罪きよめられた私たち

聖書箇所;コリント人への手紙第一6:1~11/メッセージ題目;「罪きよめられた私たち」 週報のコラムにも書きましたが、私は先日、かつて体験した弟子訓練に関する資料を見返す機会があり、むかしのことを思い出したりしていました。 弟子訓練――それは多くの時間を投資し、また、自分の中の足りなさが信仰の仲間たちとの共同体の中で取り扱われ、それだけに反省も多くさせられる時間でしたが、時間や労力の多くの犠牲を払った以上の喜びに満ちあふれた時間でもありました。 私は弟子コースの中では外国人でしたし、何よりも人生経験が圧倒的に不足していたので、ほかの訓練生たちほど成長できたようにはあの頃は思えなかったものでした。しかし、そんな私も来月48歳を迎え、あの頃のほとんどの訓練生の年齢を追い抜かした今となっては、その訓練の貴重さがあらためてしみじみと感じられるものです。 しかし、このように主の弟子として訓練されることを拒否し、そのくせ教会において権利を主張してはばからない人というのは、いるものです。私たち教会は、そのような歩みをしないためにどのようにみことばを学ぶべきでしょうか。 それでは本文にまいります。第一コリントもこのあたりまで来ると、かなり具体的に教会内の罪を取り扱うことばへと引き移ってまいります。先週は5章を学びましたが、父の妻を妻にする、姦淫の者を教会から除名するべきだったという、コリント教会にとっての相当に大きな問題を取り扱っています。 今日の箇所、6章においても、教会内の人間関係のありかたについての教訓と叱責が述べられています。1節のみことばからまいります。……ここでパウロが問題にしているのは、教会内でいざこざが起こったとき、その解決を自分たち聖徒の間でするのではなく、正しくない人に訴える、ということです。 正しくない人、というのは、神さまから見て正しくない人、という意味です。すなわち、人はイエスさまの十字架を信じる信仰により正しい者とされるのですから、正しくない者とは、イエスさまへの信仰とは関係のない人々、という意味で、つまり、この世の法廷、という意味です。教会内の問題を裁判所に訴える、ということに、パウロは苦言を呈しているわけです。 つまり、倫理的に正しくない者に訴えるな、ということではありません。彼らこの世の裁判官たちは倫理的になら正しい者だから、裁判をすることができるわけです。そうではなくて、クリスチャンたちは、イエスさまの十字架の血潮で罪が洗われていない者たちに訴えるな、ということです。 2節のみことばです。……聖徒は、世の終わりにキリストとともに世界をさばく者となります。私たちは主にあって、自分のことを評価すべきです。それなのに、自分たち聖徒はすべてをさばくことができる者だというアイデンティティを放棄して、この世の法廷で教会のことをさばいてもらおうとするとは、教会に与えられたきよさを否定することになります。それ以上にこのことは、教会をこの世と分けてきよくし、さばきの権威を与えてくださった、神さまのみこころを踏みにじることです。そのさばきの範囲は、どこまで行くのでしょうか。3節です。 ……御使いとは、神さまが人間よりも上位に置かれた存在です。しかし、その御使いを最終的にさばき、悪魔と悪霊という、神と人に罪を犯した霊的存在をさばく権限を、神さまはクリスチャンに与えられました。聖徒に与えられた霊的権威は絶大です。 4節をお読みします。……教会の中で軽んじられている人、とは、教会内の役員ではない末端の信徒、という意味ではありません。そもそも、末端の信徒という概念は、聖書的ではありません。聖徒の存在に上下はありません。だから、「末端の信徒」というものは教会にはいないと考えるべきです。そういうことではなくて、この「教会の中で軽んじられている人」とは、教会の外にいるこの世の人、という意味です。 コリント教会は思い上がっている群れであるとパウロは責めていました。コリント教会には特権意識がありました。普段は自分たち教会のことを、この世から選ばれた特別な存在と見なしていたことでしょう。しかし、それは主にあって謙遜な態度を生むのではなく、彼らを思い上がらせていました。彼らが実際にやっていることといえば、教会の外にあるこの世の権威、神から見て正しくない者の権威を正しいと見なし、その権威に委ねてさばいてもらっていたということです。これは、ダブル・スタンダードもいいところです。 5節のみことばをお読みします。……パウロはここで、何を問題にしているのでしょうか。聖徒は御使いさえもさばく者であるという、聖徒本来のアイデンティティと権威を身に着けて、教会を運営するようなリーダーが存在しないことを、パウロは問題にしています。そのアイデンティティに根ざした実行力があるならば、聖徒の間の問題を解くことはできたはずです。それさえもできていないとは、あなたがたはなんと、神に選ばれた聖徒としてふさわしくないのか、聖徒として恥ずかしいことだ、と叱責しているわけです。 6節です。……このように、この世の法廷に教会内のいざこざが持ち込まれるということは、どういう結果をもたらすでしょうか? この世の者たちが、教会をそのような程度の低い団体としか見なくなるということです。そもそも、法廷というものは、人が日常茶飯事のように利用する場所ではありません。よほど解決しがたい問題が起こったときに用いるものであり、だからこそ訴訟ということは大ごとになるのです。 本来、教会内で解決していれば済んだ話が、教会外の法廷に持ち込まれると、どうなるでしょうか? 所詮教会とはそのようないざこざに満ちたよくない場所、としか未信者に思ってもらえなくなり、証しにならないことこの上ありません。それによって宣教、神の国の拡大は進まなくなります。教会が内部においてさばきの権限を行使しないということは、これほどまでのマイナスの副作用をもたらすことになるのです。 7節のみことばです。……このようなことをパウロが言うのはなぜでしょうか? 泣き寝入りをするのがみこころだ、とでもいうのでしょうか? もちろん、そういうことではありません。クリスチャンにとっては赦しというものが何にもまして優先されるべきである、ということをパウロは言いたいのです。自分は神に選ばれている、それはたしかにそうなのですが、それが、自分という人間は特別である、自分が基準だ、などとなったら、様子はちがってきます。 コリント教会の問題となっていた信徒は、自分の正しさは主張したかもしれません。しかしその正しさは、神の正しさとイコールではありません。もしそれが神の正しさならば、罪を赦すイエスさまの十字架に対する信仰を人間関係の中で働かせてしかるべきだからです。しかしその人はそれをせず、相手をさばくことしかしない、それも、みことばではなくてこの世の法律に訴えて……ということです。そのような神さまの愛が存在しない自己中心の姿勢を、パウロはこのような表現を用いて、激しく糾弾しているわけです。 8節のみことばです。……そのようにして自己中心で兄弟をさばくあなたは何をしているのか。主の愛で愛すべき兄弟に対して不正を行なっているではないか、だまし取っているではないか……パウロは、主にある兄弟に対して罪を犯す者を非難しています。 彼らコリントの問題信徒は、自分が被害を受けたらこの世の法廷に訴える、という、さばきの権威を与えられた神さまのみこころをないがしろにする罪を犯していただけではありません。なんと、兄弟に対して罪を犯していた、という、もっと根本的な悔い改めるべき罪があった、というわけです。まさにイエスさまのおっしゃっていたとおりの、兄弟の目からちりを取り除かせてくださいという、その自分自身の目に、梁がある、という状態だったわけです。 このような、コリント教会の問題信徒たちが行なっていたという不正が実際はどのようなものだったかは、みことばは具体的にくわしく述べてはいませんが、少なくとも、それは一般的な倫理や法律に照らして不正であるということよりも、主のみことばの基準からしたら不正である、みこころにかなわないことである、ということは確かです。 しかし、コリントの信徒たちは、もともとがそのようなみこころに反するさまざまなことを平気で行う者たちの中から、イエスさまの十字架の贖いを信じて救われた者たちです。もともと彼らコリント人、というより、この世の者たちはどのような者だったのでしょうか。9節と10節をお読みしましょう。 ここではまず、9節と10節に分けて読んでまいります。まず9節ですが、これはすべて、このリストの先頭に出てくる「淫らな行い」ということでひとくくりにできる内容です。淫らな行いとはすなわち第一に、偶像を拝むということです。 コリントはほかのギリシャの都市がそうだったように、神々の精神風土、偶像礼拝の都市でした。偶像の神々を礼拝することは常識であり、彼らにとっては美しい文化でさえありました。しかし、まことの神さまの御目から見れば、それがどんなに美しく思えようと、それは神さまを離れ、悪魔悪霊と交わるということです。つまり言い換えれば、神のかたちとして創造された人間が、神ならぬものと霊的姦淫を行うということです。ゆえに、淫らな行いとは何よりも、偶像を礼拝することです。 姦淫する、男娼となる、男色をする、これらはすべて、人間の性的な問題であり、性的な不道徳を指していますが、みなこれはコリントの神々の祭りで行われていたことであり、根本にあるものは、偶像礼拝という名の霊的な姦淫です。偶像礼拝の表現として、彼らは相手が女性であれ男性であれ、いやらしいことをしたわけですが、注意すべきは、偶像礼拝という霊的姦淫は、人間の肉体を用いた姦淫という形で色濃く表れる、ということです。 そもそも性というものは、終わりの日にキリストと教会が結ばれる、その霊的な奥義をこの地上で実現すべく、神さまが人間にお許しになったものです。それゆえに、ひとりの男性とひとりの女性が結婚関係にある中で性というものが用いられる、これが神さまの定められた原則です。結婚というものはそれゆえに美しいものです。 これを外れて性を用いるとすれば、その人の動機はどこにあるでしょうか? 神さまのみこころを離れて、自分の肉の欲望の赴くままに生きたい、ということではないでしょうか? しかしこれは、その性的欲望に働いて神さまのみこころから人を引き離すサタンのことを、神さま以上に大事にしているということです。性は結婚の枠内で用いるもので、それでこそみこころにかなっています。 10節に入りますと、姦淫ということからは取りあえず離れます。この5つのことは、その2番目の「貪欲」に関わってくることです。貪欲が偶像礼拝であることは、さきほども申しましたとおりです。 盗むことは何でしょうか? それは人のものを自分のものにしてしまうということであり、人を大事にせず、自分を大事にするということです。自己中心の貪りであり、しかも、その貪りは、人の望まない犠牲の上に成り立っているものです。 イエスさまの十二弟子の会計係だったユダも、そのような「盗む者」でした。神の国のために用いるべき大事な献金を、自分の欲望、貪りのために少しずつ勝手に使っていたのでした。そのような、平気で罪を犯せる感覚は、イエスさまを裏切る、つまり、サタンにたましいを売るという大きな罪と一直線上にあったものでした。 酒におぼれることは、あらゆる罪深い行動の根源になることです。酒におぼれるならば、人は保つべき正しい判断ができなくなり、みっともない姿をさらします。まさに、ぶどう酒を飲んで裸になったノアのようにです。さらに深酒が過ぎると、体を壊します。そういうことはつまり、人間のことを神のかたちに創造してくださった、神さまのみこころに反逆することです。神のかたちとしてふさわしい行いに反することをし、神のかたちである肉体を破壊する、深酒という快楽は、そのような貪り、神よりもサタンに従う偶像礼拝です。 そしること、これは、人間的な欲望の赴くままに人を引き下げることばを吐くことです。悪口を言ってはいけない、陰口をたたいてはいけない、普通私たちはそのように教えられます。もちろん、そうしてはいけないのは神さまのみこころです。だがこのとき、コリントの信徒たちはそしり合っていました。なんともみこころにふさわしくない態度です。そして現代においては、面と向かって悪口を言ったり、陰口をたたいたりするにとどまらず、SNSやインターネットの匿名掲示板のようなものが、その「そしる」場となっています。この書き込みを目にして心を病んだ人の中には、自殺に追い込まれた人さえいます。実に「そしる」という行動には、ものすごい悪の力、悪魔の力が働いています。そのように人をそしって留飲を下げても、していることは肉を喜ばせる貪りでしかありません。 そして、盗むということについてはすでに述べましたが、奪い取る、ということについても語りますと、それは、力関係に任せて人のものを取る、ということです。マンガのいじめっ子のセリフではありませんが、「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」、奪い取る者とは、人のものを力ずくで自分のものにしておいて、そういう自分の行いを正当化する者のことです。 それが、私たちの本来の姿だったというのです。なんと罪深いことか、と改めて思いませんでしょうか? しかし、11節をお読みしましょう。……今、私たちはこのような者なのです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった……第二コリント5章17節に語るとおり、私たちはもう、霊的また肉体的に姦淫する存在でもなければ、貪る存在でもありません。これが、私たちなのです。 それでも私たちは、まだ古い性質が残っています。貪りという名の偶像礼拝にふけってしまい、神さまよりも別のものを大事にすることで、神さまを悲しませ、サタンを喜ばせる、それは私たちがついしてしまうことです。 しかし、私たちはそれで終わる存在ではありません。肉に逆らう御霊がうちに住んでいる、それが私たちです。御霊に親しみ、御霊に満たされるならば、私たちは神さまのお嫌いになる罪から遠ざけていただく者となります。肉を喜ばせたくなる前に、偶像を拝みたくなる前に、神にかたどられた人をそしりたくなる前に、いやらしい妄想にふけりたくなる前に、そういうことをしてはいけない、と、御霊なる神さまが私たちを引き止めてくださいます。あとは私たちが、御霊なる神さまにお従いするという選択をするばかりですが、その選択も、神さまの恵みの中でできることであり、神さまはその恵みを私たちに与えてくださいます。 こうして、私たちはもはや、肉にしたがって生きる必要のない者となり、きよめ主なる主の栄光を顕しながら生きるものとしていただけるのです。何と感謝なことでしょうか。この、みこころに従順になる生き方が私たちをとおして実現していること、それは大きな恵みのみわざです。神さまはなんと、ここにいる私たち一人ひとりをとおして、現実にみわざを行なってくださるのです! 私たちは少なくとも、罪に対して敏感に働く御霊、私たちが罪に傾きかけると悲しまれる御霊が、心のうちにおられます。そんな私たちこそが、主の弟子として教会を立て上げるのです。御霊の満たしによってつねに罪を避け、つねに悔い改める、そのようにしてイエスさまに近づき、イエスさまとともに歩ませていただく、主イエスさまの弟子として訓練されるこの道を歩むことが、私たちに求められています。 その歩みは、私たちの力でできるものではありません。しかし主は、私たちを必ず、過去の罪からひとつひとつ決別させてくださいます。きよめは一生ものです。そうして私たちは、世を去り、主の御前に出るとき、完成していただける、その信仰をもって、ともに歩んでまいりたいものです。私たちは完成に向かうのです。罪から決別させていただけるのです。信じて歩んでまいりましょう。その約束を喜んで歩んでまいりましょう。では、お祈りします。