契約を告げる虹

聖書箇所;創世記9章1~17節 メッセージ題目;契約を告げる虹 今日は虹のお話です。本日お読みいただいたみことばには、そのものずばり、虹が登場します。虹は雨上がりのときにかかります。今日お読みいただいたみことばでも、まさに雨上がり、洪水の過ぎ去ったあとに神さまがかけてくださると約束されたのが、この虹だったというわけです。本日のメッセージでは、「神さまが虹というものをどのように見なされたか」、これを取り上げたいと思います。 第一に、虹とは神さまと人との間の契約のしるしです。 8節から11節をご覧ください。……神さまはノアとの間に契約を立てられました。それは、人はもはや大洪水、それも全地を覆うような激しい大洪水によって滅ぼされることはない、というものです。神さまはノアのゆえに、ノアにつく家族、子孫、そしてすべての生き物との間に結んでくださいました。 私たちが現在、大きな洪水によってことごとく滅ぼされることもなく、こうして生きているのは、神さまがノアとの間に立ててくださった契約によることです。私たちの住む世界の罪深さを思うならば、私たち人間は何度でも大洪水によって滅ぼされなければならなかったのではないでしょうか。しかし、神さまはそうはなさらず、今もなお、私たちのことを忍耐してくださっているのです。 人間は、特にノアのように罪深い世に対して良心を痛めるような善良な人は、この世界の終わりを思っておびえることもあるでしょう。しかし、神さまはそんな人間のために、ひとつのしるしを見せてくださると約束してくださいました。それが、空にかかる虹であったということです。 創世期以来、神さまが人との間に契約を結ぶ場面は数多く登場します。しかしそれは基本的にはすべて同じもので、神さまが一方的なあわれみによって人をご自身の民にしてくださり、まことのいのちを保障してくださる、というものです。 その契約の根底にあるものは、何かをした、という、人の行いによって満たすものではありません。ただ、神さまの側から示してくださる恵みを受け入れ、神さまを信じる、それが人としてすることでした。 それでは、現代を生きる私たちにとっては、この「虹」にあたる象徴は何でしょうか? それはほかでもありません、「十字架」です。私たちは、イエスさまの十字架による罪の完全な赦しを信じる信仰によって救っていただきました。十字架とは、神さまの側で人間に示してくださった契約の条件です。あなたのすることは、ただ信じること、信じることさえすれば、神さまといのちの契約を結んだことになります。あとは私たちのすることとして、神さまのみこころに従順にお従いすることです。 虹の話に戻ります。私たちはここで、「神さまは」虹というものをどのようなみこころでおつくりになったかを考える必要があります。神さまが十字架を信じる信仰によって救いに定められた、そのような者たち、まさに私たちのような者たちが虹を見るとき、私たちが、この大洪水の滅びを免れさせていただいた、救いに定められた者たちであることを思い起こすことを、主は願っておられるということです。人は虹を見て、不思議だと思ったり、美しいと思ったりするだろう、またその虹にいろいろな意味づけをするかもしれない、しかし、あなたたち神の民は、ここでどうか、十字架を信じる信仰によってわたしとの間に結んだ契約を思い起こしてほしい、その神さまのみこころを受け取りたいものです。 ともすると私たちは、神さまとの間に結ばれている契約の絆を忘れてしまいがちなものです。しかしそんな私たちが契約を思い起こせるように、神さまが虹をかけてくださるわけです。 虹がかかるのは、晴れのあとに雨、そして晴れとなるときです。順風満帆のように行っていた人生に思いもかけない土砂降りのような事態が起こると、私たちは神さまの恵みを見失い、わが身を呪いたくはならないでしょうか。しかしその後で、神さまが虹をかけてくださるように、苦難の中から救い出してくださる神さまは、愛しているよ、あなたのことを覚えているよ、と、私たちに虹のしるしを見せてくださいます。創造主なる神さまは、なんと粋なお方でしょうか! 神さまをほめたたえます。 第二に、虹とは神さまが起こしてくださるものです。13節、14節をお読みします。……このことばの主語は、「神」です。虹を起こしてくださる主体は、神さまです。 聖書を見てみますと、天候というものは偶然に巡っているものではなく、神さまが主体的に動かしていらっしゃるものだということがわかります。イエスさまのことばを見ると、神さまはよい人にも悪い人にも太陽を昇らされる、雨を降らせられる、とありますが、これは、あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい、という教えの根拠となる象徴的な意味ももちろんあります。しかし、それ以前に、神さまは晴れや雨のような、普遍的な天候さえも司って、善人も悪人も養われる、ということを語っているわけです。 そのような中で、虹。もちろん、科学的に虹の成り立ちを説明することもできるでしょう。しかし、その虹を見て、創造主のご存在に行きつける人は、果たしてどれくらいいるでしょうか? 私たちは聖書のみことばが、天地万物を司っておられる創造主のご存在とみこころとみわざを啓示する書物であると信じ受け入れ告白する以上、虹というものもまた、神さまご自身が人間を滅ぼすまいとお定めになった、そのみこころを示すためにおつくりになったものだということを、はっきり認め、告白する必要があります。 そういうことからすると、世の人たちがこの森羅万象を見る視点から、私たちはなんと自由になる必要があることでしょうか! うちの教会は、聖書の記述が真理であることを前提に、創立以来長年にわたり、唯物論的な世界観に戦いを挑みつつ教会形成をしてきました。唯一の神さまがすべてに主権を持っていらっしゃることを前提にした、聖書の世界観に立った教会形成の伝統は、この教会においてしっかり受け継いでいきたいと願わされています。 あらゆるものは神さまが創造された。それも、特別なみこころをもって創造された。虹は特に、滅ぼさないというみこころを如実に示すシンボルである。そのことを私たちはしっかり、記憶しておきたいと思います。 第三に、虹とは人が見るものであるのと同時に、神さまがご覧になるものです。15節をお読みします。……見てください! 虹とはまず、神さまがご覧になるものなのです。虹がかけられる究極の目的は、人間の側にあるのではありません。神さまの側にあります。このことからわかるのは、神さまが人間との間に結ぶ契約は、究極的には神さまの主権によって結ばれるものである、ということです。 天国に招き入れられるには、神さまの基準に達した義人でなければいけないのです。しかし、そんな人などいるのでしょうか? あのノアも、この9章の終わりの部分を見ると、泥酔して裸で寝入るなど、とても義人とは言えないような醜態をさらしています。それが人間というものです。義人はいない、一人もいない、まことに、人間はみな罪人です。 それなら、だれが天国に行けるのでしょうか? 神さまのあわれみをいただいて、正しくないのに正しくしていただいた人だけです。どうすれば正しくなれるのでしょうか? 私たち罪人の身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださった、イエスさまの十字架を信じること、これだけです。しかし、このような単純なことさえも、人はしようとはしません。ただ、神さまのあわれみによって選ばれた人だけが、イエスさまの十字架を信じるように導かれるのです。 そうです。神さまと契約を結ぶ人は、神さまによって特別に選ばれた人だけです。人間の側でももちろん、永遠のいのちを得るために、天国に行くために頑張るでしょう。しかしだからといって、それで神さまに選んでいただけるかどうかということは別問題です。人の救いはどこまでも、神さまの主権にかかっています。 ヨハネの福音書1章12節と13節には、このようにあります。……そうです。イエスさまの御名を信じるということは、それぞれの人が神さまご自身によって信仰告白に導かれることによって、初めて可能となることで、神さまはその信仰をご覧になって、私たちをもはや罪人としてではなく、わが子として受け入れてくださるのです。 人はときに、自分がほんとうに救われているかどうかわからなくなるときがあるでしょう。神さまの愛を見失ってしまうとき、どうしても悪い習慣から抜け出せないとき、兄弟姉妹を愛していない、自己中心の自分に気づかされるとき……しかし、そのような私たちでも、神さまによって、イエスさまを信じる信仰に導かれたことは事実です。私たちが神さまから遠ざかってしまったように思えることがあったとしても、神さまが私たちのそばから遠ざかってしまわれることは、決してありません。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない、と、神さまご自身が言ってくださったとおりです。 私たちがこうして礼拝の場に導かれたのは、日常生活に追われていては見逃してしまうような「虹」を見せていただくことに等しいです。礼拝とは、神さまの側で私たちのために用意してくださった、神さまにまみえる場です。神さまご自身が救われた民と契約を結んでくださっていることを、神さまご自身が思い起こしてくださる、私たちの思い以上に、神さまが私たちに思いを注いでくださっている、それが「虹」をかけてくださった理由であり、いまこうして礼拝の場を備えてくださった理由です。 私たちはどうでしょうか? 振り返ってみて、神さまの側で私たちを決して忘れていらっしゃらない、お見捨てにならないということを、つい忘れ、がっかりしてしまっているようなことはないでしょうか? 今日この礼拝の場は、神さまの側でそんな私たちのことを決してお忘れになっていない、お見捨てになっていない、変わらずに目を留めて愛してくださっていることを思い起こさせていただく場です。

箱舟と救い

聖書箇所;創世記8:1~22 メッセージ題目;箱舟と救い 数週間ぶりに、ノアの箱舟についてお話しします。今日の箇所、創世記8章は、ノアの箱舟生活の後半、そして箱舟から出た後のお話です。今日の箇所を3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまはノアのために、滅びの水を引き上げられました。 創世記7章を読んでみますと、水は150日間増えつづけたとありましたが、8章に入ると、この水の源が閉ざされ、減りはじめることになります。大雨は降らなくなり、地下水は湧き出さなくなりました。もう水が増えることはなくなりました。あとは、太陽の光に照らされて乾くだけです。箱舟はアララテの山地にとどまりました。そしてさらにしばらくすると、山々の頂が現れはじめました。回復は始まり、順調に進んで行ったのです。 みなさん、ここで少し、私たちは考えたいことがあります。150日間、増えつづける水と豪雨の中、荒波に翻弄されつつ、どこに行くともしれぬ漂流を続けた箱舟の、その中にいたノアたち8人の家族は、どのような気持ちでいたことでしょうか? 150日というと、実に5か月です。今から5か月間波に翻弄されながら、箱舟の中に閉じこめられた生活を送りなさい、と言われたら、私たちにできるでしょうか? しかし、ノアとその家族には、それ以外に滅びを免れる方法はありませんでした。いかにそれが、先が見えないようなことであろうとも、それが神さまのみこころである以上、お従いするばかりでした。 主はときに、御民に対し、生き残るために必要な道をお示しになります。この洪水の場合は、箱舟の中に入ることでした。 また、エジプトに寄留していたイスラエルが救われるためには、過越の食事を食べ、家族ごとに羊をほふり、その血を鴨居と2本の門柱につけるということをする必要がありました。イスラエルはこの主のさだめに従順に従ったゆえに、さばきを過ぎ越され、いのちが守られたのでした。 もっと後の時代になると、シリアのナアマン将軍のケースを挙げることができるでしょう。ナアマン将軍のツァラアトは、ヨルダン川に7回身を浸すという主の方法に従順に従うことによっていやされ、きよめられたのでした。 罪からの救い、けがれからのきよめ、これらのものは、人間的な方法を用いてもかないません。人間は、よい行いをしたり、哲学を極めようとしたり、宗教にのめり込んだりして、なんとか自分がきよめられ、救われることを願い、取り組みます。しかし、人が救われるためには、神さまの側でよしとされる方法で神さまに近づかなければだめなのです。神さまの求めていらっしゃる基準を外れるならば、人間の側でいかに努力しても、決して救いに到達することはできません。 その、神さまの方法に従うということは、自分にとっては納得のいかない方法と思えるかもしれません。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸しなさいというエリシャからの伝言に一度は腹を立てましたし、長い漂流生活の中にいたノアも、どこかで不安な思いに駆られたとしても不思議はありません。聖書の中で、使徒の働きにあるパウロの難船の記事を見てみると、読むだけで船に乗る者たちの不安が伝わってきます。ノアもそういう心境になっていなかったかと思わされます。それでも、人がどう思おうと、神さまの救いの方法ははっきりしています。その道を通して、私たちは救いに至るのです。 ここまで来れば、私が何を申し上げたいかお分かりだと思います。そうです。ほんとうの救いは、イエスさまの十字架を信じる信仰によってのみいただくことができます。これ以外に道はありません。 ただし、イエスさまの十字架を信じる信仰というものは、一生かけて達成していくものです。生涯、その生活を通して、イエスさまと深く交わり、イエスさまのみこころをこの地上に現わしていくべく、徹底して、自分を打ちたたいて、イエスさまのあとにしたがって重い十字架を背負ってついていくのです。それがいやで、信仰を捨てた人のなんと多いことでしょうか。願わくは主が、その人がイエスさまを受け入れた過去を持つという事実を覚えて、救ってくださればと願わずにはいられませんが、その人が現実に今、ともに教会形成、キリストのからだなる教会を立て上げる貴い働きに献身していないということは事実なわけで、その人は確実に、ほんとうの意味での祝福を何にももらえていないことになります。 私たちはどうでしょうか? ノアの箱舟の中のようなあてどもない生活に絶望して、信仰の歩みから落伍する者が現れないようにと願います。また、ノアの箱舟の中にいるかぎり、動物の世話をするような仕事があったように、私たちもこの教会という共同体においては、この労働力をもって、あるいは財物をもって、主と共同体にお仕えする役割をみな持っています。 私たちは、自分の属する教会とはいかなる場所か、ちゃんと理解していますでしょうか? イエスさまの救いもたずさえないでこの教会のメンバーに居座ろうということでは、まるでそれはイエスさまのたとえにあったような、礼服も着ないでずかずかと婚礼の宴に居座る者のようです。私たちは即刻悔い改めなければなりません。 救いを完成する道がいつ終わるかは、主だけがご存知です。私たちのすることは、その中で主の完全な救いを待ち望みつつ、その生活を主におささげし切って、救いを達成すること、これに尽きます。 第二のポイントです。神さまはノアのために、生命力を芽生えさせられました。 水は確実に減りはじめました。水かさが増さなくなり、かえって減り続けていることが、感覚的にもわかりました。山の頂も現れはじめました。そこでノアは、果たして地上波どうなったかと、カラスを放しました。するとカラスは、行ったり来たりしながら戻ってきました。 カラスは、モーセの律法によれば、食べてはいけない汚れた鳥ということになっています。また、私たちの一般常識では、カラスはゴミ捨て場をあさるような害鳥で、また、縁起の良くない鳥という扱いを受けています。カラスはサタンの象徴であるという聖書解釈もありますが、それについては、今日は詳しく扱いません。この場合、はっきりしているのは、カラスはまだ出たり戻ったりしていたので、羽を休める場所はなかった、ということです。 これに続いて放たれたのは、鳩、でした。鳩はカラスとちがい、きよい鳥に属します。神さまにいけにえとしておささげするにふさわしいくらいきよい存在です。ノアは、この鳩に関しては丁寧に扱ったようで、土地が乾かず、休み場がないために行ったり来たりしていた鳩を、ノアは箱舟の中から手を伸ばしてとらえ、また中に入れました。 ノアはその1週間後、もう一度鳩を放します。すると鳩は、オリーブの若葉をくわえて帰って来ました。これは、もう箱舟の中にいるあらゆるいのちが地に降りる準備が万端整いました、ということを知らせる、よき知らせでした。神さまはこの大洪水の中においても、オリーブを守っておられました。 オリーブが、聖書において特別な存在であることはみなさんもご存知でしょう。ダビデが詩篇23篇で吟じた、羊を牧するむちと杖、これはどちらも、オリーブの枝からつくります。そうだとすると、オリーブとは、牧するイエスさまと牧される羊なる主の民との間を結ぶ、絆、交わりの象徴とも言えるでしょう。 また、オリーブの実は、それを搾ってつくる油がとても価値のあるもので、いのちを保つ源とも言えるものです。このオリーブ油は、もう残りが一切出てこない、かすになるまで何度も搾ります。ゲツセマネの園は、まさしくオリーブの油を搾る場であり、そこでイエスさまは血の汗を流してご自身をささげ切るお祈りをされ、十字架へと進んで行かれたのでした。 こうしてみると、オリーブというのはただたまたま鳩が飛んだらそこに生えていた植物ではなく、聖書的に見て、主の深いみこころを知らせる存在であったことがわかります。そう、キリストが、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたと第一コリントみことばにあるように、洪水に滅ぼされて死に満ち満ちた世界に萌え出でたオリーブは、闇の中に輝き、闇に打ち勝たれたキリストを象徴しています。 そして、鳩です。聖霊が鳩のような姿でバプテスマをお受けになったキリストの上にとどまられ、公生涯が始まったということを考えると、鳩は、キリストを証しする聖霊なる神さまの象徴です。聖霊の象徴である鳩が、キリストの象徴であるオリーブの若葉を船に持ち込んだということは、ノアの箱舟に象徴される神の共同体、救いの共同体……すなわち教会は、キリストを証しする聖霊によってまことの希望を得る、ということを表していると言えましょう。 ノアは鳩のくわえたオリーブを見て、何を思ったでしょうか。終わったんだ! 救われたんだ! その喜びに満ち満ちたのではないでしょうか。私たちもそうなります。ただし、それが実現するのは、私たちがこの地上の歩みを終え、天国に移されたときです。それまで私たちはこの地上で、キリストの救いを完成させる働きにひたすら励むのみです。この地上の働きは、時にとても苦しくて、いつ果てるとも知れぬ苦しみに、音を上げてしまいそうになることもあるでしょう。しかし、あのノアの箱舟生活には、オリーブの若葉という名の、終わりを告げるうれしい知らせが届いたのです。私たちも終わりの日には、必ず天国に入れていただきます。その日を目指し、恥ずかしくなく御前に立てる私たちとなりますように、日々励んでまいりたいものです。 第三のポイントです。神さまはノアのために、礼拝の機会を与えられました。 ノアは、3度目に放った鳩がもう戻ってこないのを見て、もうこの地がいのちを迎え入れる準備が整ったことを知りました。しかし、実際にノアが箱舟の外に出るには、もう少しの時間が必要でした。ノアはしかし、自分で出る時期を判断して外に出たのではありません。神さまのご命令が下されたのを知って、そのみことばに従順に従ったゆえに、この601年目の第二の月の27日に外に出たのでした。箱舟に入り、主がうしろの戸を閉じられてから、実に1年以上の月日が経っていました。 一年ぶりに降り立った地面! もうそこには、すでに草も萌え出でていたことでしょう。そこに、待ってましたとばかりに降り立つ動物たち! 私たちがノアだったらと考えてみましょう。どんな気持ちになるでしょうか? しかしノアは、ここで神さまに礼拝をおささげしました。きよい家畜、きよい鳥からいくらかを取って、それをささげものとしておささげしたのでした。その家畜や鳥は、ノアにとっては、大洪水に揺られる箱舟の中で、一年にわたって寝食をともにした特別な存在です。しかしノアは、まずすることは、この大事な存在の血を流すことで、神さまにいけにえをおささげすることだと信じ、すぐに実行に移したのでした。 神さまは、怒りの波、それこそ怒涛をもって地をことごとく滅ぼされました。ノアは、この罪人に対する神さまの怒りをなだめるため、いのちの血を流し、いけにえとしました。そうです。神さまは私たち罪人に、死をもって滅ぼし地獄に投げ入れるという権威をお持ちで、私たちは罪人である以上、神さまは怒りを注がれ、地獄の火の池で永遠に焼かれて滅ぼされるにふさわしい存在です。 しかし、神さまはノアのいけにえを受け入れられ、人類を一切滅ぼすことをもはやしないことを宣言されました。罪人であることを知ってもなおです。ここに、神さまのご慈愛と忍耐を見ることができます。 この世界は、やがて過ぎ去ります。イエスさまは十字架の死から復活され、天に昇られましたが、再びこの地に来られることを言い残されました。あれからそろそろ2000年になろうとしています。人々はますます混迷する社会に翻弄され、怖じ惑っていますが、この世界の果たしてどれくらいの人が、イエスさまが再び来られ、この世をさばくということを本気で信じ、その日を待ち望みつつ祈っているでしょうか? 私たちはどうでしょうか? イエスさまが天に昇られてからこのかた、世界はつねに終わりの時でした。しかし、2000年間イエスさまがいらっしゃらなかったからと、これからもいらっしゃらないということにはなりません。明日いらっしゃるかもしれませんし、今日いらっしゃるかもしれません。いえ、こうして礼拝中にいらっしゃったとしても、不思議はありません。さあ、その時私たちは、どうしますか? にっこり笑ってお目にかかれる準備はできていますか? ノアのいけにえを受け入れられた神さまがおっしゃったとおり、人は幼いときから悪、罪人です。しかし、神さまがノアに礼拝の機会を与えてくださったように、私たちには今なお、神さまを礼拝する道が開かれています。イエスさまの十字架の血潮によって、私たちは大胆に神さまに近づくのです。 神の怒りから救われ、天国に入れていただく。その救いを完成する一生ものの歩みは、とてもきびしいものです。しかし、それでも主は、私たちをつねにみそばに置いてくださいますゆえに、喜びがあります。聖霊なる神さまがこの教会という共同体に教えてくださる、イエス・キリストの恵みにつねにとどまりつつ、この地上の歩み、イエスさまがやがて来られるまでの歩みを、進めてまいりましょう。 ★お祈りの中で、みなさまにお尋ねしたいと思います。自分は救っていただいた喜び、はじめの愛を忘れていました、礼拝の感激をなくしていました、主よ、私はいまいちど、あなたさまに献身いたします、私がさらに真剣に礼拝をささげる者となるために、自分の時間、財物、持ち物を優先的に、あなたさまを礼拝するために用いてまいります、そのように願われる方は、右の手を挙げてください……。

十二弟子と私たち

聖書箇所;マタイの福音書10:2~4 メッセージ題目;十二弟子と私たち  先週も、みなさまのお祈りによって送り出され、韓国に行ってまいりました。私を霊的にはぐくんでくれた韓国教会から、私はさらにパワーをいただいて、より一層仕えてまいりたいと願う所存でございます。牧師のペ・チャンドン先生がどれほど、信徒が整えられて主の弟子となっていくかということに牧会の生命をかけられ、取り組んでこられた、その生の声をあらためてお聴きすることが、このセミナーのすべてであったと言えるかもしれません。これは、技術や方法論の問題ではなく、教会が教会らしく立て上げられていく生の姿であり、これにあらためて触れることができたのは、弟子訓練のビジョンを思い描く私にとって、またとない力となることでした。  そこで本日は、主のみこころである弟子訓練というものについて、特に、イエスさまが召された十二弟子にスポットを当てながら、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を照らし合わせつつ、見てまいりたいと思います。  本日は、十二弟子の共同体をイエスさまが結成されたその目的を探り、やはり私たちもイエスさまの弟子として、このイエスさまが弟子たちを召されたそのことから何を学ぶことができるか、見てまいります。  十二弟子の共同体の性格、その1は、イエスさまが選んだ人々、ということです。まずは、マタイの福音書10章1節をご覧ください、「イエスは弟子たちを呼んで」とあります。イエスさまご自身がお呼びになったのです。  では、どのようなシチュエーションでお呼びになったのでしょうか? このときイエスさまにはすでに、たくさんの弟子たちがついてきていました。このイエスというお方はただものではない、ぜひとも学びたい、そういう人がいっぱいいたというわけです。  しかしイエスさまは、その大勢の弟子たちの中から、特別に十二弟子をお選びになりました。それはどういう人たちだったのでしょうか? マルコの福音書、3章13節の表現によれば、それは「ご自分が望む者たち」でした。そうです。イエスさまが、この男はわたしの弟子にふさわしい、と見込んでくださった12人が、選ばれて、十二弟子となったのでした。  そうです。イエスさまのスカウティングです。おそらく、イエスさまにぞろぞろとついて来ていた者たちは、イエスさまのことを尊敬していたでしょうし、また愛してもいたはずです。しかし、イエスさまはだれでも彼でも選ばれたわけではありませんでした。特に12人という小グループを結成され、この者たちを3年かけて訓練することで世界を変えるという、驚くべきことをなさったのでした。  ただ、イエスさまは、この12人を何のお考えもなしにお選びになったのではありません。むしろその逆です。ルカの福音書6章12節を読めばわかるとおり、イエスさまはこの12人を選ぶために、一晩山にこもり、父なる神さまのみこころを徹底的にお尋ねしつつ、慎重にお選びになったのでした。  ここでしかし、私たちは疑問に思わないでしょうか? イスカリオテのユダを、イエスさまはこの祈りの中でお選びになったというのだろうか? お分かりになっていてもなお、イエスさまはなぜお選びになったのだろうか? もちろん、ユダをお選びになることは父なる神さまのみこころでしたし、イエスさまも従順に従われました。ユダがどういう人間で、最後にはどのようなことをしでかすか、すべてを見通される御目によって知っておられた上でのことです。ユダを十二弟子の共同体に迎え入れ、3年も寝食を共にせよだなんて、それはイエスさまにとって、どれほど大変な決断だったことでしょうか。しかし、イエスさまはそれでもあえてユダも選ばれ、十二弟子の共同体に迎え入れられたのでした。 イエスさまの弟子だなんて、私はそんなにしっかりしていないよ、私はそんな柄じゃないよ、そうお考えになりますでしょうか? しかし、大丈夫です。大事なのは、私たちの資質ではありません。イエスさまが召されたかどうかです。ご覧ください。十二弟子は、自分が一番だと喧嘩するような人たちです。あの最後の晩さんのとき、この期に及んでもそんなことを言い合っていたような、どうしようもない者たち、それがイエスさまの弟子です。しかしそれでも、イエスさまが選んで召された以上、イエスさまの弟子であることに変わりはありません。 私たちのことも、イエスさまは弟子に取ってくださいました。群衆にはたとえで難解に語られたみことばの意味を、イエスさまは懇切丁寧に説明してくださいましたが、私たちは聖書を読む気になりさえすれば、その難解なたとえの解き明かし、みことばの奥義をちゃんと知ることができます。また、そのみことばを聴き、守り行うことで、弟子としての歩みを全うすることを目指す、その共同体である教会に、私たちは召されています。そうです。私たちもイエスさまに召されている弟子なのです。十二弟子をモデルにして歩むことに、何ら不都合はないのです。このアイデンティティをしっかり自分のうちに保って、主にお従いする歩みを果たしてまいりたいものです。 十二弟子の共同体の性格、2番目は、イエスさまがそばに置かれることがその目的だった集団です。 マルコの福音書3章14節、ここに、イエスさまが十二弟子を召された理由をはっきり、「彼らをご自分のそばに置くため」と記されています。みことばをよくご覧ください。「彼らがご自分のそばにいるため」ではありません。「彼らをご自分のそばに置くため」とあります。主語はどこまでも、イエスさまなのです。 イエスさまはなぜ、十二弟子をご自分のそばに置かれたのでしょうか? それは、イエスさまが十二弟子に、特別な愛を注がれることそのものに目的があったからでした。ヨハネの福音書、13章1節をご覧ください。彼らとはだれでしょうか? これは、十二弟子との最後の晩さんにつづくみことばであることを考えると、世の人々を愛されることは特に、十二弟子に愛を示されることによって実現していたことがわかります。 イエスさまが十二弟子を愛されたのは、模範を示すためだったとか、働きを移譲するためだったとか、そういう具体的な理由は二の次です。わたしはおまえたちをそばに置いて愛す! これこそが目的です。私たちクリスチャンは、主の弟子として召されている以上、イエスさまがみそばに置いてくださった存在です。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。そのように語ってくださる主は、私たちを引き寄せ、わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない、と言ってくださいます。 私たちはときに、自分の愛のなさに絶望します。自分を見ていると、神さまへの愛がない、そのように落ち込むこともあるだろうと思います。しかしそれでも覚えておきたいことがあります。それは、私たちがイエスさまを離れるような思いになっても、イエスさまの側では、決して離れることはない、ということです。 さて、イエスさまがそばに置かれる対象ですが、それは私たちクリスチャンひとりひとりももちろんなのですが、「彼ら」と複数形になっていることにも注目したいと思います。そう、イエスさまがみそばに置かれるのは、共同体です。しかし、十二弟子という共同体は、さきほども申しましたとおり、いろいろ問題を抱えていました。完璧とは程遠い状態にありました。それでもイエスさまは、弟子たちというこの共同体と、徹底してともに時間を過ごされたのでした。 彼らは、イエスさまのお姿から、実に多くのことを学びました。彼らは単に本のようなものが与えられて、それを読んで頭で理解することで働きのために整えられたのではありません。生きたお手本であるイエスさまがともにいてくださることによって……それこそ、同じ釜の飯を食べ、同じ空気を吸うことで……数多くのものを吸収していったのでした。 教会という共同体は、その存在そのもので、イエスさまを証しする存在です。教会とはイエスさまがその十字架の血潮により買い取られた、神の宮、キリストの体です。どれほど貴重な存在でしょうか! この教会を、イエスさまはみそばに置いてくださったのです。しかし私たちの側では、その大事な事実を見失って生きてはいないでしょうか! 私たち教会は、いま私たち自身が考えているよりも、はるかに素晴らしい存在です。私たちが何者かを知るには、私たちが一緒になって、ともにおられるイエスさまとお交わりを持つことです。イエスさまとお交わりを持つならば、私たちはこの世から神さまの側に分かたれている者としてふさわしく、ともにキリストの似姿として整えられる恵みをいただきます。私たちはともに、その存在がイエスさまを証しできるようになるのです。 お互いをご覧ください。お互いは、イエスさまがそばに置いてくださった、とても大事な存在です。この仲間たちをイエスさまは、一緒にみそばに置いてくださったのです。そう考えてお互いを見ると、心から愛したい思いがわき上がってこないでしょうか? そうです、それでこそ教会、キリストのからだです。 十二弟子の共同体の性格、第3は、イエスさまが働きをゆだねられた人々です。 マタイの福音書10章1節に、次のようなことばがあります。……これは、すごいことです。この権威を十二弟子は、イエスさまから与えられたのです。しかし、霊どもを追い出す権威は、霊どもの上に君臨して威張るためではありません。人をいやすため、つまり、神さまの最高傑作である神のかたちである人間が、その本来の創造の目的にふさわしくなるため、それに取りついている悪霊を追い出し、いやしてあげるのです。目的は悪霊そのものにはなく、あくまで人のいやし、そして人をおつくりになった神さまのみこころにあります。 悪霊を追い出すということばを聞くと、何やらものすごくおどろおどろしいものを想像するかもしれません。それこそむかしのホラー映画のような世界ですとか。たしかに、そのような目に見える形での悪霊追い出しというものは存在します。私も以前、リバイバル運動に傾倒していた頃は、そういう働きのお証しを結構聞いたものでした。個人的にはそういう世界があることを信じています。 しかし私たちは、なにも特別なことを考える必要はありません。人を悪霊の働きに引きずり込む要素というものは、こんにち私たちが住む社会にはうじゃうじゃしています。インターネットなどはその典型でしょう。インターネットで匿名の掲示板の汚らしい表現や軽薄なゴシップを見て憂さを晴らしたり、ポルノを視たりします。そういうことをしなくても、だらだらといろいろなサイトを視つづけて、貴重な時間をつぶしてしまったりします。 もし人がきよめられていないで、悪霊のなすがままになっているならば、自分の罪の性質にしたがってインターネットにアクセスし、見聞きしてはいけないものにおぼれます。そうしているうちに、ますますその人は、悪霊の支配を受けるようになります。スマートフォンなどは、悪霊の支配に自ら身をゆだねるために持ち歩くものに成り下がってしまうのです。インターネット以外にも、深酒の習慣、薬物、ギャンブル、買春(かいしゅん)、買い物中毒、いかがわしい宗教、おまじないや占いのようなオカルト……あるいは、世の中に不義に対して何とも思わない無関心、自己中心……悪魔と悪霊はいろいろな方法を用いて、人間を支配しようとします。 そうです。人はその罪の性質を肥え太らせる、悪い霊の支配に晒されています。そのなすがままになり、そこから離れるのもとても難しくなっている人もいるでしょう。そういう悪魔と悪霊の支配から人を自由にする、これが私たち教会のすることです。人をこのように、この世に存在するあらゆる媒体を使って支配しようとする悪魔と悪霊の支配から解き放つには、その人に福音を伝え、聖霊の満たしによってそのようなあらゆる悪から自由になるようにする必要があります。御霊の願うことは肉に逆らい、肉の願うことは御霊に逆らいます。御霊に満たされているならば、その人はもはや、肉に属するものにおぼれて悪霊の支配を受けることはありません。悪霊はその人から追い出される、ということになります。 イエスさまが、弟子である私たちに伝授してくださった福音の力は偉大です。私たちが今知っているよりも、はるかに偉大で、また力があります。私たちはこの福音によって、この世をキリストから遠ざけ、ひとりでも多くの人を滅びに引きずり込もうとする悪魔と悪霊の支配から人を救い、自由にするのです。 もちろん、人が悪霊を遠ざけるべく変化し、成長するのは、一瞬で起こることではありません。福音を伝えたらそれで終わり、ということならば、私たちは日曜日ごとにこうして教会に集まる必要などないわけです。毎日聖書を読む必要もなくなります。そうではないのだから、私たちは毎日ディボーションをするのですし、毎週日曜日には教会に集まって神さまを礼拝し、また励まし合うのです。お互いのために祈り合うのです。まずは……私たちは福音宣教によって、人から悪霊を追い出せる、そう信じるところからスタートしましょう。私たちは必ず用いられます。信じていただきたいのです。 私たちは、イエスさまに選ばれています。イエスさまがそばに置いてくださっています。そんな私たちは、イエスさまに遣わされて、福音の力で人を自由にする使命と、またそれにふさわしい力をたえずいただきます。イエスさまが、できる、と見込んでくださったから、私たちにはできると信じていただきたいのです。ハデスの権勢も打ち勝つことのできない教会のひと枝ひと枝とされた私たちは、この事実をしっかり心に刻み、そのイエスさまの召命に忠実に歩めるように、日々みことばをお読みし、お祈りし、またお互いの交わりを欠かさないで、整えられてまいりましょう。

バプテスマと主の晩さんの関係

聖書箇所;ペテロの手紙第一3:18~22 メッセージ題目;バプテスマと主の晩さんの関係  私たちの教会は、「水戸第一聖書バプテスト教会」といいます。私たちバプテストは、入信を表明する際に行うことを「バプテスマ」と表現します。他の教団教派では一般的に「洗礼」と呼び、このことばは一般的にも使われています。  洗礼といいますと、カトリック教会や長老教会などでは、水滴を頭につける「滴礼」という形で行います。また、生まれて間もない子どもにも「幼児洗礼」というかたちで洗礼を授けたりします。しかし、私たちバプテスト教会は全身を水に浸す「浸礼」という形でバプテスマを行い、また、幼児にバプテスマを授けることはしません。  さて、主の晩さんについてですが、ここで一度、バプテスマと主の晩さんについて整理し、なぜ私たちにとってバプテスマが大事なのか、そのバプテスマを受けた私たちが主の晩さんにあずかることにはどのような意味があるのかを、本日、主の晩さんを執り行うにあたりまして、ペテロの手紙第一3章のみことばから、ともに学んでまいりたいと思います。  私たちは本日のみことばを、3つのキーワードから理解してまいりたいと思います。第一は「十字架」です。18節のみことばをお読みします。  キリストが罪のために苦しみを受けられたとあります。いうまでもなく、人間の罪です。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、とみことばは宣言します。法律で戒められている犯罪、どろぼうですとか、傷害ですとか、殺人ですとか、そういったものももちろん罪ですが、聖書が定義する罪は、それにとどまりません。 しなければならないとわかっているのにしなかった、こういうことも罪です。電車に乗って席に座ったら目の前に腰の曲がったお年寄りが! しかし、気づかないふりをして狸寝入りをする……あと、中島みゆきの「ファイト!」という歌にありますが、駅の階段で女の人が子どもを突き飛ばした! それを見たあたしはこわくなって逃げ出した、そんなあたしの敵はあたしです、なんて、自分を責めていますが、かわいそうでもそれも本人が意識するように「罪」です。 さらにいえば頭の中で犯す罪というものもあります。いらいらして心が乱されることも、聖書の基準では罪です。だれかに対し、「あいつなんかいなくなってしまえ!」と心の中で毒づくのもやはり罪です。配偶者以外の対象に性的な妄想を抱くのも罪です。 これだけの罪を犯す私たち人間について、聖書は「義人はいない。ひとりもいない」と宣言しています。しかしこの罪があるままでは、私たちはだれひとりとして神さまのみもとに行くことはできません。私たちはその罪の罰を、死をもって、それも神さまから永遠に切り離される死の罰をもって受けなければなりませんでした。神さまはしかし、そんな私たちを憐れんで、私たちが受けるべき死の罰を、ひとり子イエスさまを十字架の上に死なせることによって、身代わりに受けさせてくださいました。 しかし、このキリストの霊は、私たちを神さまのみもとに導いてくださいました。信仰によって義と認めてくださる、つまり絶対的に正しいと認めてくださるという、完全な救いの道を開いてくださったのでした。信仰による救いは、神さまからのプレゼントです。私たちは行いによって永遠のいのち、救いをいただくのではありません。救いは信仰によって、ただでいただくのです。 イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの統べ治める神の国、キリストのからだなる教会に入る入口です。門、と言い換えてもいいでしょう。イエスさまは、「わたしは羊の門です」とおっしゃいました。イエスさまをまことの羊飼いと戴く羊の群れの中、教会という共同体の中には、イエスさまを信じる信仰という門を通って入っていくのです。 そうです。イエスさまの十字架は、天国の入口、それも私たちの生きている地上にある入口です。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって、この地上の生活からすでに、天国を歩む歩みが始まるのです。どれほど十字架は大切なのでしょうか。十字架なくしてはキリスト教にあらず、とさえ言えます。十字架はまさしく、神さまの側で私たちの救いのために成し遂げてくださったみわざです。 次のキーワードにまいります。第二のキーワード、それはバプテスマです。19節から21節をお読みします。 このところ私たちは日曜ごとに「ノアの洪水」の箇所から学んでまいりました。この第一ペテロのみことばによれば、ノアが箱舟をつくっていた間、やがて来たるべき大いなるさばきが来ることを、その時代の人々に対し、ほかでもなくキリストが宣べ伝えていらっしゃったことが暗示されています。結局のところ、その時代の人々はそのさばきのことばにも関わらず、悔い改めることをせず、ことごとく滅ぼされたわけでした。 ある解釈では、この捕らわれの霊とは、死んでハデスに留め置かれた霊のことであり、その霊たちにキリストが宣教されたということで、キリストを信じなくて死んだ人でも、死後にもセカンドチャンス、救われる可能性はある、といいます。しかしこれは、セカンドチャンスの根拠にはなりえません。人が救われる可能性は、どこまでも、この地上においてイエスさまの十字架を信じるという羊の門を通るかどうかにあります。 滅びの宣告がなされたにも関わらず聴き従わないならば、その責任は聴き従わなかった者に帰します。ヨナが宣教したニネベをご覧ください。ヨナはニネベの滅びを宣告しただけなのに、人々は本気で悔い改めました。神さまはそれをご覧になり、滅びの御手を下されることをやめられたのでした。 ノアたちは、箱舟に乗って助かりました。地を滅ぼす水が轟々と波打つその中を、サバイブしたのでした。そしてこのペテロのことばによれば、それがバプテスマを象徴するものであったということでした。神さまのみことばに従順になって箱舟をつくり、そしてその中に入って洪水をサバイブしたノアとその家族は、イエスさまを信じてバプテスマにあずかる神の家族の象徴です。この水を通ることが、神さまが救いに定められた者の証しであるのです。 時代は下り、バプテスマを授ける人が現れました。バプテスマのヨハネです。彼が説いたのは、悔い改めのバプテスマです。人々が罪ある自分自身から罪なき神さまに方向転換する、これが聖書の語る悔い改めです。イエスさまもヨハネからバプテスマを受けられました。イエスさまはもちろん、悔い改めのバプテスマを受けるだけの罪があるようなお方ではありません。むしろヨハネ自身が言ったように、ヨハネこそが罪なきイエスさまからバプテスマを受けるべきでした。しかしイエスさまはあえて、ヨハネからバプテスマをお受けになり、人として正しく歩むべき道、父なる神さまに対する従順を実践されたのでした。 ノアの家族がノアの従順によって一緒に箱舟で暮らしたように、私たち主の民は、イエスさまの従順によってイエスさまと一緒に、神の国、キリストのからだなる教会という共同体をなすのです。バプテスマ、それはイエスさまと一緒に水に浸かることです。神さまの側でしてくださった「救い」に対する人の応答、それが「バプテスマ」です。イエスさまは天に帰られるとき、このバプテスマを世の終わりまで、あらゆる国の人々を対象に守り行うように、弟子たちに遺言を残されました。 21節もご覧ください。イエスさまは死なれただけではありません。復活されました。ノアの一家が箱舟の外に出て、新しいいのちに生かされるようになったように、私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰により、イエスさまの復活にあずかるものとされました。私たちは永遠に罪に勝利し、永遠のいのちが与えられたのです。バプテスマにおいて、いったん水に沈み、そして引き上げられるのは、まさにイエスさまの十字架の死と復活にあずかっていることを象徴しています。 そしてバプテスマは「誓約」です。イエスさまが私のために血を流してくださった、その契約を、私も生涯お従いすると約束することで交わさせていただきます、という誓約です。だから、バプテスマを受けるならば、生涯イエスさまにお従いする歩みをしてしかるべきです。 したがって教会は、すべてバプテスマを受けた者が生涯の誓約を果たす従順な歩みをする上で成長していくべく、互いに教え、励ましていく使命が託されている共同体です。バプテスマは、私たちがイエス・キリストの共同体に属しているという証しになるものです。心に信じ、口で信仰を告白しているならば、私たちは時を移さず、バプテスマを受けるように、励まし合ってまいりたいものです。 では、バプテスマが、イエス・キリストの共同体「となる」ための条件ならば、主の晩さんとは何でしょうか? それは、イエス・キリストの共同体「である」ための条件であると言えます。 ルカの福音書22章、17節から20節をお読みください。……神の国が完成するときまで、わたしはあなたがたとはぶどう酒をともに口にする喜びの交わりを持つことはない、わたしは人の罪を赦すために、血を流すのである、肉を裂くのである……あなたたちも、わたしの十字架を信じる信仰によってわたしの群れに属しているならば、このパンを口にし、杯を口にすることで、わたしの十字架を決して忘れないでいてほしい……ほかならぬ、イエスさまが定められたことです。だから、主の晩さんを守り行いつづけるのは、バプテスマをもって信仰告白を公にした者たちにとって、当たり前のことです。 しかし、もしかすると、このパンと杯にあずかる人が、バプテスマを受けた人に限定されていることを、ずるい、差別だ、と思う人がいるかもしれません。しかし、これはイエスさまの十字架を理解し、したがってこの十字架を信じる信仰を、バプテスマを受けるという形で表明する、その従順を実践した人だからこそ、味わってそのほんとうの価値がわかるものです。 すでにバプテスマを受けていらっしゃるみなさん、きょうもまた、救っていただいた喜びを胸いっぱいに、主の晩さんにあずかってください。まだバプテスマを受けていらっしゃらない方は、どうか落ち込まないで、私は必ずイエスさまを信じてバプテスマを受け、主の晩さんに早くあずかれますように、と祈りつつ、見学していただければと思います。 では、三つ目のキーワードです。それは、「天国」です。22節をお読みしましょう。 キリストは復活し、天に昇られました。キリストは天において、一切の権威を服従させて、神の右の座におられます。ここまでのみことばの流れの最後に現れたキリストは、もはや十字架に釘打たれた弱いお姿ではありません。完全な栄光に満ちた、輝きに輝くお姿です。私たちにとって仰ぎ見るべきお方は、この栄光のお方です。私たちにとって大事なのは、十字架の死を打ち破り、天にのぼり、神の右に座しておられる、キリストの栄光のお姿に似た者へと、私たちが終わりの日に変えられる、ということです。 私たちのこの地上の歩みは、天を目指す歩みです。キリストのうしろを、自分の十字架を背負ってついていく、自己否定の道です。しかし、キリストのために自分の肉の欲望、罪深い自我をたえず捨てつづけ、ただ主の栄光だけが現れることを目指して生きる人には、栄光のキリストがおられる天の御国が待っています。 クレネ人のシモンを思い出してください。ゴルゴタの丘につづく道にたまたまいた彼は、イエスさまの釘づけになる十字架をむりやり背負わされて丘に上らざるを得なかったのでした。どれほど苦しく、また恥ずかしかったことでしょうか。もしかすると、何が悲しくてこんな目にあわなければならないのか、と思ったかもしれません。しかしその息子たちは、初代教会にとって重要な人物となりました。シモンが無理やりにでも十字架を背負わされたことは、初代教会を確実に形づくったのでした。 同じことで、私たちもこの地上においては、栄光も何もあったものではないような苦しい目にあうことが多くあるものでしょう。しかし、それを主からの訓練と思って甘んじて受け、その「おのが十字架」の先にある、栄光のイエスさまの待つ天国を仰ぎ見るならば、私たちの流す涙、流す汗、流す血は、必ず報いられます。 十字架を信じる信仰、これは天国の地上の入口です。バプテスマと主の晩さん、これらは天国の地上の進行形です。しかしやがてこの世界は終わり、天国は完成します。目指すべきはこの日です。この地上で労するのは、すべては天国に行くその日のためです。 終わりの日まで天国の福音を宣べ伝え、人々を信仰に導き、バプテスマと主の晩さんを執り行いつつ、主が十字架を背負って進まれたその御跡を従う従順の生き方に献身する、そのような私たちでありますように、主の御名によってお祈りします。