三位一体の神の知恵

聖書箇所;コリント人への手紙第一2:6~16(新p328)/メッセージ題目;三位一体の神の知恵  先々週のメッセージは、フォーク歌手早川義夫のレコード「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」をもじって、「知恵あることはなんて愚かなんだろう」と題して、この世の知恵と神の知恵を対比して学びました。先週はさらに進めて、その愚かさの正体についてキリスト者にとっての弱さの正体とともに学び、「愚か」とは選択するもの、十字架につけられたイエス・キリストにこだわることであるということを見てまいりました。 今日は第一コリント2章の後半の方に入ってまいります。第一コリント2章は後半に入ると、弱さや愚かさということを扱っていた内容から、その反対の、知恵ということを扱う内容へと変わります。 パウロはここで、この世の知恵ではない、まことの知恵を語っています。それでは、ここでパウロが語るまことの知恵とはどのようなものでしょうか? 3つのポイントから見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。まことの知恵とは、神に属するものです。 6節をお読みします。……先週も学びましたとおり、パウロはコリント宣教を始めたばかりのときには、あえて十字架のイエスさまのことしか知らない、いわば「愚か」な者になるという選択をしました。しかしこの6節をご覧ください。パウロは、成熟した人たちの間では知恵を語ると言っています。 知恵といっても、ここにあるとおり、この世の知恵でも、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもないということです。この世の知恵とは、一般人が常識として普通に身に着ける知恵です。支配者たちの知恵とは、社会の支配者が民衆に啓蒙するように教える知恵であり、その支配者も過ぎ去っていくということは、この知恵はきわめて限定的です。そのどちらも、この世に属する知恵であるという点では変わりがなく、パウロの語る知恵は、そのどちらでもない、ということです。 それでは、パウロは成熟した人たちの間では、どのような知恵を語るのでしょうか? 7節のみことばです。……そうです。知恵とは、隠された神の奥義です。神に属するものです。これこそ、成熟した人たちの間で語られるべき知恵です。 それでは、クリスチャンにとっての成熟とは何でしょうか? 何によって測られるのでしょうか? パウロが、この世に属する知恵を語らないと言っている以上、この世の知恵に満たされていることがクリスチャンにとっての成熟ではないことは明らかです。この世の知恵を充分身に着けているからと、その人が成熟したクリスチャンであるとはかぎらないのです。クリスチャンにとっての成熟の度合いは、神さまをどれだけ愛し、隣人をどれだけ愛しているかにかかっています。その前提として、イエスさまが自分のことをどれだけ愛していらっしゃるかを日々の主との交わりの中で体験し、その感謝の表現を、生活の中で具体的に行なうのです。 そのように成熟することで、神の奥義を受け入れるにふさわしく成長します。そしてその一方で、神の奥義を学んで成長することによって人は成熟するともいえます。私たちは、普通の人には難しいように思われる隠された知恵、奥義を普通に受け入れることができます。なぜならば、この7節のみことばによれば、この奥義の知恵は、私たちの栄光のために、神さまが世界の始まる前からあらかじめ定めておられたものであり、それはことばを換えると、世界の始まる前から神さまは、私たちを選び、奥義の知恵が理解できるようにしてくださっていたということだからです。私たちは、人の目には難解にも愚かにも映るみことばを、素直に理解できる力が備わっているのです。 しかし、この知恵は、先週も学んだとおり、強い者、知恵ある者、この世界の主導権を取るような者には理解できない仕掛けになっていました。彼らは、自分の罪を明らかにするイエスさまのことを決して受け入れず、ついには十字架につけてなぶり殺しにしました。神の子をのろわれた存在と見なしたのです。神の子を否定する。それが、この世の力ある者、知恵ある者のしたことでした。世は自分たちの肉の力、罪深い力によっては、神さまの奥義、知恵を知ることはなかったのでした。 しかし、9節をご覧ください。……人の知恵によっては到底理解できなかったことを、理解する力を、神さまは特別な人に与えてくださいました。どんな人に対してでしょうか? 神を愛する人たちにです。 神さまを知ったら、神さまを愛するようになってしかるべきです。ああ、こんなにも大いなる創造主が、私に目を留めていてくださっているなんて! こんな小さな者を罪から救うために、イエスさまを身代わりに十字架につけてくださっただなんて! 毎日、何年繰り返し読んでも読み切れない、こんなに分厚いラブレターを書いてくださっただなんて! ひとつひとつのみことばによって、ときどきにささげる祈りによって、私たちは神さまの愛を知り、ますます神さまを愛するようになります。 そのように神さまを愛することにおいて成長するならば、神さまはみことばに奥義として秘められたその知恵を、私たちに教えてくださいます。私たちはときに、神さまのみこころがわからなくなることはないでしょうか? 聖書を読んでいても、何を言っているのかわからない。いや、わかっているようには思えても、それがいまの自分とどんな関係があるかわからない。そんなとき、私たちにはすることがあります。神さまを愛していることを確認するのです。あえて、神さま、私はあなたさまを愛しています! と告白するのです。 サタンは言います。特に、私たちが霊的に弱っているとき、サタンの声が聞こえてこないでしょうか。こんなに神のみこころのわからないおまえなんか、神を愛していない、と、嘘を吹き込みます。しかし、そのような攻撃が臨むような、霊的に弱っているときこそ、神さまを愛していることを告白するのです。神さま、いま私はあなたさまのみこころを計り知ることができないでいます。けれども私は、あなたさまを愛します。あなたさまを愛する私に、あなたさまはみこころをお示しくださり、何をどうすればよいかを必ず、あなたさまの時にしたがって教えてくださると信じます。 そう告白していいのです。私たちは、みこころを必ず示してくださる神さまとひとつとなっているということを、少なくとも教えていただいています。その知恵を得させるように、神さまは世界の始まる前から私たちのことを選んでくださいました。自分は選ばれている、奥義を授けていただくにふさわしいものとしていただいている、そのことに感謝して、今日も、そしてこれからも、神さまの知恵を求め、神さまの知恵に満たされてまいりましょう。 第二のポイントです。第二に、まことの知恵とは御霊によるものです。 10節のみことばです。……人がまことの知恵、神の知恵を知ることができるのは、神さまが御霊によって、その知恵を啓示してくださるからです。神さまの奥義というものは、何やら難しい聖書の学びを積み重ねることによってようやく得られるといった性質のものではありません。奥義というと、何やらとても難しいもののように思えるかもしれませんが、神さまのみこころを知らされている私たちが経験上言えることで、それが難解なものではないことを、私たちはよく知っていると思います。イエスさまの十字架の贖いは、あまりにもわかりやすい真理ですが、これはだれにでも理解できるという性質のものではありません。だからこそ奥義なのです。 この奥義をわかりやすいものとして、受け入れやすいものとして私たちに示してくださるお方が、御霊なる神さまです。では、御霊なる神さまとはどのようなお方でしょうか? 11節です。……そうです、御霊とは、唯一、神さまのみこころをことごとく知っておられるお方です。 このことをパウロは、「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、だれが知っているでしょう」と、神さまに霊的存在として形づくられた人間のことを例に挙げて説明しています。人は、会話をしたり、意見を表明したりして、自分の内面を人前にさらします。これはある意味、自分の霊が何を思うかを、他人に示すわけです。あるいは、口に出さなくても、顔の表情やしぐさで、何を考えているかがある程度他人に見えたりします。 それでも、そのようにして他人に見えるものはその人のほんの一部にすぎません。その人の霊の部分は、ほとんどが人に見えないところにあり、それこそがその人を形づくっていますが、それは少しずつでも人に対し、ことばなどを通して分かち合わないかぎり、わかってもらえません。 同じように、神さまのことをすべてご存じなのは御霊です。私たちは雄大な自然という被造物を見て、神さまの偉大さ、繊細さを見ることができますが、それは神さまがどういうお方かを知るうえでの、実は限られた情報にすぎません。 しかし、12節をご覧ください。神さまは、ご自身のことをだれよりもご存じの御霊によって、私たちにご自身を余すところなく啓示してくださいました。聖書のみことばのみ、そしてみことば全体によって、聖霊なる神さまは私たち信じる者に、神さまご自身を完全に示してくださいました。 それでも私たちにとって聖書は、何の心構えもなく読もうとしたら、相変わらず難解な書物です。そのような私たちが神さまのみこころを知るためには、どうすればいいのでしょうか? 13節です。……そうです。人間の知恵で聖書を読もうとしないことです。人間の知恵で聖書を読もうとすると、うまくいきません。わからなくなります。聖書は、聖霊なる神さまに教えられるとおりに読むことです。そうすると、聖霊なる神さまがその知恵によって、聖霊なる神さまご自身の書かれた聖書のみことばを解き明かしてくださいます。 そうです。聖書をお読みするときに、聖霊さまの助けをいただくのです。毎日のディボーションや聖書通読のとき、聖書を読む前に静かに祈り、聖霊なる神さまが解き明かしてくださるように助けを求めることが大事になります。ただし、さきほども申しましたとおり、そこには神さまを愛する心が必要になります。神さまを愛するならば、神さまの霊に自分を従わせようと、へりくだることになります。へりくだるからこそ、自分の知恵では聖書が読めないことを心底認め、聖霊なる神さまに拠り頼むようになるのです。そうすると、人間の知恵ではわからない神の奥義を、聖霊なる神さまは教えてくださいます。 私たちは本来が罪人であり、神さまのみこころを知る権利などありませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは私たちを救ってくださり、聖霊さまによって神の奥義を知る知識をことごとく、私たちに知らせることをよしとしてくださいました。このことはどれほどもったいない恵みでしょうか? それでも神さまは私たちに御霊をくださり、ご自身のみこころを示すことをよしとされたのですから、私たちのすることは、そのみこころを御霊によって教えていただくことだけです。 しかし、14節をご覧ください。……この箇所を読むと、「生まれながらの人間」という表現が出てきます。聖霊によって新しく生まれていない人、それが生まれながらの人です。 イエスさまはニコデモにおっしゃいました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」人は聖霊さまによって新しく生まれていなければ、神の御霊に属することを愚かなこととしか考えません。聖霊さまに属することで得られる神の国、永遠のいのちがどんなに素晴らしいものか、理解できないし、それ以前に、理解する必要もないと考えるのです。それは、神の国や永遠のいのちといったものの素晴らしさは、御霊によってわかるものであり、御霊の臨んでいないその人には、何のことだかさっぱりわからないからです。 前にこのメッセージの時間に申しました。人は、もしまことの神さまに対する信仰がなかったならば、神さまのことをどのように理解するのでしょうか。父なる神さまはわかるかもしれません。イエスさまのこともわかるかもしれません。しかし、聖霊なる神さまはわからないはずです。 果たして私たちは、未信者の人に聖霊なるお方のことを説明して、理解していただける自信があるでしょうか? 私にも自信がありません。なぜならば、聖霊なる神さまは頭の知識によって理解できるようなお方ではなく、実際に体験することによってはじめて理解できるお方だからです。ゆえに、聖霊を理解している人は、神さまが聖霊を体験させてくださった人です。異言のような超常現象があるなしにかかわらず、聖霊を正しく理解できている人は、神さまがそのように選び、聖霊を注いでくださった人です。 そのようにして御霊に属する人となった人は、どうなるでしょうか? 15節です。……そうです。全能なる神さまの霊が臨むゆえに、すべてのことをわきまえる力を授けていただきます。すごいことです。 その一方で、「その人自身はだれによっても判断されない」とあります。これは、その人の霊以外に自分のことを知っている者はいない、ということ以上の意味です。 その人自身というのは、神さまの霊なる聖霊によって神さまご自身と一体化した、その人、という意味です。その人のことは、もしかするとある程度は、その人と交わす会話などを通して、他人にはわかるかもしれません。しかし、その人のうちに働く御霊の働きは、だれにも推し量れませんし、また、勝手に推し量るようなことをしてはいけません。 もちろん、たとえば子育てなどをしていて、子どものためにとりなして祈るとき、その子どもに聖霊なる神さまが働かれてみこころを示されることを、クリスチャンの親としては祈るものです。私も、信徒のみなさまのためにお祈りするとき、やはりそのように聖霊なる神さまのお働きがみなさまにありますように祈らされます。その祈り自体は必要です。 しかし、子どもなり信徒なり、人をみこころにかなう人へとつくり変える御霊さまのお働き、みこころに関しては、御霊さまはきっとこのように働いてくださるだろうと推し量ったりすることは、控えるべきです。そのように祈ったならば、もしそのとおりに事が進まなかったら、私たちは神さまに対して不信仰になりはしないでしょうか? 神さまは私たちのちっぽけな願望をはるかに超えて働かれるお方です。ここはひとつ、神さまのみこころに委ねるべきです。 愛知県で牧師をしている私の友達が、このような神さまのお働きについて、うまいことを言っていました。「餅は餅屋」。言い得て妙ではないでしょうか? 御霊のことは人間的なレベルであれこれ詮索するのではなく、委ねてまいりましょう。 私たちクリスチャンは、同じ聖霊さまによって、すべてを判断する知恵があるとともに、人からは判断されない知恵を持つという、たぐいまれな知恵を与えていただきました。なんと私たちは特別な恵みをいただいているのでしょうか。聖霊さまがこのように、つねに特別な知恵の恵みに満たしてくださることに感謝しましょう。 第三のポイントです。第三に、まことの知恵とはキリストの心です。 16節のみことばをお読みします。……この中に旧約聖書のみことばが引用されていますが、その聖書箇所は、イザヤ書の40章13節のみことばです。実際にひらいて読んでみましょう。前後の12節と14節も合わせてお読みしたいと思います。 主は創造主です。大いなるこの方の知恵と御力には、だれもかなうことができません。ヨブ記を読むと、主ご自身がみことばをもってそのみわざをこれでもかとお示しになったとき、ついにヨブは降伏し、悔い改め、その結果ヨブは大いなる回復をいただきました。 ヨブにしてそうだったなら、いわんやちっぽけな私たちはどれほど、創造主なるお方のその壮大さの前にひれ伏さざるを得ないことでしょうか。 しかし逆に、私たちは鈍く、ヨブのようには神さまと深い交わりを持っているわけではないので、私たちはこの期に及んで、まだ神さまを自分の思いどおりに動かしたいと思ったり、勝手にみこころを推し量ったりするような愚を犯すものです。そのような私たちは、どうしなければならないでしょうか?「しかし、私たちはキリストの心を持っています。」キリストが私たちとひとつとなってくださっていることを自覚することです。 この箇所は文脈からすると、パウロのことを霊的に充分な教師と見なしきれない、コリント教会の一部の信徒たちに対する警告の意味を込めたことばと読むことができます。パウロのことを判断する、つまり、彼らコリント教会の信徒たちは霊的に幼子であるにもかかわらず、実際に御霊の働いているパウロを判断しようとする愚かさを戒めているわけです。 ガラテヤ人への手紙2章20節のパウロの告白は有名ですが、あらためて開いてみましょう。……キリストとともに十字架につけられ、自分のうちにはもはや自分ではなく、復活のキリストが生きておられる。これがパウロなのです。それゆえに、自分を判断しようとすることはキリストを判断することであると強く警告するのです。 それは私たちも同じです。私たちはもはや自分が生きているのではありません。キリストが自分のうちに生きておられるのです。すべての救い主、すべてのさばき主、王の王、主の主がうちにおられるならば、だれが私たちに敵対できるでしょうか。だれがそのような私たちに対して偉そうに振る舞えるでしょうか。私たちはイエスさまの十字架と復活のゆえに、勝利者なのです。このことを忘れてはなりません。私たちが誇るとすれば、このように私たちに絶対的な勝利を与えてくださったキリストが、私たちの心のうちに住んでくださっているということです。神さまが私たちに与えてくださった知恵とは、キリストご自身です。私たちはイエスさまとの日々の交わりを通して、この世の何ものも与えることのできない知恵をいただきます。 改めまして、ガラテヤ人への手紙2章20節をお読みして、私たちが何者であるかを思い起こしましょう。十字架にかかられ、復活されたイエスさまが私たちの心の中にお入りくださり、いつまでもともにいてくださり、たえず神の知恵なるみことばを与えつづけてくださることに、心から感謝してまいりましょう。そして、今日も、明日も、これからも、イエスさまとの交わりの中で、みことばをいただきつづけてまいりましょう。 結論にまいります。クリスチャンとして生きるということは、神さまに属するその知恵によって生きること、聖霊さまが与えてくださるその知恵によって生きること、キリストご自身というその知恵にしたがって生きることです。そのようにして、愚かで知恵のなかった私たちは、この世の何ものにもまして強い者、知恵ある者にしていただけます。このことを心から感謝し、今日も三位一体の神さまに知恵を求めてまいりましょう。 では、お祈りします。