聖書箇所;ヨハネの手紙第一1:1~10/メッセージ題目;「罪赦された共同体」
1999年、韓国で神学生をしていたとき、サラン教会という教会で奉仕をしておりました。表現が適切かどうかわかりませんが、弟子訓練牧会のいわば「総本山」とも言えるようなその教会にいさせていただくというのは、それだけで大きな恵みであり、私は当時弱冠25歳かそこらの若造なりに、吸収できるものは片っ端から吸収しようと取り組んでいたものでした。
その中でも忘れられないのは、礼拝の時間でした。礼拝は基本的に、取り立てて特別なプログラムを組んでいたわけではないのですが、ひとつだけ印象に残ったのは、「一週間の罪の告白」の時間が設けられていたことです。
神さまの御前にふさわしい姿勢で礼拝をささげるために、心の中に罪を抱えていてはいけない……音楽に合わせて会衆はみんな、静かに悔い改めのお祈りをおささげします。私もどれほど悔い改めのお祈りをしたことかわかりません。
そのお祈りが終わると、司会を担当する牧師先生は、必ず、ヨハネの手紙第一1章9節のみことばを暗唱し、罪の赦しを神さまに感謝するお祈りをささげられます。私はそのたびに、自分の罪が許されていることに、心から感謝したものでした。
それ以来、このヨハネの手紙第一1章9節のみことばは、時に罪責感にさいなまれる傾向の強い私にとって、いつでも私を励まし、慰めるみことばでありつづけました。そんな体験からも、私は主の晩さんをお導きするとき、罪の告白と悔い改めの時間を設け、この、ヨハネの手紙第一1章9節のみことばをお読みするのを常としてきました。
サラン教会は、共同体であることがつねに強調されていた教会であり、私もその時以来、教会とは共同体として機能することがもっとも聖書的であると信じて、今日までまいりました。そのような共同体の教会において、ともに悔い改め、そしてともに罪の赦しをいただいたということは、大きな意味を持つことではなかったかと思います。
本日は主の晩さんを執り行います。本日もやはり、第一ヨハネ1章9節のみことばをお読みしますが、その箇所の含まれたみことばを、本日はあらためて学びたいと思います。では本文にまいります。
今日の本文、1章は、1節から4節までの前半部分、そして5節から10節までの後半部分に分かれます。このうち、前半部分は、この手紙全体の導入部分の役割を果たしています。
まず、1節からまいります。……いのちのことばには、5つの特徴があると語ります。初めからあった。ヨハネたちが聞いた。目で見た。じっと見た。手でさわった。
ヨハネの福音書1章1節と2節をお読みください。……いのちのことばとは、イエスさまです。ヨハネはイエスさまのみことばを聞きました。もちろんヨハネは、イエスさまを見ていましたし、弟子という親密な間柄ですから、じっと見ることもあったわけです。イエスさまのおからだにさわることだってあったでしょう。ただのことばではありません。人と交わることのできる人格を持ち、そしてその交わりを可能にする肉体を持ってこの世に生きておられた「いのちのことば」。イエスさまとはそういうお方です。
続く2節は、1節と3節の間に挿入された部分です。お読みします。……ここでは、1節で「いのちのことば」とお呼びしていたイエスさまのことが「いのち」に変わっています。しかし、イエスさまのことを「いのち」とお呼びするのは、ふさわしいことです。ヨハネの福音書14章6節には、このようにあります。……このようにイエスさまは、ご自身のことを「いのち」であるとおっしゃっています。
使徒ヨハネはつづいて、その「いのち」が「永遠のいのち」であると述べています。「私たちはそれ、つまりこのいのちなるイエスさまを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。その永遠のいのちなるイエスさまは、御父ともにあって、私たちに現されたお方です」と語ります。そしてヨハネは、「その永遠のいのちを見たので、私たちはその永遠のいのちの証しをして、あなたがたに伝えるのです」と語っています。永遠のいのちをいただいたヨハネは、この手紙の読者であるあなたにも、私が見たお方、そして永遠のいのちであるイエスさまをぜひとも知ってほしい、そのような強い思いで、この手紙を書いています。
3節では、そのようにして目撃したイエスさまご自身とそのみわざ、そしてお聞きしたイエスさまのみことばを、なぜ読者であるあなたがたに伝えるのかを語っています。お読みします。
……イエスさまを伝える最大の目的。それは、あなたがたも「交わり」を持つため、ということです。それは「私たちとの交わり」であると同時に、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」であります。
つまり、交わりには2つの要素があるわけです。私たち、すなわちイエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、神さまの子どもたちとしていただいた聖徒たちとの交わり、もうひとつが、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。人との水平な交わり、神さまとの垂直な交わりです。
十字架のかたちをご覧ください。垂直と水平が直角に交わった形をしています。神と人との関係が大事で、人と人との関係が大事であると語るようです。
私たちクリスチャンは「伝道」ということを行います。しかし、「伝道」の目的は、ただ単にその人に「救い」に対する信仰告白をさせることではありません。救いの告白はむしろスタートで、そこから地上の教会における交わりと奉仕、そして永遠の御国における御父および御子との永遠の交わりに至るものです。私たちは教会の交わりをとおして御父と御子との交わりを体験し、また、御父と御子との交わりをとおして教会の交わりを体験するのです。
コリント人への手紙第二の締めくくり、13章13節に、祝福の祈りが収録されていますが、それは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」とあります。ここで語られる「聖霊の交わり」が教会の一同とともにあるようにとはどういうことでしょうか?
それは、御父への唯一の道であるイエスさまを主と告白させるお方、聖霊なる神さまがわれわれ教会に、御父そして御子との交わりを持たせてくださり、また父・御子・御霊の三位一体の神さまを主と告白する兄弟姉妹どうしとして交わりを持たせてくださることを意味します。教会は、聖霊の交わりがあってこそ、教会と言えるのです。
そのように、手紙の読者に私たちとともに御父そして御子との交わりを持ってほしい、と願う理由が、4節に述べられています。お読みします。
……そうです。その目的は、「完全な喜び」です。私たちはこの世において主にある交わりを分かち合うことにより、喜びを体験します。そして、終わりの日に私たちがみな天の御国に召され、御父そして御子と完全な交わりを持つようになったとき、その喜びは完成されるのです。
テサロニケ人への第一の手紙5章16節には、「いつも喜んでいなさい」という命令が書かれています。私たち信徒は、いつも喜ぶことが主から命じられている存在です。しかし、この世のもたらす喜びでは、私たちは「完全な喜び」に至ることができません。
私たちが「完全な喜び」に至るためには、その「完全な喜び」に常に満たしてくださる御父そして御子イエスさまのみもとに行き、お交わりを持つ必要があります。その御父と御子との喜びのお交わりを可能にするのが、私たち教会の、聖霊による交わりです。
しかし、私たちは依然として罪人ですので、肉が生きている存在です。ガラテヤ人への手紙5章16節から18節には、このようにあります。……律法によってさばかれるべき罪深い肉の行い……御霊に導かれていないならば、私たちはそのような罪の状態に陥るのです。それは、教会とて例外ではありません。
だから私たちは、交わりの中心においてみことばの恵みを分かち合い、お互いのためにお祈りをする必要があるのです。そうすることで私たちは、自分たちの交わりを聖霊の御手にゆだねることができます。
では、使徒ヨハネはどのようなメッセージを伝えてくれようとしているのでしょうか? 5節です。……神は「光」であられます。神が最初に天と地を創造されたとき、そこはまったくのやみの世界でした。しかし、主は「光があれ」と仰せられ、光ができました。目に見えない光であられるお方が、目に見える光をお造りになったのでした。
そのように光なる主を受け入れている私たちもまた、世界の光としてやみの世を照らすのであると、イエスさまはお語りになりました。しかし私たちは、まるであかりを枡の下に置いて照らなくしてしまうような、主の光を隠す闇の部分を持っているものです。その闇の性質をもってしては、光なる主を理解することはできません。
実際、ヨハネの福音書1章5節、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」の一節は、欄外の脚注を見ればわかりますが、「(闇は)これ(光)を理解しなかった」とも訳せます。しかし光なる主は、私たちの闇の部分に打ち勝たれます。私たちはそのようにして、闇の部分を引き続き主に明け渡していくことにより、主の光に照らされ、キリストに似た者へと変えられていくのです。
光というものが照らされれば、そこをおおっていた暗闇は払われ、たちまち明るくなります。光には暗いところが一切存在しないのです。そのように神さまもまた、暗いところの一切存在しないお方です。
神さまはそのようなお方ですから、人の心の中にも暗闇を一切容認なさいません。しかし人間は、どのような性質を持っているのでしょうか? 6節以下に述べられています。
まず6節です。……5節で述べているとおり、神さまは完全な光、暗闇の部分の少しもないお方です。ならば私たちが神さまと交わりを持っているかぎり、闇の中を歩むことはありません。もちろん、私たちは時に罪を犯してしまうものですが、それでも悔い改めるなら赦していただけます。
問題は、罪を犯しているにもかかわらず、その罪を悔い改めない、すなわち、罪とわかっている行為をやめないで平気でいる場合です。私たちもうかうかしていると、そのような人になりかねません。だが人前では、奉仕をしたりみことばを語ったりするなど、聖徒らしい行いをするものだから、いかにも神さまと交わりがある人のように振る舞い、周りもだまされます。
しかし、闇の中を歩む、すなわち罪を犯しつづけている人が、光なる神さまとの交わりの中にあるわけがありません。だからその人は偽りを語り、偽りを行なっていることになるのです。
しかし、続く7節をお読みください。……そうです。私たちに罪人としての自覚が芽生えたならば、神さまの光の中へと歩み出せばいいのです。アダムとエバは罪を犯したとき、それを覆い隠そうとし、御父から逃げようとし、自分以外の者に責任転嫁させました。アダムはエバのせいにし、そしてエバをそばに置かれた神さまのせいにし、エバはエバで蛇のせいにしました。人のせい、神さまのせい、サタンのせい、それなのに、自分のせいには決してしない、これが罪人の特徴です。そして、その罪を悔い改めないかぎり、人はその罪に従ってさばかれる定めにあります。
しかし、私たちは、その罪を完全に消してくださるお方へと歩んでいくことができます。主の御目に隠れているものは、何一つありません。私たちの犯した罪も、みんなご存じです。
ならば私たちは、罪を隠したり、御顔を避けたり、その罪を人のせいにしたりしても一切無駄です。だから私たちは、その罪を完全にきよくしてくださるお方のもとに行くしかありません。そして、このお方のもとに行くならば、私たちは御父そして御子との交わりを聖徒の交わりのうちに保ちます。そして、御子イエスさまの血潮による罪からのきよめを得させていただけるのです。
だったら、私たちはもはや罪がないから大丈夫だと言えるのでしょうか? そういうことではありません。8節を見てみましょう。
……私たちが光なる神さまに向かっていくならば、むしろ私たちの罪深さが、その光によってあぶりだしにされていきます。それは、一生続くことです。あの大いに用いられた使徒パウロにしても、晩年にしたためたテモテへの手紙第一において、自分のことを「罪人のかしらです」と言っています。そのように、信徒として年を重ねれば重ねるほど、自分のことを罪人と認めるのがまともな在り方です。
それを、もはや自分に罪はないかのように考え、みこころと無関係に好き勝手に振る舞うならば、それはもはや、真理なるイエスさまに従って生きていることにはなりません。そのような人とは、神さまは交わりをお持ちになりませんし、私たち教会も、そのような人とは真の意味での交わりを持つことはできないのです。
私たちには罪があるのです。では、どうすればいいでしょうか? 9節です。
……そうです。罪を主の御前に告白すればよいのです。そのとき、神さまはその罪を赦してくださいます。そして、不義からきよめてくださいます。どんな不義からもきよめてくださるのです。きよめられない不義はありません。
アメリカのある牧師が、罪の誘惑というものをこのように語っています。殺人や強盗のような大それた罪は猛獣の「ライオン」のようなもので、普通に避けることができる、しかし、日常の中で犯してしまう罪は「蚊」のようなもので、これを避けるのはとても難しいものである。
……しかし、私たちが常に悔い改めをもって神さまの光の中に飛び込んでいくならば、日常の中で犯す数々の悪の行い、それこそやぶ蚊のごとくぶんぶん飛び回る罪から、私たちはきよめられていくのです。そのようなきよめを実現する交わりが、私たち教会における聖徒の交わりです。私たちは聖徒の交わりをとおして、みことばと祈りによって互いに悪からきよめていただく体験をするのです。
それでも、正直であるはずの教会の交わりにおいて、罪など犯していないかのように振る舞うならば、どうなるでしょうか? 10節をお読みします。……あの、罪を犯したアダムとエバの子孫である私たちは、罪を犯す罪人であることから免れることはできません。神さまとの交わりをとおして、どんなにキリストの似姿に変えられていったとしても、やはり罪を犯すのです。それでも、神さまは罪をお赦しになったということを盾に、自分はその神さまを信じているから、イエスさまの十字架を信じているから罪を犯しているとはみなされない、何をしても赦されるなどというように振る舞うことは、それこそ「神さまを偽り者とする」罪を犯していることであり、「神さまのみことばがうちにない」ことです。
「神さまを偽り者とする」とはどういうことでしょうか? それは、ローマ人への手紙3章10節にあるとおり、「義人はいない。ひとりもいない」というのが人間に対する神さまの評価である以上、ここに私という罪のない者がいますと言うことは、神さまのこの評価は嘘だ、と言っているのに等しいからです。
そして、そのようなことを言うならば、すべての人は罪を犯す罪人であるという前提で書かれているみことばは、その人にとってすべて意味のないものになってしまいます。そういうわけで、その人のうちに神さまの真理のみことばはないことになります。
真理のみことばを持つ者であるならば、私たちのすることはおのずと決まってきます。そう、「悔い改め」です。私たちはこの悔い改めによって、かえって神さまとの交わりを保つ者となることができることに感謝したいものです。
私たちにとって罪が明らかになることは、時には受け入れがたいことでしょう。なんて自分はけがれているんだ! 落ち込みますし、穴があったら入りたくなります。しかし私たちは、その罪によってさばかれるのではありません。むしろ私たちは、その罪を告白して悔い改めるならば、赦され、悪からきよめられ、聖徒にふさわしい生き方がますますできるようになるのです。
そのようにして私たちはますます、罪を完全に赦してくださる神さまを愛し、ともにこの教会という、罪赦された者どうしの共同体を形づくるお互いを愛するのです。悔い改めを恐れてはなりません。むしろ悔い改めは、主の無限の赦しを受け取る大いなる恵みの機会です。
本日は、交わりというものの持つ2つの側面について学びました。御父および御子イエスさまとの垂直的な交わり、そして聖徒どうしの水平的な交わりです。そして、聖霊なるお方は、この2つの交わりを正常に機能させて、喜びという実を結ばせて交わりを完成させられます。
そして、私たちはこの交わりの中で、自分が罪人であるという自覚に立たされ、罪の悔い改めに導かれます。そのようにして悔い改める共同体に、主はさらなるご自身との愛の交わりを与えてくださり、私たちをキリストの似姿へと整えてくださり、愛の業に励むことができるようにしてくださいます。
今日、私たちは主の晩さんにともにあずかります。ともに罪赦された者として、ともにイエスさまのみからだにあずかる、大事な時間です。
私たちはともに悔い改めましょう。ともに悔い改める家族、仲間がいることは、何と感謝なことでしょうか? 私たちはこの愛する兄弟姉妹とともに、罪の赦しをいただいて、天国に入れていただけるのです。私たちは罪の赦しを受け取りつづけ、罪赦された恵みをもって力強く神さまを愛し、隣人を愛する共同体を形づくってまいりましょう。