コラム

牧会コラム月報版 2021年11月

Author
mito
Date
2021-11-27 18:00
Views
1486
「宣教について考える」

宣教、というと、原則としてこのように定義できるのではないでしょうか。「宣教とは、異文化、異民族、異言語の領域に入って、キリストの福音を宣べ伝えることである。」

うちの妻は、2008年8月17日、ソウルにあるカルバリ教会にて、宣教師として按手を受け、日本宣教の現場に派遣されました。妻の場合、日本という「異文化」の領域に入ったという点で、「宣教」という条件を満たしていたことになりますが、その日私も妻とともに、日本に「派遣」されました。私の場合日本は「異文化」ではありませんが、当時私は東京にある韓国人教会で働いていましたので、別の意味での「異文化」、また「異民族」、「異言語」の領域で福音を宣べ伝えていたことになり、そういう点では「宣教」を行なっていたことになるわけです。

カルバリ教会は、茨城に引っ越して7年以上が経過した現在も、依然として私どものことを「宣教師」として、祈りを込めた物心両面の支援を変わらずにしてくださっています。私どもの働き場所は結婚以来、「韓国人教会」、「韓国内での日本語礼拝」、そして当教会と変遷してきましたが、この地茨城は妻にとって「異文化」、「異民族」、「異言語」の条件をことごとく満たしていて、妻はこの地でいよいよ名実ともに宣教師となったわけです。

私は日本の教会を牧会する牧師であり、したがって日本の教職や信徒の方々は私のことを原則として「宣教師」とは呼びません。しかし韓国の方々からしてみれば、私のことを祈りにより送り出し、祈りをもって(韓国から見た)異文化で活動する私(ども)のことを支えてくださっている以上、私は「宣教師」なのであり、したがって韓国の信徒の方々には、「宣教報告」をして、お祈りのサポートをいただくべき立場にあるものです。

うちの教会が加盟する「保守バプテスト同盟」はもともとが、戦後の東北地方に保守バプテストのアメリカ人宣教師たちが宣教して生まれた諸教会から形成されたものであり、その後もアメリカから宣教師が派遣されつづけて、今のように、日本の教会が生み出した教職者、海外から派遣された宣教団所属の教職者、さらには個別教会が招聘した外国人の教職者からなる、複雑、つまり多様性に富む教職者の構成となっています。さらには同盟から海外に派遣される日本人の宣教師も生み出され、同盟はきわめて国際的な色彩も帯びています。

このような特色を持つ同盟の一員である当教会も、さかのぼれば1964年以来のパトソン宣教師の水戸宣教に行きつきます。1967年に宇佐神先生が宣教の働きを引き継がれ、これをもって当教会の設立年となるのですが、もともと宇佐神先生が仙台から関東地方に転勤されたことは保守バプテスト同盟が関東一円に展開するきっかけをつくったことでもあり、それはいわば、東北から関東という「異文化」に対する一種の「宣教」ということもできるわけです。当教会はそういうわけで設立当初から「宣教」的であったわけです。

考えてみましょう。私たちが信仰を持ったのは、もとはといえばだれかの伝道によってではなかったでしょうか? その伝道をさかのぼると、海外から宣教しにはるばる日本に来た外国人宣教師の存在に行きつきます。私たちはそのことをもっと意識してもよいはずです。「受けるよりも与える方が幸いである」という使徒の働き20章35節のみことばが真実であると信じて日本にやってきて、難しい日本語を学んで日本人に福音を伝えた宣教師たちは、私たちから見れば尊敬すべき信仰の先輩であるのとともに、主にある愛すべき兄弟姉妹です。彼らにできたことが、私たちにできないということがあるでしょうか?

もっとも、私たちがすぐにでも海外に行くということは、現実的ではないとお思いのことでしょう。しかしそれでも、私たちにとって「宣教」ということは、まったくできないことではありません。私たちにできる宣教、それは「送り出す宣教」、そして「迎え入れる宣教」です。

「送り出す宣教」、それは、私たちが宣教の働きを支えることで成り立ちます。私たちの教会は複数の宣教師を支援していますが、この支援の働きは、宣教師が海外にて宣教の働きを展開するうえで、いわば「命綱」のような役割を果たします。宣教師とその家族は、海外で孤独な働きをすべきではありませんし、また、その働きは日本の支援教会と密接な関係を持っているものです。私たちもその、海外とつながった宣教ネットワークの一員とされているのであり、したがって、海外からニュースレターがやって来たら、しっかり目を通し、現地で必要とされている祈りの課題を覚えて祈ることが私たちに求められています。

「迎え入れる宣教」、これは私自身が、妻と結婚する以前から東京で関わりつづけたものです。韓国人教会は原則として韓国語でミニストリーを行うものですが、その子どもたちの世代は韓国語よりも日本語のほうが第一言語となるので、教会学校のような働きには日本語のできる教師が必要となります。私は、自分自身が教会学校の教壇に立ち、また、教師を養成しました。これは「迎え入れる宣教」の一形態です。

茨城県央においては、韓国人教会は少なくとも4か所あり、私が見るに、おそらくこれ以上の韓国人宣教の拠点は必要ないと思います。しかし、それ以外の言語や民族はどうでしょうか? いくつかの言語による外国語礼拝がささげられているということは聞いてはいますが、それらの礼拝には果たして、どれだけの外国人の方が集っているのでしょうか? この茨城町でも、外国人を見かけることはしょっちゅうであり、そのたびに私は、本国にいては福音を聴く機会にも恵まれない彼ら外国人にどうすれば福音が伝えられるか、重荷を覚えます。彼ら外国人に対して福音を伝えるミニストリーがもし展開できるならば、それは「迎え入れる宣教」を果たしていることになるということです。そのために私たちに具体的にできることはなかなか思いつかないかもしれませんが、私はできることならば、彼らの隣人(となりびと)になって福音を宣べ伝える機会が開かれるように、祈り、簡単なことばを身に着けるなど、できるかぎりのことに取り組んでまいりたいと思います。

現在はコロナ下で、国境を越えた活発な人の行き来は途絶えています。宣教師も簡単には新規に入国できなくなっています。しかし、そのような時代だからこそ、私たちは宣教というものを考え直したいのです。私たちにも取り組める宣教の働きがある。そのことを意識していただきたい、積極的に参加していただきたいと、かつては異文化に身を置いて神学を学び、宣教の働きをした者として、みなさまに心からお願いしたいと思います。
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