知恵あることはなんて愚かなんだろう

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:18~31/メッセージ題目;「知恵あることはなんて愚かなんだろう」  今日の礼拝メッセージのタイトルはパロディです。何のパロディかぴんときた方は、1970年代のフォークソングに通じていらっしゃる方だと思います。これは、早川義夫という歌手の、『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』というレコードの題名のパロディです。  私がそのタイトルを知ったのは大学生のときでしたが、とにかくこのタイトルに衝撃を受けました。すごいことを言っている! かっこいいと思われていることは実はかっこ悪い。かっこ悪いと思われていることは実はかっこいい。このタイトルは、二律背反のこの真理を同時に表していて、恐らくこれまで日本で発売されたすべてのレコードにつけられたタイトルの中でも、最高傑作の部類に属するのではないかと思います。  今日お読みいただいた箇所は、「知恵あること」と「愚かなこと」の二律背反を語っており、そういうわけで、こんなタイトルをつけさせていただきました。「知恵あることはなんて愚かなんだろう」。  今日のメッセージも3つのポイントから語ります。今日は、3つのフレーズでまいります。  第一のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」第二のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」そして第三のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」  いずれのフレーズもちょっと過激な表現で、教会や聖書に対して初心者の方や、クリスチャンにことばづかいの上品さを求める方からすれば、ぎょっとするような言い回しになっているかもしれません。でも、どうかよく聴いていただければと思います。  まずは第一のフレーズ、「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」からまいります。  前回のメッセージでお語りしたことは、パウロは、福音というものをことばの知恵によらずに宣べ伝えた、それは、キリストの十字架が空しくならないためである、ということです。福音、すなわち、イエスさまが私たちを救うために十字架にかかって死んでくださったという知らせは、ことばの知恵によらない、ということです。  その前提で18節から20節のみことばを読みましょう。……特に18節に注目します。ここでは、十字架のことばをめぐって、2つのことが対比されています。その前に、「十字架のことば」というフレーズの意味を、もう少し考えたいと思います。 この「十字架のことば」の「ことば」は、言語のギリシア語では「ロゴス」ということばが用いられていますが、これは英語の聖書と韓国語の聖書では、少々ニュアンスのちがう訳し方がされています。英語の聖書の場合は「メッセージ」と訳されています。つまり、「パウロが宣べ伝える十字架のメッセージとしてのことば」という側面が強調されています。 これに対して韓国語の聖書は「道(みち)」と書いて「道(どう)」です。これは、ロゴスという単語が単なる「ことば」という意味を超えて、「教訓」のような「教え」という意味があることが考慮されているためと思われます。そう考えると、どうなるでしょうか?「十字架のことば」は、「十字架を宣べ伝えるメッセージ」とも「十字架を生きる生き方」ともなります。   どちらに取るにしても、意味は通じるはずです。「十字架を宣べ伝えるメッセージは愚か」とも「十字架を生きる生き方は愚か」ともなるわけです。しかし、だれにとって愚かなのでしょうか?「滅びる者たちに」とって愚かなのです。  先週も学びましたが、十字架という福音、よき知らせは、あっけないほどに単純です。こんなに簡単に救われていいのかしら、というレベルです。また、別の見方をすれば、十字架刑に処された者を神とあがめ、救い主とみなすなど、荒唐無稽というものだということでしょう。  前にもお話ししたことがありますが、私は高校時代、倫理の授業で、とても口惜しい思いをしたことがあります。それは「キリスト教」についての授業で、先生がこんなことをおっしゃったのでした。「イエス・キリストはね、十字架にかかって死んだんだよ。それで、墓から生き返ったんだよ!」先生は真面目に話していらっしゃったのですが、これを聞いたクラスは爆笑の渦になりました。 また、「宗論(しゅうろん)」という演目の落語をご存じでしょうか? クリスチャンになった若旦那を笑いものにする噺で、彼が天地創造とか、イエスさまの復活とか、まじめに聖書の話を父親である店の主(あるじ)にすると、主(あるじ)がこう返すわけです。「なに!? おまえ、大学出たんだろ!?」客席が爆笑の渦になります。 あのときのクラスメートにせよ、「宗論」に受ける寄席の観客にせよ、十字架のことばは愚かと思うわけです。十字架を宣べ伝える宣教のことばは愚かですし、そんな愚かな十字架の道を生きるなど、なおさら愚かでしょう。 そんな彼らのことを、このみことばは「滅びる者たち」と一刀両断しています。私はあの爆笑の渦の中にいて、彼らは滅びる定めなのだろうか、と悲しくなったものでした。しかし、悲しんでいてはいけません。18節のみことばは続きます。救われる私たちには神の力です……。 救うのは神さまのお働きです。人にはできないことを可能にしてくださるのが神さまです。十字架が愚かではなく、神の知恵、神の力として、これ以上ないほど確実なものとして信じ受け入れるようにしてくださる……その神さまのみわざが臨むのです。 パウロもそのようにして、十字架の道を迫害する者から、生涯十字架の道を歩むものへと変えられました。「十字架のことばは、救われる私たちには神の力です」、パウロは本来、十字架の道を歩まないどころか、迫害する者、それがパウロの本来の生き方でした。しかし今や、パウロは十字架の道を歩めるように、神さまから特別な力をいただいていました。 私たちもそのように、神さまから特別な力をいただいています。その力をいただきつづけて、ついにその生涯の終わりに、救いを完成します。私たちは本来、滅びる者でした。ゆえに十字架のことばを愚かとしか受け取ることのできなかった者でした。しかし今や、十字架を救いとして受け取る力をいただきました。 その力は神さまが最高の知恵をもって、その力を受けるにふさわしい人に授けてくださったものです。私たちはそのようにして、神さまの知恵にかなう者となり、したがって神さまの知恵をいただく者となりました。未信者から見れば私たちは、とても愚かな道を歩んでいるように見えるでしょう。しかし私たちは、神の力と知恵に満ちた道を歩んでいます。 いま未信者と呼ばれている人、十字架のことばを笑う人の中からも、主が救ってくださらないとだれが言えるでしょうか。いずれそのような人たちも、十字架を笑う生き方から、十字架に従う生き方へと変えられないと、だれが言えるでしょうか。私たちをご覧ください。私たちもまた、十字架を軽んじる生き方から、十字架ほど大事なものはないように生き方が変えられてはいないでしょうか。私たちは世を挙げて人々が十字架を笑うからと、がっかりしていてはなりません。この十字架という最高の知恵をいずれ、私たちがそうだったように、人々が最高の知恵として受け入れることができるように、祈りつつ取り組んでまいりたいと思います。 そこで第二のフレーズにまいります。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」 十字架を伝えるのは、宣教という手段によることです。しかし宣教というものは、実際にはどのようなものでしょうか? 21節から25節のみことばです。……特に、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」ということばに注目しましょう。コリントにおいては、ギリシア人に交じって、いわゆるディアスポラ、離散したユダヤ人もいました。そのような地で宣教すると、しるしを求めるタイプの求道者もいれば、知恵を追求するタイプの求道者もいるわけです。 それは世界のどこにおいてもそうでしょうし、この日本においても例外ではありません。論より証拠で神を見せてほしいという人もいるでしょうし、納得のいく教えに触れたいという人もいるでしょう。 イエスさまは、そのどちらの人の視線にも降りてこられたお方です。多くのしるしと奇蹟をもって、ご自身が神の御子であることをお示しになりましたし、また、多くの教えを語られて、そのみことばのうちに神さまをお示しになりました。 しかし、イエスさまがほんとうに、ご自身が神の御子であることをお示しになったできごとは、十字架でした。それは多くの人にとって、大いなるつまずきとなりました。熱狂的にイエスさまについて行った人々は、そのお方を十字架につけました。もはやこのような人を神の御子と見なすことはなかったのでした。 それでもペテロは、徹底的に十字架にこだわり、ユダヤ人たちに悔い改めを迫り、一日で何千人もの人を悔い改めに導きました。このときペテロがしたことは、奇蹟によって神を示すことでも、小難しい論理によって人々を納得させることでもありませんでした。ただ、十字架を語っただけです。 このように、十字架を徹底して語る宣教のありかたは、パウロに引き継がれました。しかしこれは、人から見ればとても愚かに見えるありかたです。それでもご覧ください。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架を宣べ伝える者には、この神の知恵、神の力が伴ってきます。 宣教ということは第一に、イエスさまの十字架を語ることです。もちろん、十字架を語ることは勇気がいります。聖書やキリスト教や教会に関することは語れても、十字架だけは語りにくい、語っていない、私たちはそういうものではないでしょうか? しかし、私たちは愚直なまでに十字架を伝えてくれた信仰の先輩によって、いまこうして罪の赦しをいただき、神さまの子どもとして永遠のいのちの中に生かされていることを覚えたいものです。今度は私たちの番です。 そうして、十字架を語る知恵と力を、私たちはいただくのです。このように十字架を宣べ伝えることにこだわるならば、人は私たちのことを愚かとみなすでしょう。しかし、それでこそ私たちは、主の弟子となることができます。私たちも、イエスさまのあとにしたがって、十字架を背負うのです。心の中で日々十字架を背負ってイエスさまについて行くならば、私たちの口から、ひとりでに十字架を誇ることば、十字架を宣べ伝えることばが語られるはずです。 私たちは今週、だれに十字架を語ることができるでしょうか? 職場の方針その他で、イエスさまのこと、わけてもイエスさまの十字架を語ることはなかなかできない、という方はいらっしゃると思います。しかし、主が選んでおられる方に出会えたならば、主は必ず、私たちをとおしてその方にイエスさまの十字架を伝えさせてくださいます。どこかでその機会が与えられ、私たちの愚直なまでの宣教の働きを通して、その方がイエスさまの十字架を受け入れることができますようにお祈りいたします。 第三のフレーズです。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」。 26節から31節のみことばをお読みします。……ここに、私たちは何者であるかを見る基準が示されています。私たちはそれなりの努力をして、何らかの社会的地位についているかもしれません。私たちはそれゆえに、人から認められているかもしれません。しかし、私たちは、自分自身のことをそのように見てはならないのです。私たちは、身分が低い、弱い、知恵がない、愚か……そのように自分自身を認識することからすべてが始まるのです。 イエスさまの周りにいた人たちを考えてください。そのお生まれからして、周りにいた人たちはユダヤの主流の人たちではありませんでした。まずやってきたのは羊飼い、ユダヤの社会から追放されていた者たちです。東方の博士たち、ユダヤから見れば忌まわしい異邦人で、しかも星占いを生業(なりわい)とする人たちです。取税人や遊女たち、ユダヤの宗教社会から隅に追いやられていた庶民たちは、言うまでもありません。 イエスさまの弟子になった者たちも、ガリラヤの漁師たちや取税人、政治活動家、いろいろいましたが、社会の主流派といえそうな者はいませんでした。このようなものをイエスさまはお選びになり、弟子とされたのでした。 それなら、現にこのようにしてみことばを宣べ伝えるパウロはどうでしょうか? 彼はガマリエル門下のエリートのパリサイ人です。その影響力は相当なものがありました。彼はペテロたちとは育ちが根本的に異なっていました。 しかしパウロは、そんな自分もこのコリント教会の信徒たちのように、見下されている人、弱い人、愚かな人と同じものであると主張しています。もはやパウロは、人から尊敬されるパリサイ人のありかたを完全に捨て、神によってしか強く知恵ある者とされない、クリスチャンの立場を選びました。いや、選んだというより、そのような立場にもはや自分がされていることを、積極的に認めるようになりました。 そんな私たちが誇るべきは、もはや自分自身ではありません。救ってくださった神さまこそを誇るべきです。30節をご覧ください。「キリスト・イエスのうちにあります」、これは別の訳によれば、キリスト・イエスに結ばれているとも、キリスト・イエスとの交わりのうちにあるともなっています。イエスさまに結ばれ、イエスさまと交わっている、それが私たちです。 私たちに知恵がなくても、イエスさまが知恵であるとこのみことばは語ります。その知恵とは、「私たちにとって義と聖と贖いになられた」ということです。イエスさまは義、絶対的に正しいお方、正しい基準であるということ。イエスさまは聖、この世の何ものからも分かたれた神さまご自身であられるということ。イエスさまは贖い、このお方が十字架によって私たちをご自身のもの、神さまのものとしてくださったということ。その知恵が私たちに与えられている以上、私たちはもはや愚かな者ではありません。この世のだれよりも知恵ある者、賢い者とならせていただいているのです。 私たちは収入の十分の一からのお金を献金します。日曜日の時間をしっかり礼拝の時間として神さまにささげています。世の人たちが享受するような快楽をむしろ避けて生活します。しかしそれは、あえて禁欲生活をすることで天国を手に入れるためではありません。すでにイエスさまの十字架を信じて天国に入れていただいているから、その十字架の喜びに満たされて、神さまに献身する生き方を選び取っているからです。 その生き方を人は愚かだと笑い、なじるでしょう。しかし私たちは、人に愚かに見えるこの生き方こそ、何よりも知恵があり、力がある生き方であると知っています。人は自分自身を誇ることを当然と思います。しかし私たちの誇りは、このように十字架によって私たちを救って永遠のいのちをくださり、私たちにほんとうの知恵と力を満たしてくださる神さまです。 今日もそのような生き方が与えられていることに感謝し、知恵と力に満たされて生きてまいりましょう。 私たちは弱く愚かな者です。しかし神さまは私たちを選び、十字架を信じる信仰を与えてくださいました。私たちは強くされました。その強さの中で、私たちはイエスさまの十字架を宣べ伝えます。今週もそのように、与えられた知恵と力に感謝しつつ、主の御前に徹底して生きる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「教会は一致して十字架に歩む」

聖書;コリント人への手紙第一1:10~17/メッセージ題目;「教会は一致して十字架に歩む」  私が教会に通うようになったのは、母に連れられてでした。外国人宣教師から英語を習っていた母はやがて、教会に通いたいと強く願うようになり、行った先は埼玉の北本にある教会でした。母は幼いころ、聖公会のクラシックな礼拝堂の教会の日曜学校に通っていただけに、北本のあまりに飾り気のない礼拝堂に拍子抜けしてしまったようですが、母について教会にやってきた私は、ステンドグラスも何もないシンプルなその礼拝堂を、すっかり気に入りました。  礼拝堂は取り立てて特徴はありませんでしたが、集まっている人たちはとても個性的な方々でした。無医村伝道の診療所の礼拝から教会にまで成長させた石黒先生ご夫妻と吉住先生ご夫妻、その先生方の診療を受けて小児がんを克服した少年、大使館職員とピアニストのご夫妻、はるか横浜から埼玉の田舎まで夫婦で通ってこられる苗木会社の社長さん、テレビ局の方、暴走族出身の方……そして、牧師先生は大きなコンサートまで開くような福音歌手!……なんともバラエティに富んだ方々で、いやあ、教会って面白いところだなあ、と中学生なりに思ったものでした。  その後もいろいろな教会に所属し、神学生時代の奉仕教会や、受験生時代に客員として通った地元の教会を含めると、いまのうちの教会で通算12番目の教会になるかと思います。どの教会も愛すべき方々のいらっしゃる群れでした。中には教会自体が大きな問題を抱えた群れもありましたが、ありがたかったことに、私はどの群れの中にいても、信徒のみなさまのお祈りによってしっかり支えていただいていました。 そして私はいまこうしてうちの教会にいさせていただいているわけですが、うちの教会はこれまでのどの教会ともちがい、主任牧師という形で奉仕させていただいているわけで、みなさまの特別なお祈りの力を日々ひしひしと感じています。ほんとうに感謝なことです。 さて、そのようにして私はいろいろな教会で学んできたわけですが、最後に所属していることになるうちの教会においては、これまでそれぞれの教会で学んできたことの集大成のような形で牧会を展開してきたと思いますし、牧会8年目を迎えた今は、ますますそのように励んでいきたいと思います。 そんな私からすると、教会とは何かということを説くパウロの書簡はどれも、とても考えさせられるもので、学ばねばと思います。 そこで私たちは、聖書の語るふさわしい教会を立てるために、教会全体でともにみことばを学びたいと願わされるものです。本日の箇所も教会の本質を考えさせるみことばです。ともに学んでまいりたいと思います。 本日の箇所は、それまで続いてきたコリント教会に対するほめことばが、一転して強い勧め、それに引きつづき、苦言、叱ることばに変わります。コリント教会を愛するゆえの叱責です。そしてこの叱責は、こんにちの私たち教会が聞くべきことばであり、もし私たちがこのみことばに問われるならば、悔い改める必要があります。見てまいりましょう。 第一にパウロは、教会に一致を求めました。 10節のみことばをお読みします。……パウロは、あなたがたコリント教会は仲間割れしてはならない、語ることばにおいても、心においても、考えにおいても一致しなさいと語ります。 ここで問われているのは、教会において一致しないということです。しかし、教会というものは、身もふたもない言い方をしてしまえば、もともとが他人の集まりです。育ってきた背景も価値観も一致していません。そんな人たちは、一致しないのが当たり前なのではないでしょうか? しかしパウロは、一致しなさい、と願います。なんと言っていますか?「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの名によって」……。まず、この他人の集まりは、兄弟なのです。兄弟ということは、親が同じ人々です。父なる創造主が親という、神の子どもたち、兄弟たち。 「兄弟は他人の始まり」なんていうことばがあります。うちの兄を見ても、つくづくそう思います。しかし兄も私も、同じ父と母から生まれています。同じことで、どんなに育ちや価値観の異なる人々も、同じ神さまを父とする、他人のようでいて実は兄弟なのです。兄弟愛をもって愛し合うべく召されている兄弟なのです。 それというのもご覧ください、「私たちの主イエス・キリストの名によって」とあります。……そうです。信徒たちが創造主なる神さまを父とする兄弟となっているのは、イエス・キリストを主、救い主と受け入れているからです。同じイエスさまによって、よりはっきり言えば、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、兄弟なのです。 港町コリントでは当たり前だった不品行やけがれの生活を悔い改め、その罪に代表されるあらゆる罪を十字架で赦してくださったイエスさまを主と受け入れる、聖霊なる神さまのみわざを体験した兄弟、それがコリント教会のひとりひとりでした。 教会とは何でしょうか? キリストのからだであるとみことばは語ります。からだの器官どうしが調和しないならば、それは不健康とも病気とも言います。どんな人のからだもその器官が調和してしかるべきなように、キリストのからだは器官どうしが調和してこそしかるべきです。 キリストは全能なる神さまです。ということは、そのみからだは健やかに調和しているべきではないでしょうか? しかし主は、このみからだが調和した状態に保つ責任を、コリントの信徒たちに与えられました。 クリスチャンは教会に属してさえいれば、自動的に聖人君子のようになり、みんな仲良くなるわけではありません。仲良くなるようにという主のみこころに従うには、その従順をもたらす聖霊さまのみわざを受け入れるべく、へりくだって、主の助けをいただきつつ努力する必要があります。そうです、みからだが調和を保つのは、神さまと人との共同作業です。 では、そのようにパウロがあえて勧めなければならなかったのには、どんな問題があったからでしょうか? 第二のポイントです。パウロは、教会内に派閥による分裂があったことに苦言を呈しました。 11節をお読みします。……コリント教会の中には派閥争いが生じていました。どういう派閥だというのでしょうか?「私はだれだれにつく」という派閥争いです。12節によれば、「私はパウロにつく」「私はケファに」「私はアポロに」「私はキリストに」といった派閥があるということです。便宜上、「パウロ派」「ケファ派」「アポロ派」「キリスト派」としておきます。なにやら自民党の派閥みたいですが、一応これは便宜上私がそう呼ぶだけで、聖書がそう呼んでいるわけではありません。 教会が分裂のあってはならないキリストのからだだというならば、だれかにつくことによって派閥ができることなど、あってはならないことです。しかし、この4名の顔ぶれを見てみると、成熟していないコリント教会が人について派閥をつくるのは、なんとなく一理があるように見えないでしょうか? パウロ、彼はコリント教会を開拓し、指導してきた人です。現にこのようにして手紙を送り、コリント教会の牧会を続けています。 コリント教会を離れた今もなお、強い影響力を及ぼしています。 ケファ、これはペテロのことですが、なんといってもイエスさまの教えを直接受けた十二弟子、それも十二弟子のリーダーで、現実にはエルサレム教会のリーダーです。神の教会、キリストの教会に属するからには、ペテロに属すると言ってみたいものでしょう。 アポロ、使徒の働きを見ると、雄弁な指導者です。コリント教会から「実際に見ると弱々しく、その話しぶりはなっていない」などと陰口をたたかれていたパウロに比べると、実に堂々としていたことでしょう。それだけではありません。使徒の働きの記述から類推するに、彼はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けていた可能性があります。ことばはあれですが、なにやら「ありがたい」人であり、十二使徒を超える評価をその点で受けていた可能性もあります。 では、「私はキリストに」は何でしょうか? パウロ、ペテロ、アポロは、現実に存在して影響を受ける可能性のある人物でしたが、「キリスト」となると、みことばの教えを受けて、ともにおられることを体験するお方です。このお方にこそつき従うべきであり、「私はキリストに」と主張する、いわゆる「キリスト派」は、その意味でほかのだれよりも説得力があると言えます。 しかしパウロは、この「キリスト派」を特別扱いせず、「パウロ派」「ペテロ派」「アポロ派」とまったく同じ扱いをしています。それは、なぜなのでしょうか? それは、派閥をつくることそのものを問題にしているからです。 このみことばは、私たちの陥りがちな罠を語ってはいないでしょうか? よく、私たちは言わないでしょうか?「私はだれにもつきません! 私がつくのはイエスさまです!」一見するともっともなことを言っているように聞こえますが、それでも問題です。なぜならば、このことばには、「あなたたちは人について派閥をつくる霊的に幼稚な人だ、でも私はキリストにつく霊的にすぐれた人だ」というふうに、高いところから人をさばく、霊的高慢の罪の中にいるとも言えるからです。 ともかく、このような分裂と派閥争いを教会の中に持ち込む人たちは、どういう人たちだというのでしょうか? 13節です。……第一に彼らは、キリストを分割する人です。教会がキリストのからだである以上、教会に分裂と争いを持ち込むのは、キリストを引き裂く人です。まさしく、十字架の上でみからだを引き裂いたその罪を現実に犯していることになるわけで、心からの悔い改めを必要とすることです。 さらにパウロは語ります。あなたがたのために十字架についたのは私パウロか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのか。 言うまでもなく、パウロが宣べ伝えたのはイエスさまの十字架であり、御父、御子、御霊の名によるバプテスマを彼らに授けました。しかし実際には、コリント教会の信徒のうち、クリスポ、ガイオ、ステファナの家族だけにしかバプテスマを授けていないことを、パウロはわざわざ強調しています。これはパウロが、自分がコリント教会に与える影響力の根拠となるカリスマ性を自覚していたからと言うことができます。 私たちはクリスチャンとして公に生きるにあたって、バプテスマを受けますし、十字架を記念した主の晩さんにあずかります。それをだれが司式するかということは大事なことにはちがいありませんが、それを過度に意識し、凝り固まったプライドを持つのは良くないことです。牧師はイエスさまではありません。誇るべきはイエスさまです。 もちろん、イエスさまを誇るといっても、さきほども申しましたが、上から目線で振る舞い、かえって教会に分裂をもたらすためであっては困ります。教会全体でともにイエスさまにつながるのです。間違っても、「あなたはだれだれさんにつくけれども、私はイエスさまにつきます」、「あなたはだれだれ先生につくけれども、私はキリストにつきます」であってはなりません。そういう言い方が許されるのは、その兄弟や先生によほど問題があり、その問題が教会全体で問題だと共有されている場合だけです。パウロやペテロやアポロがそういう人ではなかったことは、言うまでもありません。 第三のポイントです。パウロは、自分が教会に遣わされているほんとうの理由を理解してもらおうとしました。 17節のみことばです。……「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく」とあります。しかしイエスさまは最後に弟子たちに残された大宣教命令において、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と語っておられたのをご記憶でしょうか? イエスさまがはっきりおっしゃっているのに、パウロは、キリストが私を遣わされたのはバプテスマを授けるためではない、と言う。これはどういうことでしょうか? これは、ことばの綾というべきでしょう。たしかにパウロは使徒であるゆえに、世界に出ていって、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けて、みことばを守らせ、弟子とすべく遣わされています。しかし、バプテスマというものは、授けた側の責任もさることながら、受けた側もまた、霊的に成長するという責任を負っています。 さきほども触れましたが、バプテスマを受けることに代表される、指導者の教えを受けることは、その指導者につくという形で派閥をつくるためであってはなりません。人がバプテスマを受けたならば、その人にバプテスマを授けた指導者をカリスマ視するような幼稚な霊的理解を卒業して、イエスさまとの一対一の交わりに、教会はともに入る必要があります。それが、パウロが本来与えられた、バプテスマを授けるという使命に忠実になることです。 これはパウロひとりで完成することではなく、バプテスマを受けた側、指導を受けている側もともにそのパウロの使命を完成するのです。というわけで、パウロがここで「バプテスマを授けるためではなく」と言っているのは、「あなたがたの理解しているような形のバプテスマを授けるためではなく、人のカリスマについてこさせる宗教儀式を行うためではなく」という意味に捉えるべきです。 それではパウロは、どんな使命を帯びていると語っているのでしょうか?「キリストが私を遣わされたのは、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるため、それは、キリストの十字架が空しくならないようにするため」ということです。 パウロはもともと、聖書学者として名の通ったパリサイ人でした。そんな彼はいまこうして使徒として諸教会を指導しており、その指導に用いられた手紙類は、神学的に深く、緻密に構成されています。さすがはもともと聖書学者だっただけのことはあります。その学者として努力した経歴を、主は宣教者として用いてくださったわけです。 しかし、そんなパウロも、自分の働きはことばの知恵によらないと告白します。語ることはことばの知恵ではない、福音を語る、と言います。イエスさまの十字架による罪の赦し、それをひたすらに語るのです。 十字架の福音を人に語るのは、ことばの知恵によることではありません。あれだけ聖書の学問に通じているパウロのことばだけに、説得力があります。それでは、何によって語るのでしょうか? それは何よりも、「十字架の福音を生きることそのもの」によります。 十字架によって罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられたことをほんとうに知るならば、生き方が変わります。イエスさまを誇りとして生きるようになります。隣人への愛の人、奉仕の人、証しの人へと変えられます。その、イエスさまが十字架を背負われたあとを追って、自分の十字架を背負って生きる生き方を示すことこそが、十字架が空しくならない生き方です。 福音というものはあまりに単純です。難行苦行で悟りに達すると考えるような人から見れば、拍子抜けするほど単純なものです。イエスさまの十字架を信じるだけ。永遠のいのち、天国への入口は、こんなにも単純なものでした。しかし、福音が単純であることと、何も考えない、ただの人のように生きることとはまったく異なります。 単純な福音にほんとうに感謝しているならば、献身がついて来ますし、生き方が変わります。それもなしに、「自分は何をしても救われている」とうそぶき、ただの人のように生きるならば、そんな生き方がどうやって、十字架を証しできるでしょうか。周りの人に「私もこの人が信じているように、イエスさまの十字架を信じたい!」と思わせるでしょうか。実に信仰とは、頭での理解を超えて、生き方に反映するべきものです。 というわけでパウロは、学問の人、ことばの人である以上に、十字架の人でした。ましてやパウロは、バプテスマを派閥づくりと勘違いするような者たちをたきつけて、教会の中に自分の王国をつくるような人では決してありませんでした。あらゆる学問を差し置いても、キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないとまで断言するほどの、キリストの十字架のことしか考えられない人、それがパウロです。 私たちはどうでしょうか。私たちもまた、よって立つ立場があると思います。社会人であれ、主婦であれ、お仕事にプロ意識を持って取り組んでおられることと思います。学生であるならばプロを目指した大事な準備の時間です。しかしそれ以上に私たちにとって大事なのは、「キリストの十字架が空しくならない生き方」をすることです。私たちがつねに主との交わりの中で十字架を体験し、日々の悔い改めの中で遣わされ、この世においてキリストの弟子として生きるのです。人々の救いを祈りつつ、よい生き方を証しとして立てていくのです。 その生き方をともにする共同体、それが教会です。ともにその生き方ができるように、お互いのために祈り励ます、そういう共同体となるために、派閥のような人間的な発想を捨て、キリストのからだにふさわしく、一致して歩むものとなりたいものです。それではともに祈りましょう。

子どもの好きなイエスさま

聖書箇所;マルコの福音書10:13~16/メッセージ題目;子どもの好きなイエスさま 今日は、子どものことについてお話しします。みことばをベースに、自分の証しも交えてお話しし、みなさまにも子どもたちに関心を持っていただければと願いつつ、メッセージを取り次がせていただきます。 イエスさまは人気者でした。ゆく先々に人々がついていっていました。本来彼らは、祭司やパリサイ人のような宗教指導者たちからいろいろ教えてもらってこそ満たされるはずでした。しかし、彼ら宗教指導者たちは、えらそうな教えを垂れながら何一つ必要を満たしてくれません。ユダヤの庶民たちは、そんな宗教指導者たちについていけないで飢え渇いていた人たちでした。 しかし、イエスさまのもとに行くならば、神さまのみことばのほんとうの意味を教えていただけました。死にそうに飢え渇いていたたましいはうるおされ、癒されました。それだけでしょうか? 医者たちに見放されていた病気まで癒やしていただき、だれにも追い出してもらえなかった悪霊まで追い出していただけたのです。イエスさまのもとに行けば、弱い自分も強くなれる、癒やされる……噂はうわさを呼んだことでしょう。そこかしこから人々が押し寄せ、ときには何千人という大群衆に膨れ上がったりもしました。 ここから先は、ちょっと日曜学校のメッセージっぽくお話しします。だいぶ脚色が入っていることをお断りします。ある日、ある家のお父さんが、とても素敵なニュースを聞きました。うちのまちにイエスさまがやってくる! その家には子どもがいます。有頂天になったお父さんは、心の中でこう叫びました。よーし、イエスさまに頼んで、うちのかわいい子に手を置いていただき、祝福していただこう! これは一生の記念になるぞ! そう考えたお父さんはひとりではなかったようで、何人もの大人たちが、子どもを連れてイエスさまのところにやってきました。さあ、ようやくイエスさまに会えるぞ! ところがなんとここで、みんなは信じられないようなことばをお弟子さんから聞きました。「子どもはダメです!」ガーン!……でも、仕方ないよな……年端もいかない子どもがユダヤでは一人前扱いされないのは、当たり前だもの……。帰るか……。子どもも大人も、みんながっかりです。 しかしこれを見たイエスさまは、憤られました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい! 邪魔するんじゃない!」なんで子どもたちがイエスさまのもとに来るのを邪魔してはいけないか、イエスさまはちゃんと説明してくださいました。「神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 このとき弟子たちは問われたことでしょう。子どもたちを劣っていると考えて、神の国の仲間はずれにする自分たちは、このままでひょっとして、神の国にふさわしくなくならないだろうか? イエスさまはチャレンジされているのではないでしょうか? あなたたちも、子どものように素直に神の国を受け入れているというのなら、いちばん純粋に神の国を受け入れる子どもたちを受け入れなさい。 このできごとは私たちにいろいろなことを教えてくれますが、特に教えられること、なんといってもそれは、イエスさまは子どもが大好き、ということです。 私は中学生になり、教会に通うようになりました。そして私は、イエスさまにそのまま愛されているということを実感するようになりました。そうか、子どもでいて悪いことはないのか、子どもでいいのか! そうして見てみると、教会は母体になっている診療所の産婦人科や小児科の関係で、教会の日曜学校は何十人ものお友達であふれかえっていて、どこを見ても子どもたちです。 彼らはとても純粋でした。教会学校が好きで、教会の兄弟姉妹が好き、つまり、教会が好きでした。私は彼ら子どもたちの姿を見て、子どものように神の国を受け入れるとはどういうことかを、実際に学んだのでした。 私が何度もこのメッセージの時間にお話ししているダウン症の女の子「あっこちゃん」とも、この教会学校をとおして知り合いになりました。一緒に二人して大宮駅から特急電車に乗り、長野県にある松原湖バイブルキャンプに行ったこともある仲です。私は信仰が成長していく過程において、あっこちゃんから実に多くのことを教わったと、今でも思います。そのことはのちほど改めてお話しします。 そのようにして子どもに対する意識が変わった私は、高校を卒業して、日曜学校の教師に志願しました。私は中高生の担当になりたかったし、なれるものだと思って、期待して発表を待ちました。 そして、校長先生は私をどこに配置されたかといえば……嬰児科、でした。0歳から3歳までの赤ちゃん、幼児のクラスです。校長先生は石黒妙子先生という肝っ玉母さんの産婦人科の先生で、とても逆らうことなどできません。私は数人のベテランの先生、そして子どもたちのお母さんたちに囲まれながら、見よう見真似の教師生活を始めました。わからない! 何もかも! しかし、なんとか1年やり遂げました。最後の頃にはギターを弾いて賛美をリードしたり、ネヘミヤの物語を紙芝居にして読み聞かせしたりと、少しはご奉仕らしいことをすることができました。 そこで私が学んだことは、へりくだるということでした。実はこの年、私はもうひとつのへりくだるための体験をしていました。その年の6月、私は例の松原湖バイブルキャンプの奉仕者に志願して、子どもたちの部屋ごとのまとめ役のカウンセラーになろうとしました。しかし……キャンプ場のサイドから、私はカウンセラーになるには経験が必要ということで、カウンセラーにはしてもらえませんでした。 配属されたのはグランドワーカー、あらゆる力仕事、汚れ仕事を担う働きでした。私はその打診をいただいたとき、ええ、喜んでお引き受けします、と、心にもないことを言いましたが、実際はどうだったのでしょうか? キャンプが始まってみると、子どもたちの目につかないところで労働することは体力を必要とする上に、大変な気苦労の伴うことでした。 午前4時に物音を立てないで水洗ではないおトイレを掃除したり、台風がやってきたら低い建物の入り口にたまった泥水をバケツリレーで汲み出したり、終わって疲れた体を休めるのは自分たちで立てたプレハブ小屋の中の古い布団だったり……そんな生活をしていて、私は3日目でからだをおかしくし、みんなに気を遣ってもらい、仕事を減らしてもらいながら11日目まで働くという、なんとも情けないことになったものでした。 その頃の私を振り返ると、赤ちゃんの働きにせよ、グランドワーカーにせよ、子どもの働きをするにはまず謙遜になれ、というメッセージをいただきながらの訓練のただ中にいたと思います。私は、自分にではできる、という思いが砕かれることがどうしても必要だったのでした。 しかし、訓練はこれで終わってはいませんでした。大学を卒業して、私は韓国の神学校に行き、ソウル日本人教会で奉仕をはじめました。その奉仕の一環として、ソウル市内の日本人の集住地域で、日本人の子どもたちを対象に教会学校の教師をすることになりました。それは私にとって、はじめてリーダーシップを取って働く教会学校の働きでした。私はこの働きに誇りを持ち、神学校の友達を誘って一緒に働いたりしました。 子どもたちは言うことを聞かないなりにとても可愛かったものですが、すぐに私は日本人教会から現地の教会に移籍することになりました。とても残念だったのですが、私はせっかくリーダーシップを取って働けていた働きをあえなく手離しました。 今思えば私は、自分が握っていた働きを手離し、神さまの導きにゆだねて従順になるように導かれていたのだと感じます。そうです、働き、わけても子どもの働きは人に属するものではなく、神さまのものであることを知ったのでした。あのとき子どもたちにはかわいそうな思いをさせたように思い、心を痛めましたが、しばらくたってその子たちに再会したとき、同じ日本人の集住地域にある別の教会の教会学校に通っていることを知り、心底ほっとしたものでした。やはりこれは、神さまのお導きだと知ったわけでした。 そのほかにもそれ以降、子どもの働きは数多く取り組んでまいりました。中でも、自閉症の子どもにかかわることが何回かありました。それはとても難しい働きでしたが、その一方で、そういう子どもの独特な感性に驚かされたり、ときに感動したりといったこともあったものでした。 そのような、長年の子どもたちとの付き合いからはっきり言えることは、子どもは大人よりも確実に、神の国を素直に受け入れる人たちだ、ということです。まさしく、イエスさまがおっしゃったとおりです。 ここで、先ほど先延ばしにしていたあっこちゃんの話の続きをしたいと思います。私とあっこちゃんは同い年ですが、高校3年、松原湖バイブルキャンプに参加する最後のチャンスになったとき、講師は前の年のキャンプに大好評だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことのお三方がまた来てくださり、またもや大きく盛り上がりました。あっこちゃんは思い余って、ノンクリスチャンのお母さまに電話をかけ、洗礼を受けたいと訴えました。お母さまは許してくれたと、そばであっこちゃんの電話を見守っていたカウンセラーの方からあとで伺いました。私はどれほどうれしかったかわかりません。 さあ、お母さまはどんなふうに迎えてくださるだろうか……キャンプから一緒に帰り、大宮駅でお母さまにお目にかかると、私は「あっこちゃんの洗礼を許してくださりありがとうございます」と申し上げました。 ところが、お母さまは言下に否定されたのでした。「いいえ、私はそういう意味で言ったのではありません。あっこが興奮していたからそう言うしかなくて……噓をついたわけじゃなかったんですよ……まったく、このキャンプは洗礼を受けている人じゃないと参加できない、ってなっていればよかったんですけどねえ……。」その間あっこちゃんは何も言えず、ただじっとお母さまにしがみついていました。私は家に帰っても何も手につかず、半日ほど放心状態でいました。それから二度と、あっこちゃんはあれほど好きだった教会学校に姿を見せなくなりました。 しかし、それからだいぶたってのことですが、この、子どものような心を持つあっこちゃんらしいエピソードを、私は当時の中高生科を担当していらっしゃった婦人の先生からお伺いしたのでした。 先生はあっこちゃんのところに電話をしました。あっこちゃんは元気でした。よくお祈りもしていたそうです。 しかし、それだけではありません。あっこちゃんは先生に、自分の空想話を聞かせてくれたのだそうです。それは先生をとおして間接的に聞いても、実に新鮮で、感動的なものでした。 あっこちゃんはこう言ったそうです。……ある夜ね、イエスさまが「泊まるところがないから泊めて!」と、あたしのところを尋ねてきたの。でね、イエスさまはどんな格好をしていたと思う? パジャマを着ていたの! 私は先生からそれを聞いて、あっけにとられました。イエスさまがパジャマを着ているだなんて! しかしそれと同時に、私の心の奥底から、なんともいえない感動が沸き起こってまいりました。 私は今日のメッセージを準備するにあたり、そのときあっこちゃんが言っていたことの意味を、あらためて自分なりに考えてみました。子どもの無垢な心の空想をあれこれ解釈するなんて、野暮なことなのは重々承知していますが、それはきっと、こんなことだったのではと考えます。 パジャマというものは、外に着ていくためのものではありません。まれにゴミ捨て場にごみを捨てに行くとき、パジャマを着たまま出ていきたくなるかもしれませんが、会社や学校のようなフォーマルな場には、間違っても着ていきません。作業着やジャージは着るかもしれませんが、パジャマはまず着ません。 逆に言えば、家の中で休むときもスーツや学生服、仕事着を脱がないようでは、自分も落ち着きませんし、見ているほうも落ち着きません。やはりゆったりした服装でいてほしいです。でも、下着で歩き回るのはちょっとみっともない。そんなとき、パジャマを着ていたら、少なくとも見ているほうは安心します。ああ、お父さんは、おうちではよろいを脱いで、私たちのことを信頼してくれている! 安心してくれている! 家族はそう思ってくれるでしょう。 イエスさまがパジャマ姿であっこちゃんのお部屋を訪ねてきた、ということばに、婦人の先生も私も感動したのは、どうしてでしょうか? あっこちゃんにとってイエスさまは安心できるお方だ、ということだけではなくて、イエスさまも、あたしの存在に安心していらっしゃる、ということを、あっこちゃんが心底感じているのが、先生にも私にもわかったからだと思います。 イエスさまが、神の国は子どもたちのものだからわたしのもとに来させなさい、とおっしゃったのも、まさにこの流れで説明できないでしょうか? わたしは、わたしのことを素直に理解してくれる子どもたちと、わたしを慕ってそばに近寄ってくれる子どもたちと、一緒にいるとほっとする、気持ちがいい、どんどん来させなさい、それがわたしの力だ、とおっしゃっているようです。 これに対して、大人はどうでしょうか? 自分の学んできた知識、身に着けてきた知識はいっぱいあるかもしれません。でもそのせいで、神の国を素直に受け入れることができなくなっています。そんな人とイエスさまはいっしょにいたいとお思いになるでしょうか? まるでパジャマを着て一緒にいるような、リラックスしたお気持ちをその人と一緒にいてお感じになってくださるでしょうか? でも、子どもたちなら、素直にイエスさまを受け入れます。イエスさまはそんな子どもたちと一緒にいることをお喜びになることでしょう。私は、イエスさまが子どものことをそのように見ていらっしゃると信じるからこそ、昨日の子どもの働きを何としても休まずやり遂げたかったのでした。その結果私は大きな力をいただきました。ああ、やってよかった! なんて元気をもらえたんだろう! 今日私は疲れを知らずに、こうしてご奉仕をさせていただいています。 私自身も問われます。イエスさまは果たして、パジャマ姿で私のところに来てくださるだろうか? よお、わたしはキミといろいろ話がしたい、ちょっといさせてもらうよ! 私は、そんなふうにイエスさまに言っていただけるだろうか、と思います。はっきり言ってちょっと自信がないですが、私もそんなふうにイエスさまに言っていただけるようになりたいと、心から思います。みなさまはいかがでしょうか? イエスさまはパジャマ姿でみなさまのところにいらしてくださると思いますか? 昨日、久しぶりに持った子どもお楽しみ会は、単なる夏の恒例行事以上の意味があることです。これを取っかかりに、子どもたちがイエスさまに出会うように、教会学校は努めてまいります。威儀を正したイエスさまよりも、パジャマ姿のイエスさまに出会ってほしい、そんな気持ちです。 みなさまにもどうか、子どもたちがイエスさまに出会う働き、子ども伝道に関心を持っていただきたいのです。うちの教会はコロナ下になっても、子ども伝道のともしびを消さないでいられたのは神さまの恵みです。この働きをする教会をイエスさまは喜び、祝福してくださる、どうかこのことを忘れないでいただきたいのです。そして、祈って支えていただきたいのです。 子どもを受け入れてくださるイエスさまの心で子どもを受け入れる、つまり、子どもたちがイエスさまを受け入れる働きを喜んでする、それゆえに神さまが私たちを祝福してくださるように、主の御名によってお祈りいたします。

教会に注がれた恵み

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:4~9/メッセージ題目;教会に注がれた恵み 私の通っていた中学高校には、購買部がありまして、文房具などを買うことができました。それで、鉛筆などはそのままでは使えないので、電動削り器を使えるようになっていました。中には、先が丸くなった鉛筆を削るのにちょっと拝借する生徒もいました。それで……その鉛筆削り器の上には、こんな小さな張り紙がしてありました。「使ったら、『ありがとうございました』の言える人になりましょう」……。 購買部のおばさんの嘆きが聞こえてきそうでした。ただで使わせてもらっているのに、「ありがとう」のひと言もないとは何事ですか……。がさつな男子校にありがちなマナーの悪さを象徴するような張り紙ですが、そんなことを見ても、「ありがとう」というあいさつは当たり前に交わせないものだということをしみじみ思います。 私たちは聖書を手にしています。聖書は「すべてのことについて感謝しなさい」と私たちに教えています。私たちは神さまに「感謝します」と普段から言えていますでしょうか? あれやこれやをお願いするお祈りばかりしても、どんな小さなことでも感謝するお祈りができないようでは困ります。 今日学びます箇所、第一コリントの1章4節から9節は、先々週学びました箇所の続き、教会とは何か、ということについて、コリント教会をモデルに、さらに具体的に話が展開していきます。その大前提となるのが4節のみことばです。何と書いてありますでしょうか? ……あなたがたコリント教会に与えられた神の恵みのゆえに、私パウロは私の神に感謝しています、ということです。自分の牧会する教会のために感謝できるなんて、言い方はあれですが、牧師冥利に尽きる、といった感じです。ええ、私も、水戸第一聖書バプテスト教会のみなさまのゆえに、神さまに感謝しています。 私の神、とあります。パウロが信じ、パウロが宣べ伝えてきた神さまです。その同じ神さまの恵みが、パウロが開拓し、牧会してきたコリント教会に臨んでいる、ということです。それゆえに私の神さまに感謝します……。 大前提となりますのは、コリント教会の現状ではありません。具体的な現状をひとつひとつ見るならば、コリント教会は決して褒められたものではありません。 パウロとしては苦言を呈さなければならないところだらけでした。もちろん、そのような叱責のことばはあとから続いていくわけですが、パウロがこの手紙をしたためる前提として語っていることは、コリント教会の恥ずかしい現実ではなく、そのような教会であるにもかかわらず神さまが注いでおられる恵みです。 このことからわかりますことは、教会というものは恥ずかしい現実、整っていない現実を見て判断する以前に、その教会を教会として立ててくださっている神さまの恵みにこそ目を留めるべきであるということです。私たちはつい、目に見えるもので判断してしまいがちです。しかしどうか、神さまが私たち教会をどのような存在としてくださっているか、そこにこそ目を留めて、お互いがさばき合ったり、引き下げ合ったりすることをどうかやめて、徳を高め合う共同体を形づくってまいりたいものです。 そこで私たちが学ぶべきことですが、私たち教会には、神さまからどのような恵みが注がれているのでしょうか? 今日の箇所から、私たち教会に注がれている3つの恵みを見てみたいと思います。 第一に、イエスさまによって豊かな者となるという恵みです。 5節のみことばです。……キリストにあって豊かな者とされた。これが、神さまが教会に対して見ておられる見方なのです。 何において豊かな者となっているのでしょうか。あらゆることばとあらゆる知識においてです。……コリント教会はもともと異邦人の群れであり、聖書もイエスさまも知らなかった人たちでした。しかし、パウロが宣教に訪れ、教会が形成されました。そこには聖書のみことばが語られ、みことばからイエスさまが解き明かされました。 聖書のことば、それはこの時代においては旧約聖書を指していましたが、イエスさまがみことばから解き明かされないかぎり、それはパリサイ人やサドカイ人のようなユダヤの宗教共同体にとってのみことばと何ら変わるところはなく、真理は自由にするどころか、窮屈にするばかりです。聖書のことばと知識に通じているようでも、何一つわかってはいないことになります。 パウロにしてもそうでした。パウロはどれほど学んだことでしょうか。ガマリエル門下のパリサイ人として、その学者ぶりは知れ渡っていました。 しかし、イエスさまに出会わなかったならば、それまで積み重ねてきた聖書の学びは、何一つ意味がなかったのでした。 でも、コリント教会は違いました。彼らはもちろん、聖書を深く広く学ぶことはおろか、みことばが生活化したユダヤ人のような暮らしをしていたわけではありませんでした。しかし彼らは、みことば全体の要であるイエスさまが宣べ伝えられ、イエスさまを知る知識を授かっていました。パウロは、イエスさまに出会うことで、それまで積み重ねた聖書の知識が初めて意味を持ったのですが、コリント教会の信徒たちは、最初からイエスさまが宣べ伝えられたことで、イエスさまという要をとおして聖書全体を理解する特権をいただいたのでした。 私たちもそうです。私たちは聖書全体を細かく学ばなければ信仰が持てなかったのでしょうか? そうではありません。イエスさまが宣べ伝えられて、イエスさまを信じる信仰によって、聖書が読めるようになったのでした。まさしく、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされたのです。 そのように、豊かな者とされる知識をいただくならば、どのような実が結ばれるでしょうか? 6節です。……そうです。「キリストについての証し」という実が結ばれます。 イエスさまを信じる信仰を持ち、その信仰によって聖書がわかるようになったならば、私たちの信じる神さまがいかにして私たちの生活において実を結んでくださったか、その証しが確かなものとなり、私たちはその証しを教会の中で分かち合ったり、人々に宣べ伝えたりするようになります。実に、証しという実が結ばれるということは、神さまのご栄光が人々の前であらわされるということであり、これほど素晴らしいことはありません。 そのような証しの生活は、あらゆることばとあらゆる知識がキリストにあって豊かにされていてこそ実を結ぶものです。そこで私たちの生活を省みてみたいと思います。私たちはいつも聖書を読んでいるでしょう。しかし、私たちが聖書を読むとき、そこにイエスさまがともにいらっしゃるという実感がありますでしょうか? イエスさまをとおして聖書がわかる、という感覚がありますでしょうか? それでこそ証しの実が結ばれるわけで、イエスさまへの信仰抜きで聖書を読んでいては、パリサイ人やサドカイ人がみことばに接するのと五十歩百歩にはならないでしょうか? それでは私たちの歩みは、単なる宗教以上のものになりません。そんな味気ない歩みでは、到底生けるイエスさまを証しできないのです。 だから私たちは、イエスさまによって、ことばと知識において豊かな者とされたという信仰がつねに与えられるように、その恵みがお互いに臨むように祈ってまいりたいものです。まさしく持続的な信仰は、恵みによって与えられるもので、私たちの頑張りで何とかなるものではありません。お互いのために祈ってまいりましょう。 第二に感謝すべき恵みにまいります。第二に感謝すべき恵み、それは「終末の希望」です。 イエス・キリストの証しが確かなものとなった教会は、どのようになるのでしょうか? 7節です。……そうです、まず、どんな賜物にも欠けることがない、とあります。賜物って何でしょうか? 神さまがくださるものです。 第一コリントも後半に入りますと、いろいろな賜物についての記述が出てまいります。12章の4節から11節をお読みします。……知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡、預言、霊の判別、異言とその解き明かし……いろいろな賜物が出てまいりますが、だいじなのは、これらすべての賜物は、「御霊による」ということです。 賜物というものは、単なる超常現象のようなものではありません。もちろん、場合によっては超常現象のような性質を帯びることもありますが、それは、すべてを超えて働かれる御霊なる神さまの働きだからそうなるのです。だいじなのは、「超常現象が起きているかいないか」ではありません。「それは御霊の働きである」ということです。 そもそもキリスト教会が、イエスさまを主と告白するのは、御霊の働きによることです。それだけでも充分に奇跡といえます。コリント教会においては、福音が異邦人の社会に宣べ伝えられるにあたり、たとえば「異言」のような超常現象もときには必要とされました。しかしそれは御霊の主導的な働きによることで、もし御霊が「異言」や「癒やし」のような超常現象のごとき御業がその教会に必要ないと判断されるならば、人がどんなにそれらの御業を求めても、絶対にそれは起こりません。 だから、「うちの教会には奇跡が起きていない」とか、「うちの教会では異言とその解き明かしが行われていない」などという基準で、自分たちの教会は御霊の賜物に欠けている、と判断すべきではありません。パウロがコリント教会を評価して、「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく」と言ったそのことばは、「異言」や「癒やし」のような現象が教会の中に起きていてもいなくても、こんにち世界中に存在するすべての教会に当てはまります。 イエスさまを主と告白させてくださる全能なる御霊の働きがあるかぎり、その教会は一切賜物に欠けていないのです。もちろん、うちの教会もです。 そのように、最大の賜物である御霊が教会に臨むと、信徒たちはどのようになるか、というと、1章7節のみことばにあるとおり、「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになる」わけです。 イエスさまの現れを待ち望む、それは、顔と顔とを合わせてイエスさまにお目にかかりたいと切に願う、ということです。コリント教会がイエスさまのお話を聞いたとき、イエスさまはすでに天に昇られて何十年も経っていましたが、コリントの信徒たちはイエスさまに会いたい、という思いで、イエスさまの再臨を、一日千秋の思いで待ち望んでいたはずです。 イエスさまに会いたい、という思いを持つことは、御霊なる神さまの大いなる御業です。悪を行なっている者は、イエスさまに会いたいなどと思いません。ゴキブリに光を当てたら暗闇にこそこそと逃げていくように、イエスさまという光に照らされるなどまっぴらごめん、となるのが、悪人の特徴です。 人は本来罪人だから、罪人であるかぎり、イエスさまに会いたいなどと思いたくはないのではないでしょうか。罪を犯したアダムとエバが、神さまの足音を聞いて逃げ惑ったようなものです。それが罪人というものです。しかるに私たちはどうでしょうか? 今日にでもイエスさまに会いたい、と思っているのではないでしょうか? その思いは自分で持っているのではありません。御霊が与えてくださる思いです。 その思いは、生活にどのような動機づけを与えてくれるでしょうか? 8節です。……そうです。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立てるように、聖霊なる神さまは私たちのことを堅く保ってくださいます。 しかし、堅く保ってくださる御霊の働きが、一方的なもので、私たちが何もする必要がないのだとするならば、聖書がこんなにも分厚く、いろいろな生活の教えが書かれている必要はありません。「イエスさまを信じましょう」だけでいいはずです。しかし、そうではなく、やはり私たちの読むべき神のみことばは、これだけの分量を必要とします。 私たちはこのみことばを守り行うように召されています。それは信仰を持つ前か、持ちたての頃の私たちには、気の遠くなるようなチャレンジではなかったでしょうか。 しかし今は、喜んでこのみことばに従おうという思いを、私たちは持っています。その最大の動機づけは、「主イエス・キリストの日に責められるところがない者」になる、ということではないでしょうか。 しかし、みことばにお従いすることは、人間的な動機づけでしようとするには限界がありすぎます。そもそも私たちは肉が生きていて、みことばに書かれている神さまの御思い、すなわち、御霊の願うことは、したくはない、したいとも思わないのです。みことばにお従いしたい思いもまた、神さまが与えてくださるものです。 私たちは、みことばにお従いして終末に備えよう、なぜなら、イエスさまが再臨して私たちに現れてくださるという希望に満ちているから……このように願うことができるのもまた神さまの恵みです。感謝して終末に備えてまいりたいものです。 第三の感謝すべき恵み、それは「イエスさまとの交わり」です。 9節のみことばをお読みします。……大前提として、神さまは真実なお方です。もし、私たち人間を含め、すべてのものの上におられる神が不正な存在ならば、私たち人間は何をしてもよく、あるいは、どこにも希望はありません。しかるに、聖書において啓示されるまことの神さまは真実なお方、偽りのないお方です。 神々の精神風土であり、港湾都市につきもののいろいろなよくない文化に毒されていたコリントから、コリント教会の信徒たちは、この真実な神さまを信じるように、神さまご自身が召してくださったのでした。どんな悪い環境の中で生まれ育とうとも、神さまが臨んでくださる以上、人は神さまを信じるようになるのです。 それは、たまたまパウロがコリントにやってきたからと考えてはいけません。人が神さまを信じることは偶然ではありません。神さまが人をお選びになり、ご自身を信じるように働きかけてくださるゆえに、人は神さまを信じるのです。 そのようにして人は、真実なる神さまを知る知識を持つようになります。キリスト教会は2000年の宣教の歴史を持ち、その結果、世間はクリスチャンに対して、きわめて高い水準の倫理を要求するようになっています。みなさまも、クリスチャンであるゆえに世間の風当たりの強さを感じることはないでしょうか? その理由のひとつとして、私たちの信じる神さまが真実なお方であると知るゆえに、私たちにも真実であること要求するから、ということがあるでしょう。 それはきびしいことです。しかし私たちクリスチャンは、真実なる神さまの招きに応えて、クリスチャンであることから逃げません。これも大きな恵みです。私たちが神さまを選んだのではなく、神さまが私たちを選んでくださった、ということです。 しかし、ほんとうにこの神さまの選びの召しが意味を持つようになるためには、私たちひとりひとりが「神との交わり」の中に自分が身を投じる必要があります。そもそも、神との交わりを持つことができるのはだれにでもできることではなく、私たちクリスチャンの特権です。 世間一般の人は神さまとの交わりなど持ちようもなく、持つことに何の意味も見いだせないものですが、私たちは、神さまとの交わりがどんなに素晴らしいものかを知っています。みことばをお読みするたび、お祈りするたび、礼拝するたび、賛美するたび、聖徒の交わりをもつたび……神との交わりというこの特権を、私たちは心ゆくまで味わうのです。 しかしそれには、意識して自分が神との交わりを持つ必要があります。極めて残念なことに、多くの人が、イエスさまを信じてバプテスマまで受けてから、信仰を失って教会から離れてしまいます。しかし、そのような人がいるからといって、9節のみことばが有名無実になるわけではありません。神との交わりに入れられた、その神の招きにお応えするのは、私たちの側の責任です。信仰から離れて「還俗」することを選択するのは人間であって、神さまがあえてそうさせると思ってはなりません。 主イエスさまとの交わりを持たせていただけるということは、私たち教会にとって最高の恵みです。私たちのすべきことは、その恵みにとどまることです。お互いにその恵みがとどまるように祈ってまいりましょう。 今日のメッセージを振り返ります。教会は、イエスさまによって豊かな者となるという恵みをいただきます。私たちはイエスさまをとおして、パリサイ人やサドカイ人のような聖書学者をはるかに凌ぐみことばの知識の恵みを神さまからいただきます。また教会は、終末に希望を抱くという恵みをいただきます。その希望を胸に私たちは、終末に日々備える恵みをいただきます。そして教会は、イエスさまとの交わりに召されるという希望をいただきます。その召しに感謝して、今日もイエスさまとの交わりに生きる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「教会はキリストの花嫁」

聖書本文;エペソ人への手紙5:22~24/メッセージ題目;「教会はキリストの花嫁」  私の親戚一族は、母と兄、そして私が教会に通っていた以外には、キリスト教会とはとんと縁がありませんでしたが、あることをきっかけに、キリスト教会というものにちょっと好意的になりました。それは私が大学生のとき、いとこが、軽井沢のチャペルで、結婚式を牧師先生の司式で挙げたときのことでした。  もちろん、いとこはクリスチャンではなく、そればかりか、教会に通った経験さえあるわけではありません。そんないとこと、いとこの配偶者になる方のことを、司式をなさった牧師先生が「兄弟姉妹」と呼んでおられたのは、何とも不思議な気がしました。それでも結婚式は、軽井沢という土地柄も相まって、きわめてロマンチックなムードにあふれたものとなりました。 私の伯父はそれを見て、私に、「俊孝もキリスト教式で結婚式を挙げたらいい」といいました。当たり前のことを言わないでほしい、ぼくはクリスチャンだよ、という気分になりましたが、事程左様に、日本の人は教会のことを知っているわけではなく、それだけに、教会というものに一定のロマンを感じているものだと知ったできごとでした。 キリスト教式の結婚式がこれだけ日本ではやっていることは、日本人が宗教というものに無節操だからだと一概に責めることは、ないのではないかなと思います。花嫁が最高に輝くのは、やはりキリスト教式の結婚式ではないでしょうか。 でも、花嫁さんが輝くのは、結婚式だけではないはずです。新婚生活。ウェディング・ドレスをまとって結婚式の主人公になるだけではなく、新婚生活で旦那さんにいっぱいに愛されるなんて、すてきだなあ、と思います。 さて、本日のテーマは、教会はキリストの花嫁、ということで、みことばが語る「花嫁」というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。このテーマで語るなら、みことばは私たちに実に多くのことを教えていて、語るべきことがたくさんありますが、今日はその中から、エペソ人への手紙5章の、よく結婚式で牧師先生のメッセージ本文に引用される箇所からお語りしたいと思います。 「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」特に結婚していらっしゃるみなさまにお伺いしたいのですが、このみことばから何を感じますでしょうか? これは、結婚された年数によってさまざまだと思います。まだまだ新婚気分の方なら、うんうん、とうなずかれるでしょう。もう結婚生活が長くなった方はもしかすると、主にお従いするように? そんなの無理! でしょうか? まあ、続きをお聞きください。23節です。……この23節のみことばは、3つのことを語っています。第一に、キリストが教会のかしらである、ということ。第二に、キリストがご自身のからだの救い主である、ということ。そして第三に、そのように、夫は妻のかしらである、ということです。 第一のポイントからまいりましょう。キリストは教会のかしらです。先週私たちは、教会はキリストのからだである、と学びました。からだならば、かしら、頭の部分があるわけです。その頭の部分に当たるのが、イエス・キリストである、というわけです。 あらためて考えてみるまでもないことですが、人間にとってのすべての行動は、頭に位置する脳の指令によることで、たとえば蚊に刺されて「かゆい」と感じたりすることも、明るい場所に出て「まぶしい」と感じたりすることも、みんな脳があるからそう反応するわけです。人間にとっては24時間どんなときも、脳と無関係な行動など存在しません。今こうしてみなさまの前でメッセージをすることにしても、立っていよう、マイクを握っていよう、原稿を読もう、みんなに視線を配ろう、このくらいの声の大きさと口調で話そう……みんな、脳の働きです。 イエスさまがかしらであるということはそのように、教会というものは、キリストのありとあらゆる指令なしには存在することができないことを意味します。私たちはあらゆることを、主のみことばに従って語り、行動します。ゆえに私たちは普段から、主は何を私たちに願っていらっしゃるのか、みことばから学ぶのです。普段からみことばに親しんでいるならば、聖霊なる神さまは私たちのうちに働き、ふさわしいことばを語らせてくださり、ふさわしい行いをさせてくださいます。 それゆえに私たちもまた、キリストのからだであるという自覚を持ち、イエスさまが私たちに願っていらっしゃることをみことばから受け取って、聖霊さまの助けによって語らせていただき、行わせていただくように、日々自分を主にささげていく必要があるわけです。 ディボーションというものはそのように、日々自分を主にささげることであり、単なる宗教的な行い、習慣のように考えるべきではありません。ディボーションを通して主の御声が受け取れていないと感じていらっしゃる方は、牧師まで個別におっしゃっていただければ感謝です。ともに対策を考えてまいりたいと思います。 もう一度申しますが、教会がキリストのからだであるならば、そのかしら、頭(あたま)はキリスト、イエスさまです。誤解される方がいらっしゃらないことを願いますが、牧師が頭なのではありません。牧師である私が講壇でみことばを取り次ぐのは、教会全体がかしらなるキリストに結びつくお手伝いをしていること以上のものではありません。 逆に言えば、みなさまがこのメッセージをお聴きになったとき、細かいたとえ話などが心に残るのではなく、よりいっそうキリストに結びつくようになったならば、私はメッセージを取り次いだ責任を果たしたことになります。 私たちは、かしらであるキリストに結びつくことによって、キリストの願っておらっしゃることを心から喜んで行いたいと願うようになります。そうでないならば、私たちは今なお肉が生きている弱い者です。御霊に逆らう肉の願うことを行いたいと心底願い、結果として罪を犯し、神さまのご栄光をいたくけがすことになります。 そのような人は名前ばかりのクリスチャンで、かしらなるキリストに結びついているなどとは到底言えません。いや、私たちは弱いのだから、罪人なのだから、仕方がない、などと言い訳してはなりません。なぜならば、私たちのかしらはキリストなのであって、私たちの肉の欲望のままに生きてかまわないと吹き込む、サタンではないからです。 では、私たちにとってはなぜ、キリストがかしらなのでしょうか? そこで第二のポイントです。キリストがご自身のからだなる教会の救い主だからです。 私たちはクリスチャンです。神さまのものです。しかし、私たちがイエスさまを信じてクリスチャンになるとき、私たちは、自分が神さまのことを選んだからクリスチャンになったのでしょうか? そうではありません。神さまが私たちを愛し、私たちのために御子イエスさまを遣わしてくださったから、私たちは神さまを愛しているのです。先にあったのは私たちの愛ではありません。神さまの愛です。神さまが愛してくださったから、聖霊さまは私たちがイエスさまを信じ受け入れるように働いてくださったのでした。 神さまが私たちを選んでくださったということは、私たちがまだ罪人であったとき、キリスト・イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったということ、そのことによって、神さまが私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださった、ということです。 私たちが犠牲を払って神さまの愛を報酬として獲得するのではありません。犠牲は、神さまの側で支払ってくださったのです。 数年前、山中知義先生が教会にいらしたとき、メッセージで語ってくださいましたが、イエスさまが十字架の上で息を引き取られるとき最後におっしゃったことば、「完了した」ということばは、「テテレスタイ」であり、これは「支払い完了」ということばです。 本来私たち人間は、罪人ゆえに、罪の報酬は死、死、それも、永遠の死をもって神さまに償わなければなりませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは、私たち人間が死をもって滅んでしまうことを喜ばれず、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださることにより、その死をもって、私たちの支払うべき罪の代価を、ことごとく支払ってくださいました。テテレスタイ、支払いは完了したのです。 キリストは単にからだのかしらなのではありません。からだの救い主です。私たち主の教会は、キリストに救っていただいたゆえに、キリストのからだとしていただいた存在です。私たちの罪深さを思うならば、どれほどもったいないことでしょうか? 先週私たちは、礼拝において主の晩さんを執り行いました。パンとぶどう汁をいただくことは、単なる宗教的儀礼以上の意味のあることです。パンをキリストのからだに見立て、ぶどう汁をキリストの血潮に見立ててともにいただくということは、私たちがキリストのからだにされている、そして私たちがキリストのからだにされるために、キリストが十字架で血潮を流されたことを、ともに告白するということです。 そのように、キリストがみからだなる教会のかしらとして、みからだなる教会のためにご自分のいのちを差し出されたことを、私たちは地上において、どのように表現するのでしょうか? そこで第三のポイントです。夫たる男性が妻たる女性のかしらとして振る舞い、妻がすべてのことで夫に従うことで、このキリストと教会の相愛関係は完成されます。 このようなことをいうと、フェミニズムの運動家の方々に眉をひそめられることは重々承知です。しかし、聖書に示された、神さまが私たちに与えてくださった原則は、夫たる男性は妻たる女性のかしらである、ということです。 聖書を初めから終わりまで読んでもはっきりしているとおり、神さまは「父なる神さま」である以上、神さまのイメージは男性と女性のどちらなのか、と尋ねられれば、男性、と答えるべきでしょう。 実際、神さまによって最初に造られた人間であるアダムは男性ですし、神のひとり子イエスさまも男性です。イスラエルの十二部族を形づくるヤコブの十二人の子どもも、イエスさまの十二弟子も、みな男性です。聖書の重要な登場人物は女性ももちろんいますが、多くは男性です。そういった事実は、神のかたちは男性であることを聖書が語っていることを裏づけています。 しかし、24節にあるとおり、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」と、もし私たちが直接語られたとすれば、私たちはいささか反発心を覚えないでしょうか? 私たちはすべてにおいてキリストに従いたい、ええ、従いたいわよ。私はクリスチャンですもの。でも、うちの宿六亭主に、すべてのことで従いなさいって? 冗談じゃないわ! こうなってしまうのはなぜでしょうか? そう、それは、この地上に存在する多くの夫婦関係において夫とは、妻から見て、宿六亭主のように見なされるしかない、という問題があるからです。 このように妻から見なされるのは、だいたいの場合、夫の側に問題があります。最大の理由は、23節のみことばに隠されています。23節のみことばは何の前提もなく、「夫は妻のかしらです」とは書いていません。「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように」という但し書きがついたうえで、「夫は妻のかしらなのです」と書いてあります。どういうことかというと、妻を自分のからだとして愛していない、ということです。 夫が妻をどう愛さなければならないかは、そのあとの25節から28節に書いてあるとおりです。お読みしたいと思います。 25節のみことばを見ると、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」とあります。キリスト・イエスさまは何をして教会を愛されましたか? 何をして教会のためにご自分を献げられましたか? はい、「十字架におかかりになって」です。 つまり夫たる男性は、妻たる女性のために日々十字架を負うことによって、初めて妻に愛される、尊敬される、従ってもらえる資格を得ることができるというべきです。犠牲を払うのです。献身するのです。 そういう犠牲も、そういう献身も、そういう謙遜も一切なくて、聖書に書いてあるんだから私に従え、などと、けっして言うべきではありません。 いったいイエスさまは、教会以外の存在のために十字架を負われたでしょうか? 教会以外の存在のために犠牲を払われたでしょうか? いいえ、イエスさまの十字架の犠牲は、教会のためにだけ向けられた完璧なものでした。 夫たる男性は、なかなかイエスさまが愛されたようには、妻を愛することができないかもしれません。しかし、「キリストが愛されたように妻を愛したい、なぜならば、それがみこころだから」と、心から願って取り組んでまいりたいものです。その態度はやがて、奥さんに伝わり、奥さんも、このみことばのとおりに夫に従いたい、という思いを持つように、必ず変わるはずです。 以上のことはおもに、結婚していらっしゃる方に向けてお語りしていることですが、結婚していらっしゃらない方を含めた教会全体の兄弟姉妹には、私はこのようにお伝えしたいと思います。私たちはいっしょに、キリストの貞淑な花嫁になろう。この世のどんな夫婦関係の成し遂げ得ない、キリストとの相思相愛の関係をつくっていこう。 花嫁としてキリストに従うには、心の中が花婿なるキリストでいっぱいになっている必要があります。2000年前、イエスさまのおられたとこにはどこにでも、人々がついて行きました。俗っぽい言い方をすれば、アイドルの追っかけのように、イエスさまの追っかけだったわけです。 私たちは今こうして、みことばを開いてお祈りすることで、あの当時のパレスチナのユダヤ人に負けないほど、イエスさまの近くに行くことができます。いや、彼らよりももっと祝福されています。 わずか3年のイエスさまの公生涯で、直接お声をかけていただいた人がどれだけいたというのでしょうか? でも私たちは、会話まで交わすことができるのです。御手で触れていただくことができるのです。 イエスさまがアイドル歌手のようだったら、追っかけをするばかりで、心の中に憧れのイメージをつくるだけで満足するしかありません。 しかしイエスさまはアイドル歌手のような遠い憧れではありません。すぐそばにいる「花婿」つまり、「花嫁の夫」です。いつでもそばにいられるのです。いつでも話せるのです。いつでも愛してくださるのです。 ならば私たち教会のすることは何でしょうか? そう、「花嫁修業」です。私たちの地上の歩みは、キリストに嫁ぐ終わりの日に備えた「花嫁修業」になぞらえることができるでしょう。大好きなイエスさまに迎えていただけると思ったら、よい行いをしてしっかり備えていきたい、と思いませんでしょうか? ヨハネの黙示録は、キリストの花嫁なる教会が身にまとう白いウェディング・ドレスは、聖徒の正しい行いである語っています。聖徒として、すなわち、神さまのみこころにふさわしく、正しい行いをしていくのです。私たちは正しい行いで救いを獲得するわけではありません。救われているゆえに、救ってくださったイエスさまのすばらしさを顕すべく、みこころにかなった正しい行いを積み重ねていくのです。 その歩みは一朝一夕にできるようになるものではありません。ありていに言ってしまえば、すべては「練習」です。しかし、私たちの生き方はたとえ、御国につくまでの練習であっても、間違いなく、主のご栄光を人々の前に輝かせ、人々が私たちをとおして神さまをほめたたえるように導きます。 花嫁修業に励むことは、真剣にしてまいりたいものです。花婿イエスさまにいっぱいに愛されている、その愛に応えるために、ともに、どんなことでも励んでまいりましょう。私たちの日々の努力が、主の恵みによって支えられ、終わりに日に恥ずかしくなく、花婿なるイエスさまの御前にともに立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

教会はキリストのからだ

エペソ1:23「教会はキリストのからだ」 小噺をひとつ。最近の高齢化社会、病院の待合室はお年寄りばかり、まるで常連さんのお年寄りの談話室のようになっています。耳を傾けてみましょう。こんなことを話しています。「今日、高橋さんが来てないねえ。」「うん、どっか悪いんだろうねえ。」 こんな冗談もあります。テレビを見ても新聞広告を見ても、健康食品や健康器具の宣伝ばかり。健康になりたい。健康でいたい。健康のためなら死んでもいい。 冗談ばかりでくどいですが、先代の林家三平師匠のギャグに、「からだ大事にしてください」というものがありました。今聞くとこれはギャグでも何でもなく、あたりまえのこと、としか思えません。三平師匠に言われるまでもなく、からだは大事です。健康はしっかり守らなければ。だからご飯もちゃんと食べますし、運動だってちゃんとするのです。 なぜ、からだというものは大事なのでしょうか。それは、神のかたちを映すものだからです。私たちはこのからだを動かして、神の栄光を現します。ことばを操ることだって、口という肉体、手という肉体、脳という肉体を動かすのであって、からだなしにはできないことです。 そのように私たちクリスチャンは、神のかたちにつくられた肉体を用いて、神の栄光を現します。誠実に働いて、さすがイエスさまを信じている人だ、と、周囲にイエスさまを証しします。子どもたちやお年寄り、社会的に弱者にされている人をケアして、神さまの愛と正義を世の中に実現します。どのように生きるにせよ、私たちは神の栄光を現すという大きな目的をもって生きるわけですが、それはすべて、肉体、からだを用いてすることです。 私たちは、聖書をお読みすると、ときに目に見えない神さまを描写する場面に出会います。そのとき、目ですとか、鼻ですとか、口ですとか、手や足ですとか、そういう器官が神さまにあると書いてあります。それは、私たち人間が自分たちの肉体を見て、そこから神さまのイメージを自由に考えてそう描写しているのでしょうか? 人間が口で語るように神さまに口があって語られるとか? いいえ、そう考えるべきではありません。もともと神さまは、人間に見えないだけで、目や口、手足といったものをお持ちであり、人間は神のかたちにつくられたのだから、神のかたちにしたがって、器官や手足がこのようになっているというべきです。 そうです、私たち人間は、神のかたち、どのような肉体に生まれついていたとしても、神のかたちを映す存在です。男性であろうと女性であろうと、お年寄りでも子どもでも、どんな民族であろうと、障害があろうとなかろうと、どんな人でも神のかたちです。 特に障害ということについていえば、障害があるなどといって、差別したり排除したりするのは人間の社会のすることであって、神さまの御目にはそうではありません。イエスさまはそのような障碍者にとてもやさしく、そのような人は親の罪や自分の罪のせいでそう生まれついたのではない、神の栄光が現れるためにそう生まれたのだと断言なさいました。 そういう、からだ。しかし、完璧なからだというものは果たして、この世界に存在したのでしょうか? 神さまによって最初に創造されたアダムも、最後には死にました。そういう意味では完璧なからだではありません。サムソンは恐るべき屈強な男でした。しかし、髪を剃ったら力が抜けるようなからだなど、完璧とは程遠いものです。 完璧なからだが歴史上唯一あったとすれば、それはイエスさまのおからだでしょう。イエスさまのおからだを見るということは、父なる神さまを見るということです。それだけでも、イエスさまのおからだは完璧です。 さあ、ようやくここで、今日の聖書箇所にまいります。こんにち、私たちの住む社会にも、イエス・キリストの完璧なからだはあるのです。それは何ですか? はい、教会が、キリストのからだです。今ここに集う私たち、それが、キリストの完璧なからだなのです。 教会というと、教える会、教えの会と書くわけで、聖書勉強をする集会所のようなイメージがどうしてもあるかと思いますが、教会とは、聖書勉強をする集まり以上の場所です。聖書を学び、学んだみことばをもって兄弟姉妹が愛し合い、その愛をもって隣人に愛を実践すべく遣わされる共同体です。それが、キリストのからだだというのです。 みなさん、自分を見て、お互いを見てみましょう。これが完璧なからだ? キリストのからだ? 信じられない! こんな欠けだらけなのが! こんな病んでいて歪んでいるのが! そう思いませんでしょうか? でも、私たちはキリストのからだなのです。そりゃ、私たちは完璧ではありません。病んでいますし、罪だらけの者です。しかし、私たちはさばく目で自分やお互いのことを見てはなりません。神さまがイエスさまの十字架によって完璧に罪を洗いきよめてくださった、その神さまの御目にしたがって私たちを見たいものです。私たちは神さまがきよめてくださったものです。神がきよめたものを、きよくないと言ってはならないのです。 さて、教会はキリストのからだであるわけですが、福音書を中心に新約聖書に収録されているイエスさまの地上の生涯は、そっくりそのまま私たち教会に当てはまると言っても過言ではありません。なぜなら、私たち教会はキリストのからだである以上、イエスさまがなされたとおりのみわざ、イエスさまが生きられたとおりの生き方を地上で実現することが、神さまによって許されているからです。 とは申しましても、私たちはまだまだ罪の性質が存在するものであり、きよめにあずかりつづけることで、キリストに似たものとされていくことを必要としています。それでも私たちは、罪深い自分たちの姿にがっかりしてしまうことなしに、あきらめないで、キリストが生きられたその地上の生涯を再現する生き方を、教会というこの信仰の共同体をもって実現したいと、強く願いながら生きていきたいものです。 そのためにも私たちは、イエスさまが肉体をもって生きられたその地上のご生涯に、どのようにならうかを考えたいと思います。とはいいましても、イエスさまが肉体をとられた最大の理由は、十字架におかかりになり、復活されるためです。そこから解き明かしていくならば、時間がいくらあっても足りません。十字架に至るあらゆる奇跡、宣教のみわざも同様です。 今日はもっと根本的なことを見てみたいと思います。うちに、『ピーナッツ』の漫画本がありますが、登場人物の紹介で「スヌーピー」のところを見ると、最後に「現在の趣味は寝ることと食べること」とあります。何とも人を食った紹介ですが、犬にとって寝ることと食べることが必要なのと同様、人は寝ることと食べることが必要です。イエスさまも人として生きておられた以上、お休みになることとお食事をとられることは必須でした。ただ、イエスさまの場合のそれは、ただ単に寝ること、食べることとは根本的にその持つ意味が異なっており、私たち教会もその点で、イエスさまにならうものとなりたいわけです。 それではまず、眠る、ならぬ、休息をとる、ということから見てまいりましょう。イエスさまは、取るべき時に休息を取られました。 マルコの福音書1章を読んでみますと、イエスさまは1日のうちに、実に多くの働きをなさっています。これがイエスさまの日常生活だったと思うと、どれほど大変なことだろうかと、凡人の私など読んでいて目を回しそうになります。 このイエスさまの生活を支えていたものは何だったのでしょうか? それは、35節を見ると明らかです。……そうです、御父との個人的な深い交わりです。 イエスさまはおっしゃいました。人の子には枕するところもない。それはどういうことかというと、イエスさまは、この世が求めているような安楽、快楽の中でまことの休息を得るようなお方ではない、ということです。それは、教会もキリストのからだである以上、同じことで、教会もこの世的な快楽でなど休息できません。 笑えない実話をひとつ分かち合います。ある中学生くらいの女の子が、教会でバプテスマを受けることになり、バプテスマの証しを書き、牧師先生にチェックしてもらいました。すると、こんなことが書いてあったというのです。「私は日曜学校のプログラムで、遊園地に行って楽しかったので、バプテスマを受けたいです。」さすがに却下したそうですが、私はそれを聞いて、つくづく、この世的な楽しみは教会に合わないものだ、と思ったものでした。 いずれにせよ、レジャー旅行で遊ぶようなことは、みこころに従った休息と呼ぶには少々無理のあることです。アトラクションに乗るために延々長蛇の列に並び、帰るころには家族でぐったり、なんてなったら、なおさらです。 とは言いましても、せっかくの日曜日を「ネテヨウビ」で過ごすのも困りものです。箴言のみことばは、「眠りを愛してはならない。さもなくば貧しくなる」とはっきり語っています。 ただ、イエスさまも疲れを覚えられたとき、嵐に揺れる船の中であろうともぐっすり眠っておられました。イエスさまも眠られた以上、寝ることそのものは悪ではありません。しかし、箴言のみことばのとおり、睡眠というものは「愛する」べきものではありません。疲れたら充分に睡眠をとることは必要ですが、それは「睡眠を愛する」ためではなく、生産的な働きの実を結ぶうえで力を回復するため以上のものであってはなりません。 しかし逆に、「寝る間を惜しんで」ということは、しばしば美談のように語られますが、それをもてはやすのは慎むべきでしょう。私たちの肉体は限界があります。休むべき時に休まなければなりません。 よく、殺人的スケジュールということばを私たちは用います。このことばは誇張でも何でもありません。私には、高校時代、一緒に旅行に行ったり、学園祭で一緒に劇を演じたりした親友がいました。彼は社会人になって、ある大手証券会社の課長代理をしていましたが、今から十数年前のリーマンショックの頃、ただでさえ多忙だったところにさらに重い責任がのしかかり、たまに会うと明らかにやつれていて、ほんとうに心配になったものでした。そんな彼も長い独身生活の末、ようやく結婚のお相手が決まって、私は喜びました。さあ、いよいよ式だという矢先、彼は突然亡くなりました。過労死というものでしょう。悲しいのとむなしいのと怒りとで、今思い返してもやりきれない思いになります。 この証券マンの友達には遠く及ばないかもしれませんが、かつて日本の教会は、とても忙しくしていた時期がありました。教会は成長を志向し、礼拝はもちろんのこと、日曜学校も平日の祈祷会も、とても活動的でした。特伝、なんていって、特別伝道集会を持ち、そのPRのために教会を挙げて住宅街にチラシのポスティングに行きました。献金もいっしょうけんめいしました。 それはみな、とても素晴らしいことだったにちがいありません。しかし、あれだけ日本中の教会が努力したにもかかわらず、クリスチャンが国民の1%の壁を破るなど、いまだに夢のまた夢です。そればかりか、少子高齢化の波は教会にも容赦なく押し寄せ、いまや兼牧は当たり前、教会合併も今後は増える一方の見通し、そこへもってきてコロナ下はなおつづく……こうなると、教会も今までの在り方を考え直す必要が生じています。 考え直すことはいろいろあるでしょう。しかし私が最も強調したいこと、それは、イエスさまがそうなさったように、教会が御父の前に休息を取りつつ、御父との深い交わりを持つことです。 あれだけ忙しかった中で、教会はちゃんと休んでいただろうか、御父の前で休息をしっかりとっていただろうか……いま、自分たちはきちんと御父の前に憩えているだろうか……ぜひ、胸に手を当てて、ご自身に問うてみていただきたのです。 私は何も、シオン錦秋湖でも日光オリーブの里でも、うちの教会がこぞってどこか遠くに出かけてリトリートの集会を持つべきだ、といいたいのではありません。そのような保養施設やキャンプの存在にも意義があるのは確かですが、私たちがそろって御父との静かな交わりのうちに憩うことは、今いるところでできることです。 それを、教会でともにできる場所があるとすれば……。私はそれを、礼拝開始前の時間だと考えます。 みなさまにお尋ねしますが、みなさまは礼拝に来られるとき、いつも何時何分に礼拝室の椅子についていらっしゃいますか? 私がお願いしたいことは、どんなに遅くても、礼拝開始10分前には椅子についていただきたい、ということです。 そこでみんなで、心を整えて祈るのです。初めはうまくいかなくてもいいです。もっと言えば、居眠りしてしまったってかまいません。その時間こそ、父なる神さまの前に憩いつつ祈り、交わりを持つ、リトリートの時間です。 慣れてくれば、10分前といわず、15分前、20分前、30分前にいらっしゃり、さらに祈りに集中することができるようになるはずです。少しずつ努力しましょう。それはご自身の個人的な時間にとどまらず、教会の兄弟姉妹がともに御前にて憩いつつ御父と交わることにつながります。今日それができなかったとしても、ぜひ来週からでもその時間を持っていただきたければと願います。 次に、食べること、イエスさまが食事をなさったことの意味を考えてみましょう。 イエスさまは神の子でいらっしゃいましたが、食事もしないような超人として生きられたわけではありません。公生涯の初めには40日の断食をなさったと福音書にはありますが、それは公生涯においては例外的なことであり、その断食の終わりにイエスさまが空腹を覚えられたことも、聖書は率直に記述しています。イエスさまは基本的に食事をしていらっしゃいました。 でも、イエスさまはなぜ食事をするのでしょうか? それはもちろん、人として栄養をお摂りになるためでしたが、福音書を読んでみますと、イエスさまがおひとりで食事をされたという場面は出てきません。 あえて挙げるとすれば、十字架の上で酸いぶどう酒を受けられたという箇所くらいですが、これを「食事」に含めるのはかなり無理があります。福音書に収録されているイエスさまのお食事のシーンは、必ずだれかと一緒です。 これはどういうことでしょうか? イエスさまがご自身の肉体の必要を満たされたのは、だれかとの交わりをもってしたことだったことを、私たちに教えているのではないでしょうか? このことからわかることは、キリストのからだを満たし、保つことは、聖徒お互いの間の交わりを持つことから始まる、ということではないでしょうか。私たちのうちのだれかが、礼拝の時間にやってきたら、あとはだれとも話さないで帰る、というのでは、教会は少なくとも、その兄弟姉妹と愛し合うという機会を失ってしまいます。 コロナ下ということは、そのような交わりを持たせなくするという意味において、きわめて悪魔的です。このような状況がずっと続いていることに、どこへも持って行きようのない怒りの声を上げたくなります。 しかし、どうかご理解ください。これはまともなことではないのです。交わりによってお互いが豊かになるということをしない教会は、本来の役割を果たしていないのです。その、本来の役割を果たさないまま続いていることに、私たちは慣らされてはなりません。 私は韓国の神学校にいたとき、友達もいないで、学生食堂でひとりでご飯を食べることの多い者でした。すると、たいてい、ほかの神学生がずんずん近づいてきて、「なんで一人で食べているんですか?」と声をかけてきて、私の向かいの席に座ったものでした。あの頃、私は留学生活でストレスがたまることも多く、そんな親切に対して、ほっといてください、といいたくなることも多かったのですが、いまにして考えると、あれはほんとうにありがたいことで、気を遣ってくれた神学生のみなさんは、キリストのからだということをよく理解しておられたのだなあと思います。 あの頃私は、自分のことしか考えられず、食事というものに対して神さまが与えておられる役割をよく理解していませんでした。ご飯を食べることは交わりのためにすることです。いえ、ご飯だけでしょうか? 何もかもみな、交わりを持つためにすることです。 いま、私たちは教会で会食をすることはしていません。それは衛生のためであり、外部の人への証しのためでもあります。 しかし、そうであっても、私たちから交わりというものそのものが失われたわけではありません。このような中でも私たちは交わりに飢え渇き、会話を交わしています。これは当たり前のことです。なぜなら、キリストのからだなる教会とはそうあるべきだからです。 イエスさまが喜ばれたように交わりを喜ぶ、この祝福が与えられていることを感謝したいものです。 今日は、私たち教会はキリストのからだとしていかなる存在かということを学びました。イエスさまは単に休まれたのではありません。御父との交わりを持たれました。私たちも御父との交わりをともに持つのです。イエスさまは単に食事をされたのではありません。私たち人と交わりを持たれたのです。私たちも兄弟姉妹との交わりを持つのです。そのようにして、キリストのからだとして生きる生き方を全うして、主に喜ばれる私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

教会とは何か

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:1~3/メッセージ題目;教会とは何か  うちの教会の日曜礼拝は今年に入ってから、ヨハネの黙示録を中心に学んでまいりました。それは、コロナ下という世相の中で、世の終わりというものを意識する私たちが、みことばをベースにいかに生きるかを追求する思いで本文を選ばせていただいたからでした。  しかし、私自身がメッセージ作成のために学びを続けているうちに、世間の雰囲気は変わりました。このようなウイルスの流行に一刻も早く歯止めをかけようと、ワクチンが開発され、承認され、多くの人が接種するようになりました。うちの教会でも何人もの信徒さんがワクチンをすでに接種されました。社会的に終末を意識するというより、悲惨な状況を克服しようという雰囲気が起きつつあります。  このような中でも、終末意識に満ちた黙示録からのメッセージを続けることが、果たしてふさわしいことだろうか……祈らされているうちに、私たちにもっと必要な学びは、もう少し現実的なことに対応したことではないかと気づかされました。 コロナ下という状況がまだ続く中で教会がなかなかひとつになれない、来られる人もいれば来られない人もいる……。そのような中で、私たちがこの水戸第一聖書バプテスト教会に連なっているとはどういうことかを、あらためて学ぶ必要があるのではないか……そのような結論に達し、当初の予定を変更し、教会とは何か、ということを学びたいと思います。 ヨハネの黙示録についての学びは、いずれ機会が巡ってきましたら、また学びを再開したいと思います。楽しみにしていらっしゃった方には申し訳ありませんが、ご理解をよろしくお願いいたします。 今日の箇所は私たちにもなじみの深いコリント人への手紙第一の、冒頭の1節から3節までのみことばです。この3節分の箇所を特徴づけるみことばは、なんといっても2節のみことば、教会というものを説明しているみことばです。 コリント教会に充てられたパウロの手紙は、聖書には第一と第二の2通が合わせて収録されていますが、この中でも第一の手紙を読んでみると、特に前半の部分で、かなりきわどい問題が取り扱われているのがわかります。 しかし、それだけではありません。この書簡においては、キリストのからだとしての教会においてわれわれ信徒がその器官であり、手足であるということ、また、愛というものについて美しい表現で語られていること、聖徒の復活について……こういう大事なことも、手紙の後半部分で取り扱われています。ともすると抽象的な表現が多用されている雰囲気のあるローマ人への手紙に比べ、コリント人への手紙第一の方はかなり実際的です。そのような両面性を持つこの書簡において、パウロが最初に語っていることは、教会とは何か、ということです。 この2節のみことばから、教会とは何かということを、私たちは3つのポイントから教えられます。順に見てまいりたいと思います。 第一に、教会とは主イエス・キリストの名が呼び求められるところ、どこも、です。 2節の前半をお読みします。……コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに…… このみことばからわかることは、コリントの教会も、いたるところで主イエス・キリストの名を呼び求める人たちとともに、神の教会である、ということです。同じ神の教会であるということです。その教会はエルサレムに始まり、だんだんとあちこちにできつつあり、コリントの教会もその一つだということです。こんにちにおいては世界中にあり、この水戸第一聖書バプテスト教会もそのひとつです。 何をもって「教会」というのでしょうか? それは「イエス・キリストの名を呼び求めている」ことによってです。イエス・キリストの名が呼び求められていないならば、それは名前だけの教会にすぎません。しかし、イエス・キリストの名前が呼び求められているならば、そのような人の群れは、教会と名乗るにふさわしい存在です。 イエス・キリストの名前を呼び求めることはあたりまえのことではありません。ヘブル人への手紙11章6節にはこのようにあります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 イエスさまは神の御子、すなわち神さまであられる以上、このみことばの「神」を「イエスさま」に置き換えても意味は通じます。 イエスさまに近づく者は、イエスさまがおられることと、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じなさい。しかし、イエスさまがおられることを信じ、それ以上に、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じるには、信仰が必要です。 この信仰を人に持たせてくださるのは、聖霊なる神さまのお働きによることです。つまり、イエスさまの御名を呼び求めることは、聖霊なる神さまの恵みがあって初めて可能なこと、成り立つことです。 この、聖霊なる神さまのお働きが臨む恵みによって、イエス・キリストの御名を呼び求める群れは、教会と呼ばれるにふさわしい存在です。 すると、こういう人がいるかもしれません。「イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会と呼んでいいのでしょうか?」この問いに対する答えは「イエス」でもあり「ノー」でもあります。まず、大前提として、この問いに対する答えは「イエス」、イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会です。 それでは、これが「ノー」となるケースは、どんなケースでしょうか? それは、イエス・キリストの御名を呼び求めておきながら、牧師のような教会リーダーを神格化したり、イエスさま以上に大事なものが教会にあったりするケースです。それはカルトであり、異端です。彼らはイエス・キリストの御名を呼び求めているように見えるのでわかりにくいですが、実際のところは、別のものを崇拝しています。 第二列王記17章を見ると、アッシリアによってイスラエルが滅ぼされた後、サマリアに入植した国々の民は、主なる神さまを礼拝するのと同時に、それぞれの民族の神々も同時に礼拝したとあります。ひどいケースになると、自分たちの宗教的慣習で子どもを火で焼いたとまであります。そんな彼らも、主を礼拝しているにはしています。しかし、そのような者たちは、ほんとうの意味で主を礼拝していると果たして言えるでしょうか? それと同じことで、呼び求めるべきはイエス・キリストの御名だけです。イエス・キリストの御名「だけ」を呼び求めている、すなわち、イエスさまの御名だけに拠り頼んでいる人々こそ、「教会」と呼ばれるにふさわしいのです。 私たちはともすると、イエスさまの御名だけを呼び求めることに満足せず、まるで偶像のような存在を教会に持ち込んでしまいかねない存在です。もし私たちがそうなってしまうなら、もはや私たちは教会ではなくなるのでしょうか。しかし、私たちは過度に心配することはありません。聖霊さまがイエスさまの御名を呼び求める信仰へと導いてくださっている以上、私たちがもしも間違った信仰の歩みをしているならば、聖霊なる主ご自身が私たちの歩みを軌道修正してくださいます。 私たちは恐れることなく、主に拠り頼んでいいのです。私たちは主イエスさまの御名を呼び求めるゆえに、主の教会、主のものです。心から感謝して、主の御名をほめたたえましょう。 第二に、教会は、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人々の集まりです。 2節の中間にあるとおりです。私たちは「聖なるもの」なのです。驚くべきことではないでしょうか? この罪深い自分の身を思うならば、私たちはどれほど「聖」ということから遠い存在でしょうか? しかし神さまは私たちのことを「聖なるもの」にしてくださったのでした。 それではどのようにして「聖なるもの」となるのでしょうか? 日本においては「聖」と書いて「ひじり」と読むように、一般的な人々には、「聖」の領域に達するには、俗世を捨てて、ひたすら修行に励むというイメージがないでしょうか? しかし、私たちが「聖なるもの」になるのは、私たちの人生経験や努力によることではありません。イエス・キリストによると、このみことばは語ります。イエス・キリストとあります。キリスト、つまり、救い主なるイエスさまが、私たちを救ってくださり、私たちは聖なるものとなるのです。 私たちは本来、罪ゆえに、神さまに向かって越すことのできないギャップを前にしていました。人間は神々をこしらえて、それに礼拝することで聖なる存在になることを目指しました。よい行いを積み重ねることで聖なる存在になることを目指しました。人間理解を深め、人々を啓蒙することで聖なる存在になることを目指しました。しかし、人は何をどうしても、聖なる存在になることはできませんでした。なぜなら、自分の中にある「罪」の問題が解決されていなかったからです。 人に罪があるかぎり、聖なる神さまは、きよい神さまは、人を受け入れることはできません。 しかし神さまは人を愛しておられ、人が罪の中に滅びることを見過ごしにはできません。神さまはどのようになさったでしょうか? 人の受けるべき罪の罰を、神のひとり子イエスさまが十字架の上で身代わりにお受けくださることによって、人を罪と死から救い出してくださいました。 こうして、イエスさまの十字架を信じ受け入れた人は、聖なる存在にしていただきました。ここからわかることは、聖なる存在になることは「ひじり」のような人間的努力によることではなく、神さまの恵みによることだということです。神さまがご計画のうちに、私たちのことを救いに定めてくださり、聖霊なる神さまが私たちのことを、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださり、そうして私たちは聖なるものとなります。 それが、聖なるものとされる、ということです。私たちは信仰の先人の偉大な業績を見ると、それが聖書の登場人物であれ、世界や日本の歴史に残る人物であれ、自分は到底あのようになれない、自分はなんてけがれているのか、俗っぽいのか、とお思いでしょうか? それで落ち込んだり、あるいは、あの人たちは特別でも自分は関係ない、と思ったりしますでしょうか? しかし、私たちはそう思う必要はありません。私たちもまた、神さまによって聖なる存在としていただいています。このことをもっと私たちはしっかりと受け止め、神さまに感謝をしてまいりたいものです。 考えてみてください。第一コリントを読み進めていくと、このコリント教会の信徒たちはいったい「聖なるもの」と呼んで大丈夫なのだろうか、と思えてきはしないでしょうか? あまりにもとんでもない生き方をしています。しかしそれでも、彼らは聖なるものなのです。 同じことで、私たちも聖なるものとされています。私たちは自分の罪深さや平凡さを見て、落ち込むことはないのです。私たちはもはや、罪人として振る舞う必要はなく、聖なるものとして生きることが求められています。 そこで第三のポイントにまいります。教会は、聖徒として召された人たちの集まりです。 みなさん、「召された」ということばを、私たちはどのように用いていますでしょうか? 先日、私たちの兄弟が天国に行かれましたが、こういうとき私たちクリスチャンは「召される」という言い方をします。また、何らかの職業をもって神さまに献身するような人に対しても、「召し」ですとか「召される」ということばを使います。 私が牧師の働きに就き、その働きを曲がりなりにも12年にわたって続けてこられたのは、神さまの「召し」があったからです。 そこでこのみことばに戻りますが、「聖徒として召された」とは、この地上に生きながら聖徒としての生き方をするように、神さまに呼ばれ、導かれている、ということを意味します。 聖徒、クリスチャンと言い換えてもいいですが、クリスチャンであるということは、立場ですとか、肩書ですとか、そういったこと以上の意味があります。「生き方」です。あるクリスチャンの方からお聞きしたことですが、その方は自分の信仰を「キリスト教」と呼ぶことに納得していない、というのです。その方はおっしゃいました。「言うなれば『キリスト道(どう)』です、いや、もっと言えば『キリスト命(いのち)』です。ほら、観光地なんかの落書きで、恋人の名前を書いて、だれだれちゃん命、なんて書いたりするでしょ? あれと同じです。」 聖徒として召されている、それは、聖徒として生きることが神さまに求められている、ということです。キリスト命、キリストのいのちをわがいのちとして生きる生き方です。さきほど第一のポイントで、教会とはキリスト・イエスの御名を呼び求める群れであることを学びましたが、私たちがイエスさまの御名を呼び求めるように、神さまも私たちに求めていらっしゃいます。あなたがたは、地上でわたしのこころを実現してほしい、実践してほしい。 聖霊なる神さまは、人を信仰告白、救いに導いてくださるお方ですが、それだけではなく、私たち聖徒が神さまのみこころを守り行うようにつねに励まし、導いてくださるお方です。私たちは毎日、聖霊なる神さまが聴かせてくださるさやかな御声に耳を傾け、その導きにお従いすることによって、聖徒として召された存在として生きることができます。そのために私たちは、毎日みことばをお読みし、お祈りをするわけです。 聖徒として召されているということは、私たちの生活からふさわしくないものを取り除いていくことが求められているということです。先週、上の娘が小学校の卒業アルバムを持ち帰ってきて、その中に載っていたクラスメイトのいろいろな将来の夢を面白く読ませてもらいました。パティシエ、ユーチューバ、消防士、獣医師、変わったところでは県庁の職員……。 そんな彼らが大人になったとき、もし、パティシエの仕事に慣れてきて、めんどうくさい、いちいち手なんて洗わなくていい、などとなったらどうなるでしょうか? 食中毒が起こるかもしれません。消防士の仕事に慣れてきて、訓練をいいかげんにしていたらどうなるでしょうか? いざ火事や救命活動となったとき、まともに働けません。 私たちが聖徒の召しに従う生き方も、それと同じです。私たちは聖なる存在となるために一切努力する必要はありませんでしたが、聖なる存在としての召しに忠実になるためには、主に拠り頼みつつ努力する必要があります。週に一日の時間を聖別し、礼拝をおささげすることも、毎日主の御前に出て、みことばをお読みしてお祈りすることも、普段の生活の中で主にお従いする生き方を祈りつつ実践していくことも、みな一定の努力が必要です。どうせ何をしても救われているとばかりに、だらけた生活をしているならば、果たして神さまはそんな私たちのことを喜んでくださるでしょうか。 私たちはこの、水戸第一聖書バプテスト教会という教会を形づくる者として、イエスさまをともに呼び求めることのできる恵みが与えられていることを感謝しましょう。イエスさまを信じる信仰が与えられて聖なるものとしていただいたことを感謝しましょう。そのように聖なるものとされた私たちが、ますます聖なるものとしての歩みを確実にしていくことができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「さばきの日、わざわいの日」

聖書箇所;ヨハネの黙示録8:1~13/メッセージ題目;「さばきの日、わざわいの日」 今年初めに発行した年報や月報をご覧いただきますとお分かりのことですが、私が今年に入って「ヨハネの黙示録」の講解をすることにしたことには、いまコロナ下ということで、世の終わりというものをとても感じさせるご時世であり、このような時代にあって、世の終わりについて詳しく綴るヨハネの黙示録から学び、世の終わりに備えていこう、という大きな目的がありました。 ヨハネの黙示録は、世の終わりについてかなり独特な表現でつづられた書です。多くの箇所に、大バビロンと表現されたサタンの勢力の描写、ならびにその勢力が究極のさばきを受ける描写が登場するなど、震え上がるような描写がこれでもかと登場します。私たちは読んでいて、このような終末に自分が巻き込まれたらどうしよう、と思ったりしないでしょうか? しかし、ヨハネの黙示録は、終末の絶望だけを説くみことばではありません。いやむしろ、天上の礼拝、究極の礼拝に私たちを招くみことばであり、それこそがメインのテーマというべきです。私たちがこのヨハネの黙示録を読んですべきことは、世の破滅を思って震え上がることではなく、永遠の御国を思って希望をいだくことです。 とはいいましても、このヨハネの黙示録の講解メッセージをするにあたり、世の終わりの破滅的な様相について語ることは避けられません。はっきり書いてあるからです。しかし、あくまで語り手である私がすることは、そのさばきそのものをことさらに取り上げて、いたずらに恐怖心をあおることではなく、そのような終末の様相を迎えようとも、なお主にまことの希望を置くように語ることです。それでは、今日の箇所の学びを始めてまいりましょう。 今日の箇所は3つのポイントに従って分けられます。それぞれにキーワードがありますが、それらはみな、数字で特徴づけられます。順番に、1番目が7つ目の封印と7つのラッパで「7」、2番目が4つの災いで「4」、そして3番目が「7引く4」の「3」です。7、4、3の順に見てみましょう。 まずは第一の「7」、7つ目の封印と7つのラッパです。6章において、子羊は巻物を封じた7つの封印のうち、6つの封印を解きます。それがみな、わざわいを告げ知らせるものであったこと、7章に入ったら、天上の礼拝の場面へと展開することは、すでに学んだとおりです。 そしていよいよ、7つ目の封印が解かれます。するとこのとき、さばきが即座に行われるのではなく、「天に半時間ほどの静けさがあった」のでした。ここでは、主に叫び求める大声も聞こえません。主をほめたたえる大声も聞こえません。何の声も、音もしないのです。 この静けさは何を意味するのでしょうか。嵐の前の静けさ、ということばがありますが、天が、今にも神さまが怒りを地に注がれようとしていることに、粛然として怖れをいだいていることを示しているといえます。 この静けさの中で、7人の御使いに1つずつ、合わせて7つのラッパが渡されます。これもまた、終わりの日のさばきが行われようとしていた、ということで、その恐ろしさを思うと、天地は震え上がろうというものです。 ここまでの幻では、7つの封印が解かれていますが、7つの封印が解かれることと、7つのラッパが吹き鳴らされることは、どちらも同じ、世の終わりの破滅的な様相を、別の観点から語っているということであり、できごとが時系列に沿って展開するというわけではありません。時系列で解釈しようとすると、あちこち矛盾が生じてきます。これは、終わりの日のさばきを、別々の観点から示したものなのです。 ともかく、このとき世界は静けさに支配されていました。世界はさばきの前に恐れて口をつぐんでいました。しかし、ここにはもうひとつの解釈が成り立ちます。それは、聖徒の祈りです。聖徒の祈りはかぐわしい香のごとく御前に立ち上っていますが、それは静かな祈りだった、ということです。 私はかつて、沈黙したまま時を過ごすという体験をしたことがあります。それは韓国にある「フィルグリムハウス」という祈祷院でのことで、普通韓国の祈祷院というと、大声を上げて山にこもってお祈りする、というイメージがあっただけに、人々がいてもまるで会話しないでいる様子は、最初かなり戸惑いました。 しかし、慣れてくると、ああ、私たちはなんと、騒々しいことに慣れていたのだろうか、と、神さまの御前で自分を見つめ直す、とてもよい時間となりました。そのような場所においては、もはや叫ぶようなお祈りは必要ありませんでした。 沈黙するということは、神さまとのコミュニケーションを断ち切ることではありません。むしろその反対で、神さまは沈黙のうちにささげるお祈りを、しかと聴き届けてくださいます。 ヨハネの黙示録6章11節で、祭壇の下にいる殉教者たちがさばきを求めて叫ぶ祈りをささげていたとき、主が彼らに、殉教する聖徒たちの数が満ちるまでもうしばらくの間休んでいるようにと言い渡されましたが、この「休んでいるように」ということばが「静かにしているように」とも訳せることは、前の学びでお話ししたとおりです。そうして、殉教者の祈りは、憤りを晴らすがごとき叫ぶ祈りから、神の怒りに委ねる静かな祈りへと変わったのです。 そして5節をお読みください。このように聖徒たち、主の御名のゆえに地上で苦しみ、傷ついた聖徒たちがささげる祈りは、やがて天に満ち、神の怒りとなって地にぶちまけられます。ここから、7つの封印が解かれた巻物が、7つのラッパへと引き移っていくのです。 そこで私たちは、聖徒たちにふさわしい祈りというものを考えてみたいと思います。もし私たちが、だれかに対して恨みをいだいていて、その恨みを晴らしてくださいと神さまに叫びつづけたとしても、その恨みが一向に晴らされないならば、私たちはむなしさを覚えたりはしないでしょうか? ローマ人への手紙12章19節のみことばをご覧ください。……これが、神さまが私たちに願っていらっしゃることです。なのに私たちは、なんと誰かに対する怒りの中にとどまり、そんな自分をあらゆる形で正当化するのでしょうか? たしかに、怒りを手離すのは難しいことです。私は長年の韓国とのお付き合いでそれを痛感してきましたし、最近も、会津若松の大学を卒業したある牧師先生から、その地域の人たちは150年もむかしの戊辰戦争の影響で、いまだに山口県の人を許せないでいると聞いて、これは韓国の人が日本に対して抱く感情以上に深刻だ、と思ったものでした。 しかし私たちクリスチャンは、神さまがその義にしたがって悪者に怒りを下されることを知っている以上、私たちの持つ怒りを神さまの御手にお委ねすることができる存在です。これは「特権」とさえ言えることです。私たちが怒りを晴らしたところで、たかが知れています。 しかし、神さまが怒られたとするとどうでしょうか? 私たちの目の前にある天地はすべて滅びます。ありえないほどの破滅をもって消え去ります。悪者はことごとく火の池に投げ込まれ、昼も夜も永遠に苦しみを受けます。神さまの子どもたち、神さまのしもべたちを苦しめるということは神さまのひとみに触れることであり、それだけの報いを受けて当然なのです。 よく読まれるイザヤ書43章4節のみことば、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」この節には続きがありまして、こうなっています。「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民(くにたみ)をあなたのいのちの代わりにする。」私たち神の民はこれほどまでに、主の敵、すなわち私たちの敵に究極のさばきが下されるほどに愛されているということです。 その神さまの怒りが、神さまの時にしたがって下されるまで、私たちのすることは、怒りに従って行動することではありません。神さまへの従順です。愛の実践です。敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい。敵が飢えたならば食べさせなさい。渇いたならば飲ませなさい。 私たちは人を愛し、奉仕するように召されていますが、自分に敵対する人だからとその愛と奉仕の手を控えるならば、普通の人と何ら変わるところがありません。私たちは主のしもべです。だからだれに対しても愛と奉仕を実践しつづけるのです。たとえ相手が神さまを嫌い、自分を嫌う人であったとしても、愛と奉仕を控えてはならないのです。 そういう人の頭に燃える炭火を積むのは私たちではありません。神さまです。これほどまでに私たちを苦しめ、私たちが下手(したて)に出るのをいいことにマウンティングすることをやめない、そんな人は必ず、神さまがご自身の時にしたがってさばきの手を下されます。 怒りの叫びを上げずに静かに祈りつづける……それこそが、終わりの日に向けて私たちがすることです。その祈りの香の鉢がいっぱいになるまで、私たちは祈りつづけるのです。なすべき従順の行い、愛の行いに、あくまで専心することです。神さまがご自身の時に働いてくださいます。私たちは、祈りが報いられ、主がご自身の時に正義を地上に実現されることを信じて、祈りつづけ、従順の歩みを続けてまいりましょう。 二番目の鍵となる数字、「4」、これは、「4人の御使いが吹く4つのラッパ、それに伴う4つのさばき」です。静けさのあとにつづくのはけたたましいラッパの音です。ラッパは、さばきの訪れを象徴しています。7節から12節をお読みします。……これらのさばきは、モーセの時代のイスラエルが出エジプトを果たしたとき、神さまがエジプトに下されたさばきの再現とも見ることができます。 第一のラッパのさばきは、雹が落ちてあらゆる作物、人も家畜も被害を受けたことを連想します。第二、第三のラッパのさばきは、ナイル川が血になって水が飲めなくなったことを連想します。そして第四のラッパのさばきは、暗闇が地を覆ったことを連想します。 この出エジプトに際してのさばきは、神さまが、ご自身の民イスラエルの叫び求める祈りに耳を傾けてくださったことから下されたものであり、その証拠として、雹のさばきと暗闇のさばきは、イスラエル人のいるゴシェンの地には臨まなかったのでした。 同じことが、この世の終わりに際してこの世界に下されます。世界はあらゆる形で破滅に向かいます。 しかし、ここで注目すべきことがあります。ここで破滅しているものは「3分の1」であり、ということは、3分の2はまだ残されている、ということです。これは何を意味するのでしょうか? このようなさばきのただ中にあっても、神さまはまだ、地の民に対し、悔い改める余地を残していらっしゃる、すなわり、救われるチャンスを残していらしゃるということではないでしょうか? そうなったとき、人のすることは2つに1つです。悔い改めるか、悔い改めを拒絶するかです。イスカリオテのユダのことを思い出しましょう。イエスさまは、イスカリオテのユダに対して、最後まで兄弟、弟子として接されました。主のみからだと見込んで、最後の晩さんのパンとぶどう酒を分けられたのでした。それだけでしょうか? 足を洗ってくださり、ユダのしもべにまでなってくださったのでした。最後まで、これでもか、これでもか、と、悔い改めの機会を与えつづけてくださったのでした。それなのにユダはその場を飛び出し、大祭司のところに行って、イエスさまを十字架につける手引きをしたのでした。 かつてどこかで読んだ本の中で、イエスさまは、ご自身が十字架におかかりになって人類を救うというご計画を、ユダを用いて成し遂げられたのだから、ユダは救われて天国に入れられている、という意味のことが書いてあったのを読んだことがありますが、冗談ではありません。ユダは、最後まで与えられていた悔い改めの機会を自ら逃す選択をしたことによって、悪魔にたましいを売ったのでした。私たちは、こんなもっともらしい説に惑わされ、ユダも主を売る罪を犯したが用いられたのだからと、罪を犯す選択をする自分を正当化する愚かなことをしてはなりません。 今のこの世界もそうです。この4つの災いの示すような天変地異、事件、事故は、現実に私たちが生きている世界のあちこちで姿を見せています。ことに、10節のみことばに出てくる「苦よもぎ」は、ロシア語で「チェルノブイリ」です。これは知る人ぞ知る事実ですが、このことが例の原発事故に関連づけられて知られるようになるにつけ、震え上がった人も多いのではないでしょうか。しかし、そういうあらゆることを見てもなお、人は、救われようと神さまの御前に出る選択をする人と、神さまの御前に出ない選択をする人に分かれます。 私たちが今こうして、救いをいただいていることは感謝です。イエスさまを心に受け入れるべく、聖霊なる神さまが私たちに働いてくださるという、神さまのみわざを体験させていただいたからです。 この恵みが、この終わりの時に、ひとりでも多くの人に臨み、ひとりでも多く救われるように、私たちは祈る必要があります。破滅的な現実を見て恐れても、それで絶望してしまうのではなくて、神さまに立ち帰るように……。私たちは恵みにより、破滅から救っていただいた存在ですが、その救いが私たちだけにとどまることなく、みなに伝わり、ひとりでも多くの人が神の怒りと破滅から救われるように、祈ってまいりたいと思います。 三番目の鍵となる数字、それは「7つのラッパ引く4つのラッパ」、つまり「3」ですが、これは13節に登場する、1羽の鷲の大声にあらわれた「わざわいが来る」ということばが、3度繰り返されていることとも照応しています。 もともと吹き鳴らされるラッパは7本です。7つのラッパは完全に吹き鳴らされるのです。しかし、これまでの4つのラッパの呼び起こしたわざわいだけでも、地とそこに住む人はどれほどの災いをこうむったことでしょうか。それでも神さまのさばきは容赦されません。ご自身が一度定められたさばきは、完全に成し遂げられるまで行われるのです。 神さまがさばきを成し遂げられるのは、この地上の悪が完全に滅ぼされるためです。この世にすがっている人々はもしかすると、この終末のシナリオを知らないか、知っていても認めないかするかもしれません。しかし、私たち主の民は、こうして聖書が与えられている以上、今このようにして、この世界の終わりに臨む完全なさばきを知っています。 私たちは主と交わるならば、この世界がどんなに悪いか、いえ、それ以前に、以前の私たちはどんなに悪い人間だったか、思い知ることになります。私がクリスチャンになったのは中学3年の時のことで、あとちょっとで上の娘がその頃の私の年齢に並びますが、振り返ってみてもつくづく、娘たちには、あの頃の自分のようになってほしくはない、と思います。 あの頃の私は、クリスチャンになったとはいえ、神さまと関係のない歩みをすることも多く、そのまちがった歩みはことばづかいや態度、生活習慣に色濃く表れていました。きっと顔つきや放つ雰囲気も、クリスチャンらしさなどとてもなかったことでしょう。思い返しても冷や汗が出ますが、私たちがきよめられていくならば、そのような者も変えていただき、人の悪、世界の悪を好む思いから憎む思いへと変えられ、この世界に主の御手が臨むことを祈らされるようになります。 しかし、ほんとうに私たちの祈るべきは、私たちだけが助かり、あとはみんなさばかれて世界が終わることでしょうか? 決してそうであってはならないはずです。むしろ私たちの祈り求めるべきことは「悔い改め」ではないでしょうか? 悔い改め。それは人に要求する以前に、私たち自身が率先して行うべきものです。この世界の悪に気づかされ、その悪が主の御手に取り扱われることを求めることは必要ですが、それならば、私たちは自分のうちにある悪を悔い改めなくてもいいのでしょうか? それでは、人の目のちりに気を取られ、自分の目の中の梁を取り除こうとしない、間違った態度でいることです。 この、世の終わりの究極的なさばきは、必ず起こることです。神さまがそうお定めになったからです。しかしそれなら、神さまはなぜこのさばきを、1900年以上にわたって控えてこられたのでしょうか? それは、地の果てまでみことばが宣べ伝えられて、それだけ主の御名に殉じる主のしもべの数が満ちるまでに時間がかかっていることもさることながら、そのような犠牲者を生まないだけの努力を、主のしもべたちがしてきたことも多かったと考えるべきです。 しかし、その努力はおかしな形で実を結ぶようにもなります。それは、教会を構成する者たちの堕落、という形でです。こうなると殉教者は生まれなくなるかもしれませんが、教会はこの世界に対して、何の影響も及ぼせなくなります。しかし、それでいいのでしょうか? そうなったとき、私たちは、自分たちは救われているから終末のさばきを免れている、と言うことが、単なる開き直り、また慢心、怠惰の表れにしかならなくならないでしょうか? 初めの愛から離れた教会は、燭台が取り除かれます。すなわち、御霊が去り、神さまから教会として認めていただけなくなるということです。キリストへの燃える愛がない教会が、いったいどうやって、福音にいのちを懸ける教会になりうるでしょうか? そのような教会になる前に私たちに求められていることは、もし自分たちにキリストへの愛がないことに気づかされたならば、どこで間違ったかを振り返り、悔い改めて、初めの行いである、神を愛し、人を愛する愛を実践することをすることです。大事なのは悔い改めです。 イエスさまの昇天からヨハネの島流しに至るまでの初代教会の歴史は、悔い改めの歴史でもありました。自分たちの悔い改めが宣教地の悔い改めとなりました。一例をあげると、魔術を行う者として神さまの怒りのさばきのもとにあった人が、救われて怒りのさばきから免れさせていただき、その証しに買えば相当な額になる魔術書をみんな火にくべたのでした。 こんにちもそうではないでしょうか? 神の怒り、神のさばきはもう定まっているとばかりに、絶望的になることも、好き勝手に生きることも、どちらも「悔い改めない」「神さまに立ち帰らない」という点では変わるところがありません。さばきは完全に行われます。わざわいは完全にやってきます。 そのさばき、わざわいから、人々が救われることを願い、ひとりでも多くの人が悔い改めるように祈る私たちとなりますように、いえ、人の悔い改めを求める前に、まず私たちこそ悔い改める者となりますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは悪が相当のさばきを受けることを祈りますが、それでも私たちは、現実に目の前にいる人のことを恨んだり、憎んだりしてはなりません。愛するのです。人々がその世界から救われるように、救われるべく悔い改めるように祈るのです。そして、この悔い改めと救いが実現するために、まず私たちから悔い改めましょう。私たちは何を悔い改め、何を祈り求める必要があるでしょうか?

「神のしもべたちへの報い」

聖書箇所;ヨハネの黙示録7:1~17/メッセージ題目;「神のしもべたちへの報い」  先々週、私たちの愛する兄弟が主のみもとに召されたのは、あまりに突然のことで、私もどのように受け止めたらよいかわかりませんでした。それ以上に、ご家族はどれほどショックをお受けになったことだろうか……私は牧師として、何と申し上げればいいだろうか。 翌日の土曜日の朝、遠くの地から、ご家族が駆けつけられたとお聞きして、私はごあいさつに伺いました。ほんとうに、なんと申し上げるべきだろうか……自分が沈痛な面持ちでいるのが、自分でもわかりました。  しかし、ご家族は開口一番、こうおっしゃいました。「いえいえ、天国に凱旋したんですから!」凱旋……このおことばに私は、兄弟が王さまのように、勝利した兵隊さんのように、天国の門へと行進していかれるイメージがわき上がってまいりました。どんなに救われた思いになったかわかりません。 私たち、主にあって召された者の終わりは、まさに、「凱旋」と呼ぶにふさわしいものです。それはたしかにさびしいです。その気持ちまで否定してはなりませんが、私たちはむしろ、喜んでもいいのではないでしょうか。 そして聖書は、だれでも体験する人生の終わりとともに、この世界の終わりについても語っています。ヨハネの黙示録とは、この書が書かれた当時、ローマ帝国とユダヤの宗教社会との挟み撃ちに遭い、たいへんな苦しみの中にあった初代教会の主のしもべたちが報われるという希望を語りつつ、のちの世のすべての聖徒たちがキリストゆえに迫害を受けるが、最終的には報われるというよき知らせを語る書です。 今日の箇所、7章は、6章までに展開する、封印がひとつひとつ解かれていくたびに現れる、絶望的な終末の様相とはきわめて対照的な、希望に満ちた天国の情景です。地の者たちはキリストを主と告白しないゆえに、大いなるさばきに服さざるを得ません。しかし天の御国においてはどうでしょうか? この地上で苦しめられた聖徒たち、神のしもべたちが、神さまから大いなる報いを受け取ります。どのような報いでしょうか? 3つのポイントからお話ししたいと思います。第一に、神のしもべたちは、神さまに守られて御国に入れられるという報いをいただきます。 6章に展開する破滅的な場面の中で、第五の封印が解かれた場面にかぎっては、やや方向が異なります。人が終わりの日の様相に苦しむことに変わりがなくても、第五の封印が解かれて見せられるビジョンにかぎっては、反キリストに対するさばきではなく、神のしもべたちに迫害が加えられて苦しむ、という場面です。 キリスト者もまた苦しみます。この苦しみは、私たちの師であり主であるイエスさまが十字架を背負われ、私たちもその御跡を自分の十字架を背負ってついていく者である以上、私たちもまた負わなければならないものです。避けることはできません。むしろ私たちは、積極的にキリストのために苦しむ道を選び取っていくべきです。 しかし、私たち神のしもべにかぎっては、苦しみは報いられるのです。その最たるものは、私たちキリスト者には、さばきは決して臨むことがない、ということです。 1節を見ますと、御使いが四方の風を押さえつけ、地上に吹きつけないように押さえている様子が見えます。その直前の6章12節から17節を見ますと、天地万物、森羅万象に天変地異が起こり、いよいよ終末のさばきが展開する様相が、絶望的な叫びとともに描写されていますが、そのさばきが実際に地上を襲うまで、御使いが地に吹きつける風、さばきを押さえつけている、というわけです。 旧約聖書を読みますと、エレミヤ書49章36節を読んでもわかるとおり、四方からの風はさばきを象徴しています。しかし、その終末のさばきが実際に地に臨む前に、そのときが来たるのを、主ご自身が御使いに命じて遅らせられる、というのです。それはなぜでしょうか? 私たち、神のしもべのゆえです。神のしもべが完全に召され、神さまのものとなる、そのしもべの数が完全に満ちるまで、主はさばきを控えてくださいます。 この、印を押された人の数、14万4000人について、少し解説したいと思います。これは実際に、ひとり、ふたり、と数えて、14万4000人というわけではないのは、お分かりだと思います。聖書には数の象徴がよく登場するのはご存じのとおりですが、3、という数字は、天におられる神さまが、父、御子、御霊の三位のお方でいらっしゃるように、天、を象徴します。そして、4、は、本日の箇所で「四隅」とありますとおり、「地」を意味します。私たちの住む世界がまるい、ということを、私たちは教えられていますが、私たちの感覚は、世界は「東西南北の四角いもの」ではないでしょうか。地は四角、つまり、4、です。 というわけで、天の「3」と地の「4」を足した「7」という数字、また、掛けた「12」という数字が、完全数、ということになります。ことに、ここで出てくる十二部族は、完全なイスラエル、神の民、という意味になります。 その神の民も部族ごとに見ると、12掛ける1000で1万2000人です。1000、という数も、聖書の世界では「生活感覚においてとても大きな数」です。「主の御前では一日が千年、千年が一日」というのも、一年、二年と数えての文字どおりの千年というよりも、かぎりなく長い時、と解釈すべきでしょう。ヨハネの黙示録に登場する「千年の間王となる」という、いわゆる「千年王国」も、この概念で理解されるべきものでしょう。 そうだとすると、各部族から1万2000人というのも、完全掛けるかぎりなく多い数、ということになります。そしてそれに12を掛けるならば、完全で完全な、とても多い数のしもべ、ということになります。完全というのは、神さまが完全であるということであるとともに、神さまによって完全にされたしもべは完全であるということです。 いやはや、この欠けだらけ、罪だらけなのが私たちではないでしょうか。そんな私たちが、完全な神のしもべに加えていただく恵みをいただけるとは、なんということだと思いませんか? しかし、それがみこころです。 そのように主に召される者の数が完全に満ちるまで、この地には破滅的なさばきは望まないことを主は約束してくださっています。実際、ヨハネの黙示録が語られてから1900年あまり、主は忍耐をもってこの世界の罪を見過ごしにしてくださり、さばきから免れさせてくださいました。 とはいいましても、私たち日本のクリスチャンがよく知らないだけで、世界各地には主の御名のために苦しみ、いのちを落としている兄弟姉妹が実に多くいます。気がついたら神のしもべの数が満ちていた、ということも有り得るかもしれません。私たちは、主の日はまだまだ先だ、とばかりに、この世界で快楽や安逸をむさぼっている場合ではないのではないでしょうか。 しかし、私たちがこの世界において、救われた喜びに満たされ、主のために積極的に苦しみを担っていくならば、主は必ず、私たちを終わりの日のさばきから守ってくださるという、報いを与えてくださいます。感謝しつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいと思います。 第二のポイントです。神のしもべたちは、天上の賛美に加えていただく報いをいただきます。 9節、10節をお読みします。……この9節の大勢の群衆が、神の民から召された14万4000人と同じか、ちがうかは議論が分かれるところですが、印を押された者たちは14万4000と数えられる、9節の大群衆は数えられない、よって別物だ、と断定するのは乱暴です。なぜなら、印を押された神の民の数はいま述べましたとおり、完全でとても多いということを意味する象徴的な数字であり、ある意味では「数えられない」ものであるという点、9節の大群衆とその点で同じだからです。 しかし、印を押された神のしもべはイスラエルの十二部族だから旧約の民、大群衆はすべての国民、部族、民族、言語に及ぶから、世界宣教が達成されて満たされた新約の民、と解釈する向きもあります。その場合、旧約の民と新約の民が合わさって完全な群衆になる、ということになるわけです。 どちらにせよいえることは、神さまと子羊イエスさまの御前に立つことが許された大群衆は、いかにたくさんいるとはいえ、全員が神さまに召された神のしもべであり、一人として欠けてはいない、完全無欠の神のしもべたち、ということです。神のしもべとしての要件を完全に満たしていて、その完全な神のしもべがひとりも欠けずに、完全な数で御前にそろっているわけです。 私たち一人ひとりも、その完全な大群衆の一人に加わっています。というより、私たちはその群衆に欠けていてはならないのです。私たちも全員加わって完全になります。信じますか? アーメンでしょうか? 神の民に加えられていることに感謝しつつ生きてまいりたいと思います。 そんな、私たちを含む神のしもべたちは何をするのでしょうか? そう、10節にありますとおり、主の栄光、主の救いをほめたたえるのです。 彼らは、天のお父さまのお導きによって、神の子羊イエスさまを救い主と信じ受け入れる恵みをいただきました。そのように救っていただいたゆえに、いまこうして天国に入れられ、神さまと子羊イエスさまの御前で大いなる賛美をおささげしているわけです。 実に、イエスさまの救いとは、天国において最もほめたたえられるべき主題です。神さまはなぜほめたたえられお方なのか? それは、神さまが救い主だからです。もちろん、12節の賛美のことばをお読みすればわかりますとおり、神さまはあらゆる賛美を受けるべき主権者でいらっしゃいます。 私がむかしキャンパス・クルセードのスタッフだった佐藤義孝さんからお聞きしたとおり、「私たちはなぜ神さまを賛美するのですか? それは、神さまだからです」ということばは、言い得て妙、以上に、それ以外に言いようがない真理であり事実です。 しかし神さまは、たんに恐いだけの主権者、人と関係のない主権者ではありません。讃美をお受けになるだけの理由をお持ちのお方です。神さまは、私たち神の民、神のしもべを永遠に救ってくださる主権者であるからこそ、賛美されるべきお方なのです。 では、私たちは何から救っていただいたゆえに、神さまを救い主とほめたたえるのでしょうか? いろいろ言えると思います。罪から救っていただいた。悪魔から救っていたただいた。地獄から救っていただいた。……しかし、なんといっても私たちが心に留めるべきことは、私たちが「神の怒りから救っていただいた」ということです。 ヨハネの黙示録6章の締めくくりで、地に住む者たちはなんと嘆いていますでしょうか?「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」現に私たちの世界を覆うあらゆるわざわい、環境破壊や天変地異、疫病の流行といったことを見聞きすると、私たち人間は、自分たちに等しく臨む神の怒りの片鱗を見る思いがするのではないでしょうか。神さまは怒っておられる。それゆえに、この世界は破滅的に破壊される。 しかし、私たちは神さまのこの大いなる怒りとさばきから救っていただいた存在です。聖霊の印が額に押され、神さまのものとされている以上、私たちは神さまの子どもです。神さまがご自身の子どもとしてくださった以上、破滅的な怒りをもって私たちのことをおさばきになることは決してありません。私たちは救っていただいているのです。 私たちの賛美は、神さまがこのように、大いなる怒りから私たちを救ってくださったゆえに、うれしくてたまらないのでおささげするものです。クリスマスの時期など特にそうですが、神さまの救いを知らない人、信じるつもりのない人が、たわむれに賛美の歌を歌うことは、人間的になにやら宗教的高揚感に浸る以上の意味はないはずです。気持ちいいから歌っているだけ。 もちろん私たちは、そういうことを通してでもノンクリスチャンの人々がその歌詞の意味に目が開かれ、救われるようにと願ってやみませんが、歌うことそのものは「歌」以上のものではなく、「賛美」ではありません。よもや私たちにとっての「賛美」が、そのような人間的な気持ちよさのレベルにとどまったものとなっていないか、よくよく自分自身の礼拝態度を点検する必要があるのではないでしょうか。 私たちが賛美するのは、救われた喜びをもって主にすべての栄光をお帰しするゆえです。それは、礼拝の時間に歌うことはもちろんのこと、普段の生活においても、その生活態度、具体的な実践のすべてをもって、救い主なるイエスさまをほめたたえるのです。 私は救っていただいたから、人々とお酒の席で盛り上がるような快楽に陥らない。私は救っていただいたから、だらだらとテレビやインターネットに没頭して無駄に時間を過ごさない。私は救っていただいたから、朝すれ違う町の人たちに笑顔であいさつの声をかける。私は救っていただいたから、からだづくりと楽しい食卓を目指して、腕によりをかけて料理をつくる。こういう生き方はみな、神さまへの賛美の実践です。 もちろん、できること、すべきことは、みなさまおひとりおひとりでちがうと思います。よくお祈りして、何を具体的に取り組めるか、まずはこの1週間にひとつでいいですから、考えてごらんになることをお勧めします。でもその動機は、「救われた喜びの表現」です。救われた喜びをわがものとして、感謝してください。そこから行いは生まれてきます。 最後に、第三のポイントです。神のしもべたちは、地上のあらゆる苦難が報われるという報いをいただきます。この大群衆は、白い衣を着せられていました。天国の民、主の御前に出る者としてふさわしい姿をしていました。その者たちはどこから来たか知っていますか? ヨハネはそのように問われ、私の主よ、あなたこそご存じです、と答えました。 天の御国の長老は何と答えたでしょうか?「この者たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」白い衣は、子羊の血によって洗われたゆえに白いのです。人の罪は緋のように赤いものです。しかし、その、だれもが持っている罪、ひどい罪を洗って白くしていただける唯一の道、それは、子羊イエスさまの血潮によって洗っていただく、ということです。 血によって洗ってきよくなる、という感覚は、羊を飼わない私たちにはぴんと来ないかもしれません。しかし私は以前、いまある神学校の校長先生をしていらっしゃる先生から、こんなお話を聞きました。モンゴルのような大平原で牧畜する地域では、車が必需品である一方で、壊れても直してくれるところなどないので、羊飼いは自分で車を直す必要があるそうです。そうして車を直すと、当然、手は黒い油まみれになります。その油を落とすのに、彼らは羊の血をバケツにとって、それに手を入れて洗うのだそうです。だから、羊の血できれいになるということが感覚的によくわかるのだといいます。 私は羊飼いではありませんが、これを聞いて、なるほど、子羊の血で洗って白くなるということは、牧畜を営んでいた聖書の民には感覚的にわかるのか、と腑に落ちたものでした。 それはさておき、このように子羊の血で洗っていただいて御前に立つ者は、「大きな患難を経て来た者たち」であると語られます。この、ヨハネの時代の聖徒たちがまさにそれにあたりました。 彼らはどんな約束をいただいたのでしょうか? 15節から17節です。この箇所の冒頭の「それゆえ」ということばに注目しましょう。患難を経て、子羊の血で白くされた、それゆえ、ということです。 このように、患難を経て、真に救われた者としてふさわしいことが証しされた者を御前に召してくださるという主の約束が示されました。このことに、この黙示を受け取ったヨハネも、現実に死と隣り合わせの迫害のもとにあったこの時代の聖徒たちも、どれほどの慰めをいただいたことでしょうか。 そしてこの慰めに満ちた約束は、のちの世の聖徒たちにも与えられ、そして今を生きる私たちにも与えられています。先週ご家族は、兄弟とのお別れに涙を流しましたし、私たちも兄弟をお見送りしてからも、兄弟のご意志を受け継いでさまざまな人たちのためにこの地で苦闘するならば、涙を流すことも一度や二度ではありません。しかし、天の御国においては、兄弟の涙はすでにぬぐわれていますし、私たちの涙もまた、神さまの御手によってぬぐっていただけます。 私たちも十字架を背負って主の御跡を従うならば、悲しみますし、苦しみます。しかし私たちのそのような悲しみも、苦しみも、終わりの日に天の御国にて報いていただけるのです。私たちはこのことにかぎりない希望をいだきつつ、今日の労すべき働きに取り組んでまいりたいものです。  私たちは世のさばきから守られ、天の御国に入れていただけます。私たちは神の怒りから救っていただいているゆえに、神さまを賛美する生き方に召されています。私たちのその生き方は十字架を背負う生き方ですが、終わりの日に大いなる報いをいただきます。永遠の喜び、永遠の安息に入れていただけます。 その日を目指して、今日も、明日も、労するための力と希望を、主は私たちに与えつづけてくださいます。 そのようにして私たちが、終わりの日にともに主の栄光を仰ぐ喜びを体験しますように、主の御名によってお祈りいたします。