「罪に病む者は癒される」

聖書本文;マルコの福音書2:13~17/メッセージ題目;「罪に病む者は癒される」 今日の箇所には、パーティが出てくる。 私にとって忘れられないパーティ、それは、2008年9月15日の祝日に、当時働いていた東京の韓国人教会で行なった、「結婚記念パーティ」である。私はそれを、たんなる自分たちの結婚のお祝いにしたくなかった。未信者の親戚や友人が参加するからだった。そのため、パーティは第一部と第二部に分け、第二部を立食パーティにする一方で、第一部は礼拝形式のセレモニーのようにし、現在、愛知県で牧師をしている友人にメッセージをしてもらい、奥様に通訳をしていただいて、教会の韓国人信徒にもわかるようにした。そんなパーティの目的は、イエスさまを証しすることだった。 本日出てくるパーティも、イエスさまを証しするパーティだった。というより、主人公はイエスさまだったとさえ言える。このパーティの楽しい雰囲気に冷や水をぶっかけるような者がいたが、イエスさまはそれに対し、実に素晴らしいフォローをなさった。 先週学んだのは、中風の人の癒やしについてだった。イエスさまが罪を赦す救い主であることを、この中風の人を実際に癒やされることをとおして、主ははっきりと証しされた。その驚くべきことを目撃したガリラヤの人たちはどうしただろうか? 13節。イエスさまのおられるところについて行ったのである。イエスさまはそこで、みことばを教えられた。 ガリラヤ湖。そこはイエスさまがみことばを教えられただけにとどまらず、弟子に対して、ご自身が全能なる神さま、お従いすべきお方であることをお示しになった場所でもある。群衆はことばだけでイエスさまの語られる神の国を知ったのではない。湖の魚さえも支配される全知全能のお方、このお方が王である神の国を、圧倒的なしるしとともに彼らは体験したのだった。私たちにとって、みわざを体験する「場所」というものは大事である。そこに帰るたびに、神さまが実際に働かれたことを思い起こし、献身を新たにするからである。私たちはそこでみことばを新たに学ぶのである。 14節を見てみよう。このようにイエスさまの話題で持ちきりでも、レビは仕事をしなければならなかった。カペナウムという地はヘロデ・アンティパスの領土とピリポの領土の境目に当たる交通の要衝であり、それだけお金の行き来が盛んだった。取税人であった彼はそれだけ通行税を取り立てることができ、金持ちだった。もちろん、普段からも住民から税を取り立て、しかも好きなように増税して、ふところに入れていた。 しかし、金持ちという結果が伴おうとも、彼はユダヤ教の宗教共同体においては除け者となっていた。ユダヤ教の宗教共同体にいる者たちは、何が悲しくてローマに貢がなければならないだろうか。この取税人は同じ民族のくせをして、金を取り立てていい気になって。まさしく、ユダヤ教の宗教共同体から蛇蝎のごとく嫌われたのが、この取税人であった。 しかし、あえて彼らを「弁護」する試みをすれば、彼らはそうしないと生きていけなかった。あながち卑屈すぎたからとか、野心のかたまりだったからというものでもなかろう。あまりこういうことは言いたくないが、彼らの存在によりユダヤ教の支配する地域において行政上の秩序が保たれたのも事実ではある。実際彼らは、彼らの納めた税金により、ローマ帝国の庇護を受けていた。しかしそれは、ユダヤ教の価値観からすれば、我慢のならないことであり、やはり彼ら取税人は、必要悪とすら扱ってはもらえなかった。 そんな彼は、イエスさまのうわさを聞いてはいただろう。しかし、それだけでは接点のつくりようがない。うわさの主(ぬし)、ヒーローのことを私たちはみな知っていても、彼らにはとても近づきになれないもの、それと同じである。 だが驚いたことに、イエスさまはご自身のほうからレビにお近づきになった。「わたしについて来なさい。」この日から、彼は取税人であることをやめ、イエスさまの弟子となった。弟子とはどうやってなるものだろうか? 私の好きな落語の世界でいえば、この師匠のもとに弟子入りしたい! という強い動機づけがまず必要で、何度断られても弟子入りをお願いする。その結果、弟子入りを認められるわけだが、師匠は、自分から頼んで弟子になってもらったわけじゃない、というスタンスは崩さない。そういう意味で厳しいことを、弟子の側もよく理解している。 しかし、イエスさまの弟子になることというのは、イエスさまからお選びになってはじめて可能になることである(ヨハネ15:16)。イエスさまが弟子にしてくださるということは、あなたはわたしについていける、と、イエスさまが見込んでくださったということを意味している。私たちは恐れずについて行っていい。私たちはすばらしい弟子になれる。 15節。この食卓は単なる食卓ではない。取税人や罪人も大勢招かれた食卓である。罪人が具体的にどういう人を指すのかは書いていないが、はっきりしているのは、ユダヤ教の戒律を守っていない人、ということである。安息日を守らない、とか、きよめのしきたりを守らない、というのも、彼らの宗教的な教えに従えば、罪人という扱いになってしまう。しかし、たとえば羊飼いのように、安息日に羊を置いて礼拝に出かけることもできないような人は、どうしよう 人間的な宗教の戒律は、どこかではみ出す人をつくってしまうのである。しかし、この人たちは、自分が「はみ出している」ことを恥じていて、だからこそ、イエスさまをお招きした食卓にこうして受け入れていただいていることに、どれほど感謝していることだろうか。まさしく、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのである。自分はだめだ、罪深い、と思うなら、行き先はただひとつ、イエスさまのところだ。「あたしは罪深いから、神さまに救われる資格なんかないよ」といってはいけない。むしろ逆だ。「あたしは罪深いから、神さまに救っていただくしかないよ」、こう言ってほしい。 しかし、このようなイエスさまの寛容さに、異議を唱えた者がいた。16節。それはパリサイ派の律法学者、宗教指導者であり、自他ともに認める聖書の専門家だった。弟子たちに言ったのが彼らの姑息なところで、イエスさまには正面切って言えなかった。弟子たちのようなイエスさまの共同体のコアメンバーにゆさぶりをかけ、イエスさまの信用を落とそうとしたわけである。 彼らとしては、こんな罪人どもと食卓をともにするのが救い主だなんて、許せなかった。しかし、彼らが「聖書」の基準と信じてきたものは、実を言うと、「聖書解釈」でしかなかった。その聖書解釈を金科玉条のように大事にしていたが、イエスさまの評価はどうだったか。 17節。イエスさまが用いられたこのことわざは当たり前のようだが、実に深いことばである。というのも、世界には自分が病気であることを謙遜に認めない者が多くいるからである。私のことを例に挙げると、私は6年ほど前からコンタクトレンズをやめ、眼鏡をかけている。信徒の方から、目がひどく充血していると聞き、眼科に行ってみたら、眼圧もとても高く、緑内障になりかかっているという。もうコンタクトレンズがつけられなくなった。しかし、コンタクトレンズのほうが眼鏡よりもカッコイイなどとうぬぼれて、眼科にも行かなかったらどうなるか。下手をすると失明する。事程左様に、自分が病んでいることを認め、それに見合った治療をしてもらうことは大事である。だがそのためには、うぬぼれを捨てなければならない。 そんなにもわたしを信じないで、わたしのすることにけちをつけるようなあなたは、律法を宗教的に守り行うことで神さまに認められようとしているね。しかし、わたしはそんなあなたのことなど招こうにも招けないよ。わたしが招くのは、自分が罪に病んでいると心底恥じながら認め、だからこそわたしに救ってほしいと心から願う者だ。 しかし、この願いは救われた時だけのものではない。一生続く願いであるべきだ。私の友人のゴスペルバンド「ジェニュイン・グレイス」に、こんな歌詞の曲がある。「あなたの力求めていたのに/いつの間にか小さな自分を誇っていた」そう、救われた感激はいつか薄れるほど、私たちは自己中心であり、自分の努力を誇りたがるものである。私たちはいとも簡単にパリサイ人になってしまう。聖書にあれだけパリサイ人の記述が多いのは、それが私たちのことを指しているからだと考えたことがあるだろうか? こんな罪人がイエスさまに招いていただいた、その感激を思い出そう。 私たちがもっとも思い出すべきものは何だろうか? ヨハネの黙示録2章、2節から5節の、エペソ教会への警告を読めばわかるとおり、思い出すべきは初めの愛、イエスさまの十字架の愛である。この愛に立ち帰りさえすれば、パリサイ人のように自分を誇り、人をさばくことはなくなる。逆に言えば自分を誇り、人をさばいているかぎり、その人はイエスさまの十字架がわかっていないのである。つねに十字架の愛、初めの愛に立ち帰り、このお方が私を弟子にしてくださったことに感謝しよう。