コラム

牧会コラム月報版 2021年10月

Author
mito
Date
2021-10-02 17:13
Views
1701
「弟子訓練をめぐる雑感」

私はこれまでのクリスチャン生活の中で、日韓合わせて10か所以上の教会に定期的に出席しました。言うまでもなく、それぞれの教会に特徴がありましたが、私の出席してきた教会の中には、その教会を牧会する○○牧師の名前を取って、「○○教」と陰であだ名された教会が複数存在し、それを思うとつくづく、私はそういうタイプの教会に縁があるものだと思わされます。

そのような教会は、もちろんキリスト教界内にかぎってのことですが、牧師がかなり有名です。その教会を牧会なさること以上の特徴があったりします。要するに、ただの平凡な牧師ではない、相当なカリスマ性を帯びている人なわけです。

私はそういう、カリスマ性を帯びたいろいろな牧師たちをそばで見る機会に恵まれました。最初のうちは私にも功名心があり、そのような牧師みたいになりたいという思いがあって、その教会に集うことをやめなかったわけですが、問題だったのは、ほんらい恵みに満ちた教会に集っているならばはっきり見えてくるはずだったイエスさまの存在よりも、そのような牧師たちの存在のほうがよほどはっきり見えてしまった、ということです。しかし、そのようになってしまっていた人は、私だけではなかったはずです。

礼拝メッセージの中でも語ることですが、私たちはつい、「○○先生の教会」という言い方をしていないでしょうか? しかし、教会とはキリストのものであって、特定の牧師のものではありません。もしどうしても牧師の名前を挙げる必要があるならば、「○○先生の牧会する教会」とでも言えばいいでしょう。それでも、牧師の名前で教会のことを語っている分、少し問題は残ります。

牧師の名前で称される教会、といえば、かつて日本の教会において、相当な誤解を伴った「ムーブメント」となってしまっていた「弟子訓練」というものは、それを牧会者として導く牧師のカリスマ性に左右されるという、きわめてふさわしくない状態が多く存在しました。本来、信徒主体の教会形成であるべき「弟子訓練」が、導き手なる牧師にばかりスポットライトが当たるという仕掛けになっていたのでした。それこそ「○○教」です。

以前日本の(特に福音派とペンテコステ派の)教会は、韓国の教会から多くを学ぼうとしましたが、その流れの中で「弟子訓練」が紹介され、その「弟子訓練」を学びに多くの牧師が、「弟子訓練の総本山」ともいうべきサラン教会に見学、研修に訪れました。しかし、今振り返ってみて思うこと、また、私もかつてはサラン教会の一員として働かせていただいた身から言わせていただくことですが、その「弟子訓練」の実体を日本の教職者が見るには、サラン教会の礼拝堂はあまりに巨大で、あまりに膨大な信徒を擁していました。その威容は、それを見た日本の教職者に、「弟子訓練をしさえすれば教会をこのように大きく成長させられる」と勘違いさせるに充分だったのではないかと思います。もちろんセミナーでは、「一人の信徒」に注目する大切さが繰り返し語られているわけですが、その美しい牧会哲学を果たして、これほどまでの壮麗きわまる礼拝堂とそこを埋めつくす信徒たちに心奪われた日本の牧会者たちは、正しく理解していたのだろうかと、その渦中にあった私も含めて反省すべきではなかったかと思います。

このようなことを申しますのも、もともとが「カリスマ的」な牧師が、その身に染みついた傲慢さを悔い改めることなしに、このような「弟子訓練」に手を染めるようなことになった結果が、20世紀末から21世紀にかけて日本各地で頻発した「教会のカルト化」であったからです(詳細は『百万人の福音』2021年10月号の特集記事をお読みください)。まさしく、その牧師の名であだなされた「○○教」が実現した一例と言えます。

私は神学生という立場でかつてサラン教会におりましたが、そのときの経験、また、それ以降20年あまりの今に至るまでの経験からはっきり申し上げられることは、当時のサラン教会は「オク・ハンフム教」のような代物では決してなかった、ということです。その教会生活は、教会に存在するどの小グループでも、信徒たちには礼拝メッセージの要約をもとにした生活実践の分かち合いをするという宿題があり、それゆえに礼拝メッセージは全身耳にしてメモを取り、それを復習したうえで生活化する必要があったように、オク牧師の謦咳に積極的に接してこそのものでしたが、それは神さまとの交わりを深め、神さまに遣わされて世において主のご栄光を顕す力となったのであり、オク牧師に帰属するなどという内向きの教会形成には決してなりませんでした。これは、多くの牧師がカリスマ的に崇拝される傾向の強い韓国教会においては、一線を画した教会形成でした。

私はそういう牧会をわずか1年でも体験させていただいたことを主に感謝し、また、誇りに思うものですが、だからといって、「私はオク牧師につく」と言ったならば、それはみこころに外れた態度ですし、オク牧師としても不本意でしょう。私が感謝すべきは、そのような環境においていただいて、主との交わりが深められ、主にある兄弟愛の何たるかを教えていただいたことであって、「オク牧師の派閥に入ったこと」では決してありません。

しかるに、「弟子訓練」を僭称して、信徒を抑圧し、搾取し、依存させることで、自分の王国を築くような牧師たちによって、「弟子訓練」というきわめてまっとうな教会形成のありかたがどれほどゆがめられ、誤解されたことでしょう。そういう牧師たちが、自分はオク牧師の日本における後継者であると主張したのです。しかしそれは、「弟子訓練」を標榜して、そのじつきわめて不健全な「牧会」をして恥じることを知らなかった牧師に問題があったのであり、けっして「弟子訓練」そのものを否定すべきではありません。

とはいえ、「弟子訓練」とは、人様(ひとさま)のたましいに牧師が仕えさせていただくことであり、もちろん、どんな牧師であってもすべからく砕かれているべきであるわけですが、「弟子訓練」を標榜する牧師は特に、日々主の御手によって自我が砕かれる体験をしつづける必要があります。私は、弟子訓練による教会形成をさせていただきたいという強い願いが与えられながら、当教会でDコースを始めるまで、実に20年にわたって、「弟子訓練」と名乗れるような牧会をすることはできませんでした。それはやはり、私がそれだけの時間をかけて砕かれる必要があったからだと思います。そして、Dコースを始めて2年になりますが、いまもなお砕かれることばかりです。砕かれることは痛い思いの伴うことで、時にはとても恥ずかしい思いのすることでありますが、神さまはそれを祝福にしてくださいます。私は今なお、人様のたましいに触れる資格のない者であることを思いますが、それでもなお、弟子訓練という召命を神さまが私に与えてくださっているかぎり、恐れを捨てて、聖徒のみなさまがキリストの似姿へと形づくられていきますように、日々祈りつつ、みなさまのたましいにお仕えしてまいりたいと願います。

その教会形成は、私ひとりでできるものではありません。聖徒のみなさまとともにするものです。そうすることで、「武井教」(もっとも、そんな看板を掲げられるほどの大物でもありませんが)ではなく「キリスト教」をちゃんと名乗れる私たちとなってまいりましょう。
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