救われよ、神をも恐れぬ世代から

聖書箇所;創世記19:1~38 メッセージ題目;救われよ、神をも恐れぬ世代から  日本と西洋の神観を端的に示すエピソードを、私は以前、ある本で読んだことがあります。第二次世界大戦のころだそうですが、同盟国どうしである日本とドイツの軍人どうしが、自慢比べをしたそうです。ドイツの軍人は言いました。「私は、神以外の何ものも恐れない。」これに対して、日本の軍人は言ったそうです。「私は、神をも恐れない。」日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に嗤われたそうです。  みなさん、日本人ならこのようなことを言いそうだと思いませんか? 私は神をも恐れない。しかし私たちはクリスチャンとして日本という国を見るとき、政府にせよ国民にせよ神をも恐れないために、どれほど不幸になっていることかと思いませんか?  神を恐れないことは、すべての罪の根源です。これは日本にかぎりません。古今東西、神を恐れない国や民族が、どれほど存在してきたことでしょうか。このような民は、旧約聖書の創世記の昔から、既に存在しました。先週、そして今週と学んでいますソドムの町など、まさにその典型的な例です。  先週学びましたとおり、アブラハムはこの町が滅ぼされないようにと祈りました。それは、義人が少しでもいれば、その義人もろとも滅ぼすことは主のみこころではないのだから、ということで、主はアブラハムのひざ詰めの祈りに、10人でも義人がその町にいるなら滅ぼさない、と、約束してくださいました。  さて、そのソドムとはどのような町だったのでしょうか? まず、主の使いは、ソドムの町を訪れました。ロトがソドムの門のところに座っていると、御使いがやってきました。ロトは彼らが御使いであることがわかりました。ロトはしきりに勧め、彼らを家に招き入れ、食事をもってもてなしました。  これは、先々週アブラハムのエピソードから学んだことと同じです。ロトは、主の使いをそうと認め、もてなしました。もてなすということにおいて、彼は模範を示しています。しかし、問題なのは、そのもてなしは行き過ぎ、といいますか、ピントの外れた方に行ってしまっていた、ということです。  4節、5節をご覧ください。……彼らをよく知る、とは、婉曲的な表現です。これは、彼らは主の使いだからいろいろ教えてもらって、神さまに対する知識を増し加えたい、という意味ではありません。彼らと性行為に及びたいから引き出せ、ということです。  アブラハムやロトをご覧ください。彼らはちゃんと、この訪問客が神の使いであることを知っていました。ところが彼らソドムの者たちは何でしょうか。よりにもよってこの聖なる存在を、性欲を満足させる存在と見ているのです。神をも恐れぬ、とは、このことです。この存在を犯す、われわれ神の民にとっては、震え上がるほど恐ろしいことを、彼らはしようとしていたのです。  罪は特に、性的に粗暴になることで現れます。それはとりもなおさず、人間のことを、性欲という自分の欲望のために粗暴に扱うことを意味します。人間とは何でしょうか。神のかたちです。神のかたちを性的に粗暴に扱うのです。いわんや、ロトのもとを訪ねてきた彼らは、神の使い、すなわち神の顕現でさえあります。神の顕現が性欲のはけ口にしか見えないとは、ソドムの者たちは、どれほど呪わしいことでしょうか。  たとえば同性愛や強姦といったことが問題になるのは、それが神のかたちである人間に対する「アビューズ」であるからです。アビューズ、ということばは「虐待」と訳されますが、この「アビューズ」という英単語を分析すると、アブ、異常に、ユーズ、用いる、すなわち、性的に異常な用い方をすることが、問題となるのです。神のかたちである人を異常に扱うから虐待となるわけですが、ともかく、このソドムの連中のように、性的に異常なことは「アビューズ」であり、これは、人が何と言おうと、どんなに美化しようと、神さまの視点、聖書の視点から見るとそうなります。  私たちが普段、当たり前のように接している、映画やテレビ番組や音楽、小説のような文学、演劇、雑誌やインターネット、これらのものには、性的に堕落した文化が詰め込まれていて、あたかも、性的に堕落することは仕方ないとか、格好いいとか、そういうように喧伝します。私たちクリスチャンはそのようなこの世の毒に慣らされてはいないでしょうか? この創世記19章、合わせて38節分の短い箇所の中に、いろいろな立場の人物が登場しますが、私たちはだれに似ていますでしょうか? よもや私たちは、このソドムの連中のような存在に与(くみ)する者となってはいないでしょうか?  私たちは、私たちのうちに形づくられている神のかたちを、アビューズしてはなりませんし、神のかたちをアビューズするこの世の文化を格好いいとか、しかたないなどと考えては決してなりません。もし、そう考えていたならば、私たちはすぐにでも悔い改める必要があります。それを格好いいなどと考えるならば、神のみこころにかなって物事を考え、判断すべき私たちの霊、また頭脳を、それこそ「アビューズ」していることになります。  しかし、「アビューズ」という点では、ロトも同じだったようです。ロトは、自分の処女の娘たちを差し出そうとしました。そうまでして、御使いたちを彼らの魔の手から守ろうとでも思ったのでしょうか。しかし、これはとんでもないことです。あまりに人間的で、罪深い解決策というものです。 結局、11節にあるとおり、御使いたちはソドムの連中に目つぶしを食らわせ、ロトの一家を守りました。御使いが人間どもによって何か悪いことをされることなど、ありえないことでした。このことは、主がそのご主権によって敵をさばかれるのであって、それに対して人間が何か愚策を弄するべきではないことを示しています。   ロトのこの、いざというときにめちゃくちゃな判断をする性質は、おそらく、一族にも伝わっていたのでしょう。14節にはロトの婿たちが登場します。この婿たちは、ロトとひとつ屋根の下で暮らしている娘たちの「いいなずけ」と解釈するのが、いちばんしっくりきます。実際、口語訳聖書ですとか、尾山令仁先生の訳された現代訳聖書ですとか、いくつかの聖書の訳を見てみますと、この「婿」は、この時点ではまだロトの娘と結婚していない立場として訳されていますし、原典のヘブライ語からもそのように訳すことが可能です。 ともかく、ロトはこの未来の花婿たちを説得しようとしました。しかし、彼らはこのさばきの知らせを本気にしませんでした。悪い冗談、とありますが、別の訳では「たわごと」などと訳しています。このことは、ロトが普段、一族に対していかなる霊的リーダーシップを発揮していたかを、如実に示してはいないでしょうか? いざというときの真剣な話でさえ、信じてもらえないという。結局、彼らは本気にしなかったことにより、天からの火によって焼き滅ぼされてしまいました。   さて、ロトが婿たちを訪ねたのは、12節にあるとおりの、御使いの警告があったからでした。「あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな連れ出しなさい」とあります。しかし、ロトが声をかけたのは、19章全体を読んでも、婿たちだけのようです。 それなら、ロトには息子、娘がいるのに、声をかけなかったのでしょうか? それとも御使いたちは、全能の主の知恵が与えられているはずなのに、ロトに息子や、家の外に暮らす娘、あるいは一族はいないことを知らなかったのでしょうか?   これは、この聖書箇所の前後関係から考えると、ロトには息子や、一緒に暮らしていない娘はいなかったと考えるべきです。声をかけているのは婿たちだけだからです。それでも御使いたちがそのようにロトを促したのは、これは、ロトひとりの問題ではなく、後世になってこのみことばを読むすべての人、ひいては私たちに対する警告のためではないでしょうか?  コリント人への手紙第一10章11節には、旧約聖書の記述は何のためにあるのかということが書かれています。このように語られています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」  私たちは、創世記19章のこの記述からどのような教訓をいただくのでしょうか? 息子や娘、婿のような身内の者がいるかぎり、この世の終わり、崩壊を警告する使命が与えられている、ということにならないでしょうか? 私たちは、愛する家族を救うのです。そのために、語るべきことを語るのです。 もちろん、その警告をどう受けとるかの責任は、最終的に彼らが負うことになりますが、それでも私たちには最低限、彼らを説得する責任があります。もちろん私たちには、それを冗談と取られないような、説得の知恵も必要ですし、何よりも、そのリーダーシップに信頼してもらえるだけの信頼関係が必要です。ロトのように、冗談としかとられなかったら、それこそ終わりです。  結局、婿たちの説得に失敗したロトは、それでもぐずぐずしていました。しかし彼は、御使いたちにせき立てられ、ついには妻、そして二人の娘とともに、手をつかまれて連れ出されます。これは、主のあわれみによることであると、16節のみことばは語ります。   私たちはこの世に滅亡が訪れることを、本気で信じているでしょうか。残念ながら、私たちはまだ、この世界というものを買いかぶっています。まだ、この世界がよいものであるかのように思っています。しかしはっきり申しますと、これほど堕落した世界をまだ神さまが滅ぼさないでいてくださっていることは、神さまのあわれみ以外の何ものでもありません。 私たちは、聖書全体に記された神さまの怒りというものに目を留めるならば、どれほどこの怒りからかくまってほしいと思うことでしょうか。イエスさまの十字架に逃げ込まなければと思うことでしょうか。   しかし、この世界に注がれる怒りから人が救われるのは、ひとえに神さまのあわれみによることです。私たちの努力以前の問題です。神さまはみこころのままに人を救い、人を用いられます。私たちも人の救いのために用いられることを願い、祈って行動しますが、その結果だれかが救われたならば、それは私たちの努力の結果以前に、神さまがその人をあわれんでくださったからです。私たちは自分の行いを誇るのではなく、神さまのあわれみに感謝すべきです。  実際、私たちにしても、そのような神さまのあわれみによって救っていただいた存在です。しかし、救っていただいたならば、あとは何をしても許されるのではありません。いのち拾いをさせてくださった神さまのおっしゃることに従うべきです。ロトの話に戻りましょう。このとき御使いは、ひとつのことをロトに命じられました。17節です。  滅びというものは、私たちが考える以上に壮絶なものです。しかし、この世というものの持つ魔力は、なんとわれわれのことを惹きつけてやまないことでしょうか。私たちは世界が滅びに定められていると知るかぎり、そこから全力で逃げ出すべきなのに、まだこの世に未練を持ち、やり残したことにうじうじと拘泥するのです。 結局、ロトの妻はみことばを守らず、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。そんなにとどまりたければ、そこに永久にとどまるがいい、柱にして永久に立たせてやるから……そのような主のさばきが下ったかのようです。私たちがもし、天国よりもこの世を愛するならば、このようなさばきが下されてもなにも文句が言えないことになります。   一方、ロトは別の意味で不信仰でした。御使いははっきり、山に逃げなさい、と言っています。御使いがそう言った以上、どんなに天からの火が迫ってきていても、全力で逃げるならば逃げられるのです。要は、ありったけの力を込めて逃げることです。自分を救うために死力を尽くすのです。しかしロトは、私たちはきっと山にまで逃げることはできませんから、あそこにある小さな町に逃げさせてください、と御使いに楯突きました。   しかし御使いはそのことばを聞き入れ、ロトがその町、ツォアルに逃げるまで、さばきの手を下すことはしませんでした。これも主のあわれみによることです。しかし、ロトはそうなるまで、二重の間違いを犯しています。まずロトは、主のみこころを信じず、主のおっしゃるとおりにするならば滅びる、と言っています。これは不信仰です。 そればかりではなく、自分の考えに従って、別の提案をしています。小さな町に逃げさせてください、と。これは、神さまのみこころよりも自分の考えを優先させる、不従順です。不信仰と不従順、ロトはそういう2つの罪を犯したのです。しかし神さまは、そんなロトの言うことを聞いてくださり、ロトのことを救われたのでした。   神さまが救ってくださったのは、なぜだったのでしょうか。29節のみことばをお読みしましょう。……それは、神さまと契約を結んだアブラハムのゆえでした。   先週のメッセージでも少し触れましたが、ペテロの手紙第二2章7節のみことばは、以上見てきたとおり、これほど信仰的におかしかったロトのことを、それでも「義人」と呼んでいます。その根拠として、ソドムの連中の振る舞いに心を日々痛めていたことを続く8節で挙げていますが、彼がそのような良心を持てるほどの義人だったのは、ひとえに、アブラハムのとりなしの祈りがあったからです。神さまはアブラハムのその義に目を留めてくださり、ロトをこの滅びの中から救い出してくださったのでした。   だが、そのようにして滅びから救っていただいたロトは、きわめて不道徳なことを行いました。娘たちが自分たちの子孫を残そうと、こともあろうに父親であるロトと性行為をして、妊娠しました。それはロトにしてみれば、お酒に酔った上でのことであり、ロトは自分が何をしたか全くわからなかったとみことばは語りますが、だからといって、彼がしたことは免責されるものではありません。立派な罪です。酒の上でとばかりにセクハラやパワハラを働くおじさんがいますが、それが許されることではないのと同じです。   ロトが娘たちにはらませた子どもは、モアブ人とアンモン人の先祖となりました。この両民族は旧約聖書を読めばわかるとおり、イスラエル民族に激しく敵対する存在となりました。どれほど敵対したか、それは、申命記23章3節から6節に書かれているとおりで、彼らの祝福を祈らないことは主の命令ですらありました。   しかし、このような中にも、主のあわれみは注がれました。モアブ人の女性、ルツは、マフロンというイスラエル人に嫁いだことから主の会衆につながる道が開かれ、のちにイスラエル人のボアズと再婚したことで大きな祝福を得て、その子孫にダビデ王が生まれました。そのダビデの子ソロモンのあとを継いだ王レハブアムは母親がアンモン人のナアマという人であり、つまりソロモンはアンモン人の女性との間にあとつぎをもうけたことになります。   すると、どういうことになるでしょうか? ダビデ王家はモアブ人とアンモン人双方の血が流れていることになります。このダビデ王家のすえにおられる方はどなたでしょうか? イエスさまです! ということはイエスさまの先祖は、モアブ人でもあり、アンモン人でもあるのです。   全能の神さまの御前に、宿命ということはありません。神さまはみこころのままに人をお救いになり、人を立てられます。こんな血筋に生まれたから絶望するしかない、ということは、主にあってあり得ないことです。…

とりなし手となろう

聖書箇所;創世記18:16~33 メッセージ題目;とりなし手となろう 先日、東京を中心に「路傍伝道」、道行く人々に福音を伝える働きをなさっている、菅野直基先生という方とお話しする機会がありました。路傍伝道を展開される際の苦労話などいろいろお伺いしましたが、中でも面白い、というか、クリスチャン生活全般において実に示唆に富むできごとについても分かち合ってくださいました。 それは、とりなしの祈りの持つ力についてです。それは原宿の竹下通りで伝道していらっしゃったときのことだそうですが、道行く人々にチラシを配ろうとしてもなかなか受け取ってくれない。ちょっと、霊的な妨げのようなものを感じたのだそうです。 すると、その伝道チームのうちの何人かが、とりなしの祈りをすることを買って出て、祈りはじめました。すると、不思議なように、するするとチラシを配ることができるようになったそうです。このことについて菅野先生は、イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、とりなしの祈りをささげるモーセの天に挙げた手を両側から支えた、アロンとフルのようだったとおっしゃいました。 今日は、とりなしの祈りについて学びます。本日の箇所のアブラハムの姿から、私たちもとりなして祈る者となるために何を学ぶべきか、ともに見てまいりたいと思います。 先週学びましたとおり、神さまと御使いたちの一行が、アブラハムのもとを訪ねてきました。そのとき、サラの不信仰が取り扱われたというのが、先週学んだ内容です。今週の箇所は、それに引きつづく箇所で、主はアブラハムに語っておられます。これもまた、主がアブラハムのもとを訪ねてこられた目的でもありました。 16節です。……主はソドムを見下ろしておられました。神さまが来られた目的は、ソドムに対するさばきにありました。このことについてはあとで詳しくお話しするとして、17節以下の主のみことばをまず見ておきたいと思います。 17節のみことばです。……主はすべてを超えて存在される、大いなるお方です。まことに、主のみこころは計り知れません。だからこそこのお方は、神さまであると言うことができるでしょう。しかし、このお方はときに、みこころにかなう人に対し、その隠されたみこころをお示しになることがあります。 このとき、主がアブラハムを選び、そのみこころをお示しになったこともそうでした。アブラハムが主のみこころを知ることができたのも、まさしく、主の一方的なあわれみのゆえでした。 私たちも、神さまの隠されたみこころを受け取ることができます。それは、聖書に余すところなく示されています。ただし、私たちがみこころを受け取るには、この聖書が誤りなき神のみことばであると受け入れていることが条件になります。 まさしく、アブラハムが目の前におられる方のお声を主のみことばと受け取れたように、私たちも、この聖書のことばを神のことばとして受け取ることです。主は、大いなるみこころを、私たちに示してくださいます。 それでは主は、何をアブラハムに隠さないで示してくださったのでしょうか? それはソドムとゴモラに対するさばきですが、その前提として、神さまがどれほど、アブラハムを特別な存在として選んでおられたか、そのみこころが描写されたみことばが登場します。それが、17節から19節のみことばです。 18節をご覧ください。主はアブラハムとその子孫を祝福されることを宣言されました。この宣言は、すでに、創世記12章、13章、15章、17章で語られ、聖書に記録されているだけでも5度目になります。主がこの年老いたアブラハムから祝福の子孫を生まれさせてくださるということを、これでもか、これでもか、と語ってくださったのでした。 私の神学生時代、弟子訓練という形で私の霊的ケアをいっしょうけんめいしてくださった牧師先生、ホン・ジョンギ先生という方は、よくおっしゃっていました。神さまとアブラハムとの関係について、それはアブラハムが神さまに「説得される」プロセスだった。とても印象に残るおことばでした。 アブラハムは信仰の父として選ばれましたが、何かの折に人間的な不信仰が現れてしまうものでした。しかしそのようなアブラハムのことを神さまは決してあきらめることはなさらず、これでもか、これでもか、と説得してくださり、そのようにしてアブラハムは、信仰の父としての成長を遂げることができたのでした。 私たちの歩みもそうです。私たちも信仰によって歩むことが必要であると知っていても、なんと人間的、肉的になってしまうものでしょうか。しかし、神さまはそんな私たちのことを諦めることはなさいません。何度でも、何度でも、私たちをみことばによって説得してくださり、信仰者としての道に戻してくださいます。 私たちもこの主の恵みに感謝こそすれ、甘えることはせずに、主の御声をお聞きする歩み、信仰者としてつくりかえられる歩みをとどめないでまいりたいと思います。 もう少し、アブラハムへの祝福の内容を具体的に見てみましょう。18節にあるとおり、アブラハムは強く大いなる国民となります。しかしそれは、自分たちだけが祝福されて、あとは祝福されない、という意味ではありません。「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。 祝福をもたらす権威が与えられている、ということは、大いなることです。もし、その人が祝福を祈ったら、その祈られた対象は祝福されるのです。その存在に対して神さまがみこころを注がれるのです。実に、神の人の祈りには、絶大な力があります。このことについては、あとの箇所で大事な意味を持つようになりますので、まずは覚えておいていただければと思います。 しかし、神さまがひとたび選ばれたならば「自動的に」祝福され、地上に祝福をもたらす存在になるかといえば、それはちがいます。19節をご覧ください。神さまがアブラハムを召し出された理由が書かれています。……まず、アブラハムがその子どもたちとのちの家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるため、とあります。 正義と公正。これが主のみこころです。しかし、これは神の民としてひとたび選ばれたならば、自動的に実践できるものではありません。そうと意識して守り行なうことが必要になります。それは、一歩間違えると、まったく正反対のこと、罪を行うようになってしまうからです。 イザヤ書5章7節を見てください。実は、「公正」と「流血」、「正義」と「悲鳴」は、表裏一体ともいえるものです。ヘブライ語で「公正」は「ミシュパート」に対して「流血」は「ミスパーハ」、そして「正義」は「ツェダーカー」に対して「悲鳴」は「ツェアーカー」、もちろんこの両者は、ヘブライ語の文字で書いてもよく似ています。 「公正」や「正義」は、神の民だからと自動的に備えることができるものではなく、むしろ、神の民であるぶん、より責任をもって「公正」や「正義」を行うべく主のみことばを積極的に守りなさい、と警告されているわけです。 そのようにして、正義と公正を行うことによって主のみことばを守ることは、どのような結果をもたらすでしょうか? 主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就する、とあります。 まことに、信仰とは、みことばを守り行なうことによって完成されるものです。間違ってはなりませんが、行いを積み重ねて救われるのではなく、救われるのはあくまで、信仰によることです。しかし、ひとたび信仰によって救われたならば、その信仰による救いのあまりの素晴らしさに、みことばを行わずにはいられない……信仰は、行いという形で生活に実が結ばれてしかるべきです。このあたりのことは、あとでおうちにお帰りになって、ヤコブの手紙をお読みいただきたいと思います。 さて、20節にまいりましょう。ここで主が、アブラハムに隠さないで伝えようとされたみこころが登場します。そうです、このソドムとゴモラの悪は、主のみもとにまで立ち上っていました。この町を滅ぼすべきか見てみるつもりだ、という、神さまのみこころを、主はアブラハムにお示しになりました。 神さまはときに、滅びをもたらすお方である……しかし、こういう聖書箇所を読むと、必ずこんな反応をする人がいるものです。残酷だ! 人を滅ぼすなんて、そんな神さまは残酷だ! そんな神さまなど信じるものか! しかし、それなら、そういう方々に問いたいのです。悪を放置することが神さまの愛なのでしょうか? 悪が放置されているならいるで、問題にはならないでしょうか? なぜこの世界にはこんなにも悪があふれているのか! 神はいるのか! そういうことにならないでしょうか? 聖書は、そのような悪の中にいる者たちに対して、神さまは速やかにさばきを行われるお方であると語っています。私たちが信じるべきは、このさばき主なる神さまです。恐れるべきお方です。私たちも本来、神さまのさばきを受けるに値する罪人であったことを覚える必要があります。 しかし、このみこころが示されるや、アブラハムは神さまの前に立ちはだかりました。23節です。 もし、悪い者がその悪さのゆえに滅ぼされるならば、ある意味、彼らは自分のその悪の責任を取らされたということであり、しかたのないことでしょう。しかし、その中に正しい人、すなわち、神さまのみこころにかなった人がいて、その者たちまで彼らの巻き添えになるとしたらどうでしょうか。あってはならないことです。それこそ、神さまご自身の正義と公正はどこにあることになるのでしょうか。 アブラハムは、神さまが正義と公正のお方であることに訴えました。正しい人が50人いれば滅ぼさないでください! すると、神さまはこの訴えを聞いてくださいました。26節です。その人たちのゆえに、その町のすべてを赦そう。 むかし読んだ本、それは聖書に関するキリスト教書籍というよりも、一般の世界史の謎のような本でしたが、神さまが悪に満ちたソドムとゴモラを天の火をもって焼き滅ぼされたという記事の中に、このようなことが書かれていました。「現代だったら、何度でも焼き滅ぼされているのではないだろうか。」 みなさま、そう思いませんか? このところ妻と私は、世界にどれほど悪がはびこっているか、そのようなニュースばかりに接して、暗澹たる気分になっています。今にも神さまは、こんな悪い世界など、滅ぼし尽くすのではないかと思えてならなくなります。しかし、神さまはまだあわれみをもって、この世界を滅ぼさないでいらっしゃいます。それは、神さまの御目から見て正しい人の数が、まだこの地に満ちているからではないでしょうか? イエスさまは、あなたがたは地の塩です、とおっしゃいました。地の塩とは、この世を腐敗から救う防腐剤としての役割をする存在です。食べ物が腐らないように塩するには、たくさんの塩を使う必要はありません。少しでも充分に腐らなくなります。それと同じで、私たちクリスチャンは少ないように思えるかもしれませんが、それでも私たちが塩としての役割を果たすことによって、この世界は腐敗から免れます。まさに、ソドムに50人の義人がいれば、彼らに免じて主はすべてをお赦しになるのです。わずかの義人の存在は、どれほど大事なものでしょうか。 しかし、もしかすると義人は50人もいないかもしれない。そうなったら、神さまは滅ぼされよう。しかし、それであきらめるアブラハムではありませんでした。まず27節です。 まず、祈る者にとっては、この認識が必要です。アブラハムは信仰の父として選ばれていますが、神さまの御目にはちりや灰にすぎません。神さまに何か申し上げられるような立場になどありません。そのことを悟ることが、主の御前に出る上での第一条件です。自分はひとかどの人間のように思う態度では、主の御前に出る資格はありません。 アブラハムは、ちりや灰であると告白しました。自分がそのような存在であると、心底知っていました。しかし、ソドムとゴモラを主の怒りの日から救えるかどうかは、自分の祈りにかかっていることも知っていました。さきほども学びましたとおり、地のすべての国民がアブラハムによって祝福されることがみこころである以上、彼はソドムとゴモラの祝福を祈らなければならなかったのでした。 しかし、神さまが受け入れられた条件は、義人50人でした。この条件に不足するということは、すなわち、神さまがお赦しになる条件を満たしていない、ということを意味します。アブラハムは、その条件にやや不足して、義人が45人ならば、それでもあなたさまは滅ぼされるのですか、と、神さまに食い下がりました。 神さまはアブラハムの祈りを聞かれました。滅ぼしはしない。 しかし、アブラハムはそれであきらめることはしませんでした。40人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめませんでした。お怒りにならないでください。30人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめません。あえて申し上げます。20人なら? 滅ぼしはしない。 あのソドムとゴモラに、義人がたった20人。悪が圧倒している状態です。その悪は依然として、主のみもとに立ち上ることでしょう。しかし主は忍耐して、その20人のゆえに町を赦すと約束してくださいました。しかしそれでも、アブラハムはあきらめませんでした。32節です。 しかし、これで主はアブラハムのもとを去って行かれました。アブラハムも帰りました。これが主のみこころだったので、受け入れるばかりでした。 もちろん、これほどまでにアブラハムが祈りつづけたのは、愛する甥のロトの存在を思ってゆえでした。彼には助かってもらわなくては! 天から炎が下ってはおしまいだ! しかし結果として、ソドムとゴモラには天から火が下りました。そうです。義人は10人もいなかったのです。ロトの家族しかいませんでした。ロト自身、ロトの妻、ロトの2人の娘、その夫たち……合わせて6人。逃げなさい! 主の命令が下りました。しかし、ロトの婿たちはソドムの滅亡を冗談ととらえて信じようとせず、結局、御使いに連れ出されるしかなくなり、連れ出されたのは、ロトの妻と娘たちだけ、しかも、ロトの妻は主のみことばを守らず、死んでしまいました。その娘たちもあとになって、極めて不道徳な形で子どもをもうけるということをしており、その子孫はイスラエルに敵対する民族となりました。ほんとうの意味で正しいだったのは、第二ペテロ2章の語るとおり、ロトでした。 アブラハムは、ロトに助かってもらいたい一心で、とにかくとりなしの祈りをささげました。50人なら! 45人なら! 40人なら! 30人なら! 20人なら! 10人なら! 実に6度も食い下がりました。 みなさま、こんな悪い世界など滅ぼされるのがみこころだ、自分たちはどうせ、この悪い世界から救われて天国に行くのだから関係ない、などとお考えではないでしょうか? それは絶対に主の願っておられる態度ではありません。私たちは世界を祝福する立場にあります。とりなして祈る立場にあります。 残念なことに、私たちの生きて暮らしている世界は、とても悪いです。どれほど多くの人が、神さまのみこころを損ない、その道を乱していることでしょうか。しかし私たちは、この世界にやがて主がもたらすと警告された火のさばきを、ただ待っているだけでいてはなりません。とりなして祈る必要があります。神は愛です、とみことばが語るとおりの、その神さまの愛によりすがって、どうかこの世界を滅ぼさないでください、この世界から正しい人を救い出してください、と、祈るのです。 神は愛、ということは、私さえ愛されればそれでいい、ということでは、絶対にありません。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 これがみこころです。間違ってはいけません。神は愛なのです。しかし主は、やがてこの世界を火をもって滅ぼすときのことを、みことばにおいて警告されています。その日に、義人として主の御前に立つべき人が滅ぼされてはなりません。 私たちは、愛する人のために祈っていますでしょうか? ちょっと祈っても救われないからと、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることをやめていないでしょうか? あるいは、この世界がよくなるように祈っても、少しもよくならないから、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることを諦めてはいないでしょうか? それは、地に祝福をもたらす責任を放棄していることです。いざとなればロトのことを特別に滅びから救い出された主は、この世の終わりの滅びからも、私たちの愛する人たちを救い出してくださいます。私たちはそう信じているならば、粘り強く、祈ってまいりたいものす。それが、信仰によって生きる、祝福の源としての私たちの生きる道です。…

不信仰は取り扱われる

聖書箇所;創世記18:1~15/メッセージ題目;不信仰は取り扱われる  何度かメッセージの時間にお話ししている、ダウン症のあっこちゃんのことをお話しします。彼女はとても喜んでバイブルキャンプから帰って来ましたが、そのことは、教会に深入りすることを望まないお母さんをうろたえさせ、それを見て取ったあっこちゃんは、あれだけ恵まれたキャンプを境に、ぱったり教会に来なくなりました。  そんなあっこちゃんを心配して、日曜学校の先生があっこちゃんに電話をしました。するとあっこちゃんは、こんなことを言ったというのです。……このあいだ、イエスさまが私のお部屋にやって来たの。どんな恰好かっていうと、立派な格好じゃなくて、パジャマを着ていたの。行くところがないから、あたしの部屋にやって来たんだって!  先生はそれを聞いて感動されたそうです。私はその話を日曜学校の先生にお伺いして、ああ、よかったなあ、と思ったものでした。あの純粋な信仰を持ったあっこちゃんには、イエスさまのお気持ちがよくわかるのだろうなあ、とも思いました。  もし仮に、イエスさまが私たちの家にやってきたら、私たちならどのように接するでしょうか? ちゃんとお迎えして、おもてなしするでしょうか? それとも、イエスさまだとわからなくて、面倒をかけないでよ、と、追い出してしまうでしょうか? ちゃんとお迎えできる、子どものような信仰を保っていますでしょうか?  さあ、今日の箇所は、アブラハムが神さまをお迎えし、おもてなししたというお話です。神さま、そしてその使いが人の姿を取ってこの世界に臨んだという記述は、創世記18章と19章に登場しています。18章はアブラハムの一行のいるマムレの樫の木の場所、19章はロトのいるソドムでのお話で、とても対照的です。今日は18章の、アブラハムが神さまとその使いの、3人のお客さんを迎えた場面から学びます。  主とその使いは、人の姿を取って、アブラハムのとどまっていた天幕の前までやってきました。アブラハムはこのお方がどなたなのか、たちどころに分かりました。アブラハムは急いで走っていって、この一行をお迎えしました。  神さまはご自身の時に従って、私たちのうちに臨まれます。このときもアブラハムは、神さまが臨まれるというご予定を知らずにいました。しかし現れたのが神さまだと知るや否や、すぐに走っていきました、 先月学びました、ヨハネの福音書11章のみことばでは、イエスさまが神の時、神さまのタイムスケジュールに従って歩まれたことを学びました。神さまの時は、しばしば人の予測するときとは異なるものです。また、神さまは思いがけない時に臨まれます。 このときのアブラハムもそうでした。お客さんを迎えに走っていく、これは普通、アブラハムの生きた中東の習慣にはないことです。しかしアブラハムは神さまの御前だからと、なりふり構わず駆けよっていきました。神の箱の前で恥も外聞も捨てて踊り跳ね回ったダビデ、イエスさまに再会したけれども裸だったのでうれしはずかし、服をまとって湖に飛び込んで泳いでいったペテロのようです。まさにイエスさまのおっしゃる、子どものように神の国を受け入れる人! アブラハムは年長の男性としての威厳も捨てて、子どものようにこの一行に駆け寄り、まず、ひれ伏して礼をしました。そして、足を洗うための水を用意しました。まさしく、おもてなしです。そして、「食べ物を少し持って参ります」と言っていますが、約23リットルとたっぷりの小麦粉でパン菓子をつくらせ、柔らかくておいしそうな子牛を料理させました。この野にある天幕生活にあって、最高のおもてなしです。 アブラハムは、神さまと契約を結んでいただき、永遠のいのちに生かされ、また、のちの子孫、すなわち、アブラハムのように信仰をもって主を受け入れる人たちもまた永遠のいのちに生かしていただくという約束を神さまからいただきました。アブラハムはどれほど、神さまに感謝していることでしょうか。その感謝の表現が、こうして、ささげ物をもってするもてなしへと実を結んだのです。 そしてアブラハムは、自分も食卓にあずかったわけではありません。給仕をしています。先週学びましたラザロの三きょうだいの箇所でも、マルタはイエスさまをはじめ、お客さんたちに給仕をすることによって、主を礼拝する表現をしています。アブラハムのこの箇所でも、奉仕とは信仰の表現、礼拝の表現であることがわかります。 子どものように神の国を受け入れる、と申しました。しかし、子どもっぽい、つまり分別がない、しつけられていない子どものような状態では困ります。そういう幼稚な状態では、仕えることよりも仕えられることを求めるようになります。それではいつまでたっても、神の子どもとしての成長を期待することはできません。 「子どもっぽい」と「子どもらしい」はちがいます。アブラハムの場合は「子どもらしい」です。全能の神さまがみわざをなしてくださると語られたら、そのとおりに素直に信じる。神さまの御前に出るときには、後先のことを考えないで、持てるかぎり最高のものをおささげする。こういうことが大人になると、できなくなる人がなんと多いことでしょう。 私たちは子どもの信仰、素直に神の国を受け入れる信仰を保たせていただきたいものです。神の国……信仰によってイエスさまを受け入れた者たちを、主ご自身が統べ治めてくださる御国、それは私たちのただ中に実現させてくださるもので、神の国を実現させていただくには、なによりも、私たちが子どものようになることです。 神さまはこのように、アブラハムに対し、幾たびかの訓練をとおして純粋な信仰をくださいました。特に、この年老いた身から男の子を生まれさせ、その子孫が星の数のように増やされるという約束を受け入れるとは、どれほど純粋な信仰へときよめられたことでしょうか。しかし、アブラハムがこの信仰を持つことができたように、私たちもこの信仰を持たせていただくことができるのです。それこそ、信仰を働かせてまいりましょう。 しかし、アブラハムのこの信仰が完成させられるために、その信仰が取り扱われなければならない人がいました。それはサラです。 神さまははっきりと、90歳になるサラから男の子が生まれ、その男の子から子孫が増え広がることを約束されました。しかし、このことをアブラハムは信じ受け入れましたが、サラの場合は、それを信じ受け入れるためには、神さまが直接介入してくださることを必要としていました。 私は男なので感覚的にわからないことばかりですが、女性にとっての生理というものは、いわく表現しがたい感覚になるものと聞いております。しかし、女性の方が月に1回の生理を迎えるなら、そのなんともいえない苦痛とともに、血を流されることによって、女性とはいのちを生み出す存在であることをとても実感されるのではないかと想像します。まさに聖書の語るとおり、血はいのち、それが如実に実感できるように、神さまは女性という存在に生理というものを許されたのかもしれません。 サラは、生理が止まって久しくなっていました。90歳にもなるのだから当たり前です。ただでさえもともと、サラは子どもを産めないまま生きてきました。しかも生理まで止まって、90歳にまでなってしまいました。神さまから何と言われようとも、サラの絶望はリアルです。なんと言っていますでしょうか? 12節です。   ……私も老いぼれた、主人も老いぼれた、私にはもはや、子どもをもうける楽しみなんてあるわけないでしょう、ご冗談はおよしください……。サラは、おのが身の悲しさに、心の中で薄笑いを浮かべました。  この笑いは、それまでの人生において子どもを与えてくださらなかった、神さまへの怒り、抗議、また、絶望も多分に含んでいると言えましょう。この時代は、子どもが与えられないということは、その人は祝福されていないと世間に思われていました。アブラハムもサラも子どもを欲しがり、召し使いのハガルによって子どもを産ませるということをしたくらいです。しかし、しょせんその子どもはサラが直接はらんで産んだ子どもではありません。ハガルの存在はサラにとってとても疎ましいものとなってしまう、という悲しい結果を生みました。  神さま、あなたは私にこの齢になるまで、子どもを与えてくださらなかったじゃないですか。子どもを産む? 今さら何をおっしゃるのですか。冗談ではありませんよ。もう、怒る気も起きませんわ。サラのそんな深い悲しみも見えてくるようです。  しかし、アブラハムが信仰の父であるかぎり、サラは信仰の子どもたちを数限りなく産む、いわば「母親」です。彼女の不信仰は神さまの御手に取り扱われる必要がありました。13節、14節をお読みしましょう。  まず13節です。主はサラの感情をお見通しでした。主は、サラの不信仰を問題にされました。しかし、よくご覧ください。すぐそばにサラが立ってはいましたが、この厳しい質問を投げかけられた相手は、アブラハムです。  つまり、サラの信仰が確立するか否かは、アブラハムの信仰にかかっていて、さらには、その信仰をもとに、どれほど普段からアブラハムがサラを教えていたかにかかっているということです。  もともと、サラが子どもを産むというお告げを受けたのはアブラハムです。それならばアブラハムは、普段からサラに対し、あなたは男の子を産む、信じなさい、と教えるべきでした。しかし、このように主が現れて直接語られる、という、千載一遇のチャンスに、みじめにもサラは、不信仰の姿をさらしてしまいました。それはアブラハムの責任でもありました。 12節でサラはアブラハムを、「主人」と呼んでいます。この呼び名は重要です。これは第一ペテロ3章6節にある、サラがアブラハムを「主」と呼んで従った、という記述の重要な根拠になります。しかし、責任が重いのは、従う側のサラではなく、従わせる側のアブラハムです。いざというときに不信仰の態度を示してしまったサラの責任を、神さまはアブラハムに問うていらっしゃいます。  では、なぜ、サラは信じなければならなかったのでしょうか。笑ってはならなかったのでしょうか。それは14節に記されているとおりです。  まず、主にとって不可能なことがあるだろうか、いや、ない。主は全能だからです。生理が止まったすでにおばあちゃんになって久しいサラからでも男の子を生まれさせてくださり、その子から子孫を星の数のように生まれさせてくださることなど、全能なる神さまには当然おできになることです。  しかし、この全能のみわざは、神さまの時に従って行われることです。「来年の今ごろ、定めた時に」とあります。神さまがみこころによって、みわざを行われる時を定められます。サラにとってその「時」とは、90歳のおばあちゃんになったときだった、というわけです。このことにより神さまは、ご自身が全能の神さまであることをお示しになられるというわけです。  人が思い描く時というものと、神さまが計画しておられる時というものは、しばしば異なるものです。イエスさまがラザロのもとをお訪ねになるのも神さまの時に従われた結果で、そのことによって、ラザロは死んだがイエスさまによって生き返らされ、イエスさまが全能の神さまであることが示され、主のご栄光が顕された、というわけです。  私たちにしても、自分の思い描いていることが実現しないでやきもきすることもあるでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。つねに実現するのは、神さまの時です。そして、それが最善なのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるとおりです。  だから私たちは、神さまが時にかなって実現してくださるみこころを信じ、握りしめているものを手離す決断もときに必要です。私たちが何らかの計画を立てることもたしかに大事ですが、それ以上に大事なのは、ヤコブの手紙4章15節にあるとおり、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と、私たちの生活のすべての領域において、その時に従ってみわざを行われる主のご主権におゆだねすることです。  さて、サラは、このように何もかもお見通しの主のおことばに、怖ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と言いました。しかし、主は容赦されません。「いや、確かにあなたは笑った。」  サラの不信仰は、世間の常識で考えれば、思い描いて当然のことと思われるでしょう。おばあさんが出産するだなんて! しかし、主の御目には、これは罪なのです。主のおっしゃること、主のご計画を信じていないことは、どんな理由づけをしようと、罪は罪です。  さらにその上、サラは自分の不信仰が問われると、自分は否定的な反応、皮肉な反応をしなかったと、ごまかしました。しかし、主は容赦されません。あなたは確かに笑った、あなたが不信仰の罪を犯したことをきちんと認め、悔い改めなさい、と迫られます。  あなたは確かに笑った。このお取り扱いは、私たちにも向けられています。書店のキリスト教のコーナーをご覧ください。図書館のキリスト教のコーナーをご覧ください。テレビなどで放映されるキリスト教に関する番組をご覧ください。  それらのものは相当多くが、聖書の記述が現代の科学や常識と合わないからと、むりやり合理的な説明をしていたり、さらには、聖書の記述が間違いであるかのように語ったりしています。まさに、サラのごとく、神さまが全能であることを信じず、全能の神さまに対してうすら笑いを浮かべているのです。  世の中の人々は、そういうものがキリスト教だと思わされています。しかし、それはキリスト教を「標榜」しているだけで、アブラハムが持つ純粋な信仰、子どものような信仰からしたら、あまりに距離がありすぎるものです。私たちは、書店に並んでいるからとか、図書館に並んでいるからと、それらの信仰的ではない資料に権威を覚えたりする必要はありません。  しかし、このサラのうすら笑いは、この世界に生きる私たちもしばしば心にいだいてしまうものであることを、謙遜に認める必要があります。私たちは果たして、聖書と、テレビ番組と、どちらを信頼しますでしょうか? 聖書と、家族の言うことと、どちらを信頼しますでしょうか? 私たちがこの「世間」というものに囲まれているということは、それだけ、その「世間」で通用する「常識」というものが、私たちを純粋な聖書信仰から遠ざけてしまうものであるということを、私たちは認め、そこから守られるように祈る必要があります。  本日から始まる「いのちの道コース」は、アブラハムのように純粋な信仰を持つ上で、そして、サラのように神さまのみことばに対して皮肉な笑いを浮かべない、主に喜ばれるものとなるために、ぜひとも教会全体で共有してまいりたい学びです。しっかり取り組むことで、アブラハムの信仰を受け継ぐ、すなわち、主を信じることによって義と認められる、という、その信仰を受け継ぐ、主に喜ばれる者として整えられる体験をしてまいりたいのです。  もう一度問います。私たちの信仰は子どものようでしょうか? 子どもっぽい、ではなく、子どもらしい、です。この子どもらしい信仰により、私たちは心からささげる生き方、仕える生き方をしてまいります。神さまのみことばを疑わずに、笑わずに受け入れるようになります。もし、私たちのうちに不信仰があるなら、神さまのお取り扱いの御手にゆだね、純粋な信仰を持たせていただくように、ともに祈ってまいりたいものです。 純粋な信仰――その信仰が私たちのうちにともに育てられ、神さまに喜ばれる共同体となることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

三きょうだいに学ぶ礼拝

聖書箇所;ヨハネの福音書12:1~11/メッセージ題目;三きょうだいに学ぶ礼拝  もし、みなさんが、2000年前のパレスチナの、エルサレムにほど近い、ベタニアという町にいたとしましょう。その町には、三人で肩寄せ合って暮らしている、けなげなきょうだいがいました。ところがその家は、その中の男のきょうだい、ラザロが亡くなるという悲劇に見舞われました。 そのおうちでラザロのお葬式が執り行われ、人々はわんわん泣いている姉妹たちを慰めてあげたりしました。ところがそこに、この三きょうだいが慕ってやまない、イエスさまがやってきて、ラザロを生き返らせました。もちろん、このことは大変な話題となりました。ところがイエスさまは、このできごとのあとに、姿を消してしまいました。  さて、ユダヤの一大イベントの過越の祭りがあと6日に迫りました。そのとき、イエスさまは再び現れ、この三きょうだいのもとに来られました。たくさんの人が集まります。さあ、みなさんならここに来たいと思いませんか? あのよみがえったラザロに会えるのです! いえ、それ以上に、ラザロをよみがえらせたイエスさまに会えるのです! それもごはんつきです! 私なら行っちゃいます。  さあ、それでは、みなさまもこの復活パーティーの現場にいると思って、今日のみことばからともに恵みをいただいてまいりたいと思います。  このパーティーは、イエスさまをお迎えしてのパーティーです。シモンという人の家を借りて行われましたが、このホスト役は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいです。この三きょうだいは、イエスさまへの礼拝という観点から見て、実に際立った模範を示しています。  まずはマルタから見てまいりましょう。マルタは、奉仕をもって主を礼拝しました。言い換えれば、マルタは彼女の「現在をささげました」。  2節のみことばをお読みしましょう。「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」  ベタニアの人たちは、食事を用意することでイエスさまをもてなす奉仕をしました。しかしこの中で、ホスト役として腕を振るっていたのはマルタです。「マルタは給仕し」と、わざわざ書いてあるとおりです。  マルタにとって、仕えること、特に食事の奉仕をすることは、賜物とさえ言えるものでした。ルカの福音書10章で、イエスさまのご一行をこの三きょうだいの家がお迎えしたという場面が出てまいります。そのとき、マルタが忙しく立ち働いていたことが記録されています。ただ、忙しさにわれを忘れ、手伝ってくれない姉妹のマリアを叱ってやってくださいな、と、イエスさまに言いつけるようなことをしてしまって、かえってそのせいで、イエスさまに注意されています。  それでもマルタは、こうしてイエスさまをはじめ、やってくるお客さんたちをこうしておもてなししているのは、やはり奉仕というものが、マルタにとっての賜物だったからといえるでしょう。  賜物を用いて奉仕するということは、現在自分に与えられているものを用いて主を礼拝するということでもあります。礼拝とは、いまこうして、日曜日の午前10時半から1時間ほどの時間を用いて礼拝することだけを指しているのではありません。もちろん、この時間もとても大事な礼拝の時間ですが、ローマ人への手紙12章1節には、何と書いてありますでしょうか?「ですから、兄弟たち。私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」  からだをもって献げることがふさわしい礼拝……以前の訳の聖書では、この「ふさわしい礼拝」ということばを、「霊的な礼拝」と訳しています。それは、現在持てるものをことごとくささげる生き方をする、ということであり、それが聖徒としてふさわしいことであり、また霊的である、ということです。 マルタは、イエスさまやその一行、また、そのほかにやって来た人たちをもてなすという、いわば「労働」をしました。それは、体力があってこそ可能なことであり、マルタはいわば、今与えられている「健康」を主にささげたことになります。 また、やってきた人たちは彼女の近所の人、友達、知り合いであることを考えると、マルタは、彼らのことをイエスさまの御前に導くという点で、「人間関係」を主にささげてもいます。もちろん、自分で食べ物や飲み物も用意したでしょう。「財物」もささげています。 私たちが「奉仕」をしたり、「伝道」をしたり、「献金」をしたり、といったことは、そういう文脈で考えると、「ささげる」ことではありますが、この世で言うところの宗教行為と同じとは言えません。そうすることで私たちの霊的ステージを上げて、より天国に近づく、などと考えるのは大間違いです。 私たちはすでに、イエスさまとその十字架を信じる信仰によって、天国に入れていただいています。何かの努力や犠牲で天国に入ろうと思ったり、またそのように人に教えたりすることは、絶対にしてはなりません。 しかしそれでも、私たちはこの与えていただいた救いの恵み、天国の恵みに何か応えたくはならないでしょうか? 生活に行いの実が結ばれていくのです。 行いの実が結ばれていくプロセスで、私たちは、私たちに財物が与えられていることに感謝して、お金をささげる「献金」や、ものをささげる「献品」をするのです。救いを与えてくださった神さまを礼拝する喜びを伝えたくて、与えられている人間関係に感謝しつつ「伝道」をするのです。健康や技術が今自分に与えられていることを感謝し、その感謝の表現として「奉仕」をするのです。 すべては、現在の自分をもってささげる礼拝のあり方で、ローマ12章1節のみことばに従順にお従いする「表現」です。 そういうわけでマルタは、現在の自分をささげました。もちろんこれは、宗教行為などというレベルの話ではありません。きょうだいラザロを復活させてくださったイエスさまは、ご自身語ってくださったとおり、よみがえりであり、いのちであり、イエスさまを信じる者は死んでも生きる。生きていてイエスさまを信じる者は、決して死ぬことがない。……このイエスさまを前にして、マルタは正しい信仰を持たせていただいたわけです。 本来罪に死ぬはずだった私が生かしていただいた。永遠のいのちを与えていただいた。この信仰を持たせていただいたことに感謝して、マルタは自分の「現在」をおささげしたのです。 私たちの礼拝も、イエスさまによって罪赦されて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを与えていただいたことに由来するものです。この時間にささげている礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、すべては永遠のいのちへの応答、感謝の表現です。私たちはこの永遠のいのちの恵みに感謝して、真剣に私たち自身をささげてまいりたいと思います。 次に、マリアを見てみましょう。マリアは彼女の、「未来をささげました」。 3節をご覧ください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 この短い記述をよく読むと、マリアがイエスさまに対して何をしたか、実にいろいろなことがわかってきます。 ナルドの香油、これは嫁入り道具です。とても高価なものです。一リトラ、これは欄外の脚注によれば328グラムであり、よく女性の方や男性の方が手にしておられる香水の瓶よりもよほど分量があります。並行箇所であるマルコの福音書14章によれば、この女性はこのナルド香油の壺を割ってイエスさまに注いだとあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。 彼ら三きょうだいがイエスさまとそのご一行をもてなした場所は、さきほども申しました、シモンという人の家です。しかしこのシモンは、マルコの福音書によれば、当時差別されていた病気、ツァラアトの患者でした。そんな人の家であったことを考えると、この三きょうだいの経済状況は推して知るべしです。そんなマリアが嫁入り道具に取っておいたナルドの香油は、売れば300デナリにもなります。それは、1デナリが一日分の賃金に相当することを考えると、何百万円もする宝物です。 それは嫁入り道具、本来、花婿のために使われるべきものです。それを惜しげもなくイエスさまに注いだということは、私の花婿はイエスさまです、と、みなの前で告白した、ということです。家中に広がったナルド香油の芳香をかいだ満場のお客さんたちは、このマリアの犠牲を伴った信仰告白に、まことの花婿とはイエスさまであることを、弥が上にも実感したことでしょう。 ヨハネの黙示録に描かれていることですが、終わりの日には、子羊なるイエスさまと花嫁なる教会の結婚式が持たれます。教会は飾られた花嫁として、聖くされた姿をもって子羊なるキリストの前に出ていきます。先週、結婚式の話をしましたが、結婚式というものは、このキリストと教会の結婚式、窮極の結婚式を象徴していると言えます。 私たち教会はイエスさまというお方にふさわしくなるように、御霊によってきよめられ、整えられ、花嫁として御前に出ていくのです。まことに、私たちにとってのこの地上の歩みは、イエスさまの花嫁修業です。 マリアは、未来にだれかこの世界の男性のお嫁さんになることを諦めてでも、イエスさまの花嫁になることを選びました。なぜ、これだけの献身ができたのでしょうか? それは、愛する兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスさまに対し、自分の未来を託す信仰を持つことができたからでした。 イエスさまはラザロをよみがえらせてくださったように、いずれこの地上でいのち果てる私のことも終わりの日によみがえらせてくださり、花嫁としてくださり、永遠にイエスさまともに生きる者としてくださる……その信仰をマリアは、自分の持てる最高のもの、嫁入り道具の香油をささげ尽くすことにより、はっきりと表明したのでした。 このことをイエスさまは、7節のみことばで、このように評価していらっしゃいます。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」 マリアは、イエスさまが兄弟ラザロをよみがえらされたことが宗教指導者たちを激怒させ、彼ら宗教指導者たちが、イエスさまを死刑にするために捜査をはじめたことを知っていました。もはやイエスさまに残された時間はわずか、自分もイエスさまに会える時間はわずかしかない……マリアは、そのわずかの時間に懸けたのでした。 礼拝とは、イエスさまの死と復活にあずかることです。本日の礼拝において「主の晩さん」が執り行われますが、「主の晩さん」はイエスさまの死にあずかることであり、私たちにとっては極めて大事なものです。これを守ることは、イエスさまの死と復活にあずかり永遠のいのちをいただいた私たちにとって、本来、欠かすべからざることです。 しかし、イスカリオテのユダはここで何と言っているでしょうか? 一見すると「正論」ともいえることを主張して、マリアを責めました。こんな高価なナルドの香油をむだにしたとは何事か、これを売れば貧しい人に施しができたではないか……。 しかし、これは一理あるように見えても、イエスさまの御目にはそうではありませんでした。貧しい人を助けることはいつでもできる、しかし、わたしの葬りの備えをすることは、このとき一回限りだ。そのままにさせておきなさい。 もちろんイエスさまは、貧しい人を助けるな、とおっしゃったのではありません。時と場合を見極めよ、とおっしゃったのです。よく言われることですが、ベストの最大の敵はベターです。貧しい人を助けるのは確かに素晴らしいことで、何もしないよりははるかにいいことにはちがいありません。しかし、それは「ベター」です。ほんとうの「ベスト」は、主の十字架と復活、再臨を忍んで、主に礼拝をおささげすることです。 私たちが主を礼拝することは、この世でクリスチャンとして善行を積み、証しを立てることに優先します。クリスチャンとしてのすべてのよい行いは、こうしてともにささげる礼拝から始まります。そこから、生活そのものを聖い生きた供え物としておささげする、生活をもってする礼拝へとつながるのです。 しかし、私たちはこのユダのことばから、さらに真剣に考えるべきことがあります。善行を積もうとすることはしばしば、罪を犯すことに取って代わられる危険があることを、私たちは謙遜に認める必要があります。 この箇所を読むと、ユダがなぜこのような発言をしたか、その背景が語られています。彼は十二弟子の会計係でしたが、この共同体にささげられた献金をひそかに盗んでいました。ユダは、マリアからナルドの香油を受け取ったらそれを売って、それでつくった300デナリの中から盗もうという魂胆だったことが、ここでほのめかされています。 しかし、残念なことですが、こういうことはクリスチャンの間でも、しばしば起こることです。私たちキリスト教会は、神さまを礼拝することに集中すれば基本的にはそれで充分ですが、ときにそれに付随して、いろいろな事業を行います。クリスチャンどうしが集まって学校を経営したり、病院を経営したり、さらには、神学校を経営したり、宣教団体を運営したりと、いろいろな働きが展開されます。 それらの働きは、クリスチャンとしてこの世界に仕えたいという純粋な意図をもって始められ、運営されているものです。素晴らしいことです。しかし、そのような意図を持った働きの中でも、金銭的な問題が起きることはあるものです。それはやはり、神さまの御前に徹底して生きる姿勢がどこかで欠けてしまっているからではないでしょうか。私たちはやはり、イエスさまの助けがなければ片時も生きていけない罪人であることを謙遜に認める必要があります。 だから私たちは、主の御前に真剣に礼拝をささげることが大事になります。礼拝はまるでともに集っている人を意識するように、形だけささげていればそれで充分なのではありません。御霊と真理によって、主の御前に徹底して礼拝をささげることです。御霊に導かれ、真理のみことばを握って、真剣に礼拝をささげるのです。 世の中の人たちは、私たちクリスチャンに対していろいろ期待することがあると思います。特に私たちには、まるでボランティアのような善行を積むことをおそらく世間は期待しているはずです。もちろん、それも大事なことにはちがいありませんが、私たちにとって何よりも大事なのは、私たちが未来のいつかの日に完全に贖われることを望み見て、今日この日に、主の十字架の死と復活、再臨を覚えて、真剣に礼拝をささげることです。 私たちのこの、善行よりも礼拝を最優先にする姿を、世間は理解せず、かえって批判したり、非難したり、あるいは嘲ったりすることもあるかもしれません。 しかし私たちは、終わりの日、贖いの日を見据えるなら、そんな世間の評価など、どれほどのことがあるでしょうか。私たちは周りがどう評価しようと、変わらずに、主に礼拝をささげ、贖いの日を待ち望むのです。 私たちの毎日は、終わりの日、イエスさまと教会との結婚に備える、花嫁修業の日です。私たちはその日を待ち望み、主の御前に徹底して、真剣に礼拝をささげる生き方をしてまいりたいものです。 最後に、ラザロの姿を見てみましょう。ラザロは彼の、「存在そのものをささげました」。 ラザロは、イエスさまに復活させていただいたいのちそのものを生きていました。そしてこのラザロは、ここではどのような存在となっていたでしょうか? 9節をお読みしましょう。「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらされたラザロを見るためでもあった。」 復活のいのちを生きるラザロは、イエスさまとともにいました。イエスさまがラザロを訪ねてきてくださったからです。私たち、イエスさまによって復活のいのちを生かしていただいている者がイエスさまとともにいさせていただく、そこに礼拝が成り立ちます。ラザロの存在がマルタとマリアを礼拝に導いたように、私たちも復活のいのちに生かされている存在そのものをもって、人々を礼拝へと導くのです。 生き証人、ということばがあります。このラザロの存在は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであられることを、雄弁すぎるほどに語っていました。まさに「生き証人」です。ユダヤ人の群衆は、イエスさまを見に来ただけではありません。ラザロを見て、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを信じるために来たのです。 ラザロは何かしたわけではありません。主のあわれみによってよみがえらせていただいただけです。 私たちも主の御前で何かしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。しかしこの存在は、イエスさまによって復活のいのちを生きる者としていただいたという存在です。…