「イエスさまの弟子とは」

聖書箇所;マルコの福音書1:16~20/メッセージ題目;「イエスさまの弟子とは」 今日の箇所にまいりたいと思います。イエスさまは何をしていらっしゃいましたでしょうか? 人をご自身の弟子とされました。イエスさまの弟子。今日の箇所は、これがキーワードです。イエスさまの弟子とはどのような存在なのか、ひとつひとつ説き起こしたいと思います。 第一に、イエスさまの弟子とは、イエスさまがお選びになった存在です。 イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いていらっしゃいました。するとその湖上で、シモンとその兄弟のアンデレが、網を投げて漁をしていました。イエスさまは彼らに声をかけられました。「わたしについて来なさい。」 これだけをお読みしますと、イエスさまの呼びかけは唐突な印象を受けるかもしれません。しかし、ほかの福音書と合わせて読んでみますと、どうも、シモン、アンデレの兄弟とイエスさまは、これが初対面ではなかったようです。特に、ヨハネの福音書1章35節から42節に記録されているできごとを見ると、それがはっきりします。 アンデレはもともと、バプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、彼らのところをイエスさまが歩いて行かれるのを見たヨハネが、アンデレたちに「見よ、神の子羊」と、イエスさまを指し示したところ、アンデレともうひとりの弟子は、イエスさまについていき、イエスさまの泊まっておられるところに行って、イエスさまと一緒にとどまりました。いろいろおことばも聴かせていただいたことでしょう。 そのアンデレは、自分はメシア、キリストに出会ったと、兄弟のシモンをイエスさまのもとに連れて行きました。そのときイエスさまはシモンを見つめておっしゃいました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」 このことから、これがアンデレとペテロにとって、イエスさまのとの初対面がこのときだったことがわかるのですが、ともかく、アンデレは漁師でありながら、もともと、バプテスマのヨハネについていくだけの、弟子になる心構えのできていた人でした。イエスさまがお選びになったのは、そのような弟子の心を持つアンデレだったのです。 シモン・ペテロはどうでしょうか? あれほど熱心にバプテスマのヨハネについて行っていたアンデレと、何せ同じ舟の中でいつも夜通し漁をするような兄弟であり、仕事仲間です。アンデレとペテロの乗ったその舟は、有名な演歌のフレーズを借りれば「俺と兄貴の夢の揺り籠」といったところでしょう。まさしく「兄弟船」。 そのアンデレは、大好きな兄弟シモン・ペテロに、ふだんからバプテスマのヨハネのことを説いて聴かせていたはずです。いや、それだけでしょうか? そのヨハネの預言したとおりのお方、メシアがついに現れた! 聞いてよ、俺はメシアとご一緒して、いろいろお話ししたんだぜ! なあ、一緒に来いよ! アンデレは、シモンならば直接イエスさまに出会ったらきっと信じるはずだと、確信があったはずです。いや、それ以上に、何としても会わせたい! 大好きな兄弟だから! そんな思いがあったはずです。 聖書を読むと、アンデレはシモン・ペテロに比べると、ちょっと影が薄いという印象を受けないでしょうか? しかし、これはことばを換えれば、アンデレの存在がシモン・ペテロという偉大な使徒を生んだ、ということでもあります。アンデレがイエスさまの恵みを独り占めして、シモンをイエスさまに出会わせなかったら、あの偉大な使徒ペテロは生まれなかったわけです。 私の母教会、北本福音キリスト教会の日曜学校中高生科は、「アンデレ会」という名前がつけられていました。これは、連れてきた友達がペテロのようになる、という祈りが込められたネーミングです。私は中学2年から教会に集い、アンデレ会のメンバーになりました。最初はお祈りもできなかった私でしたが、今は、その世代で唯一の牧師になりました。私はペテロと比べるべくもない存在ですが、アンデレ会の存在が私を牧会者の道へと導いたのは確かなことです。そういう意味でもアンデレの役割をする人は必要です。 ペテロとアンデレの召命に関しては、ルカの福音書5章にきわめてドラマチックな描写が出てまいります。イエスさまはシモン・ペテロの舟に乗って、湖上から湖畔に群れなす群衆にメッセージを語られました。しかし、このとき、ペテロは夜通し漁をしても全く何も獲れなかったという、一晩の重労働が徒労に終わるという体験をしていました。 そんなペテロにイエスさまは、「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃいました。ふつうならば、とんでもない! となるでしょう。疲れています。魚が獲れないのはわかっています。しかしペテロはこのとき、「おことばですので、網を下ろしてみましょう」とお答えし、イエスさまのみことばに対する従順を、一晩中の重労働に優先させたのでした。そうして網を下ろすと……大漁、大漁、また大漁! イエスさまは、ヨハネに弟子入りするほどのアンデレの探求心、向学心、また兄弟愛を見抜いておられたことでしょう。そして、重労働による疲れよりもイエスさまへの従順の行動を優先させるようなペテロの純粋さ、行動力を見抜いておられたことでしょう。まさに、彼らは、弟子になるにふさわしい人だったわけです。 イエスさまは続いて、ヤコブとヨハネにも声をかけていらっしゃいます。やはりイエスさまは、彼らが弟子としてついていけるだけの素質があることを見抜いていらっしゃったわけでした。 さて、ここまで見てみますと、私たちはどう思いますでしょうか? いや、彼らはイエスさまに見いだされるだけの、弟子としての素質があった。私なんかはそんな人間じゃないです。そう思いますでしょうか? しかし、それはちがいます。私たちは聖書を開くと、「わたしについて来なさい」というイエスさまのみことばを目にします。これは、私たちひとりひとりに語っていらっしゃるおことばです。私たちからイエスさまに弟子入りを志願する前に、イエスさまの側から、私たちをのことを弟子に招いてくださるのです。 神の御子が私たちを弟子にしてくださるのです。なんと光栄なことでしょうか! このように、礼拝に集っている私たちはすでに、招いていただくにふさわしいと見込んでいただいています。私たちは自分の意志でこの礼拝に集っていると思ってはなりません。その意志を与え、礼拝させてくださっているのは、神さまです。そのようにして神さまは、イエスさまの弟子になるように、私たちのことを招いていてくださいます。 さきほど、素質のことを申しましたが、私たちはだれもが、イエスさまの弟子になれるだけの素質を持っています。なぜでしょうか? 私たちは神さまの似姿に造られているからです。神さまの似姿に造られているということは、私たちの創造主である神さまにますます似ていこう、そのためには神の御子イエスさまからしっかり訓練を受けよう、という意志が、私たちの中にある、ということです。もし、私たちが素直に、神さま、イエスさまの御前に出ていくならば、主は私たちのそのような、弟子としての素質を見抜き、ご自身の弟子に取ってくださいます。 ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、私たちと次元の違う人ではありません。平凡な漁師でしたが、イエスさまがご自身の弟子になれると見込んでくださった人です。私たちもイエスさまに、ご自身の弟子になれると見込んでいただいていると、信じていただきたいのです。イエスさまは私たちに声をかけてくださっています。「わたしについて来なさい。」 第二に、イエスさまの弟子とは、イエスさまに召されたとおりの働きをする存在です。 イエスさまはシモン・ペテロとアンデレをお招きになったとき、何とおっしゃいましたか?そうです、「人間をとる漁師にしてあげよう。」 ペテロはすでに、イエスさまからそれまでにも「あなたは人間をとる漁師になる」と言われていました。ペテロにはその意味が最初わからなかったかもしれません。しかし、イエスさまの教えを聴きに多くの人がついていっていた様子を見るに至り、そうか、このように、イエスさまと同じように働くことが、人間をとることなのか、と、わかっていったことでしょう。 先ほど挙げましたルカの福音書5章のみことばは、腕利きの漁師が創造主に完全に降伏したという内容でもあります。イエスさまに言われたとおりにすると、一匹も獲れなかったはずの魚が、網が破れそうになるほどに獲れた。まさしく、イエスさまが創造主であられたということですが、イエスさまはこの奇蹟をとおして、ペテロのことを、漁師からご自身の弟子、ひいては使徒へとお導きになったのでした。創造主であるわたしの言うとおりにしなさい。ペテロはその、イエスさまのお導きをいただいたのでした。 イエスさまは、魚を捕ることにいのちを懸けてきたペテロの生活にもっとも寄り添う形で、「あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。ペテロにとってもっともふさわしい「天職」は、魚を捕る漁師ではなかったのでした。魚を獲れるようにも、獲れないようにもなさる神の御子、イエスさまにしたがって、人々を救いに導く働きをすること、これがペテロにとっての「天職」であったわけです。 それにしてもみなさん、「人間をとる漁師」という表現、味わい深いみことばだと思いませんか? イエスさまはシモン・ペテロとアンデレが、「漁師」という働きにいのちを懸けてきたことを否定していらっしゃいません。「あなたは漁師ではありません」ですとか、「あなたは漁師をしていてはいけません」とおっしゃったのではないのです。あなたは漁師です、ただし、あなたがこれから捕らえるのは、魚ではありません、人間です。これがイエスさまのみこころでした。 ペテロにとっては、漁師という仕事は、いのちを懸けて取り組んできた働きでした。イエスさまはそれを否定されていません。それは同時に、ペテロという人の刻んできた人生を否定せず、受け入れていらっしゃるということです。イエスさまはそれでも、魚を捕るために執拗に夜の湖に網を放つようなペテロの粘り強さが、人をとらえるためにいのちを懸ける献身につながると見込まれました。 イエスさまの弟子に招かれた人であるならば、イエスさまの望んでいらっしゃる働きを行うことで、神さまのご栄光をあらわすことが、最高の祝福につながります。私たちは何をすることが、イエスさまの願っている働きだと捉えていますでしょうか? さて、このように、イエスさまはご自分の弟子としてペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを招かれました。彼らはどうしましたか? そこで第三のポイントです。第三に、イエスさまの弟子とは、イエスさまの招きに応える存在です。 ペテロとアンデレは網を打って漁をしていました。しかしイエスさまの「わたしについて来なさい」というおことばを聞くや否や、網を捨ててイエスさまについていきました。網はもちろん、漁師にとってはいのちの次に大事なもの、戦士にとっての刀のようなものです。仕事中にもかかわらず、彼らはいのちのような網を捨ててイエスさまについていったのです。 ヤコブとヨハネはどうでしょうか? 彼らは、舟の中で網を繕っていました。それは、これから漁に行くための準備をしていた、ということです。さあ、これから仕事だ、というタイミングで、イエスさまは彼らに声をおかけになったのでした。すると彼らは、父親のゼベダイと雇い人たちを舟に残して、イエスさまについて行きました。 あっという間の献身です。この聖書本文に「すぐに」ということばが繰り返し登場することにもご注目ください。ほんとうに「すぐに」だったのです。イエスさまというお方は、「すぐに」ついていくべきお方、それほどのお方なのです。ただ、この「すぐに」には、伏線がありました。 ルカの福音書5章をお読みになればわかりますが、ペテロとアンデレの大漁の奇蹟は、ヤコブとヨハネもすぐそばで目撃していました。そんな彼らが、イエスさまのそばに、あのペテロとアンデレが一緒にいるのを見て、あっ、ついに彼らはついていくことを決断したのか! そう思ったにちがいありません。するとイエスさまは自分たちにもおっしゃった。「わたしについて来なさい。」 イエスさまについて行くには、それにふさわしい「時」があります。このときが、彼ら4人にとってのそのふさわしい「時」であったのです。先週学んだみことばの中に「時は満ち」というイエスさまのおことばがありましたが、私たちもイエスさまの定められた「時」に従って生きていくとき、そこには最高の祝福があります。 イエスさまは、強制的に人を弟子とされるわけではありません。ついて行く側の決断が必要になります。その決断が可能になるのは、決断の向こうにある御国の祝福を確信できているからです。 ただし、その祝福をいただくためには、私たちはときに、後生大事にしているものを捨てる決断をする必要に迫られることもあります。彼らは仕事道具を捨てました。それは仕事を捨てたということであり、また、親を残していきました。 私たちはしかし、弟子になるにはこれほどまでに徹底したことをしなければならないのか、と、ひるみませんでしょうか? そんなことなど自分にはできない! 弟子じゃなくて結構! と、諦めたりしないでしょうか? しかし、間違えてはなりませんが、イエスさまはすべてのクリスチャンに、フルタイムの献身者、教職者になることがみこころだとおっしゃっているわけではありません。ただ言えることは、弟子になるには、それ相応の献身が必要である、ということです。 ただ、聖書をよく読めばわかりますが、ペテロはイエスさまの弟子になっていたときにはすでに結婚していた模様で、その妻の母親のところにイエスさまは行って、病気を癒していらっしゃいます。ヤコブとヨハネも、親子の縁を切った、というほどのものではなかったようで、母親がイエスさまに口出しする場面が出てきます。私たちはイエスさまに従う弟子になることを、この世の係累を断ち切ることのように、極端に捉えてはなりません。 それでも、私たちはイエスさまに従うために、自分が大事にしているものを「捨てる」ように、主から決断を迫られるときがあり、そのときどう決断するかによって弟子としての真価が問われるものです。 韓国にはオンヌリ教会という有名な教会があります。私の韓国留学時代、オンヌリ教会は、今もそうですが「ワーシップ&プレイズ」の働きが盛んでした。そのバンドのドラム担当の兄弟は日本人で、私はその方と同じ語学学校に通っていましたので、交わりのためにときどきお会いして食事をしたりしていました。この方のドラムは一級品で、私も聴いたことがありますが、とにかくすごい技術でした。 ところがある日、私がドラムのことを話題に出すと、彼は、今はドラムを叩いていない、とおっしゃるのでした。どうしてなのか聞いてみると、ドラムが自分にとっての偶像になってしまっていたから、とおっしゃるのです。 私はびっくりしました。その素敵なドラムで、神さまの栄光をあらわす賛美をするのではいけないのですか……それでも彼は、自分にとって偶像だからドラムは叩いていない、とおっしゃるのです。 しかし、あれから25年以上過ぎた今となっては、彼が自分のドラムを偶像と見なしたその気持ちがわかるようになりました。自分の肉的な技術に頼って、霊的でなくなったならば、ドラムを叩くたびに問われる思いになり、とても平安と言えなくなっていたことでしょう。 私たちはいろいろなものに囲まれて暮らしています。テレビやインターネット、噂話、趣味、食べ物や飲み物……そういったものが、純粋にイエスさまの弟子として歩んでいこうとする意志を阻むことは大いにあるものです。そんなとき、私たちは問われる思いになり、心の中から平安が失われることになりはしないでしょうか。 私たちは、イエスさまに従うための大きな決断はできないかもしれません。しかし、ほんの小さなことでも、イエスさまの弟子としてまっすぐな歩みをするために捨てて、その積み重ねでやがて、すべてを捨ててイエスさまに従う者となるようにしていただく、というお導きは、必ずいただくことができます。決断の積み重ねです。 ペテロたちにしても、復活のイエスさまに出会った後でも、あの捨てたはずの舟に戻り、漁をしにいくようなことをしています。捨てきれなかったのです。しかし、イエスさまはそのときにも現れてくださり、彼らに対して、イエスさまの弟子としての総仕上げをしてくださいました。 私たちも時に、すべてを捨てられない自分の姿を見てしまうかもしれません。しかし、信じていただきたいのです。主がひとたび私たちのことをご自身の弟子として召されたなら、私たちは必ず、すべてを捨てて主にお従いできるようになります。諦めないで、お導きに従ってまいりましょう。主が私たちの弟子の歩みを完成してくださるのです。私たちを弟子としてくださる、主のこのご主権に信頼し、主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

「神の国に至る悔い改めと信仰」

聖書朗読;マルコの福音書1:14~15/メッセージ題目;「神の国に至る悔い改めと信仰」 先週水曜日の夜は驚きました。すわ、11年前の再来か! と思われた方も多いと思います。このようなときに私たちは、自分たちの暮らしているこの地上が有限な存在であることを思いませんでしょうか? 身の回りと世界に目を転じれば、コロナの流行、ウクライナの事態、恐ろしいことばかりです。テレビを視るのも憂鬱になります。しかし、私たちは、おっかない話に翻弄されてはなりません。私たちとともにいてくださるお方はどなたですか? イエスさまはどんなお方ですか? はい、それだけでも、私たちに恐れる理由はありません。聖歌総合版493番「やすけさは川のごとく」の4番に歌うとおりです。「よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音(ね)とともに 御子イエス現るるとも などて恐るべしや すべて安し 御神ともにませば」これです。これが私たちの信仰です。 世の終わりは間違いなく、ただでさえ恐ろしいことが起きている現在よりも、はるかに恐ろしい事態が繰り広げられるでしょう。そのような中、さばき主として神の子イエスさまがこの世界に来られます。それは聖書の語るとおりです。しかし、私たちは恐れることはありません。神さまがともにおられるからです。私たちは平安なのです。 「バプテスト教理問答書」の問21を見てみましょう。 問21 神は全人類を罪と悲惨のうちに滅びるままに放置したか。 答 神は全くの好意によって、永遠よりある人々を永遠のいのちに選び、罪と悲惨の状態より救い出し、贖い主により救いの状態に入れるために恵みの契約を結んだ。 戦争は人類の罪の産物で、疫病や自然災害はそのような人間の罪によって自然全体に悲惨がもたらされた結果の産物です。これほどまでに世界が悲惨なのは、人間が罪を悔い改めないためです。しかし、そもそもだれに対して悔い改めればいいのか、その対象を知らないために、悔い改めようがありません。人間の側から、立ち帰るべきお方に出会うすべがないのです。それほど神さまは、私たち人間が罪を犯したその責任を、罪と悲惨の中に放置されるという形で取るようになさっています。 それなら、人間には一切、希望はないのでしょうか? いいえ、希望はあります。この問21の答えにあるとおりです。神さまは全くの恵みによって、救われるべき人を選び、その人と恵みの契約、「あなたを滅ぼさない」という契約を結ばれました。だれをとおしてその契約が結ばれたのでしょうか? 贖い主をとおしてです。贖い主とはだれでしょうか? そう、イエスさまです。 今日の箇所は短いですが、この短い箇所の中に、イエスさまのお働きは要約されています。そして、イエスさまと私たちとの関係もまた要約されています。今日の箇所をもう一度お読みしましょう。――ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。/「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 まず、バプテスマのヨハネが捕らえられるというできごとが起こっています。ヘロデ王の不倫を告発したことで王の逆鱗に触れ、逮捕されたのでした。こうしてヨハネは、表舞台から姿を消しました。しかしそれは、イエスさまに人々を導く働きを全うした、ということでもありました。まさにヨハネが語ったとおり、イエスさまは盛んになって自分は衰えなければならないという、その告白のとおりとなったのでした。 イエスさまはガリラヤに赴かれました。マルコの福音書は、イエスさまの公の生涯をガリラヤでのお働きから描きはじめています。宗教社会の中心であったユダヤから見れば北の果ての辺境の地、疎外された地であるガリラヤ……しかし、イエスさまはまさしくその地において、お働きを展開されたのでした。 私たちがもし、自分は見捨てられている、疎外されていると感じるならば、忘れてはならないことがあります。イエスさまはそのような私たちの味方です。私たちのそばにいてくださいます。私たちに語りかけてくださいます。あとは私たちがイエスさまに近づき、イエスさまのみことばに耳を傾けることです。 今日のみことばは、イエスさまがこの地ガリラヤにてお働きを始められた、宣言ともいうべきおことばです。今日の箇所には3つのキーワードが登場します。神の国、悔い改め、福音です。順に見てみましょう。 まず、神の国です。イエスさまが来られて、神の国は近づいた、とお語りになりました。あなたがたガリラヤに住む神の民のところに、神の国は近づいたのだよ、ということです。 それまでもガリラヤの人たちにとっては、創造主なる神さまの律法に生きることは生活の一部となっていました。たしかに彼らは血筋でいえば、神の民の末裔でした。しかし彼らは、神の国を生きていたわけではありませんでした。 神の国は、神の御子イエスさまがもたらしてくださったものです。御子イエスさまが王として君臨され、王としてお治めになるのが神の国です。当時この地に住む人々は、ローマの圧政のもとにあり、ローマから解放してくれる神の民の王を待ち望んでいました。 しかし、イエスさまという神の国の王は、そのように目に見えるかたちでの国の君主ではありません。神の民ひとりひとりの心の中においてそれぞれを導く、そういう意味での王さまです。 その神の国が近づいた、とありますが、近づいた、ということばは、すでに実現している、という意味を含みます。神の国を来たらせるとき、イエスさまが神の国を実現してくださるときは、父なる神さまがすでに人間に実現してくださった。 近づいた、ならば、必ず来るのです。これはちょうど、駅のホームで電車を待つ気持ちに似ています。時刻どおりに電車が来ることがわかっていても、実際に電車が来るよりも早くホームに着き、待つならば、その待つ時間というものはとても長く感じるものです。私は中学から大学まで、電車に乗って通学しましたが、あのわずか数分の時間はとても長く、退屈に感じられたものでした。しかし、やがてホームにアナウンスが流れます。「間もなく、1番線に電車がまいります。危ないですから、白線の内側まで、下がってお待ちください。」……このアナウンスが流れると、それまで電車を待っていた数分間の苦痛をまったく忘れます。まだ電車に乗っていないにもかかわらずです。 ガリラヤの民は、数分間どころではありません。もう何百年も神の国の到来を待ち望んでいました。それが、イエスさまがおいでになったことで、まだイエスさまが何のみわざも行われる前から、そうです、究極的には、十字架による贖いを成し遂げられる前から、神の国はもうここに来ているというイエスさまの宣言を聞いたのでした。それだけでもどれほどの喜びを彼らは覚えたことでしょうか。 ただし、神さまは力ずく、腕ずくで私たち人間を支配されるお方ではありません。私たち人間の側が、イエスさまが王として支配されることを心から喜んで受け入れることが必要になります。羊飼いに従順に従う羊のように、師匠に従順に従う弟子のように、親に従順に従う子どものように、そのように、王であるイエスさまに従順に従う神の国の民として、私たちはお従いするのです。 そのときイエスさまは、私たちの心の中において私たちを統べ治め、また、私たち神の民の交わりのただ中において、私たちを統べ治めてくださいます。私たちはこの、神の民の国民であることを誇りとするものです。その誇りのゆえに、私たちはいついかなる時も、神の民として振る舞うことを喜びとします。その喜びを知るゆえに、私たちの側から喜んで、神の国の国民にしていただくよう、神さまにお近づきするのです。 しかし、このように近づいている神の国に入るには、条件があります。そこで第二のキーワードにまいります。「悔い改め」です。 「悔い改め」に関しては、先々週のバプテスマのヨハネについて学んだメッセージでも取り上げましたが、悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分をご覧ください。罪だらけです。自分は神さまの似姿に創造されている、と教えられていても、この自分の姿には恥じ入りたくなります。 私たちは罪を犯します。陰口をたたきます。人を馬鹿にします。むさぼります。感情的になります。しなければならないこと、すなわち神と人とを愛することをしません。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この罪人である自分の姿に目を留めるならば、きよい神さまの基準からはあまりにも遠く、自分は到底救われない、神さまの御前に達することなどできないと思うものです。 悔い改めとは、そのような罪にけがれた自分から、きよい神さまへと方向転換することです。私たちの見るべきはきたない自分ではありません。きよい神さまです。 とは言いましても、きよい神さまに自分の目を転じるには、まず自分自身の罪を認めることがどうしても必要となります。罪は醜いものです。できれば見たくないものです。そんな罪を犯している自分であることなど、認めたくはないでしょう。しかし、自分がそれほどの罪を犯す罪人であることを、どんなにいやでも認めることがなければ、その罪を犯すことを、そして、その罪を犯すほどの罪人であることを、「悔いる」ことなどできません。「悔い改め」において最初に必要なのは「悔いる」ことです。 しかし、自分の罪にいつまでもこだわってばかりいるようではどうでしょうか? 自分が過去犯してしまったことにいつまでもこだわり、くよくよする……それは「悔い改め」ではありません。「悔い」です。「改め」になっていないのです。「悔い改め」は、自分の罪を悔いることと、きよい神さまに向けて自分の視線を「改める」ことと一(ひと)セットです。 さて、悔い改めた結果、私たちの視線は自分から神さまへと向かうわけですが、そのとき私たちは、神さまがどのようにして私たちを受け入れてくださるか、そのことも理解している必要があります。 そこで3つ目のキーワード、それは「福音」です。イエスさまはおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めてきよい神さまへと目を転じるうえで必要になることは、「福音を信じる」ことです。 福音とは何でしょうか? よき知らせです。それも、ただのラッキーなことではありません。 新しい時代が来たというよき知らせ、皇帝が即位したというよき知らせ、国が戦いに勝利したというよき知らせ、それが福音ということばの原語のギリシャ語「ユーアンゲリオン」ということばの持つ意味であると、先々週のメッセージで私たちは学びました。 新しい時代が来たというよき知らせ、イエスさまがこの地に来られ、罪の縄目に捕らえられていた人々を解放してくださる時代が来ました。皇帝が即位したというよき知らせ、イエスさまが王として永遠に君臨される時代が来ました。戦いに勝利したというよき知らせ、イエスさまが罪と死とサタンに勝利し、永遠のいのちを与えてくださるという時代が来ました。まことに、イエスさまという王さま、神の国の王さまが来られたということは、人間の世界を、人間の歴史を、根本から変えました。 そのような新しい時代に生きる民、イエスさまを王とする民にしていただくために必要なこと、それは消極的には悔い改めですが、積極的には福音を信じることです。私たちの宗教的な努力ではどんなに頑張っても、神さまに認めていただくことはできません。しかし父なる神さまは、そのような私たちがみもとに来ることができるように、道を備えてくださいました。それが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃったお方、神の御子イエスさまという道です。 イエスさまを信じるだけ、それだけで人は救っていただけます。そこには何の努力もいりません。これほどのよき知らせはほかにありません。しかし、信じ方というものがあります。イエスさまが私の罪のために、十字架にかかってくださり死んでくださったお方、よみがえって罪と死に勝利してくださったお方と信じること、それが必要です。 さあ、悔い改めて福音を信じなさい、とおっしゃったイエスさまのみことば、それはどんな意味があるか、6つの問いから考えてみましょう。 まず、何をすることをイエスさまはお命じになったか、ですが、それは悔い改めることと福音を信じることです。それがどのようなことであるかは、すでに学んだとおりです。 そして、どのように、ですが、これもすでにお話ししましたとおり、イエスさまの十字架を信じることだけをする、です。しかしこれは、2つの意味があります。まず、まだイエスさまを信じ受け入れていない方の場合は、イエスさまの十字架を信じ受け入れることによって、心の中にイエスさまを招き入れることになります。そのように救い主としてイエスさまを心に招き入れることは、一度だけで大丈夫です。なぜならば、わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない、と、イエスさまご自身が語られていると、ヘブル人への手紙13章5節が語っているからです。 決して離れないならば、一度受け入れれば充分です。イエスさまを受け入れる祈りを何度もする必要はありません。人はそうして、神の国の民になります。 しかし、イエスさまの十字架を信じることは、クリスチャンの人生にとって一生もののことです。私たちはいかに神の子どもとされているとはいえ、まだ肉が生きていて罪を犯すものです。しかし私たちはその罪のゆえにさばかれてはなりません。私たちはどんな小さな罪でも、イエスさまの十字架の前に持っていく必要があります。日々のイエスさまとの交わりにおいて、私たちは罪を告白するのです。恥ずかしくはありません。イエスさまは私たちの犯した罪を、すべて知っておられます。 しかし、イエスさまは私たちが悔い改め、十字架によって罪が赦されていると信じるならば、その悔い改めのいけにえを喜んで受け入れてくださいます。十字架を信じることは求道者がクリスチャンになるためだけではなく、私たち主の子どもたちにとっても、いつでも必要なことです。それが神の国の民として生きる道です。 なぜ、信じなければならないのでしょうか? それは、これが神のみこころだからです。少し長いですが、ペテロの手紙第二3章3節から14節をお読みしましょう。 私は何も、この2022年はこのみことばにあるような時代になっているから信じるべきだ、と脅かしているわけではありません。このみことばは語られてすでに2000年が経とうとしていますが、2000年間有効でありつづけたみことばです。そういう意味では現代にかぎらず、イエスさまがこの地に来られ、十字架に死なれ、復活され、昇天されて以来、2000年にわたってずっと、この世界は世の終わりだったということができます。 ともかく、この世の有様が過ぎ去ろうとも、神さまは人間に対して新しい天と新しい地を用意してくださっている、そのことに希望を持っていただきたい、そして、そこに入るうえでの神さまのみこころは、この福音のみことばを信じるゆえに、悔い改めに進むことである、とおっしゃっているわけです。 では、だれが信じるのでしょうか? ここにいる私たちひとりひとりです。私たちひとりひとりが、神の国を受け継ぐために、悔い改めて福音を信じるのです。 いつ信じるのでしょうか? 今この瞬間からです。今までは充分な信仰をもつことができなかったかもしれません。しかし、神さまはそんな私たちに、チャンスを与えてくださっています。今からでも遅くありません。福音を信じるとは、福音を生きることです。神さまとひとつ、イエスさまとひとつの人生を生きることです。今から始められます。 どこで信じるのでしょうか? 今この場所からです。 そこでみなさまには、今この場で決心していただきたいのです。さきほどの第二ペテロ3章のみことばの、11節から14節をもう一度お読みします。 イエスさまの到来を待ち望んでいるならば、イエスさま、すぐにでも来てください、と、罪を避け、神さまに近づく生き方ができるはずです。それでもときに、とても神さまに見せられないような後ろめたい生き方をしてしまう、罪を犯してしまう、それが私たちです。しかし私たちは、イエスさまの十字架によって赦されています。私たちにあるものは、悔い改め、そして、かぎりない赦しと天の御国の福音を信じる信仰です。悔い改めて福音を信じる、神の民としての生き方を、今週も、そしてこれからも一生かけて全うする、その恵みを主が与えてくださいますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 しばらく祈りましょう。だれが信じるのでしょうか? いつ信じるのでしょうか? どこで信じるのでしょうか?

「神の霊により荒野へ」

聖書箇所;マルコの福音書1:12~13(新約65ページ) メッセージ題目;「神の霊により荒野へ」 初めに、本日の礼拝から、「バプテスト教理問答書」の学びを、メッセージの導入の部分において行い、その学びをメッセージの導入としたいと思います。本日は20番目の問答です。このようにあります。/問20 人が堕落した状態の悲惨とは何か。/答 全人類は堕落によって神との交わりを失い、神の怒りと呪いのもとにあり、この世におけるすべての悲惨と死そのもの、さらに永遠の地獄の刑罰を受けるべきものとされている。 人が堕落したのは、自分の意志によることです。自分から望んで神さまから離れる道を選びました。そのようになった人間とは、もはやきよい神さまは交わりをお持ちになることはできませんでした。神さまはそのようにして、けがれて神と敵対するようになった罪ある人間に対しては、怒りと呪いを抱かれ、その神さまの怒りと呪いのもとにおかれているゆえに、あらゆる悲惨、そして死そのもの、永遠の地獄の刑罰に至るまで、人間は受けるようになってしまったのでした。 よく人は言います。神がおられるならば、なぜこのようにこの世界は不幸なのか? 戦争や飢餓や貧困があるのか? しかし、聖書がはっきり語っていることは、世界がこのようになってしまったのは、人間が神さまに背を向けたためである、ということです。人間は神さまに背を向けた責任を、このようにあらゆる不幸と悲惨を身に負うという形で取らなければなりません。私たち人間の不幸は、負うべくして負っているものなのです。 では、私たちの世界にはもはや、救いはないのでしょうか? いいえ。神の御子イエスさまは、そのような死の悲惨、地獄の不幸から私たち人間を救うため、この世界に来られ、私たち人間が受けるべき罪の罰を身代わりに、十字架の上で受けてくださいました。私たち人間はただ、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じるだけで罪赦され、救っていただき、神の子どもとしていただけます。 そのように、人を救うためにこの世界に来られたイエスさま。時が来て、イエスさまが公の生涯を始められるにあたり、ヨハネという人物からバプテスマをお受けになったことについては、先週学んだとおりです。しかし、イエスさまの公生涯、世に対するデビューの前に、イエスさまには通られなければならない場所がありました。どこを通られたのでしょうか? 12節のみことばです。 ――それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。――そうです。イエスさまが行かれた場所は荒野でした。しかし、このみことばによれば、イエスさまはおひとりのご意思で荒野に行かれたわけではありませんでした。 そうです。「御霊は……追いやられた」とあります。御霊、神の霊によって、イエスさまは荒野に追いやられるようにして赴かれたのでした。その荒野にて、イエスさまはどのように過ごされたのでしょうか? 13節です。――イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。―― まず、荒野とはどのような場所でしょうか? 先週、バプテスマのヨハネについて学びましたが、ヨハネもまた荒野にいました。荒野は都会とちがって何もなく、シンプルにならざるをえない場所でした。しかしそれでも、ヨハネはいなごと野蜜を口にしていのちをつないでいました。イエスさまはといえば、マルコの福音書にはありませんが、まる40日40夜、断食をして過ごされました。荒野のような過酷な場所でそのように過ごされたのでした。こうなると、御父なる神さまに拠り頼む以外に生きるすべはありません。 40日、というのは、旧約聖書を読むと大事な数字であることがわかります。出エジプト記24章によれば、モーセが神の民のために神の教えを受けるべくシナイ山にとどまったのも40日でした。荒野の中の、さらに山の中、モーセはそこで主にまみえたのでした。また、列王記第一の19章、エリヤは主にまみえ、主ご自身から食べ物を授かって元気を回復してから、40日40夜荒野を歩き、神の山ホレブに着き、そこでまた主にまみえました。荒野における40日、それは主なる神さまにまみえるために、主が神の人に備えられた時であり、イエスさまもまたその時を荒野にて体験されたことを覚えておきたいと思います。 モーセとエリヤといえば、変貌の山にてイエスさまと、イエスさまのご最期について話し合っていた人物でもあったわけですが、彼らがそのような姿でイエスさまの御前に時を超えて現れたのは特別であり、そのことにおいても彼らは神の人でした。 しかし彼らは、単に神さまと親しい交わりを持つことができたゆえに特別だったのではありません。モーセはイスラエルの民をもろとも、神さまのみこころにしたがって出エジプトさせ、約束の地を目指して導いた神の人でした。エリヤも、偶像礼拝に腐敗したイスラエル全体にカルメル山の雨乞合戦をとおして神さまのご存在と御業を示し、彼らイスラエルをして「主こそ神です。主こそ神です」と言わせたほどの神の人でした。モーセにしてもエリヤにしても、神の民を神さまのご存在とみこころに導いた人でした。 イエスさまもまた、ご自身の民を神さまのご存在とみこころに導かれるお働きを、これからなさろうとしていらっしゃいました。それに先立って神の霊によって荒野に導かれ、そこで悪魔の試みをお受けになったのは、やはり、私たち神の民のためでした。イエスさまは神の民の初穂として、神の民を代表して荒野に導かれ、荒野にて悪魔の試みをお受けになったのでした。この「荒野」という場所において、神さまのみこころは少なくとも2つの形で現れています。 ひとつは、厳しいところを通らされる神さまのみこころ。神の霊はイエスさまを、荒野という厳しいところへと導きました。もうひとつは、厳しいところをお通りになる神の子イエスさまのみこころ。イエスさまは、荒野に行って40日40夜とどまれ、という、父なる神さまの厳しいみこころに従順になられました。 そうです。御父はイエスさまを厳しい環境に追いやられ、イエスさまはその厳しい環境の中に、御父への従順のゆえにとどまられました。その体験をイエスさまが人類の初穂、神の民の初穂としてされたということは、まずご自身が御父のきびしいみこころに従順になられることにより、神の民に対し、従順になることの意味、また、その厳しさの向こうにある祝福を、イエスさまがお示しになったということです。 先週も「荒野」という厳しい環境がむしろ祝福であることをお話しし、その繰り返しのようになりますが、人は荒野のような厳しい環境の中で神さまだけに拠り頼むようになる訓練をいただき、この世の過ぎ去るものから目を離し、神さまだけを見るようになる祝福をいただきます。この世はあらゆる情報にあふれています。悲しいニュース、人を快楽に走らせる情報、どうでもいいけれどもなぜか心惹かれてしまう情報……しかし、大事なもの、ほんとうに必要なものはひとつだけで、それは神さまとの交わりです。 神さまがほんとうに愛してくださっている人は、神さまが親密な交わりを持ってくださるために、あえて荒野のような環境に置かれることがあるものです。病気ですとか、事故ですとか、家族の問題ですとか、仕事の問題ですとか、経済的な問題ですとか……そういうことを私たちはつい、不幸のひとことで片づけてしまってはいないでしょうか? しかし、あえて申しますが、そのような、一般的には「不幸」と言えるできごとの中で神さまを尋ね求めるように導かれ、そこで神さまの深い慰め、また癒やしを体験できるならば、それはかえって祝福といえます。そうです、いわば「荒野の祝福」を私たちは体験します。この祝福については、のちほど詳しくお話しします。 イエスさまがいらっしゃった荒野には、3種類の存在がありました。悪魔、野の獣、御使いでした。まず、悪魔とはどのような存在でしょうか? イエスさまを試みる存在でした。悪魔は大胆不敵にも、神の子を試み、誘惑して、父なる神さまへの不従順に導き、人類を救ってくださる神さまのみこころを打ち壊そうとしたのでした。 今日の箇所にはありませんが、マタイの福音書とルカの福音書によれば、悪魔はイエスさまに対し、3つの試みを仕掛けています。まず、40日40夜の断食で空腹を覚えられたイエスさまに、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と語りかけました。イエスさまはこの誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というみことばをお示しになりました。 イエスさまが悪魔の誘惑を退けられたのは、もし、悪魔の言うことを聞いたならば、それは神さまに対する不従順であり、悪魔に対する従順であるからです。それは絶対にしてはならないことです。たとえ肉体が空腹を覚えて、食べ物を必要としていたとしても、悪魔の言うことを聞いてはなりませんでした。 実際、イエスさまにとってのほんとうの食べ物は、「神のみことばをお聞きし、お従いする」ということでした。みことばをお聞きし、お従いすることをしなければ、飢え死にしてしまう、というほどのものです。イエスさまは、ほんのわずかな安逸のために悪魔のことばを聞くのではなく、厳しさの中でいのちを保つために神のみことばを聞くことが人に必要なことを示してくださいました。 また、悪魔はイエスさまを神殿の頂に立たせ、そこから飛び降りてみなさい、と、詩篇91篇のみことばを引用し、御使いたちがあなたを守るであろう、と誘惑しました。今度はみことばを用いての誘惑です。サタンに従っているようでも、みことばのとおりに振る舞っているではないか、正しいことをしている……しかしイエスさまは、「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばを引用して退けられました。 いかにみことばが語っているとはいえ、イエスさまは肉体を持った人であり、人がそのような高いところから飛び降りたら死んでしまいます。そのようにして死んでしまったら、イエスさまが十字架で死なれるというみこころは永遠に成し遂げられず、サタンは勝利します。しかし、サタンはあくまでそれはみこころであるかのように偽装して、大胆不敵にもみことばさえ用いました。どうだ、神の口から出るひとつひとつのことばによって人が生きるというなら、このみことばに従うことでもあなたは生きるはずだ! みことばへの従順がいのちそのものであるイエスさまは、しかし負けてはおられませんでした。問題はみことばを文字どおりに行うことではなく、どのような精神で守り行うかにあることを、イエスさまはお示しになりました。サタンよ、おまえのみことばの用い方は、神を試みるという恐ろしい罪を犯していることだ。それをほかならぬ神のみことばがとがめている。ただちにやめよ。このようにイエスさまがお用いになったみことばは、神に示された、などと言って、教会の中には何の平安もないのに無茶な行動に出てしまうようなクリスチャンに対する戒めのことばともなっています。 そして悪魔は、世界中の国々とその栄華とをイエスさまに見せて、自分に対してひれ伏すならばこれらすべてを上げよう、と迫ってきました。これはどれほどの誘惑だったことでしょうか? イエスさまがその国々の王としてあがめられたいと思われたからではありません。 そのような栄華とは、サタンの支配下にあるかぎり、すべてはむなしく、また罪深いものです。世界中の人々はその派手さの中でサタンの奴隷として搾取され、傷つけられ、そして永遠に滅びていきます。サタンは、そのような地獄が必ず背後にあるこの世の栄華をあなたに渡す条件はただ一つ、俺さまを拝むことだ、と、イエスさまを誘惑しました。 しかし、これもイエスさまは退けられました。みことばは語っている、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」。間違ってもサタンを礼拝してはならなかったのでした。そして、イエスさまにとって主を礼拝し、主に仕えることを実践することとは、十字架におかかりになり、ご自身のいのちをもって人をサタンの束縛から贖い出すことでした。十字架こそが人々をサタンの支配から救い出すことであって、間違っても、サタンにひれ伏して救ってもらうことではなかったのでした。 私たち人間も、この世の中をよくするためにあれこれ考え、行動します。その働きをする人の中にはクリスチャンも多く含まれます。もちろん、そのようにして世の中を良くしていこうとする人々の存在をとおして、神さまはこの世界に平和と秩序を保っておられ、それは素晴らしいことにはちがいないのですが、私たちクリスチャンは少なくとも、十字架にかかられたイエス・キリストのほかに救いはないことをどこまでも信じ、イエスさまによって平和を実現することをしていかなければなりません。 この世はあまりにも、イエスさま以外の道をとおして平和を実現しようとしていて、クリスチャンさえもその流れに迎合しようとしています。イエスさま以外にも救いがあると主張して他の宗教と妥協するような宗教統一の運動など、その最たるものでしょう。私たちは人から何と言われようと、イエスさま以外に救いはないことを声高らかに叫ばなければなりません。 このように、悪魔の試みを受けられ、その試みをことごとくみことばによって退けられ、サタンではなく父なる神さまに従順であられたイエスさまのお姿は、私たちもそのように生きるように模範を示されたお姿であり、私たちもそのように生きることができるという希望を示されたお姿です。 神さまはあえて荒野のような環境に人を導かれ、悪魔の試みにさらされることもありますが、私たちは最後には勝つ道もまた同時に与えられています。私たちがみことばを普段からお読みし、サタンの攻撃が臨むようないざというときにみことばをもって対処するならば、私たちはサタンに勝ちます。また、私たちがサタンではなく、神さまに最後まで従順であるとき、神さまは私たちに勝利を与えてくださいます。 このように荒野とは、サタンの待ち受けている環境ではありますが、それだけではありません。荒野とは野の獣のいる場所でもあります。 野の獣、それはおとなしい獣に襲いかかり、噛み砕くような猛獣も含まれていて、そのような猛獣がたむろするような場所ならば、だれが行きたいと思うでしょうか? しかし、神の霊はイエスさまをそのような、猛獣のたむろする場へと導かれたのでした。 しかし、創造主なるイエスさまに襲いかかる猛獣はいませんでした。イエスさまはかえって、このような野の獣とともにおられながら、そのような獣が襲いかからず、平和に過ごすことを実現されました。それは、イザヤ書11章に書かれた、メシアの来臨によって世界にはどんなことが起こるかという預言の成就と言えました。イザヤ書11章の6節から10節をお読みします。 ――狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。/雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。/乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。/わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。/その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。 草食動物と肉食動物の関係をひとことでまとめると、それは「弱肉強食」です。草食動物が肉食動物に襲われて食われ、血を流して死にます。それは平和の失われた状態であり、私たちはいかにそれを当然のこととして受け止めようとしても、やはりそれは残酷なさまであり、いざ目にしたら目を背けたくなるでしょう。そのような、動物の世界に展開する「弱肉強食」、その姿はそっくりそのまま、人間に当てはまります。強い者が偉い、弱い者は死ね……それが、アダムの堕落以来、人間の世界で繰り返されてきたことでした。人間はその意味で獣のようです。 しかし、イエスさまがともにおられることを認めるならば、人は弱肉強食の獣ではなく、平和をつくり出す「人」となります。人はお互いを見るならばお互いの立場のちがいや粗が見えてならず、受け入れられなくなったり争ったりするでしょう。しかし、そのような罪を同じイエスさまが十字架によって赦してくださったと信じるならばどうでしょうか? 私たちはだれが強いとか、だれが偉いと争ったりするのをやめて、ただ、イエスさまにだけともに栄光をお帰しするようになり、ひとつになれるのではないでしょうか? こうして、イエスさまによって平和が実現するのです。 私たちの生きる世界は荒野のように、弱肉強食の人間関係にさらされる場であり、神の霊はあえて私たちをそのような厳しさの中に送っていらっしゃいます。 しかし、私たちはあきらめてはなりません。この世界は獣ばかりではありません。ちゃんと、イエスさまと和解させられて平和を保っている「人間」がいる場所です。私たちはそのような「人間」とともにイエスさまのもとにいることによって、荒野の中でも平安を体験します。この「教会」こそは、まさに荒野の中でイエスさまを体験する場所です。お互いの顔を見ましょう。もう私たちはイエスさまによって、獣ではないのです。私たちの交わりをとおして、私たちを贖い、平和を与えてくださったイエスさまをあがめましょう。 そして、荒野のイエスさまとともに、だれがいたのでしょうか? 御使いがいました。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節の定義に従うと次のとおりです。――御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。―― 御使いはまず、救いそのものでいらっしゃるイエスさまに仕えました。どのように仕えたかは具体的に書いていないので、聖書のほかの箇所から類推するのみですが、イエスさまが十字架を前にして血の汗を流してお祈りされたゲツセマネの園において、御使いが来てイエスさまを力づけたとありますので、ここでも、40日の断食の祈りを完遂して御父への従順を成し遂げられるように力づけた、という形でお仕えしたと見ることができるでしょう。 私たちもまた、救いを受け継ぐことになる者として、その救いが人生において完成するように、主が万軍の御使いを送ってくださっている存在です。私たちはときに、主にお従いすることにおいて孤独な戦いを強いられていると思うことはないでしょうか? しかし、そうではないのです。 私たちが厳しい戦い、荒野のような環境に置かれているとき、御使いは神さまの命(めい)を受けて、私たちを励ましてくれています。私たちが致命的な不従順を犯すことがないように、御使いはあらゆる道で私たちが石に打ち当たらないように守ってくれています。神さまはそのように御使いに命じて、私たちを守ってくださっています。なぜでしょうか? 私たちが神さまの大事な子どもだからです。 私たちは強くありません。神さまが送り出されるこの環境が、ほんとうに耐えがたいと思えることもあるものです。しかし、私たちが打ち倒されないでいるのは、このような荒野の生活の中においても、神さまご自身が私たちのことを心配してくださり、御使いに命じて私たちのことを守っていてくださるからです。 私たちは決して孤独ではありません。このような守りをつねに与えてくださる神さまに感謝し、神さまの御名をほめたたえましょう。 私たちが生きているこの人生は、決して楽ではないと感じていらっしゃることと思います。それは、私たちの人生が荒野だからです。 荒野にはサタンが待ち構えていますし、野の獣のような怖ろしい人間もたむろしています。しかし、忘れてはならないのは、神さまが主権をもってあえてそのような環境に私たちのことを送り込まれた、ということです。イエスさまがまず、そのような荒野でサタンにみことばをもって勝利されたように、私たちもみことばによってサタンに勝利します。 そして、イエスさまの周りには、野の獣も襲いかからないような平和がありました。イエス・キリストこそ平和です。私たちもイエスさまによって、弱肉強食を当然と思うような獣から、平和をつくり出す幸いな存在、人間、神のかたちにふさわしいものにしていただきます。イエスさまにあって平和を保ちましょう。そして、イエスさまによって平和をつくりましょう。私たちはだれと平和をつくりますか? さらに、この荒野のような人生においても、神さまは御使いを送って、私たちが救いを受ける者としてふさわしい人生を送れるよう、私たちのことを守ってくださいます。私たちのことを力づけ、励ましてくださいます。私たちは人生に絶望していないでしょうか? 逃げ出したい、と思ってはいないでしょうか? 今このときこそ、荒野の中でも瞳のように私たちを守ってくださる神さまに感謝し、ますます、神さまの守りを求めてまいりましょう。私たちは特に、どの領域に神さまの守りを必要としていますでしょうか? しばらくお祈りしましょう。 私たちはサタンに負けている、と思っていますか? サタンに勝利したイエスさまを思いましょう。イエスさまの勝利、十字架と復活の勝利によって、私たちもサタンに勝利していることを覚え、神さまとイエスさまに感謝しましょう。 私たちの荒野の生活において、なお苦しめるような存在、それが、獣のような人間です。しかし、私たち教会の兄弟姉妹が、獣の状態からイエスさまによって平和を与えていただき、神と和解させていただいたゆえに人どうしが和解させられていて、こうしてお互いに平和が保たれていることに感謝しましょう。そして、その平和を必要としている人の顔と名前がもしも心に浮かぶならば、その人にキリストの平和が与えられ、その人とイエスさまによって和解できるように祈りましょう。 最後に、神さまご自身が荒野のような私たちの人生において、たえず守ってくださり、ご自身にのみ拠り頼むように私たちのことを導いてくださっていることを覚え、感謝しましょう。私たちは特に、どんな領域で神さまの守りをいただいているか、具体的に挙げて、感謝の祈りをおささげしましょう。

「イエスさまへの導き手」

聖書本文;マルコの福音書1:1~11/メッセージ題目;「イエスさまへの導き手」/ 今日から私たちは、マルコの福音書の学びを始めます。著者のマルコは「使徒の働き」によれば、一度パウロとバルナバの率いる伝道チームから離れて故郷のエルサレムに帰ってしまったというしくじりをした人でした。そのマルコを次の伝道旅行に連れて行くかどうかをめぐって、彼は連れて行くべきではないと主張したパウロと、彼にチャンスを与えようとしたバルナバの間に激しい対立が起こり、結局、パウロのチームとバルナバのチームに分かれてしまいました。いわば分裂をもたらした原因をつくった人でもあったのでした。 しかし彼は、バルナバのもとでしっかり育てられ、のちにはパウロと和解し、パウロの役に立つ働き人となりました。そしてこのようにして、四福音書の中でも最初に書かれた福音書と言われている、マルコの福音書をものしたのでした。マルコの福音書は異邦人に読まれることに主眼が置かれていて、苦難を受けるしもべとしての神の子なるイエス・キリストを強調しています。 以上のことを踏まえたうえで、それでは本文へと入っていきましょう。1節のみことばです。――神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。――このみことばは大事です。この「はじめ」ということばは、七十人訳という、イエスさまの時代のギリシャ語聖書、その創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」の「はじめに」と同じことばです。天地万物の存在を神さまが始めさせられたのと同じ次元で、イエスさまの福音というものが語られています。 マルコがこれから伝えようとしているのは、単なる人間イエスではありません。「神の子、イエス・キリスト」、「神は救い」という意味の「イエス」と名づけられたこのお方が、「キリスト」すなわち「油注がれた者」、このお方が「神の子」であるということです。イエスさまは神さま、王さま、救い主……この「イエス・キリスト」という名はあまりに偉大で、十戒のみことばのように「みだりに口にすべき御名ではない」ことがわかります。しかし、このお方の御名によってこそ、人は救われる、私たちも救われるのです。この名のほかに、天下に救いはありません。 このイエス・キリストの「福音」……福音とは何でしょうか? ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」これは、新しい時代が登場した、皇帝が即位した、戦争に勝利した……そういった「よき知らせ」が本来の意味です。ウクライナとロシアの戦争が終結したとしたら、福音でしょう。コロナが終息し、人類がコロナとの戦争に勝利したとしたら、福音でしょう。そのような「よき知らせ」、イエス・キリストというお方が来られたことは、そのような「よき知らせ」に匹敵することであるというのです。 まことに、福音、よき知らせは、イエス・キリストから始まっています。イエス・キリストというお方は、その「よき知らせ」、福音そのものでいらっしゃり、その「はじめ」はこのようであった、という、天地創造のみわざに匹敵する救いのみわざの記述が、今から始まります。これは大事です。私たちはしっかり見届けましょう。 2節、3節のみことばにまいります。――預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。/荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」――預言者イザヤの書、とありますが、厳密に言えばこの箇所はいくつかの聖書箇所から引用されています。 「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす」、これは、出エジプト記23章20節のみことば、「彼はあなたの道を備える」、これは、マラキ書3章1節のみことばです。それ以降の3節のみことばがイザヤ書のみことば、イザヤ書40章3節ですが、あえて「預言者イザヤの書」と要約されているのは、この人物の出現は預言者イザヤの預言が成就したことであるのと同時に、旧約聖書そのものの預言のみことばが成就したことであることを示しています。 わたし、すなわち神さまが、あなた、すなわち神の子キリストの前に、道を備える使いを遣わされる、この使いは、荒野で叫ぶ者の声である、何と叫んでいるのかというと、「主の道を用意せよ、主の通られる道をまっすぐにせよ」……。 神の子なる救い主を迎えることにおいて、人は整った道にお迎えする必要がありました。あなたがたの人格は救い主を迎えるにふさわしく充分に整っていなさい、これが、神さまが人に対して発せられたメッセージです。この神の使いの人物は、まさにこのような備えを人々にさせるために、神さまがお送りになった人であったわけです。この人物、ヨハネは「さきがけ」とも言うべき人物です。 3節の終わりの部分から5節までをお読みします。――そのとおりに、/バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。/ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。――この旧約聖書のみことばどおりに神さまが送ってくださった人、救い主が来られるための道を人々に整えさせる人は、バプテスマのヨハネだったというのです。彼のしたことは、バプテスマを授けることでした。 当教会はバプテスト教会であり、水に沈んでいただくことで神に救われたことを公に告白します。私は教会に初めて出席した日、それは1987年の12月のことだったと記憶しますが、その日教会ではバプテスマが執り行われました。バプテスト教会を標榜していたわけではないのですが、浸礼によるバプテスマで執り行われました。 私はそれまで、滴礼による洗礼というものは知っていても、浸礼によるバプテスマというものは知らず、したがって初めて見たわけでしたが、人がガッと水に沈められ、そして引き上げられる様子に、なかば感動のようなものを覚えました。しかしその意味を知ったのはそれからだいぶ経ってからで、これはきたない身を清める儀式ではなく、悔い改めて古い人が死に、新しい人に生まれ変わらせていただいたことを公にすることであると知ったのでした。 そうです。ヨハネが説き、実践したバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でした。人々はそのとき、律法の細かい規則によって、自分の罪をいやでも認めざるを得ない状態にありました。 しかし、ヨハネはそんな彼らに、その罪を悔い改めるなら赦されることを説き、そのしるしとして彼らにバプテスマを授けました。悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分は死に、神さまのいのちに生きる、それを象徴するのが悔い改めのバプテスマです。 律法を守り行うという神の基準に達しないこの罪人は水に葬られ、水から引き上げられて神さまによって新しいいのちに生かされる、この、わかりやすくも奥が深い「バプテスマ」というものを荒野を流れるヨルダン川にて行い、たちまちヨハネのもとに人々が押し寄せました。神さまはヨハネにバプテスマを執り行わせることによって、人々に必要なものは悔い改めと、新しく生まれることであることを教えられ、このようにして人々を救い主の到来に備えさせられたのでした。 そんなヨハネのライフスタイルもみことばは語っています。6節です。――ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。――ヨハネのこの格好は、第二列王記1章8節の預言者エリヤの服装そのものです。もはや王に何の期待も持てなかった時代のイスラエルに燦然と輝く預言者エリヤ……エリヤはどこまでも、人々を神さまのもとに導く導き手でした。この格好で過ごしたヨハネは、まさしくエリヤの再来でした。 ヨハネは騒がしい都会を避けて、荒野に住みました。便利な生活をしていると、なんでわざわざ荒野に住むのか、と私たちは思いませんでしょうか? たしかに荒野は厳しい環境です。しかし同時に、荒野は、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、約束の地に入るという希望をいだいて神からの訓練を受けた場所でもあります。ヨハネは荒野において、悔い改めの先にある救い主との出会い、それゆえに神さまが与えてくださる天国の恵みへと、人々を導いていたのでした。 しかし、荒野はやはり厳しい場所であることに変わりはありません。ヨハネが口にしたものはいなごと野蜜、最低限の栄養が取れれば充分というような、きわめてシンプルな食生活です。これは、イスラエルの食べたものがマナだったことをほうふつとさせます。 しかし、マナは神さまの恵みであり、マナがなければ飢えるか、栄養失調になるかして死んでしまいます。同じように、いなごと野蜜も神さまが特別に荒野に備えてくださった食べ物です。ヨハネは少なくとも、この何の変哲もない食べ物を感謝していただき、荒野での主の働きの糧としていたのでした。 私たちはときに、生きることに厳しさを覚えるでしょうが、それでも実際の生活を見てみるならば、暖衣飽食、ヨハネのことを思うと、あまりにもぜいたくな生活をしています。せめて私たちは、感謝することを欠かしてはならないのではないでしょうか。ヨハネが最低限の食べ物で養われたことを思うならば、私たちはあまりにも、感謝することでいっぱいでしょう。 また、ヨハネのことを思えば、いらないものも結構ありはしないでしょうか? 私たちはテレビや携帯電話にどれほど向かっているでしょうか? いや、まったく不必要とはいいませんが、そこに映し出される情報は、果たして私たちの生活にとって「どうしてもなければならない」ほど大事なものでしょうか? ヨハネのシンプルさを、私たちはどこかで見習えはしないでしょうか? しかし、ヨハネがこのようにシンプルな生活をしながら荒野にいたのには、理由がありました。見てみましょう。7節と8節です。――ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。/私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」 ヨハネがしていたバプテスマを授けるという働きは、たしかに大事なものでしたが、それは水によるという形式的なものにすぎないことをヨハネは自覚し、また、そのように人々に教えました。ほんとうのバプテスマは、人を新しいいのち、永遠のいのちに新生させてくださる聖霊によるものであり、このまことのバプテスマをあなたがたに授けてくださるお方が、私のあとからおいでになる。人々は私のことをすぐれた預言者のように思っているかもしれないが、その方は王なるお方であり、私はその方の足もとにひざまずいて、靴の紐を解いてさしあげる値打ちさえない、それほどすばらしいお方が、私のあとに来られるのである。さあ、この方を見なさい。 ヨハネが荒野にいたのはまさに、あとから来られる偉大なお方を人々に示すためでした。私たちの生きる目的も、このように、王の王なる救い主、神の子キリストを人々に指し示すためです。 私たちは自分のことをどう思いますでしょうか? ヨハネに比べればはるかに小物と思うかもしれませんが、何とイエスさまご自身が、天で最も小さなものでもバプテスマのヨハネより偉大です、と語っていらっしゃいます。私たちがもし、イエスさまを信じて永遠のいのちにあずかっているならば、このバプテスマのヨハネよりも偉大な存在としていただいているのです。しかし、そんな私たちの偉大さは、どのようにして現れるのでしょうか? まさに、神さまのご栄光、イエスさまのご栄光を、人々の前に現すことによってです。私たちの行いが、キリストを指し示すようにすることが必要です。 私たちの生きるこの地は、決して楽な場所ではないでしょう。なぜならば、神さまがあえてこのような厳しい場所、荒野のような場所に、私たちを送られたからです。私たちは茨城県央のこの荒野のような場所で、キリストを指し示す生き方をするように召されています。その生き方をするためにも、私たちはいなごと野蜜のようなシンプルなもので養われたヨハネの生き方にならう必要があります。 私たちがキリストを指し示す生き方をする上では、多くの物は必要ありません。イエスさまの弟子が宣教に出ていくとき、多くの物はいらないとイエスさまが送り出されたように、私たちもイエスさまを伝えるにあたっては、多くの物は必要としません。金銀はなくていいのです。私たちには全能にして偉大なるお方、ナザレのイエスの御名があります。この御名によって祈るとき、神さまはこの祈りを聴いてくださり、人々を癒し、立ち上がらせ、私たちをとおして神の国を拡大してくださるのです。 しかし、私たちはこのお方、イエスさまの御前に、まことの王であるゆえに日々ひれ伏しているでしょうか? イエスさまは私たちのことを友と呼んでくださいましたが、私たちの側からイエスさまを友とお呼びするなど、とんでもないことです。イエスさまはやはり、王さまなのです。私はイエスさまにお近づきする権限もない。そんな私たちだけど、イエスさまのほうから私たちを呼んでくださったわけです。これは恵みです。この恵みにただうち震えるようにして、イエスさまの御前に日々進み出ることが、私たちに必要です。この偉大なるお方を、その御力を、私たちは普段の生活において、力を尽くして宣べ伝えるのです。 さて、そのようにヨハネがイエスさまを宣べ伝えていたとき、イエスさまがヨハネのもとに来られました。そして、どうなったでしょうか? 9節から11節のみことばです。――そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。/イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。/すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」―― マルコの福音書はこのように、イエスさまがバプテスマをヨハネからお受けになったという事実を淡々と記しているだけですが、マタイの福音書では、最初ヨハネはイエスさまにバプテスマをお授けすることを拒みました。自分こそがイエスさまからバプテスマを受けるべきなのに、イエスさまにバプテスマをお授けするとは畏れ多い、とんでもない、というわけです。しかしイエスさまは、「正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしい」とおっしゃって、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。 私たちはイエスさまが神の子であると知っています。そんな私たちからしても、イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったことは、不思議だと思えないでしょうか? しかし、これには意味がありました。 まず、「正しいこと」とは、父なる神さまに対する従順を意味し、ヨハネがイエスさまの到来に備えたことを受けて、イエスさまが救い主としての使命を果たされることを意味します。その「正しいこと」には、ヨハネからイエスさまがバプテスマをお受けになることも含まれていました。 イエスさまがバプテスマをお受けになることはなぜ必要だったのでしょうか? それは、イエスさまがご自分の民をその罪からお救いになるためには、イエスさまご自身がその民の代表となられる必要があり、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、そのことが実現したのでした。イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神の民イスラエルの代表としての立場が公になられました。 そのバプテスマにおいてイエスさまが水の中から上がられると、天が裂けて御霊が鳩のようにイエスさまの上に下られました。そして天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」このように、イエスさまが救い主、神の民の王としての公の生涯に踏み出されるにあたっては、御父と御霊のお働きも同時にありました。イエスさまは人間イエスの単独の働きでメシア、救い主として歩まれたのではなく、父、御子、御霊の三位一体の存在としてこの地上で救い主として歩まれたことが、この箇所からもわかります。 さて、このように公生涯にイエスさまが出ていかれるにあたっても、神さまはバプテスマのヨハネをお用いになりました。このことにおいてヨハネは、イエスさまが救い主として公になられるうえでの、神の器でした。神さまはこのように、イエスさまのみわざのために人をお選びになり、お用いになります。 私たちもこのように、イエスさまが救い主、きよめ主、いやし主、王の王、神の御子としてこの地上で歩まれることにおいても、用いていただく存在です。私たちはこのように、神さまに用いていただき、イエスさまを顕すことにおいてこそ意味があります。ヨハネがこのように、徹底して神さまに用いていただいたように、そう、神さまがイエスさまを救い主としてこの世に送り出されるにあたってヨハネをお用いになったように、私たちも、救い主なるキリストをこの世に現すうえで、神さまがお選びになり、お用いになっている存在です。 私たちは、どこまでもイエスさまを指し示したヨハネの姿から何を思いますでしょうか? そして、イエスさまをこの世に指し示すために、私たちは何をすることがみこころであると思いますでしょうか? ヨハネは人々を悔い改めに導くために、荒野でバプテスマを人々に授けました。これは唯一無比の働きでした。 そのように私たちにも、救い主イエスさまを人々に示すために、自分にしかできない働きを神さまは備えてくださっています。それはどんな働きか、お分かりになっていますでしょうか? こればかりは牧師ですとか、ほかの兄弟姉妹にお尋ねになっても、ヒントぐらいしかお話しすることはできません。ご自身で神さまの御前に出ていき、しっかり祈り求める必要があります。 あなたにとってイエスさまはどんなお方でしょうか? イエスさまはあなたに、どんな生き方を願っていらっしゃいますでしょうか? しばらく祈って黙想しましょう。