慰められる者も、叱られる者も、愛されている

聖書箇所;ヨハネの黙示録3:7~22/メッセージ題目;慰められる者も、叱られる者も、愛されている  3月11日が近づいてきました。そうです、あの東日本大震災から10年です。つい先日、またもや大きな地震が福島県と宮城県を襲い、その影響は私たちの町にまで及びました。私たちが今なお地震というものを意識し、コロナに備えて防疫を意識するのと同様、防災を意識する必要がある、気が抜けない、ということを思わされています。  現在私たちは、エペソの7つの地域にある教会から学んでいます。実はこの地域小アジアは、西暦17年に大地震に見舞われ、町が壊滅しました。そのことの持つ意味はのちほどあらためて語りますが、地震という現実の中、いやでも終末ということを意識させられていた彼ら小アジアのクリスチャンたちにとって、ヨハネの黙示録は終末のまことの希望を説くみことばとして、どれほど慰めを与えることばとなったことかと思います。  今日は7つの教会のうち最後の2つの教会を、まとめて扱います。読み比べると、きわめて対照的なおことばがかけられています。フィラデルフィア教会には慰めのことば、ラオディキア教会には叱責のことばです。 しかしそれなら、フィラデルフィアはみこころにかなって合格で、ラオディキア教会は失格なのでしょうか? そうと断言することはできません。大事なのは、どちらの教会にも愛なる神さまがお語りになり、あなたがたを愛している、と、親しく語りかけてくださっていることです。   愛しているということを伝える表現は、時と場合によって違います。ある人にはやさしいことばをかけつづける必要があるでしょうし、またある人には、厳しいことばをかけることで、その人を愛していることを示す必要があるでしょう。要は、どんな態度、どんな心で、その人に接しているかです。   神は愛です。だから、神さまが愛している存在、私たちクリスチャンに対しての神さまのお取り扱いは、いつ、どんなときにも、愛です。厳しくされているようでも愛です。冷たくされているようでも愛です。 神さまはこの2つの教会に、それぞれ、どのように愛を施してくださったのでしょうか? そして私たちはそこから、何を学ぶことができるでしょうか? 私たちがどうすることが、神さまのその愛にお応えすることでしょうか? ともに学んでまいりたいと思います。   まずは、フィラデルフィア教会にイエスさまがどのような愛をお示しになったか、見てみましょう。7節、8節をお読みします。   イエスさまはここで、ダビデの鍵を持っておられるとあります。そのダビデの鍵を持つお方が、イエスさまの名を否まなかったあなたの前に、だれにも閉じることのできない門を開いておいたとお語りになりました。   門とは、天国の門、新しいエルサレムの門です。フィラデルフィアもそうでしたし、この時代の都市は、周囲に壁がめぐらされている「城塞都市」でした。よそ者はおいそれと入れないようになっていました。入るには門を通らなければなりません。   フィラデルフィアは大きくて有力な都市でしたが、そのような町もさきほど申しました地震という自然災害の前には無力でした。たびたび起こる余震のたびに、人々は建物が崩壊する危険のある都市部を避けて、門から出て、治まって危険がないようならまた門から入るを繰り返しました。 そんなとき、門が閉まっていたら大変です。門が開いているかどうかは、まさしく、彼らの生活に直結した問題でした。そんな彼らにとって、門というものはとても近しいものでした。門と聞くと、天国、新しいエルサレムに入るためのまことの羊の門、イエスさまをすぐに連想したはずです。   天のエルサレムの門はしかし、そこにふさわしくない者には開かれません。ふさわしくない者が天国に入ったら、もうそこを天国と呼ぶことはできなくなります。そこでサタンは、人が天国にふさわしくない者になり、サタンと永遠の滅びをともにするように、あらゆる誘惑を仕掛け、自分の欲望にひかれて罪を犯し、もはや神の前に出ていかせないようにします。要するに、天国の門を閉じさせようとしたり、天国の門がどこにあるかわからないようにくらましたりするのです。  しかし、イエスさまは、その御名を否まないだけの信仰を、ご自身のみこころにかなう人に残してくださいます。フィラデルフィアの聖徒たちにもその信仰を残してくださったのでした。そういう人の前には、さあ入りなさい、あなたのすることは入ることだけです、と、天国の門を開いてくださいます。 この門はイエスさまが開いてくださった以上、人にも、サタンにも、閉じることはできません。入りなさい、とおっしゃっている以上、私たちは入るのみです。  ただ、イエスさまは、ご自身の名を否まなかったという行いそのものを評価して、人を御国に招いてくださるのでしょうか? たしかに、人前でイエスさまのことを知らないという人のことを、さばきの日にはイエスさまも知らないとおっしゃいました。そのおことばが私たちを従順に駆り立てるという要素も、たしかにあるだろうと思います。 しかし、ここでイエスさまがおっしゃっている「少しばかりの力」とは、ほんとうに文字どおり、「少しばかり」の力なのです。目に見えないほど小さな力です。さて、目に見えないほど小さい、といえば、何か思い出さないでしょうか? そうです、イエスさまがおっしゃった、からし種ほどの信仰です。 ほこりの粒のように小さいその種が蒔かれると、空の鳥が巣をかけるほどの木へと生長するように、イエスさまが大きくしてくださるものは信仰です。信仰とは、行いを生むものです。イエスさまを信じた、その信仰は最初小さくても、やがてその信仰は、いのちを懸けてイエスさまにお従いするほどにまで大きく、たくましくしていただけます。そういう信仰を持つ者として、イエスさまは天国に迎え入れてくださるのです。この信仰を大きく成長させてくださるのは、神さまです。 このみことばは、イエスさまの名を否ませる勢力が世に存在することを暗示しています。9節をご覧ください、にせユダヤ人、すなわち、サタンの会衆に属している者が、神の教会、キリストのからだなる教会を攻撃してくるというわけです。しかし、たとえからし種ほどのように小さく、また人には見えなくても、確実に信仰を与えられている者に、神さまは勝利を与えてくださいます。 にせユダヤ人とありますが、これは平たく言えば、「神さまを信じていると主張しても、神のひとり子キリストを信じない」人たちのことです。より正確に言えば、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、のちにこの世をさばくために来られ、ご自身を信じる人たちを天国に入れてくださるお方であることを、信じない人たちです。 イエス・キリストを信じて初めて、人は神さまを信じたことになるのであって、神さまを信じているというだけでは、ほんとうの意味で信じていることにはなりません。このような世界は、イエスさまを憎み、イエスさまにつく私たちのことを憎みます。 しかしイエスさまは、9節にあるとおり、このような私たちのことを愛してくださいます。私たちはこの地上では人々から憎まれ、苦しめられますが、終わりの日にはイエスさまを信じる信仰のゆえに、永遠のいのち、天国という名の勝利を与えていただきます。 10節をご覧ください。全世界とはどこでしょうか? このみことばが語られた時代、地上に存在するどのキリスト教会においても、患難が存在していました。そういう意味では、全世界の教会は患難のもとにあったのでした。そうだとするとこのみことばははるか遠い未来のことを指していたわけではなく、まさにさらなる患難の中に投げ込まれようとしていたフィラデルフィア教会に語られたことばであることが分かります。 しかし、患難はこれで終わったわけではありません。それ以来2000年間、すべてのキリスト教会は患難の中にありました。キリスト教会の存在してきたこの世界が新しいエルサレムの中にあるのではなく、依然として罪の支配する世界、キリストに敵対する世界に生きている以上、患難は続いているのです。 それは、いわゆるキリスト教国と呼ばれた欧米にある教会とて例外ではありません。ほんとうの意味でキリストに従う人はいつも少数であり、そのような人や教会は苦しい思いをさせられてきました。いわんやこの日本においては、私たちクリスチャンはどれほど苦しみの中にあることでしょうか。 11節、「わたしはすぐに来る」。これが、2000年間語られてきたイエスさまのメッセージです。クリスチャンは、罪人の支配するこの世界で苦しむゆえに、イエスさまが来られて、私たちを天国に導き入れてくださることを待ち望むのです。そんな私たちにとって、イエスさまのこのみことばは慰めでありつづけています。 イエスさまはまだまだ来ない、もう来ない、などと思って、好き勝手なふるまいをするクリスチャンには、希望がありません。ただ、神さまではなく、人にどう見られるかを気にして、形ばかりの信仰生活を送っているだけです。 イエスさまは私たちを永遠の王として天国に迎え入れてくださるにあたり、王の冠を備えてくださいました。この、世の終わりの最高の栄光を見つめ、その日その日に主の栄光をあらわしつつ生きることなしには、私たちの人生に意味はありません。 サタンは神さまに嫉妬して、神さまに愛されている私たちに壮絶な誘惑を仕掛けます。私たちの罪がきよめられることを日々願い、悔い改めの生活を続けていないならば、私たちはいとも簡単に罪を犯し、救いにふさわしくない生き方に陥ってしまいます。 そうなると、私たちに用意された冠を見失ってしまいます。それが果たして、神の子どもとしてふさわしい生き方でしょうか? 地上の生涯とは、終わりの日にイエスさまから冠をいただき、イエスさまとともに永遠に統べ治める者とならせていただく備えをする時間です。忘れないでまいりたいものです。 そして私たちは、終わりの日に勝利を得て、神殿の柱とされるとあります。私たちは、いやだ、なりたくない、と思いますか? しかし、そうではありません。この地上で私たちの知っている、神殿と呼ばれる壮麗な建物が、むしろ、天国で永遠の礼拝をささげる私たちにかたどって造られているのです。 地上の神殿はどこまでも人間の手による建物であり、また、壊れます。しかし、天の神殿は、永遠に神さまのみそばで神さまを礼拝する私たちの麗しい姿です。私たちは永遠に神さまのみそばを離れません。何と感謝なことでしょうか! このように、神さまはフィラデルフィア教会の兄弟姉妹を愛されるゆえ、この天国のビジョンを示してくださり、この上もなく慰めてくださっています。 さて、それでは、ラオディキア教会のほうにまいります。ラオディキアは豊かな都市でした。純金が取引される金融の町、衣類の生産される町、また、目薬の生産で名高い町でした。これらの町の特徴が、イエスさまの語られた警告のみことばと深い関連がありますが、それはのちほど見てまいります。 西暦17年の地震のことをさきほど申しましたが、ラオディキアはその大震災で町が壊滅した後、ローマ政府による援助を拒否し、自力で再建しました。それほど経済的に豊かであり、都市として活力がありました。また、大都市としてのプライドがあったわけです。 そういうことを前提に17節のみことばを読んでみると、「あなたがたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」というイエスさまの見立ては、むべなるかな、といったところですが、イエスさまはそれにつづき、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」と、きわめて辛辣な評価を下していらっしゃいます。 どういう点で彼らは叱責される教会だったのでしょうか? 15節、16節です。……ラオディキアは水資源が不足していて、北に9キロ離れたヒエラポリスとコロサイから水道を引いていたといいます。 ヒエラポリスは温泉で名高く、熱いお湯を引き、冷たい水で定評のあったコロサイからは飲み水を引きました。しかし、それだけの距離を流すと、お湯は冷め、水はぬるくなります。硬度の高い硬水はミネラル分が多すぎて、おいしくありません。 教会の応接室には、本田弘慈先生が揮毫された「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙が額に入れて飾ってあります。牧師を引き継ぐにあたって宇佐神先生にプレゼントしていただいたものですが、いかにも、戦後の日本のキリスト教会で大いに用いられた本田先生らしいおことばで、これはローマ人への手紙12章11節のみことばです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」熱く燃えることは素晴らしいことであり、必要なことです。 しかし、冷たいことも必要です。「人の気持ちがわからないなんて、冷たいヤツ」という意味ではありません。箴言25章13節には「忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう」とありますし、同じく25節には「遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水」とあります。 イエスさまは、ご自分の弟子だからと一杯の水を飲ませる者は報いから漏れない、ということをおっしゃいましたが、まさにのどがからからに渇いたときの冷たい水です。その水を差し出すことは、キリストの弟子を愛することを実践することであり、それがすなわちキリストを愛することです。こうして見ると、熱いことは神さまに対して、冷たいことは人に対して、それぞれ愛を実践することの象徴と言えそうです。 ラオディキア教会は、神さまに対して熱心でもなく、人に対して親切でもなかったようです。そういうものはぬるくてご自身のからだの中に取り込めたものではない、吐き出すぞ、というわけです。イエスさまが吐き出す、ということは、キリストのからだの中から吐き出す、ということであり、それはつまり、キリストのからだなる教会の中から吐き出すぞ、という警告です。 あなたがたはみじめだ、哀れだ、貧しい、盲目だ、裸だ……、それなのにうぬぼれているとは何事か……。しかし、イエスさまは、そんな彼らのみっともない状況を目の当たりにされたからと、彼らをそのみっともなさにしたがっておさばきになることはしませんでした。 18節です。ここで、ラオディキアを特徴づける3つのものが登場します。神さまがほんとうに願っていらっしゃることを、反面教師的な皮肉を込めて語られたわけです。 火で精錬された金。精錬といえば何でしょうか? 箴言30章5節を見ると、「神のことばは、すべて精錬されている」とあります。そうです。ラオディキアの金融社会は純度の高い金に価値を見いだしていましたが、ラオディキアの教会は、金よりも貴いみことばを、混じり気のない乳のようにしっかり摂って成長する必要があったのでした。そうすれば、貧しくなくなります。 白い衣。これはこれまでも出てまいりました。天の御国に入るにふさわしい人が着せていただくものです。裸とは、アダムとエバ以来、恥として刈り取ることになった人間の罪の結果であり、これをほんとうの意味で覆うには、神さまに覆っていただかなくてはなりません。 目薬。盲目ではなくなるためです。イエスさまは盲人の目に泥を塗り、それを「遣わされた者」を意味するシロアムの池で洗うことで目が見えるようになる、というみわざを行われました。御父によってこの地に遣わされたイエスさまが、そして御父とイエスさまに遣わされた聖霊なる神さまが、私たちの閉ざされた目を開き、見えるようにしてくださるのです。そのためにはまず、自分は見えていないことを認める必要があります。…

「御前に完了する行い、愛」

a 聖書本文;ヨハネの黙示録3:1~6/メッセージ題目;「御前に完了する行い、愛」  前にもお話しした学生時代のことを、もういちどお話しします。ある日私は、学科の先輩と街を歩いていると、道端に占いをしている人がいました。先輩はそれを目ざとく見つけ、私に言いました。「武井くんも占ってもらいなよ。」しかし、占いなどとんでもないことです。私は言いました。「いえ、私はクリスチャンなので、占いはしないんです。」すると先輩は言いました。「えー、武井くん、『キリスト教』を信じてんのー?」  先輩の言っていることもわかりますが、私はそのことばに、少し違和感を覚えました。私はイエスさまを信じています。でも、「キリスト教」という「いち宗教」を信じているかのように言われたように思えて、心外でした。  のちに私はいろいろ見聞を深め、私たちの聖書信仰とその実践を「キリスト教」という客観的な呼び方をすることにやぶさかではなくなりました。が、それでも、私たちクリスチャンが「キリスト教」という宗教をやっているわけではない、という私の立場に変わりはありません。  問題なのは、クリスチャンがあたかもほかの宗教を信じるのと同じような流儀で「キリスト教」という宗教をやるということです。こういう人たちも自分のことをクリスチャンだと思うでしょうし、世間もクリスチャンと呼んでくれるでしょう。でも、神さまの側からしたらどうでしょうか。人間的に見たら確かに立派かもしれませんが、実際には、神さまとの交わりもない、神さまの愛を守り行いもしない、そういう人をクリスチャンと呼んでいいのか、ということにならないでしょうか。  本日学びますみことばに登場しますサルディス教会も、そのような、名ばかりクリスチャンという問題を抱えていました。私たちが、名ばかりクリスチャンにならないようにするためにはどうすればよいか、サルディス教会を反面教師として、以下、ともに学んでまいりたいと思います。    サルディスは、7つの教会の中で地理的に中央にあり、交通の要衝でした。エペソからは東に80キロメートルの地点に位置する交通の要衝で、エペソの女神アルテミスのような、死者を生かす力があると崇拝されていたキベレの神像がありました。  キベレに死者を生かす力があったと信じられていたことを考えると、サルディスにおいては、死者の復活を説くキリスト教会に対して、一般人からも一定の評価が与えられていた可能性が考えられます。実際、サルディス教会は生きている教会という、人からの評価があった模様です。 生きている教会、という代名詞。私たちもそう言われたいでしょうか。でも、教会が生きているって、どういうことでしょうか。生きているというからには、いかにも荘厳な礼拝がささげられていたのでしょうか。教会員たちが活発に奉仕していたのでしょうか。立派な建物を有していたのでしょうか。  しかし、人が何と考えようと、神さまの御目から見れば、生きているとは名ばかりで、実際は死んでいました。生きているとは名ばかりで実際は死んでいる。それは、ヤコブの手紙にもあるとおりの、ある種のクリスチャンの生きようであり、彼らは、自分には信仰があると自負していても、実際にはそれに見合うだけの行いがないという生き方をして、ヤコブに責められていました。  神さまに認められる行いは何でしょうか。それは、神の国をこの地に立てよという主イエスさまのご計画を成し遂げることです。それは、みことばを機械的に守り行うという行いではなく、イエスさまを心から信じているゆえに、そのあふれるばかりの心で自発的に神を愛し、人を愛そうという、具体的に身を結ぶ行いです。そのような行いの実を結ぶ信仰生活をしないならば、クリスチャンはその信仰生活は形ばかりの宗教生活になり、実際は世を愛するようになり、道徳的に堕落するようになります。  サルディス教会のその行いを主がご覧になり、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と評価なさったにあたって、主は、サルディス教会に対する外部からの迫害ですとか、ユダヤ人による挑戦、教会内部の葛藤といったことを語っておられません。それは、それだけ、サルディス教会が世に妥協し、同化するようになっていたことが考えられます。  このような教会に対し、主はおっしゃいます。「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい」。死んでいる、というのが主の評価ですが、それでも、信仰の炎がわずかに灯っていて、まだ死んでいない、そんな信仰の友を力づけなさい、と、命令されています。  このように語られると、ああ、死にかかっているのはほかの人で、自分はまだ大丈夫だ、などと思ったりしないでしょうか? しかし、英語や韓国語の聖書ですとか、リビングバイブルや柳生(やぎゅう)訳のような翻訳を読むと、これは、「あなたの」死にかかっている信仰の力を振りしぼれ、となります。責任はほかの人にあるのではありません。ほかならぬ、私たちひとりひとりにあるのです。  力を振りしぼって何をするのでしょうか? 主はおっしゃいます。「わたしは、あなたの行いが神の御前に完了したとは見ていない。」そうです、することは、行いを「完了させる」ことです。  でも、私たちはどうやって行いを「完了する」のでしょうか? 果たして行いで神さまに認められることなどできるのでしょうか? そこで私たちは、完了する、ということばを、掘り下げて考えましょう。私たちは「完了する」というと、何か連想しないでしょうか? そう、イエスさまが十字架のうえでおっしゃったことば、これが「完了した」でした。  主がサルディス教会を評価されるにあたっておっしゃった、「行いが完了した」は「プレロオー」という原語ですが、これはイエスさまが十字架でおっしゃった「完了した」というおことば「テテレスタイ」の基本形「テレオー」と、ほぼ意味が同じです。聖書によって「完了した」というイエスさまのおことばを「成し遂げられた」という別の表現で訳し分けるようなものです。つまり、サルディス教会に求められていた行いの完了は、イエスさまの十字架による行いの完了ということを抜きにしては語れないのです。  形だけみことばを守り行っていればいいという律法主義、どうせ許されているから何をやってもいいという無律法、どちらも間違いです。イエスさまは人に守れなかった、つまり完成できなかった律法を、十字架におかかりになることによって完成されました。 人は、イエスさまが完成してくださった律法を、守り行って救いを得るための手段ではなく、イエスさまが完成してくださったゆえに積極的に守り行うように変えられたのです。行いの完了は一生ものです。イエスさまを信じ受け入れることがまずは大前提となりますが、そのように信じてからは、イエスさまとともに歩む生活を欠かしてはなりません。私たちは行いを完了できません。主が完了してくださった、この信仰に歩み、その主のご栄光を積極的に現わそうと、愛の行いを主の御目から見た完了、完成に向けて日々こつこつと積み上げていくのです。  その歩みをしていくために必要なのはどんなことでしょうか? 3節をご覧ください。みことばを思い起こし、守り行い、悔い改めることです。まことの悔い改めも回復も、みことばをお聴きして、そのみことばに従順にお従いすることに始まります。その歩みをするために、私たちは日々みことばをお読みするのですし、お祈りをするのです。  しかし、ほとんどの場合、みことばをお聴きすることは個人的なことです。つまり、人の目に見えないところで自分から行うべきことです。教会によっては、聖徒たちが日々ともに主の御前に出るための取り組みとして、毎日の早天祈祷会を持っているところもあります。私はかつて、そういう教会で長らく副教職者として働いたものでしたが、一日でも早天祈祷会を休むと、主任牧師から烈火のごとく叱られたものでした。 事程左様に、主の御前につねに出てみことばを聴き、お祈りすることは大切なことなのですが、それならと、人の目に見えている早天祈祷に出てさえいればあとは大丈夫、というものではありません。大事なのは、人の見ていないところでも、きちんと主とお交わりを持つことです。私が教会のみなさまのために祈っていることは、みなさまが教会に集うときはもちろんのこと、教会に集っていないときにも、欠かさずに主とのお交わりを持つことです。 私たちがその敬虔な歩みをする上での最大のモチベーション、それは、主は近い、ということです。いつ主が来られるかわからない、それは、聖書が一貫して語っているメッセージです。 私たちは人に見えるところは敬虔でも、実際は肉にしたがう生活をしているならば、そこに再臨のイエスさまが来られたとき、果たして恥ずかしくなく御前に立てる自信、というより確信があるでしょうか? 大丈夫と言い切れますでしょうか? だからこそ私たちは再臨のイエスさまを意識して、たえず目を覚まし、悔い改めている必要があるのです。 ただ、私たちは夜になると必ず眠らなければならないように、私たちはその肉の弱さゆえに、戸口で待ち伏せする罪に対処できなくなることがあるものです。魔が差した、ということばがありますが、悪魔はそのように、時に罪を犯す私たちを罪に定め、おまえにはもはや神の赦しなどない、などというような攻撃を加えます。 そういう、今なお肉が生きていて、誘惑に惹かれる私たちであることを思うならば、目を覚ましつづけることに自信が持てなくなりもするでしょう。しかし、そのような私たちは、4節以下の神さまの御約束に目を留める必要があります。神さまが「その衣を汚(けが)していない」と評価してくださる、その評価をお受け取りできるのは、いったいどのような人でしょうか。  ヨハネの黙示録19章8節を見てみますと、聖徒の正しい行いは、花嫁なる教会が花婿なるキリストに嫁ぐにあたって身に着ける亜麻布のきよいウェディング・ドレスである、とあります。正しい行いとは機械的に正しくみことばを守り行うことではなく、イエスさまとの生きた交わりの中から生まれる自発的な従順、愛の具体的な実を結ぶことです。  きよい衣とは、純潔な花嫁としてキリストに嫁ぐ者にふさわしい、純潔な信仰を意味します。このイメージは、勝利を得る者に着ることが許される、白い衣のイメージとよく合致しています。実に、純潔な信仰とは勝利なのです。先週礼拝で歌いましたとおり、信仰は勝利なのです。 あとでおうちにお帰りになったら、旧約聖書のゼカリヤ書3章のみことばをお読みいただきたいのですが、このみことばをお読みすると、時の大祭司ヨシュアが神の法廷に引き出され、サタンに告訴されている場面が出てきます。神の民を代表して神の前に出るべき大祭司がサタンに告訴されたとは、ただごとではありません。 このときヨシュアは神の法廷において、汚れた服を着て神の御前に立ち、いかにも聖い神さまのしもべにふさわしくない姿でいました。しかし神さまは、ヨシュアを受け入れ、御使いはヨシュアの汚れた服を脱がせ、主の御前に立つにふさわしい礼服を着せました。 イエスさまが信仰により勝利を得る者に白い衣を着せ、その名を父の御前と御使いたちの前で言い表すとは、そういうことです。神の法廷において無罪を宣告し、それでも時に罪を犯してサタンに告訴されるような、その罪を十字架の血潮によって洗いきよめてくださり、かえって罪を告訴するサタンをとがめ、さばかれるのです。身に着けているものはきたない服ではありません。天国、新しいエルサレムに入る礼服である、白い衣です。 この者の名を、神さまはいのちの書から消すことは決してなさらないとあります。これは、いのちの書から消される人もいることは有り得る、という意味ではありません。決して消しはしない。つまり、必ずあなたを天の御国に入れる、と、強く約束してくださっているのです。 私たちは、自分はもしかしたら天国に行けないかもしれない、神さまはもしかしたら、自分の罪を赦してくださらないかもしれない、などとは、絶対に考えてはなりません。サタンは大胆不敵にも、大祭司ヨシュアを罪に定めて神さまに告訴しましたが、神さまにとがめられたのはヨシュアではなく、むしろとがめたサタンでした。 ヨシュアを罪に定めたサタンは私たちのことも告訴しますが、私たちもヨシュアと同じように、勝利する者にふさわしくきよい衣を着せていただけます。私たちも時に罪を犯します。あたかもそれは、着ている服が汚れるようなものです。 しかし、私たちには悔い改めの機会が残されています。その機会があるうちに御前に出て悔い改めるならば、神さまは私たちの罪をことごとく赦してくださいます。悔い改めは恥ずかしいことでも、みっともないことでもありません。私たちのことを天国に入れてくださっている神さまとの絆を確かめる、またとない恵みの時間です。 サルディス教会は宗教的にはすぐれた評価をもらっていたようでも、このような白い衣にふさわしい信仰の人がとても不足していました。私たちはどうでしょうか? サルディス教会のような、生きているとは名ばかりで実は死んでいる、という評価をいただかないようになりたいものです。 使徒パウロは第二コリント6章9節で、サルディス教会に対するこの神さまの評価と正反対の告白をして、「死にかけているようでも、見よ、生きており」と、キリストが内に生きる者の充実した人生を喜んでいます。パウロの告白は私たちの告白でしょうか? パウロはキリストのあとを追って十字架を背負う生き方をしましたが、それが真実に生きる道でした。 私たちは世と妥協して生きる道を選ぶならば、死にます。しかし、キリストのあとにしたがって日々自分を十字架につけるならば、生きます。私たちは生きたいでしょうか、死にたいでしょうか? 言うまでもないことです。しかし、私たちが真に生きるためには、キリストのゆえに自分を差し出し、神と人に仕える愛の実践が必要になります。 愛の実践、それが、神さまの御目から見て、行いが完了することです。私たちはそのようにして、神さまの律法、愛の律法を完成させてくださったキリストが内に生きる生き方をみことばへの従順によって実践してまいりたいものです。そして、その生き方がともに実践できたならば、兄弟姉妹でともにキリストの御名をほめたたえたいものです。 その生き方を日々していくならば、私たちはキリストがいつ来られても、恥ずかしくなく御前に立つことができます。私たちはイエスさまを待ち望んでいますでしょうか? 再臨を待望するなら、ますます、愛の行い、神の栄光の行いをこつこつと、ともに積み重ね、神の栄光を日々現わしましょう。イエスさまの再臨に向けて用いられる私たちとなりますように、用いられることを日々目指し、みことばの実践に日々取り組む私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「イゼベルが毒そうとも」

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:18~29/メッセージ題目;「イゼベルが毒そうとも」 今日の箇所には「あの女、イゼベル」という表現が出てまいります。前回のメッセージの箇所で問題にされたのはバラムでしたが、今回はイゼベルです。今回も旧約聖書の箇所を参照しながら、黙示録のみことばを学んでまいりたいと思います。 今回のみことばの舞台は、ティアティラです。ティアティラは、主がヨハネにメッセージを送るように命じられた7つの教会のあるアジアの都市の中で、最も小さい都市です。前回学んだペルガモンからは60キロメートルほど南東の方角にあり、街道が交わる交通の要衝でした。ティアティラは商工業都市として発達し、銅細工や亜麻布、皮革加工、染め物、羊毛の紡績などがその主な産業で、そのようないろいろな職業の同業組合、ギルドが形成されていました。このギルドについては、のちほどあらためて触れたいと思います。 ティアティラはけっして大きな町ではありません。しかし、この教会に宛てられたメッセージは12節分にもなり、7つの教会の中ではいちばん長いメッセージになっています。このティアティラ教会に対するイエスさまのお姿は、18節にあるとおりです。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」……。 このお姿は、前に黙示録1章でも学びましたが、ダニエル書10章6節でダニエルが見た幻のとおりの、預言されていたさばき主なる神の子です。イエスさまは十字架におかかりになっただけのお方、しもべとして弟子たちの足を洗われただけのお方ではありません。最後にはこのような恐るべき栄光に満ちたお姿で現れるお方です。 イエスさまは燃える炎のような目で、万物を見通されるお方です。人というものは、できれば暗闇の中に閉じこもり、罪の習慣をやめないでいたい存在です。イエスさまは燃える炎のような御目をもって、そんな私たちのことを照らされ、その罪を明るみに出され、悔い改めへと促されるお方です。 そして真鍮のような足、真鍮は銅の合金であり、銅細工で栄えたティアティラにとっては近しい存在ですが、イエスさまはこの栄光に輝く御足で、敵であるサタンとそれにつく勢力を踏みつけられます。まことに真鍮のような御足は、イエスさまの絶対的な勝利を象徴しています。 このようなお姿で現れたイエスさまは、まずティアティラ教会をほめていらっしゃいます。19節です。 ……ティアティラ教会のした行い、そしてティアティラ教会の愛、信仰、奉仕、忍耐が、主の御目から見て素晴しいものであったというのです。 『リビングバイブル』というバージョンの聖書は、この「行い」と訳された箇所を、具体的にこのように解釈しながら訳しています。「わたしは、あなたが貧しい人々に親切にし、物資を援助し、めんどうを見てやったことを知っています。」こうして見ますと、ティアティラ教会はけっして内向きではなく、外に向けて主の御目をもって関心を払い、それ相応の活動をしたという点で、模範的だったことが見えてきます。 そして、「初めの行いにまさる、近ごろの行い」ということばにも注目しましょう。「初めの行い」とは何でしょうか、神の愛です。そのことを、以前エペソ教会に宛てられた黙示録のメッセージから学びました。神の愛なくしては、どんな行いにも意味がありません。神の愛のない行いなど、すべては悔い改めるべき、神さまから見ればピントの外れた行いです。 しかし、人が神の愛にほんとうにとどまるなら、そこからさらに素晴らしい行いの実が具体的に結ばれていきます。神さまを愛しています、と、口だけ言っているようでは成長がありません。神さまが愛してくださっているのに、自分の愛はなんと貧しいことか、と悩み、その愛のなさを恥じて悔い改め、神さまに拠り頼んでいくならば、神さまは愛するための具体的な実践を与えてくださいます。 このような成長は、当たり前にできることではありません。少しでも神さまに認めていただけるだけの成長を遂げさせていただいたならば、それは大きな恵みというものです。愛する実践ができるようになったならば、自分を誇ることなどできません。神さまにすべてのご栄光をお帰しするのみです。 そういう点で、ティアティラ教会は実践の伴う成長の恵みを体験していた、素晴らしい教会でした。異邦の社会、異教の社会の中にあって、これだけの成長を遂げることは、なかなか簡単なことではありません。この成長という課題は私たちも取り組んでいることで、対外献金、対外奉仕においてまだまだ貧しいことを思いますが、私たちもティアティラ教会にならって、ささげるという成長、奉仕するという成長を遂げさせていただきたいものです。 そんなティアティラ教会でしたが、大きな問題を抱えていました。イエスさまが「イゼベル」と呼んでおられる女性が、教会の信徒たちを毒し、悪い方向に導いていたのでした。 イゼベルは何者でしょうか? 彼女のことは、列王記第一16章から列王記第二9章のあいだに出てきます。その間に、イスラエルの霊的指導者はエリヤからエリシャへと交替していますが、実際のイスラエルは、アハブ王によってバアル崇拝が採り入れられ、霊的に大変暗い状態にありました。聖書はこのようにしたアハブ王に、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行(おこな)った」と、最悪の評価をしていますが、その背後にいたのはイゼベル王妃でした。 列王記のアハブの箇所を読んでみますと、アハブはたしかに悪い王さまでしたが、異邦からバアル神礼拝を持ちこみ、イスラエルに定着させたイゼベルのほうが、はるかに邪悪な印象を与えないでしょうか? 雨乞合戦に勝利したエリヤを脅迫して失脚させたことしかり、ナボテのぶどう畑を奪うために偽りの証言を用いてナボテを殺させたことしかり、実に恐ろしい女性です。 神の国を統べ治めるべき王をこのように籠絡し、国全体を堕落させる存在……これがイゼベルであるわけですが、ティアティラ教会にはこのような、イゼベルのごとき堕落をもたらす教えを宣べる女性がいた模様です。 この、「イゼベル」が教会に対し、どのようなことを行なっていたかということは、20節に書かれているとおりです。……これらのことは、先週学びました「バラムの教え」と共通します。民数記を見てみますと、イスラエルの堕落はモアブの女と淫らなことをし、偶像に備えたいけにえを食べることで宗教的におかしくなったことによるものですが、この背後にはバラムがいました。 バラムの教えがペルガモン教会を毒したことは、その教えに惹かれたクリスチャンたちの責任であることは先週学んだとおりですが、同じように、ティアティラ教会のクリスチャンたちも、この罪に惹かれる性質が取り扱われる必要があったのでした。 この問題の取り扱われ方は、エペソ教会のケースと対照的です。エペソ教会はおかしな教えを排除するだけの純潔さを持ち合わせていましたが、イエスさまの愛を失っていました。反対にティアティラ教会は、イエスさまの愛の実践に満ちていましたが、純潔さを失っていました。どちらに傾いてもならないのです。純潔であるのと同時に、愛に満ちあふれる……実に難しいことです。それだからこそ、難しいということ、つまり、人にはできないことを認めて、少しでも神さまに拠り頼む姿勢が必要になってきます。 しかし神さまは、イゼベルのような教会に腐敗をもたらす者を、すぐに一刀両断におさばきになるわけではありません。悔い改めの機会をくださいます。 問題は、悔い改めの機会がふんだんに与えられているにもかかわらず、悔い改めない、その行いを改めずに、相変わらず教会をむしばむことをやめないことです。 悔い改めない者の教えに従う者は同罪、同じように悔い改めないで神さまに反抗し、敵対している者と見なされます。そのような者たちに神さまは何をなさいますでしょうか? 22節、23節です。 これはもはや、悔い改めに導く「懲らしめ」ではありません。悔い改めないことに対する「さばき」です。このような「さばき」に関するみことばを、脅しですとか、冗談のように取ってはなりません。神さまはイエスさまの十字架によってすべての罪を赦されたのだから、何をしても大丈夫だ、というように振る舞ってはなりません。それは十字架というものを根本から誤解していることです。 主の晩さんのたびに毎回お読みしている第一コリント11章のみことばは、29節までにしていますが、29節の「みからだをわきまえないで食べ、また飲む」とは、イエスさまの十字架がどのようなものかわきまえない、ということです。 そういう人がどうなるかを、続く30節が語ります。「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」これは象徴、シンボルではありません。現実に病んでいるではないか、死んでいるではないか、それが恐ろしいならば、さばきを受ける前に、キリストのみからだをわきまえよ、ということです。 十字架によって罪赦されたことを知るなら、十字架にかかられたイエスさまをつねに見上げてしかるべきです。ああ、私はイエスさまを十字架につけてしまったとは、なんという罪人だろう。しかし、そのような罪を完全に赦してくださったとは、何と感謝なことだろう! 私たちが主の晩さんにあずかるのは、このように、十字架にかかって私たちの罪を完全に赦してくださったイエスさまのみからだにあずかることであり、このようなもったいない恵みをいただいている私たちは、ことさらに罪を犯すことから守られるべく、主のあわれみにすがっていく必要があります。 ヘブル人への手紙10章26節と27節には、このようにあります。「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」 神さまのあわれみを軽んじ、平気で罪を犯しつづけるような者は、滅びる以外ないのです。ティアティラ教会に現れた「イゼベル」は、まさにこのさばきに該当する者であり、主の正しい教えよりもこのような異端的な教えを選ぶような者たちも、やはりこの死のさばきを受ける者となります。 私たちの教会に異端的な教えを持ち込んではならないのは、そうしないと私たちは「死ぬ」からです。「死ぬ」といっても「即死」とはかぎりません。この「死ぬ」ということに関しては、アダムに宣告された「あなたは必ず死ぬ」という警告を思い出しましょう。死ぬとは、もはや神さまとのいのちの交わりを持つことができなくなることです。 教会につながるとは、神さまの与えてくださるまことのいのちの中にとどまることであるはずなのに、それは形だけで、いのちもなにもない、生きていても死んでいる者になる……実に恐ろしいことです。私たちが「即死」していないとか、「どうせいつかは死ぬのだから」という問題ではないのです。神さまとのいのちの交わりが持てない恐ろしさを、私たちはもっと考える必要があります。 私たちが神さまを恐れているならば、このようなことを単なるシンボルと受け止めるにとどまるのではなく、心底みことばを恐れ、悔い改める機会が残されているうちに悔い改めることです。 しかしイエスさまは、このような教えに毒されていない聖徒たちに対しては、最大級の慰めのことばをかけてくださっています。24節のみことばです。…… 「イゼベル」の邪悪な教えを受け入れないということは、「サタンの深み」を知らないという、よいことであるというメッセージです。この「サタンの深み」ということばは、第一コリント2章10節に出てくる「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」というみことばに対応しています。御霊なる神さまは神の深みを私たちに示してくださいます。 これに対して「イゼベル」は、あたかも自分が神さまや聖書について何でも知っているかのように振る舞い、教えますが、所詮彼女の知っていること、教えていることは「神の深み」ではなく「サタンの深み」であるということです。 このように、「サタンの深み」を知らないということは、素晴らしいことではありますが、たいへんなことでもあります。「イゼベル」の教えに一線引けるならばよいことですが、この町にはもともと、太陽の神であるテュリムノスを祭る神殿があり、ユダヤ教と異教の混合した迷信的、魔術的宗教が支配していました。 先にも述べましたが、ティアティラにはいろいろな産業のギルド、同業組合が発達していました。この同業組合はもちろん会合を持つわけですが、その会合は神殿における異教的な儀式と関連を持っていて、この異教的なギルドに関わる以上、不道徳な慣習に従わなければならなかったといいます。 これは、つい4分の3世紀前までの日本のキリスト教会の姿でもあります。礼拝にあたっては、父なる神さまを礼拝する前に、宮城遥拝、天皇のいる方角に向かって拝礼することを先にしなければなりません。歌う讃美歌はイエスさまをたたえるというよりも、皇国日本をたたえる歌です。聖書の解き明かしはあたりさわりのないことしか言えず、多くは「詩篇」から語られるしかなかったそうです。「日本は天皇中心の神の国だ」という、国家神道原理主義がすみずみまで支配していた日本に、何の信教の自由があったというのでしょうか。 偶像神に支配されたギルドにがんじがらめにされたティアティラ教会の労苦は、のちの日の日本の教会の労苦であり、その延長線上にいまの日本の教会が味わう自由があることを、私たちは決して忘れてはなりません。 しかし、ティアティラ教会の純潔な信徒たちには、ほかの重荷を負わせないとも、イエスさまは言ってくださっています。ほかの重荷とは何でしょうか? それは、信徒たちお互いが愛し合うことです。ローマ人への手紙13章8節には、このようにあります。「だれに対しても、何の借りもあってはなりません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」 ティアティラ教会はイエスさまの御目には、愛するということにおいては合格していました。このような苦しい中でよくやっている、と、慰めてくださっています。それ以上の重荷は負わせません、と、主は言ってくださいます。 25節の「持っているものを保つ」ということは、純粋に神さまを愛し、兄弟姉妹を愛するということです。イゼベルのごとき者は論より証拠のようなことをして、教会を毒しにかかります。 しかし、神さまに対する私たちの愛が本物なら、聖書の教えに反する教えは徹底して排除しにかかれるはずですし、兄弟姉妹に対する私たちの愛が本物なら、兄弟姉妹が間違った教えに毒されてしまわないように努めるはずです。 こうして、神と人に対する愛に裏打ちされた私たちの信仰告白は保たれ、イエスさまが再び来られるときに、恥ずかしくなく御前に立つことができます。そして来たる世で主とともに統べ治め、明けの明星のような御子の栄光を永遠に仰いで、主をほめたたえる者とならせていただきます。 私たちの生きる世界は、多くの制約があり、神さまに純粋にお従いすることもままならない中に生きています。しかし神さまは、そのような中で苦しむ私たちのことを決してお忘れになりません。ただでさえ苦しむ私たちを毒そうとする勢力は、神さまがおさばきになります。 終わりの日に花婿として私たち教会を迎えてくださるイエスさまの御前に、しみも傷もない姿でお立ちすることは、イエスさまの十字架の血潮に日々拠り頼むことなくしては不可能です。私たちの労苦をご存じの主に心からの感謝をささげ、なお、神さま以外のものに影響を受けたい、罪深い性質がきれいに洗われ、終わりの日に、イエスさまの御前に恥ずかしくなく立つ私たちとなれますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「悔い改めるのは私たち」

聖書本文;ヨハネの黙示録2:12~17/メッセージ題目;「悔い改めるのは私たち」 笑い話などというべきではないエピソードを、まずご紹介します。それは戦時中、クリスチャンが天皇にまつろわぬということで迫害された時代のことです。牧師のような多くのクリスチャンが警察に連行され、厳しい取り調べを受けました。 そのような中で、このように迫る刑事がいたそうです。「天皇陛下とキリストとどちらが偉いか!」そのように問われた牧師先生は、知恵を用いてこのように答えたそうです。「畏れ多くて、お答えできません!」 すっかり平和になった現代では、このような話も笑い話で済みますが、恐怖の支配していたその時代においては、信仰の先輩たちはどれほど大変な目にあっていたことだろうかと思わざるを得ません。 しかし、日本がそのようだったのは、まだ4分の3世紀にもならない、ごく最近のことです。その時代を生きた人で、まだご健在の方は多くいらっしゃいます。はるかむかしの話ではないのです。 私は何も、現代にも殉教がいつ起こるとも知れないから備えなさい、などと脅かしているわけではありません。しかし私たちは少なくとも、この平和の許されている時代において、聖書に学び、歴史に学ぶことはしてもいいのではないでしょうか? そうすることで私たちの従順の歩み、主の栄光をあらわす歩みは、一本芯の通ったものとなるはずです。 それでは早速、今日のみことばの解き明かしに入りたいと思います。今日は7つの教会の3番目、ペルガモンの教会への使信です。ペルガモンにメッセージを伝えるイエスさまは、どんなお方でしょうか?「鋭い両刃(もろは)の剣を持つ方」とあります。 黙示録1章16節にあるとおり、ヨハネが見たイエスさまは、両刃の剣が御口から出ていました。両刃の剣とは何でしょうか? お開きにならないでいいですが、ヘブル人への手紙4章12節には、このようにあります。……神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。 両刃の剣とは、イエスさまの御口から出るひとつひとつのみことばです。みことばはいのちのパンとして私たちを養いますが、それは私たちの快楽のためではありません。私たちの不要な部分、罪深い部分が取り除かれるためです。私たちはそのような部分が自分たちから取り除かれることにおいて、妥協してはなりません。 ペルガモン教会は、偶像礼拝の風土の中で大変な迫害の中にありました。しかし、そのような教会ではあっても、手放しに礼賛(らいさん)されていたわけではなく、正されるべき部分はあったのでした。主のみことばは容赦なく臨みます。このあたりのことは、のちほど詳しく見てまいります。 13節のみことばです。主は、ペルガモンという年がどういうところかを知っていると、慰めのおことばをかけてくださっています。どういう都市か、というと、サタンの王座がある、そういう都市である、ということです。 ペルガモンは、前回学びましたスミルナから北に60キロメートル、海抜300メートルの谷間の町で、ライバル関係にあったアレクサンドリアやアンテオケに代わる第一の都市になろうとしていました。 ペルガモンは海に近く、下から仰ぎ見るとまさに巨大な王座のように見えたといいます。そのペルガモンは、ローマの初代皇帝アウグストゥスを祭る神殿を山の頂に建て、紀元29年、つまり、イエスさまの公生涯がまさに始まろうとしていたときにはすでに、皇帝崇拝の中心地になっていました。初代教会のクリスチャンたちが、イエスさまを礼拝するのではなくローマ皇帝を崇拝するように強要されていたことを考えると、この都市にあるものはサタンの王座であると主がおっしゃったのはもっともなことです。 もともとこの地は、紀元前2世紀にすでに、いやしの神であるアスクレピオスを礼拝する宗教を国家宗教として取り入れていました。アスクレピオスは蛇使いでもあるので、サタンの象徴である蛇を司る者としての礼拝を人々から受けていたことになります。そういう点でも神さまの御目から見れば、この都市はサタン的でした。そのほかにもゼウス礼拝など、あらゆる偶像礼拝の巣窟でもあり、この地のキリスト教会は大変な思いを味わわされていました。 このような中で、イエスさまご自身が「わたしの確かな証人」とまで、最大級の賞賛をくださっているアンティパスが殺されたのでした。アンティパスは、ペルガモン教会の監督だったと伝えられています。一説によるとアンティパスは、雄牛のかたちをした青銅の桶の中で焼き殺されたそうです。それが事実であるにせよそうでないにせよ、ペルガモン教会は指導者をむごたらしいかたちで失ったことは事実であり、そのショックはどれほどのものだったことかと思います。しかし、ペルガモン教会はそのようなおびやかしにも負けずに、イエスさまに対する信仰を捨てませんでした。 サタンはときに、キリスト教会の指導者を打ちます。殉教という形で教会に恐怖を与えるかもしれません。あるいは、金銭、異性、権力といったことを用いて指導者を堕落させ、教会に動揺を与えるかもしれません。また、今回のコロナのようなこと、あるいは少し前でしたら震災のようなことを通して、指導者に過度のストレスを与え、教会に重圧を与えるかもしれません。 このようなとき、指導者が普段からどのような牧会をしてきたかが試されます。指導者である自分ではなく、キリストに結びつかせる牧会をしていたならば、指導者に何かあっても、かしらであるキリストに教会は堅く結びつくことができます。しかし、もし指導者が、自分がいなければ教会は成り立たない、とばかりに振る舞うならば、羊飼いが打たれたら、教会という羊の群れは散り散りになるのです。 ペルガモン教会は、アンティパスではなく、イエスさまに結びついていたと言えたぶん、褒められるべき教会でした。しかしです。ペルガモン教会には取り扱われるべき問題がありました。14節です。……ペルガモン教会には、バラムの教えをかたくなに守る者たちがいた、ということでした。 バラムとは何者でしょうか? おひらきにならないでいいですが、旧約聖書の民数記を見てみますと、バラムとは、民数記22章以下に登場しますが、イスラエルを恐れたモアブの王バラクは占い師バラムをお金で買収し、イスラエルをのろわせようとします。絶対者なる主の霊的な祝福を呪いに変えることで、イスラエルを没落させようとしたのでした。 バラムがもし、主のみこころにほんとうに通じていたのならば、バラクの要請をぴしゃりとはねのけるべきでした。しかしバラムは、もしかしたら、と態度を保留しつづけ、神さまがとどめておられるにもかかわらず、イスラエルをのろう祈りを強行しようとしました。だが、それに反して、神さまはバラムの口に、イスラエルを祝福する祈りを授けられました。バラムはイスラエルを4度にわたり祝福したのでした。 このとき、バラムは、「主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と、怒り狂うバラクに語っています。これだけを見ると、バラムは素晴らしい主のしもべのように見えます。 だが、バラムはのちにイスラエルによって処刑されたのでした。民数記のその記述だけを読むと、主のしもべがなぜそのような目に!? と思わないでしょうか? しかし、このバラムの一連の祈りのできごとのあと、モアブにいたイスラエルの民は、モアブの娘たちに招かれて偶像のいけにえの飲み食いをし、神々を拝み、モアブの娘たちと淫らなことをしたのでした。これによって主の怒りがイスラエルに臨みました。 なぜ、イスラエルにこんなことが……と思いますが、民数記31章16節を読むと、「この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。」とあるように、その黒幕にバラムがいたことがほのめかされています。これがヨハネの黙示録、聖書の終わりの終わりに、それは間違いなく、バラムのしたことだと、ついに明らかにされます。ゆえに、バラムはイスラエルの手によって処刑されたのでした。 エペソ教会が排除していたニコライ派は、このみことばによれば、まさにバラムがイスラエルをまどわし、霊的にも肉体的にも姦淫を犯させ、純潔を失わせることを、キリスト教会に教えるような邪悪な存在でした。エペソ教会は正しい教理、健全な教えに堅く立って、このニコライ派が教会の中に入ってくるのを許しませんでしたが、ペルガモン教会の信徒の中には、ニコライ派の教えを受け入れてしまった信徒がいたのでした。 それは悔い改めるべきことでした。もし、悔い改めないで、ニコライ派のような間違った教えがのさばるままにするならば、イエスさまは何をなさるというのでしょうか? そうです、御口の剣をもって彼ら、ニコライ派に毒されたペルガモン教会の信徒たちと戦う、とおっしゃいました。 戦う、と言いましても、イエスさまが負けるような戦いなどありえません。イエスさまが勝利する戦いです。彼らはみことばの真理に対してありったけの力で抵抗するでしょうが、ついには負けます。そして、さばかれます。 主を信じる信徒たちにあるのは「懲らしめ」であって「さばき」ではないものですが、イエスさま以外のものを主とし、イエスさまの以外の存在に従順になれとの教えをもって教会を毒する存在にあるものは、「懲らしめ」ではなく「さばき」です。私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、教会の純潔を保つためにしっかり努力する必要があります。 その努力には、エペソ教会のように毅然とした態度を示すべく、教理の学びをきちんと行うことも含むでしょう。私たちが日々主のみことばに従順に従うように、みことばを黙想して適用して実践に移す、ディボーションの時間をしっかり確保することも必要でしょう。しかし何よりも必要なことは、私たちが「悔い改める」ことです。 悔い改めということは、神さまとの一対一の関係の中で成り立つことです。イスラエルの民は、呪いの祈りが祝福の祈りに変えられるほど、神さまの絶対的な霊的祝福、霊的守りを受けていました。そんな彼らが罪を犯し、神さまの怒りを受けたのは、バラムのせいということもさることながら、彼ら自身の中に、罪を犯したい欲望があったからということです。 バラムはわかっていました。イスラエルをのろいたいというバラクの野望を達成するためには、神さまに直接呪ってくださいと求めることは無理である一方で、イスラエル人の罪を犯したい欲望を刺激すれば、神さまは怒りを下され、結果的にそれがのろいとなるということをです。 問題なのは、私たちの罪を犯したい欲望です。それが日々、神さまの御前に取り扱われることがなくては、私たちは聖徒として正しくあることはできません。それゆえに私たちは、悔い改めることが必要なのです。悔い改めることなく、形だけ取りつくろったクリスチャン生活をしていても、欲望に惹かれたらどうにもなりません。私たちは欲望と背徳にまみれたニコライ派に毒されたい肉の性質があることを恥じながら認め、つねに悔い改める必要があります。 さて、このペルガモン教会への教えは、17節のみことばで閉じられています。ここには、勝利を得る聖徒に、2つのものが与えられると書かれています。 まずは、隠されたマナです。ヘブル人への手紙9章を読みますと、幕屋の至聖所には契約の箱が置かれ、その中には「マナの入った金の壺」があったとあります。隠されたマナ、とありますと、この契約の箱の中のマナを連想しますが、マナはもともと、出エジプトの民に奇蹟のようにして与えられた食べ物です。それは、神の民にいのちを与えて養う食べ物ということであり、わたしがいのちのパンです、とおっしゃった、イエスさまを象徴しています。 イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っている、とおっしゃいました。しかしこの奥義は、イエスさまについてきたほとんどの人には隠されていました。隠されていなかったのは、十二弟子だけでした。 まことのマナなるイエスさまという奥義が隠されていることは、こんにち多くの人がイエスさまのことを知っていても、イエスさまをいのちのパンと認め、イエスさまのみことばによっていのちをつなぐことをしていないことからも明らかです。まことのマナは隠されているのです。しかし私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、この隠されたマナを食べる権限が与えられている、つまり、イエスさまをいただいてイエスさまとひとつになる特権が与えられているのです。何と感謝なことでしょうか。 今日は主の晩さんのひとときを持ちますが、それは、イエスさまというお方を私たちが口にし、味わい、ひとつとなっていることを覚えるときです。私たちはけがれていて、とうてい、イエスさまをいただく資格などない者です。しかし、そんな私たちにイエスさまは、「取りて食らえ」とおっしゃるのです。それを拒むのは不従順です。私たちはもったいない恵みに感謝して、まことの隠されたマナにあずかっていることを覚え、パンとぶどう汁にあずかりたいと思います。 白い石は何でしょうか? 解釈はさまざまです。第一に、古代では白い石は無罪を、黒い石は有罪を表しました。聖徒たちはこの世においては罪人のように扱われますが、のちの世では罪なき者として勝利に入れられます。反対に、わが世の春を謳歌する迫害者は、のちの世では永遠のさばきを受けます。第二に、古代では祝祭に入る入場券の代わりとして、石が用いられました。この解釈に従えば、主は、天国の祝宴に私たちを招いてくださる、ということです。いずれにせよ、白い石は聖徒たちが新しいエルサレムに入城することを象徴していると言えます。この白い石に名前が書かれている天のエルサレムに入る人の名は神さましか知りません。私たちは信仰を保ち、神さまに認められるにふさわしい者となりたいものです。 しかし、まことのマナなるイエスさまとの交わり、白い石に象徴される天国行きの恵みは、やはりそれをいただいている以上、大切にすべきものですし、この恵みを粗末にして落伍する人が私たちの群れから出ることのないように、私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、日々、そのみことばの剣によって自分の霊とたましいを切っていただき、神さまにお従いする上で必要のない部分、罪深い部分を明らかにしていただき、ことごとく悔い改める必要があります。 偶像に満ちた環境に生きる私たちの歩みは、大きな迫害にあっても、かえって信仰を強くしていただく恵みをいただけるかもしれません。しかし、私たちの中から罪を犯したい性質が取り除かれていないとしたらどうでしょうか。あっという間に堕落してしまいます。それこそ、主の敵の思うつぼになってしまいます。 だからこそ私たちには悔い改めが必要なのです。悔い改めるならば、私たちは後ろめたさのない主イエスさまとの交わりの中に保たれますし、天の御国に正々堂々と凱旋できるという確信の中に保たれます。 バラムの教えを好むのは、教会の一部の人ではありません。私自身なのです。この自覚をもって悔い改めつつ、この偶像に満ちた世界、罪に満ちた世界の中、迷うことなく主にお従いする恵みの中に保たれますように、主の御名によってお祈りいたします。