コラム

牧会コラム週報版 082 2022.4.10

Author
mito
Date
2022-05-07 17:02
Views
1966
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてに登場するクレネ人シモンに関する記述……それは、イエスさまがかけられる十字架の木をむりやり背負わされてゴルゴタの丘を登っていかされた、というものです。

彼はおそらく、過越の祭りのためにエルサレムに巡礼に来ていただけでした。しかし彼の目をとらえたものは、受刑者が血まみれになって十字架の木を背負いながら、沿道の群衆のあざけりを浴びつつ歩いて行く姿でした。シモンはもしかすると、この人物、ナザレのイエスのことを知っていたのかもしれません。いずれにせよこの光景を群衆に交じって眺めていると、ローマ兵はシモンを捕らえ、致命的なむちを打たれてすでに瀕死の状態になっていたこの受刑者に代わり、十字架を背負えというではありませんか。従うしかありません。シモンは十字架を背負いました。

しかし、このことが共観福音書すべてに記録されたということは、それだけ祝福されるべきことをシモンはした、ということでもあります。主の祝福というものは時に、いきなり、であったり、無理やり、であったり、そのような予想外の苦しみの伴う形で臨むことがあるものです。

ときに私たちも思わないでしょうか? なぜ自分はこのような不条理に置かれているのだろうか? 神さまが祝福をもたらしてくださるお方だというならば、なぜ自分はもっとそれらしく祝福されているべきなのに、そうなっていないのだろうか?

クレネ人シモンの記述は、そんな私たちのことを目覚めさせてくれます。不条理の中にこそ祝福がある。考えてみましょう。神の御子、王の王なるイエスさまが十字架を負われ、死なれるということ以上の不条理が、歴史上存在しえたでしょうか? それを思うとクレネ人シモンの体験した不条理などどれほどのものでしょうか? そして、私たちが今体験している不条理など、さらに大したことはないはずです。

私たちはイエスさまのみあとを、自分の十字架を背負ってついて行くべき存在です。それは苦しい歩みですが、それ以上に祝福の歩みです。自分の肉に属するものをひとつひとつ否定していくたびに、私たちはきよめを体験し、キリストの似姿に変えられていきます。そのように変えられる祝福をともにいただきながら、私たちはこの受難週を歩んでまいりたいと思います。
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