コラム
変化球聖書人物伝~アマレク人の某兵士
Author
mito
Date
2021-06-07 18:24
Views
3979
イスラエルの初代の王であるサウルの最期は、サムエル記第一の末尾の部分と、サムエル記第二の冒頭の部分に記されています。サムエル記第一によると、サウルはペリシテの軍隊から集中攻撃を受け、瀕死の状態になり、その自分が無割礼の者たち(ペリシテ人)のなぶりものにされることを受け入れられず、道具持ちの男に命じ、自分にとどめを刺させようとさせますが、王を(そしておそらく神を)恐れた道具持ちはそれを拒みました。するとサウルは、剣の上に倒れ込んで自害しました。それを見た道具持ちも、主君サウルに殉じるようにして剣に身を伏せて自害しました。
ところが、サムエル記第二のほうでは、サウルの王冠と腕輪を携えてダビデのもとに馳せ参じた、ある若いアマレク人の兵士のことが出てまいります。そのアマレク人がダビデに報告したことばによるとどうでしょうか? 彼の言うには、サウルが槍にもたれかかっていたとき、敵の戦車と騎兵がサウルに押し迫っていた、そのサウルが自分のことを呼び止めて、私を殺してくれ、激しいけいれんが起こったが、息がまだ充分にある(苦しくてたまらないが死ねない)、というわけで、自分はサウルに手をかけた、ダビデさまご覧ください、これがサウルの王冠と腕輪です、とのことでした。
このように、サムエル記第一の末尾の記述と、サムエル記第二の冒頭の記述とでは、様子が大きく異なっています。いったい、どちらがほんとうなのでしょうか? それとも、サムエル記第一と第二の記述は、矛盾していたり、整合性がなかったりするのでしょうか?
しかしこれは、サムエル記第一の記述の方が正しいというべきでしょう。なぜならその記述によれば、道具持ちは、サウルが息を引き取ったことをしっかり見届けた上で、殉死したことを記録しているからです。歴戦の戦士であるサウルの道具持ちともあろう者が、戦死したかどうかを見間違えるということがあるでしょうか? サウルは明らかに自殺したのです(脱線しますが、1600年もの長きにわたって書き継がれてきた聖書の登場人物の中に、「自殺」によって死んだ者は多くありません。すぐ思いつくのは、このサウルのほかには、アブサロムに寝返った軍師アヒトフェルや、イスカリオテのユダぐらいでしょう)。
それでは、このアマレク人の某兵士のことばを、私たちはどうとらえるべきでしょうか? これはやはり、サムエル記第一と読み合わせて判断すべきことです。結論から申しますと、このアマレク人はダビデがサウルから追われる身であったことを知っていた上で、嘘をついてでもダビデから褒美を得ようとしたと考えるのがいちばん妥当です。
しかしもちろん、ダビデはサムエル記第一に書かれているようなサウルの最期を見届けていたわけではありません。このアマレク人の証言から、サウルがいかに死んだかを判断するしかなかったのでした。アマレク人もそこにつけこんで、(実際はすでに死んでいた)サウルにわざわざ手をかけたのは私だ、さあ、私の勲功を認めていただきたい、と、ダビデに迫ったわけでした。
しかし、このアマレク人は大きな勘違いをしていました。それは、ダビデがサウルのことを、自分のことを滅ぼす敵だと思っていたわけではなく、ましてや、自分が王座にのし上がるうえでじゃまな存在だと思っていたわけでもなかった、ということを、彼は考えてもみなかった、ということです。
ダビデは、自分の敵が滅んだということなのに、それは主に油注がれた王が滅んだということだと受け取り、心から悼み悲しみました。ダビデもやはり油注がれていましたが、いかに自分に危害を加えてきた者であったとしても、油注がれた者の滅亡を嘆き悲しむことは、主に油注がれた者としてふさわしい態度だったのでした。
そういうこともわからなかったアマレク人某は、大胆不敵にも、権威あふれた王という存在、油注がれた存在を、自分の立身出世という利得の手段に利用することしか考えなかったのでした。サウルを殺したと嘘をついてみせてでも、次の王になることが確実だったダビデに取り入ろうとしたのでした。言ってみれば彼は、サウルとダビデの両方を利用しようとしたのでした。しかし、ダビデはそんな彼の下心を見抜く以前の問題として、そもそもそんな神をも恐れぬことをしでかすとは何事か、と、彼を処刑したのでした。このようにしてこのアマレク人は墓穴を掘り、まだ若くて前途洋々だった人生を、このつく必要のなかった嘘で棒に振りました。
私たちはこのことから、どんな教訓が得られるでしょうか? 私たちの生活が、教会ではしおらしくしている一方で、実際のところ、嘘をついてでも人を利用して、人に認められることを目指しながらのし上がろうとするような、そんな肉的な立身出世を考えたりしているものになっていないか、私たち自身をよくよく振り返る必要があるでしょう。
思えば私も、日本の教会にリバイバルの機運が高まっていた20世紀末、韓国に神学留学をしたのは、韓国教会の力を借りることで日本の教会に新風を吹き込み、それによって日本のキリスト教会の中で自分の名前を売ろうとした、そんな不純な動機がどこにもなかったと言えば嘘になります。すなわち私はその頃、キリスト教会の教職者になることを、立身出世して人に認められることと勘違いし、その「出世」のために、韓国教会、ひいては韓国の地にリバイバルを起こされたイエス・キリストの力を利用しようとした思いがあったと、今にして思います(※)。まことに恥ずかしい話です。サウルやダビデを利用してのし上がろうとしたこのアマレク人とどこも違いません。
しかし感謝なことに、神さまは私のことを、このアマレク人のようにおさばきになることはありませんでした。とはいえ主は私に「さばき」ではなく、「懲らしめ」は多くお与えになりました。主は私の中のふさわしくない肉の性質、かたくなさを砕いてくださり、その結果私は牧師になるまでに多くのプロセスを要しましたし、その後も多くの失敗を経ながら、今もなおふさわしい牧会者になるように整えられつつあるところです。それは痛みと恥の伴うことでしたが、これ以上ないほどに感謝な歩みでした。
この某アマレク人は、私たちが彼のようになってはならないことを教えてくれる、反面教師です。悲しいことに私たちには、ときには嘘をついてでも人に認められようとする、取り入ろうとする、人を押しのけ、利用してでも高い位につきたがる、そんな肉の性質が居座っています。しかし、アマレク人がその結果命を落とす結末を迎えたように、その性質は神さまとの交わりを絶つ、死の性質です。私たちは、死にふさわしい罪深い者ではなく、主のいのちの中に生きる者となるために、まことに油注がれた方、キリストを恐れ、キリストを利用するのではなくキリストにお従いする、その従順の生き方の中にとどまってまいりたいものです。
ただし、そのような感情がありながらも、主が私に、牧師としての召命を与えていらっしゃったことそのものは確かだったと受け取っています。クリスチャンにおける、召命とそれに対する感情との関係については、次号の月報にて詳しくお話しします。
ところが、サムエル記第二のほうでは、サウルの王冠と腕輪を携えてダビデのもとに馳せ参じた、ある若いアマレク人の兵士のことが出てまいります。そのアマレク人がダビデに報告したことばによるとどうでしょうか? 彼の言うには、サウルが槍にもたれかかっていたとき、敵の戦車と騎兵がサウルに押し迫っていた、そのサウルが自分のことを呼び止めて、私を殺してくれ、激しいけいれんが起こったが、息がまだ充分にある(苦しくてたまらないが死ねない)、というわけで、自分はサウルに手をかけた、ダビデさまご覧ください、これがサウルの王冠と腕輪です、とのことでした。
このように、サムエル記第一の末尾の記述と、サムエル記第二の冒頭の記述とでは、様子が大きく異なっています。いったい、どちらがほんとうなのでしょうか? それとも、サムエル記第一と第二の記述は、矛盾していたり、整合性がなかったりするのでしょうか?
しかしこれは、サムエル記第一の記述の方が正しいというべきでしょう。なぜならその記述によれば、道具持ちは、サウルが息を引き取ったことをしっかり見届けた上で、殉死したことを記録しているからです。歴戦の戦士であるサウルの道具持ちともあろう者が、戦死したかどうかを見間違えるということがあるでしょうか? サウルは明らかに自殺したのです(脱線しますが、1600年もの長きにわたって書き継がれてきた聖書の登場人物の中に、「自殺」によって死んだ者は多くありません。すぐ思いつくのは、このサウルのほかには、アブサロムに寝返った軍師アヒトフェルや、イスカリオテのユダぐらいでしょう)。
それでは、このアマレク人の某兵士のことばを、私たちはどうとらえるべきでしょうか? これはやはり、サムエル記第一と読み合わせて判断すべきことです。結論から申しますと、このアマレク人はダビデがサウルから追われる身であったことを知っていた上で、嘘をついてでもダビデから褒美を得ようとしたと考えるのがいちばん妥当です。
しかしもちろん、ダビデはサムエル記第一に書かれているようなサウルの最期を見届けていたわけではありません。このアマレク人の証言から、サウルがいかに死んだかを判断するしかなかったのでした。アマレク人もそこにつけこんで、(実際はすでに死んでいた)サウルにわざわざ手をかけたのは私だ、さあ、私の勲功を認めていただきたい、と、ダビデに迫ったわけでした。
しかし、このアマレク人は大きな勘違いをしていました。それは、ダビデがサウルのことを、自分のことを滅ぼす敵だと思っていたわけではなく、ましてや、自分が王座にのし上がるうえでじゃまな存在だと思っていたわけでもなかった、ということを、彼は考えてもみなかった、ということです。
ダビデは、自分の敵が滅んだということなのに、それは主に油注がれた王が滅んだということだと受け取り、心から悼み悲しみました。ダビデもやはり油注がれていましたが、いかに自分に危害を加えてきた者であったとしても、油注がれた者の滅亡を嘆き悲しむことは、主に油注がれた者としてふさわしい態度だったのでした。
そういうこともわからなかったアマレク人某は、大胆不敵にも、権威あふれた王という存在、油注がれた存在を、自分の立身出世という利得の手段に利用することしか考えなかったのでした。サウルを殺したと嘘をついてみせてでも、次の王になることが確実だったダビデに取り入ろうとしたのでした。言ってみれば彼は、サウルとダビデの両方を利用しようとしたのでした。しかし、ダビデはそんな彼の下心を見抜く以前の問題として、そもそもそんな神をも恐れぬことをしでかすとは何事か、と、彼を処刑したのでした。このようにしてこのアマレク人は墓穴を掘り、まだ若くて前途洋々だった人生を、このつく必要のなかった嘘で棒に振りました。
私たちはこのことから、どんな教訓が得られるでしょうか? 私たちの生活が、教会ではしおらしくしている一方で、実際のところ、嘘をついてでも人を利用して、人に認められることを目指しながらのし上がろうとするような、そんな肉的な立身出世を考えたりしているものになっていないか、私たち自身をよくよく振り返る必要があるでしょう。
思えば私も、日本の教会にリバイバルの機運が高まっていた20世紀末、韓国に神学留学をしたのは、韓国教会の力を借りることで日本の教会に新風を吹き込み、それによって日本のキリスト教会の中で自分の名前を売ろうとした、そんな不純な動機がどこにもなかったと言えば嘘になります。すなわち私はその頃、キリスト教会の教職者になることを、立身出世して人に認められることと勘違いし、その「出世」のために、韓国教会、ひいては韓国の地にリバイバルを起こされたイエス・キリストの力を利用しようとした思いがあったと、今にして思います(※)。まことに恥ずかしい話です。サウルやダビデを利用してのし上がろうとしたこのアマレク人とどこも違いません。
しかし感謝なことに、神さまは私のことを、このアマレク人のようにおさばきになることはありませんでした。とはいえ主は私に「さばき」ではなく、「懲らしめ」は多くお与えになりました。主は私の中のふさわしくない肉の性質、かたくなさを砕いてくださり、その結果私は牧師になるまでに多くのプロセスを要しましたし、その後も多くの失敗を経ながら、今もなおふさわしい牧会者になるように整えられつつあるところです。それは痛みと恥の伴うことでしたが、これ以上ないほどに感謝な歩みでした。
この某アマレク人は、私たちが彼のようになってはならないことを教えてくれる、反面教師です。悲しいことに私たちには、ときには嘘をついてでも人に認められようとする、取り入ろうとする、人を押しのけ、利用してでも高い位につきたがる、そんな肉の性質が居座っています。しかし、アマレク人がその結果命を落とす結末を迎えたように、その性質は神さまとの交わりを絶つ、死の性質です。私たちは、死にふさわしい罪深い者ではなく、主のいのちの中に生きる者となるために、まことに油注がれた方、キリストを恐れ、キリストを利用するのではなくキリストにお従いする、その従順の生き方の中にとどまってまいりたいものです。
ただし、そのような感情がありながらも、主が私に、牧師としての召命を与えていらっしゃったことそのものは確かだったと受け取っています。クリスチャンにおける、召命とそれに対する感情との関係については、次号の月報にて詳しくお話しします。
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牧会コラム226「とりなし手になる」
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牧会コラム224「今日の参院選のために」
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牧会コラム222「他山の石」
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牧会コラム217「信仰者の燃え尽き1」
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牧会コラム201「ダビデとヨナタン7」
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牧会コラム週報版 200 2024.9.15
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