「イエスさまの家族になるために」

聖書箇所;マルコの福音書3:20~35/メッセージ題目;「イエスさまの家族になるために」 落語の演目に「宗論」というものがある。家の宗旨が浄土真宗の商家の若旦那が、キリスト教にかぶれて言動がおかしくなり、そこから宗教をめぐって親子の間で言い争いが起こるという内容。まるで西洋人の宣教師のようにしゃべる若旦那の言動で笑いを取る噺だが、これはクリスチャンが寄席に行って聴かされると、拷問に近い。しかし同時に、世間一般のキリスト信仰に対するイメージを、その観衆の笑いから知ることができるのも事実である。 キリストを信じるのは頭のおかしい人? しかし、これは実は格好いい。松原湖バイブルキャンプのシーズンだが、今から32年前、松原湖で私にメッセージを語ってくださったアーサー・ホーランド宣教師は、「私はキリストの頭のおかしな人になる!」と高らかに宣言し、みな喝采し、自分もまたそのように、イエスさまのために狂った人になりたいと願ったものだったが、アーサーがそのように言った根本の理由は、「イエスさまも周りから頭のおかしな人扱いされたから」ということだった。まさに今日のみことばの語るとおりである。 私の親しくさせていただいている西村希望先生という方が牧会されている、東京の町田にある「みどり野キリスト教会」は、またの名を「ジーザスファミリー」という。実にいいネーミングだが、私たちキリストのからだなる教会は、すべからく「ジーザスファミリー」、イエスさまの家族であるべきである。 しかし、イエスさまの家族になるには、この「気がおかしい」イエスさまと一緒の家族扱いされることを覚悟するばかりか、むしろ喜ぶくらいでなければならなかろう。私たちは、イエスさまのゆえに周りからどう見られても大丈夫だろうか? 使徒の働き5章41節をご覧いただきたい。私たちは御名のゆえに辱められるならば、それは使徒と同じ扱いを受けたということであり、イエスさまの受けられた辱めを身に受けること、名誉なこと、喜ぶべきことである。 今日の本文を見てみると、イエスさまの家族、つまり、母マリアとイエスさまの肉の弟たちが、イエスさまのお働きのうわさを聞いて、イエスさまのことを連れ戻しにやってきたとのことであった。そのようにイエスさまのことが心配だったのは、イエスさまがおかしくなったと聞いたからであった。ここに書かれているとおり、律法学者たちがイエスさまのことを、悪霊につかれていると評価したように、彼らもそう思わされていたことだろう。 イエスさまの育たれた家の家族たちは、イエスさまがお弟子たちを連れて、これほどまでに人気を博しておられるのを知って、戸惑ったことだろう。父ヨセフなき今、大工の家の稼ぎ頭の長男として働いてこられたイエスさまが、今やなさっていることといえば、大工ではなく、人々に神の国を説いて回るお働きである。しかもその教えていることは群衆を惹きつけている一方で、宗教社会を牛耳っている律法学者たちからは目をつけられるようなことであり、これはおかしい、と思ったわけである。 実際、イエスさまがみことばを語られた場に居合わせた律法学者たちは、宗教界の中心地であるエルサレムからはるばるガリラヤまでやってきて、この新しい教えを聞いてみたわけだったが、彼らは、このようにお語りになるイエスさまのことを、悪霊に取りつかれていると判断を下した。イエスさまはそんな彼らの問題点をはっきり指摘された。 そのとき、この家族はイエスさまのおられる場所までやってきて、イエスさまを連れ戻そうとしたのだが、イエスさまは、だれでも神のみこころを行う人がご自身の家族であるとお語りになり、彼ら肉の家族は神のみこころを行っていないゆえに、ご自身の家族と呼ぶわけにはいかないことを言外にお示しになった。 本日の箇所は以上の流れであるが、少しずつ見ていこう。20節。イエスさまも弟子たちも、押し寄せる群衆を霊的に養うために、食事をする暇もなかった。しかし、イエスさまの一行は、あえて食事をしないで彼らやせ衰えた群衆を養うことを選ばれたと見るべきである。この働きに献身するには「狂う」しかない。 私の恩師である、亡くなった玉漢欽牧師は、ご自身が提唱され、実践された牧会のありかたである「弟子訓練」というものは、それこそがまことであると信じきって「狂わなければ」やれるものではないとおっしゃった。しかし、弟子訓練とは単なる牧会の一方策ではない。やはりその頃の私の恩師、神学校の卒業論文の指導をしてくださった鄭聖久教授によれば、弟子訓練とは、信徒がキリストの足跡に従い、生活の中で具体的にキリストに似ていくようにすること、それだけではなく、みことばを分かち合ってほかの信徒に勇気と希望を与え、みことばを黙想してキリストの生き方に似ていくようにすることであるから、一般に「牧会」と呼ばれているものはことごとく「弟子訓練」なのであって、玉先生の牧会されるサラン教会のように、信徒リーダーが小グループでの信徒集団を牧会する、そのリーダーを2年かけて特定のコースで育成する、というものだけが弟子訓練ではないことになる。それでも、玉先生が「弟子訓練は狂ってこそできるもの」とおっしゃったことは、牧会全般が「狂ってこそ」できるものだということである。 イエスさまのご一行も、そういう意味では「狂っていた」。彼ら群衆を放っておけなかったからである。マタイの福音書9章36節をご覧いただきたい。彼らはときの宗教指導者たちからまともに教えを受けていなかったために、間違った律法主義の軛の重さにあえぎ、倒れ果てていた。イエスさまは彼らのことをご覧になって、はらわたもよじれんばかりに深くあわれまれた。そんな彼らが押し寄せてくるならば、食べるために休憩を取ることも忘れるくらい、狂ったように神の国を伝えること、彼らのわずらいをいやすことに専念せざるを得なかった。 21節。だが、イエスさまのそのような姿は、群衆の信仰心をいやが上にも増し加える一方で、イエスさまのことを昔から知っている人や、イエスさまの教えに脅威を感じていたパリサイ人の間に、イエスさまはおかしい、おかしくなったといううわさが広がる原因となった。このことに、イエスさまの育たれた家の家族の者たちは恐れを感じた。こんなことをしていないで、早く家に帰ってきてほしい。大工の仕事をしてほしい。 マリアは、どのようにしてイエスさまをみごもり、この世に送り出したか、忘れたのだろうか。そう考えるとこのことは、われわれにとっても相当な警告のメッセージとなる。神さまのみことばの恵みを受け、献身した、また、献身する家族を生み出した、ところが、世間の噂とか、経済的な厳しさとか、人間関係の葛藤とか、献身者について回る問題を見聞きしたり、あるいは自分自身が体験したりして、最初に神さまが与えてくださった召命のインパクトを忘れてしまう、こういうことはあるものである。 本日の箇所でいえば、イエスさまにはどのような評判があったのだろうか? 22節。エルサレムの律法学者は、どの律法学者よりも権威があると見なされていた。東京大学の教授たちが田舎までやってきて、そこで繰り広げられていることに判断を下すようなものである。群衆よ、おまえたちが熱狂しているイエスという者の正体は、悪霊に取りつかれた者だ、さあ、目を覚ませ……そんなことを言うかのようである。 だが、イエスさまのこのお働きが悪霊に由来すると判断することには、実はただごとではない問題があった。23節から26節。ごもっとも、である。悪霊が追い出されているとすれば、それは悪霊によるものではないことが、このみことばによってわかる。 その次が27節のみことばだが、イエスさまがいきなりこのようにお語りになることに、私たちは唐突な印象を受けないだろうか? しかし、このみことばにはちゃんと意味がある。このみことばは、パリサイ人たちもよく知っていたはずの、イザヤ書49章のみことばがその背景にあるおことばである。 イザヤ書49章の24節から26節。もはや手の施しようもないほどに強力に、神の敵サタンとその軍勢に捕らえられていた神の民を、イエスさまが神の側へと奪い返してくださった。このことによって、イエスさまが彼らの救い主、贖い主であることをお示しになった、ということである。聖書の専門家を自任するパリサイ人よ、あなたがたはこのみことばを知っているはずだ。それを知っていて、わたしのしているこの働きを見ても、わたしが救い主、贖い主であることがわからないか? 悪霊の働きだと言い切るか? その流れで28節、29節を見るべきである。人はどんな罪も赦していただける。たとえそれが、神さまを冒瀆する罪であったとしてもである。では、聖霊を冒瀆する罪とは何だろうか? 聖霊さまとは第一コリント12章3節に書かれているとおり、イエスさまを主と告白させてくださる、神さまの霊である。このお方を、絶対に受け入れてはならない悪霊だと言うならばどうなるだろうか? その人は絶対に救われない。自分が救われないばかりか、これからイエスさまを信じようとする人を大いに惑わし、下手をするとその人はもう、イエスさまを信じなくなるかもしれない。 いかにイエスさまの人気が妬ましかろうと、イエスさまのみわざにおいて働かれる聖霊さまを悪霊だと呼び、自分も救われず、救われようとする人の門戸も閉ざすような振る舞いをするならば、寅さんじゃないが「それを言っちゃあおしめえよ」。どんなに人を救いたいと願っていらっしゃる神さまも、そういう者を救うことはできない。そして、そういう者は神の働きをしているつもりでも、実は百害あって一利なしの宗教者にすぎない。 イエスさまの肉の家族は、イエスさまに対する世間の評判に揺れ動いていた。しかし、33節から35節を見ると、イエスさまはそのような、神のみこころよりも世間様の方に目が向く者よりも、ご自身のもとに神のみこころを求め、ご自身とともに神のみこころを行う者こそ、ご自身のまことの家族であるとおっしゃった。イエスさまの肉の家族は、イエスさまのこの一貫した姿勢に、のちに教えられることになる。イエスさまが十字架にかかられたとき、マリアはそのお姿をしっかり見届け、のちに初代教会の中心メンバーになった。弟のヤコブもユダも初代教会の指導者として、聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた。 私たちもイエスさまの家族になりたいだろうか? いや、すでに家族なのだが、イエスさまの家族だと周りから見られることを、恥じず、誇りとしたいだろうか? それには、パリサイ人のような、主のお働きに対する上から目線の評論家になってはならない。十二使徒のような大きな働きをしようとしなくていいから、むしろ、イエスさまから離れないで、イエスさまの教えをつねに受け、イエスさまと交わる者となろう。イエスさまはそのような群衆を、神のみこころを行う者と言ってくださり、ご自身の家族と呼んでくださった。私たちもまず、イエスさまから離れないでいよう。

「主の弟子に召される意味」

聖書箇所;マルコの福音書3:13~19/メッセージ題目;「主の弟子に召される意味」 私が初めて出会ったクリスチャンの方、それは、母が英会話を習いに通っていた、埼玉の浦和の宣教師館に住んでいた、若い方々だった。世界のいろいろなところから集まっていた彼らのことを見て、私は中学生なりに、神さまにお従いするということは、このように、海を越えてでも引っ越すことさえする、という強烈な印象を持った。 主の弟子になるということは、そのように、主が命じられるところどこへでも行くことである。私もそのみこころにお従いして、ここまで来て、この7月で茨城に来て9年目になった。しかし、主の弟子になるということは、牧師や宣教師のような特定の献身者にかぎったことではない。だれにでも開かれている道である。私たちが手にしている聖書、これは、群衆のレベルでは理解できなかったイエスさまのたとえ話の解き明かしが、そのまま収録されていて、読めばちゃんとみこころを理解できるようになっていて、それはすなわち、みことばを読む者を神さまが主の弟子としてくださっているということである。 今日のメッセージは、特に14節と15節のみことばに集中したい。これは、イエスさまが弟子を、使徒として召された3つの理由を語るみことばである。順に見ていって、私たちが主の弟子として召されたことにはどのような意味があるか、学ぼう。 イエスさまが弟子を召されたのは、彼らをご自身のそばに置かれるためだった。イエスさまの弟子とはひとことで言って、イエスさまのそばに置いていただいている存在である。さて、この箇所は「彼らをご自分のそばに置くため」とあり、メジャーな日本語訳聖書はだいたい、このように、イエスさまが彼ら弟子たちをみそばに置かれた、と訳している。韓国語聖書もそうである。ところが英語の聖書になると、「they might be with Him」、「they should be with Him」と、主語が彼ら弟子たちになっている。「弟子たちがイエスさまとともにいるため」とも、「弟子たちがイエスさまのそばに置かれるため」とも読める。いずれにせよ、主語は弟子たちである。 これは何を意味するだろうか? これは、イエスさまが強制的に12人をご自身の弟子としてみそばに置かれたということではない。彼らが自主的にイエスさまのそばにいるように導かれた、ということである。自由な決断をもってついて行く人たち、それが十二弟子、十二使徒だったということである。それはヨハネの福音書6章の最後の部分を見てもわかることで、多くの弟子たちがイエスさまのみことばの難解さについていけず、もはやイエスさまにお従いすることをやめた一方で、十二弟子はイエスさまのそばにいるという選択をしたことからも明らかである。 ただし、もっと大きく考えると、一見すると彼らの判断と選択と決断でイエスさまについていったようであっても、彼らをお選びになったのはイエスさまである(ヨハネ15:16)。彼らの選択と決断さえも、全能なる神さま、イエスさま、聖霊さまのお導きの中にあった。だから、彼らはイエスさまについていったことを自分の責任で下した判断として自信を持っていいのと同時に、神さまが選んでくださったのだからその従順に確信を持っていい、ということである。 イエスさまのそばにいるということは、イエスさまから何もかも学ぶ、ということである。イエスさまの振る舞い、語られるおことば、それに四六時中触れているならば、弥が上にもイエスさまに似てきてしまう。イエスさまがみそばに彼らを置かれるということは、わたしを見なさい、わたしに似なさい、わたしの真似をしなさい、そうすればあなたがたは、キリストの似姿として御父に用いていただける、という、親心にも似たみこころが込められているゆえのお導きである。 イエスさまのそばにいる群れが12人、というのは、十二使徒に始まる新約の教会は旧約のイスラエルの十二部族に象徴される神の民である、という意味があり、また、12人という小さな共同体は、イエスさまが行き届いた訓練を行う上で理想的な人数である、ということであるともいえる。私がサラン教会で1999年に体験した弟子訓練の班は、牧師1人、社会人10人、神学生だった私1人と、合計12人だったが、彼らが主の弟子として大いに成長していく姿を、私は今も覚えている。12人が理想の人数と確信したものだった。 弟子たちはイエスさまからともに学び、ともに似ていくのと同時に、弟子どうしお互いから学ぶ。それは模範になったり、反面教師になったりの繰り返しだろう。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはそれぞれ兄弟だが、共同体に入ってともに訓練されることによって、それまでに分からなかった彼らのよさ、また、弱点を知ることになり、よりいっそう、お互いのために祈るようになったことだろう。さらにこの4人はガリラヤ湖の仕事仲間でもあり、もともとあった絆がイエスさまとの関係をとおしてより強固になったり、人間的な怒りがからんで弱くなったり、といったことを繰り返したことだろう。 もっと極端なのが取税人出身のマタイと熱心党のシモン。熱心党とは実際に存在したユダヤの民族運動の一派であり、彼らはユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義的な性格を持っていた。彼らは神の力によるユダヤの政治的独立の名目で戦い、歴史家のヨセフォスによれば、紀元6年にローマによるユダヤの人口調査に反対して起こされた、ガリラヤ人ユダによる闘争がその運動の歴史的始まりであるが、人口調査はユダヤ人たちが宗主国ローマのカエサルに納税するために行われたものであることを考えると、熱心党の人間からしたら、取税人ほど受け入れられない存在はなかろう。 あまり政治の話を主日礼拝の場でしたくはないが、保守派と社会派、右派と左派の対立は、たいへんなものである。このような政治的見解の違い、というより対立が、教会の中に持ち込まれたら、キリストにあってひとつになるべき教会は瓦解してしまう。私たちが大事にすべきは、政治的信条や自らの神学的な立場以上に、イエスさまにあって一つとしていただいているどうしが、ともにイエスさまに導いていただくことである。熱心党にせよ取税人にせよ、一方は排他的、一方は裏切り者と、みこころにかなっていないが、イエスさまはそのような彼らの罪を取り扱われる。一方で、熱心党員の持つ熱心さや取税人の持つ抜け目のなさを、主は御国の拡大のために用いられる。立場のちがいではなく、イエスさまの弟子という同じ立場にしていただいていることこそ、弟子たちにとって大事なことである。 彼らはイエスさまのそばに置かれ、整えられたら何をするのだろうか? 宣教をする。イエスさまに遣わされてみことばを宣べ伝える。イエスさまの弟子たち、イエスさまによってこの世に遣わされた者たちがすべきことは、みことばを宣べ伝えることである。 みことばを宣べ伝えることは、イエスさまの弟子に召されている人ならば、だれもがするように召されている。牧師や宣教師だけではない。ただ、極めて宗教アレルギーの強い日本において、ことばをもちいてみことばを人々に伝えることは、簡単なことではない。それなら私たちは、みことばを宣べ伝えることをあきらめるのだろうか? 時が良くても悪くても、と語られていることが、福音宣教である。ただし、人や場所にこだわりつづけることも、ときにはやめる決断も必要になることがある。イエスさまは十二弟子におっしゃっている。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。」 どこかに必ず、私たちの語ることばに耳を傾けてくれる人がいると信じて、私たちは行くべき人のところに行き、その人にみことばが語れるように祈ることである。わが家は今月で茨城町に住んで9年目になったが、ここまで続けてこられたのは、みことばに耳を傾けてくださる人が今もなおおられるからである。 もちろん、みことばを語るということは、みことばを生きるということが大前提になる。人々が私たちの良い行いを見るならば、天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるようになる。神の栄光を顕す生き方、罪から自由にされている生き方、世の光地の塩として生きる生き方、その素晴らしい証しの生き方を可能にするものは、聖書が神のみことばであると告白する信仰である。イエスさまを主と証しするみことばに対する信仰、それは行いを生む。 行いのない信仰は宣べ伝えられない。だからこそ私たちこそ、まず自分自身がみことばに教えられる必要がある(ローマ2:21)。その生き方はわずかずつでも世の中を主のみこころにかなうようにつくり変え、人々はその中で、主イエスさまを信じるように導かれる。 では、具体的に、みことばを宣べ伝えると、どのようなことが起こるだろうか? 悪霊が追い出される。なぜかといえば、みことばを宣べ伝えるべくイエスさまが召された主の弟子は、悪霊を追い出す権威が授けられたからである。実際弟子たちは、悪霊を追い出した。そのことによって神の国はイエスさまによってこの地に来たらされたことが明らかになった。それほどの御国の権威が与えられている者、それがイエスさまの弟子である。 悪霊というものは迷信でも、空想の産物でもない。このところ東京の新宿に「トー横」と呼ばれるエリアがあり、そこで10代の若者がたむろして非行に走る者も跡を絶たない、しかもそのような子どもたちを食い物にする悪い大人もいることが報道されているが、ああいう闇の世界を見て、その背後に悪霊が存在することが私たちにはわかるのではないだろうか? そういう闇の世界、サタンと悪霊の支配する世界は、都会の繁華街にかぎらない。テレビやレンタルDVD、スマートフォンをとおしてでも容赦なく、われわれのお茶の間に侵入してくる。 みことばが宣べ伝えられると悪霊が追い出されるのは、第一に、みことばを聴いた人は悪霊の支配する領域よりも主の支配される神の国に関心が行くため(聖化)、第二に、みことばを聴いた人は霊的に武装することで悪魔と悪霊が逃げ去るため(霊的武装)、みことばを聴いた人はほかの人のことを悪霊の支配する領域から主の支配される神の国に移そうと努めるため(伝道)である。だからまず私たちがその宣教者なる弟子としてのアイデンティティを確かに持ち、悪霊に親しむことをやめ、みことばに親しみ、みことばをいかにしたら自分のことばとして語れるか、よく学ぶことである。

「みことばは群れを導く」

聖書箇所;マルコの福音書3:7~12/メッセージ題目;「みことばは群れを導く」 現在、韓国に行くにはビザが取りにくい。コロナが落ち着いて韓国に行けるようになったとたん、東京の韓国領事館の前には徹夜の行列ができた。それで領事館は方針を変え、事前にパソコンで予約をした者だけが行けるようにしたが、それにしてもパソコンで予約を取るのは至難の業である。どうしてこのようなことになるかというと、それだけ韓国に行きたい人が多いからである。「嫌韓」などと言われて久しいが、どっこい、韓国は大人気なのである。 大人気。それはこのみことばに描かれている当時のイエスさまがそうだった。7節と8節のみことばを見てみると、南から、北から、東から、何十キロも百何十キロも旅をして、人々がイエスさまのもとに押し寄せているのがわかる。いやはや、何という人気であろうか。 しかしこのとき、イエスさまはどうだったかといえば、みわざを行われて殺されそうになっていた、その陰謀から逃れるようにしてガリラヤ湖に退いておられた。また、退くということは、休息を取るということでもあった。先週、先々週のみことばでも学んだとおり、イエスさまは安息日の主として、安息日にも善を行う働きをなされた。しかし、イエスさまも肉体を身に帯びた完全な人であられたので、休息を必要としておられた。 私たちも休むべきときには休む必要がある。その休みの場こそ、この礼拝の場である。ここには御父との交わりがある。「疲れた者、重荷を負っている者」である私たちが、その重荷をイエスさまの御前に降ろし、休むことのできる場である。休息、安息というものは、疲れたからとごろごろしていて得られるものでもなければ、がつがつと趣味に没頭することで得られるものでもない。主の御前で得るものである。このときのイエスさまと弟子たちも、その安息を目指してガリラヤ湖に退いていた。 しかし、群衆はイエスさまを放っておくことはしなかった。そこらじゅうから押し寄せた。イエスさまは休むどころではなかったのである。さて、私たちは今こうして、イエスさまも休息を必要としていらっしゃったことを見たわけだが、私たちももし、この群衆のひとりだったら、どのように行動しただろうか?「神の子といえど休息が必要だから、会いに行くのを控えよう」と思うだろうか? 私だったら、この群衆に交じって、少しでもイエスさまの近くに行けるように、押し合いへし合いすることだろう。なにしろここにいらっしゃるのは、神の子である。創造主である。永遠のいのちを与えてくださる方である。罪と死から救ってくださる救い主である。どうしたって会いたい。 私たちはそういうお方だとイエスさまのことを理解しているゆえに、イエスさまに会いたいと切望する。しかし、このイスラエルの各地から、異邦人の地からさえ集まってきた群衆は、イエスさまのことをそこまで理解していただろうか? 9節と10節。彼らは、イエスさまが中風の者をいやされたり、悪霊を人から追い出されたり、片手の萎えた者をいやされたりといった、そのような癒しのわざを行う癒し主であることを知っていた。 自分たちも癒してほしい、そんなお力があるならばせめて触りたい……私の卒業した東京の大学の近くには、「おばあさんの原宿」と呼ばれる商店街があり、加齢によりからだがいうことを聞かなくなったお年寄りが跡を絶たなかったが、彼らは、イエスさまのことをそのような、「ご利益」のあるお方と考えたにすぎなかったならばどうだろうか。このお方ならばローマの圧政からわれら神の民を解放してくださる王となられる、私もこの王さまに近づこう、と思った程度で、イエスさまのことを正しく理解していなかったとしたらどうだろうか。 ご利益信仰というものは突き詰めれば、人間中心の信仰である。病気がいやされるのはまことに結構なことだが、それを求めるのは自分の欲望を満足させるためであり、いやしてくださるお方に献身し、その素晴らしさを生涯宣べ伝えるためではない。 ただ、それなら、イエスさまは彼らに関わられなかったのだろうか? そうではない。やはり関わっておられた。ただし、彼らの望む方法によってではなく、イエスさまの定められた方法によって彼らに関わられた。それは「みことばを教える」ということによってである。 彼ら群衆がほんとうに求めるべきは、「神の国とその義」であった。神さまが統べ治める御国がこの地に来るように、御国を生きる民として召されている以上、いにしえから語られてきたみことばをどのように消化し、具体的に実践すべきか……。 イエスさまは無知蒙昧で自分のことばかり考えていたような民に教えてくださることによって、民に対するみわざを果たされた。彼らがもし、イエスさまに触れたとして、それで病がいやされたとして、その体験は一時的なものにすぎない。イエスさまがほんとうはどのようなお方かわかっていない以上、そうなのである。だから彼らは、イエスさまの語られるみことばによって、そのみことばを自分たちに語ってくださるイエスさまがどのようなお方なのか、知る必要があった。 イエスさまが彼らを教えられたのは、神さまとはどのようなお方かを語られることにより、彼らにとっては、機械的にしか信じることのできなかったお方が、実はお交わりできるほどすぐ近くにおられ、宗教生活のひずみで負いすぎるほどの重荷を負わせられ、疲れ切っていた自分たちの、その重荷を代わりに負ってくださり、解放してくださるお方ということを学び、神さまとの新しい関係に入れられるためであった。 私たちにとって、神さま、イエスさま、聖霊さまがどのようなお方であるかを普段からみことばから学び、このお方とつねに交わりを持っていないならば、神さまというご存在が頭の理解だけのものになってしまい、疲れ、重荷から解放してくださるイエスさまの慰めを体験できない。十字架にかかってくださるほどに私を愛してくださったイエスさまの愛が自分のためのものだと受け取り切れない。 私たちは体験のあるなしで信仰生活の喜びのあるなしを測ってはならない。みことばに普段から聴いて、みことばは神さま、イエスさま、聖霊さまをどのようなお方だと証言しているかを、しっかり受け止めていく必要がある。ディボーションや聖書通読は、それをしないと罰が当たるというような性質のものではない。しかし、ディボーションや聖書通読をすることで、神さまがどのようなお方かを正しく理解するならば、このお方がともにいてくださる恵みを私たちはきちんと体験でき、神さまに感謝できるようになる。 さて、イエスさまを証しするのはみことばであり、私たちはみことばを聞く必要があるが、このケースはどうだろうか? 11節、12節。イエスさまはこの者の証しを禁じられた。しかし、私たちは思わないだろうか?「あなたは神の子です」ということは正しいではないか、何がいけないのか?」なぜ禁じられたのだろうか? それは、その証しめいたことばを語った者が、「汚れた霊ども」であったからである。けがれた霊は人から追い出され、神の子に滅ぼされるまさにこの瞬間、このことばを言った。問題なのは「何を言うか」ではない。「誰が言うか」である。異端の教祖もイエスさまは神の子であると言う(だからこそ彼らは「キリスト教」を標榜する)。しかし、それが正しいからと、私たちはその教祖を信用するだろうか。むしろ、そんな証言は私たちキリスト者にとって、百害あって一利なしである。 同じことで、イエスさまが神の子であると証言するのが悪霊であるならば、それはイエスさまの栄光を顕したことにならない。神の名がみだりに口にされているという事態である。異端のような惑わす者、悪魔と悪霊に導かれた群れは、イエスさまの御名を用いるが、信じてはいけない。第一ヨハネ4章1節から3節のみことばで判断できる。彼らはイエスさまを語っても、イエスさまを主とする生き方に人を導くことはしない。異端というものはキリスト教会の外部のみならず、内部からも起こってくるものだけに、このみことばを心に留めてしっかり警戒する必要がある。そのようなものがいかにイエスさまを語ろうとも、一切信頼してはならない。 しかし、悪霊はなぜこのタイミングでこのような暴露をしたのだろうか? それは、イエスさまのみこころどおりに導かれるべき群衆を混乱させるためという意図もあった。群衆はただでさえイエスさまのことを正しく理解していなかった。彼らを神のもとに導くのは、神の子なるイエスさまのみことばであるべきで、間違っても、神の敵であるサタンと悪霊どものことばであるべきではなかった。 私たちはまだまだナイーブである。もし自分が、堅い食べ物はまだ充分に食べられないと思うならば、読むべきはこの世の常識の本ではない。みことばである。みことばの乳を求めよ(Ⅰペテロ2:1~2、ヘブル5:12~14)。生き方指南のような本はもっともらしいことを書いてはいるが、所詮聖書には遠く及ばない。なぜかといえば、その生き方指南の源はみことばではないからである。彼らもときにはみことばにかなっているようなことを言うから、役に立つと思えるかもしれないが、イエスさまを主と告白させるみことばではない以上、ほんとうの意味で私たちの霊とたましいを生かすことはできない。 イエスさまは、群れなしてご自身のもとに来られた善男善女をどう導かれたか、といえば、それはみことばによってである。私たちは今、手に手にみことばをもっている。これはすごいことである。それは、群衆が一斉にイエスさまの同じみことばを聞けた状態と同じことである。私たちはともに耳を傾けることで成長する。ともに耳を傾けることでひとつとなる。ともに耳を傾けることでともに御国を理解し、ともに御国を生きる者となる。こうして私たちは、「群れ」から「弟子」へと成長させていただける。

安息日に行われた『善』」

聖書箇所;マルコの福音書3:1~6/メッセージ題目;「安息日に行われた『善』」 東京に住んでいた頃、うちの娘はたまに深夜になると高い熱を出すことがあった。そのとき感謝だったのは、娘のかかりつけの病院が深夜でも救急外来をしていていたことだった。タクシーに乗って連れて行ったものだった。しかし、「夜だからやっていません!」なんてなったら、どうなるか? まことに、診療時間外にも開いている病院というものはありがたかった。 イエスさまの当時、口伝えの律法の解説(口伝律法/くでんりっぽう)であるミシュナーと呼ばれるものによれば、よほどいのちにかかわる状態にでもなっていなかったならば、安息日に患者を治すことは許されていなかった。たいていの病院がそうするように、深夜や日曜祭日は「診療時間外」とするようなもの。しかし、パリサイ人はこれを利用して、イエスさまに迫った。 しかしイエスさまはあえて彼らパリサイ人に対しても、会堂に集まった群衆に対しても、ご自身が安息日の主として振る舞われた。イエスさまが行われたことは「善」であった。その善とは何だろうか? 今日は主の日、私たちクリスチャンにとっての安息の日であるが、イエスさまはこの日、どのような「善」を私たちに施してくださっているのだろうか? 1節と2節。片手の萎えた人が会堂にいることはどういう意味があるだろうか? 神の御前に出る祭司の部族、レビ族についての規定に、このようなものがある。レビ記21章17節~21節。このように、神の働きをすることが、律法において戒められているのがこのような障害を持つ人々である。 聖書の世界では、やんごとない人が目に見える障害を持つことは特筆される事態である。旧約聖書のサムエル記第一と第二に、メフィボシェテという王族が登場する。彼はサウル王の孫で、ダビデの無二の親友ヨナタン王子の息子に当たるが、もはやサウルもヨナタンも死に、王家の権威が去った彼は、幼いときの事故がもとで足に障害を負った人であることが繰り返し述べられている。聖書を読むと、その障害を持つゆえの悲惨さが強調されているかのようである。 そのような人は本来、神の愛を実践するように召されている神の民の共同体においては、手厚く守られ、ケアされるべきである。だが、彼らはなんと、イエスさまを試みて、あわよくば葬り去ろうとするための「手段」としか考えていなかった。 イエスさまはこの人に対して何をなさろうとしただろうか? 3節のみことば。彼をいやすことはひそかに行われたのではない。このお働きの結果もし、群衆がイエスさまを王として立てようとしたのだったら、イエスさまはあえて表立った行動はなさらなかっただろうが、ここではそうではない。王どころか、葬り去ろうとしたのである。イエスさまはこのパリサイ人のチャレンジを、堂々と受けて立とう、とばかりに、彼らの真ん中にその人を立たせ、みわざを行われることを宣言されたのである。イエスさまはもちろん、彼らが罠を仕掛けたつもりでいたことはご存じだった。しかし、イエスさまは彼に対する愛の行いをなさることを第一とされた。 4節のみことばを見てみよう。今回のメッセージをつくるにあたり、イエスさまの用いられたこの表現はいわゆる「修辞法」というものであるという解説に出会った。つまり、「安息日に律法にかなっているのは善を行うことである」という真理を宣言するために、あえてそれを二者択一の質問形式にして、パリサイ人たちに投げかけているというわけである。もちろん彼らは、「安息日には悪を行うものだ」と答えることなどできない。 しかし、この質問はこうも言える。あなたがたパリサイ人は、安息日に悪を行なっているではないか。すなわち、神の子キリストを試しているではないか。隣人に対する愛がないではないか(もし愛していて、わたしをいやし主と信じているならば、「イエスさま、ちょうどよいところに来てくださいました! どうか彼のことをいやしてください!」と言うべきではないか)。しかも、あとでわかるとおり、あなたたちはこのわざを行う私のことを、政治権力と宗教権力で結託して、葬り去ろうとするではないか。これが、あなたたちが安息日に行なっている「悪」である。彼らは、自分たちが善を行なっていないで、悪を行なっていることをわかっていた。 イエスさまはまた、別の角度から彼らに問われた。「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼の手の障害は、いますぐに生命にかかわるものではないかもしれない。しかし、イエスさまは彼のいのちが救われていないことを見抜かれた。またこのいのちがもし救われていないならば、そのままにすることはすなわちそのいのちを殺すことであると喝破された。イエスさまに出会っていないならば、そのいのちは救われていないで、結果として殺されてしまうのである。そして、イエスさまへの道を妨げるということは、そのいのちを殺すことになるのである。 この問いにも彼らは答えることはできなかった。もし、彼らが「安息日にはいのちを救うことがみこころにかなっています」というならば、彼らはイエスさまのみもとに喜んでその人を差し出しただろう。そんなことは彼らにはできなかった。だからといって、「安息日には殺すことがみこころです」などということなど、できようもなかった。 5節。イエスさまはこの頑なな彼ら、卑怯な彼らをご覧になり、お怒りになられた。よく、巡回伝道者の岸義紘先生は、メッセージの前後のお祈りを始めるにあたって「やさしいイエスさま」と呼びかけられる。もちろん、イエスさまはやさしいお方なのだが、このようにご自身に対して素直ではないばかりか、敵対するような者たちに対しては、怒りを持たれるお方である。 しかし、どうか私たちは、イエスさまの怒り、神さまの怒りを極端に恐れ、恐れるあまり、神さま、イエスさまから遠ざかるようなことはしないようにしたい。私たちは自分で思うほど、不信仰でもなければ頑なでもない。それが証拠に、私たちは現実に今こうしてみことばに耳を傾けている。私たちにはイエスさまのみことばを受け入れる備えができているのではある。あとは、素直にみことばを受け入れさせてくださいと、へりくだって祈ることが大事である。そんな私たちのことをイエスさまはお怒りにならない。 イエスさまは彼に向かい、「手を伸ばしなさい」とおっしゃった。ここで、イエスさまのしたことは善で、パリサイ人のいたことは悪ということまでは分かったが、彼は何をするのだろうか? 彼もまた、イエスさまのみことばに従順であることによって、いやし主なるイエスさまの栄光を顕すことにおいて、善を行なった。イエスさまは癒してくださる、いや、いやしてくださったということを信じて、そのとおりに手を伸ばす、ということを彼はした。 このとき、彼のしたことは、「イエスさまのみことばを信じる」、「イエスさまのみことばを信じてそのとおりに行動に移す」ということだった。信仰ということは行いが伴うことである。行いが伴わないならば、それを信仰ということはできない(ヤコブ2:14~18)。行いの伴った信仰を示す、ということは、何やら難しいこと、実践困難なことのように思う必要はない。この夏は松原湖バイブルキャンプが行われ、当教会に関係するお友だちも出席するが、松原湖は最終日の前の夜にキャンプファイアーを囲み、自分の証しをすることを常とする。その決心に至ることは、主の恵みによって「すでにできた」ことであり、あとはそれをみんなの前で公にすることである。緊張するかもしれないが、そのように発表することは信仰の実践である。 そのような「信仰の実践」が、私たちにもかつてなかっただろうか? 燃えていたのはむかしのことで終わらせてはならない。いまからでも「信仰の実践」によって、自分に信仰という恵みが与えられていることを証しするものが、私たちのうちにないだろうか? 6節。イエスさまがこのようにみわざを行われたことはまた、みことばを正しく実践されたということである。パリサイ人が何とみことばを解釈しようとも、それがイエスさまの御目に「悪を行うこと」と映るならば、それは悪である。イエスさまがどのようにみことばを解釈され、みことばを行われるかが大事である。 結果としてイエスさまは、このみわざのゆえに、いのちを狙われることになった。正しいみこころによる正しいみわざが、ご自身を十字架に追い立てたかのようである。しかし、十字架を負われることはみこころであられた。私たちを救うこと、いやすこと、そのようにして愛することはみこころであった。主に従順であった人の存在は主を証ししたのと同時に、イエスさまを十字架につけようという、主の敵の思いを駆り立てた。 しかしそれなら、私たちは主に従順であってはいけないのだろうか? 主と、主のからだなる教会を傷つけるかもしれないからと、信仰の行動、従順の行動を手控えるべきだろうか? そうではない。イエスさまは十字架に死なれただけではない。よみがえって、死と悪魔に勝利された。私たちも勝利している。だから、「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」(ピリピ4:13)と確信して、堂々と信仰による従順の行い、主の働きに用いられていこう。主はそんな私たちを、主のからだなる教会もろとも守ってくださる。

「安息日の意味」

聖書朗読;マルコの福音書2:23~28/メッセージ題目;「安息日の意味」  23節。これは泥棒ではない。やってよかったことである。それをしてもよいという根拠は、申命記23章25節にある。つまり、彼らのしていることは、時間的にせよ経済的にせよ、余裕がなくて、お弁当を腰に下げる備えもない者に対する救済のみこころを示される主のあわれみに、すがることであった。  主が定められたということは、おなかがすいたら遠慮なく取って食べなさい、ということであり、それをもし、畑の持ち主が拒むならば、その持ち主こそとがめられることになる。おなかがすいた神の民は、そうやっていのちをつなぎなさい、と解釈するならば、これは神の民としてこの地に生きることを命じられた私たちに対する、命令でさえある。  では、何がよくなかったのだろうか。「それを安息日にした!」ということ。確かに安息日には、仕事をしてはいけない。しかし、その「仕事」というものは拡大解釈されて、律法学者が「仕事」と決めたことなら、それはしてはいけないことになっていた。要するに、聖書そのものが大事なのではなく、聖書解釈が大事になっていたのである。  そのような律法解釈と運用は、本来ならば神の民を幸せにするためのものであったはずである。だがいつのまにか、律法(というよりその解釈)を守り行わないことを、ことさらに悪いこととみなし、人を縛るようになった。  その規則の中に人が生きるならば安全、というよりも安心である。先週学んだ「古いぶどう酒がよい」と言うような人は、まさにこの古い規則に安住する人であるが、そのような人が幅を利かせているかぎり、人は自由にはなれない。カナンに向かうために苦しい思いをするくらいならば、いっそエジプトの不自由ながらもまあ生活が保障されているほうがいい、となってしまう。しかしそれは、ほんとうの自由を知らない人の発言である。私たちも伝道をするとき、現状に安住したがる人を相手にするときがいちばん厄介である。  しかしイエスさまは、私たちのことを自由にしてくださる真理なるお方である。人を不自由にする言説に対しては、聖書の故事を引いて、神さまはいのちを保つために非常の措置を講じることをよしとしてくださった、と説いてくださる。  私たちはつい、「宗教」をしてしまう。韓国の教会ではよく言われていることで、日本ではあまり言われていなことかもしれないが、そういう場合は共同体の中に「宗教の霊」というものが働いている、と判断される。安息日には「仕事」をしない、というのは、「宗教」であって、主との生きた交わりはそこにはない。もし、その交わりがあるならば、そのようなことを言って人を不自由にさせる、ひもじい思いをさせてまともに動けなくしてしまう、ということは、けっしてあり得ない。  付け加えれば、イエスさまは、主の宮よりも大いなるわたしが、責任を取る、という態度でいらっしゃる。マタイ12:5~6を見ると、「宮よりも大いなるもの」とあるが、それはイエスさまのことである。イエスさまとともにいる弟子たちは、宮で働く祭司に等しい者、いや、それ以上の光栄を受けた者であるということである。民数記28:9~10を見ると、祭司は安息日に自分の仕事を堂々と果たしている。そのように、安息日に祭司がするべきことをしていないと、イスラエルの民は安息日を守れない。つまり、霊的命脈を保てないのである。  同じことで、イエスさまにつき従う弟子たちが、自分のいのちを保つ行動をしていないと、弟子の共同体は保てず、それはひいては、世界を祝福する宣教の働きは展開していかない、ということになる。彼らはいやしいから食べたのではなく、いのちをつなぐために食べた。ここで倒れるわけにはいかない。主に従順であるゆえに彼らは食べた。それをイエスさまはよく理解していらっしゃった。  27節。私たちも何かの行いをするとき、動機が問われる。自分の宗教的満足のゆえか、主の栄光を顕すべく用いられるためか。安息日というものは「守らなければならないから守る」のではない。それは「宗教」である。そうではなく、「守ると幸せだから守る」となると素晴らしい。そのようにして私たちは、主の喜びを実現するものとなる。  28節。イエスさまは、なぜご自身が安息日に働かれるかという理由を語っていらっしゃる。ヨハネの福音書5章17節。「わたしの父は今に至るまでも働いておられます。それでわたしも働いているのです。」ここにイエスさまは、安息日の主として働いていらっしゃる。安息日であろうとも、イエスさまは働きをやめられない。このお方とともに働くことは、安息日をけがさないという消極的な言い方をするのではなく、主の御業のお手伝いをするという、積極的な言い方をするべきではないだろうか?  私たちは「働かない」ということを金科玉条のように守ることで安息を得られるのではない。それはかえって窮屈であり、安息とは程遠い。イエスさまの与えられた安息とは、そのようなものではない。たとえ、律法学者の目には、安息日を犯す行動のように見えることでも、「働く」ことによって、キリスト者はほんとうの安息を得て、また、人を安息に導くのである。  私たちは安息日を守れないことをもし気に病んでいるとしたら、それは「宗教的な理由」であってはならない。「神が心配してくださる」そのみこころが、私たちが安息を守ることによって実現するため、つまり、神さまとのより深いつながりを持つためであることを心に留めよう。この主の日、安息の日に、主の宮よりも大いなるイエスさまがともにいてくださり、疲れた者、重荷を負った者である私たちを休ませてくださることに、感謝しよう(マタイ11:28)。