「いのちのパンなるイエスさま」

聖書箇所;ヨハネの福音書6:41~59/メッセージ題目;「いのちのパンなるイエスさま」 聖書の中の有名なことばとされているものに、「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあります。人は生きていくために食べる肉の糧を得るために汲々とするものですが、イエスさまは、それだけで生きるのではない、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのである、とおっしゃいました。 今日の箇所においては、そのいのちのみことばとは、イエスさまのことである、と、イエスさまご自身がおっしゃっています。イエスさまは、5つのパンと2匹の魚で大勢の群衆を養われました。そんな群衆はなおもぞろぞろと、イエスさまについて行きました。そんな群衆に、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「わたしがいのちのパンです。」   パンは、何のために存在するのでしょうか? それを口にすることで、人のいのちを保つために存在します。それと同じようにイエスさまといういのちのパンも、私たちのいのち、御父にある永遠のいのちを保つために存在します。  イエスさまといういのちのパンも、食べるものです。では、イエスさまといういのちのパンを「食べる」とは、どのようなことでしょうか? どうすることが、イエスさまといういのちのパンを「食べる」ことでしょうか? 以下、見てまいりたいと思います。  第一に、イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人が食べることができるものです。 まず、ユダヤ人たちは、イエスさまが、ご自身のことを「わたしは天から下って来たパンである」とおっしゃったことで、互いに小声で文句を言いました。あれは大工のヨセフのせがれじゃないか。あいつの家族のことはみんな知っているぞ。聖書には書かれていませんが、あんなことを言うなんて、何を思いあがっているのか、とか、おかしなことを言っているなあ、頭がおかしいんじゃないか、とか、そういうこともうわさし合ったかもしれません。  しかし、イエスさまはそのようにうわさし合うユダヤ人たちに向かい、「互いに文句を言い合うのはやめなさい」と一喝します。そのおことばに続き、イエスさまは44節のように語られます。……そう、イエスさまのもとに来る人というのは、御父が引き寄せてくださった人です。  イエスさまは弟子たちに向かって、あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです、と語られました。イエスさまのもとに来る人というのは、弟子たちだけではなく、私たちも含めて、イエスさまに選んでいただいた人たちです。 しかしイエスさまは、御父のご意向を無視して人をお選びになったのではありません。御父が引き寄せていらっしゃる、その御父のみこころにしたがって、人をお選びになるのです。したがって、十二弟子にしても私たちにしても、イエスさまに選んでいただいたのと同時に、御父に選んでいただいた存在です。   私たちはこの「選ばれている」ということを、どれほど大切にしているでしょうか? 私たちが選ばれたのは何のためでしょうか? 主のご栄光をこの地上において現すためです。私たちは主の御前で、徹底的に生きるべく召されています。  さて、北京オリンピックが始まりましたが、オリンピックに出場するスポーツ選手は、ベストのパフォーマンスをする上で、その体力と技術を維持するために、ふだんから徹底して節制します。トレーニングを欠かしませんし、食べるものや飲むものにも神経を使います。変なものを口にしてはいけないわけです。同時に、栄養のバランスの行き届いた食事をしっかり食べます。では、私たち主の「選手」にとっては、食べて霊的いのちを維持するものは何でしょうか? イエスさまという、いのちのパンです。  御父が私たちのことを引き寄せられたということは、私たちはもはや、自分の主人は私たち自身でもなく、この世の君であるサタンでもないということです。主人は、御父です。その御父の命(めい)を受けられたイエスさまが、ご自身のからだを私たちに差し出され、「取って食べなさい」とおっしゃるわけです。私たちはどうしますか?  もちろん、私たちは罪人です。御子のみからだを取って食べるなど、恐れ多くてできることではありません。しかし、それにもかかわらず、主は「食べなさい」と私たちを招いていらっしゃるのです。主がきよめられたものを、きよくないと言ってはならないのです。私たちはみからだをいただいてもよいほど、イエスさまの十字架の血潮によってきよめていただいたのです。ならば私たちは、いのちのパンなるイエスさまのみからだと血潮をいただくしかありません。いただかないことは主の招きを拒むことであり、それは謙遜でもなんでもなく、むしろ傲慢であり、無礼というものです。  今日私たちは、主の晩さんにあずかります。これは大変なことです。本来、主のみからだと血潮をいただく資格のない私たちに、イエスさまご自身がそのみからだを裂かれ、その血潮を流され、「取りて食らえ」とおっしゃっているわけです。私たちは畏れ多くもそのお招きにあずかっている者として、ただへりくだってこの糧を「いただく」ばかりです。  さて、このいのちの糧を「いただく」ことを、45節ではより具体的に表現しています。お読みします。……そうです。いのちの糧をいただくにあたって大事なプロセスは、「御父から学ぶ」ということです。私たちが日々みことばをお読みするのは、やはり「学ぶ」ことであることを忘れてはなりません。 ある牧師先生からお聞きしたことですが、教会という場所は、学校、一生卒業のない学校です。私たちはどんな仕事をするにしても、必ずなんらかのことを「学ぶ」ものです。勉強するのが仕事の学生は言うに及びませんが、仕事を引退された方でも毎日、新聞記事を読み、ニュース番組を視て、社会情勢を「学びます」。会社員も仕事の仕方を日々おぼえ、スキルアップのためにセミナーに参加したりしていろいろ取り組みます。主婦の方も得意料理の品目を増やすためにお料理の本を読んだりして学びます。みな、生きるために学ぶわけです。 しかし、何よりも大事な学びは、永遠のいのちを保つ学び、御父から学ぶ学びです。私たちは毎日みことばをお読みしていますが、ただ読み流すような読み方ではいけません。それでは、分量をこなした分いかにも素晴らしい人になれたなどと思いこむ、自己満足にすぎません。その日のみことばの糧(それこそ糧です)から、しっかり学んでいただきたいのです。そのとき私たちは、自分のいのちが養われることを実感し、よりいっそう、主に献身した歩みに踏み出す祝福にあずかります。  私たちは御父に選ばれた者としての生き方を全うするために、いのちのパンなるイエスさまをいただいて生きてまいりましょう。そのために、みことばを学んでまいりましょう。そのようにして、神さまの御前で徹底して生きる「選手」として用いられますようにお祈りいたします。    第二に、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば死ぬことがないものです。  46節から51節までをお読みします。……イエスさまといういのちのパン、御父のもとから下って来たパンを食べるならば、その人は死ぬことはないとおっしゃいます。では、いのちのパンを食べるとはどういうことか? 47節でそれは、信じることであるとおっしゃっています。  そうです。まさに、信じる者は救われる、なのです。しかし、この「信じる」という日本語は、けっこう曲者です。信じる者は救われる、といいますが、このことばの前には、イエスさまを、ということばが必要です。神の御子イエスさまを信じるのでなければ、人はまことのいのちを得ることはできません。それも、鰯の頭のような信じ方ではいけません。これしかない、一生信じてついていきます、という「信じ」方です。  イエスさまの御前で文句を言ったユダヤ人たちは、先祖がモーセとともに荒野を旅したイスラエルであったことを誇りにしていました。彼らユダヤ人は、先祖が荒野にてマナという不思議な糧をもって養われたことに、特別な意味を見出していました。御父がマナをもって特別に養われたイスラエルの子孫にあたる自分たちユダヤ人も、特別な民だ、と思っていたわけです。しかし、イエスさまは、そのマナを食べたイスラエルの民も結局は滅んだことを指摘されます。そして、まことの天の糧は、ご自身であることをお示しになりました。  しかし、このようなことをイエスさまがおっしゃったならば、ユダヤ人たちは考えを変えたのでしょうか? 決して考えを変えなかったのです。目の前におられる神の御子を、大工のヨセフのせがれとしか考えられなかったのです。見たこともない、はるか昔のできごとである、マナでイスラエルの民が養われたできごとはありありと信じても、目の前のイエスさまのことは決して信じようとしない、何とかたくななことでしょうか、何と目がふさがれていることでしょうか!   しかし、私たちは本来どうだったでしょうか? この日本に生きているならば、イエスさまというまことの道を通って御父に出会うことなど、もはや絶望的としか思えないことです。プロテスタントにかぎっても、初めて日本に教会が設立された1872年から数えて今年でちょうど150年になります。それなのに、茨城町にはいまだに2か所、つまりうちの教会と、おとなりの創恵聖書教会茨城チャペルしか教会が存在していません。これは何を意味するのでしょうか? それだけ、日本宣教というものは難しいものであり、その分、日本人がイエスさまに出会う確率はとても低い、ということを意味します。  そのような中で私たちは、イエスさまを信じる信仰を与えていただいた、言い換えれば、イエスさまといういのちのパンを食べさせていただいて、永遠のいのちを与えていただいたのです。  何という選びでしょうか。何という恵みでしょうか。私たちがもし、ごくごく一般的な日本人として生きて、イエスさまに出会うこともなかったならば、私たちのいのちはどこに行ってしまうのでしょうか。しかし、私たちは今、たしかなことを知っています。いのちの糧であるイエスさまをいただいた以上、私たちのいのちは天の御国にすでに入れられています。  みことばには、ただの人のように歩むことを厳しく戒めることばがあります。それは、私たちがもはや肉という滅びるべき自我にしたがって歩むべき存在ではないからです。世に流される、ということばがありますが、私たちはこの世と調子を合わせてはいけません。何が正しいことで、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を、聖霊によって変えていただく必要があります。そのために主に、切にお祈りするのです。  心を一新していただいたならば、何が主の御目によいことで、何が完全であるのかをわきまえ知ることができるようになります。そのように、神さまの御目という基準にしたがって生きることができるようになれば、私たちはこの世と調子を合わせて生きることをしなくなります。肉にしたがって、滅ぶべきただの人のように生きることがなくなっていきます。イエスさまといういのちのパンをいただいて永遠のいのちを得ている人は、そのようにして生きるとき、最高の祝福を受け取ることができるのです。  私たちはどうでしょうか? 今、イエスさまをいただいて、永遠のいのちを生きている喜びを体験していらっしゃいますでしょうか? この喜びに満たされて生きてまいりましょう。そして、お互いの間に、このイエスさまにある永遠のいのちの喜びが満ちあふれるように、祈ってまいりましょう。  第三に、イエスさまといういのちのパンを食べるならば、人はイエスさまに永遠にとどまり、イエスさまもその人に永遠にとどまられます。 52節から58節をお読みします。……血とか肉とか、相当に強い表現です。「露骨」といってもいいでしょう。この表現に、イエスさまにぞろぞろとついてきた人たちはつまずきました。今風のいい方をすれば、イエスさまのことばに「引いた」わけです。「ドン引き」といってもいいくらいです。  しかし、イエスさまは時に、あえてこのような難解な表現を用いられることがあります。イエスさまはそのようなたとえを語られたあとで、「聞く耳のある者は聞きなさい」とも付け加えられました。群衆はイエスさまの教えを「ありがたい」と思ったか知れませんが、その程度で、それ以上お聞きして明確なみこころを知ることをしませんでした。しかし弟子たちは、イエスさまにたとえの意味を説明していただこうとしました。イエスさまは「どうして悟れないのか」とお叱りになりながらも、懇切丁寧にたとえの意味を解き明かしてくださいました。  イエスさまのみことばの意味がわからないのは、私たちがイエスさまの弟子になり切れないからです。もちろん、ヨハネの黙示録のように、まだ成就していない預言のような箇所は、慎重に学ぶ必要はあります。しかし、みことばはしっかりと学ぶならば、わかるようにできているものです。 もちろん、聖書はところどころ難しい箇所がありますが、ちゃんと学べば、神さまについて、この世界について、人間について、実に多くのことを深く教えてくれます。要は、学ぶことです。イエスさまに弟子入りした者として、授けていただいた「虎の巻」を熟読することです。そうすれば、免許皆伝の弟子、つまり、主に大いに用いていただける弟子となれるのです。  しかし、その弟子の歩みは、決して一人で行くような孤独な歩みではありません。イエスさまがいつでも、ともにいてくださる歩みです。56節のみことばをもう一度お読みしましょう。……もちろん私たちは、この「肉を食べ、血を飲む」とはどういう意味か、ちゃんとわかっています。イエスさまを信じて一生お従いすることです。キリストがわがうちにいてくださり、われがキリストのうちにいる、そうなることです。そういう人はイエスさまのうちにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまってくださいます。  このことを、ことばを変えて説明したみことばがあります。ヨハネの黙示録3章20節です。……だれも招けないような秘密の場所にイエスさまをお招きできるなんて、ステキなことではないでしょうか? そこでイエスさまは一緒にご飯を食べて交わってくださるというのです。みなさんならばイエスさまと、何を食べながら話しますか?  どんな秘密でも分かち合える関係。イエスさまといういのちのパンを「食べる」ように生涯イエスさまを信じてお従いすることは、主従関係、縦のではない、私たちのことを「友」と呼んでくださる、親しい関係です。イエスさまが一生、そして永遠に友でいてくださるこの永遠のいのちの恵みを、心から感謝しつつ味わいましょう。  イエスさまといういのちのパンをいただくべく私たちを召され、選んでくださった御父は、なんと素晴らしいお方でしょうか? ほめたたえましょう。この永遠のいのちの喜びに、私たちはともに満たされてまいりましょう。そのような私たちといつまでも友でいてくださるイエスさまをほめたたえつつ生きてまいりましょう。  今日のメッセージを振り返りましょう。イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人だけが食べることができます。私たちは御父に選ばれています。この選びのゆえに、神さまに、イエスさまに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば決して死ぬことがありません。私たちがこのいのちのパンなるイエスさまをいただく恵みにあずかっていますことに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンを口にするなら、人はイエスさまにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまられます。イエスさまのうちに生きる恵みが与えられていることに感謝しましょう。  今日の主の晩さん、とてももったいない恵みですが、感謝して受け取りましょう。感謝して受け取るとき、主のあふれる恵みを私たちは体験するようになります。ではお祈りいたします。