「神の国、異邦人の地に臨む」

聖書箇所;マルコの福音書5:1~20/メッセージ題目;「神の国、異邦人の地に臨む」 妻とまだ結婚する前、交際中の頃のこと。妻は当時、関西地方で宣教師になるための訓練を受けていたが、ときどき私の携帯電話に電話をよこしてくれた。ある日、働いていた教会から駅に帰る道で、妻から電話がかかってきた。うれしいことだが、気持ちは複雑。なぜならば、そのとき通っていた駅への近道が、谷中霊園という墓地の中だったからである。15代将軍徳川慶喜のお墓、ステテコを流行らせた三遊亭圓遊のお墓、高橋お伝のお墓、その他もろもろの数えきれないお墓に囲まれて、電話でデートをする羽目になったわけである。それも、すっかり暗くなった夜。何とも言えない気分になった。 お墓という場所は、死者のお骨がたくさん埋まっている場所。好んで近寄りたいとは思えない場所である。しかし、このお墓を棲み処(すみか)とし、真っ裸で凶暴ななりをしているような男がいるとしたらどうだろうか? 怖いなんてものではない。さきほどお読みしたみことばは、そのような男がイエスさまによって変えられる場面である。 1節のみことば。イエスさまは群衆をあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡って、向こう岸のデカポリス、異邦人の地に赴かれた。そのとき、ひとりの男の人をめぐって起きた一連のできごとは、神の国が異邦人の地にいかにして臨んだかを、雄弁に物語っている。特にこの男の人にスポットを当てながら、男の人に起きた変化を観察しつつ、神の国の臨む前(過去)、神の国の臨むとき(現在)、神の国の臨んだのち(未来)の、3つのポイントから語ってまいりたい。 まずは、神の国の臨む前。2節のみことば。……神の国の臨む前は、人は悪しき霊に支配された状態である。墓場とは死んだ者のいる場所である。墓場にいるということは、生きてはいてもほとんど死んだ者として振る舞っている、ということである。神の国の臨む前の人は、永遠のいのち、神さまにあるまことのいのちがとどまっていないかぎり、どんなに生きているように見えても、神さまの目には死んだ人である。 3節から5節。悪霊に取りつかれた人のこの恐ろしさを見よ。あまりに狂暴なので、人々は彼に足かせをはめ、鎖につないだ。しかし、いったいどんな力が働いているのか、彼はその鎖を引きちぎり、足かせを壊して暴れる。夜となく昼となく墓場で大声を上げて叫びつづける。 注目すべきは、彼が自分のからだを傷つけていた、ということである。自ら進んでからだに傷をつけることは、精神がむしばまれている証拠である。なんという苦しみの中に彼はおかれていたことであろう。 人間はこんなにも悲惨になるのである。デカポリスの人々は、彼のことをこうして隔離し、のけ者にし、鎖と足かせで縛りつけて、なんとかことを収めようとした。しかし、それも甲斐なく、どうしたってこの恐ろしさそのものの彼のことを見ないわけにはいかなかった。彼の存在は、デカポリスの大いなる悩みの種だった。 悪魔と悪霊どもは、まことの神さまを知らない者たちのことを翻弄する。偶像礼拝をもって共同体を霊的に混迷させたりもするが、この場合は、悪魔に魅入られたような者を用いて共同体に不幸をもたらしている。日本もそうだったが、明らかに悪霊の支配を受けている人間の存在によって共同体が混乱させられるということは、古今東西存在してきたことである。いずれにせよ、そこには主が統べ治める「神の国」は臨んでいるとは到底言えない、悲惨な状態になっている。 しかしここに、悪霊を追い出すことのおできになるお方が登場された。イエスさまである。それでは、神の国の臨んでいる状態、「現在」を見てみよう。 6節。悪霊に取りつかれたこの男の人はイエスさまを礼拝した。これは、悪霊がイエスさまのことを礼拝しているということである。駆け寄ってきて礼拝したということは、イエスさまこそが礼拝すべきお方だということを、悪霊どもは知りすぎるほど知っていたということである。 イエスさまは、ユダヤ人の地域でだけの神さまではない。ユダヤの外に出ても、異邦人の地域においても、神さまである。悪霊がユダヤでだけ悪霊ではないのと同じことである。ガリラヤをあとにされ、異邦人の地域においても、神さまとして存在された。 それを念頭に置いて7節、8節を見ていただきたい。何の関係がありますか、というのは、マタイの福音書8章29節の、ほぼ同じような内容の箇所から、なぜ悪霊がそのように言ったのかが類推できる(地名や悪霊につかれた人の人数など、若干のちがいはあるが、ほぼ同じ話である)。「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」と言っているが、「その時」とは、イエスさまが十字架と復活を経て、天に昇られ、聖霊が注がれ、使徒たちが神の国の福音を携えて、ユダヤを越えて異邦人の地、世界にまで出ていくそのとき、ということを指している。 悪霊は、そのような神さまのご計画を知っていた。だから、まだまだ大丈夫だ、とばかりに、デカポリスを霊的に支配し、特にこの男の人のことを苦しめるだけ苦しめていた。ところがそこに、イエスさまがやってきたからさあ大変、である。 嘘だ! まだ使徒たちが異邦人の地に派遣されていないばかりか、イエスさまは十字架にすらかかっておられないではないか。やめてくれ! 話がちがうぞ! お願いだから滅ぼさないでくれ! 面白いのは、悪霊が「神によってお願いします」とイエスさまに懇願していることである。私たちが神さまのことをよく知らないで済ませているうちにも、悪霊はよっぽど神さまのことがわかっているし、神さまの権威を認めている。 ヤコブの手紙に、行いによって信仰のあることを示すことをしないようなクリスチャンに対して苦言を呈すメッセージの中に、こんなことばが挿入されています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(2章19節)神さまのこと、イエスさまのことを知識で知っている程度ならば、悪霊だって同じである。神さまに従順であるかどうかが問われている。 9節。イエスさまは悪霊に名前を問われた。レギオン、とは、ローマの6000人からなる部隊であり、それだけたくさんの悪霊がその人に取りついていた、ということである。名前をつかむ、ということは、とても大事なことである。聖書にはとても多くの人物が登場するが、名前が登場する場合と、名前が登場しない場合とでは、イメージを具体的に思い浮かべるうえで差が出てくる、ということは経験しているだろう。 だれかのために祈るとき、やはりせめて名前は知っておいた方がいい。その人がどんな人か、ということをまた聞きするとき、結構、その情報を提供してくれた人のバイアスがかかるものである。しかし、名前はバイアスのかかりようがない。名前を挙げて祈ろう。 10節。この地方から追い出さないように、という彼ら悪霊どもの祈りは、この地方はまだ俺たちの天下だ、余計なことをするな、という驕りが透けて見える。否が応でもイエスさまに支配させない姿勢である。イエスさまの神の国が宣べ伝えられるところには、その共同体における悪霊の支配が終焉を迎えるという、素晴らしいみわざが起こされてしかるべきである。 11節。ちょうどそこにはおびただしい豚が飼われていた。神の民ユダヤに与えられた律法では忌み嫌うべき動物であり、イエスさまご自身も、せっかく宣べ伝えられたみことばに対してきわめて否定的な態度を取り、せっかく伝えてくれた人を恩知らずにも攻撃するような剣呑な人間のことを、豚に例えていらっしゃる。 12節。そういう意味では、この男でだめだったら豚に取りつかせてほしい、という、彼ら悪霊どものことばも、一応は筋が通っていると言えた。13節。すると悪霊に取りつかれた2000匹の豚は、ガリラヤ湖目がけて突進し、そのまま溺れて死んだ。悪霊どもは生き永らえたのではない。滅ぼされたのである。こうして、この男の人は、無事に悪霊の支配から脱した。 14節。豚を飼っていた人たちは逃げ出した。そして、いったい何が起こったのか言い広めた。うわさを聞きつけた人々は、イエスさまのいるところまでやってきた。15節。これがあの男か! そして、このイエスという人は、この男をこのようにしたのか! 彼らは震え上がった。 16節と17節。彼らはイエスさまに、この地方から出ていってほしいと頼んだ。それは、この男の人から悪霊を追い出された霊的権威を前に震えおののいたということもあっただろうが、やはり、この地域の産業であった養豚業が少なからぬ打撃を受けたことも大きかったのではないだろうか。 私は最初、この箇所を読んだとき、イエスさまはもっとほかの方法で悪霊を追い出されることはなさらなかったのかな、と思ったものだった。彼らこの地方の人々がイエスさまに出ていってほしいと頼むのはある意味当然じゃないかな、と。しかしここで私たちが考えるべきは、「悪霊に取りつかれた人」のことであろう。 いったい彼は、ここまで悲惨な生き方をしたくてしていたのだろうか? 自分ではどうにもならない、ただ悪霊に支配されるしかなかった彼は、あまりに醜く、そしてこの地上で苦しむだけ苦しんだ末に、行きつく先は永遠の地獄である。この世に生まれたばかりに、地上で地獄を味わい、のちの世で地獄を味わう、そんな彼を救って、何が悪いのだろうか? 私が神学生のとき、「弟子訓練」を一緒に受けていた信徒さんの中に、シムさんという方がいた。お仕事は3000頭の豚を飼う養豚場のオーナーで、彼は教会の子どもたちから「テジアッパ(ブタさんのパパ)」と呼ばれていた。 彼はほかの訓練生同様、1年間の弟子訓練のコースを通じて、めきめき信仰が成長していかれたが、ひとりの人を大切にするというサラン教会の牧会哲学を身に着けられたこの方だったら、どうしただろうか? イエスさまがもし、この男の人を救うためにあなたの豚3000頭のうち2000頭を差し出しなさい、とおっしゃったならば、どうなさっただろうか? ひとりの人を救うために、自分の大切な財産である豚を差し出しかねなかったのではないか、そんなことを思う。 もっとも、彼らデカポリスの人々は、神の国の福音を受け入れられるだけの下地を持ち合わせてはいなかった。やはり異邦人としての限界の中に生きていたのである。イエスさまもそんな彼らの限界をよくご存じで、彼らが「出ていっていただきたい」と言えば、イエスさまも争わず、彼らのもとを去っていかれた。 しかし、これだけならば、イエスさまはなぜ、わざわざガリラヤをあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡ってまで、デカポリスまで赴かれたのだろうか、そこで宣べ伝えられるべき神の国の宣教は失敗に終わったのか、ということになるだろう。この話は終わっていない。 そこで、「神の国が臨んで以降の『未来』」のお話である。18節。彼はイエスさまについていこうとした。彼はもちろん、これほどまでのことをしてくださったイエスさまに一生ついて行きたいと思ったことだろう。あるいはもしかしたら、自分のことを邪険に扱いつづけたデカポリスの人たちに見切りをつけたかったのかもしれない。 19節。イエスさまは彼を弟子に取らなかった。その代わり、彼を直ちにデカポリスの働き人として派遣された。なんと、使徒が立てられるはるか以前に、イエスさまは「異邦人宣教」の道をすでに開いておられたのである。そして20節。彼はイエスさまがなさった大いなるわざを宣べ伝えた。 彼らはイエスさまを拒絶したかもしれない。しかし、この男の人は曲がりなりにも同じ共同体の最大の問題人物であった人であり、それがこれほどまでに変わったという事実を見せられては、イエスさまを信じるしかない。やはり、レギオンの悪霊が追い出されたなりの霊的効果が現れていたのである。 彼の未来は、イエスさまの弟子として添い遂げることではなかったかもしれない。しかし、イエスさまの働き人としてイエスさまを宣べ伝える人となった。神の国はこうして、この男の人にも、デカポリスにも臨んだのだった。 ここは、やはりこの男の人に、そしてこの人に注がれたイエスさまの愛に注目しよう。 生きて地獄、死んで地獄のこの人を、天国の人にしてくださったイエスさまの愛。墓場の狂人、共同体に問題しか与えなかった人を、神の国の働き人としてくださったイエスさまの愛。その男の人を救い、素晴らしい使命を与えるためだけに、はるかガリラヤ湖を越えてデカポリスまでやってこられたイエスさまの愛。 私たちも考えよう。私はとても悲惨だった。そんな私ひとりを救ってくださるためにイエスさまはこられ、十字架によって救ってくださった。そして私はこれから、イエスさまによって神の国の働き人として用いられる。イエスさまは私に、どんな働きを望んでいらっしゃるだろうか? この男の人は最初の願いを聞いていただけなかったが、イエスさまのおっしゃったとおりの使命を帯びて、用いられた。私たちもイエスさまの望みどおりの人となり、用いられるように。

「どうして怖がるのですか」

聖書箇所;マルコの福音書4:35~41/メッセージ題目;「どうして怖がるのですか」  船乗りという仕事は、なんというか、ロマンを感じさせる。漁師、海上自衛官、クルーズ船の乗組員……今はあまり行かなくなったが、時間があるとき私はたまに大洗に行き、苫小牧行きのフェリーを眺め、ああ、北海道にこれで行ったら楽しいだろうなあ、フェリーの乗組員なんて、いつも旅行をしているようなもの、うらやましいなあ、などと思ったりした。  しかし、「板子(いたご)一枚下は地獄」という船乗りのことわざがあるとおり、海というものはただ船を悠々と浮かべてくれるやさしいものとはかぎらない。荒れたときにはその凶暴さをむき出しにする。下手したら波に呑まれて死んでしまう。その冒険心をくすぐるヒリヒリした感覚がいいのだと、もしかしたら船乗りの人たちは思うのかもしれないが、死んでしまってはおしまいである。  私たちの人生は、しばしば船が海を行くこと、「航路」に例えられる。多くは波のない海を行くがごとく、平穏無事に過ぎゆくものだが、時に私たちの人生には、荒波のような試練が襲いかかるときがある。  今日の箇所は、イエスさまの弟子たちが文字どおりの荒波に襲われる、という、ハラハラするような場面。しかし、イエスさまはこれを治められた。この湖の旅をとおして、イエスさまは弟子たちに何をお教えになったのだろうか?  特にイエスさまのおっしゃったみことば、「どうして怖がるのですか」に注目しよう。もちろんイエスさまは、そうか、キミたちは怖かったんだね、おお、よしよし、とおっしゃりたいわけではない。わたしの弟子ともあろうあなたたちは怖がってはいけないでしょう? それが怖がるとは、どうしたことですか、と、叱咤激励しておられるのである。  今日の箇所は短いので、ポイントに分けず、最初から見てまいりたい。35節。イエスさまは畑の種蒔きのたとえほか、いくつかのたとえを弟子たちに解き明かされたその日、夕方になってから、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを促された。弟子たちはもちろん、お従いした。  私たちクリスチャンの歩みとは、イエスさまが「行け」と命じられたら行き、「とどまれ」と命じられたらとどまる、その歩みの繰り返しである。私たちはクリスチャンとしてふさわしく歩むために、イエスさまの御声につねに耳を傾ける必要がある。イエスさま以外のもの、テレビとかインターネットとか、はたまたご近所や職場のうわさ話などを聞いて、それで心の中がいっぱいになっていては、イエスさまの御声を聞き分けることができず、したがってイエスさまに聴き従うことはできない。  弟子たちがお従いしたのは、絶対的な師であるイエスさまが目の前におられ、御声をもって促されたからである。私たちも弟子たちのように、イエスさまを目の前にするように生きているならば、御声は必ず聴けて、お従いできる。 しかし、形式的に礼拝をささげて、形式的にディボーションをささげさえしていれば大丈夫というものではない。こうして弟子たちに交じって御顔を見、御声を聴いていたイスカリオテのユダが、土壇場でどんな選択をしたか。イエスさまを十字架に引き渡すような、究極の罪を犯したではないか。私たちは形だけでみことばの語られる場に同席するのではなく、生ける交わりを体験することである。私たち自身をイエスさまの御前に、日々赤裸々に差し出そう。  36節。イエスさまのみことばとみわざを求める群衆はまだそこにいた。しかし、イエスさまはそこから新たなところに行かれるとおっしゃるので、弟子たちはついて行った。群衆に関わっていると、イエスさまは本来のお働きができない。もっと大事な、みこころにかなうお働きに赴かれ、それに弟子たちはお従いする必要があるのである。  イエスさまは群衆に対して意地悪だったのではない。よりご自身の存在とみわざが必要なところに赴かれたのである(それについて詳しくは来週学ぶ)。そこで、弟子たちはイエスさまを舟にお乗せして出発した。ほかの舟も一緒だった、とあるが、弟子たち以外にもついていく者がいた模様である。このような人は、群衆の段階から弟子の段階へと成長を遂げつつある人である。私たちもそうなりたい。  しかし、弟子として成長することはひとりでにできることではない。成長させられるために、ときに厳しいところを通らされる。折しも夕方、あたりは暗くなっていた。真っ暗な中、広くて深いガリラヤ湖を舟で渡るのが危険極まりないことは、少なくともその中の4人がガリラヤ湖の漁師出身だった十二弟子にはわかっていたはずである。しかし、これはイエスさまの促しである。「でも、おことばどおり」の信仰をもって、彼らは一歩を踏み出した。 37節。果たして、ヘルモン山から標高からの落差1200メートルのガリラヤ湖の湖面に、激しいおろし風が吹きつけて、湖は荒れだした。水は舟の中に入り込み、なお波に激しく揺られ、いまにも湖に呑み込まれ、沈みそうになっている。  激しく揺れている。風に吹かれている。波が呑み込もうとしている。湖に投げ出されそう。その恐怖はいかばかりか。それは動物的な本能のような恐怖と言えたろう。しかし、その舟の中にあって、イエスさまだけはちがっていた。38節。まるで死んだように、ぐっすり眠っておられたのである。もちろん疲れておられたわけだが、同時にこれは弟子たちへのテストともなった。  弟子たちはどうしたか? イエスさまを起こした。しかし、彼らは何と言ったか?「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか!」……。こんな深夜の荒れた湖に連れ出したのは、イエスさま、あなたじゃないですか、それが、私たちをよそに、われ関せずとばかりに眠っておられるなんて、何なんですか! どうしてくれるんですか! その悲鳴にはまるで非難がこもっているようだった。  しかし、もちろんイエスさまは弟子たちを放っておかれる方ではなかった。39節。イエスさまは風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」と命令された。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスさまは弟子たちを守られたのと同時に、ご自身がみことばひとつですべてを動かされる、全能なる神さまであることを示されたのであった。  しかし、イエスさまはただ単に風と波を鎮められたのではなかった。40節。イエスさまは弟子たちをお叱りになった。「どうして怖がるのですか。」そしてイエスさまは、彼らが怖がって取り乱したことは、彼らにまだ信仰がなかったからだと喝破された。イエスさまは単に全能なる神さまであることを示されただけではない。弟子たちの不信仰を取り扱われたのだった。  イエスさまがともにおられるならば、彼らは湖におぼれて死ぬことなどあり得なかった。それは、イエスさまが死なれるのは、十字架にかかられてであり、弟子たちもイエスさまの十字架と復活を経て、永遠のいのちをいただき、彼らはこのような場面でむざむざ死ぬのではなく、イエスさまのあとにしたがって自らの十字架を背負い、イエスさまについて死ぬように定まっているからであった。仕方がなかったとはいえ、弟子たちはそのことを悟ることができないでいた。  しかし、弟子たちにそこまでの信仰が育つまでには、なお一層のお取り扱いが必要だった。この、荒れ狂う湖の体験は、その意味で弟子たちにとって必要なものであった。 私たちにせよ、弟子たちのような恐ろしい体験をして、正気でいられるだろうか? だがイエスさまは、そのような中でも揺るがない信仰を与えてくださるお方である。弟子たちはその後もさまざまな体験をさせられて、信仰を育てていただき、主の働き人とならせていただくに至った。  私たちを取り巻く状況も、ときに厳しい。とても解決しないように思えて、恐れをいだいたり、むなしくなったりもするだろう。しかしイエスさまは、そのような状況のただ中でもともにいてくださるお方である。私たちの信仰が問われる。私たちはそのようなとき、眠っておられるようでも、変わらずに、眠らずに働いてくださっている、イエスさまに対する信仰を確かに持って祈るべきである(詩篇121:4)。  41節。弟子たちはイエスさまのご存在に、「恐れた」とある。この「恐れ」は、イエスさまが弟子たちを叱責された際に用いられたことば「怖がる」と、同じといえば同じ。実際、英語の聖書ではどちらも「アフレイド」と訳している。しかしギリシャ語では同じではない。40節で、イエスさまは弟子たちが「怖がった」ことを叱責されたが、この「怖がる」は、ギリシャ語では「臆病な」と同じことばである。  キリストの弟子は臆病だとなぜいけないのだろうか? それは、臆病な者は地獄に堕ちるとみことばに警告されているからである。嘘ではない。ヨハネの黙示録21章8節には、地獄に落とされる人の第一の条件として「臆病な者」と挙げられている。 臆病な者とは、神さまはどうせ自分のことを怠け者扱いして罰を与えるだろうからと、賜物を活かすこともせず、ただのんべんだらりと生きる者のことをいう。まさしく、1タラントを包みにしまって土に埋めておくような者である。そういう者は終わりの日にさばかれ、外の暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりしても中に入れてもらえない。  しかし、その地獄の警告をやたらと怖がり、主の働きをすることに尻込みするならば、それこそ臆病な態度である。こわがってはいけない。神さまは自分のことを地獄に落とすかもしれないと怖がるあまり、何もしないのではなく、神さまを「正しく」恐れることである。 天地万物を統べ治めるお方、それなのに私のことを瞳のように守り、愛してくださるお方……まさしく、風と荒波が鎮められたのを目の当たりにした弟子たち、死の危険から守っていただいた弟子たちのように、イエスさまを恐れるならば、その恐れは正しいものであり、その正しい恐れから、イエスさまに対するまことの従順は生まれてくる。要は、イエスさまとの正しい関係、愛の交わりを持つことに尽きる。  「どうして怖がるのですか。」怖がること、臆病なことは、信仰が確かでない証拠である。私たちは風や荒波のようなできごとを見て、それに翻弄され、「怖がって」いるうちは、まだ臆病な段階ではないだろうか。私たちはだからこそ、たとえ眠っているように見えても、実は生きて私のために働いてくださっている、ともにおられるイエスさまに対する信仰を日々増し加えてくださいと、祈る必要がある。「それでも」怖がる自分に気づかされるならば、なおのこと、その祈りに集中する必要がある。  私たちの「怖れ」「臆病」を、主の御手に取り扱っていただこう。間違った怖れを主に対する正しい恐れに変えていただくために、私たちから取り除いていただくべき「怖れ」は、何だろうか? 具体的に祈って示していただき、それを取り除いていただくべくお祈りしよう。「どうして怖がるのですか」と叱責されるような怖れではなく、主を正しく恐れる恐れに満たされ、そこから主の働きに用いられていこう。

「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」

聖書;マルコの福音書4:21~34/メッセージ題目;「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」 イエスさまがたとえで語られたのは、それが庶民の理解力に合っていたからである。しかし、それが庶民に理解できなかったのは、イエスさまに責任があることではない。わからなければお尋ねすればいいのである。それをお尋ねし、そのほんとうの意味するところを悟らせていただくならば、その人は「群れ」から「弟子」へと脱皮する。 ことはたとえだけではない。聖書というものは、その気になればだれにでも理解できるのだが、へりくだって聖霊さまの知恵を求めないかぎり、わからない仕掛けになっている。わからないのは、わかろうとしないからである。この点、私たちは「群れ」でいいと思ってはならない。みことばの意味を悟らせていただき、従わせていただく「弟子」になって、イエスさまにどこまでもついていく、祝福された人生を歩んでいただきたい。 いまこうして私はメッセージを語らせていただいているが、これは別名「みことばの解き明かし」という。私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ふさわしくみことばを理解し、その理解したことを生活のただ中で実践する。あるいはそのみことばをやさしいことばで人々に宣べ伝える。いずれにせよ、みことばを証しする生活をする。 その証しの生活、人々の前で神の栄光を顕す生活のために、みことばは理解されていなければならない。みことばはわからないままでいてはならない。 十二世紀の真言宗の僧侶、西行(さいぎょう)が伊勢神宮にて詠んだ歌、「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」この歌は、日本人の宗教観をよく表しているだろう。仏教者が神道のカミにそういう感情を抱く、いかにも日本的である。いや、日本人に限らず、もしかすると結構多くの人が、この歌の語るように、ありがたければそれでけっこう、と、信仰の対象を深く見極めないで終わらせてはいないだろうか? しかし、私たちを愛し、私たちと深い交わりを持つことを願っていらっしゃるイエスさまの前では、それはいけない。「ああ、このたとえは何やら面白いね、深いね、すばらしいね」と思っても、その意味をちゃんと悟ることがなかったならば、そのたとえを語ってくださったイエスさまに感謝したことにはならない。たとえにかぎらず、一見するとわかりにくいみことばをただ読んだだけで、わかったつもりになって、何やら霊的ステージが上がった、などと思うのは、自己満足にすぎない。だから私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ちゃんと理解する必要がある。 今日は、今日の箇所で語られた4つのたとえを3つのポイントにまとめて、たとえのような「難解な」みことばは、なぜ解き明かされなければならないのか、もっといえば全般的に、みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、学んでまいりたい。 ①みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、神の国の奥義が人々に伝えられるため みことばは秘密から始まっている。イエスさまが地上で生活しておられた公生涯において、やむをえず弟子たちの見ている前で神の子としてのみわざを行われたり、御姿をお見せになったりされたときも、それを言いふらしてはならないと厳しく戒められた。しかし、やがてイエスさまは十字架におかかりになり、復活され、天に昇られ、聖霊が降られて、人々はイエスさまが神の子であるとを証しする者と変えられた。 もはや秘密ではない。その光を人々の前に照らすべきである。しかし、その光を升の下に置いたら、その光はまるごと消えてしまう。寝台の下に置いたら、肝心の照らす人間は寝台の上で眠っているし、自分の部屋さえ照らせていない。だれのことをも照らす明るいところに掲げるから、光なのである。 とはいえ、その光が光としての役割をするためには、光の扱い方をよく知っておく必要がある。光とはろうそくにともす火であるが、火はまかり間違うと、大火事を起こす。いま世間を騒がせている韓国発祥の異端は、本来人々を照らして神さまへと向かわせるはずだった火の取り扱いを最大限に間違えた群れであり、その被害は大変なものである。 私たち人間は、子どものうちは火を扱わせない。火を扱うことができるのは、火についても、たとえば引火しやすいものや引火しにくいもの、風向きといった、その他あらゆる事象についてもよく理解を深めた、大人である。私たちもクリスチャンはみことばの光を掲げるために、光の性質をよく理解し、どうすれば最も効率的に光を掲げて明るくできるか、どうすれば火事にならないか、どうすれば人や自分をやけどさせないか、火の取り扱い方をよく知る必要がある。私たちが、光なるみことばをよく学ぶ必要があるのは、そのためである。 しかし私たちは、学ぶことで終わらせてはならない。学んで自己満足ではマニア、オタクである。パリサイ人はみことばをよく学んでいても、それを愛なく人をさばく道具としてしか用いなかった。悪い意味でのみことばオタクである。学んだら人を励ます、慰める、力づける、新たな働きに送り出す……みことばとはそのように用いるべきものである。私たちがみことばを学んで恵まれたら、その恵みを新たな人へと「流そう」。それが、明かりをふさわしく照らすことである。 ②みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、解き明かされてその価値がわかれば、私たちはますます、みことばを求めるようになるため 24節。これも一見すると難解なことをおっしゃっているが、宣教という文脈で読み解くと、イエスさまから聞くこと、すなわち私たちにとっては、みことばを読んで学ぶことをするならば、それを受け取る信仰の大きさに比例して、学んだだけ自分に与えられ、さらに学んだ以上のものが与えられる、ということである。 それは私たちも体験していることではないだろうか? 私たちはみことばを学ぶことで、その背後にある神の愛、神の慈しみを知り、神さまによりいっそう感謝するようになる。何が神さまの嫌っておられることかを知って、その価値観を持つことや行いをすることを避けるようになる。神さまの願っていらっしゃることを具体的に知り、生活のただ中で実践するようになる。こうしてますます、神さまとの強い結びつきを体験し、愛し愛される関係に入れられる。 しかし、そのような神さまとの愛の交わりに、そもそも関心を持たない人、そういう人は、学ばない人である。学ぶことに関心などない人である。学ばない人にとって福音は「猫に小判」である。小判の価値も使い方も知らない猫には、小判をやっても何の意味もないので、猫から取り上げて自分で使うしかない。 この「猫に小判」の西洋版のことわざは「豚に真珠」であると一般に言われているが、何を隠そう、このことわざはイエスさまがおっしゃったみことばである。ただ、「豚に真珠」は正確には「猫に小判」と意味が同じではない。価値ある福音を真珠の飾りを豚がひづめで引き裂くように粗末にし、福音を伝えた者に豚が突進するように攻撃を加え、傷つける。そういうことをする人は日本にも、世界にもごまんといる。そういう人への福音宣教のわざは今日も怠りなくなされているが、彼らが謙遜に主の御前にひざをかがめ、恭しくみことばを受け取らないかぎり、神の国が拡大しないのは主の摂理である。 私たちはみことばの恵みを取り上げられない者となるために、学ぶ者となりたい。みことばを語る人を愚かにもさばく者とならないために、学ぶ者となりたい。私たちは学ぶ者となることで、そのみことばの素晴らしさ、豊かさを具現する人となる。そうしてみことばを宣べ伝える人として用いられ、豊かに受けただけのみことばの恵みを、人々に分かち合うようになる。私たちは人々に証しする喜びのゆえに、もっとみことばを求める者となるだろう。 わからないみことばは人に伝えることなどできない。わからないみことばなど、どうやって実践できるだろうか? もっと学ばせてください! もっとわからせてください! 用いていただくために! それが私たちの祈りとなるようにしよう。 そして26節から29節、私たちはみことばを学んで成長するわけだが、成長そのものは、私たちの努力という要素だけで説明できるものではない。私たちはもちろん、人々が成長するためにみことばの種を蒔く必要がある。しかし、成長させてくださるのは神さまであり、伝道や宣教の種蒔きをした者、牧会のような霊的成長の手助けをして水やりをした者、どちらかがより偉いのでは決してない。もちろん、成長する者そのものが偉いわけでもない。 終わりの日は収穫の日である。その収穫に向けて、神さまは最後まで教会を成長させてくださる。私たちは神の畑であるが、神の同労者としての自覚も持ち、謙遜に成長するとともに、謙遜に奉仕させていただこう。神の民として成長するために、神の同労者として成長するために、日々みことばを学ぼう。 ③みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、そのみことばが国家単位、民族単位に至る、多くの人に共有されるため。 31節。からし種は野菜であるが、聖書箇所によってはこれを「木」とも表現する。鳥が巣をかけるような丈夫な枝を張り、3メートルにも5メートルにも大きくなる。この「からし種」の種の実物をご覧になったことのある方もおられるだろう。まるでほこりの粒のように小さい。これが大きく大きく成長するのである。 ここでイエスさまは、「空の鳥が巣をつくる」と語っていらっしゃる。このたとえは、単なる漠然とした象徴ではない。エゼキエル書31章6節をご覧いただきたい。ここでは「木」とは、当時の大国であるアッシリアのことを指し、アッシリアの庇護のもとに国々が集まることを「鳥が巣をつくる」という比喩で表現している。 始まりがガリラヤの片田舎だった福音宣教、神の国が、やがて世界中に広がり、世界の国々とその民がその神の国の陰に宿ることになるわけである。時代は下り、世界の様々な国々が、キリスト教国として建国された。それは、その国々が、大いなる神の国の陰にあることを高らかに宣言した、という意味である。 からし種は小さいがとても大きくなる。このたとえを聞いた者も十二弟子プラスアルファの少人数であった。しかしそこから始まった神の国の福音は、世界をおおった。国々が神の国のもとに身を寄せた。そして、いまわずかな群れである私たちからも、神の国が世界に広がるビジョンを思い描かないか? 神の国の旗印である「神の愛」は世界を変えた。人々を奴隷状態から解放し、疎外された人を神のかたちとしての人に回復させた。神の愛に動かされて人々はまことの安らぎを得られるように世界を変える努力をしている。その歩みはなお途上にあり、この「巣」を壊す企てはやまないが、それでも福音の宣べ伝えられるところ、国や民族の単位の変革がもたらされる。 そのように変革するには、みことばが人々にわからないままでいてはならなかった。医療を行うでもいい、福祉を行うでもいい、学校を建てるでもいい、人々を愛するためにキリストの犠牲に倣っていること、すなわち、その生き方において解き明かされているみことばが、人々に具体的に伝わっている必要があった。 私たちの信じる福音、宣べ伝える福音は、国と民族に及ぶもの。この点で私は韓国のクリスチャンから多くのことを学んだ。彼らは国と民族に世俗化が進もうとも、決してあきらめずに祈りつづけている。今度は私たちが日本のために祈る番である。私たちのすることは大それていなくてもよい。ともしびを掲げることが大事である。日本が神の国に身を寄せる国家と民になることを信じて、祈り、福音を宣べ伝えよう。 ●みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、私たちが解き明かされたみことばにしたがって生き、人々にイエスさまを証しする働きに用いていただくためである。 私たちは学んだみことばを、どのように実践することによって、この世界に変革をもたらす器として用いていただけるか、祈ってみてはいかがだろうか? 私たちの周りに、飛んでくる鳥が巣をかけるように憩いを得て、みことばによって力づけられ、みことばを携えて飛び立つ人が興されるように、祈ってみてはいかがだろうか? そのように、みことばの恵みを「流す」ために、みことばから何をどのように学ぶのか、今ここで具体的に決心をしよう。

「みことばは正しく蒔かれていますか」

聖書箇所;マルコの福音書4:1~20/メッセージ題目;「みことばは正しく蒔かれていますか」 本日の箇所は大きく分けて、イエスさまが群衆に、たとえで説教をされた場面と、そのたとえを弟子たちの前で解き明かされた場面からなる。私たちはこの箇所を読めばもう、たとえが何を意味するか分かっているが、ひとつひとつ見ていくと、次のとおりになる。 種を蒔く人、これはみことばを蒔く人である。つまり、みことばを宣べ伝える人である。このみことばの種はまず、道端に落ちた。すると、鳥が来て種を食べてしまった。そのたとえの意味は、ある人はみことばが蒔かれて、すなわち、みことばが伝えられてみことばを聴くと、そこにサタンがやって来てその蒔かれたみことばを取り去ってしまうということである。 聖書がはっきり語るとおり、サタンはいる。聖書を読むと、イエスさまの時代において、ところどころで、悪霊に取りつかれた者の存在がクロースアップされているが、この時代の群衆は、悪霊の親玉であるサタンのことを、かなりリアルに感じていたはずである。しかし、サタンや悪霊はその時代だけに存在していたわけではなく、いまもなお、しぶとく存在している。 彼ら悪の勢力のすることは、せっかく人に伝えられたみことばを持ち去ることである。たとえば、みことばが伝えられている現場、礼拝でも伝道集会でもいいだろう、メッセンジャーはいっしょうけんめい語っているのに、居眠りしたり、別のことを考えたりしている。これは、サタンにみことばを持ち去られている状態である。 だから私たちは、せっかく蒔かれたみことばをサタンに持ち去られないための対策を講じる必要がある。みなさまの中に、メッセージのメモを取っている方がおられるが、これはみことばをサタンに持ち去られないための、とてもいい方法である。全身を耳にして「聴く」(耳と十四の心で{聴く})その内容を、手を使い、目で見ながら落とし込む作業である。こうすることで私たちは主の宮なる自分のからだと心に、がっちりとみことばを抱え込み、サタンに取られないようにできる。 また、礼拝の前日は質のよい睡眠をとる。夜食を取ったり、遅くまでテレビを見たりしないで、早く寝る。起きたら静かに祈って礼拝に期待する。こういうことも大事。最近はコロナ下ということで、空調をつけていても換気をするようになっているが、これは新鮮な空気を吸うことで脳を活性化させ、みことばに集中する上でよいことである。コロナが収まっても続けていいことではないだろうか。 サタンはなぜ、私たちにみことばが根づいたら「やばい」と思っているのか? それは、私たちがみことばに従順になったら、いよいよ自分たちが世界を支配できなくなる、この世にいよいよサタンの居場所がなくなることを知っているからである。私たちがそれほど、神さまに大いに用いられるポテンシャルを持っていることを、サタンは私たち自身以上によく知っている。私たちはだから、サタンの計略にだまされないで、みことばにとどまり、みことばを守り行う喜びに満たされてまいりたい。 ともかく、サタンは私たちにみことばが根づかないように虎視眈々と狙っているので、私たちの側でも真剣に対応する必要がある。これは戦いである。いま、私たちにとって、こぞってみことばをお聴きする時間は日曜日のこの時間をおいてほかにないのだから、一週間の計画を立てるにあたり、ぜひ日曜日の礼拝に勝利するようにすべてを調節していただきたい。私もみなさんのために祈る。 次のたとえは、土の薄い岩地に種が落ちたら、土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。その意味は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけ。その後でみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のこと。 みなさんも普段からみことばを読んで感じていらっしゃることと思うが、みことばはこの世のいかなる文学や教えともちがう、独特の雰囲気と説得力、それに美しさを持っている。それはもちろん、神さまに由来するからそうなのだが、その雰囲気や美しさに惹かれる人というのは、一定数この世には存在する。だからこそ、こんなにクリスチャンがいないような日本の国においても、ホテルに聖書を置いてもらう働きがここまで保たれてきたわけである。聖書は読まれているのである。 イエスさまは、待ち受ける迫害に怖気づいて、もはや蒔かれたみことばが根づくことがない人のことを説かれた。これは日本だと充分にあり得ることである。特に、バプテスマを受けることにそれが表れている。バプテスマを受けてこそ私たちは名実ともにクリスチャンと名乗れるわけだが、日本においては、それは仏壇や神棚、神社仏閣、仏式や神式の葬儀にくみしない態度で、公に表明することが要求される。そこまでみことばに従順になることはしない、というわけである。しかしこれは、弟子の態度ではない。 これを解決するには、一にも二にも、教会の教会姉妹の助けと励ましが必要である。まず、私のところに来て、祈りを要請していただきたい。そのために真剣に祈ることを約束する。そして、この祈りの課題を教会で共有し、ともに祈ることに取り組んでいただきたい。 この祈りはすでに信仰生活がある程度の年数に達している、私たちにとっても取り組むべきことである。私たちもみことばを守るべきときに、守れない、いや、守らないという選択をしてしまいかねない。その葛藤は大変なものである。神さまに問われる思いで押しつぶされそうにもなるだろう。互いのために祈る必要がある。もちろん、私も、毎日みことばをお読みしているが、そのみことばをたがえずに実践できるように、迫害を怖れて尻込みして、実践することを控えることのないように、お祈りしていただきたい。 三番目のたとえは、茨の中に種が落ちた場合。茨が伸びでふさいでしまい、実を結ばなかった。これは、みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぎ、実を結ばない、ということ。 これは覚えがないだろうか? みことばは確かにそう言っている。それはわかる。「でも」、現実はこうだ、常識はこうだ、私はそれどころじゃない、もっと大事なことがある……なんだかんだで、みことばに従うことをしない。 それらはすべて、神さまとそのみことばよりも、自分のことを大事にする姿勢から生まれる。自分ファースト。状況が悪い、あの人が悪い、だからみことばを守れない、というだろうか? いや、それは、みことばを守れないことを状況や人のせいにして、自分の責任を回避する姿勢である。 要するに、神さまよりも自分のほうが大事、と言っていることになる。これは非常によくない。私たちはつねに、心の動機を聖霊なる神さまに点検していただく必要がある。みことばに従えないのは、自分のことしか見えなくなっているからではないだろうか? そういう人はみことばを守り行なって実を結ぶことが、とても難しい。神の栄光を顕すため、人を救うために、すべてを捨てて十字架におかかりになったイエスさまの御姿を、しっかり思うことだ。わが恩師、オク・ハンフム先生は、一日5分、イエスさまの十字架を黙想せよとおっしゃった。5分ならトイレに行く時間とどっこいどっこいではないか。ぜひ実践しよう。 以上のことをイエスさまはお語りになった上で、よい地にみことばの種が落ちれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを約束してくださった。 私たちがよい地になるためには、サタンがやってくるようなことのないようにしなければならない。茨城の農地にはかかしや、飛んでいる鷹のような凧が設置してあって、鳥が飛んでこないようになっているが、鳥は賢ければそんなものなどものともしない。鳥が寄ってこないためには、猟銃を構えた漁師が待ち構えるしかない。 イエスさまこそ、そのようにサタンを追い払ってくださるお方である。イエスさまとの交わりを持つことで、サタンの寄ってこないよい地になる。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、薄い岩地を肥沃な大地にしなければならない。みことばを雰囲気でいいものと思うことにとどまるような初歩の段階を抜け、どんなに苦しくてもみことばに従順に従うことを選べるように、そんな信徒を養えるだけの愛と祈りの共同体を、この教会の中に育てていくことである。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、茨を取り去らなければならない。茨が伸びるに任せていては、私たちはいつまでたっても、自分たちが用いていただけないことを、現実のせい、環境のせい、人のせいにすることから抜けられない。この茨を、私たちは取り除いていくために、イエスさまに、何が取り除くべき茨なのかを祈っていく必要がある。そのために自分には何ができるかを考えよう。