「イエスさまの家族になるために」

聖書箇所;マルコの福音書3:20~35/メッセージ題目;「イエスさまの家族になるために」 落語の演目に「宗論」というものがある。家の宗旨が浄土真宗の商家の若旦那が、キリスト教にかぶれて言動がおかしくなり、そこから宗教をめぐって親子の間で言い争いが起こるという内容。まるで西洋人の宣教師のようにしゃべる若旦那の言動で笑いを取る噺だが、これはクリスチャンが寄席に行って聴かされると、拷問に近い。しかし同時に、世間一般のキリスト信仰に対するイメージを、その観衆の笑いから知ることができるのも事実である。 キリストを信じるのは頭のおかしい人? しかし、これは実は格好いい。松原湖バイブルキャンプのシーズンだが、今から32年前、松原湖で私にメッセージを語ってくださったアーサー・ホーランド宣教師は、「私はキリストの頭のおかしな人になる!」と高らかに宣言し、みな喝采し、自分もまたそのように、イエスさまのために狂った人になりたいと願ったものだったが、アーサーがそのように言った根本の理由は、「イエスさまも周りから頭のおかしな人扱いされたから」ということだった。まさに今日のみことばの語るとおりである。 私の親しくさせていただいている西村希望先生という方が牧会されている、東京の町田にある「みどり野キリスト教会」は、またの名を「ジーザスファミリー」という。実にいいネーミングだが、私たちキリストのからだなる教会は、すべからく「ジーザスファミリー」、イエスさまの家族であるべきである。 しかし、イエスさまの家族になるには、この「気がおかしい」イエスさまと一緒の家族扱いされることを覚悟するばかりか、むしろ喜ぶくらいでなければならなかろう。私たちは、イエスさまのゆえに周りからどう見られても大丈夫だろうか? 使徒の働き5章41節をご覧いただきたい。私たちは御名のゆえに辱められるならば、それは使徒と同じ扱いを受けたということであり、イエスさまの受けられた辱めを身に受けること、名誉なこと、喜ぶべきことである。 今日の本文を見てみると、イエスさまの家族、つまり、母マリアとイエスさまの肉の弟たちが、イエスさまのお働きのうわさを聞いて、イエスさまのことを連れ戻しにやってきたとのことであった。そのようにイエスさまのことが心配だったのは、イエスさまがおかしくなったと聞いたからであった。ここに書かれているとおり、律法学者たちがイエスさまのことを、悪霊につかれていると評価したように、彼らもそう思わされていたことだろう。 イエスさまの育たれた家の家族たちは、イエスさまがお弟子たちを連れて、これほどまでに人気を博しておられるのを知って、戸惑ったことだろう。父ヨセフなき今、大工の家の稼ぎ頭の長男として働いてこられたイエスさまが、今やなさっていることといえば、大工ではなく、人々に神の国を説いて回るお働きである。しかもその教えていることは群衆を惹きつけている一方で、宗教社会を牛耳っている律法学者たちからは目をつけられるようなことであり、これはおかしい、と思ったわけである。 実際、イエスさまがみことばを語られた場に居合わせた律法学者たちは、宗教界の中心地であるエルサレムからはるばるガリラヤまでやってきて、この新しい教えを聞いてみたわけだったが、彼らは、このようにお語りになるイエスさまのことを、悪霊に取りつかれていると判断を下した。イエスさまはそんな彼らの問題点をはっきり指摘された。 そのとき、この家族はイエスさまのおられる場所までやってきて、イエスさまを連れ戻そうとしたのだが、イエスさまは、だれでも神のみこころを行う人がご自身の家族であるとお語りになり、彼ら肉の家族は神のみこころを行っていないゆえに、ご自身の家族と呼ぶわけにはいかないことを言外にお示しになった。 本日の箇所は以上の流れであるが、少しずつ見ていこう。20節。イエスさまも弟子たちも、押し寄せる群衆を霊的に養うために、食事をする暇もなかった。しかし、イエスさまの一行は、あえて食事をしないで彼らやせ衰えた群衆を養うことを選ばれたと見るべきである。この働きに献身するには「狂う」しかない。 私の恩師である、亡くなった玉漢欽牧師は、ご自身が提唱され、実践された牧会のありかたである「弟子訓練」というものは、それこそがまことであると信じきって「狂わなければ」やれるものではないとおっしゃった。しかし、弟子訓練とは単なる牧会の一方策ではない。やはりその頃の私の恩師、神学校の卒業論文の指導をしてくださった鄭聖久教授によれば、弟子訓練とは、信徒がキリストの足跡に従い、生活の中で具体的にキリストに似ていくようにすること、それだけではなく、みことばを分かち合ってほかの信徒に勇気と希望を与え、みことばを黙想してキリストの生き方に似ていくようにすることであるから、一般に「牧会」と呼ばれているものはことごとく「弟子訓練」なのであって、玉先生の牧会されるサラン教会のように、信徒リーダーが小グループでの信徒集団を牧会する、そのリーダーを2年かけて特定のコースで育成する、というものだけが弟子訓練ではないことになる。それでも、玉先生が「弟子訓練は狂ってこそできるもの」とおっしゃったことは、牧会全般が「狂ってこそ」できるものだということである。 イエスさまのご一行も、そういう意味では「狂っていた」。彼ら群衆を放っておけなかったからである。マタイの福音書9章36節をご覧いただきたい。彼らはときの宗教指導者たちからまともに教えを受けていなかったために、間違った律法主義の軛の重さにあえぎ、倒れ果てていた。イエスさまは彼らのことをご覧になって、はらわたもよじれんばかりに深くあわれまれた。そんな彼らが押し寄せてくるならば、食べるために休憩を取ることも忘れるくらい、狂ったように神の国を伝えること、彼らのわずらいをいやすことに専念せざるを得なかった。 21節。だが、イエスさまのそのような姿は、群衆の信仰心をいやが上にも増し加える一方で、イエスさまのことを昔から知っている人や、イエスさまの教えに脅威を感じていたパリサイ人の間に、イエスさまはおかしい、おかしくなったといううわさが広がる原因となった。このことに、イエスさまの育たれた家の家族の者たちは恐れを感じた。こんなことをしていないで、早く家に帰ってきてほしい。大工の仕事をしてほしい。 マリアは、どのようにしてイエスさまをみごもり、この世に送り出したか、忘れたのだろうか。そう考えるとこのことは、われわれにとっても相当な警告のメッセージとなる。神さまのみことばの恵みを受け、献身した、また、献身する家族を生み出した、ところが、世間の噂とか、経済的な厳しさとか、人間関係の葛藤とか、献身者について回る問題を見聞きしたり、あるいは自分自身が体験したりして、最初に神さまが与えてくださった召命のインパクトを忘れてしまう、こういうことはあるものである。 本日の箇所でいえば、イエスさまにはどのような評判があったのだろうか? 22節。エルサレムの律法学者は、どの律法学者よりも権威があると見なされていた。東京大学の教授たちが田舎までやってきて、そこで繰り広げられていることに判断を下すようなものである。群衆よ、おまえたちが熱狂しているイエスという者の正体は、悪霊に取りつかれた者だ、さあ、目を覚ませ……そんなことを言うかのようである。 だが、イエスさまのこのお働きが悪霊に由来すると判断することには、実はただごとではない問題があった。23節から26節。ごもっとも、である。悪霊が追い出されているとすれば、それは悪霊によるものではないことが、このみことばによってわかる。 その次が27節のみことばだが、イエスさまがいきなりこのようにお語りになることに、私たちは唐突な印象を受けないだろうか? しかし、このみことばにはちゃんと意味がある。このみことばは、パリサイ人たちもよく知っていたはずの、イザヤ書49章のみことばがその背景にあるおことばである。 イザヤ書49章の24節から26節。もはや手の施しようもないほどに強力に、神の敵サタンとその軍勢に捕らえられていた神の民を、イエスさまが神の側へと奪い返してくださった。このことによって、イエスさまが彼らの救い主、贖い主であることをお示しになった、ということである。聖書の専門家を自任するパリサイ人よ、あなたがたはこのみことばを知っているはずだ。それを知っていて、わたしのしているこの働きを見ても、わたしが救い主、贖い主であることがわからないか? 悪霊の働きだと言い切るか? その流れで28節、29節を見るべきである。人はどんな罪も赦していただける。たとえそれが、神さまを冒瀆する罪であったとしてもである。では、聖霊を冒瀆する罪とは何だろうか? 聖霊さまとは第一コリント12章3節に書かれているとおり、イエスさまを主と告白させてくださる、神さまの霊である。このお方を、絶対に受け入れてはならない悪霊だと言うならばどうなるだろうか? その人は絶対に救われない。自分が救われないばかりか、これからイエスさまを信じようとする人を大いに惑わし、下手をするとその人はもう、イエスさまを信じなくなるかもしれない。 いかにイエスさまの人気が妬ましかろうと、イエスさまのみわざにおいて働かれる聖霊さまを悪霊だと呼び、自分も救われず、救われようとする人の門戸も閉ざすような振る舞いをするならば、寅さんじゃないが「それを言っちゃあおしめえよ」。どんなに人を救いたいと願っていらっしゃる神さまも、そういう者を救うことはできない。そして、そういう者は神の働きをしているつもりでも、実は百害あって一利なしの宗教者にすぎない。 イエスさまの肉の家族は、イエスさまに対する世間の評判に揺れ動いていた。しかし、33節から35節を見ると、イエスさまはそのような、神のみこころよりも世間様の方に目が向く者よりも、ご自身のもとに神のみこころを求め、ご自身とともに神のみこころを行う者こそ、ご自身のまことの家族であるとおっしゃった。イエスさまの肉の家族は、イエスさまのこの一貫した姿勢に、のちに教えられることになる。イエスさまが十字架にかかられたとき、マリアはそのお姿をしっかり見届け、のちに初代教会の中心メンバーになった。弟のヤコブもユダも初代教会の指導者として、聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた。 私たちもイエスさまの家族になりたいだろうか? いや、すでに家族なのだが、イエスさまの家族だと周りから見られることを、恥じず、誇りとしたいだろうか? それには、パリサイ人のような、主のお働きに対する上から目線の評論家になってはならない。十二使徒のような大きな働きをしようとしなくていいから、むしろ、イエスさまから離れないで、イエスさまの教えをつねに受け、イエスさまと交わる者となろう。イエスさまはそのような群衆を、神のみこころを行う者と言ってくださり、ご自身の家族と呼んでくださった。私たちもまず、イエスさまから離れないでいよう。