「聖霊を求めよ」

聖書箇所;ルカの福音書11:5~13/メッセージ題目;「聖霊を求めよ」 本日は聖霊降臨節、聖霊なる神さまについてのメッセージをします。 この箇所でイエスさまは、ご自身の弟子と話していらっしゃる。弟子とはだれだろうか? イエスさまが友と呼んでくださった存在(ヨハネ15:13~15)。そんな「あなた」にとっての「友」は、イエスさま(三位一体の神さま)。 深夜の訪問客もあなたの友なら、その訪問客をもてなすために行く先もあなたの友のところである。三位一体の神さま(の象徴/友)をもてなすために、三位一体の神さま(の象徴/友)のもとに深夜訪れる、という図式が透けて見える。 イエスさまのこのお話は、神さまに求めるということを語っているのだから、パンの持ち主が神さまの象徴というのはおかしくない。では、その一方で、「神さまをもてなす」というのはどうだろうか? 一見するとおかしいような印象を受けるかもしれないが、創世記18章で、アブラハムが主なる神さまをもてなす場面が出てくるので、つじつまは合う。 その訪問客のことをどれほど思っているか、それが、ほとんど恥知らずのような厚かましい願いになる(原語:アナイデイア)。単なる友達ならばここまで願うだろうか? やはりこの訪問客は、「戸の外に立って叩く」イエスさまの象徴と考えてよかろう。イエスさまは客なのである(ルカ19:7、黙3:20)。 三つのパンをめぐって、「あなた」の存在は消えている。ただ「友」のために労しているだけ。三つのパンを食べるのはあなたではない。ただし、三つのパンをもって友を養えたという事実は残る。これが大事なのである。 あなたは、神さまに栄光を帰すために、神さまから力をいただく存在。その力をいただくためなら、深夜のしつこい願い、厚かましくも恥知らずの願いもいとわない。深夜だと思ったり、しつこいと思ったり、われながら恥ずかしいと思ったりするならば、やめるだろう。しかし、神に力をいただきたい思いはその申し訳なさにまさってこそである。 では、ここでイエスさまがおっしゃっている、パンにあたるものが「聖霊」なのはどういうことだろうか? そこで、父と子どものたとえを見てみよう。ここでたとえとして用いられているものは、すべて「食べ物」である。 父が子どもに与えるものは、パン、魚、卵。栄養たっぷりの食べ物である。間違っても、石や蛇やサソリのような、食べたらからだをおかしくする物は与えない。子どものからだを喜びとおいしさのうちに成長させる食べ物を父が与えるように、父なる神さまが私たちに与えてくださるのが、聖霊さまだというのである。 聖霊さまによって私たちはふさわしく成長する。聖霊とは「イエスは主」と告白させてくださる、救いに導く霊(ローマ10:9)。聖霊によらなければ「イエスは主」と言うことはできない。(Ⅰコリント12:3)「イエスは主」と言うのは、たんなることばだけの問題ではない。いかにことばで「イエスは主」と告白していても、行いがふさわしくなっていないならば、それは到底「告白している」とは言えない。 私たちは生活すべてをとおして、どんなときも、全身全霊で「イエスは主」と語れる境地にともに達したい。そうして神さまを喜ばせ、それによって永遠に神を喜びたい。それを可能にしてくださるのが、聖霊なる神さまである。聖霊は神から出て、私たちの救いの達成は聖霊なる神によってなり、救われた者は神に至り、神は永遠に栄光をお受けになる。 主にあって喜ぶこと、生きることは、主の願いであり、またご命令である。私たちが求めるべきは聖霊さまである。聖霊に満たされるならば御霊の実を結ぶ(ガラテヤ5:22~23)。しかし、御霊の実を結ぶ生き方が魅力的だから聖霊を求め、聖霊に満たされようとするのは本末転倒である。御霊に満たされるのは神のご命令である(エペソ5:18)。命令だから私たちは神さまに従順にお従いするため、聖霊を切に求めるのである。 真夜中に訪ねてくるお方がイエスさまで、このお方が求めておられることが、パンを召し上がること以上に、私たちが御霊に満たされることであるならば、私たちは必死に神さまに、御霊を求めるであろう。私たちが求めつづけ、捜しつづけ、門をたたきつづけるごとく、聖霊をくださるように神さまに求めるならば、神さまは必ず、私たちをみこころにかなう者へと変えてくださる。 求めよ、さらば与えられん、ということばは、なんでも努力すれば手に入れられるという意味では決してない。何を求めるかが大事である。聖霊、すなわち神さまご自身を求めることこそみこころだから、聞いていただけるのである。 ただし、聖霊に満たしてくださいというこのお祈りが聞いていただけない場合がある。それは、不信仰にも疑うから(ヤコブ1:6~8)、また、自分の肉を満足させようなどと言う、悪い動機で願うからである(ヤコブ4:3)。 さあ、私たちは御霊に満たしてくださいと祈ろう。まだまだ私たちは御霊に逆らう肉が生きていて、悲しいことに神さまのみこころを行いきれていない。「イエスは主」という告白も、所詮口ばかり。そのような私たちの罪を告白し、悔い改め、聖霊さまに導いていただくように祈ろう。生活のすべてで「イエスは主」と告白できる者になれるように、聖霊さまを求めよう。