教会とキリスト、妻と夫

メッセージ題目;「相愛の相似形――教会とキリスト、妻と夫」 今日も雨です。6月にふさわしい天候です。 6月と言えば、「ジューン・ブライド」なんていいます。6月の結婚は縁起がいい、なんて。元はと言えばこれは西洋のしきたりで、調べてみましたところ、ヨーロッパでは昔、農作業に従事する3月から5月の結婚が禁じられていて、晴れて6月になって、結婚を大いに祝福してもらえる、ということだったそうです。 日本だと、梅雨時です。こんな時期に式を挙げたら、雨でたいへんにならないか、と思います。それでよく、新郎の上司とかが、スピーチでこんなフレーズを口にするのが習わしになっています。「雨降って、地、固まる、などと申しまして……」まったく、こんなめでたい場でもお説教をするわけです。でも、ある落語家は、こういう時には言い方がおまんねん、と言っていましたからご参考に。「降るは千年、雨は万年、幸せが二人に降りこんだ。おまけに花嫁さんはビジョビジョ。」すみません、朝からくだらないことを申しました。 このエペソ人への手紙の講解シリーズも、ついにこの箇所まで来ました。私はこの箇所が大好きです。といいますのも、私は若いころから、この箇所を心にいだいて、結婚というものに対するビジョンを持ちつづけてきたからでした。 そんな私は結婚して、今年の夏で12年目を迎えます。この11年を振り返ってみますと、結婚してからのほうがむしろ、私の未熟さを痛感させられたことが多かったように思います。まことに、結婚というものの中で私は育てられ、家族ともにキリストの似姿として成長させられたことを実感します。 そんな私は、自分自身が結婚というものにそれなりの意見を持っていると自負しますが、人生経験が豊富なみなさんを前にしては、やはりへりくだるしかありません。もちろん、みなさんなりのご意見がおありだと思います。私が今日お伝えすることは、ひとりの男性とひとりの女性の結婚というものは、キリストと教会との相愛関係をあらわす、まことに不思議に満ちたものである、ということです。 今日の聖書箇所は、先週学んだ「光の子どもらしく歩むには、どうすればいいか」ということを指し示す箇所の最後の部分、「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」というみことばを受けています。そうです、キリストを恐れるということを前提に、互いに従うこと、これが、光の子どもとしてふさわしい歩みのひとつであることを学びました。 その相互の従順の関係を具体的にあらわすものとして、まずパウロが挙げたもの、それは結婚という関係です。しかしこの結婚という関係は、親子、また雇い主と奴隷という関係にもまさって、だいじに扱われる必要のある概念です。 なぜかというと、この妻と夫という関係は、キリストと教会という関係をそのまま象徴するものだからです。 教会が花嫁、ということは、よく教会でも語られていることです。私も講壇の上ですとか、いろいろなところで口にします。それはなによりも、聖書が語っていることですし、ゆえに牧師であるからには、語る必要のあることです。しかし……花嫁というものを優先的に考えると、妙なことになってしまいます。私はかつて、ある牧師先生が、教会が花嫁、ということを説明なさったとき、そこまではよかったのですが、「男も花嫁」とおっしゃったのを聞きました。会衆は笑っていましたが、ちょっとこれには違和感を覚えました。まるでこれでは、男が純白のウェディングドレスを着ているようです。そぐいません。 これは、こう考えるといいでしょう。花婿なるキリストに嫁ぐ花嫁、教会。これが先に存在し、そのキリストの象徴として主は男を創造され、教会の象徴として女を創造された。さあ、これならどうでしょう? そういえば、自分がバプテスマを受けた教会のことを、クリスチャンは、はは・きょうかい、と書いて、「母教会」と呼びます。私にとって母教会は、埼玉にある「北本福音キリスト教会」です、といった具合です。そう、母教会とは、クリスチャンである自分を生んだ教会です。でもこれは「父教会(ふきょうかい)」とはいいません。父は神さまです。神さまによってクリスチャンとして私たちのことを生んだ存在、それが教会、母教会です。そういうわけで教会は、女性名詞として呼ばれるのがふさわしい存在です。 それを前提に、22節から見てまいりたいと思います。 まず22節、これは妻たちに命じられていることです。……韓国で長年、地球村教会という大きな教会を牧会してこられたイ・ドンウォン先生という方は、かつて若者たちを前にして、この箇所から結婚を主題にしたメッセージを語られましたが、妻たちへの命令が先に来ていることを、「聖書はレディー・ファーストです」なんて、うまいことをおっしゃっていましたが、とにかく、命令は妻たちの方が先に来ています。 主に従うように、自分の夫に従いなさい……? 冗談じゃないわよ! 奥様方の心の叫びが聞こえてきそうで、ちょっとどきどきします、なんて、半分冗談ですが、これも、教会とキリスト、という前提から読み解けば、すっきりしていただけると信じたいです。 私たちはみな、キリストに従順でありたいという思いを持っているでしょう。しかし実際のところどうでしょうか? 私たちの自己中心、罪に傾きたがる肉の性質、そういったもののために、心はキリストに向いていても、なかなか従順になれないものです。それは女性であれ、男性であれ、みな一様に感じていらっしゃることだと思います。かく申します私も、心がキリストに向けて燃えていてもどうしようもなく肉が弱い、ということを、これまでにも何度も経験してまいりました。 そのような私たちでありますが、キリストに従えないことを、罪や肉の弱さを言い訳にしてはならないはずです。 私たちはいかなる場合もキリストに従えるように、主の恵みを求めていく必要があるはずです。 妻が夫に従うということは、そういう次元のことであるということを、このみことばは語っています。教会がキリストに従う、分かってはいるけれども従えない、しかし、それには一抹の後ろめたさがあるはずです。それは、キリストに従順になることがみこころであると知っているからです。 その、キリストに従うということは、具体的には生活のただ中でみことばを具体的に行うことによって実践するものです。単に修道僧のような生活をしていればいいわけではありません。神さまに礼拝さえささげていれば、それでクリスチャンとしての責任を果たしたことになるわけではありません。神さまが私たち主のからだなる教会に、具体的に与えられたご命令を守り行うこと、それが従順というものです。 このみことばにおいては、妻とされている女性が自分の夫とされている男性に、すべてのことにおいて従う、それが、神さまにお従いすることである、ということになるわけです。 23節を見てみますと、その従順の根拠が、神さまのお立てになった秩序ということで説明されています。教会のかしらがキリストであるように、妻のかしらが夫である、というわけです。 これと同じ考えは、第一コリントや第一ペテロのような書簡にも見ることができます。中でも、第一コリント14章は、教会の中で女性が教える者として振る舞うことについて、厳しく戒めていて、妻に対する夫の権威を具体的に立てています。私たち保守バプテスト同盟は伝統的に、女性の教職者を単独で教会トップの教職に立てないことを原則としてきた歴史があり、それはこの聖書の考えに基づいていると言えます。私が牧師按手を受けた韓国の長老教会の教団はさらにそれが徹底していて、今でも女性の教職者を牧師には立てません。もちろん、議論がある領域ではありますが、聖書的な根拠は充分に挙げられることです。 中でも、妻である女性のかしらがその夫の男性である、ということは、揺るがされてはならない聖書のメッセージです。まずこれは、聖書が宣言していることです。すなわち、みこころです。ご婦人方が、なによ、うちの宿六亭主を見ていると、そんなの嘘よ、とおっしゃりたくても、聖書がそう宣言しているかぎり、それがみこころなのです。 そうだとすると、自分の夫にもし従えないでいるならば、そこには後ろめたさが存在してしかるべきです。それがみことばの基準であるからです。24節と25節をお読みします。……みことばがこのように語っている以上、妻が夫に従わないことは、みこころに対して不従順であるということになるわけです。 とはもうしましても、この問題は慎重に取り扱う必要があります。それなら、みことばがこう言っているということを盾に、夫は妻に、無条件の従順を強いることができるのでしょうか? 答えははっきりしています。ノー、です。妻がそれこそ、すべてのことにおいて、夫に従うには、夫の側にもそれなりの条件があります。 25節のみことばです。……キリストはどのように教会を愛したのでしょうか? どのようにご自身をささげてくださったのでしょうか? そうです。私たちの身代わりに、十字架にかかってくださることによってです。 この十字架を信じる信仰を与えられた者は、イエスさまと結婚する教会のひと枝となった、という、契約の関係に入れられます。11年前の8月16日、私と妻はソウルの禿山という町の教会で結婚式を挙げましたが、そのとき、司式をしてくださったウォン牧師先生が、いろいろ粋な仕掛けをしてくださったもので、その中のひとつに、契約書にサインし、取り交わす、というものがありました。この人を生涯愛します、なんてことばが印刷してあって、いちばん下に、われわれのサインと日付を書き込むわけです。そしてこれを壇上のウォン先生に「提出」します。私はこれを書いたとき、いよいよこの人との結婚の契約がはじまるのか、と、感慨無量になったものでしたが、とにかく、結婚とは「契約」です。 イエスさまは、血潮を流してくださることによって、私たち主を信じる民と契約を結んでくださり、私たちを、花嫁なる教会のひと枝ひと枝としてくださいました。 やがてキリストはこの世に再び来られ、この世は終わり、天国がほんとうに始まります。そのとき天国に入れられるのは、キリストの血潮によりあがなわれた私たちであって、ほかの者たちでは断じてありません。なぜなら、血潮の契約を結んでいないからです。私が妻以外のどんな女性も、恋愛の対象として見ることが金輪際ないのと同じです。キリストが愛する対象としてご覧になるのは、私たち教会という花嫁だけです。 キリストは、ご自身を信じないような者、ご自身に最後まで敵対する悪魔の化身のような者をも、十字架であがなわれたわけではありません。たしかに、そのような者たちの罪も十字架の上で赦してくださるのですが、彼らが最後までキリストとその十字架を拒むならば、彼らの最後はそれにふさわしいものとなります。キリストはそれでも、そんな者たちさえも、無条件に天国に入れてくださるわけではありません。それなら、十字架にかかられるということ、そして信じさえすれば救われるというみこころが、何もかも無意味になってしまいます。 そういうわけでお伺いしたいことですが、夫たる男性は、キリストが愛されたような十字架の犠牲の愛を、妻に「だけ」注いでいますでしょうか? その前提がないならば、妻に従順を強いることをみことばを振りかざして正当化することなど、決してしてはいけません。 さらにみことばは、夫たちがキリストのどのようなみわざに目を留めるべきであると語っていますでしょうか? 26節、27節です。 ……キリストは、たんに私たち教会を贖い出してくださっただけではありません。キリストの花嫁にふさわしくなれるように、終わりの日、再臨の日に向けて、日々整えてくださいます。 みなさんの前ですが、11年前の結婚式、妻は純白のウェディングドレスに身を包み、とてもきれいでした。こんなきれいな花嫁さんをお迎えしてもいいのだろうか! 私はすっかり舞い上がってしまい、新郎入場の時に、やれ歩きながら手と足が一緒に出るわ、やれ牧師先生に向かってお辞儀をするタイミングを間違えるわでさんざん、礼拝堂を埋めたみなさんに大笑いされてしまいました。 きれいな花嫁の身を包むきれいなウェディングドレス……しかしそれがしみだらけだったり、しわくちゃだったりしたら、私はそこまで舞い上がることはなかったでしょう。式もめちゃくちゃです。ウェディングドレスはきれいだから意味があるのです。 白くてきれいなウェディングドレスに身を包む花嫁、それは、キリストの前に完成される私たち教会の象徴です。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つこと、それが私たち花嫁の目標です。私たちはその日に向けて、ともに、いわば「花嫁修業」に励む身です。 夫に立てられた人は、そのように妻を養う立場に置かれています。「食べさせる」ということばがありますが、日々の糧を提供する立場であるのと同時に、霊的にも養う立場に置かれています。 むかし、神学生のとき、所属していた青年会の小グループで話題が「結婚」になったとき、ある兄弟が「いやあ、俺は奥さんに霊的にリードしてもらえばいいよ」なんて言っていましたが、それははっきり申しまして、まちがいです。信仰者の家庭で霊的リードを取る立場にあるのは、夫のほうです。夫が日々教えられるみことばの恵みを、妻に流すのです。 31節、32節をお読みしましょう。……創世記の最初のほうで提示されたみことば、アダムとエバの結婚、すなわちすべての男と女の結婚というもののほんとうの意味が、キリストと教会の結婚に収れんするということが、これではっきりします。 いろいろ議論はあるとは思いますが、牧師先生のお働きの一環として、未信者同士でも結婚式の司式を引き受けるということ、私は個人的に、それは、ありだと思っています。私自身は信者未信者問わず、これまでの10年にわたる牧師生活で、どなたの司式も引き受けたことはありませんが、もし今後どなたかが私に司式を依頼してこられ、それが未信者の方であったとしても、聖書の語る結婚とはどういうものであるかを充分に理解していただくことを条件に、お引き受けしてもよいと考えています。 と申しますのは、日本の方々はどこかで、キリスト教式の結婚式というものにあこがれをいだいていて、それは根本には、自分の創造主なるキリストと教会の結婚というものをどこかで霊的に察しているゆえではないかと考えるからです。そうだとすると、結婚式というものは、未信者の方にキリストを証しするまたとない機会となるはずです。 夫に愛されたい、それは妻として、当然の欲求です。それはキリストが無条件に教会を愛しておられる、その愛がかつても、そして今もなお、存在しているゆえです。私たちは、キリストと教会との相愛関係を、この世における結婚というものをもって実現できるように、さまざまな形で働きかけを行なっていくものです、婚姻関係にある方はそれを実現し、また実現できるように祈りつつ努めてまいりたいものです。 最後に、独身の場合はどうなるかということを補足させていただきたいと思います。私が韓国の信徒たちに囲まれて教会生活をしていた頃、周囲には独身の、おもに女性の方が存在していらっしゃいました。しかしみなさんは、とても充実した生き方をしていらっしゃいました。この中のある先生は、特に韓国のキリスト教会において有名な方でしたが、その先生があるセミナーで講壇に立たれたとき、司会者の方が先生をこう紹介されました。「みなさんご存知、この先生は、イエスさまと結婚された方です!」そうか、そう考えればいいのか! 私は合点がいきました。 第一コリントを見てみますと、パウロはみなが自分のようであったらいいと語っています。独身を推奨しているわけです。それは多くの場合に言えることでしょう。私の周りでも、結婚したことで信仰をなくしてしまったという、とても残念なケースを見聞きしているので、それは実感としてよくわかります。もし結婚するなら、そのことでかえって信仰が強められるという確信が必要になります。もちろん、結婚したからといって罪を犯すわけではないのですが、その結果信仰から遠ざかるならば、それはとてもたいへんなことになります。こういうことを考えると、結婚というものが即、最高の祝福、最高の幸せと考えることから、私たちは自由にならなければなりません。要はその結婚が、キリストと教会との相愛関係をあらわせるかどうか、ということです。 すでに結婚されていて、お相手が未信者の方というケース……これは、千差万別で、一概には言えないことですが、ひとつだけ言えることは、どうか、夫は信者である妻によって既にきよめられている、というみことばを握って、そのみことばが目に見える形で実現するように、主の恵みを求め、お祈りしていただきたい、ということです。 結婚というものは、私たちの周りにありふれているものです。しかしそれらすべては、キリストと教会との相愛関係につながります。私たちにとっての結婚というものが、そのような至上の存在となりますように、また、私たちが結婚というものの中にいだく不完全さの中に、私たちがともにキリストとの関係を省みる機会となりますように、お祈りいたします

光の子どもとして歩みなさい

聖書箇所;エペソ5:1~21 メッセージ題目;「光の子どもとして歩みなさい」 私は日曜日の朝、いちばん最初に礼拝堂につきます。いろいろとやっておく仕事があるからです。そうこうしているうちに、日曜学校が始まるので、鬼沢さんやうちの家族が教会に到着します。 そのとき、私がよく、うちの妻から言われていたことがあります。礼拝堂の玄関やロビーに明かりがついていないというのです。私は仕事に没頭していて、気づかなかったわけです。 朝、みなさんを迎える礼拝堂が、明かりがついているのがふさわしいのはなぜでしょうか? 逆を考えてみると、せっかく神さまを礼拝するつもりで来てみたのに、明かりもついていなかったら、知らず知らずのうちに気分が沈みます。そうなったら、礼拝する喜びも半減してしまいます。そのことに気づいた今、私は必ず、礼拝堂についたら明かりをつけるのを習慣にすることにしました。 聖書を読んでみますと、神さまというお方が光になぞらえられる場面がしばしば登場します。ヨハネの黙示録21章23節は、天国の様子を描写したみことばですが、こうあります。――都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。――光なる主のお姿が私たち主の民とどのような関係があるか、如実に描いています。神さまご自身という光によって私たちが照らされるのです。 さて、今日のみことばの8節には、「光の子どもとして歩みなさい」とあります。光なる神さまの子どもとして歩む、それが私たち主の民に求められていることです。人の子どもが人であるように、光の子どもは光です。イエスさまが、あなたがたは世界の光です、とおっしゃっているとおりです。では、どのように生きることが、光の子どもの生き方なのでしょうか? まずは大前提として、1節、2節のみことばをお読みします。……そう、愛なる神さまの愛を一身に受けている者として、その愛なる神さまにならい、キリストが十字架の上で現してくださった愛のうちを歩みなさい、ということです。大前提は、神さまの愛です。 しかし、この聖書という、実に分厚い神さまのラブ・レターは、神さまの愛というものを、実にいろいろな側面から解き明かしていて、そのすべてをこのかぎられた時間に詳しく扱うことはできません。 神さまの愛にならう光の子どもとして歩むとはどういうことか、21節分に当たる今日の本文から、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。例によって、3つのポイントに分けて見てまいります。 第一のポイントです。光の子どもは、闇を避ける歩みをすることが求められます。 8節のみことばです。……このみことばは、闇というものが、神の子どもたち、光の子どもたちにとっては、すでに過ぎ去った過去の性質であることを語っています。 最近はそんなことはなくなりましたが、うちの子どもたちは夜寝るとき、暗やみをとても怖がり、妻や私に、一緒に寝て、とせがんだものでした。純粋な子どもは、本能的に闇というものを怖がるものです。そうです、人は本来、この闇というものを、怖れるべきもの、避けるべきものと受け止めて生きる者でした。しかしいつの間にか、人は闇というものを、何とも思わなくなります。それは単に光がともっていない、物理的な闇だけではありません。神さまの光が届いていない、聖書的な倫理に照らしてみてもとてもおかしい、悪魔のわざを何とも思わないように、霊的に鈍感にさせられていくのです。まるで大人になるとはそういうことであるかのように人々は語ります。しかし、ほんとうにそうでしょうか? このエペソ5章のみことばは、きわめて具体的にその「闇」というものを扱っています。3節のみことばです。……淫らな行い、これはこの世の中を見回してみると、とてもありふれています。私は東京に住んでいた頃から落語鑑賞が好きでしたが、落語など、廓もの、といって、身も蓋もない言い方をすれば売春産業を扱ったジャンルが存在します。新聞を読んでいても、婚外交渉を当たり前のように扱い、時には美化する記事が普通に登場します。しかしこれらのことは、いかに普通にありふれていても、みな「淫らな行い」、また「汚れ」という闇であり、そういうものを嬉々として口にすることは、光の子どもとしてしてはならないことです。 4節もそれに類するみことばです。……猥談も、いやらしい冗談も、セクハラな発言も、全部アウトです。 しかし、中にはこんな冗談を堂々と口にしておいて、自らを愛のあるクリスチャンである、こういう冗談に顔をしかめているクリスチャンは愛がない、などとうそぶく人もいます。こういう人はえてして人気があるものですが、私たちはだまされてはいけません。聖書が、そういう冗談や猥談を禁じている以上、アウトなものはアウトです。 そのかわりに奨められていることは、「むしろ、感謝しなさい」ということです。いやらしい妄想や行動がなぜいけないのでしょうか? それは、神さまがそれぞれに与えてくださった領域に感謝せず、よけいなものをむさぼっているゆえです。それは、神さまへの感謝と正反対のことです。もし、神さまにつねに感謝する生活ができているならば、このような汚れたむさぼりのことばも行動も出てこないはずです。私たちはよくよく自分自身を点検する必要があります。 5節のみことばは、この罪から足を洗おうとしない者に対する凄まじいまでの警告のことばです。……大前提として、イエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちの罪は未来の罪に至るまでも赦されています。しかし、このみことばを見てみますと、性的なむさぼりは偶像礼拝という罪と直結していることが語られています。 エペソのクリスチャンたちは、魔術であったり、女神アルテミスへの信仰であったり、そういったものを捨てるなどして、イエス・キリストに立ち帰っています。その分、偶像礼拝者という言い方は、最も心が刺される表現だったのではなかったかと思われます。その過去を引きずるような性的な罪を悔い改めていないかぎり、自分はイエスさまではない、偶像に従う者なのか、というわけです。 6節も続けてお読みします。……空しいことば、とは何でしょうか。大丈夫だよ、イエスさまの十字架によりすべては赦されているから、何をやっても大丈夫、とばかりに、罪を許容することばではないでしょうか。イエスさまが十字架の上ですべての罪を赦してくださったのは事実です。しかし、その恵みを受け取り、まだなお絡みついてくる罪から足を洗おうと恵みを求めるのと、罪赦されたのをいいことに相変わらず好き勝手な生き方をやめないのとでは、どちらの生き方を神さまは求めていらっしゃるでしょうか。 いのちを懸けて十字架の上で私たちを赦し、救い、贖ってくださったイエスさまのみわざを軽んじるようなことは、口にしてもいけませんし、思ってもいけません。それこそ、むなしいことばというもので、そんな教えはだれのことも救いはしません。しかし、そのようなむさぼりについ身を委ねたくなるのが、私たちに染みついた肉の特性です。あってはならないことですが、教会に属する若者たちも、そのような過ちに陥るということが多く存在します。いえ、時には若者にかぎらず、そのような不適切な性的行動に走るものが、教会の中に現れることもありえます。 私たちはそのような、聖徒にふさわしくない性質から教会がきよめられるように、ともにお祈りする必要があります。私たちは、イエスさまのこの十字架のみわざにふさわしくなれるように、日々聖霊なる神さまの深い交わりによってきよめていただくものとなりますように、まず私たち自身を主の御前に差し出し、とりなして祈ってまいりましょう。 第二のポイントです。光の子どもは、闇のわざを明るみに出すことが求められます。 11節のみことばをお読みします。……まず、前提として、暗闇のわざに加わらないことです。 世の中の人たちは、私たちを悪いわざに染めようと、あらゆる方法で誘ってきます。しかし私たちは、そのわざに対し、断固として「ノー」を突きつける必要があります。深酒、たばこ、薬物、性的逸脱、ギャンブル……これらのものは、私たちクリスチャンにとっては、呑み込まれるべきものではありません。むしろ、それがどんなに恐ろしいものか、声を大にして叫ぶべきです。よくよく考えましょう。このような放蕩に走ることが、果たしてイエスさまを喜ばせることができるでしょうか? 私たちのすべきことは、この世にはびこるあまり、私たちクリスチャンのことさえも蝕む悪を、私たちに与えられたみことばの光によってあばき出すことではないでしょうか。 とはいえ、私たちは何も、この世の中や私たちの周りに存在するあらゆる悪を、根掘り葉掘りぐたいてきにひとつひとつ。明らかにすることが求められているわけではありません。それをしていてはきりがありません。それよりも、みことばに従う私たちの生き方が、光となって、この世のあらゆる汚れ、ゆがみ、恥を明らかにするのです。 そして、そういうものが明らかにされるならば、人の取る行動はふたつにひとつです。悔い改めてその行動を捨てるか、その行動が悪いと知りながらもやめないかのどちらかです。 そうして、キリストに従うという善を行う人はますます善に進み、悪を行う人はますます悪に陥り、かくして、麦と毒麦は充分に生えそろって、さばきを待つばかりとなるのです。 私たちがもし光の子どもであるならば、人々に生き方の決断を迫るモデルとなる生き方を人々の前にしてしかるべきです。イエスさまの存在が、イエスさまに従う一部の人と、イエスさまを十字架につけた大群衆とに分かれたように、私たちの存在によってこの世の悪が照らしだされ、神さまにお従いするごくわずかの人が明らかになっていくのです。その、わずかの人たちとともに、私たちは何よりも強い、キリストのからだなる教会を形づくるのです。 私たちがいつも主に従順でありますように、その従順を実践する生き方によって、この世にキリストの光、みことばの光を照らし、まことの弟子の生き方のモデルをこの世に示す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第三のポイントです。光の子どもは、主に喜ばれることを吟味します。 10節のみことばにあるとおりです。 その、主に喜ばれることは、聖書のあらゆる箇所に書かれているとおりです。それが、消極的な形では、暗闇のわざに仲間入りしないこと、積極的な形では、暗闇のわざを明るみに出すことですが、具体的な形ではどうなのか、この箇所に限定しても、じつにいろいろな側面が見えてまいります。 まず17節です。……このために必要なのは、日々みことばから学ぶことです。私たちが日々みことばお読みすることは、光の子どもとして聖霊なる主が私たちのことを整えてくださるプロセスです。そのようにして私たちは知的にも、霊的にも、武装していただくことができます。賢くしていただけます。しかし、サタンはこのような時間にも、私たちに対し、間違った聖書解釈、間違った受け取り方をさせるように誘惑してきます。私たちはですから、みことばをお読みするときに、自分の思いで読んでしまわないためにも、聖霊なる神さまのお導きをいただく必要があります。 18節、お酒に酔うことはみことばでこうして戒められています。お酒に酔うことと対比して語っていることは、御霊に満たされることです。それに続くのが19節で、御霊に満たされた結果人がどうなるか、そうなるように命じておられるみことばです。みことばを分かち合い、みことばを歌いなさい、というわけです。 何度かお話ししましたが、私が高校生のとき参加した松原湖バイブルキャンプは、小坂忠さん・岩渕まことさんをゲストに迎え、賛美を歌って盛り上がっていました。しかしその中で、私の部屋に、とても盛り上がれなくて悩んでいた男の子がいました。彼は、聖書のお勉強が少なくて、賛美ばかり歌うキャンプについて行けなくて、帰ろうとしていました。しかし、機転を利かせた担当カウンセラーが彼を忠さんに会わせ、相談相手になってもらいました。忠さんいわく、みことばを学ぶことは取り入れることだ、しかし、賛美を歌うことは吐き出すことだ、取り入れてばかりいたらからだはおかしくなるだろう、ぜひ歌ってみよう、そのことばに勇気をもらった彼は、その忠さんのアドバイスを部屋で分かち合ってくれて、最後までキャンプをやり遂げました。その姿に私も励まされたものでした。 みことばによっていただいた御霊の満たしは、賛美の歌として表現してこそです。みなさん、どんどん歌っていきましょう。 そして20節、すべてのことについて、キリストの名によって感謝しなさい、これは、今月初めに水谷潔先生もテサロニケ人への手紙第一の5章からおっしゃっていたことですが、私たちクリスチャンのあるべき姿は、キリストの御名があがめられることゆえに感謝をささげることです。感謝にあふれる生き方こそ、光の子どもとしてふさわしい生き方です。私たちが感謝すべきことも、キリストの御名にふさわしいかどうか、つねに吟味する必要があるでしょう。 そして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。従うべき姿勢も、吟味される必要があります。このみことばから後、夫婦、親子、奴隷と主人といった人間関係が具体的に取り扱われますが、強制された従順、うわべだけの従順は、みこころにかなった従順ではありません。この点でも、私たちは御霊によって、まことに従いあうことが実行されているか、日々自分自身を吟味する必要があるでしょう。 私たちは光の子どもです。光の子どもとして歩むのは、難しいことではありません。御霊に満たされるならば、暗闇を避けられるようになります。暗闇を照らす生き方ができるようになります。そして、みこころに従う生き方を吟味し、真にお従いする生き方ができるようになります。そのようにして、光の子どもとしてともに整えられ、主のご栄光をこの世に輝かせる、祝福された歩みに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

古い人を脱ぎ捨てる

聖書箇所;エペソ人への手紙4:17~32 メッセージ題目;古い人を脱ぎ捨てる    暑いんだか寒いんだか、よくわからない日々が続いています。みなさん、おからだの具合はいかがでしょうか? このような天候で、体調を崩していらっしゃらなければと思います。  暑くなれば、意識するのは「衣替え」です。娘たちの学校は制服なので、季節の変わり目には、成長著しい小学生のこと、どうしても、新しい服のことを考えなければなりません。新しい服を手に入れたら、ちょっともったいないですが、古いのは処分します。そうでないと場所取りです。  私たちにとってこのような「衣替え」が必要なように、聖書は、「衣替え」というものを、私たちが根本的に行なう必要があるということを語っています。本日の箇所には、22節と24節に、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという、象徴的なことばが登場します。なんとなく、言っていることはお分かりだと思います。人間、新しくなれるならば、どんなにいいことでしょうか。いつまでも自分の古い性質を引きずっていてはならないわけです。そんな自分を脱ぎ捨てて、新しくなる、それは素敵なことです。いいえ、私は古いままでいい、新しくなんかなりたくない、そんなことをおっしゃる方は、まあ、いないと思います。  問題は、どうすることが古い人を脱ぎ捨てることであり、どうなることが新しい人を着ることか、ということです。聖書は何と語っていますでしょうか? 今日の本文から、3つのポイントにわけて、ともに見てまいりたいと思います。    第一のポイントです。脱ぎ捨てるべき古い人とは、神の民ではないアイデンティティです。  17節のみことばをご覧ください。……ここで戒められている歩みは、異邦人のような歩みです。  異邦人とは何でしょうか? まことの神さまに属さない民です。旧約聖書にはこの異邦人がいろいろな形で出てきますが、それはたいていの場合、まことの神さまに敵対する存在、神さまの忌み嫌われる存在であったりするわけです。  それは、神さまを認めず、したがって神さまにお従いしないゆえ、また、それゆえに、神さまとその民に敵対するゆえです。彼らは幼いときから、偶像の神に従うことを教えられます。また、それにしたがって、まことの神さまに敵対するあらゆる非聖書的な教えを行うように導かれます。何をどうしても、行きつくところは偶像の神々だったのでした。   しかし、神さまはそのような者たちの罪に気づかせてくださり、その罪とそのさばきから救い出すべく、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださいました。 これは、彼らの努力によることではありません。神さまの一方的なあわれみによることです。この福音のことばを聞いているエペソの人たちにしても、そのままでは女神アルテミスを神とした生活をするしかありませんでした。しかし神さまは時至って、パウロを通して彼らに福音を伝えてくださり、イエスさまを信じる信仰を与えてくださったのでした。これこそ恵みのわざです。 こうしてエペソの人たちは、異邦人という古い人を脱ぎ捨てることができました。ただしこれは、自分の努力によって脱ぎ捨てたのではありません。神さまが脱ぎ捨てさせてくださったのです。そして、神の民という、新しい衣を着せてくださったのです。 むかし、「グリーン・マイル」という、アメリカの刑務所を舞台にした映画を観ていて、暴れる囚人をおとなしくさせるために身動きを取れなくさせる「拘束衣」というものの存在を知りました。看守たちに押さえつけられてこれを着せられると、両手両足は縛られたも同然となり、もう何もできなくなります。 神の民ではない異邦人という状況も、これと同じです。異邦人という拘束衣にがんじがらめにさせられている以上、神のみこころに従うことなど金輪際ないわけです。神さまに従うには、神さまによってこの拘束を解いていただく以外にありません。 私たちもまず、神さまによってこの「異邦人」という縛りから解いていただく必要があります。ここにいらっしゃる多くの方々が、この「異邦人」という縛りから、信仰によって解いていただいた方々であろうと思います。しかし、からだというものは、癖を持っています。たとえば、このメッセージの準備をしていた際、私はパソコンに向かって原稿を書いていました。いつもの作業ではありますが、その作業が終わった後、私は必ずと言っていいほど、妻に注意されます。「ほら、背中が曲がっているよ!」そうなると私は、妻がYouTubeで見つけてくれた体操をして、少しでも曲がった背中を何とかします。 そういう、からだの癖というものが、習慣によってからだにしみついてしまうように、私たちにも罪の性質が、まだきよめられていない習慣によって自分の中に残り、増え広がってしまうことを、私たちは自覚する必要があります。私たちはたしかに、もう異邦人のような神さまを認めない人々ではありません。しかし、かつての神さまを認めないゆえに習慣になっていた罪の性質というものは、そう簡単に私たちの中から去ってはくれません。 それゆえ私たちはこの領域で、古い人を脱ぎ捨てさせていただくという、神さまのお取り扱いを必要としているわけです。私が「背中が曲がっているよ」という妻の声を聞くことで、そういう自分に気づき、曲がった背中を何とかするように、聖霊なる神さまの御声を聞いて、古い人を脱ぎ捨てさせていただくのです。私たちは日々のお祈りをとおして、この古い人を脱ぎ捨てさせていただきます。 はたして神さまは、私たちが、ご自身の民にふさわしくない古い性質を引きずったまま生きることを、喜んでいらっしゃるでしょうか? もし私たちが相変わらずであったとするならば、イエスさまは何のために十字架にかかってくださり、私たちを罪からきよめてくださったのでしょうか? 私たちは日々、古い人を脱がせていただく必要があります。御霊によって、きよめていただく必要があります。 日々、主の御前に祈りのうちに進み出て、きよめをいただいて神の人としてふさわしくされる、その祝福をいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。    第二のポイントにまいります。脱ぎ捨てるべき古い人とは、みことばに禁じられているあらゆる罪の性質です。  第一のポイントでは、異邦人というアイデンティティを脱ぎ捨てるようにと申しましたが、ここでは、その脱ぎ捨てるべき古い人の、具体的な中身について見てまいります。まずは18節です。……この「古い人」の特徴は、暗い知性とかたくなな心です。暗い知性は、このみことばでは「無知」とも言い換えられています。  この「暗い知性」ないしは「無知」と、「頑なな心」は、コインの裏表のように表裏一体です。どういうことかというと、人は無知である自分を自覚して賢くなろうとすればいいのですが、無知な自分を受け入れられなくて、かえって頑なに無知な自分の状態にとどまる……その頑なさのゆえに、ますます無知であることをやめられない……。 私が小5の時に担任の先生だった「山岸先生」という方がよくおっしゃっていたのは、「無知これ罪悪」ということばで、そのことばに叱咤激励されて生徒たちは勉強させられたものでした。 しかしこの「無知これ罪悪」は、聖書のメッセージでもあります。神さまのみことばを知る機会がありながらも知ろうとしない、自分の考えがすべてである、そういう頑なさの中にとどまりつづけるので、無知であることをやめられない……かくして、その人はますますみことばの真理に到達できない……その状態をみことばは、罪に定めています。そういう無知とかたくなさの中にあるかぎり、まことのいのちを与える神のみことばによってほんとうの賢さを得ようというところには、とても到達することができません。 そういう、無知とかたくなさの中にとどまりつづける者たちは、どうなるとみことばは語っていますでしょうか? まず19節、22節を見てみますと、好色、性的な不潔、情欲という形で現れることが語られています。 情欲というものはいつの時代も、人を、特に若い男性をとりこにします。現代においても、インターネットから学校の雑談に至るまで、どれほどそのようなものにあふれているでしょうか。 しかし、これが罪であることを指し示せる基準は、日本の一般社会からはほぼ消滅しています。 罪を犯したとき、後ろめたさぐらいは覚えていると信じたいですが、その後ろめたさがこの罪を抑止する力になってくれるわけではありません。ただ、それが罪であることを定めていらっしゃる神さまによって、その古い人を脱ぎ捨てていただくことによってのみ、罪を抑止することができます。 古い人の罪の形態に、まっさきに「情欲」ということが書かれているのは、理由のないことではありません。いずれエペソ書の5章を学ぶときに詳しく学びますが、教会は、キリストの花嫁です。貞潔をキリストにのみささげるべき存在、それが私たちキリストの花嫁、教会です。そのようなものが情欲に染まるということ、それは、キリストを離れ、姦淫、不倫の罪を犯すことに等しいことです。私たちは何としても、この「情欲」から身をきよめる必要があります。 それに続く箇所も見てみましょう。25節以下は、古い人のいろいろな形態が列挙されています。25節では偽り、26節では怒りをやめないこと、27節では悪魔に、われわれの信仰生活に干渉する機会を与えること、28節では盗み、29節では悪いことば、30節では聖霊を悲しませること、31節では無慈悲や、怒りから発するさまざまな否定的な行動、そして悪意を挙げています。 これらひとつひとつを詳しく見るならば、1回のメッセージでは足りません。大きく2つに分けて整理したいと思います。これらの罪は、霊的な次元と、人間的な次元の2つに分けることができます。 まず、霊的な次元から見てみますと、27節の悪魔に機会を与えることと、30節の神の聖霊を悲しませることは、表裏一体と言えます。 私たちは恵みによって、神の民とされている者たちですが、そのような私たちであっても、悪魔に働く隙を与えうる存在です。初代教会においても、アナニアとサッピラの例を挙げることができるように、うかうかしていると教会においても、サタンの付け入る隙というものは生まれます。 しかし、こういう悪魔の働く機会というものは、私たちの信仰生活の持ち方のせいで、自分から招いてしまうということが往々にして起こります。みことばを読む代わりに、インターネットやテレビや雑誌や本や、その他いろいろの理由で、みことば以外のものに意識を向けたりする。祈る代わりに、自分でぐるぐる考えたり、余計な妄想をしたりする。教会に行く代わりに、よく考えれば行く必要のないところに足を運んでしまう。こういうことが度重なることで、悪魔はどんどん、私たちの心の中の陣取り合戦で、陣地を広げていって、気がつけば心の中の相当な部分を占拠してしまうのです。 こうなってしまうと、聖霊なる神さまに働いていただく余地を、私たちの力で締め出してしまっていることになりはしないでしょうか? それは聖霊なる神さまの悲しまれることです。ゆえに、このことも私たちにとっては神さまのみこころに反する、罪となります。 では、人間的な次元の罪を見てみましょう。 偽りや怒り、盗み、悪いことば、無慈悲、悪意……こういったものは、悪魔に機会を与え、神の聖霊を悲しませるしるしとして、人に現れる罪です。では、これらのさまざまな現象は、どこから来るのでしょうか? それは要約すれば、人を人とも思わない自己中心から出たものと言えます。早い話が、愛の反対です。自分を守るために、うそをつきます。自分の気持ちの赴くままに、怒ったり、悪いことばを発したりします。自分のものにしたくて盗みます。自分さえよければと考えてあわれみの心をいだきません。 自分の基準で人をさばいて、人に悪意をいだきます。すべては、愛の反対である自己中心から出ることです。 私たちはこのような性質を、脱ぎ捨てさせていただくのです。このような性質を脱ぎ捨てるためには、ある程度の人間的な努力は必要です。しかし究極的には、人間的な努力がきよめを達成するのではありません。神さまにこの古い人を脱ぎ捨てさせていただくこと、そのことによって、ここに列挙されたあらゆる、みこころにかなわない性質から自由にならせていただくことができるのです。そうです、これもまた恵みによることです。 私たちはこのように、礼拝に集うくらいですから、キリストに似た者になりたいという聖なる願いを、ともに持っていらっしゃることと思います。しかし、なかなか変えられなくて、落ち込んだり、自分を責めたくなったりするような方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかし、落ち込んだり、焦ったりすることはありません。私たちの主権は、みな神さまにあります。神さまがみこころのうちに、私たちにふさわしくない古い人を脱がせてくださるのです。聖霊なる神さまが私たちをきよめ、私たちの古い性質を取り去ってくださるのです。聖霊なる神さまに期待してまいりましょう。    それでは最後に、第三のポイントです。古い人を脱ぎ捨てて着るべき新しい人とは、神さまのご性質です。  古い人を脱ぎ捨てるべきことは、ここまで何度も強調してきたとおりです。しかし、脱ぎ捨てたままだと、裸です。裸だと恥ずかしかったり、寒かったりで、とにかく不都合な状態です。何かを着なければなりません。そんなとき、古い人を着てはいけないのです。  教会に来るような人でときどきいるのが、最初はこの赦しの福音を聞いて感激するのに、しばらくするとすっきりしたのか、教会を離れてまた元どおりの生活をするようになってしまう、そういう人です。イエスさまもそういう人のことを語って注意していらっしゃいましたが、福音を聞くような人は、元どおりの人になることを避けなければなりませんし、教会も、新しくやってきた人がそのようになってしまわないように、しっかりとフォローアップする必要があります。  そこで必要なことは、新しい人を着ることです。23節と24節をお読みします。 ……このみことばからわかることは、新しい人を着ることとは、まず、人が霊と心において新しくされ続けることです。  たしかに人は、イエスさまを信じ受け入れることによって、すべては新しく変えられます。しかし、その変化は一回だけで終わるものではありません。一生続くものです。一生、変えられ続けるのです。さもなくば私たちは、肉の身にしみついた習慣により、古い人を着て元どおりになってしまうわけです。その変化は、私たちひとりひとりの神さまとの霊的な交わりから始まります。  そして、「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る」とあります。新しい人を形づくる神のかたちには、それにふさわしい基準があるわけです。その基準となるものは、義と聖を規定する真理です。そう、真理のみことばなる聖書です。聖書のみことばは変わることなく、私たちの目の前に置かれています。この変わることのない聖書のみことばをお読みすることによって、私たちは神さまのみこころにふさわしく変えていただくことができます。神にかたどられた形に造り変えていただけるのです。これが、新しい人を着せていただくことです。 その、新しい人の特徴も、25節以下でいくつかでてきます。25節では、隣人に対して真実を語ること、28節では、施しのために正しい労苦を伴った働きをすること、29節では、人の成長に役立つ恵みのことばを語ること、32節では、優しい心で赦し合うことが、それぞれ語られています。…

ひとつの教会の成長を目指して

聖書箇所;エペソ人への手紙4:1~16 メッセージ題目;ひとつの教会の成長を目指して 以前のことになりますが、私は長いこと、日本の教会成長におけるモデルとなる教会を探していました。そのような中で出会ったのが、たとえば韓国のサラン教会であったわけですが、私はやがて気がつくことになりました。それは、モデル教会はどこまでもモデルであって、自分の牧会する群れはそのモデルに似せてではなく、どこまでも自分に与えられた健全な牧会哲学にしたがって形成しなければならない、ということです。 教会に集う信徒ひとりひとりが、ほんとうの意味で主からいただいたいのちを生き生きと、喜びをもって生きる、そのような牧会を目指していきたい、そのように切に思います。そのためにも、どうかみなさんには、みなさんおひとりおひとりがそのいのちを生きる、教会の主体であることを、いつも心に留めながら生きていっていただきたいと、切に願います。 そのような私たちにとって、今日学びます箇所は、とても示唆に富むみことばです。ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。私たちはひとりなる主の中で一致する存在です。 1節から6節の中で、漢数字の「一」という数字、何回登場するでしょうか? 6回も登場します。そして、神さまがひとりなるお方、という、この「ひとり」まで含めると、実に8回にもなります。それほど、ひとつ、ひとり、ということは、だいじなことなのです。 神さまというお方は、交わりの中に永遠に生きておられるお方です。父、御子、御霊の、三位一体の交わりです。この三位一体の神さまを、旧約聖書では「エローヒーム」と言いますが、これは複数形です。「神々」という複数形を充てるべき、まことの神さまではない存在も「エローヒーム」で、やはり複数形なわけですが、「エローヒーム」がまことの神さまか、そうではない神々かということは、文脈で判断します。 そういうわけで、創造主なる唯一のお方はいわゆる八百万の神々ではないのだから「神」と呼ぶべきではないという御意見は、一理あるとは思いますが、この「エローヒーム」という原語のことを考えますと、「神」とか「神さま」とお呼びして不都合なことはないというのが、私なりの意見です。 ともかく、このまことの神さまは、複数形であるということは、つねに交わりの中に生きておられ、完全な一致を保っておられるお方ということです。これこそ、三位一体ということです。そのように、三位なる神さまが一体であるように、私たち、主のからだなる教会も、ひとつの中に交わりを保つ存在である、というわけです。 そのような存在であることを私たちが自覚するために必要なこと、それはまず、1節にあるとおり、主の召しにふさわしく歩みなさい、ということです。 このお奨めをしたパウロは、自分のことを何者だと言っていますか? そう、主にある囚人、です。主にお従いするあまり、囚人という、この上なく不自由な存在になった、しかしそれでもなお、みことばを伝え続ける者である、そのように告白しています。そんなパウロは、たとえ自分が囚人であろうとも、主の中で大いなる喜びにあふれていました。そんな私から確信をもってあなたがたに言います、召しにふさわしく歩みなさい。 パウロにとって召しにふさわしいことが、たとえ囚人となろうとも主に従順に歩むことであったならば、エペソの人、そしてこの手紙の読者である私たちにとっては、どのように歩むことでしょうか? それが2節と3節に書かれていることです。お読みします。 なぜ謙遜でなければならないのでしょうか? なぜ柔和でなければならないのでしょうか? 寛容であることも、愛することも、忍耐し合うことも、平和を保つことも、なぜ必要なのでしょうか? それが、三位一体なる神さまが交わりのうちに一致を保っておられるように、御霊による一致を保つことであるからです。そしてそのように一致を保つことを、神さまが私たち主の教会に願っていらっしゃるからです。 神さまは、人や群れによって別の存在となるお方ではありません。神さまは唯一であり、神さまへの信仰を持たせてくださった聖霊なるお方も唯一です。この唯一のお方によって、私たちは同じ信仰を持ち、同じバプテスマを受け、同じ主のからだなる教会に連ならせていただくのです。 先週、水谷先生もおっしゃっていた表現を借りれば、教会というものは個人競技ではなく、団体競技です。ひとりの力で信仰生活や教会形成など、できるものではありません。では、どのようにすれば、私たちは一致を保てるのでしょうか? それは、私たちがともに、主を見上げることによって可能となります。では、私たちは具体的に、どのようにすることで一致できるのでしょうか? 第二のポイントです。私たちはひとりなる主が、多様な働きを与えてくださっていることを互いに認め合うことで一致する存在です。 7節のみことばをお読みします。……ひとりひとりが、キリストの賜物の量りにしたがって、とあります。私たちはそれぞれが、さまざまな個性という形で、キリストより賜物をいただいています。それぞれに合った賜物を、イエスさまは私たち各自にくださっているというわけです。 8節から10節のみことばをお読みします。……イエスさまは天の御国から地上に下られて、人々とともに生活されました。 この、地上の人々は、この世とサタンの捕虜として、罪の縄目にしばられて生活していた者でした。しかし、そのような世とサタンの捕虜だった者を、キリストは解放し、天の御国のいのちを与えてくださいました。 イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって罪とサタンから解放された者たちは、もはやこの世の捕虜のように生きる必要はありません。この世において、天の御国に属する賜物をいただきつつ、そしてその賜物を用いつつ、生きる者と変えていただいたのです。 11節をご覧ください。……ここには、4つ、ないしは5つの働き、または立場が列挙されています。これを見てみますと、キリストのからだなる教会に仕える存在は、さまざまである、ということがわかります。 使徒、これはキリストに直接遣わされた人です。イスカリオテのユダを除くイエスさまの十二弟子、それを充当する形で加わったマッティア、そして、復活のイエスさまに実際に会って遣わされたパウロがこの使徒にあたります。この使徒が、それから2000年にわたって聖書のみことばを残すことを考えると、パウロがこの働きを一番目に持ってきたのも当然と言えます。 次に預言者です。これは、主からの啓示を直接受けて伝える人です。旧約時代にこの預言者は存在し、活動してきました。新約時代に入っても、新約聖書が整備されるまではたびたびこの預言者が起こされ、人々に神さまからの啓示を伝えました。神さまのみことばを受けて伝えるという点で、この預言者はとても大事な仕事です。 そして伝道者です。みことばをたずさえて、まだ福音を聞いたことのない人にみことばを語り伝えます。 最後に、牧師または教師とあります。人々をみことばによって教え、みことばによって養う働きです。この「牧師」という用語は聖書においてはここだけに登場しますが、使徒の働き20章28節など、ほかの聖書箇所と照らし合わせると、パウロがテモテへの手紙などにおいて「監督」と呼んでいる職分と共通することがわかります。 こんにちにおいて使徒と預言者という職分は復活しつつある、と説く立場は、たしかにキリストの教会の中に存在しますが、私はその立場には賛成しかねます。私たちは、使徒と預言者が書き残した旧新約聖書の啓示で、充分と考えるべきです。聖書はすでに完成しています。 それにもかかわらず、それにつけ加えていろいろなことを言う者は、「異端」と見なすべきであり、そのような存在に対してはヨハネの黙示録の最後の箇所で、ぞっとするようなさばきのことばが宣告されています。 ここでいう「使徒」と「預言者」は、聖書の完成をもってその立場は停止しました。では、私たちはわざわざこのように職分が書かれたみことばの意味を、どのように解釈すべきなのでしょうか? それは、教会形成にはさまざまな立場の人が用いられる、というにとどめたいと思います。 こんにちはたしかに、使徒や預言者は存在しません。しかし、伝道者や牧師、教師ならばどうでしょうか? 福音というものは、伝道者の存在によって宣べ伝えられます。私たちの教会の支援している宣教師の先生方や、KGKやキャンパス・クルセードといった宣教団体のスタッフといった方、もっと広範囲に活動する方では、むかしならばビリー・グラハムや本田弘慈先生、現在ならば岸義紘先生や福澤満雄先生のような方が挙げられるでしょう。こういう方々の存在によって、福音は広く増え広がり、伝えられます。 牧師はもちろん、教会を牧会する働きをする人です。教師はそのような中で、みことばを伝える働きであり、教団教派によっては、牧師を教師とも呼んでいます。この牧師と教師をあえて分けるとするならば、担任する教会がある場合は牧師、神学校のような神学教育機関で教鞭をとるのが専門の場合は教師と言えるかもしれません。 いずれにせよ、「みことばを教える」専門職をひとつ取ってみても、これだけ多岐にわたるわけです。使徒と預言者がみことばを受ける人であるならば、伝道者や牧師や教師は、それぞれの立場でその受けたみことばを伝える人です。 時に、人によっては、この3つの賜物を兼ね備えている人もいるかも知れません。しかし、その働きをバランスよく一人で担うには、限界があると言うべきです。 どうすればいいのでしょうか? この、「教える」ということを、専門職に独占させず、信徒で分かち合うのです。ここに、私たちの賜物を見分け、その賜物にしたがって活用する余地が出てまいります。 ある人は、人間関係を形成するのが上手で、福音を伝えるのもその分上手でしょう。そういう人は、「伝道者」の賜物があるのではないでしょうか? 祈りつつ、その賜物を磨くべきです。現在私が取り組んでいる「爆発伝道」は、私自身の伝道のスキルを開発するために取り組んでいることというより、信徒のみなさんが効果的に伝道できるように、まず私が取り組んでいることであるわけです。ぜひとも、自分は伝道に召されていると考える方は、この爆発伝道のメソッドを身に着けることにトライしていただきたいと思います。 またある人は、信徒をお世話するのが好きでしょう。そういう人には、「牧師」の賜物があるかもしれません。なにも、牧師按手を受けて、わざわざ牧師と名乗らなくてもいいのです。 そういう人でもそれなりの訓練を受ければ、牧師のような働きができるのです。世の中には、経済的な理由もありますが、お仕事にかなり集中しておられる牧師先生もいらっしゃいます。そればかりか、れっきとした本業があって、日曜日に牧師を名乗られる先生もいます。そういう方々のことを考えると、私たちにやれないということはないはずです。按手を受けているかどうかのちがいだけではないですか! 私のむかしいたサラン教会は、だいたい1200個ぐらいの小グループによって成り立っていた教会です。そのそれぞれの、だいたい6人から8人くらいの小グループのリーダーは、すべてが信徒です。主婦であったり、社会人であったり、とにかく、専門の牧師がするのではありません。そのリーダーになるためには1年の基礎訓練、さらに1年の応用訓練を受けますが、それでも専門職の牧師になるというわけではありません。しかし、彼らは立派に「牧会」をしていました。自分のグループの信徒のために祈り、励ましの言葉をかけ、みことばを教えていました。専門職ではない信徒であろうとも、牧会はできるのです。 あるいは、人づきあいはそんなに得意でなくても、聖書研究やキリスト教会の研究が好きという人は「教師」の賜物がありそうです。あるいは、教えることに秀でている人も「教師」の賜物はあると考えていいでしょう。そういう方にはどんどん本を読んでいただきたいですし、日曜学校の教師のような働きにもチャレンジしていただきたいところです。 以上見て来て分かりますことは、このようにキリストが天上の賜物を分け与えておられることは、この箇所においてはもっぱら、「みことばを教える」ことに特化されているということです。 しかし、このみことばを語られたお方はおひとりであり、したがってみことばもひとつです。それぞれが同じみことばを学び、また語ること、そのことが、一致して主を見上げるということであるわけです。 では、3つの目のポイントでは、みことばを学ぶことで一致して主を見上げる、その目的について学びます。 第三のポイントです。私たちはひとりなる主に向かって、ひとりなる主によって成長し、一致する存在です。 12節のみことばをご覧ください。……これは、教会がさまざまな教える賜物を持った人たちによって教えられることの益を語っています。 まずそれは、整えられるためです。この「整える」という漢字は、幼いころから私にとって、とても近しい漢字です。と言いますのも、私の父が、「整形外科」の医者だったからです。整形外科なので、実家の入口にはどーんと、この「整」という字が看板になって書かれていました。 整形外科には、けがをした人、筋肉を傷めた人、骨の具合の悪い人がやってきます。彼らが患者さんとしてかかりに来るのは、筋肉や骨が本来あるべき位置にないため、激痛を伴ったり、からだ全体にいちじるしい不具合を生じさせたりしているからです。しかしそのような患部を治すことで、患者さんの骨や筋肉はあるべき位置に戻り、痛みは取れ、からだの不具合は取れます。これが整形外科の役割、整えるということです。 教会というキリストのからだにおいても、それは同じことです。教会を形づくる信徒たちは、そのままでは罪の性質、肉の性質そのままに生きてしまうため、教会が主のからだとは名ばかりで、あちこちが肉の働きによって歪んでしまいます。そうなると教会には、実にいろいろな不具合が生じ、痛んだり病んだりすることになります。だから私たちは、正しくみことばを教えられる必要があるわけです。これが「整えられる」ということです。 そのようにみことばによって整えられることによって、はじめて私たちはふさわしく奉仕をすることができるようになります。世の中には、ボランティア活動が好きな人というものがいるものです。しかし、教会の奉仕と一般のボランティア活動は、似ているようで根本から異なるものです。 一般的なボランティア活動の奉仕は、いわば人に対するものであり、人に対して誠心誠意尽くすことで、すばらしいことです。これに対して私たちキリスト教会における奉仕は、唯一の神さまに向けて、一致してささげる奉仕です。出発点も、到着点も、一般的な奉仕と根本から異なるのです。 その奉仕の目的は、私たちが一致すること、私たちがともに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること、ここに究極の目標、目的があります。見るべきところは自分たちであるというよりは、キリストなのです。 では、私たち教会が成長することは、なぜ必要なのでしょうか? 14節をお読みします。成長していない者は、子どもです。子どもらしいといって褒められるのではなく、子どもっぽいということでけなされる、そういう意味での「子ども」です。 このみことばによれば、教会が子どもであることのしるしは、悪巧みや悪賢い策略、妙な教義にやられてしまうほど純真で分別力がない、ということです。しかしそれは、みことばをよく学んでいないからにほかなりません。みことばをよく学ぶならば、鳩のように素直になる一方で、蛇のようにさとくもなります。…