コラム
牧会コラム月報版 2021年12月
Author
mito
Date
2021-12-28 18:22
Views
2117
「みことばを聴いて行う」
私は当教会の牧師に就任した当初から、「みことばをお読みすること」を強調してまいりました。そのために私は、「マクチェイン式聖書通読法」をみなさまにご紹介し、その通読法が毎日掲載されている唯一のディボーションテキストである「リビングライフ」誌をお用いになることをみなさまにお勧めし、さらには手製の通読表を作成して教会でお配りしたりしました。
このように、聖書通読その他でみことばに親しむことが大前提となることですが、私たちにとってほんとうに必要なことは、「みことばを聞く」ことそのものではなく、「みことばを聴いて行う」ことです。
このように、「みことばを聞く」ことではなく、「みことばを聴いて行うこと」こそが大事だということは、旧約聖書には、サウル王に関する記述に表れています。サムエルは主の御声に不従順だったサウルのことを、このようになじっています。――主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の罪。(Ⅰサムエル15:22~23)ささげ物やいけにえをささげることはいわば「宗教行為」です。しかし、「宗教行為」によって人は主に喜ばれるわけではありません。もし、聖書を読むことが、単なる宗教行為の枠を抜け出していないならば、それは主に喜ばれることにはなりません。主に喜ばれることは、その聴いたみことばを具体的に「行う」ことです。
時代が下り、預言者イザヤの時代になると、このような預言がなされてもいます。――『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』……わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。(イザヤ58:3,6)断食という「宗教行為」も、ものを食べないことで肉体に負担をかける分、何やらそれをすることで神さまに近づいた気分になります。しかし、それよりも、自分たちのような特権を持った身分の者たちが悔い改め、その既得権を手離して、自分たちの支配下にあって苦しんでいる者たちを解放するということのほうが、はるかに難しいことです。しかしそうすることは、神の民全体の喜びにつながることです。神さまはそのように、みこころに従順であることを願っていらっしゃいます。
新約聖書に入りますと、みことばを聴いて行うこと、また、みことばを聞いても行わないことは、どのようなものに例えられるかをイエスさまがお語りになる場面が出てまいります。――ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。(マタイ7:24~27)
イエスさまは、私たちのことを「家」に例えられました。私たちはこの「家」に、それが個人であれ家庭や教会といった共同体であれ、「主イエスなる客人(まれびと)」(聖歌総合版343番)を迎えるのです。しかし問題は、私たちが主イエスをお迎えするにふさわしくない「家」を建てている場合です。
砂の上に家を建てるのは簡単です。私たちはみことばを聞いて、感動もするでしょう。ためになったと思いもするでしょう。しかし、それで終わってしまうならば、それは砂の上に掘っ立て小屋を建てたことにすぎません。掘っ立て小屋でもイエスさまを迎えることはできなくはないでしょうが、私たちには掘っ立て小屋を建てるどころではない、もっと大きな力が隠されています。その力を発揮して、どこから見ても、だれから見ても、イエスさまをお迎えしていることがわかる家を建てることです。
そのような家を建てるには、岩盤を掘って土台をつくらなければなりません。岩盤を掘ることはつるはしのようなもので毎日こつこつと掘りつづけることであり、時間も必要ですし、労力も必要です。毎日聖書をお読みしてみことばにお従いし、キリストの似姿に変えられることはこのように、力も時間も必要なことです。しかしこうすることで、私たちはキリストを迎え入れているにふさわしいものとなれるのです。
また、別の新約聖書の箇所を読むと、みことばを聞いても行わない人のことをこのように例えています。――みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。(ヤコブ1:23~24)鏡、というものは、容赦なく私たちのありのままの姿を映します。しかし、それで自分の汚れた顔や寝ぐせを直さないで済ますならば、私たちにとって鏡は何の役にも立ちません。鏡は、わがふりを直すためにこそあるもので、聖書のみことばもそれと同じです。聖書に描かれた神さま、イエスさまは素晴らしいですし、登場人物は模範や反面教師像を示します。それに感動するのは結構なことですが、そのように感動することが、生活と直結しないことは普通にあることです。それは、小説や詩のような文学作品を読んで教養になったとしても、多くの場合は生活までが変わらないのと同じことです。
ディボーションとは、生活を変える決断を日々みことばによって下させていただいてこそ、意味を持つものです。それもなしに毎日聖書を読むだけでは、単なる宗教行為、お勤めのレベルにとどまっているだけです。もちろん、ディボーションをとおして生活を変える決断をすることは、相当に苦しいことです。ときにはみことばが無味乾燥に感じられ、このようなみことばから何を示していただけるのかと思えるかもしれません。しかし、そこは忍耐して、聖霊さまが語りかけてくださる御声に耳を傾けていただきたいと思います。それでこそ私たちはみことばを聴いて行うための一歩を踏み出すことができます。
そしてこのみことばを実際具体的にどのように守り行なったか、それを家族や教会の中で分かち合ってこそ、ディボーションは完成し、みことばを守り行うというみこころにかなった歩みはなされていきます。それを面倒なことと考えてはいけません、論より証拠、実際にしてみていただきたいです。私たちがみことばに従順になる歩みは、ひとりでできるものではありません。教会で、家庭で、ともに実践してまいりましょう。
私は当教会の牧師に就任した当初から、「みことばをお読みすること」を強調してまいりました。そのために私は、「マクチェイン式聖書通読法」をみなさまにご紹介し、その通読法が毎日掲載されている唯一のディボーションテキストである「リビングライフ」誌をお用いになることをみなさまにお勧めし、さらには手製の通読表を作成して教会でお配りしたりしました。
このように、聖書通読その他でみことばに親しむことが大前提となることですが、私たちにとってほんとうに必要なことは、「みことばを聞く」ことそのものではなく、「みことばを聴いて行う」ことです。
このように、「みことばを聞く」ことではなく、「みことばを聴いて行うこと」こそが大事だということは、旧約聖書には、サウル王に関する記述に表れています。サムエルは主の御声に不従順だったサウルのことを、このようになじっています。――主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の罪。(Ⅰサムエル15:22~23)ささげ物やいけにえをささげることはいわば「宗教行為」です。しかし、「宗教行為」によって人は主に喜ばれるわけではありません。もし、聖書を読むことが、単なる宗教行為の枠を抜け出していないならば、それは主に喜ばれることにはなりません。主に喜ばれることは、その聴いたみことばを具体的に「行う」ことです。
時代が下り、預言者イザヤの時代になると、このような預言がなされてもいます。――『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』……わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。(イザヤ58:3,6)断食という「宗教行為」も、ものを食べないことで肉体に負担をかける分、何やらそれをすることで神さまに近づいた気分になります。しかし、それよりも、自分たちのような特権を持った身分の者たちが悔い改め、その既得権を手離して、自分たちの支配下にあって苦しんでいる者たちを解放するということのほうが、はるかに難しいことです。しかしそうすることは、神の民全体の喜びにつながることです。神さまはそのように、みこころに従順であることを願っていらっしゃいます。
新約聖書に入りますと、みことばを聴いて行うこと、また、みことばを聞いても行わないことは、どのようなものに例えられるかをイエスさまがお語りになる場面が出てまいります。――ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。(マタイ7:24~27)
イエスさまは、私たちのことを「家」に例えられました。私たちはこの「家」に、それが個人であれ家庭や教会といった共同体であれ、「主イエスなる客人(まれびと)」(聖歌総合版343番)を迎えるのです。しかし問題は、私たちが主イエスをお迎えするにふさわしくない「家」を建てている場合です。
砂の上に家を建てるのは簡単です。私たちはみことばを聞いて、感動もするでしょう。ためになったと思いもするでしょう。しかし、それで終わってしまうならば、それは砂の上に掘っ立て小屋を建てたことにすぎません。掘っ立て小屋でもイエスさまを迎えることはできなくはないでしょうが、私たちには掘っ立て小屋を建てるどころではない、もっと大きな力が隠されています。その力を発揮して、どこから見ても、だれから見ても、イエスさまをお迎えしていることがわかる家を建てることです。
そのような家を建てるには、岩盤を掘って土台をつくらなければなりません。岩盤を掘ることはつるはしのようなもので毎日こつこつと掘りつづけることであり、時間も必要ですし、労力も必要です。毎日聖書をお読みしてみことばにお従いし、キリストの似姿に変えられることはこのように、力も時間も必要なことです。しかしこうすることで、私たちはキリストを迎え入れているにふさわしいものとなれるのです。
また、別の新約聖書の箇所を読むと、みことばを聞いても行わない人のことをこのように例えています。――みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。(ヤコブ1:23~24)鏡、というものは、容赦なく私たちのありのままの姿を映します。しかし、それで自分の汚れた顔や寝ぐせを直さないで済ますならば、私たちにとって鏡は何の役にも立ちません。鏡は、わがふりを直すためにこそあるもので、聖書のみことばもそれと同じです。聖書に描かれた神さま、イエスさまは素晴らしいですし、登場人物は模範や反面教師像を示します。それに感動するのは結構なことですが、そのように感動することが、生活と直結しないことは普通にあることです。それは、小説や詩のような文学作品を読んで教養になったとしても、多くの場合は生活までが変わらないのと同じことです。
ディボーションとは、生活を変える決断を日々みことばによって下させていただいてこそ、意味を持つものです。それもなしに毎日聖書を読むだけでは、単なる宗教行為、お勤めのレベルにとどまっているだけです。もちろん、ディボーションをとおして生活を変える決断をすることは、相当に苦しいことです。ときにはみことばが無味乾燥に感じられ、このようなみことばから何を示していただけるのかと思えるかもしれません。しかし、そこは忍耐して、聖霊さまが語りかけてくださる御声に耳を傾けていただきたいと思います。それでこそ私たちはみことばを聴いて行うための一歩を踏み出すことができます。
そしてこのみことばを実際具体的にどのように守り行なったか、それを家族や教会の中で分かち合ってこそ、ディボーションは完成し、みことばを守り行うというみこころにかなった歩みはなされていきます。それを面倒なことと考えてはいけません、論より証拠、実際にしてみていただきたいです。私たちがみことばに従順になる歩みは、ひとりでできるものではありません。教会で、家庭で、ともに実践してまいりましょう。
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