、パンを豊かに増やされ、人々を食べさせたのちに、残りを取り集めてもそのかごはたくさん、いっぱいになった、ということだった。12も7も、聖書の世界では完全数である。人々を食べさせた残りの、かごに入った食べ物は、弟子たちのためのものである。弟子たちのことをこれほどまでに、完全に食べさせることができるイエスさまのことを、なぜ信じない、と、イエスさまはお嘆きになり、その7つの完全なお叱りのことばをもって、弟子たちの不信仰を徹底的に取り扱われたのである。 それでは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」とは何であろうか? それは、この世に属する俗的な神解釈である。パリサイ人は、人々に宗教的な生活を強いることで、自分たちの既得権にこだわった。それはヘロデも同じことで、ヘロデは宗教社会の統治者として君臨してはいたものの、実際はへロディアを妻とし、バプテスマのヨハネを処刑するような俗物だった。そしてこれはどちらも、イエスさまをまことの神さまと信じてお交わりし、お従いすることとは異なることである。 面白いことに、パリサイ人もヘロデも、イエスさまに何らかの奇跡を行うことを要求した。この箇所を読むとパリサイ人はイエスさまにしるしを要求しているし、ヘロデは十字架にかかられる直前のイエスさまを尋問したとき、イエスさまに何らかのみわざを行うことを要求している。 しかし、このようにまことの神なるイエスさまに要求することは、所詮、イエスさまに対する不信仰の裏返しである。この場合の不信仰は、「イエスさまを信じないこと」というよりも、「イエスさまよりも自分の考えを正しいとすること」と言えよう。自分の考えを最優先で信じて、イエスさまへの信仰は二の次、なのだから、これも不信仰ということができる。 ほんとうにイエスさまを信じているならば、イエスさまのおっしゃることはすべて、アーメン、そのとおりです、と信じ受け入れてしかるべきである。そこに人間的な考えが入り込むからおかしくなり、ややこしくなる。そのような不信仰が悪いパン種である。パン種は本来、パン生地に入ってパンを大きく膨らませて、食べられるようにもする。神の国の福音というものもそのように、人々を限りなく成長させる。イエスさまのみ教えはそれほどの力を持つ。しかし、悪いパン種が入ると、パンが腐るように、教会という共同体の中に悪いパン種のごとき不信仰が入り込むならば、教会はイエスさまとまともにお交わりすることができなくなり、不信仰の共同体になってしまう。 イエスさまがあれほど、口を極めて弟子たちをお叱りになったのは、不信仰という次元においては、パリサイ人やヘロデと五十歩百歩のみっともないさまを、弟子たちが見せてしまったからと言える。つまり、十二弟子の共同体の中にさえも、悪いパン種は入り込む余地があった。そのたびにイエスさまは、お叱りのことばを語って彼らを悔い改めに導かれた。子どもはイエスさまのもとに来てはいけないというのはパリサイ人のごとき律法主義である。イエスさまはそのようなことを言う弟子たちを激しくお叱りになって、子どもたちを受け入れられた。だれがいちばん偉いかと議論する弟子たちの姿は、ヘロデのように宗教社会において世俗的権力をもって君臨しようとする醜い姿であり、イエスさまは、神の国とはそのようなものではないことをお示しになるために、みなに仕える者になりなさいとおっしゃった。 教会はいつでも、パリサイ人のパン種のような律法主義にやられる可能性がある。あるいは、ヘロデのパン種のような世俗的な権力主義にやられる可能性がある。私たちとて例外ではない。教会がそのどちらからも守られるために、私たちは時にイエスさまのお叱りをいただきつつ、イエスさまのみことばにお従いする必要がある。主は、頑なで悟れない私たちのことを諦めることはなさらず、これでもか、これでもか、とみわざを示してくださりながら、なおも私たちのことを導いてくださる。

「イエスさまはいやし主」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇132篇/主の祈り/讃美;讃美歌121「まぶねのなかに」/聖書箇所;マルコの福音書7:31~37/メッセージ/讃美;聖歌654「いちど死にしわれをも」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「イエスさまはいやし主」 私は医療宣教ととかく縁のある牧師である。私の父からして医師だった(クリスチャンではなかったが)。私が初めて導かれ、バプテスマも受けることになった教会は、医療伝道が母体となって立てられた教会だった。そしてこの教会も医療伝道がもとになって立てられた教会であり、現在も役員にお医者さんがいらっしゃる教会となった。 また一方で、私は病人として入院する機会が人よりも多かった。そのような中で、入院生活をとおして神さまを信じる強い信仰に導かれたこともあった。医療というものはそういうわけで、私にとって特別な存在でありつづけている。医学を専攻して医師になることはなかったが、まことの医者であるイエスさまに日々いやされながら、人をいやされるイエスさまのお働きのお手伝いをさせていただいていることを、つねに思う。 さて、今日の箇所はいやしの箇所である。耳が聞こえない、口で話すことができないというのは、とても不便なことである。一般的に人々の間に成立するコミュニケーション、交わりに大きな支障をきたしている状態である。人は話し合うということをとおして社会の一員として自由に振る舞えることを思うと、聞けない、話せないということは、どれほど大変なことだろうか。 もっとも、現代においては、そのような方々へのバリアフリーの概念が大きく発達した。私は一時期、茨城町役場に赴いて手話を勉強していたが、教えてくださる先生は耳と口が不自由な方だった。しかし、手話を使って教えてくださるその先生の隣には通訳の方がいるので、まったく不便、ということはなかった。そして、手話を用いられる先生の姿を見ていると、手話というものが立派な言語であることがよくわかったものだった。こういう、はつらつとしたお姿を見ていると、ある有名な身体障碍者のことばのとおり、「障がいは不便ですが不幸ではありません」ということばはほんとうなのだろうと思えてくる。 今日の箇所を見てみよう。この、耳が聞こえず、口がきけない人は、少なくとも、イエスさまのもとに連れてきてくれる友達に恵まれていた。それだけでもこの人は不幸ではなかった、といえないだろうか? からだの一部を欠損しても天国に入るほうが、五体満足でゲヘナに入るよりもよい、とイエスさまはおっしゃった。この世の人たちはだいたい、五体満足で便利な生活を享受しているが、彼らは自分が平安な環境に置かれている分、神さま、イエスさまのもとに行こうとしない。それを考えると、この人は周りの憐れみを受けて、イエスさまのもとに連れてこられたわけである。 その意味でこの人は、イエスさまに出会えた分、幸せだった。彼も耳が聞こえず、口がきけなかっただけに、どれほどの苦労を味わってきたことだろうか? しかしその苦労は、イエスさまに出会う道を開いた。まさに詩篇119篇71節の語るとおりである。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」神さまにお従いする道、いのちの道は、苦しみにあってこそ見出させていただくもの。私たちもそのことを、これまでの人生において体験してきたのではないだろうか? さて、イエスさまの主要なお働きの中に、なぜ、重い病気や障がいを抱えた人をいやされた、という働きがあるのか、考えてみたい。人間とは神のかたちに造られている。そのような人間に神さまは、ご自身をみことばにおいて啓示されているわけだが、みことばを読むと、神さまには顔があり、目があり、鼻があり、口があり、耳があり、手があり、足があることがわかる。これは、人間が自分たちの姿を見て、神さまのイメージをつくり出したということではない。むしろその逆で、人間に顔や目や鼻や口や耳、手や足があるのは、それらのものをお持ちの神さまのかたちに人間がつくられている、ということである。 ということは、それらのものが病んでいたり、障がいを持っていたり、傷ついていたりするということは、その人において、神のかたちがそれだけ損なわれているということを意味する。お医者さんという働きが尊敬されるべきなのは、医術をとおして、患者さんにおいて神のかたちを回復させる働きをなさるからである。 イエスさまが人々をいやされたのも、まさにその次元で考えるべきことである。イエスさまは、生ける神の似姿へと人を回復された。この罪に満ちた地上において、あまりにも人々が病み、神のかたちとして振る舞うべき肉体が傷つき、障がいを負ってしまっていることに、イエスさまはとても心を痛められたのである。 さて、イエスさまはこのいやしのみわざを、あえて群衆から離れたところで行われた。これは、この障がいを持った人をいやす働きが、人々に対するパフォーマンスとして行われるべきものではないことを示している。しかしイエスさまは、彼のことをお癒しになるために、群衆から離れて二人きりのところに連れ出された。イエスさまのみわざ、とりわけ、神のかたちに人を回復されるいやしのみわざは、イエスさまとの一対一の場で行われる。そこには人の干渉の入り込む余地がない。私たちにとって個人的なディボーションの時間が必要なのは、このように個人的にイエスさまが臨んでくださり、いやしてくださるみわざが臨むためでもある。 イエスさまはどのようにこの人を癒されただろうか? まず、イエスさまはその人の両耳に指を入れられた。いやし主なるイエスさまのタッチである。イエスさまはこのように、病んでいるところに触れてくださるお方である。そして、つばをつけて舌に触られたとある。つばというものはこの時代、ギリシャ人の間でもユダヤ人の間でも、医療のために用いられた。 こんにち、コロナ下の昨今など特に、人々はつばというものにきわめてナーバスになっているが、本来つばとはそういうものではなかった。私たちは先入観を取り除いてみことばに向かう必要がある。イエスさまはいやし主なる神の権威をもって、つばによりその人の舌をいやされた。 そして天を見上げて深く息をされたとある。これは「嘆息して」とも訳される。イエスさまは神さまだからと、瞬間的に癒しのわざを行われたのではない。全能の神、いやし主であられるイエスさまは、人として苦悩し、嘆息された中で、ご自身も肉体の弱さをまとわれたお方として、人に同情し、その人がいやされ、回復されることを切に願われた。その究極の姿は十字架である。あれほどの苦しみをイエスさまが人の身代わりに負われることにより、人ははじめて罪の赦しをいただき、神さまの御前に行くことのできるものとしていただいた。 こうしてこの人は、いやされた。しかしイエスさまは、この人がだれかにこの癒しのわざについて告げることを禁じられた。それは、この世的な王としてのメシアを待ち望んでいた民が、間違った形でイエスさまをあがめることを避ける意味もあった。また、単にいやされさえすればいいというご利益信仰で人々が押し寄せ、肝心の神の国を宣べ伝える働きが妨げられるのを避ける意味もあった。 そうはいっても、イエスさまが彼になさったいやしのわざは否定できないものであり、その喜びに彼が満たされたのは、当然のことではなかっただろうか。37節の群衆の告白に注目したい。これは、イザヤ書35章5節、6節の、主が臨まれたときどのような御業が起こされるかということを預言したみことばが、そっくりそのまま、彼ら群衆の告白となった、ということである。つまり、みことばはイエスさまのこのいやしの御業において成就した、ということである。 以上の箇所から私たちが考えるべきことは何だろうか? イエスさまはいやしのわざを行われるにあたって、耳が聞こえず、口がきけない人をいやされた。それは、御口でみことばを語られ、御耳で私たちの祈りを聞いてくださる、私たち人間と交わりを持ってくださる神さまのかたちが損なわれているのはいけないからである。私たちはこの肉体の口は話せ、耳は聞こえるかもしれない。しかし、互いに話し合うことばが、神さまの恵みとは無関係のことばかりだとしたらどうだろうか? どうでもいい情報ばかりだとしたらどうだろうか? 耳で聞くにしても、この世の情報ばかりで、神さまの御声を聴いていないとしたらどうだろうか? それは私たちも、神のかたちとしての耳が聞こえず、口がきけないことを意味している。 この障がい者は私たちのことである。私たちもまたいやされなければならない。いやされ、神のかたちに回復された耳で、私たちは何を、いつ、どこで、どのように聞くだろうか? 神のかたちに回復された口で、私たちはたとえばすぐにでもこのメッセージのあとにおささげする祈りの時間に、何を、どのように祈るだろうか? そしてもうひとつ考えてみたい。この人はいやされたとき、イエスさまのご命令にそむいて言いふらした。イエスさまというお方は憐れみをもって人をいやされるが、その憐れみに満ちた振る舞いを人々は誤解し、正しく受け取らなかった。イエスさまを主とあがめて、その弟子としてお従いしたものはごくわずかであった。私たちは今もイエスさまの癒しをいただいているが、そのような私たちは、イエスさまをどのように理解し、イエスさまにどのようにお従いしているだろうか? このかぎりある知性をもってしては、大いなる主、イエスさまのことを正しく理解することはできない。しかし、イエスさまがご自身を教えてくださる、その教えにしっかりお従いするならば、イエスさまのことがわかる。 神さま、イエスさまを知ることは、永遠のいのちであるとイエスさまはおっしゃった。もちろん、イエスさまのことが今この時点で100%正しく理解できていないからといって、イエスさまが私たちのことをお蕎麦気になることはない。しかし私たちは、今この瞬間にも、イエスさまの御業をいただいている分、イエスさまを正しく知る歩みをしていこうではないか。