天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ

聖書箇所;創世記1:1/メッセージ題目;「天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ」 みなさま、今年もよろしくお願いします。 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、今年私たちは、去年までの人生とひと味違った生き方をするために、どのような決断をしますでしょうか? 私も、この教会を牧会して、今年で丸8年を迎えることになります。やはりこれだけ長くなりますと、私も、これまで続けていたことを引きつづき行うことと、今年から新しく始めることとのバランスを考えるようになります。 しかし、やはり、この教会という共同体で何かできないだろうか……神と人を愛するために何をしよう? と、ともに考え、行動する群れになっていければ……そういうことをいつも考えています。 さて、今日の本文、創世記1章1節は、言うまでもなく、聖書の最初のみことばです。短いみことばです。しかしこのみことばを解き明かすと、神さまはどのようなお方か、そして、神さまは私たちに何を求めていらっしゃるかが見えてまいります。ともに見てまいりましょう。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。神さまは、天地万物の主権者です。 神さまが主権者でいらっしゃるということは、被造物であり、そのご主権によって支配を受けているだけの私たち人間には、いくら想像をたくましくしても理解することがとても難しいことです。私たちは、私たちの生活をとおして、神さまが主権者であるということの、その一部をわずかながらでも知ることができる程度です。 私は趣味で、小説を書きます。いま私は、東京に住む男子中学生が主人公の話を書いていますが、小説を書いてみると、世界に対して主権を持つとはどういうことか、ほんとうに、ほんのちょっぴりですが、知ることができます。彼の通う学校の様子、彼の出席する教会の人間模様、彼が友達や先生と交わす会話、町の様子や食べに行くレストランの様子……そういったことを、人や学校といった固有名詞をいちいち考えて命名しながら書き綴っていく作業は、とても楽しいものです。 このように、人間もその気になれば、自分なりのワールドというものをつくることができますが、作者という存在はそのワールドに対する、言ってみれば主権者です。なんとでもその世界を変えることができますし、展開することができます。できるかぎり美しく、面白くしようとします。そしてそのように世界をつくってみると、何と申しますか、その世界や登場人物に対する「愛情」のようなものがわき上がってくるのが自分でもわかります。 しかし、人間が小説のような創作物に対して「主権者」であることと、神さまがこの天地万物において「主権者」でいらっしゃることとは、決定的な違いがあります。それは、人間はどんなに頑張っても、その小説の世界を「存在」させることはできません。一方で、神さまがお造りになった天地万物は、「存在」そのものです。 その「存在するもの」そのものに対して、神さまは主権を持っていらっしゃるのです。神さまは、この「存在」すべてを、そのみこころのままに動かされる。この事実を知るとき、私たちは謙遜にならざるをえません。 人間は権威の前にひざをかがめてこその存在です。子どもであるときは親に従い、学生であるときには先生に従い、新入社員であるときには管理職に従います。そのように、神さまは自分に対して権威あるお方だから、その権威の前にひざをかがめ、お従いするのです。 そのように神さまが、権威あるお方ということは、また、どのようなことを意味しているのでしょうか? 第二のポイントです。神さまは、天地万物の所有者です。 唯一の神さま、全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 創世記第1章の記述を見てみますと、天体から地上のあらゆる環境、動植物が創造され、存在させられていく様子が描かれています。それらのものはみな、神さまのものである、ということです。 みなさまもご存じのお話かもしれませんが、木村清松(きむらせいまつ)という、むかしの牧師先生のお話をしましょう。 今から100年以上むかしの1908年、木村清松はアメリカで、現地の人にナイアガラの滝に案内され、「どうです、アメリカにはこんなすごいものがあるんですよ」と自慢されました。それに対して清松は、「このナイアガラの滝は、私のお父さんのものだ」と答えました。 案内したアメリカ人はびっくりしました! なに! 彼のお父さんは「アメリカ先住民の大首長」かなにかか! このことばは話題になり、清松がその地域を巡って行なった伝道集会には、こんなキャッチフレーズが掲げられました。「ナイアガラの滝の持ち主の息子、来たる!」 木村清松のお父さんは、私たちのお父さんです。私たちのお父さんは、ナイアガラの滝の持ち主です。筑波山や霞ケ浦の持ち主です。天地万物のあらゆるものの持ち主です。そして、私たちのこともこのお方、天地万物を創造されたお父さんが持ち主です。 ただの持ち主ではありません。私たちのことを、宝物にしてくださっています。私たちは宝物のようなものを手に入れたら、大事にするでしょう。 私には大学時代に親友になったクリスチャンがいます。彼はのちに音楽家になり、CDアルバムを出しました。それを知ったとき、私は彼に「ちょうだい」とか「安く譲って」とねだることはしませんでした。キリスト教書店でちゃんと定価でお金を出して買いました。そして、そのCDは大切にし、今も牧師室の本棚に置いてあります。 私たちは神さまにとって宝です。だから、たとえ自分に何かよくないことが起こったとしても、「神さまは私のことを見捨てている!」などとおっしゃってはいけません。神さまは私たちのことを見捨てたりなどしません。私たちは宝物だからです。 ただし、宝物だから、あえて厳しいところを通らされる、ということは、ありえるかもしれません。そのようにきびしい思いをさせられるのは、それだけ、神さまが私たちを愛しておられ、もっとご自身に拠り頼むようにされるためです。 小説家の石川達三がうまいことを言っていましたが、「磨くということは同時に無数の傷をつけることである」。私たちが宝石のような宝物なら、もっと輝きを増すために、神さまはあえて無数の傷をつけることをお許しになることもあると考えるべきです。 今年、私たちを待ち受けるできごとは、もしかすると私たちを傷つけるかもしれません。しかし、信じてください。その傷は、私たちがもっと多く実を結ぶために、神さまご自身が私たちのことを刈り込んでくださるゆえにできるものです。 だから、私たちは傷つくのではありません。実を結ぶのです。だから、ときに私たちが体験する厳しいできごとに、私たちが神さまの愛を見出すことができるならば、私たちは幸いです。私たちは神さまのものとして刈り込まれます。そのようにして私たちはもっと多くの愛の実、御霊の実を結ばせていただきます。感謝しましょう。 第三のポイントです。神さまは、天地万物の礼拝を受けるべきお方です。 神が天と地を創造された、ということは、神さまと被造物である天と地の間にどのような関係が成り立っている、ということを意味するのでしょうか? これは、天地創造に関するみことばとして、ネヘミヤ記9章6節のみことばをお開きいただきたいと思います。 ……そうです、天の万象は神さまを伏し拝んでいる、すなわち、天地万物のあらゆる被造物は、神さまの御手によって創造されたことにより、創造主なる神さまに大いにひれ伏し、礼拝している、ということです。 しかし、これは少し説明が必要です。人間を除く被造物は霊が吹き入れられているわけではなく、したがって神さまを礼拝することはありません。類人猿、なんていいますが、チンパンジーやゴリラはイエスさまの御名によってお祈りすることはしません。動物だからです。 そうはいいましても、被造物はその雄大さ、その美しさをもって、創造主なる神さまの雄大さや美しさ、秩序、奥深さを現しています。それは、自然の中に人間が出ていくとき、その自然の背後におられる創造主を認めざるを得なくなることからも明らかです。 そうです。天地万物が伏し拝む、というのは、その天地万物を目にし、体験する人間が伏し拝む、ということです。天地万物の長として創造された存在として、天地万物を代表して礼拝するのです。 当教会が支援している組織に「シオン錦秋湖」というキャンプ場があります。4年前には英語教室を中心にはるばる水戸から岩手の山奥まで行きました。コロナ下になる前には同盟総会を毎年そこで開催し、年に1回は必ず足を運びました。今年はコロナさえ収まってくれていれば、久しぶりに総会をシオン錦秋湖で開きます。 あの、シオン錦秋湖には、荒木さん一家、伊藤さん一家という、スタッフ家族が常駐していて、一年中キャンプ場を守ってくださっています。豪雪地帯なので、冬になるとしょっちゅう除雪作業を頑張ってくれたりします。 あそこに行くたびに楽しみにしているものは、山の幸です。木の芽ですとか、山菜ですとか、キノコですとか。それももちろんですが、あのシオン錦秋湖の発信するニュースレターなどを読むと、季節ごとの山の様子、四季折々のスポーツにいかに取り組んでいるか、まことに、スタッフのみなさんはあらゆる自然の姿にふれているのがわかります。スタッフのみなさんは、さぞかし、創造主なる神さまのご臨在に「生で」触れていらっしゃるんだろうなあ、うらやましいなあ、と思います。 シオン錦秋湖には負けるかもしれませんが、でも、茨城の自然もなかなかのものです。長年、首都圏やソウルのような都会に身を置いた者からすれば、茨城のこの自然はとても素晴らしいものに思えます。 私たちはこの自然の中で、創造主なる神さまに出会う機会を少しでもつくれればと思います。ほんの少しでも空を見上げて、木々や草花に目を留めて、神さまを礼拝できれば……神さまを賛美できれば……私たちがそうなれれば、と、心から思います。それは、この自然豊かな土地に暮らす私たちにとっての特権ではないでしょうか。 今年私は、この自然を心から堪能し、意識して創造主なる神さまを礼拝することに努めたいと願っています。いや、努める、なんていうと、義務みたいで大げさですが、要するに、堪能しよう、喜ぼう、というわけです。みなさまとともに喜びたい、私はそう願っています。 思えば、聖書の書かれた昔は、今の世の中みたいに、こんなに都市化が進んでいたわけではありませんし、もっときれいな空気の中、夜になれば真っ暗で、満天の星空、そんな中で暮らしていました。そんな中でイエスさまが、空の鳥を見なさい、野の草に目を留めなさい、とおっしゃったのです。 イエスさまのこのおことばを、単なる象徴とらえてはいけません。ほんとうに空飛ぶ鳥をこの目で見ましょう。ほんとうに道端の花をこの目で見ましょう。山を見ましょう。星を見ましょう。そうすることではじめて、私たちひとりひとりに御目を留めてくださり、私たちを礼拝者として成長させてくださる主のみこころがわかるようになるはずです。 私たちは礼拝者として創造されましたが、礼拝を堅苦しいもの、形式的なものと捉えないようにしたいものです。 もちろん、いまこうしてささげている礼拝のように、形式的であることが美しい、と言える側面もあるわけですが、それだけが礼拝ではありません。野に出て、自然の中に出て、その創造主である神さまを思い、神さまをほめたたえるならば、それこそ礼拝、私たちはこの2022年、そのようにさりげない礼拝、しかし心のこもった礼拝をささげてまいりたいと思います。 今年2022年、私たちは、私たちに対する主権者なる神さまのご存在とみこころ、みことばとみわざをますます認め、その御手のうちに整えられることを喜んでまいりましょう。そして、美しい被造物の中にあって、ますます麗しい礼拝をささげてまいりましょう。2022年、主が私たちにますます大いなる祝福を与えてくださいますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。