聖書本文;イザヤ書9:6~7/メッセージ題目;「不思議な助言者イエスさま」
先週私たちは、アドベントの第二主日で、水谷潔先生から「クリスマス前の自己点検」というタイトルでみことばを取り継いでいただきました。私も久しぶりにメッセージをお聴きする立場になりました。
みなさまはどの部分が心に残りましたか? 私は、「クリスチャンはキリストを指し示す矢印である」というメッセージでした。山道で絶対にしてはいけないいたずら、それは矢印の立て札を別の方向に向けること、山登りをする人は矢印のとおりに行けば迷わない。私たちもそれと同じ、私たちはキリストを指し示す矢印でいい、矢印は純金なんかでできている必要などない、段ボールの切れっぱしでもいい、要は、イエスさまを指し示していれば価値がある……。あなたはイエスさまを指し示していてこそ価値がある……ほんとうにそうだと教えられました。
水谷先生のメッセージをお聴きして、私自身のメッセージの語り方を反省させられました。私はあまりにも、イエスさま以外の情報を入れまくって、肝心のイエスさまを指し示していなかったのでは……? これからはメッセージをもっとシンプルにして、イエスさまが伝わるように工夫しよう。
正直に考えていただきたいのですが、メッセージにポイントがいくつもあってあとで忘れるくらいなら、ポイントはひとつでも、あとまでちゃんと覚えていた方がいいと思いませんか? というわけで、今日からメッセージはシンプルにいたします。イエスさまがみなさまに伝わるように努力します。そのかわり、ちゃんと聴いていただけたら幸いです。
今日の箇所はイザヤ書9章6節と7節のみことばです。イザヤ書とは南王国ユダの預言者イザヤによる預言であり、この9章の預言は、アハズという王が治めていた時代に語られたものです。
アハズ王……この王は悪いことをしました。まことの神さまの道を真っ直ぐに歩まず、偶像礼拝におぼれました。どれだけその歩みがひどかったかというと、第二列王記を読むと、自分の子どもを火の中に通すことさえした、とあります。それほど主に忌み嫌われる偶像礼拝の宗教行為に手を染めていたわけです。
このような王が統べ治めるとなると、ユダがいかに創造主なる神の民の国であるといっても、きわめて不安な中にありました。分裂王国の片割れであった北イスラエルは、9章1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とあるとおり、国の北方ガリラヤ地域一帯がアッシリアに侵略されて奪い取られ、南王国ユダも、心ある人は、明日はわが身、と意識せざるを得なかったはずです。
イザヤ書9章のみことばは、このような悲惨な目にあったガリラヤから、救い主キリストがデビューされるという驚くべき預言のみことばであり、それはこのみことばがマタイの福音書4章に引用されていることからもたしかなことです。その流れの中で、さきほどお読みしたみことば、6節と7節のみことばが登場してまいります。
この6節、7節のみことばは、特にキリストの誕生を預言しているみことばであり、アドベントの時期になるとあちこちの教会で礼拝メッセージとしてよく取り上げられます。この中の「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という呼び名、これはまさに、イエス・キリストというお方がどのようなお方かを語っている呼び名です。
この中で今日は、「不思議な助言者」という呼び名について集中的に学びます。その前に、あとの3つの呼び名についてもざっと見ておきますが、「力ある神」、言うまでもなく、創造主なる唯一の神さまですが、このお方がみどりご、赤ちゃんとしてこの世界にお生まれになるという、驚くべき預言です。この人が、力ある神なのです。そしてこの預言どおり、イエスさまはあらゆるしるしと奇蹟をもって、ご自身が「力ある神」であることを人々の前にお示しになりました。
「永遠の父」、この呼び名は、イエスさまが三位一体の神における「御子」であることを知っている私たちにとって、若干の混乱を覚えさせる呼び名になってはいないでしょうか? キリストは「子」であって、「父」ではないのではないだろうか? しかし、この「父」は、三位一体の「父」という解釈ではなく、「私たちの上におられ、私たちを守ってくださる保護者(という意味での父)」と解釈すればよろしいです。
「平和の君」、神に敵対していた人間が神と和解する道を、イエスさまはご自身の十字架によって開いてくださいました。まさしく、神との平和を実現してくださったのでした。そしてキリストは、十字架を信じ受け入れた者どうしを、国や民族を超えて、ひとつにしてくださいました。まさにキリストは、神との平和、人との平和を実現してくださる王の王、すなわち、平和の君です。
さあ、それではこの4つの呼び名の中で、いちばん最初に出てくる「不思議な助言者」ということばをじっくり学んでみたいと思います。
この「不思議な助言者」は、聖書の訳によっては「不思議」であり「助言者」である、と訳しています。そうです。イエスさまというお方は、存在そのものが不思議なお方です。旧約聖書の士師記に、サムソンの父マノアが神の使いを目の当たりにする場面が出てきますが、マノアが神の使いに名前を問うと、神の使いは「わたしの名は不思議と言う」と答えました。神さまという領域を名前で形容すると、そのものずばり「不思議」なのです。
神さまは「聖」である、といいます。聖書の「聖」です。この「聖」は、「きよい」と読みますが、聖書の語る「聖である」ということは、人間的な努力や修行、宗教行為で到達する領域ではありません。罪人である人間にとっては、どんなに努力しても到達できない、言ってみれば「異次元」です。神さまというお方、イエスさまというお方は、その「異次元」のお方であり、神さま、イエスさまが「聖である」ということは、人間の罪に満ちた次元からはまったく異なる「異次元」におられる、ということです。
イエスさまが「不思議」ということは、「聖である」ということと密接な関係があります。聖である、人間とは異次元だから、人間の罪に汚れた霊的感性では到底理解できないお方である、ということです。見てください、イエスさまが大いなるしるしと奇蹟を行われたとき、だれよりもその素晴らしさを理解できず、それどころかイエスさまを殺そうとさえしたのは、ユダヤの宗教家たちではなかったですか。彼らは神さまに仕えているつもりだったことでしょう、しかし、どんなに努力していようとも、彼らの努力はしょせん人間的なものにすぎず、神さまに認められるものではありませんでした。
また、理解できないということは、到達できないということでもあります。あまりにも次元が違いすぎて、人間の努力でどんなに頑張ってみたところで、修行してみたところで、イエスさまの域には到底及ばない、ということです。
そのように、存在そのものが不思議なお方が、助言者、すなわち、不思議な助言者、ということです。それでは、「助言者」ということを見てみましょう。
「助言者」は、いくつかの意味に解釈することができます。まず、この「助言者」というのは、単にアドバイスをくれる人、という意味ではありません。単なるアドバイスという次元ならば、アドバイスをもらう人が主であり、アドバイスをくれる人が従です。しかしキリストは、そういう次元で助言者なのではありません。
まず、英語の聖書を見てみると、「カウンセラー」とあります。現代においては心理学が社会や人々に対して持つ役割がますます重要になり、それにしたがって「カウンセラー」も重要な働きになっています。この「カウンセラー」の中でも、まことの「カウンセラー」はイエスさまである、というわけです。何でも相談できるカウンセラー。素晴らしい導きをくださるカウンセラー。
もちろん、私たちの暮らす社会における役割という面では、カウンセラーは万能ということは期待されず、臨床心理士のような資格を持つ人も、精神の病を治療することはしません。しかしイエスさまはどうでしょうか? 社会のつまはじきにされている取税人や罪人の食事会に招かれたイエスさまは、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です」とお語りになり、ご自身こそは罪人を招いて悔い改めさせ、罪に病んだ人を癒して健康にする医者であるとお語りになりました。それがおできになるのも、イエスさまは人を創造され、人にいのちを与えられる、まことの神さまであられるからです。
私たちが毎日、お祈りとみことばにおいてイエスさまとの交わりを持つ必要があるのは、私たちが罪によって病む病人、罪人であるからです。だから私たちは何よりも、自分は癒されなければならない罪人である、病人である、という自覚が必要です。私たちが日々イエスさまに近づき、お祈りとみことばによってイエスさまと交わるならば、イエスさまは私たちの罪の病を明らかにしてくださり、私たちをいやしてくださいます。そんなお医者さん、そんなカウンセラー、それがイエスさまです。
さて、このようにイエスさまはカウンセラーであるわけですが、イエスさまは単に私たちの問題を解決してくださるだけの「カウンセラー」ではありません。そこで私たちはこの「助言者」ということばの意味を、もう少し別の角度から考えてみたいと思います。
韓国語の聖書を読みますと、この「助言者」は「モサ」ということばに訳されています。この「モサ」ということばは、「謀(はかりごと)」「謀議」というときの「謀(ぼう)」ということばと、「軍師」というときの「師(し)」ということばを組み合わせて、日本式に発音すれば「謀師(ぼうし)」です。日本語でいちばん近いことばがあるとすれば「参謀」といったところでしょうか。しかし「謀師」となると、「参謀」よりさらに主体的なイメージです。日本人にとって近しいところでは何といっても、三国志の諸葛孔明でしょう。
三国志の軍師である諸葛孔明のアドバイスが、蜀の王である劉備玄徳と蜀の国の行く末を左右したように、聖書においても王のかたわらには、このような王と国の命運を左右する「謀師」が存在しました。ときに、指導者がどの「謀師」を起用したかによって、イスラエルの命運が決まったということさえ起こりました。アブサロム王子がどのような謀師、アドバイザーを起用したかが、ダビデのいのちとイスラエルの行く末を救ったという記述が、サムエル記第二に出てきます。
アブサロムがもし、アヒトフェルのアドバイスを受け入れたならば、ダビデは滅びました。しかし、ダビデの陣営からアブサロムの陣営に放たれたフシャイがアブサロムにアドバイスをすると、その意見が通り、ダビデのいのちは救われたのでした。このように、軍師のアドバイスひとつでダビデ王とイスラエルの行く末が決まった、ということがあったわけで、どの軍師がどんなアドバイスをするか、ということは、国を左右するたいへんな重みを持つことです。
いみじくも聖書協会共同訳という訳の聖書では、この「助言者」は「指導者」と訳されています。つまり、従の立場で主の立場に対して「助言」するのではありません。主の立場で従の立場に対して「指導者」として「指導」を行うのです。
この預言が語られたこの時代、イザヤのような心ある神の人にとって、アハズ王はとても「指導者」と認めることのできるような王ではありませんでした。アハズは本来ならば、ダビデの血を引く者として、神の人にふさわしい指導力を神の民の国であるユダ王国に対して発揮してしかるべきでした。しかしそのような期待はアハズに対してはとてもできませんでした。人間的な王の血統が神の民を治めるにふさわしい指導力を保障してくれたわけではなかったのでした。
しかしイザヤは、まことの指導者であるキリストはダビデの王座にとこしえにつく、すなわち、ダビデの子孫としてお生まれになるのと同時に、ダビデを王としてお立てになった神さまのみこころをもっとも忠実に実現してくださる、ダビデも人であったゆえに弱さをまとっていたが、キリストは神さまがダビデに期待されていたとおりをことごとく実現される、王の王である……。
この王の王、神の民ユダ王国の王の分際で偶像礼拝におぼれるようなアハズなど足元にも及ばない王、ほんとうの意味でダビデに与えられた王権をこの地に実現してくださる王……このイエス・キリストという王さまは、主権をもって導いてくださる王です。
私たちクリスチャンのただ中に存在する「神の国」……それはイエスさまが王として治めてくださる国です。私たちの住むこの世界のどの国家も、この「イエスさまの治める神の国」を実現することはできません。地上の国家は、しょせん人間が治め、人間が導くものでしかないからです。
しかし私たちはどうでしょうか。私たちは自分が罪人であることを認めています。イエスさまという主人に導いていただく、指導していただく必要があることを知っています。自分の人生の主人が自分ではなく、イエスさまであることを知っています。
しかしイエスさまは、単に君臨する王ではありません。悩む私たちに、いつでも耳を傾けてくださいます。迷う私たちを、いつでも捜し出してくださいます。なんということでしょうか、仕えてくださる王さまなのです! 仕えてくださる王さま! そんな王さまがいるでしょうか! でも、イエスさまは仕えてくださる王さまなのです! 私たちのきたない足を洗ってくださる王さまです。私たちに手を置いてくださり、病を癒してくださる王さまです。そして……十字架にかかってくださり、私たちを罪から救い出してくださった王さまです。私たちのためにいのちを捨ててくださった王さまです。私たちのためによみがえってくださった王さまです。私たちのために今この瞬間も、とりなして祈っていてくださる王さまです。
そしてイエスさまは……今度こそほんとうに王の王として、この世界に来られる王さまです。しかし、イエスさまを信じる私たちのことも、永遠に王としてくださるのです。私たちは主とともに統べ治めるのです。
そのように、私たちに御国を任せてくださる日に至るまで、今この地上のどんな小さなことにも忠実になれるように、イエスさまは私たちに、忠実であるとはどういうことか、忠実に振る舞うとはどうすることか、なぜ私たちは忠実であるべきかを、ひとつひとつ、たしかに教えてくださいます。
私たちが忠実になれないで悩むならば、すなわち、隣人に対してほんのわずかでも愛する行いができないで悩むならば、イエスさまは親しく、私たちの悩む祈りに耳を傾けてください、どうすればいいか、みことばによって教えてくださいます。イエスさまはそんなカウンセラーです。その積み重ねはやがて、私たちがイエスさまとともに御国を統べ治める指導力を得ることにつながります。イエスさまはそのように導いてくださる指導者、まことの指導者です。
さあ、イエスさまの前に私たちはいま出ましょう。私たちは神さまの御前で、悩んでいることはないでしょうか? イエスさまの導きを特別に必要としている領域はないでしょうか? 祈って、イエスさまの助けをともに求めましょう。具体的に求めましょう。