「天上の結婚式に向かって」

聖書朗読;マルコの福音書2:18~22/メッセージ題目;「天上の結婚式に向かって」 今日の本文は、先週学んだ「レビのパーティとそれに対するパリサイ人の反応、そしてそれに対するイエスさまのお答え」に続く本文である。この本文の続き方は、並行箇所であるマルコの福音書、マタイの福音書、ルカの福音書で共通していて、したがって、このパーティの席上におけるパリサイ人とイエスさまの問答と、ひとつづきになっている以上、それにつづく断食に関する問答は、レビ(マタイ)のパーティの席上で、続けて行われた可能性がある。 ここでイエスさまは3つのたとえを話されたが、そのお話が、レビのパーティの席上でなされたとすると、この中で最初に話された、「花婿に付き添う友人は断食できない」という話に包括されよう。服と継ぎきれのたとえ、ぶどう酒と皮袋のたとえが、花婿に友人が付き添う結婚式の話と関連を持っているわけである。 レビのお別れパーティは、結婚式というと唐突な印象を受けるだろうか。しかし、人はイエスさまを信じ受け入れたならば、教会のひと枝となり、教会は終わりの日に花嫁として、花婿なるイエスさまと永遠に結ばれる。レビは単にお別れパーティをしたのではない。自分はキリストのからだのひと枝として、イエスさまと永遠に結ばれることを、このパーティにおいて宣言したのである。よってこのパーティは、結婚披露宴の性質を帯びていた。 その上でイエスさまの一番目のたとえを見てみよう。まず、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは断食をすることを常としていたが、断食もしないで飲み食いを楽しむイエスさまは、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と人々に陰口をたたかれるお方であった(マタイ11:19)。しかし、イエスさまは何と言われようとも、このような「罪人」たちを受け入れるという「行い」をもって、みことばの示す知恵、愛の正しさを証明された。 その愛という知恵の正しさを証明するのは、イエスさまにつき従った人々である。彼らはイエスさまが振る舞われるように、自分たちも振る舞う。この人たちのことを、イエスさまはここで「花婿に付き添う友人」と表現していらっしゃる。彼らは晴れ着を着て、新しいぶどう酒に酔うのである。 しかし、聖徒が断食をする場合があるならば、それはいつなのかということについても、イエスさまは語っていらっしゃる。それは「花婿が取り去られた時」であるというわけである。私たちは十字架を覚えるとき、イエスさまが私たちから取り去られる悲しみもまた思うものである。 だが、その悲しみは、私たちのためというより、むしろ、イエスさまが見えないで、依然として悲しみの中にある隣人を思ってのものであるべきだ。それが、「泣く者とともに泣く」ということ(ローマ12:15)。その人にとっては、イエスさまがともにおられることなどとても実感できず、悲しむしかない。まるで、復活のイエスさまがいま目の前におられるのに、悲しみのあまりイエスさまが見えなくなっていたマグダラのマリアのようである。 こういう人には、イエスさまがともにおられますよ、と言ったところで、何の慰めになるだろうか。ただ、一緒に泣くしかない。それは神さまのご命令である。妻は今、祖国韓国を覚えて、折に触れて断食する生活をしているが、それは近年いろいろ乱れている、韓国を思う主の悲しみにともにあずかることであろうと、そばで見ていて思う。 断食の祈りとは、そのような、人を思い、とても物を食べることもできないような悲しみ、苦しみを実感するところから生まれてくるものであるべきだ。間違っても、宗教的聖さを求め、何やら霊的ステージが上がったような気分になるために肉体をいじめ抜くことが断食だなどと思ってはならない。それは自己満足というものであり、パリサイ人の断食と同じである。 本文に戻ると、イエスさまは服のたとえを語っておられる。これは、結婚式の晴れ着をほうふつとさせる。この晴れ着は新しい。繕わなければとても着ていられないような、ぼろい服ではない。そんな服では結婚式にも出られなかろう。だが、旧来のやり方に固執するような人々は、そのやり方を脱ぎ捨てることはあくまでしないで、「これは新しい教えだ」と思うことの「いいとこどり」をするのである。十字架と復活、罪の赦し、これは新しい教えだが、それは受け入れておく一方で、自分がこれまで固執してきた宗教行為は決してやめることをしない。 このようなことをルカの福音書では、真新しい服から布切れを引き裂いて古い服に継ぎを当てる、と表現している。そんなことをすると、せっかくの真新しい服はだめになるし、継ぎを当てた古い服を洗濯したら、真新しい服から取った布切れは縮み、それでもって古い服は破れてしまう。そういうわけで、福音という「新しい教え」は、古い服を脱ぎ捨てることをしないまま、いいとこどりするようなことをしてはいけないのである。 結婚式の文脈でこのことをイエスさまが語っておられることに注目したい。あなたはぼろい服を「これは晴れ着だ」と言い張って、結婚式に着ていくだろうか? いや、晴れ着というものは、パーティを主催した側から渡されるものであり、その結婚式を主催したのが王さまならば、下賜品ということになる。それを着ないで宴席に連なろうとするのは、王に対する侮辱である(マタイ22:2,8~13)。 王がうるさいと思うなら、ならば、と、王の下賜品の晴れ着を引き裂き、自分の服に継ぎを当てるだろうか? 表面的に取り繕うことしかしない、形だけの信仰生活も、これと同じではないだろうか? 神との交わりのない、形だけの教会生活、それは、せっかくイエスさまが来たらせてくださった新しい時代には合わない。 もうひとつ、ぶどう酒についても見てみよう。花婿に付き添う友人が、結婚パーティで花婿の出したものを飲み食いしないならば、彼は友達ではない。ちゃんと飲み食いし、気持ちよくなることが、招いてくれた花婿に対する礼儀である。 イエスさまが最初に行われた奇蹟は、水をぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えられるというものだった。そのみわざを行われたのは、ほかならぬ、イエスさまの招かれた結婚式の場でだった。このことからわかることは、イエスさまは結婚というものを大切にされ、その席上でぶどう酒により楽しむことを大いに奨めていらっしゃる、ということである。しかし、私たちはこの、イエスさまが奨めてくださるぶどう酒というものに、みことばをとおして深い意味を見出すものである。 来週になると、私たちは主の晩さんのグラスを傾ける。それは、主ご自身が守り行えと命じたもので、私たちはこのぶどう汁を口に含むとき、イエスさまの十字架と復活を覚えるものである。これは十字架の悲しみに終わらず、復活と臨在の喜びに至るものである。これは言ってみれば、御国にて花婿なるキリストと花嫁なる教会が結ばれる結婚式の、いわば予行演習である。予行演習だからといって重要ではないわけではない。予行演習をしっかりするならしただけ、天の御国での実際の結婚式の感激は大きい。 毎回うたっているとおりである。「懐かしくも見失せし主は、まもなく再び来たりたまわん。そのときまで十字架を負わん、救いの恵みを喜びつつ。」 この、十字架と復活というまったく新しい教えは、力がある。発酵しつづけるぶどう酒のようである。これはよく伸びる新しい皮袋に入れないと、もたない。古くてぼろい皮袋に入れたらそのぶどう酒の発酵する力で、皮袋は破け、ぶどう酒もだめになる。十字架と復活という福音、イエスさまの教えというまったく新しいものを受け入れるには、心の一新によって自分を変えていただかなければならない(ローマ12:2)。これは一生ものの取り組みである。うかうかしていると私たちは、あっという間に古い皮袋になってしまう。毎週の礼拝と毎日の聖書通読でイエスさまの教えに絶えず触れることは、新しい皮袋をいただくことである。これをしていないと、イエスさまの福音を受け入れることに耐えられなくなる。 ところで、並行箇所のルカの福音書5章39節に、「古いぶどう酒」のたとえが出てくる。もともと慣れ親しんだものがいい、新しいものなんて必要ない、と言ったら、その人は何も、新しい皮袋になる必要はない。しかし、そういう人は成長しない。成長するうえでの痛みは伴わないかもしれないが、成長することに伴う、主に用いられる喜びは味わえなくなってしまう。 私たち教会はイエスさまの花嫁として、終わりの日にともに御前に立つ。それまでの私たちの人生は、ともに取り組む花嫁修業である。美しい花嫁となるために、日々みことばに従い、愛を実践しつつ、新しい服を着て、新しい皮袋にしていただこう。 ❤祈りましょう。「主よ、私にとって      は困難なことですが、それは同時に、この困難な取り組みをとおしてキリストの似姿に変えられる、花嫁修業です。このことに取り組む力を私にください。」