「ダビデの武器 その3」

聖書箇所;サムエル記第一18:6~16/メッセージ題目;「ダビデの武器 その3」 高校野球であれ、軍隊であれ、血気盛んな男たちの戦いに、若い女性が声援を送るならば、底知れぬやる気が出てくる……それは古今東西変わらないはずです。しかし、もし戦いに臨む者が、俺よりもあいつのことをみんな応援しているぞ、くやしい、なんて思いになったならば、盛り上がるべき士気もなにもあったものではありません。しかし、そんないじけた考えをするのが、一兵卒ではなくて、王さまだったらどうでしょうか? 今日の箇所に登場するサウルは、まさにそんな自己憐憫に陥っていじけていました。だれと比較したのでしょうか? 女の人たちは楽器を手に手に、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌い、それにサウルは激怒しました。 でも、もし、サウルにもっと度量があったならば、サウルはこう言ってもよかったのではないでしょうか。「ほっほっほっ、わしは、わしの十倍仕事をするダビデを従える、強い王だ。神さまはこれほどまでの祝福を、わしに与えてくださった。神さま、万歳!」 しかし、サウルにはそんな器の大きさなどあるわけがなかったのでした。なぜならば、王に霊的権威を与えるお方、大いなるお方である聖霊が去られ、サウルはまるで王にふさわしくない、ちっちゃな男に成り下がってしまったからでした。 サウルから聖霊が去られたのは、サウル自身の責任でした。祭司がささげるべきいけにえを勝手にささげた、勝手な誓いを立ててあやうく息子ヨナタンを殺すところだった、聖別すべきいけにえを取っておく罪を犯した、その程度の霊的状態にしかない者からは、聖霊は去られるべくして去られたのでした。 ダビデは、ペリシテと戦う戦士でしたが、今度は、こんな愚かな王までが戦いを挑んできました。ダビデは、このようなサウルが相手になって挑んでくる闘いにおいて、やはり武器を用いました。ただしこの「武器」は、サウルを傷つけたり、屈服させたりするために振るう「武器」ではありません。むしろ、サウルの背後にうごめく悪魔と悪霊どもの策略に戦いを挑むための「武器」です。以下、今日の本文をもとに、その「武器」とは何か、3つ見てまいります。 第一にその「武器」は、「賛美」です。 サウルには悪霊が下っていました。10節をご覧ください。「その翌日」とあります。女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌ったことに大いに怒ったその次の日です。怒りの感情をそのままにしていると悪霊にやられる、という、格好の例であるわけで、こんなことからも、私たちは怒りの感情を治める必要があることを学ぶわけですが、ともかく、その日サウルには凄まじいまでに悪霊が臨みました。 サウルにこのような「霊の障り」があったことは、前からサウルにとって問題となっていましたが、それは何よりも、聖霊がサウルから去られたことが最大の理由でした。その「霊の障り」は、サウルに代わって油注がれたダビデが竪琴を弾くことにより消えたわけで、そういうことからも、悪霊を治めるほどの霊的権威はサウルではなく、ダビデにあったことが証明されるわけです。 しかしこの日は様子がちがいました。サウルはダビデの竪琴に落ち着きません。むしろダビデを槍によって壁に串刺しにし、殺そうとしました。ダビデは身をかわしましたが、サウルはなんと、2度もダビデに槍を手に襲いかかりました。 ダビデが手にしていた竪琴という楽器は、単なる音楽セラピーの次元で奏でていたものではありません。一国の王、神の民イスラエルの王であるサウルを発狂させるほどの怖ろしい力を持った悪霊と戦いを交えるための武器です。 ダビデが竪琴で奏でたものは、賛美の歌です。新約聖書・エペソ人への手紙5章19節は、賛美とはなんであるか、ということを語っています。このみことばは前の節、18節の、「御霊に満たされなさい」というみことばを受けて語られています。すなわち、御霊に満たされるために賛美するのであり、賛美すると御霊に満たされるのです。 ダビデが竪琴をもって賛美の歌を奏でたとき、そこには聖霊と悪霊どもとの戦いが交えられました。サウルを操るサタンの軍勢は、聖霊を呼び起こすダビデを殺すことで、自分たちが勝利しようとしました。しかし、聖霊さまはダビデのことを守ってくださいました。 ダビデがゴリヤテと一戦を交えるまでは、サウルの前で竪琴さえ弾けば悪霊は去りました。しかし今度は、悪霊どもは去らなかったばかりか、サウルをより一層猛り狂わせ、この賛美を奏でる者、聖霊の人を殺そうとさえしました。 それでもダビデが死ななかったのはなぜでしょうか? それは、聖霊の油注ぎがあったからでした。神さまはサウルに悪い霊が下ることをお許しになりましたが、王として神の民を治めるべき人を殺すことまでは、お許しになりませんでした。 ここからわかることは、賛美のうちに戦いが起ころうとも、私たちは決して負けない、ということです。賛美というものは、聖霊の働きがなければ絶対にできないことです。賛美と一般の歌の間には、越えがたい断絶があります。極端な話、一般の歌はだれにでも歌えますが、賛美は御霊に満たされようというへりくだった心のある人でなければ、決して喜んで歌うことができない歌です。 私たちはときに、怖ろしい霊の戦いを体験します。悪霊は存在して働きます。しかし、こういうことを言うと、それはないと否定したがったり、触れようとしなかったり、はなはだしくは、こういうことを口にする者はおかしいなどとのたまったりする人がいます。でも、たしかにこういう霊的な世界は存在します。否定してみても始まりません。 しかし、一方で、そういう存在をいたずらに恐ろしがったりするのも正しくはありません。私たちには聖霊がおられるのです。聖霊が戦ってくださり、私たちに勝利をくださるのです。私たちがすることは、エペソ書6章に書かれているとおりの、神のすべての武具を取ることですが、その6つの武具のうち、攻撃に使うものは「みことばという剣」だけです。基本的に武具は、身を守るためにいただくものです。 武装は聖霊なる神さまとの交わりの中でしていただくものだということを、私たちは忘れないこと、これに尽きます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え(という履物)、信仰の盾、救いのかぶと、以上の装備は、聖霊さまとの交わりの中でいただくものです。ダビデの友となってくれたヨナタンが武具をくれたように、私たちの友となられた主は、私たちに武具をくださり、守ってくださいます。 忘れないでください。私たちはもちろん戦うのですが、私たちが戦う前に、聖霊さまが戦い、勝利を与えてくださっているという事実……私たちはすでに勝利しています。イエスさまが十字架の上で死とサタンに勝利してくださったゆえに、イエスさまを主と信じ受け入れた私たちは、勝利しました。勝利は主にあってわがもの、この主をほめたたえる賛美をもって、それでも私たちを勝利者の座から引きずり降ろそうとするサタンの軍勢、私たちを敗北者のように錯覚させて落ち込ませようとするサタンの軍勢に、御霊の満たし、喜びをもって、圧倒的な勝利をするのです。 この2022年、私たちはますます、主を賛美しましょう。賛美をもって満ちあふれる喜びは、大いなる勝利をもたらします。ハレルヤ! 第二のその「武器」は、「主の臨在」です。 12節、14節で繰り返されていること、それは、「主がダビデとともにおられた」ということです。主がダビデとともにおられたゆえに、もはや神の人とは言えなくなったサウルはダビデを恐れました。 主がダビデとともにおられたゆえに、ダビデは行く先々で勝利を得ました。 サウルはダビデを遠ざけました。王の護衛をしていたダビデを、千人隊長に任命しました。サウルには思惑がありました。ペリシテの攻撃によって、ダビデを葬り去ろうという思惑です。そうでなかったとしても、もしダビデがペリシテに負けたら、その責任は敗軍の将のダビデにあるわけで、ダビデはイスラエルの信頼を大いに失うことになるわけです。 しかし、ダビデは死にもしなければ、失脚もしませんでした。かえって、サウルの思惑がどうであろうとも、ダビデは勝利に次ぐ勝利をイスラエルにもたらしました。それは、神さまがダビデとともにおられたからです。 神さまがともにおられる者に敵対できるものは何もありません。神さまご自身が味方なのです。そのような者には何者も敵対できません。打ち倒すことはできません。これに対していろいろ解説するのは野暮というものでしょう。みことばをごらんください。ローマ人への手紙8章31節から39節、これは、聖書全体の最高峰にも等しいみことばです。お読みしましょう。 私たちも時に、負けた! と思えてならないことはないでしょうか? 仕事や人間関係でしくじった、ですとか、健康を害した、ですとか……しかし、ほんとうのところ、私たちは負けてはいないのです。勝っているのです。私たちの主、イエスさまが勝っておられるからです。ヨハネの福音書、16章33節をご覧ください。 十字架の上で死と悪魔に勝利してくださったイエスさまが、私たちのためにすでに勝利してくださったのです。この、イエスさまの勝利こそが絶対であり、真実であるわけで、私たちが「負けた!」と思うことは、正しくありません。嘘です。サタンの嘘にだまされて、落ち込むようなことがないようにしてください。 ご覧ください。ダビデはサウルがどんなふうにダビデを操ろうと、神さまご自身がダビデに勝利を与えられました。私たちのことをだれが何と操ろうとも、神さまが私たちとともにおられる以上、私たちは勝利する以外にあり得ないのです。勝利は我がものです。勝利の主をほめたたえましょう。ハレルヤ! ダビデの武器、第三にその「武器」は、「神の民の愛」です。 ダビデは神の民イスラエルに愛されました。それはダビデが神の人であったからでした。ダビデは神の人として、サウル王のもとで身を低くし、千人隊長という自分に割り当てられた仕事に最善を尽くしました。イスラエルとユダ、神の民は、そのようなダビデを認め、愛しました。 民はダビデを愛しました。サウルのようなひどい王が治める中にあっても、それでもイスラエルがまとまることができたのは、民がダビデを愛することで、ダビデを中心にイスラエルの民の間に、愛という名の絆ができていたからだったと言えます。 私たち神の民をひとつにするものは、神さまが私たちを愛してくださっているゆえに、私たちが互いに愛し合う、その愛です。ヨハネの福音書13章34節と35節をご覧ください。 ……神の民が互いに愛し合うことこそ、世に対して主を証しする何よりもの証しです。愛の力によって結び合わされたイスラエルとその軍隊は、ペリシテに対して大勝利を得ました。同じように、私たちも神さまの愛をともに受け取り、そのそれぞれが受け取った愛によって互いに愛し合うとき、この世のいかなる勢力も対抗することのできない力を私たちはいただいて、サタンとその軍勢に勝利することができるのです。 私たちはもちろん、各自が家庭であれ、職場であれ、それぞれの持ち場で主のご栄光を顕す戦いを繰り広げます。仕事に取り組む力を神さまからいただきます。どうしようもない人間関係に苦しむとき、私たちとともにおられる神さまに祈りながら難しい局面を乗り越えます。 そういう戦いをそれぞれがするわけですが、私たちが覚えておくべきことは、その戦いはすべて、この「水戸第一聖書バプテスト教会」の共同体の一員として繰り広げるものである、ということです。つまり、戦いは各自のものを越えて、水戸第一聖書バプテスト教会のものです。水戸第一聖書バプテスト教会の戦いを、茨城県の各地において展開するわけです。茨城県の各地で、水戸第一聖書バプテスト教会が戦うのです。 その戦いに勝利することで主の素晴らしさが現れるわけで、もし私たちがヨハネの福音書13章のみことばのとおり、互いに愛し合おうという召命に生きるならば、私たちはその、各自が繰り広げている戦いをおぼえて、祈るようになってしかるべきです。私たちは、こうして同じ共同体で時間と空間をともにする兄弟姉妹のそれぞれの戦いに、無関心であってはなりません。何で戦っているか、何で苦しんでいるか、つねに心に留めて祈ることで、私たちもその戦いに参戦するのです。まさしく、愛の絆でダビデと結びついたイスラエルが、国のために戦ったようにです。 今日のみことばを振り返りましょう。私たちの武器である、賛美、神の臨在、愛の絆……どれも私たちが神の戦いを繰り広げ、勝利するために必要なものです。特に、今の自分に必要なものを覚えて、求める祈りをささげましょう。主よ、その武器を自分のものにしてくださり、その武器を用いて、サタンに勝利する者とならせてください! 祈りましょう。 ①神さまの御力で、賛美という武器を用いさせていただくように。 ②神さまの臨在により、どんなおびやかしにも勝利できるように、主がともにいてください。 ③私の戦いが教会全体の戦いであるという事実を受け止め、ともに戦って勝利すべく、教会の兄弟姉妹を愛の絆で結び、互いのために祈る者とならせてください。 聖歌284/献金/讃美歌541(頌栄)/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」